ふと思いついたFate/zeroのネタ作品   作:ふふん

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雁夜は夢を見る②

 夢を見ているのだろう。

 その光景を見て、即座にそう断言できたのは、都合が良すぎるからだった。

 場所はどこだか分からない。が、近所の公園でも草の生い茂る太陽に祝福された草原でも、あるいは楽園でも、場所がどこだとして、何が分かるわけでも無い。ただ確実なのは、そういう穏やかなものがとても似合いそうな光景だ、という事だった。母がいて、子供が居る。それだけで、人が心を満たすのに十分な光景になる。

 もしそれが、休日の散歩がてらにでも見たのであれば、例に漏れぬ感想を抱けた。適当に、そこら辺にある自販機からコーヒーでも買って、ベンチでちびちびと飲みながら。あとは、子供の笑い声でも聞こえてくれば、祝福も出来ただろう。見知らぬ人間であれば、最高だ。彼女らの事情など、何も知らずに、無邪気に祝福できるのだから。

 その親子――母と、娘が二人――は、雁夜が知っている顔だった。遠坂葵、そして凛と桜。

 誰もが笑っていられる空間――もちろん、桜も。母に手を引かれて、姉の少女にからかわれて、顔を赤くしながらも楽しそうだ。こんな時ばかり鮮明に思い出せる笑顔。遠坂でなくなった、間桐桜という少女が笑わなくなって久しいと言うのに。

 そこにあるのは、ただの休日。どこまでもありきたりで、特別な事などなくて、だからこそ幸せなもの。一般的な家庭、という、ただそれだけのものだ。

 最悪の気分だ。目元を覆ってうめく。いや、そういう気分になっただけだが。感覚など無く、目をそらすこともできない。夢というのはそんなものだ。自分のもののようで、思い通りにならず止める事もできないビデオを、目が覚めるまで見せられる。

 間桐桜はまだ笑えない。少なくとも、雁夜は笑えるようになった場面を見ていない。こんなものは、ただの願望だ。まだ何も成していない男が、そうなればいいという願いだけで見ているもの。

 なにより、そこにはある男がいなかった。遠坂時臣。遠坂葵の夫で、遠坂凛と間桐桜の実父。家族の団らんと言うのであれば、存在して当然の男なのに。それが、自分の醜く一方的な感情が反映されていると言うのは、明らかだった。彼女たちの笑顔に、ただの悪意を投影している。あまりに下らない都合の良さに、思わず笑ってしまいそうだ。

 かつて憎んでいた――いや、今でも憎んでいる男。向けた感情が、八つ当たりに近いものだったとしても、殺意すら向けていたのには変わらない。許せない理由を上げろと言われれば、いくらでも上げられる。だが、それを言わせる理由も、やはり嫉妬か何かなのだろう。

 雁夜は葵を愛していた。今では遠くなった彼女と感情であっても、それは恋だったのだと断定できる。やがて葵を諦めて、勝手に時臣に託し。やはり勝手に信頼していたのを、勝手に裏切られたと思った。桜を助ける為の行動も、代償行動だと言われてしまえば否定できない。つくづく……女々しい自分。

 冷静に考えられるようになったのは、アーチャーというイレギュラーの影響だ。奴の行動によって、雁夜は二つの者を得られた。現在、そして今後の、桜の安全。間桐臓硯という支配からの脱却。本来達成不可能な目的が同時に果たされた事によって、余裕を得られたのだ。目的が感情に繋がらなくなった、と言ってもいい。

 時臣に拘る理由がなくなり、結果、彼に対するものは感情のみになったのだが。だからこそ、自分の醜さを直視する羽目になったとも言える。

 それを再確認したところで、むなしさばかりが募る。結局、方向が変わっただけで、大人になれていない。禅城葵を諦めた時か、それとも間桐を捨てた時か。いつから、自分の成長は止まったのだろう。

 浮上する意識。白と黒で塗りつぶされ始める視界。もうすぐ目が覚めるのだろう。

 ふと、女性がこちらを向いた。それを確認して、空しさに歯がみをする。

 葵には、顔がなかった。そこに顔を作ろうとして、彼女がどんな風に笑顔を浮かべていたか、もう分からなくなっている事に気がつく。

 こんな光景を見せるのなら、それくらいはサービスしてくれてもいいだろうに。下らない思考を、虚空に投げつける。当然帰ってくる声はなく。葵が笑顔を見せることも無い。空想の中にしか無い、薄っぺらで張り付いたような幸せがそこにあるだけ。……夢の中くらいでなら、自分が愛されてもいいだろうに。願うことも、夢で現実させる事も、何も選べない、情けない自分。

 もし、どこかで何かが違ったら。また別の自分になれたのだろうか。最後に考えることすら、前向きになれず。ついに全てが塗りつぶされて……

「間桐雁夜!」

 自分の名前を絶叫する声にたたき起され、そしてすぐにうめき声を上げた。

 全身が、恐ろしく痛い。少し前、虫に体を啄まれている時は、苦痛は感じるもどこか鈍かった。完全な痛みを得られるのは、それよりは健全である証拠だろう。だからと言って、何も嬉しくは無いが。

 鋭痛と鈍痛の内、鋭い方だけを意識して無視した。鋭い痛みは瞬間的な分、容量が多い。

 二度三度と、浅く速い呼吸をする。そして四度目に、なんとか周囲を確認できるだけの意識が戻ってきた。目の前には、この数日ですっかり見慣れた男の顔。焦燥の為か、恐ろしく目つきが鋭い。人殺しの目、というのはこういうものを言うのだろう、と思わせる目つきだった。そして、背後にある夜空で、自分が今外に転がっているのだと悟る。

 なら、自分はどこに転がっているか。知ろうとして、それ以上考えるのをやめた。強烈な痛みの原因は、背面にある。どう見積もっても、楽しい事にはなっていない。

 恐ろしい顔をした切嗣から視線を外して、視線を横に振ってみる。山の斜面を削って作ったためにできた、大した高さもない壁。その近くに、不自然な影がある。それが、自分の乗っていた車だと知るには、僅かに時間が必要だった。常識的に考えれば、事故を起こして激突したのだ。車の天井がめくれ上がってさえいなければ、その回答にも説得力があっただろう。

「一体……何が?」

「それを聞きたいのは僕だ! 何が起きてこうなったんだ!?」

 冷静さを失って、胸ぐらを掴んでくる。その振動に、雁夜はうめいた。無視の限界を超えた痛みが、脳をかき乱す。

「やめ……今、思い出す……」

「くっ!」

 切嗣は悔しそうにうめき、同時に背中に何かを貼り付けた。その瞬間、気絶しそうな痛みが走ったが、すぐにそれも消える。それは、少ない雁夜の魔力を吸って機能していた。効果は、恐らく沈痛と止血といった程度。治療効果には大して期待できないが、こういう場合は頼もしい。

 体を起こしながら、再度周囲を注意深く見回した。今はとにかく、情報が欲しい。

 路面には、四本の黒い線が残っている。タイヤが削れた後が、大分長く続いていた。と言うことは、衝突時の衝撃はさほどでもなかった可能性が高い。事故による死者は考えなくていいだろう。

 舞弥とセイバーは、周囲を警戒していた。周囲に恐ろしく神経を尖らせている様は、ある意味切嗣よりも恐ろしい。この場にいるのは、それだけだ。

「……そうだ、アイリスフィールがアサシンに浚われたんだ!」

「アサシンに? くっ……監督者を泳がせたのは、サーヴァントの消耗じゃなくて、アイリが目的だったのか? 状況は」

「ああ、戦場から離れてしばらくした所で、アサシンが車の中でいきなり実体化したんだ。アイリスフィールが悲鳴を上げて、車のブレーキが踏まれた。しかし、次の瞬間、舞弥が後頭部を叩かれて気絶。俺も銃で応戦したが、屋根を破って脱出しようとしていたアサシンに引きずって落とされた」

 少しずつ、思い出せてきた記憶。一つ思い出す度に、当時の苦痛を再現し悲鳴を上げる脳。それを、頭を振って押さえつける。

 切嗣から手を差し出された。別に、雁夜を立たせようとしている訳では無い。そんな非効率な優しさは、この男に存在しない。手の上に置いてある拳銃を差し出しているのだ。切嗣に貰った、護身用のもの。ただの拳銃が、魔術師相手にどれほど役に立つわけでも無く。ましてやサーヴァント相手では、気休めにもならない。

 取り出した弾倉には、弾が一発も入っていなかった。気付かず、全弾撃ち尽くしていたようだ。

 立ち上がり、新たな弾倉を入れて初弾を装填した。とりあえず、撃てる状態にしておけば。やはり気休めにはなってくれる。

「アサシンが向かった方向は、川沿い……」

「あっちだろう?」

 言い終えるよりも速く、切嗣が親指で指した。その方向に目をこらしてみるが、闇に包まれており、何があるのか判別不能だ。

「何があるんだ?」

「見えないか。ついさっき、市民会館が倒壊した。規模から言って、間違いなく宝具の一撃だろう」

 なるほど、と雁夜は頷いた。このタイミングで宝具により破壊された建物、それがこの件に無関係な訳がない。

 これだけの威力を発揮できるサーヴァントは限られる。その内、戦闘行為をしていた者を除くと、可能性があるのはライダーのみだ。どうやって特定したかは気になる所だが、まあ密かにアーチャーあたりと繋がっていた、とでも考えれば済む程度の事でもある。聖杯戦争で身を隠し暗躍する存在は、彼に取っても目障りだったのだろう。

 宝具の一撃で、黒幕らを倒せたかどうかは分からない。だが、少なくとも煙幕にはなったはずだ。

「じゃあ、これからアイリスフィールを助けに行くのか」

「ああ。幸い、車はまだ動く。飛ばせばすぐだ」

 切嗣が車をバックさせて、道に戻す。助手席に舞弥が乗って、後部座席にセイバーと雁夜が落ち着いた。

 この場の誰一人、アイリスフィールが死んでいると思っていない。希望的観測などではなく、そうでなければ不自然だからだ。

 アサシンのマスター言峰綺礼が何を思ってそうしたのかは分からない。しかし、アイリスフィールが殺される理由が、どうしてもないのである。そもそも殺す気であれば、雁夜と舞弥が死んでなければおかしいのだ。いや、舞弥はわざわざ殺す理由がなかったとしても、雁夜を生かす理由は無い。彼はマスターなのだから。

 マスターである雁夜が生きているのだ。まだアイリスフィールがマスターと思っていたとしても、拉致してから殺す理由とは何か。こじつけて殺す理由を考えるのであれば、生かされていると考えた方がよほど自然だった。

 あとは、ライダーがどういうつもりだか、だろう。宝具に巻き込むつもりが無ければ、これも生きてる可能性の方が高くなる。何だかんだ言っても、アイリスフィールは優秀な魔術師。倒壊する建物から逃げるだけならば、よほど運が悪くない限り可能だ。生きていることを期待して動くのには十分だ。

 一気に加速し、暴力的に揺さぶられる車。ぶつかった衝撃で多少フレームが曲がったかも知れないが、それでも問題なく走っている。元から頑丈な上、さらに改造まで施したベンツは、さすがと言える安定感があった。

 元来た道を逆走(直線距離ではそのまま走った方が近いが、続く道が無い)する。無理矢理オープンカーにされた車で、冬の夜に法定速度を無視した速度で走るのはさすがにキツい。少なくない血液を失っているのであれば、なおさらだ。

 冷気に軋む体を自覚しながら、隣に座るセイバーに話しかけた。

「なあ、セイバー」

「カリヤ、話していて、体は大丈夫ですか?」

「ああ……心配をかけたな。そっちは問題ない」

 と言うよりも、今更それくらいでどうにかなる程度のダメージではないというだけだが。余計なことを言って、心配させる事も無い。

「済まなかった。俺がバーサーカーを倒されたせいで、お前に負担を掛ける事になったからな」

「それを言うのであれば、早くランサーと決着をつけて救援に向かえなかった私も悪いのです。責任が、と言うのであれば、貴方だけにあるわけではない」

 言葉に、慰めの色は無い。しかし、と雁夜は手の甲をさすった。令呪は、まだ二画残っている。それを使えば、一時期は追い詰めていたアーチャーを倒せたかも知れない。いや、そこまで言わずとも、生き残っていた可能性は十分にある。

 落ち込んでいる雁夜に、セイバーは言葉を続けた。

「それに、これでアーチャーの真名も、戦法も全て分かりました。次は明確に、攻略法を立てて戦えます。それに、ライダーと同盟を組める可能性も残っていますし、戦いはこれからだ」

 そう言えば、戦場の様子は舞弥がモニターしていたのだと思い出した。まあ、雁夜は途中で枯渇死し、情報を得られない可能性があるのだから当然の措置だろう。

「そうか……すまん」

「謝罪をされる理由がありませんよ」

 戯けたように笑って、セイバー。

 何と言うか、彼女は変わった。性格や主張が変わったようで、その実元のものと同じ。ただ、精神的な安定を得たことで、ふらふらとしていた分を誇りで埋める必要がなくなっていた。アイリスフィールあたりに話を聞けば、また違う回答が帰ってくるのかも知れないが。少なくとも、雁夜はそう思っている。

「間桐雁夜。君に聞きたいことがある」

 運転席から、暴風に遮られながらも届く声。しかし、その音は。風で打ち消されている点を考慮しても、弱々しすぎる気がした。

「君は今回の件をどう見る? 恐らく、君や舞弥、アイリを殺すなと命令しただろう……」

「言峰綺礼か」

 言いにくそうにしてた切嗣の言葉を、注ぎ足すようにして言った。それが正解であったと言うのは、むっつり黙り込んだ切嗣の様子で分かる。

 衛宮切嗣と言峰綺礼。この二人にどんな確執があるのか、雁夜は知らない。ただ、互いに恐ろしく意識してはいるようだが。少なくとも、自分と時臣のような、一方通行なものではないだろう。

 彼ともあろう者が、怨敵と言って差し支えない相手について、予測を立てられない。そこには『未確定情報を利用しない』『現状の判断材料で素早く最もリスクの少ない決断を下す』と言った、傭兵らしい判断力にも原因があるのだろうが。それ以上に、言峰綺礼という存在について、これ以上考えたくない、という理由がある気がした。

 雁夜に、その感覚は分からない。彼に取っては、綺礼など普通の異常者でしかないからだ。少なくとも、極まった異常者である魔術師に比べれば、大分マシだと思える。

 なにより、どんな危惧を抱いているか教えて貰わなければ、解析のし様もないのだが。本人が言うつもりがない以上、そこを省くしかない。

「監督者から聞いた様子を信じるとして、あとはかじっただけの心理学に当てはめるならば、何か悩んでいたのを、神だかによって吹っ切った、って所だろうが」

「神? 奴が? 宗教にでも目覚めたって言うのかい?」

 間違った分析だ。そう言うように、切嗣は鼻で笑った。

 元々、言峰綺礼は宗教家なのだが。それは黙って続けた。

「そうじゃなくて、あの手の奴は、宗教なんて信じちゃいない。神だけを信仰しているんだ。それも、世間一般に共通認識としてある神じゃなくて、自分だけが信じる神を」

 何もないと信じている人間が、何かを得る。その内容など、二つに一つだ。即ち、愉悦か抑制。自己を解放することによって肯定するか、押さえ込んで拠り所を得るか。悲しい事に、どちらも狂人の領分だ。

 そこに何の感情も無いのと、信仰という名分の為に躊躇しないの。どちらにしろ、戸惑いを持たない、という事には変わりないのだが。根底に己の欲がある分、後者の方が遙かに恐ろしい。人間の行動、性能、全てに至って、目的のある人間の方が優れているのだ。それはこの一年、感情だけをよりどころに耐えていた雁夜が、よく知っている。

 つまりだ。言峰綺礼は、今までよりもよほど恐ろしい。今までよりも倒しづらい、という意味でも、何をしでかすか分からない、という意味でも。

 とは言っても、これが切嗣に受け入れられはしないだろう。なにせ、大部分が雁夜の予想なのだ。妄想、と言われてしまえば、それで終わる。そして、彼自身も、それほど自分の考えに自信がある訳ではなかった。

「まあ、内容は何でもいいか。どうであれ、奴はそれによって殺人を自戒した。切羽詰まってまでそれを通すかは分からないが……付け入るには十分な隙になるんじゃないか?」

「……ああ、そうだな」

 しかし、切嗣は納得しきれないのか、煮え切らない返事。

 言うべき事ではないのだろう、それは分かっていた。だが、気付けば雁夜は、身を乗り出して顔を寄せていた。

「いいか、奴は狂人だ。それ以上でも以下でもない。そうじゃないと思っていても、そういう事にしておけ。お前は無自覚に、奴を理解しようとしている。そんなことはやめろ」

 誰かが誰かを理解できるなど、夢物語だ。雁夜には、葵が何を思って嫁ぎ、子供を養子に出したか理解できない。桜がどんな思いをして、己を殺したか、理解できない。そして、間桐臓硯。あの男が、なぜ嬉々として人を痛めつけるかなど、理解したくも無い。他の人間から見れば、間桐雁夜という男も理解できないだろう。嫉妬と未練と八つ当たり、それで命を使い切ったなど、自分だけが知っていればいい。知って欲しくも無いし、言われてやめる事も無かっただろう。

 切嗣がしている事は、はっきり言って無駄なことだ。

 だが、それで近づく事は出来てしまう。わがままの様な言い方をするのであれば、その努力をアイリスフィールに使用するべきだ。彼は理解される事に慣れすぎて、近しい者を理解しようとしていない。

 魔術師であるアイリスフィールがどうなろうと、知ったことでは無い。ただ、このままだと彼は、望まない悲惨な人生で終わりを迎えるだろう。……例えば、自分のような。

 衛宮切嗣という男を分類するのであれば、確実に悪党の類いだ。間違っても善人ではない。ただ、それなりに会話を繰り返して、どうしても嫌いになれなかった。彼は、ただの善人だ。善人だからこそ悪が許せなく、誰かが悪を行う前に、自分が悪になり悪を潰す。自分で全ての割を食う事で、誰かが泣くのを止めている。

 嫌いになれる筈が無いのだ。だって、もし彼が最初から桜の側に居たら、きっと桜は泣いていなかった。そうやって救われた子供が、たくさん居たのだろう。

 理解されるだけに任せてしまえば、止まることもできない。誰かが止めた時に、少しだけでも耳を傾けられるようにしておくべきだ。彼は――彼も、救われるべきなのだ。

「……そうだな。考える必要があるのは、言峰綺礼の殺し方だけだ」

 雁夜の言葉には、納得してはいないだろう。だが、それで少しでも迷いを断ち切ってくれていれば、それでいい。

 体を後部座席に戻そうとして、ふと、違和感に襲われた。

「カリヤ、どうかしたのですか?」

「いや……何でもない、多分」

「多分?」

 異常をめざとく見つけたセイバーが問いかけてくる。それに曖昧な返答を返すしかない。本当に、自分でも何がおかしいのか分からないのだ。

 高級車らしく、ぴたりと自分の体を包むシート。思い切り脱力しても、体の違和感は消えない。いや、それどころか、少しずつ大きくなっていた。どこにも力を入れていないのに、体が動いているような感覚。全身の筋肉が微弱な痙攣を繰り返せば、こんな感覚にもなるのだろうか。

 もしかしたら、怪我の影響かも知れない。今すぐどうにかなるものではないが、普通なら入院させられている。

 右手を持ち上げて、指の動きを確かめてみた。人並み程度には正確に動く指。これも普段通りとは言わないが、怪我を考慮すれば十分なものだ。その程度大丈夫であれば、違和感はむししてもいい。そう判断した時だった。体に、苦痛が発生したのは。

「カリヤ!?」

 咄嗟に体を丸めた雁夜に、セイバーが声を上げた。すぐに視線だけを向けて、その動きを抑制する。

「大丈夫、驚いただけだ」

「しかし」

 額に脂汗は浮かべているものの、しっかりと体を起こす雁夜。その姿にとりあえず納得した。

 驚いただけだ、という言葉に嘘は無い。その感覚は、つい最近までとても慣れていたものだったのだ。

 虫に体を食われる感覚は。

 今まで、捕食されていなかった訳では無い。そうしなければ、バーサーカーの魔力を工面出来なかったのだから。しかし、それは切嗣らの魔術によって、都合良く抑制されていたのだ。体を這いずり、肉を食いちぎり、思考能力ごと人の尊厳を奪うそれ。間桐臓硯から切り離されて、久しく忘れていたと言うのに。

(いや、待てよ。と言うことは、つまり……近くに奴がいると言う事か!)

 慌てて周囲を見回した。暗闇と、高速で流れる風景。何か――それも虫のような小ささを発見するのに、悪条件は揃っている。それでもめいっぱい目をこらして、何も見逃すまいとした。

(あの化け物爺が出てきて、何も仕掛けが無いなんて事はあり得ない。あるとすれば、十中八九外からだ。俺の中の虫を使う可能性もあるが……それで隣に座るサーヴァントが判断を誤る、なんて甘い期待をするような奴じゃ無い。確実にこちらを取れる状況で、狙ってくる)

 もし、間桐臓硯に信頼を置ける部分を上げろと言うのであれば。姿を現すのは、必殺の確信あっての事だ、という点だろう。つまり、この警戒は必ず役に立つ。

 銃を取り出し、安全装置を解除した。狙う場所がないため、銃口は空中を向いたままだが。しかし、セイバーに異常を教え、警戒を促すのには十分だ。

「切嗣、近くに間桐臓硯がいる。気をつけろ」

 その一言で、一瞬にして空気が変わる。

 車の速度をやや落とす。速度よりも、何かあった時に咄嗟の対応を取れるためだ。セイバーは武装し、雁夜と同じように周囲を観察している。彼女の索敵能力は、ただの人間と比べるのも馬鹿馬鹿しくなるくらい鋭い。そして舞弥は、銃口を雁夜の頭に向けていた。もし雁夜が操られた時、被害を最小限にするため。

「どうだ?」

「近づいてきている。どれくらいの距離かは分からないが、確実に」

 虫のざわめきが増している。幸い、体を啄まれる感覚はさほどでも無い。操られなければ、という前提あってだが、邪魔にだけはならずに済みそうだ。

 銃を構えながら、額にたっぷりと脂汗が浮かぶ。間桐臓硯の恐ろしさは、文字通り身に染みているのだ。セイバーも切嗣も、破格の能力を持ってい事は知っている。だが、それで化け物の悪辣さにどれほど対抗できるだろうか。少なくとも、雁夜には保証ができない。彼に取って、間桐臓硯とはそれほどの存在なのだ。

 警戒だけを続けて、無為に時間が過ぎてゆく。それでも、警戒を解かないのは、虫の活性化が進み続けているから。

 そして、ついに虫の動きが、間桐臓硯が健在であった頃と同じほどになり、

「後ろだ!」

「サーヴァントです!」

 雁夜とセイバーが叫んだのは、完全に同時だった。

 正面からは高速で迫るのと正反対に、背後は景色が遠ざかる。過ぎ去っていく道は、ライトの届かない暗い闇に、銃数メートルで飲み込まれていった。しかし、その隙間から、ちらちらと黒い影が見える。置き去りにされる光景に似つかわしくなく、車へと接近してくる何か。一つや二つでは無い。無数の何かが、道を覆い尽くすほどの群れとなって迫っていた。

 何だ、あれは。そう言ったのは、誰だったか。雁夜も、その一言に同意した。

 迫ってくるそれは、虫なのだろう。そして、間桐臓硯である筈だ。しかし、それを本当に間桐臓硯であると言っていいのか、雁夜には分からなかった。

 全て手を黒に染めて、泥のような体を必死で動かす。唯一、瞳だけは赤く爛々と輝いている。なにより、それは視界に入れるだけで、吐き気を催すおぞましさがある。虫のふりをした化け物、そう言われた方が、よほど納得できた。

『ヲ・ヲ・ヲ・ヲ・ヲ・ヲ・ヲ・ロロロロロロ!』

 それは言葉なのか、鳴き声なのか、それともただの羽音か。判別の方法すら思いつかない。ただ一つ分かるのは、間桐臓硯はもう、まともな存在ではなくなった、という事だった。

「気をつけなさいカリヤ! あれからは、サーヴァントの気配がします!」

 後部座席から下りたセイバーは、後部トランクの上に乗った。僅か数十センチ先の最前線。足の速い虫が飛びかかってくるのを、冷静に切り落としている。今でこそ余裕で処理しているが、いずれ限界が来るだろう。いかなセイバーとて、今の十倍、百倍の数に襲われては対処しきれまい。そして、虫の群れとはそれを可能にするのだ。最悪な事に、あとどれほどせずとも虫の群れが車にとりつくだろう。

 とにかく、目に付く虫の群れに銃を乱射した。総弾数20発にも満たない数では、一瞬で撃ち尽くしてしまう。すぐに弾倉を取り替えては、撃ち尽くしの繰り返し。

 助手席から後部座席に滑り込んだ舞弥も、同じように銃を撃つ。だが、やはり無意味だった。虫の勢いは止まらない。

「トランクを切って!」

 舞弥の声。とっさに反応したセイバーは、端に寄り、トランクを根元から切った。支えをなくし、背後に飛んでいく鉄板。

 トランクの中には、山のような銃器が並んでいた。それも、拳銃のような豆鉄砲ではない。爆弾からロケットランチャー、機関銃まで、冗談のように。

「これを!」

 半ば押しつけられるようにして、ばかでかい銃を渡された。

 使い方を知らない、などと言っていられない。座席に銃を固定して、あとは引き金を引くだけだった。狙いなどつけず、とにかく弾が変な方向に飛ばない事だけ注意する。どうせ、ある程度方向さえ合わせておけば、どこに撃っても虫に当たるのだ。はじけ飛ぶ薬莢は、口紅のように太い。そんなものを喰らってすら、やはり虫にダメージがあるようには見えなかった。

 舞弥が、トランクに乗せてあった爆弾、それをありったけばらまいた。一瞬だけ、背後が明るくなり。紅の火柱を隠すように、黒い点が飛んでいた。あれ一つ一つが、全て虫なのだ。

 ダメージがなくとも、周囲ごと吹き飛ばせば虫も飛ぶ。遅滞を期待するならば、いい方法だ。そう雁夜は思ったのだが、

「おかしい。半分くらいしか爆発していない……」

 うめくような声と、どれほどもたたず追いついてくる蟲。その数は、少し前までよりも増えている気がした。

 爆弾を吸収したのか、それとも無関係に増殖しているのか。ある程度爆弾を無力化する力を、それらが所持しているのだけは分かる。それでも諦めぬと、今度はロケットランチャーを叩き込むが、それも効果は薄い。

「ダメです、捌ききれません!」

「捕まるぞ!」

 抵抗も空しく。虫の群れは、ついにタイヤを目前にしていた。

 もうだめか――そう、雁夜が諦め駆けた時だった。切嗣の声が響いたのは。

「セイバーに命じる。左腕の負傷を無視し、宝具を使用せよ」

 令呪が弾ける、膨大な魔力の感覚。魔術師として半人前である雁夜にも、それが分かるほど膨大な流れ。

 言葉が聞こえた瞬間、雁夜は銃から手を離していた。銃が転がり落ち、虫の波に飲まれたが、そんなことは気にしていられない。急ぎ両手で耳を塞いだ、その瞬間だった。目を焼くような、圧倒的な光の帯が、直線上全てを塵にする。今来たアスファルトは、めくれ上がりなどしない。なぜならば、砕け飛び散った瞬間に、光の余波で消し飛んでいるのだ。

 エクスカリバー。星の鍛え上げた幻想。

 人では絶対に届かない高みにある、最強の聖剣。それが作り出した奇跡は、正しく闇を切り裂いた。立てに切り裂かれた地面と、膨大な熱量に発熱し、煙を立たせている断面が遠ざかる。

 ここ数日で、この世にある奇跡など見尽くしたつもりだった。だが、英雄が見せたそれらと比してなお圧倒すると断言できる、世界の輝き。――それも当然だ。セイバーの言葉を信じるならば、その剣は人の希望の集合体なのだ。それ以上の奇跡など、あろう筈が無い。

 ……しかし。

 切り裂かれた闇。その隙間からわき出るようにして、虫の群れが迫る。まるで、何事も無かったかのように。

「馬鹿な! 効いてないのか!?」

「いえ、確実に直撃しました」

 淡々とした、セイバーの声。剣を握る篭手から、軋むような音が鳴った。それが、彼女の心境を如実に表している。

「ただ、それだけでは対処しきれない量があるだけです」

 左右から波のように溢れ、全くの振り出しに戻る。少なくとも、雁夜にはそう見えた。

 消耗戦。言葉が浮かぶ。それは、絶望的な単語だった。効いてるどうかも分からない弾薬は、既に半数を消費している。面制圧できる爆弾は、とうに使い切っていた。サーヴァントにも有効な、魔術礼装化したライフル弾頭、あれの残りはどれほどだろうか。一発も消費していなかったとして、大した量にはなるまい。それに、こんな何万、もしかしたら何十万いるかも分からない相手に使うものでもない。

 虎の子のエクスカリバーは、あと何発使えるだろうか。左腕はまだ治癒していない。つまり、令呪の残数が、そのまま使用限界になる。それも、

「カリバアアァァァ!」

 二度目、同時に二画の令呪を消費して使用された聖剣。これで、切嗣の令呪は全てなくなってしまった。

 視界から消え失せる蟲。そのまま、どこかに消えてなくなれ。胸に銃を抱えながら、ただひたすらに祈る。祈りながら、それはどこにも届かないであろうという事は分かっていた。間桐雁夜は運が悪い、などと言うのは、ただのジンクスのようなものだ。自分が願う事は必ず裏になるのだから、とりあえず覚悟だけはできると。

 そして、やはり蟲は健在だった。数が底をつき始めたのか、密度が減った気がする。だが、それでも車を飲み込んで、十分なだけの数が存在した。

 息を大きく吸って、そしてはき出す。これもやはり、ジンクスのようなもの。そうすれば、現状の全てを飲み込めるような気がする。動くに足る、勇気を得られる。そうでもしなければ、覚悟を決めるというのは難しい。

「切嗣、セイバーとの契約を解除しろ」

「君はいきなり何を言っているんだ」

 ハンドルを切りながら、後ろを振り向く余裕もない切嗣。しかし、声は恐ろしく冷徹で、鋭かった。

「俺が再契約する。そうすれば、あと二発、宝具を撃てるぞ」

「しかし、それで何とかできる保証はありません」

 セイバーが渋った。マスターを変えるという行為にある、大きな忌避感。同時に、それで現状を打開できる保証のない不透明さ。行き当たりばったりな作戦でしかない。このままならば。

「それと、俺はここで下りる」

 息が止まったのを感じた。誰のだろう、考えて、それが自分だったと気付く。

 こんな場所で下りれば、すぐに蟲の餌食になるだろう。誰でも分かる理論。とりわけ、蟲の餌食に鳴り続けた雁夜ならば、誰よりもよく理解できる。

「自殺行為です。何の意味もない!」

「ある。こうすれば、切嗣だけは生き残れるんだ」

 セイバーの勢いが、ぴたりと止まった。肩を掴もうとしていたのか、伸びていた左手が、宙を彷徨う。

 覚悟を決めるというのは、簡単であり、とても難しくもあり。それが、死ぬ覚悟であるというならば、尚更だ。

 死など、とうに覚悟している。一年前に、間桐という魔窟に戻ったときから。しかし、やはり目前に迫る死とは、とても恐ろしいものだった。漠然と、ただ耐えるだけのものではなく。自分から死神の鎌に、首を差し出すというのが、これほどの恐怖を呼ぶとは。死にたくない、そう叫びそうになる。無様に生にしがみつきたくなる。

 それでも、これは。間桐雁夜にしかできない役割なのだ。

「……死ぬぞ」

「一月後が今日になるだけだ」

 壊れたトランクを漁り、銃を引っ張り出す。訓練を受けたわけでも無い雁夜に扱える銃など、そう多くも無く。面倒がなさそうで、片手で持てて、弾をばらまける。サブマシンガン二丁に、長いマガジンを取り付けた。

「君たちを素通りするかもしれない」

「俺の中の蟲がざわめいている。まだ、あれが臓硯という蟲の属性を持つ証拠だ。囮に俺以上の適任はいない」

 予備のマガジンを手に取り、持っていくかどうか僅かに悩み。結局、ベルトに差し込んだ。それほどの時間保たせられるかは分からないが、持っておいて損はあるまい。

 切嗣の言葉がなかった。そして、契約の解除もない。聖杯戦争の脱落と、増える犠牲者。恐らく、そういったものが、彼を責め立てているに違いない。

「衛宮切嗣、お前はここで死ねない。俺と交わした契約、桜ちゃんを助けるっていう約束があるんだ。俺はそのために死ぬ。だから、お前はその為に生きろ。それに、生きてればなんとかなるかもしれないぞ。アーチャーなんかは、上手く交渉すればマスターになれる可能性もある」

 それが気休めだと、誰もが分かっていた。しかし、そんなものでも必要な事はある。覚悟は、人を死に向かわせる。そして、希望は生に向かわせる。

 車が空気を切り裂くのとは違う、風の音。切嗣の口から漏れたものだ。それでいい、雁夜は肯定する。

「……さようなら、間桐雁夜」

「ああ、さようなら。後を……桜ちゃんを、頼んだ」

 セイバーと切嗣の間で、ラインが切断される。

 再契約は呆気なく終わった。召喚もそうだったが、サーヴァントに関する魔術は、大部分を聖杯が代行してくれる。

 銃を抱えるように持ちながら、シートを蹴った。着地に気を遣う必要は無い。どうせ自分でそんな事は出来ないのだから、セイバー任せだ。

 彼女の手から離れてすぐ、役に立つかも分からないおもちゃを、群れに構える。地面そのものがうごめいているのでは無いだろうか。そうとすら思える物量が、しかも吐き気を覚えずにいられない醜悪さで迫ってくる。あんなものと心中するなど、考え得る限り最悪の死に方だ。それを選べた自分を、少しだけ誇った。

「悪いな、自殺に付き合わせて」

「いえ、私もマスターが死ぬのは本意ではない。聖杯をこの手に出来ぬのは悔しいですが、そのためにマスターを殺す様な判断などしたくありません」

 だから、気にするな。言外にそう込めて、セイバーが剣を構えた。

 戦闘態勢に入ったサーヴァント。ごっそりと魔力を持っていかれ、久しぶりに吐血した。血に混じって出てくる、小さな蟲。忌々しいものだが、今だけは頼りにしていた。もっと盛大に肉を食って、魔力を生成すればいい。そうすればするだけ、元の宿主である間桐臓硯に仇なすのだから。

 群れと反対側、つまり背後で、ごしゃりと音がなった。何事か、振り向くと、銃器を大量に抱えた舞弥が転がっている。

「何でお前まで来たんだ!」

「二と二、三と一、より敵を引きつけられるのは、どちらですか?」

 慣れている、と言わんばかりにすぐに立ち上がる舞弥。車から重い荷物を持って飛び降りて置きながら、ダメージがあるように見えない。

「そうかも知れないが……」

「それに、たかが短機関銃二丁では足止めにもなりません。こういう場合は、弾倉を取り替えるのでは無く、銃を持ち替えるのです」

 いつもと変わらぬ鉄面皮。少なくとも、雁夜は彼女の口元がつり上がるのを見たことが無い。こんな時までそれを維持したまま、持っていた銃の半分を、無理矢理押しつけてきた。

 安全装置を解除して、銃口を向けながら、彼女は続ける。

「私はこれと同じです。消費されるのに相応しい場所があるなら、それは間違えない」

 黒い鋼の塊を撫でる指。少女然とした容姿とは不釣り合いに、ごつごつとして、油に黒ずんでいる。

 つまりは、そういう生き方なのだ。どうしようもなく。望もうが、望むまいが。

 雁夜は自分の指を見下ろした。右手に作られたペンだこは、一年現場から離れた程度では消えてくれない。そして、虫食いになった体も。彼は「間桐」に逆らうためにそうなったが。人に誇れないような人生ではあっただろう、だが自分がそうなった事には後悔などない。少なくとも、選択した瞬間だけは、自分の意思で決断したのだから。

 彼女はどうだろう。銃を持って戦う人生に、選択の余地があったとは思えない。だが、雁夜と一点違う場所がある。切嗣の道具である事を、誇っている事だ。

 もう、何かを言うつもりにはなれなかった。その選択が正しいとは、今でも思っていない。だが、自分を受け入れられる彼女が、とても眩しかった。

「来ます」

 セイバーの短い声。

 雁夜と舞弥は、同時に引き金を引き絞った。銃口から連続して立つ火柱。人なら一発でも当たれば死にかねないような掃射の嵐に――分かっていた事だが――しかし、その影響すら見えない蟲の津波。夜の闇と比べてもなお深い黒が、接触する寸前でぶわりと盛り上がり、三人を飲み込もうとする。

「させん!」

 強烈な突風は、指向性を持って蟲の山を破砕する。しかし、その程度でどうにかなるならば、先ほどの攻撃で殲滅できていた。側面を通って、あっという間に包囲される。

 物量の恐ろしさはこれなのだ。倒しても倒してもきりが無い。替えが利くから、消耗を恐れぬ特攻を繰り返せる。ましてや、その一つ一つに無視できない威力があるのだとすれば。人のみで対抗できる方法など、無きに等しい。

 しかし、それはあくまで人であればの話だ。

 セイバーは、剣を大きく薙いだ。未だ半分ほど剣と繋がっていた風は、直線上を広範囲にわたってなぎ払い。最後には渦を作って、三人をその内側に納めた。内から外に、触れたものを吹き飛ばすように流れる竜巻。蟲を仕留める威力はなくとも、時間稼ぎが目的だという事を考えれば、最良の選択だ。

「くっ……まさか、宝具を浸食しているのか? 二人とも、これも長くは持ちません!」

「つくづく化け物だな」

 内側からの一方的に、弾丸の嵐を浴びせる。だが、それも長くは続かないと知らされた。弾の切れた銃をすぐに持ち替えて、さらに不毛な攻撃を続ける。

「エクスカリバーは!?」

「まだです! もう少し、敵を引きつけなくては!」

 切嗣の後を追わせないのが第一条件であれば、確かにここで少しでも数を減らしたい。理想を言えば、一匹も通さぬように。だが……と、吹き飛ばされては風の壁に挑む蟲を見た。こんなものを前にして、いつまで堪えればいいのだろうか。

 勝負を急ぎたい理由は、それだけではない。蟲に囲まれるようになってから、明らかに体の中が騒がしくなった。ぶちぶち、という骨伝いに伝わる音は、確実に雁夜の寿命を縮めている。このペースで食われていけば、反撃をするよりも先に、命がなくなるだろう。今は、怪我をした時に張られた護符のおかげで、苦痛で動けなくなる、という事態にはなっていない。しかし、例え痛みに耐えられたとして、先に体の機能が壊れればおしまいだ。

 口にまで溢れてきた血と細長い虫を、無理矢理喉奥に押し返す。既に感覚も味覚も、何もかもが麻痺して、嫌悪感を感じないのが救いだ。

「カリヤ、今です!」

「っ、撃て、セイバー!」

 最初に比べれば大分小さくなった、ドーム形の風。それが一瞬だけ爆発的にふくれあがると、近場の虫を全て正面に集める。

 包囲していた蟲全てを射程範囲内に納めて、光の道が、直線上の全てを焼き払った。周囲一帯が、まるで太陽がそこにあるかのように照らされる。

 それとほぼ同時、大量の血が胃からせり上がって、喉を占拠した。口の中で止めようとして、しかし堪えきれず、唇の隙間からだらだらと零れる。体の中の蟲が幾ばくか死に、残ったものも、魔力の消耗に苦しむ。失った分をどうにか取り戻そうと、さらに雁夜の体を暴食し始めた。

 現在、セイバーのスペックは見る影も無い。それは、宝具発動以外の全てを捨てているからなのだが。いくら令呪が強力とは言え、最上級の聖剣分の魔力全てを補えはしないのだ。ましてや、令呪で左手までも補っているとなれば、負担は決して軽くない。

 それでも切嗣は、魔力をほぼ枯渇させながらも、成功させていたのだが。魔術師としての素養が低い雁夜では、これが限界だった。

「後ろは!」

「居ません。大方の蟲は、ここで足止め出来ています。追っていたとしても、大した数では無いでしょう。切嗣で対処可能です」

 雁夜が判断するよりも一瞬速く振り向いていた舞弥が、淡々と述べた。消えつつある光に照らされて、壊れかけたベンツが見える。両者を結ぶ線の上に、黒い粒は見えない。

 作戦は成功した。これでもう……憂いはない。

 中途半端に弾の残った銃を捨てて、次の銃を構える。だが、蟲がやってくる気配はなかった。

 これで打ち止め、などと言うことは無いだろう。しかし、セイバーが今なぎ払った方向から、蟲が追ってくる気配はない。何のつもりかは分からないが、状況が動かない以上、こちらから動くしかないだろう。そう考えたときだった。急に、背中を押し飛ばされたのは。

「ぐっ!」

 全くの不意打ちであったそれに、逆らうことはできず転がる。と言っても、食われた影響で、もう殆ど体に力が入らない。正面から受けたとしても、耐えられなかったであろう。

 倒れた雁夜に、覆い被さるようにして倒れてきたのは舞弥だった。何が起きたか分からず、とりあえず彼女をどけようと伸ばしていた手を、ぴたりと止めた。腰あたりに、じんわりと暖かく、粘ついた感触。良く彼女を見てみれば、脇腹に人体構造上あり得ない、大きな穴が開いていた。

(食われたんだ、不意を突かれて!)

 ステーキを汚く噛み千切るような、不愉快な音。えぐれた脇の、肉の隙間から、赤い滴が吹き出している。彼女の顔が歪むのを、始めて見た。激痛に脂汗を浮かべながら、歯を食いしばっている。

 指を思い切り立てて、腹の肉を掴む舞弥。そして拳銃を抜き出し、手の甲ごと、腹に弾丸を叩き込む。それで、腹部の虫は倒せたのだろう。耳を塞ぎたくなる咀嚼音は、それで途切れた。その代償に――舞弥はごぶりと、大量の血を吐いた。脇腹の怪我一つとっても致命傷。その上、内部を食い荒らされ、銃弾まで喰らっている。

 彼女はもう、助からない。常から感情の読めない瞳は、別の意味でその輝きを消していく。

「カリヤ!」

 セイバーの警告が飛んだ。

 視線を周囲に向け直して、そして目に入ったもの。それは、周囲に潜んでいた蟲が、顔を出す姿だった。血を連想するような、赤い目。それが、至る所から見張っている。

「切嗣を追うよりも、我々を確実に仕留める事を優先しましたか……」

 戦力を分散し、別個の場所に潜ませる。向かってきた敵をまとめてなぎ払う戦法しか取れない彼らにとって、致命的な戦法だった。恐らく、潜んでいるのもこれだけではあるまい。あと最低でも二回分、残っている筈だ。

 最初から覚悟は決めていた。だが、これでもう本当に、生き残る可能性もなくなる。体の震えは恐怖か、それともダメージが増えすぎた為か。

 同じように飛びかかってくる蟲に、やはり同じように風の幕を張る。しかし、それの威力は先ほどよりも、遙かに弱々しく狭い。セイバーの魔力も、文字通り雁夜が身を削って捻出してすら、追いつかなくなっている。

「く、そっ!」

 自分のものではないかのように重い手。それになんとか力を入れて、舞弥を引きずろうとした。このままでは、足から食われて死ぬことになる。

 しかし、それは彼女自身の手で払われた。まずい、と直感した。静止しようと手を伸ばして――しかし、こんな時ばかり手は絶望的に鈍い。腕を伸ばしきる事もできずに、腹を抱えた彼女が結界の外に出るのを、ただ見送った。

 もう、舞弥の目はどこも見ていない。虚空のどこか、多分雁夜の知らない場所を見ながら、体中一斉に食いつかれ。そして――初めて見る笑顔を浮かべながら、呟いた。

「キリツグ……あなたは……」

 ――生きて。

 声は聞こえなかった。ただ、唇の動きがそう言っているような気がしただけだ。

 そして、彼女は光になった。何かあったときの為の、自決用の爆弾。それを動作させ、虫を巻き込んで果てたのだ。最後まで、衛宮切嗣の為に。

 目の前で吹き飛んだ少女の顔が、目に焼き付いて離れない。彼女の選択は、とても正しかった。目的の為には、一番効率がいい行動だっただろう。……だかと言って、目の前で自爆するのを肯定できる訳が無い。己の無力さに絶叫しようとして、しかし声は出なかった。代わりに、大量の血が虫と一緒に流れ出る。

 自分も、終わりが近い。それを感じながら、雁夜は立ち上がった。

 目はかすんでいて、もう殆ど見えない。握力も殆ど無くし、引き金を引くのが精一杯だ。照準などつけられる筈が無く、反動のままに銃口はぶれている。それでも、雁夜は立ち上がった。まだ戦えるならば――それが無意味であったとしても、戦い続ける。

 それは、反逆だ。誰かにでも、ましてや間桐臓硯でもない。言うなれば、自分の今までの人生に対する行為。

「カリヤ、もう一度です!」

「放てセイバー!」

 そして、最後の光が走り去った。

 今度は間を置かず向かってくる蟲。風の守りは、もはや二人を包むのすら難しくなっていた。ちらりと見たセイバーの剣にも、もう力は無い。

 終わりは、時間の問題だ。

「なあセイバー……少しだけ、愚痴を聞いて貰っていいか?」

「……ええ、いくらでも」

 声など殆ど出ていなく、しかも血でつっかえて聞き取りづらい筈なのに。しかしセイバーは聞き取り、頷いてくれた。

「俺はだめな奴だ。葵さんが好きで……でも、時臣と結婚すると聞いたとき、何も出来なくて。間桐家が嫌で、逃げ出して……葵さんの娘の桜ちゃんが養子に引き取られるって聞いたとき、葵さんの顔が頭に浮かんだんだ。……それで、せめて桜ちゃんだけはなんて言い訳して、間桐に戻って……」

 恥ばかりの記憶。誰が聞いても罵るような、下らない話。なぜ、そんなものを急に言いたくなったのだろう。

 もう目は見えなかった。腕も上がっているかどうか、分からない。ただ、銃声はしていない。もう引き金を引く力もないのだろう。それも、感覚が失われていて分からない。体がとても寒い。でも、震える事もできない。

「桜ちゃんのために、なんて言いながらさ……時臣に嫉妬して、八つ当たりしようとして。結局俺は、そういう人間だったんだ。自分の感情が一番でさ……何もかも空回りさせて……結局、一人じゃ何もできなかった」

 どれほど無様でみっともなくとも、誰かに知っていて欲しかったのだろうか。自分の心が分からない。ただ、そうするのが自然であるように、口から言葉が漏れていた。

「カリヤ、貴方の感情は、確かに誉められたものではないかもしれません」

 背中合わせに感じる、セイバーの体温。全身凍り付いたような感覚の中で、しかしそれだけが痛いくらい。

「しかし、理由はどうであれ、貴方はサクラの為に最善を尽くしたのです。それまで嘘にするような事は、決して言ってはいけない」

 ああ――何故だろう。そんな、少しだけの言葉で、とても救われる。

 腕に力を入れる。上がった気がした。引き金を引いた気がすると、弾薬が連続して爆発する音が蘇る。そうだ、まだ戦える。戦わなければいけない。

「それに、誰かの為に命を賭けられる者、それを騎士と言うのです。誰が認めなくとも、私は認めましょう。貴方は、間違いなくサクラの騎士だ」

「……。そう、か。俺は、あの子の騎士であれたのか」

 その言葉は、気休めかも知れない。死に際の手向けの可能性もある。しかし、体には、確実に力が戻った。あと少しだけ、引き金を引いていられそうだ。

 彼女がなぜアーサー王なのか。王とは、どういう者であるのか。それが、少しだけ分かった気がした。

 セイバーが一歩踏み込んだ。背中の支えが消えて、思わず倒れそうになるのを、なんとか踏みとどまる。

「あと一撃で、私の魔力が尽きます。お元気で、とは言いません。……お先に」

「ああ、俺も、すぐに行く」

 それが、彼女と交わした、最後の言葉だった。

「おおおおおおぉぉぉぉ!」

 雄叫びが上がり、剣が振るわれる。最初に足が消えて、続き下半身、胸元と、自分自身を魔力に変換して、力を捻出した。剣が振るい切られる頃に残っていたのは、手首のみ。それも、剣から放出される風の刃に変換されて、全てが蟲を切り裂く牙となった。

 周囲の蟲が切り刻まれ、それとほぼ同時に弾が無くなる。

 ぐちゃり、どすん。最初の音は足を食われる音で、次は支えきれなくなった体が転がる音。どちらも、感覚はなかった。

 一斉に群がる蟲。食い荒らされるのを自覚しながら、しかし雁夜の精神は平静だった。

 間桐桜。彼女の事を、最後まで見ていられないのは悔しい。だが、衛宮切嗣ならば何とかしてくれるだろう。そう信じるしか無い。あるいはアーチャーあたりが、桜を幸せにしてくれると願おう。

 遠坂葵。今更になって、彼女の笑顔を思い出せたのは、良かったのか悪かったのか。ただ、その笑顔の向いた先が自分でなかったのは、らしいと言うべきか。最後まで情けないのには、苦笑いをするしかない。

 遠坂時臣。彼は結局どうなったのだろう。生きていたとしても、弟子が裏切っているのだ、まともな状態ではあるまい。今更、それが報いだと言うつもりはない。だが、哀れむつもりにもなれなかった。

 あとは、誰かいただろうか。衛宮切嗣か。彼に、今更言うことは無い。少しだけ力を抜いて、それなりに幸せを得る事ができればいい。

 ごりごりという音の割合が多くなってきた。恐らく、虫が骨まで到達し、削っているのだろう。それを感じて、間桐臓硯のにやけ面が明確に浮かんだ。

 最後の抵抗だ。と、右手を持ち上げた。当然、そこにはびっしりと虫が張り付き、肉を食いつぶそうとしている。ふるい落とす事も馬鹿馬鹿しくなる数のそれを無視して、人差し指を手首に伸ばした。僅かにでっぱった引っかかりに、指を絡める。何度か失敗し、苦労したが、健を噛み千切られる前に成功した。

 それは、自決用の爆弾だ。久宇舞弥の使用したものとはまた違う、雁夜の体を綺麗に吹き飛ばすためのもの。臓硯の支配を受けたときに、隙を見て死ねるように、という為のものだ。

「こんなもの……使うときが来るとはな。世の中……何が幸いするか分からない」

 そして、雁夜は蟲を睨んだ。いや、目は見えていない。睨んだようにして、その先にある臓硯の顔を想像しただけだ。

 音が、ぶつりと切れた。鼓膜を破られたのだろうか。脳まで届くのも、そう遠くない。全て食い尽くされる、その前に。

「何でも……思い通りに行くと……思うなよ……クソジジイ」

 精一杯の悪態と、強がりを吐き捨てて。

 桜が、葵や凛と、元の家族のように楽しんでいた姿。今すぐではなくても、いつか現実になってくれればいい。そう願うくらいならば、自分にも許されるだろうと信じながら。

 間桐雁夜は、周囲の蟲たちと一緒に、跡形も無く吹き飛んだ。


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