ケイネス・エルメロイ・アーチボルトにとって。実のところ、世界とはさほど価値があるものではなかった。
当然のように、歩んできた人生。古い歴史を持つ家である以上、優れた魔術の才能を持つのは当然。元々貴族であったアーチボルトを継ぎ、支配者たらんとするのも当然。時計塔の教授となり、一派閥を率いるのも当然。それは、誰かに用意されたものであり、同時に、あってない選択肢から選んだものでもある。
持っていた才能を育み、用意された地位を得て、差し出された名誉に努力し。そんな風に、当然の道を当然の様に歩いてきた。
恐らくそれは、周囲の人間から、さぞ華やかに彩られた人生に見えただろう。それを、ケイネス自身否定する気は無い。ただし、肯定できるのかと問われれば、それに首を傾げたが。
美しくも素晴らしい、成功を約束された人生。誰もがうらやむような。
しかし、それがどれほど美しかろうが。そこに華しかないのであれば、それはモノクロであるのとどれほど違うのだろうか。それを美しいと感じられるのは、醜いものを知るからだ。それを寂しいと感じられるのは、輝かしいものを知るからだ。華やかなものだけに囲まれた彼は、それが素晴らしいなどと、本当に思えるだろうか。
人は必ず、相対的な評価を下す。絶対的だと信じているそれも、実のところ、経験を元にした相対評価でしかない。比べる対象がないなら、そんなものはゼロのままだ。
血にまみれただけの人間は、自分を不幸と思えるか。ただ何も無いだけの人物が、それを空しいと思えるか。何も、しらないのに。
あとは、例えば。ケイネスは、果たして本当に、自分の人生を素晴らしいと思えるのだろうか。彼に取って、あらゆる全てが、当然のことでしかなかったのに。
全能感はある。そもそも何も求めていないし、不満はない。求めていないものが、求めないだけで、勝手に埋まる。これは、まあ。感覚として少しばかりの全能感を味わうのには、十分だ。だからどうしたと言うような、ひたすら無意味な感覚だったが。あってもなくても変わらないようなものなど、そんなものだろう。
つまり、そんなものだ。
道を歩き続けるだけが仕事。他に何も無く、求める者もない。あるがままに。
それは、魔術師としてのスタンスにも現れていた。例えば、ウェイバーが持ってきた論文。一言で言えば、時計塔の風通しを良くして、自分たち三流魔術師にも権利を寄越せ、というもの。
無意味だ。意味が分からない、とすら思った。ケイネスにとって今のままが当然の姿であり、それ以外は当然では無い。彼の論文が良い悪い、という問題ですらないのだ。時計塔も魔術師も、然るべき姿になっている。そうでない形にするのなど、良くない。なぜならば、それは当然とそこにある形では無いから。
そうやって生きてきたケイネス。本来ならば、死ぬまでずっと。
しかし、彼女は現れた。彼に取って、比較対象を作る存在。
己の婚約者として紹介された少女は、何よりも美しいと感じた。全て一緒に見えていた人生に、初めて一つ『上』が生まれたのだ。どれほどささやかであっても、比較ができるようになったのだ。
彼女が欲しい。無理矢理では意味が無い。そんなことをすれば、彼女の美しさが損なわれるだろう。
ソラウの心が欲しい。そして。
愛されたい。
そうやって一度思ってしまえば、もう歯止めは効かなくなった。
ケイネスの人生は、ソラウを中心に回り出す。明けても暮れても、彼女のことばかり。どうすれば気を引けるか、どうすれば喜んでもらえるか、四六時中そればかり考えていた。
感情は、大きくないながらも価値観にも、影響を及ぼした。とは言え、元から方向が同じではあったのだ。貴族趣味や、魔術師と言うことに対するプライドがより強調された、程度のものだが。だが、まあ。つまりは、そういった細かな点にまで、ソラウというたった一人の女性が根付いていたのだ。深く、とても深くまで。
たった一人の愛しい人。そして……もういない人。
「ソラウ……」
自覚すら無い呟きは、多分どこかに吸い込まれて消えた。戦場がしっかり見える場所。名前も知らない、建ち並ぶビルの一つに。彼は迫真の表情で、礼装に術式を埋め込んでいた。
工房はまるごと消え去ってしまった為に、ペースはかなり下がっている。それでも、ソラウの犠牲のおかげで、辛うじて宝具は無事だったのだ。それに、ケイネスが持つ魔術の技量が合わされば。並の魔術師ではあと数日かかるであろう作業を、今終わらせていた。
手に持つのは、二つの銀珠。魔術で正円に固定されているそれは、金属らしく重くて冷たかった。……彼女の手とは、似ても似つかない。
ふいに、そのまま握りつぶしてしまいたい衝動に駆られた。
(こんなものと引き替えに、ソラウは……)
それが彼女の死に関わったものであれば――それが例え、彼女が命と引き替えに守ったものであっても――壊したくなる。世界も、何もかも、全てを、目に付くものを手当たり次第に。こんな世界に、ソラウのいない世界に、一体どれほどの価値があると言うのか。全てが塵であふれかえってしまったのと、どう違う。
灼熱の怒りがあふれ出す。そのまま、己を破滅に向かわせるような煉獄。それを制御しようという気すら起きない。それでも、礼装を破壊しなかったのは。やはり、それをソラウが守ったから。そういう事なのだろう。
腕から力を抜いて、そっと銀珠を握った。手のひらが凍えるよな冷たさを感じても、やはり想うのはソラウのことばかり。
最後に見た、彼女のあの笑顔。必死に思い出すそれは、鮮明なようで、ぼやけているようで。
(あれは……本当に、私に向けられたものなのか)
いっそ、手など凍り砕けてしまえば良い。そうすれば、あるいは、心の寒さは消えてくれるかも知れない。
この世で一番ソラウを愛していたのは、間違いなく自分だという自信がある。しかし、それと同じくらい、彼女の事が分からなかった。
なぜ、振り向いてくれなかったのだろう。ランサーのどこが気に入ったのだろう。好きな事、好きなもの、好きな場所。そんな小さな事は分かっても、肝心な事ばかりが分からない。
……本当は、あの笑顔は。ランサーに向けられたものでは、ないのだろうか。そんな疑念が、抜けてくれなかった。最後の最後まで、己が望んで呼び出したサーヴァントが祟る。もはや、笑えばいいのか。
見えずとも、強烈な魔力の収束を感じさせる、令呪。いったい何度、それに力を込めて、ランサーを自害させようとしたか。
ソラウを奪われた。ランサーが気に入らない理由など、それに尽きる。
上辺だけの忠誠。奴にとって重要なのは、マスターという座であり、その上に座る者は、己の許容範囲であれば誰でもいい。忠誠を誓う相手は、あくまでケイネスでは無く、令呪を持つ者なのだ。しかし、それでも妥協できたのだ。気に入らない、と言う感情はあっただろう。それでも、勝つためならば。いや、勝つためなどという名目すら必要ない。ケイネスにとって、そんなものは、所詮どうでもいい要素の一つでしかないのだ。
後半、多少は理解をしようという努力をしようとしていたが。やはり、奴は分かっていない。重要なのは、経歴や資質などと言った、そんな下らないものではない。
どれほど好感の持てるサーヴァントであったとしても、ソラウを侍らせるだけで憎くなる。ただ一つ、それだけあれば、ケイネスはランサーの求める主を、演じることも出来ただろう。
もうソラウはいない。ランサーを殺す障害も、ない。ならば、殺してしまって良いのだろう。
しかし、それはまだだ。少なくとも、ソラウを殺した怨敵を殺害せしめるまでは、そうするわけにはいかない。
幸い、と言っていいのかは分からなかったが。ケイネスはもう、ランサーの忠誠心を疑ってはいない。ケイネスに忠誠を誓ったのでは無く、主に誓った。それさえ分かってしまえば、納得はしやすかった。名誉欲のようなものなのだから。その欲が満たされぬ限り、裏切りはしないだろう。
それさえ分かっていれば。たとえ、最後の笑顔すら奪われていたのだとしても、使い続けられる。敵を殺し尽くすまでは。
もしかしたら、ソラウが死したことによって、間を塞ぐものが無くなったが故の考え方かもしれない。最も守りたい人が死んだことで、初めて私情を無視して 使えるようになるというのは。なんとも皮肉な話だ。
少しだけ強く銀珠を握り、そして立ち上がった。後ろ向きな考えも、今しばらくは封じる。難しくない、魔術師にとっては、自制など慣れたものだ。
しかし、次に溢れた感情。それだけは制御できず、またする気もない。
「待っていろよ……」
つまりは、怨念。
もしも誰が、その表情を見ていたら。あまりの形相に、近づくことさえ出来なかっただろう。
狂気や正気といった全ての要素を超越する、怒りと悲しみ。ある意味において、アヴェンジャーに向ける感情に、最も相応しいものだった。
「貴様がソラウにした事の、百倍の苦痛と屈辱を味わわせてやる……」
今のケイネス・エルメロイ・アーチボルトは。それだけを拠り所に生きているのだから。
そして、ケイネスはビルの屋上から飛び降りた。慣れた感覚、では無いが、容易いものではある。急激に迫るアスファルトに、しかし僅かな焦りも見えない。シングルアクションで、当然の様に身体強化、重力制御を行う。地面に足が付いたときの衝撃は、階段から下りた程度のものだった。
地面に到着してすぐに、全力で走り抜ける。健康を維持する以上の、無駄で野蛮な運動などしたことが無い。その程度のトレーニングですら、魔術を使えば、下手に車を使うよりもよほど速い。
現場に近づくと、一つの事に気がついた。周囲が静かすぎて、同時に騒がしい。
特別、その原因を解明しようなどと言うつもりは無かった。ただ、発信源が進行方向にあったというだけ。
目の前に現れたのは、忘れようとしても忘れられない蟲。黒く、禍々しく、汚らしい、汚穢にまみれたうずたかい屑。そして、なにより――ソラウの仇。
今まで必死に維持していた理性が、一瞬で決壊する。目の裏側に火花が散り、魔術回路が勝手に起動する。刻印すらうなり声を上げて、自身に唯一残された、そして最強の礼装を起動していた。
「潰せええぇぇ!」
もはや、呪文ですら無い、ただの絶叫。ただ、魔術礼装という型に、魔力を通して形成しただけの行為。魔術と言うことすら、おこがましい。
それでも十分な威力を発揮できるのは、ケイネスの技量のおかげだろう。魔術に最も重要な、冷静さを失っての魔術行使。それでも、数の多くない蟲を殺すのには十分だった。
強烈な打撃に、足下が大きく揺れる。アスファルトに大きなクレーターを作ったところで、やっとケイネスは、幾ばくかの冷静さを取り戻した。蟲が全て死滅したのを知り、慌てて月霊髄液を持ち上げて、蟲と接触した部分を切り離した。
べちゃり、音を立てて黒い泥と一緒に落ちた銀は、もうケイネスの意思では動かない。正真正銘、魔力の通っていない、ただの水銀に戻っていた。捨てなければならなかった水銀は、大して多くない。しかし、蟲は確実に、水銀の消費量を下回ることはあり得ないだろう。
ちっ、と舌打ちをする。
「これではいくらあっても足りんな」
悪態をつきながら、跡地を覗きにいった。見るのもおぞましい蟲。しかし、こんな場所に居たというのは、確かに気になる。
クレーターの隅には、布地が転がっていた。虫に食い破られ、さらに月霊髄液で潰されて。袖口の形を見つけて、やっとそれが服だったと分かる程度のもの。一人分ではない、恐らく三人分ほど。
「野次馬か。救いようのない馬鹿どもだな」
ふん、と鼻を鳴らしながら、遺品に侮蔑を叩き付けた。
ただでさえ、アインツベルンの愚物が現代兵器などを使った、テロまがいの行為をしていたと言うのに。あの大騒ぎを見てなお、こんな所に出てきた馬鹿なのだ。普通であれば、すぐに遠くへと非難して然るべき。事実、周囲の住人は市民会館が倒壊してしばらくすると、すぐに避難を開始していた。
危機感が欠如した愚か者の自業自得。少なくともケイネスにとって、この死体はそれだけの価値しかなかった。
だが、対象が変われば話しも変わる。
「こいつらは、聖杯の魔力があってもなお、魂喰いで魔力を稼いでいたのか……?」
走るのを再開しながら、考える。
確か、これも元は魔術師であった筈である。ならば、魔術師として、神秘秘匿の常識が残っていたのだろうか。思いついたそれを、すぐに頭をふって否定した。およそ、欲望でしか動いていると思えないそれに、あまりにも馬鹿馬鹿しい考えだ。
聖杯の魔力が足りない、という事はありえない。町中の人間を食い尽くそうと、聖杯の一割にも届かないであろう。もしかしたら、一度に出せる魔力量には限界があって、それ以上を求めて魂喰いをしていたのかも知れない。それならば――例え僅かであっても――限界値を超えた魔力を得られる。
そして、再び頭を振った。今度はもっと深く。
どれだけ考えても、それは予想でしか無い。加えて言えば、今知ったところで価値の無い事でもある。そう、問題は。
戦場の外側で、密かに数を増やしているという事実だ。
建物の隙間を抜けて、視界が開ける。未だに、戦闘は激しい。たったの二人対億の対決ながら、それは戦闘として成り立っていた。ランサーが早さを生かし、アーチャーが火力で押しつぶすという戦術によって。早さと技量を信条とした者と、火力と手数自慢。この二人で無ければ、成り立たなかったであろう。同盟相手であり、ある程度の連携が可能であった、というのも運が良い。
虫の数が、大幅に減少しているのは知っていた。ランサーとの視界供給で、ライダーが固有結界に封じたのまでは確認している。
あと一歩という所まで本体に迫っていた。しかし、ケイネスは知っている。間を置かずして、複数の野次馬を餌に、数を増やした蟲が集まるであろう事を。
『ランサー、こいつらは外側で魂喰いをして、数を稼いでいた。すぐに到着するぞ』
簡潔に、用件を一方的に告げた。これで、もしかすれば。ケイネスが手を下すまでも無く、本体は抹殺されるかもしれない。
期待半分、達観半分。殺せれば何でもいいと思う、しかし、自分の手で無残に無様に殺してやりたい、とも思う。
ランサーに話しを聞いたのか、アーチャーの動きが変わった。何か、大きな宝具を使おうとしたのだろうか。しかし、蟲の攻勢が強まり、その動きを阻害。元の、少しずつ押し込み、本体に到達するという戦術に戻っていた。
(だろうな)
簡単に予想できた事ではある。加えて言えば、ケイネスが復讐する機会を得た、そういう意味でも。
もうそこに、見る価値はない。確実に、ランサー達がたどり着くより速く、虫の増援が到着するだろう。そうなれば、攻防の天秤は逆転、とまでは行かずとも、差は確実に緩まるだろう。ライダーが敗れるか、それともアーチャーが崩れるか。いずれにしろ、時間は敵の味方だ。
ケイネスが、対聖杯用礼装を作っていなければ、の話だが。
『ランサーに命ずる。令呪の力を持って、その身に秘す力を解放せよ。私が到着するまでに、少しでも距離を縮めておけ』
『感謝します、主よ!』
残る全ての令呪を使って、ランサーの力を底上げした。対多数に弱いランサーでは、大きな効果は望めないだろう。
一段階速くなるランサーの動き。激しくなった抵抗を削るように、上乗せされた力を存分に振るっている。もしやすれば、増援分を帳消しにするくらいの働きをしてくれるかもしれない。
(視界の共有情報では、こちらの方の筈だが……)
散発的に見える蟲を、ことごとく討ち取る。もう、正気をなくすほどの怒りに飲まれはしない。本丸が、無様な姿をさらして待っているのだ。それを誅伐することを思えば、そんな余裕などなかった。もっとも、月霊髄液に貫かれて、泥になったそれを踏みにじるくらいはしてやるが。
ほんの僅かではあったが、ライダーが飛び去る方向、それを確認していた。ならば、そちらに居るはずなのだ。
目的のものは、探すまでもなかった。一人佇みながら、胸に大きな剣か――あれはライダーの使っていたものだろうか――を抱えている。大型過ぎる片手剣は、魔術師らしく細身であり、しかも背が低い彼には、酷くアンバランスだ。
「ウェイバー! ウェイバー・ベルベット!」
「はっ? ……え、せ、先生? なんで?」
呼び声に、ウェイバーが上げたのはただの戸惑いだった。目を白黒させて――しかし大事そうに抱えた剣だけはそのまま、慌てふためいている。
ライダーが自滅に似た賭けに出る前に、マスターが離脱するというのは、当然だった。好きこのんでサーヴァントと心中するようなマスターなど、居るわけが無い。であれば、直前に向かった方向、そこにマスターであるウェイバーがいて当然だ。
「来い」
返事も、アクションすら待たない。肩口を握って、そのまま引きずり歩いた。
彼が躓く度に、いちいち腕が引っ張られる。非常に煩わしく、面倒だ。思わず投げ捨てたくなる。
抵抗するつもりは無い様だった。躓くこともなくなって、歩くのが楽になる。足を速めて、戦場へ向かう速度を上げた。ケイネスにとっては早足程度の感覚であったが、身長が違うからか、小走りになっている音が聞こえた。
「先生、何なんですか! 事情を教えて下さい!」
(絶望的に察しが悪い!)
咄嗟に、怒鳴りつけそうになる。声に出さなかったのは、自分の理不尽を自覚したからではない。その分のエネルギーは、蟲へと向けるべきである、そう思ったからだ。
ウェイバーは、いつもどこにでも居た、出来の悪い生徒だった。当たり前に重ねた年代が浅く、満足に魔術研究できるだけの資産が無く、魔術回路も魔術刻印も評価すべき点が無く、肝心の魔術行使もお粗末極まる。他の生徒と違う点があるとすれば。無駄に自己を過大評価する点と、恥知らずな権利の主張か。何にしろ、碌なものではない。
はっきり言ってしまえば、役立たずだ。もっとも、ケイネスという希代の魔術師を前にすれば、大抵の者がそうなってしまうだろうが。
そんな三流であっても、今は必要だった。
「これから、聖杯からあの汚物を分離する。貴様も魔術師の端くれだ、働いて貰うぞ」
「でも、ボクにはもう、殆ど魔力が残ってないですよ」
「その程度の事を、私が分からないとでも思ったのかね? いいから黙って、指示に従っていろ」
手に持っていた銀珠の一つを、ウェイバーに押しつけた。手に持ち、じっくりとそれを観察している。無意味なことだ。ウェイバー程度の実力では、その術式を抜き出すだけでも、数年はかかるだろう。この場で見た所で、起動方法すら分かるまい。
「よく見ていたまえ」
背後のウェイバーに見えるよう、手を肩の横に置き。小さく呪文を唱えた。
手のひらにのっていた球体が、筒状に伸びる。先端を尖らせたそれは、まるで小さな矢のようにも見える。
「これが、射出形態だ。よく覚えておきたまえ。これを、ある程度固まっている対象に、二点から同時に当てれば良い。聖杯本体に影響させる必要は無い。あの黒いものは、それぞれが独立しているようで繋がっている。どこか一カ所で術式が浸食すれば、二カ所に刺さった術式が互いに反響しあって、あとは全てに影響を及ぼすだろう」
すらすらと出てくる解説。それは、口調すら今までとは不釣り合いに穏やかだった。
……当然だ。それは、ソラウのために用意していたものだったのだから。彼女には、こんな説明は入らなかったかも知れない。しかし、頭に入れておけば、もしかしたら一秒でも彼女と話せていたかも知れない。だから、用意していたもの。
まさか、それをソラウ以外の誰かの為に使うことになるとは。ケイネスは自嘲した。
本当は、ソラウが使う予定であった礼装すら、誰かの手に委ねたくない。しかし、それも自分の感傷でしかなく。今は堪えるしか無かった。
「貴様が特別何かをする必要は無い。そうであれば、時間をかけてでも他の誰かを探しているのだからな」
「はい」
調子を取り戻そうと、挑発混じりに侮ってみたが。ウェイバーの声からは全く動揺が見えず、歩調もそのまま。
逆に、さらに調子を崩されてしまった。気に入らない。
ふん、と鼻を鳴らしながら、続けた。
「やることは三つだ。起動する、狙いをつける、同時にあてる、それだけだ。魔術師としての技量すら必要ない。範囲内に一定の量があればいいのだが……それは私が指示する」
これであれば、ウェイバーのすることは殆どない。失敗の確率は、ないと言ってもよかった。
あとは、ランサーとアーチャーが作っているであろう進路に潜り込み、当ててやるだけ。それで、己が持つ全ての怒りを叩き付けられる。
油断は、恐らくあったのだろう。そもそも、ケイネスは戦士ではない。気をつけるべき場所、瞬間など分からないのだ。攻める側にとっては、絶好の相手。それでも、対応できたのは、月霊髄液が桁外れに優秀なおかげだった。
唐突に現れた蟲が、足下から食らいつこうとする。それに反応し、銀幕が一瞬にして展開された。
「うわぁ!」
背後から聞こえる悲鳴。ケイネスは舌打ちをして、月霊髄液を動かした。
彼の判断は、お世辞にも速いとは言えない。しかし、月霊髄液の展開と動作の速度を持ってすれば、それを補って有り余る。迫った蟲を、無数の針で突き刺し、水銀の鞭でなぎ払った。ただの水銀となった部分が落ちる。が、現在の量はまだ、許容範囲内だ。
「先生、すみません……」
「そう思うならば、次からは自分の身くらい自分で守るのだな」
出来ないであろうと分かっていたが、それでも文句の一つくらいは言いたくなる。
お荷物を抱えているが、それは彼を使うと決めた時点で、織り込み済みだ。蟲も、こちらに来られるのはあくまで余力。条件次第でサーヴァントすら打倒せしめるケイネスならば、余裕を持って対処可能だった。
月霊髄液の残量にだけは、気を遣っておかねばならないだろう。なにせ、水銀を補充すればいい、などという安っぽい礼装ではないのだ。
集う蟲に怨念を重ねながら、講義を続けた。
「これ自体の射程距離は、さほど長くない。せいぜい数十メートルといったところだが……今回は私が制御する。これも気にしなくて言い。唯一気を遣うとすれば、それはタイミングだけだ」
蟲は、その数をじりじりと減らしていった。アーチャー達が奮闘しているおかげか、それともケイネスの実力か。少なくとも彼は、後者である事を信じて疑っていないが。
銀の刺突にて貫かれる。刃で両断され、針で縫い止められ。纏まった数が押し寄せれば、風に馴染ませた最速の流動でなぎ払う。
無残な屍を大地に晒すたびに、ケイネスの心は晴れ、同時に黒い怨念が増していった。
(そうだ、もっと向かってくるがいい。ソラウの苦しみを知るならば、どれだけ死のうが足りん!)
そのような事態では無いと分かっているからこそ、追い回しはしないものの。蛆虫にすら劣る下等生物が必死に群がる様に、暗い喜びを見いだす。その状況を、密かに楽しんですらいた。
世の中が、ままならぬ事などあり得ない。順調どころか、起伏など何も無い平坦な人生を送っていたからこその思考。この状況にあって――ソラウの死という事態に直面しても、その不条理を噛みしめながら、甘えにも似た考えがあった。ここの状況で、怨敵にとどめを刺すのが自分でない訳が無い、と。
しかし、それは敵にも適応されるのだ。この状況で、打開策を練ってこない筈が無い、と。
「あ……」
ケイネスは惚けたように、声を上げた。止まった足は、崩れ落ちそうな程に力が入らない。何も考えられない。ただ呆然と、泣きそうな顔で正面を見た。
そこには、ソラウがいた。
当然、偽物だ。ケイネスは確かに、彼女が食い殺される瞬間を見ていたのだ。ただの事故ならばまだしも、魔術的な威力を持つ蟲に攻撃されたのでは、蘇生もあり得ない。だから、こんな。自分にはついぞ向けられなかった、満面の笑み、慈しみの表情。その主が、ソラウである訳が無い。
(攻撃を……)
こんな真似をするのは、蟲以外ありえない。だからこそ、彼の判断は正しく。それが偽物であるという絶対的な判断材料と、仇が愛しい人を汚すという行為に対する怒りが、最速で判断を下した。もはや、反射と言ってもいいほどの領域。間違いなく、その判断速度だけは、サーヴァントの領域にあった。
振りかぶる腕。呪文はなくとも、それに正しく応答した月霊髄液。あとは、振り下ろしてしまえば、そこにあるたちの悪い幻影を、殺してしまえる。憎き蟲どもに、ソラウの亡骸すら辱めた事がどれほどの罪か、教えてやれるだろう。それがどれほど触れてはいけないものだったか、教えてやる最高の好機だ。
そして……ケイネスの腕は止まった。
(……できない)
悔しさに、唇から血が出るほど強く噛んだ。
例え、それが偽物だと分かっていても。ソラウだけは、決して傷つけられない。銀の断頭台は、刃の形のまま、行き場を失った。
「先生!」
背後から、悲鳴のような声。下半身を満たす激痛は、それよりも遙かに速かった。
咄嗟に自分の体を見る。そこには、いつの間に飛びついていたのか、多数の虫が食らいついている。そして、現在進行形で食い荒らし、内部から上へと進んでいた。敵を始末しようと作っていた刃、それは皮肉にも、自分の体を切り裂くために使われた。腰の少し上あたりで、痛みを切り取るように、不愉快な肉を両断する感触。それに感じたのは、苦痛よりも吐き気だった。口から何もかもを、胃液はおろか血や内臓すらも吐き出してしまいたくなる、嘔吐感。
「やめろおおぉぉぉ!」
ウェイバーが絶叫しながら身を乗り出し、手をかざした。先端から、大して威力の無い衝撃波が迸る。月霊髄液とは比べるのもおこがましいそれ。しかし、それでもソラウを模した人型を崩すには、十分だった。
命中した左胸を中心に、ばらばらと蟲に戻っていく。今度こそ、ケイネスは迷わなかった。切り離された下半身に群がっているものごと、一気に串刺しにする。
上半身だけが、どさりと音を立てて落ちた。受け身は取らない。やり方など知らないし、知っていたとしてもそんな体力的余裕はなかった。つまりは、それほどの消耗。
多分、そのまま眠ってしまうのは、とても気持ちがいい。少なくとも、この吐き気と決別できるのであれば、それだけで意味があるように思えた。それを中断したのは、ゆっくりを頭を抱え上げる手だった。
「せん、せい。ああ、あぁぁ……」
上下逆さまに映る、教え子の顔。おそらくは、聖杯戦争でもなければ、印象にすら残らなかったであろう。彼の顔がやたら大きく感じて、同時に空がとても小さい。消耗しきって見る世界はこれほど違うのだと、初めて知った。
とても眠い。それに、疲れた。意識があるのが、不思議なくらいに。
月霊髄液が形を崩して、ただの水銀になり地面に零れて広がった。供給する魔力が無くなったのだ。残っていた魔力は、全て魔術刻印に吸い上げられ、ケイネスの命を保っている。
魔術を継ぐ者は、自分の意思で死ぬことを許されない。どの刻印であっても、次代へと技術を繋ぐために、延命の術式が込められている。しかし、アーチボルトの刻印は、生命に突出した技術では無い。さらに言えば、半身を失っても機能を補え、復元できるような魔術刻印など、世界中探しても片手で足りるだろう。
つまりは、助からないのだ。ケイネス・エルメロイ・アーチボルトという人間は。ここで終わる。
そう確信してしまえば――何故だろう、恐ろしく安らかだった。普段の自分であれば、ヒステリックに怒鳴り散らしていただろうに。客観的に見る余裕すらある。そして、それを苦笑しながらも、認める事も。
もう、何も出来ない。ならば、このまま無為に死んでしまえばいい。
(いや)
一つだけ、しなければならない事があった。ケイネスに残された、最後の拠り所。
泣き声を上げて、崩れるウェイバーに、魔術師らしい姿はない。ケイネスが見ていることにも気付かない顔の横を、強引に掴んだ。
「いつまで……そうしているつもりだ、ウェイバー・ベルベット」
「あ……先生! 意識が……でも……」
未だ混乱の中にあるのか、言っていることがめちゃくちゃだ。それを修正するように、手に力を込めた……どれだけ込められたかは、分からなかったが。
「これを持って行け……そして、もう一人魔術師を見つけろ……。貴様が……やるのだ」
「な、何を言ってるんですか! 速く治療しないと!」
「私の事などいい……どうせ、もう助からん……」
「そんな! そうだ、アーチャーなら何とかできるかもしれない!」
それは、甘ったれの反応だ。まるで一般人のような、魔術師がしないであろう思考。
言葉の為にはき出した空気を、もう一度吸い込む。その程度の動作すら、酷く重くて億劫だ。血の味と臭いしかしない気体に、しかし不快感も湧かない。ただ、機械的に、次の言葉を発するための燃料を取り入れた。
「奴も……万能ではない。そんな余裕があれば……自分に使っている。いいから、私の話を聞け」
「だって! そんな事をしてたら、先生が死んじゃいますよぉ!」
その通りだ。全く持って正しい。彼の言葉には真理があった。重傷を負えば、生物は死に向かうという、超越者たる魔術師ですら回避しえない不文律。
「そうだ。だから……余計な時間を使わせるな」
ウェイバーの、涙に濡れた瞳が揺れる。よく知っている目、負け犬のそれだ。栄光の道を進み続けるケイネスに、よく向けられたそれと同種。
どこにでも居る。自分の限界を知って、絶望した者。
「ボクがやるなんて……無理ですよ。だって、結局何もできなくて、ライダーにも何もしてやれなくて、魔術だって、ボクは、本当は、大した事なんてなかった……。優れた、魔術師の筈だったのに……」
本当であれば。その言葉を聞き流して、話を続けてもよかった。いや、時間が限られている以上、それこそが利口だっただろう。
しかし、ウェイバーの言った言葉。それは、どうしても聞き逃せなかった。
重たく鈍い腕を動かして、胸ぐらを掴む。いや、指に力が入らず、腕の重量に負けて簡単にほどけていった。指先だけが襟にひっかかり、なんとか垂れ下がる。
揺れて、合わせようとしていなかった視線を、自分のそれと無理矢理重ねさせる。涙にまみれた少年の目に、強く、強く言い聞かせた。
「貴様は……魔術師だろう」
そして。
今まで揺れていただけのウェイバーの目が、初めて定まった。
「ケイネス様ぁ!」
不意に聞こえる、ランサーの声。なぜここに居るのか、そう考えたが、それも当然だと思い返す。ラインが繋がっているのだ。異変があれば、一発で分かる。あの忠義に飢えたサーヴァントであれば、来ないはずが無かった。
「お……俺という奴は、またしても……なんと愚かな」
「黙れ、ランサー」
切れた胴体の向こう側で、崩れ落ちるランサーに告げる。
涙に濡れた顔を上げたランサーが、言われる通りに黙った。しかし、その場を動こうとはしない。
「貴様に……持ち場を離れていいと言った覚えは無い。それに……私は今……話をしている最中だ」
視線も向けずにそれだけを告げて。再び、ウェイバーに言葉を作った。
「いいか、ウェイバー・ベルベット。貴様が……今後も魔術師を名乗るつもりならば……覚えておけ。優れたる者には……必ず義務がある。王には王の……貴族には貴族の……。そして、人間以上である魔術師にも……当然だ。いいか、それがこれなのだ。魔術師である以上、吸血鬼や……こういった存在を討伐するのは……義務なのだ。誰も拒否できない……してしまえば、魔術師ではなくなる。そこに、力の程度など関係ない。ウェイバー・ベルベット……貴様がこれからも魔術師であると言うならば」
そこで、一度言葉をとぎった。
もう、それに意味など無いのかも知れない。無くしてしまっても、良かったのだろう。根元の部分が、消えてしまったのだから。
でも、と否定する。ケイネスが魔術師である事。そして、その技量。それは、言葉少なで滅多に感動をしなかったソラウが、誉めてくれたからなのだ。彼が、自分が魔術師である事にプライドを持つ、誇りの根源。彼女を無くしてまで、持ち続ける意味があるとは思えない。それを誉めてくれる人は、もういないのだから。
それでも。
ソラウが居なくなってしまっても。誇りを捨ててしまえば、彼女まで否定してしまう気がして。どうしても、捨てられなかった。
だからこそ、ケイネスは最後の時まで、魔術師で居続ける。意味などなくとも、価値はあると信じて。
「義務を果たせ……魔術師としての」
手に持った銀珠を押しつけようとして、それはこぼれ落ちた。しかし、それが地に落ちる前に、しっかりとつかみ取られる。間違いなく、ウェイバーの手だった。
ウェイバーの目は、未だ涙に濡れている。しかし、もう敗者のような弱さは感じられなかった。……いや、実際はどうなのだろうか。目がかすんでいて、よく見えない。そうである気がした、というだけ。
「ランサー」
「はっ……お側に」
近くに、跪く気配。そして、手を取られた。
正直に言ってしまえば、ソラウが触れた彼に触れられるのは、不愉快だった。しかし、まあ、最後くらいは多めに見ても良いだろう。
「私は……貴様が、嫌いだった。ソラウを奪った貴様が……憎くて仕方がない。幾度、令呪で自害を命じようと思ったことか」
「……」
「だが……いや、だからか。貴様の忠誠心、それだけは信じている。一つ聞く……私は令呪を使い切り……今こうして死に向かっている。それでも……貴様は忠誠を誓っているか?」
「当然です! 俺の主はケイネス様を置いて他にありません!」
手を、強く、強く握られた。全く持って、理解しがたい。クールなようで、暑苦しい。それは、最後まで変わらないようだ。
「ならば……最後の命令だ。ソラウの仇を……取れ。そして、私という魔術師に仕える者として……あれを許すな。必ず、仕留めろ。奴は……野放しにしてはいけない」
「……必ずや。我が命と、槍にかけて」
どの口が言うのだ。普段であれば、そう返していたであろう、ランサーの言葉。しかし、なぜかそれを素直に信じられた。もしかしたら、死に面して弱気になっているだけかも知れない。他に縋るものがないだけかも知れない。それでも、彼が受けたのならば。安心する事だけはできた。
そして、暗い闇に閉じていく意識の中で。ケイネスは、うっすらと考える。
(思えば……満足のいくような人生ではなかったな)
上手くいかない事などなかった。全てが、多少の苦労はあれど、自分の思い通りにいった。そして、達成感も何もなく。ただ漫然と、今日だけを見て生きてきた。何かを案ずるような事など無かったのだから、当然だ。
だからといって、別に苦労や達成感を欲したわけでは無い。そもそも、そんなものは知らないのだ。憧憬以上になりようが無い。つまりは、妄想と同じ。存在しないのと同じ事。
ケイネスの世界は、ソラウと自分だけで完結していた。そして、それで良かった。
(思ってみれば、ソラウにもっと私を見て欲しい。武名があれば、もっと私を見てくれるだろう……それが、聖杯戦争に参加した動機だったな)
馬鹿なことをしたものだ。それで、ランサーに奪われたのだから、ぐうの音も出ない。おそらくは、人生で初めての後悔だったであろう。ましてや、ソラウが死んでしまうのであれば、参加などしなければ良かった。
それでも。もしケイネスが過去に戻れるのであれば、やはりもう一度、参加してしまうのだろう。今度こそ勝利すれば、ソラウが喜んでくれる。そう思いながら。彼の世界が狭いからこそ、好きな女性に良い格好をする、それだけの事で命を賭けられる。……まあ、今度行くとしたら、ソラウをおいていくだろうが。
その時は、ソラウの笑顔という、人生初めての満足を得られるだろうか。そうであれば、言うことはないのだが。
思考が、ずいぶんと鈍ってきた。いや、こんな風に過去を顧みるような性格では無かったのだ。最初から、少しばかりおかしくなっていたのだろう。
もう何も見えないし、何も分からない。感触すらない。もしかしたら、生きているか死んでいるかの判断すら、付かない。
光ではなく、闇でもなく。昼ではなく、夜でもない。あらゆる区分が無くなった、純然たる空間。ただ、そこに広がって存在するだけ。もしかしたら、それこそが天と呼ばれるものなのだろうか。
いつの間にか、体が軽くなっていた。今までの倦怠感が嘘のようだ。いや、嘘なのだろう。何せ、ここにいるケイネスには、下半身があった。つい先ほど、永遠に失ったばかりのものが。
冗談のように広い空間は、やはり、相変わらず冗談のように広い。無意義に広がるそこに、ただ一つ、存在する。赤髪でショートカットの、シンプルかつ高貴な雰囲気を漂わせる格好の、よく見知った女性。
相変わらず、表情は固く閉ざされたまま。ランサーに出会ってからの、柔らかく花が咲いたよな笑顔では無い。
それは、戻ったと喜べばいいのか。それとも、笑顔を向けてくれないと嘆けばいいのか。
ただ、一つ。迎に来てくれたのが彼女であるという事、それだけが喜ばしい。
そして、ケイネスは彼女に向かって大きく手を伸ばし、
「ソラウ、私も行くよ……」
ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは、静かに眠りについた。
二度と、覚めぬ眠りに。
全てが円満に、満足できる人生などはない。それは哲学などという大層なものではなく、ディルムッド・オディナの人生から出された結果だった。
不可抗力であろうが、なかろうが。結果的に、彼は信頼を裏切って、愛を選び、それに殉じた。
選択と、それを貫き通した自分自身に後悔はない。だからこそ、次の機会を与えられるのであれば、愛を捨ててでも忠義に生きると決めていたのだ。
(本当に、それは正しかったのか?)
しかし。いざ、その場面に直面すれば、浮かんだのはやはり、後悔だった。どこかを満足する代わりに、どこかで悔いを残す。一度目の人生と同じく、今生でもまたそれはあった。
手に取っているのは、主の垂れた手。もう動かない。
主の愛する者を死なせてしまった。そして今、こうして主すら、守りきれないでいる。
(俺は何だ? 本当に騎士なのか?)
自問すれど、帰ってくる声は無い。それに対する答えを持っているのは、彼に他ならないのだから当然だ。
もう少し、うまいやり方が。あとちょっとだけ、優れた選択が。どこかに埋まっていたのでは無いか。いつも後悔をする度に、思い続けた思考。そして、そんなものにまみれ続けていた騎士道。
愚直なまでに道を貫いた。問題を、上手く交わせるだけの器用さなど、持ち合わせていない。切り開いてきた道は、いつでも武勇によるものだったのだ。全てを選んで、それを貫き通すような力と強さなど、どこを探しても存在しなかった。ただの、一個人。一人の騎士。騎士道を貫くことが、その裏返しで無かったと、言い切る自信が無い。
英雄、などと言われ、奉られて置きながら。そんな、大層な人間ではない。普通に悩んで、普通に失敗し。ただ、上手くいった部分が名誉となっただけ。
それでも、名誉を勝ち得た部分にだけは、相応の自信があった。
しかし、今はそれすら揺らいでいる。武を必要とされる部分で、それをなし得なかった。
こんな自分で、一体何ができると言うのか?
自力で答えを出すことができない。いくら手を強く握っても、主は何も応えてくれない。
「なあ、ランサー」
同じように、うなだれていた少年。ライダーのマスターが、空虚に呟いた。抱えていたケイネスの頭を、そっと下ろし。両手に乗せた礼装を見下ろしながら、呟いた。
「ボクはさ、ケイネス先生の事が、大嫌いだったんだ。そうだろ? いつも偉そうにしてて、人を見下しててさ。書いた論文だって、中身を見る前に破り捨てられたんだ。いや、ボクだけじゃない。他にもたくさん、そんな思いをした人はいたと思う。でも、誰も文句なんて言えなかったよ。先生は怒りっぽかったし、やっぱり怖かったんだ。最悪の、先生だと思った」
その言葉は、ケイネスがどれほど嫌な奴かを、如実に語っていた。そして、その表情は、それだけでない事を雄弁に物語っていた。
「それは今でも変わらないよ。けどさ……」
ぽたり、と。透明な液体が、銀の球体にこぼれ落ちる。続いて二つ、三つ。銀に落ちては、表面を滑る。止まらない涙。
辛い思い出ばかりだった筈だ。最初の彼の様子を見れば、良いところを探す方が難しかったと、そう確信できる。それでも、彼は泣いていた。遺品を抱きながら、大きく――慟哭の声を上げる。
「まだ、教えて貰ってない事がたくさんあったんだ!」
その姿を見て、ランサーは理解する。自分は、本当に、何も分かっていなかったのだと。
主に忠誠を誓い、己の命を賭す。それに嘘は無い。だが、それは結局の所、自分の都合でしか無かった。結局の所、彼がマスターに求めていたのは、主としての器。そんな身勝手な願望を押しつけて置きながら、自分自身は主の性質に対して、何一つ理解を示していなかったではないか。
ケイネス・エルメロイ・アーチボルトは最後まで魔術師らしく、その使命に殉じた。正しくは無かったのだろう。少なくとも、聖杯争奪という、戦争の枠の中では。しかし、誰よりも魔術師であった。死に直面してまでも。
(それに比べて、俺はどうだ……)
騎士の誇りと、それに相応しい戦い。理解を示してもらえない事に、嘆く感情は確かにあった。……なんという、馬鹿な考え。
表層ばかりを注視して、その本質が何も見えていない愚か者。義務に命を捧げる程の人物をおいて、どこに主たらしめる人間がいると言うのだ! 理解することを放棄した馬鹿に、歩み寄る者がどこにいる! 忠誠を誓った気になって、理解をした気になって……一番何も分かっていなかったのは、彼自身であったと言うのに。
恩師の亡骸の前で、涙する少年。嫌っていると言いながら、その実、ランサーよりもよほど理解している。
(至らぬ騎士で、申し訳ありませんでした。しかし……)
例え何を犠牲にしても、遺言だけは必ず果たしてみせる。
ケイネスの手を、そっと地面に横たえる。まぶたに手を当てて、ゆっくりと瞳を閉じた。
「俺が言うことではないのでしょうが……せめて、ソラウ様と安らかに」
最後の言葉を残して、ランサーは立ち上がった。
単独行動スキルのない彼では、マスターを失って行動できるのは良くて数時間。戦闘をすれば、何分持つかも分からない。最後の命令を達成するならば、もう猶予は残っていなかった。
「待ってくれ、ランサー」
背を向けた彼に、ウェイバーの声がかけられた。
「今、ライダーが逝った。アイツが居ない以上、固有結界は遠からず解除される」
呟かれた声に、背後を見る。そこには、光の粒となって消えていく、ライダーの剣の鞘。剣本体が残っているのは、武器は魔力で編んだ装備や、純エーテル体のサーヴァント本体よりも、現実への比重が高いからだろうか。あるいは――既に所持者が移っていたか。ライダーから、そのマスターへ。
ウェイバーも立ち上がり、そしてランサーを見た。未だに涙が溢れており、顔も赤く歪んでいる。しかし、瞳にだけは、強く輝くものがあった。
形見である礼装を持ったまま、手を掲げる。見せられた手の甲には、残り一画となった令呪。
「ボクと再契約しろ、ランサー」
「俺は、二君に使える気は無い」
「違う」
静かに、首を振って応えるランサー。それは、すぐに否定された。
「オマエは先生のサーヴァントだ、ボクに忠誠を誓う事なんて、願っちゃいない。ボクはライダーの、そしてランサーは先生の敵を取る。まだ令呪の残っているボクを利用しろ」
顔立ちは少年然としたまま、しかし悪鬼のような迫力。食いしばった歯が、割れんばかりの意思が滾っている。
「ボクとオマエで、復讐をするんだ。先生の最後の命令を果たせ!」
その言葉に、僅かに戸惑う。
彼の提案は、とても正しかった。令呪のバックアップを得られれば、一矢報いられる可能性は遙かに高くなるだろう。しかし、それでいいのか、と自問した。目的を達するために、他のマスターと契約する。それは、ケイネスに対する侮辱にならないだろうか。何よりも、騎士としての礼節に欠ける……そこまで考えて、否定をした。
何をしてでも、仇を取ると決めたのだ。ならば、己のプライドに根ざす拒否感など、いくらでも捨ててやる。
今更取り繕って何になる。彼の言うとおり、するのは復讐だ。
二槍を眼前に構える。共に、栄光を信じて正しき道を走った相棒。それすらも、今は復讐の道具に貶めようとしている。それらに対し、ランサーは謝ることすら出来なかった。身勝手である事は、重々承知している。しかし、やらねばならぬのだ。例えそれが茨の道であろうとも。主の無念を晴らさず、のうのうとしているならば、それは最早人である事を誇る事すらできない!
「いいだろう。今より貴様を、我が同士と認める。共に、共通する仇敵を討ち取ろう」
「約束しようランサー。オマエは騎士として、ボクは魔術師として、必ず間桐臓硯と言峰綺礼を、殺すんだ」
そして、触れる両者の手。それと同時に、ランサーは感じた。供給される魔力こそないものの、漏れ出るものはぴたりと止まる。希薄であった現実との縁が強化され、いつでも消えてしまいそうだった不安定さが消える。
持ち上がったままの手、その甲に、魔力が漲るのが分かった。令呪に流れ込む意思が、発動する前に感じ取れる。つまりは、殺意。
「ランサー、蟲の本体、間桐臓硯を全力で殺せ!」
「――参る!」
まるで溶岩の様に燃えさかり、消えることを許されない感情。ランサーを、内側から焼き滅ぼさんとしている――そうとすら思える奔流。それに押されるままに、ランサーは駆けた。
幾百幾千という距離を、僅か一歩にまで縮めて。その中途に、アーチャーとすれ違う。
勝手に持ち場を離れたのだ、本当ならば、謝罪の一つでもするべきなのだろう。しかし、今はそれだけの時間すら惜しい。だから、置いたのは僅か言葉一つのみだった。
「道を作る! 俺ごと殺れ!」
一時的にステータスとスキル、そして集中力を一段階跳ね上げたランサー。槍の冴えは今までの比では無く、生涯最高とすら言える捌きを見せていた。音速を優に超える速度で槍を振り、作られた小さな穴に体を潜り込ませる。最小の敵を倒し、最短距離を進む。正しく、最速の名に相応しい進軍。
呪われた黒子により、望まぬ愛を植え付けた。その結果、最高の友であり主である男に背いた。言葉を聞かずに戦に赴き、妻を置き去りにした。そして今、最後に縋った騎士道すら投げ打って、復讐に走っている。
不思議だ。己たる要素を失いながらも、なおも速い槍。
身軽になってしまった事に、胸の内に痛みを覚える。ついぞ救われなかった想い。それだけであれば、ただの空虚であっただろう。しかし、そこを代わりに満たしたのは。ケイネスとソラウという、今生での主だった。
もう、自分の事などどうでもいい。
ケイネスの為に。ソラウの為に。
無念を晴らすために。
今までを、嘘にしないために。
――報いるのだ。
「おおおおぉぉぉ!」
絶叫は、大気を強烈に振動させた。声に呼応するように、槍はさらに速く、何より暴力的になる。蟲は、槍に触れた先からはじけ飛んだ。
核に……つまり間桐臓硯の周囲数十メートルは、どれだけ蟲を駆逐しようとも、体を潜り込ませる余裕が無い。令呪による空間転移で、接近できなかった理由でもある。近くに出現したとして、何かをする間もなく穴だらけになってしまっては、意味が無い。ましてや、臓硯を中心に数メートルは、空気が入る隙間も無いほど、みっしりとしきつまっている。威力型の宝具を持たないランサーには、あまりに分厚い難関だ。
しかし。
確かにランサーは、能力で言えば、他のサーヴァントに見劣りするだろう。相手が魔術師ではなく、かつ一会戦で勝負を決めようと思えば。実質的に、宝具を所持しないサーヴァントとなる。
ならば、ランサーは他のサーヴァントに勝てないのか。それは否だ。宝具が無いのであれば、己の業そのものを、宝具の域にまで到達させればいい。それが出来るからこその、フィオナ騎士団の随一の戦士なのだ。
精緻に突かれていた槍は、暴風と薙がれる。隙間を見つけよう、などという事は、もう考えていなかった。ただあるのは、目の前に存在する全てを殺害せしめる。
球状に振るわれる二槍。その内側に群がろうとする蟲は、ほぼ全て半ばまで潜り込むことも出来ない。僅かに進入できたものも、腕を僅かに喰らうだけに終わる。ライダーにその殆どを持って行かれたとて、未だ残る数は膨大。その半分でも差し向けられれば、倒せただろうが。アーチャーを放置してまでそうするのは、下策だ。
極限まで身体能力を強化し、捨て身の特攻。皮肉にも、それが戦況を逆転させていた。
いよいよ、臓硯を射程距離内にまで納めて。ランサーは吠えた。
「覚悟しろ外道! 我が主をその手にかけた罪、購ってもらうぞ!」
『馬鹿ナアァ! アリエヌ……ワシハ、永遠ノ命ヲ……!』
「妄言は地獄で好きなだけ垂れろ!」
臓硯を守る城、それが切り崩され始める。物量を遙かに増した壁に、傷を多く作りながら。それでもランサーは、前に進む。
遠距離攻撃であれば、内包する魔力が枯渇してしまえば、それ以上はない。しかし、武器を手に持つのであれば、無理矢理にでも攻撃を続けられる。ましてや手に持つ武器が、魔力の干渉を許さない紅槍と、復活を阻害する黄槍であれば。そこで戦い続ける事が前提であれば、悪くない。
蟲が波打つ。それは、臓硯の恐怖を鏡写しにしているようにも見える。
『ワシノ……ワシノ聖杯ガ……永遠ノ命ガアアァァァ!』
「命を冒涜する者に、そのような都合の良いものが転がってくるものか!」
――見つけた!
ランサーの鋭い観察眼は、僅かに除いた臓硯の本体を、見逃しはしなかった。乗った勢いをそのまま動かして、紅槍で両断する……筈だった。
腕は、確かに振るわれた。しかし、槍がそれに付いてこない。正確に言えば、槍そのものがなかった。
馬鹿な。手を見ると、そこには小さな違和感。五本の指の内、親指だけが欠損していた。臓硯の苦し紛れの反抗、それが、ここに来て幸運を呼び込んだ。
『ソ……ソウダ、ワシノモノダ! 聖杯ハ、我ガ手ニ!』
膨れ上がって、死に体のランサーに襲いかかる蟲。槍二本ですら、ギリギリに均衡を保っていたのだ。一本で、それも消耗しきった今の状態では、それを捌ききれるはずもなく。
だが。外道が運によって生かされるというのであれば。英雄が、それを実力や縁によって打破するもの、また道理である。
ずだん、足下で音が鳴った。そこに突き刺さっているのは――ライダーの剣。一瞬振り向く。そこには、剣の雨に怯えながらも助けられ、戦場に入り込む少年の姿。
ウェイバー・ベルベット。この土壇場、最高のタイミングに、ランサーへ剣を届けた。
「見事だ」
四本の指で、剣を拾う。親指がないと分かっていれば、一太刀だけ、全力で振るう事くらいはできる。いや、仮初めとは言えマスターに、あそこまでさせておいて、自分が出来ないなどと言っていいわけが無い。変則的な握りながらも、手のひらにしっかりと固定された柄。それで、今度こそ全力で切り落としてやる。
『ナ――』
槍を失った事で、行動が一つ分遅れた。それでも、最速を名乗るサーヴァントである。体の大部分を犠牲にして、臓硯を露出させる。
肉を切らせて、骨を断つ。
力の入らない体。腕の肉は、殆ど無い。一撃で、絶命させる事は出来ないだろう。しかし、それに傷を与えるのは、呪われた力を持つ黄槍。致命的な一撃と言う意味では、十分すぎる。
胴体が半ばまで断たれる。他の蟲とは違う。すぐに泥に戻らずに、あたかも血液のように粘液を噴出し。地の底からわき上がったような、絶叫が上がった。
『ギィ――イイイイイイィィィィィィィィ! アアアアア! オオオオオァァァァァァ!』
今まで完璧な統制下にあった蟲、それが一瞬で乱れる。全てがその場で、無意味に跳ね回り始めた。
唯一の例外は、臓硯の周囲に位置していた数体。必死に核の蟲を修復しようとしているが、それは全く持って無駄だ。黄槍による呪いは、それを超える神秘で無ければ、治療できない。
『イ、ノチガ! ワシノ、セイハイ! イ、ヅゥ! 永遠ガ……ワシノ……聖杯……命ィ! アアアアアアアアア!』
ランサーは、それを見て、気がついた。
これはもうとっくに、間桐臓硯ではなくなっていたのだろう。ただの妄執、彼が持っていた執念を依り代にした、都合のいい型でしかなかったのだ。
だからこそ。無様にすらなっていなく。無意味な、望みばかりを漏らしている。核になっていたものが消えると言うことは、つまりアイデンティティの消失にも等しい。間桐臓硯であったものが破損したと言うことは、つまりそれを元にした行動ができなくなる。既に、聖杯の端末としての機能は、壊れているのだ。
流星が走る。アーチャーの放った、宝具の雨の数々。
最高の好機を逃すような、甘い男では無い。その信頼は正しく反映され、制御を失った蟲ごと、臓硯を薙ぎ払っていく。大火力の集中砲火は、ただそこにあるだけの蟲で止められるようなものではない。
ただの泥に崩れていく臓硯――いや、もうその呼び名は相応しく無いだろう。液状である、元の形に戻っていくアヴェンジャー。
それを確認しながら、ランサーは笑った。
仇は討てた。これで良かったのかは分からないが、それでも無念のツケを払わせる事だけは、成功している。
それを知って、ケイネスはどのような顔をするだろうか。分からない。結局、最後まで深く知ることが出来なかった主。
笑ってくれ、とまでは思わない。だが、溜飲を下げてくれればいいと思う。
結局は、全てにおいて中途半端。終わるまで、何に気付くことも出来なかった。それで良いなどとは、口が裂けても言えなかったが。
しかし、思う。
もう一度機会があれば、また自分をサーヴァントに選んでくれるだろうか、と。そして、もう一度があれば。今度こそ、忠義という都合の良い隠れ蓑に隠さず、主を知る努力から始めよう。
ケイネスとソラウ、二人が笑い合える姿を夢見ながら。
アーチャーの宝具か、それとも自然消滅か。どちらが速いかは分からなかったが。
終わる時を、静かに待った。