ばいにんっ 咲-Saki-   作:磯 

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5.なつのひ(中)

5.なつのひ(中)

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール/ 11:30

 

 

 抜け番の京太郎は、次の対局を辞して、しばし他の卓を見学したいと申し出た。騒いだりして邪魔だけはしないようにと言い含める講師に力強く頷いて、かれは軽食スペースでジュースを買う。

 京太郎はそのまましばし、ぼうっと先ほどの半荘を反芻した。何とか全ての摸打を記憶しようと意識しているが、なかなか上手く出来ない。終盤の倍満和了の印象ばかりが鮮烈で、それでは意味がないと京太郎は首を振った。

 

(うまくいった場面ばっかり思い出したって、あんまし意味ねえだろ)

 

 と、京太郎は思う。東一局からの譜面に思いを馳せるかれの目の前に、影が差したのはこのときだった。

 

「ここ、いい?」

「……?」

 

 見上げた先にいたのは、大柄な女だった。白いワイシャツにスラックスという格好からして、講師のようだ。肩口まで伸びた髪は少し脱色されており、左耳には銀のピアスが光っている。胸元の名札には、

 

 『講師 春金(はるかな)』

 

 という文字がゴシック体で書かれていた。

 京太郎は周囲を見回し、やや警戒を込めて応じた。

 

「ほかにも、テーブル空いてますけど」

「さっきの半荘ちらっと見て、あなたとぜひ話したいと思ったの。だめかな?」

 

 大人の女性然とした春金の振る舞いに、京太郎はたやすく動揺した。

 

「って、いわれても、おれ初心者なんで、よくわかんない……です、けど」

「え、まじで」春金が眉を上げた。「初心者って、どれくらい?」

「きょうで4日目くらい」

「うっそぉ」春金が手をひらひらと振った。「そりゃすごい。おねえさん、俄然きみに興味が湧いてきちゃったな」

「は、はあ」

「ねえねえ、さっきの――南二かな。きみが倍満和了った局でさ、{一萬}ひいて三色あきらめたじゃない。あれ、どうして聴牌崩したの? 勘?」

「下家が萬子集めてそうだったし、{①}はともかく{④}は山に薄そうだなァ、って思ったから」

「ふーむ」春金がなるほどと頷いた。「実際、{一萬}は下家の子に当たりだったね」

「たまたまでしょ。読み外して{④}ひいちゃったし」

「でも、{一萬}切ってたらそもそもメンチンに刺さってたから、結果的には唯一にして最高の手順を選択したわけよ、きみは。初心者とはとても思えないな。センス、あるね」

 

 明るく笑って激賞してくる春金に、素直にやに下がるのが普通の少年である。しかし病気をこじらせている京太郎は、だんだんと彼女の態度を胡散臭く感じだした。

 

(なんか、めんどくせえ)

 

「ねえ、本気で麻雀やる気ない? うちの教室でさ。歓迎するけど」

 

(ほれきた)と思う京太郎だった。

 

「営業すか」

「ぐっ」春金の笑みが固まった。「鋭いなきみ。しかし、顔のわりに可愛げがない。……ま、無理にとはいわないさ。でも気が向いたら、ちょっと考えて欲しいな。今うちに来れば、カワイイ子と出会えるチャンス!……があるかもしれない」

「ふゥん――」京太郎はおざなりに相槌を打った。

「ほら、ちょうどあそこの卓で打ってる娘たちなんだけど。みんな、美人さんでしょ?」

 

 春金が指した卓は、なるほど確かに、四人の少女たちに囲まれていた。

 反射的に図書館で出会った姉妹の姿を連想する京太郎だが、無論、いるはずもなかった。

 

「ちょうど、クライマックスみたいだね」と、春金が呟く。

 

 局面は、長い黒髪の少女が、ポニーテールの少女に振り込んだ直後のようだった。

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール/ 11:35

 

 

南二局

花田 煌    :14600

石戸 月子(親):35200

南浦 数絵   :18900

池田 華菜   :31300

 

 

「え」月子はわが目を疑った。

 

 4巡目の出来事だった。

 ドラは{發}。対面から自風牌の{東}を鳴いた月子は、一向聴となり、初牌の{發}(ドラ)を切り出した。鳴かれる程度は考慮していた打牌だった。それでも己が先んずるという自負があればこそ、河に緑發を打ったのだ。

 しかし、

 

「ロン」

 

 ――それが、下家の南浦数絵に刺さった。

 

 南二局

 4巡目

 南浦:{二二五[五]①①77北北中中發} ロン:{發} ドラ:{發}

 

「8000」

 

南二局

花田 煌    :14600

石戸 月子(親):35200→27200(-8000)

南浦 数絵   :18900→26900(+8000)

池田 華菜   :31300

 

(はや)さで)

 

 ぐらり、と価値観がかしぐ音を、月子は聴いた。

 

(純粋に先をいかれた――)

 

 緩みはない。

 その心算だった。

 だが、実際には、南浦の聴牌気配を見落として、軽率な牌を打ち込んだのだ。

 

(また、わたしの緩手? 持つべきだった? 遅すぎた?)

 

 池田の、花田の目に、咎める色を月子は感得した(それはもちろん、彼女の妄想だ)。

 

(わたし、わたし……)

 

南三局

花田 煌    :14600

石戸 月子   :27200

南浦 数絵(親):26900

池田 華菜   :31300

 

 南三局

 配牌

 月子:{二二三五七八①①278白白} ドラ:{①}

 

 動揺冷め遣らぬまま迎えた南3局、南浦の切り出しは{中}(ホンチュン)――明らかに手が入っている。また本人にもそれを迷彩する気がない。

 

「ポンっ」

 

 と、{中}を鳴いたのは、月子ではなく花田だった。

 

 予期せぬ僥倖だった。これで手牌を晒さず、月子は池田の自摸筋を喰ったことになる。予想に違わず、次いで月子は有効牌を引き入れた。

 

 南三局

 1巡目

 月子:{二二三五七八①①278白白} ツモ:{白} ドラ:{①}

 

 {白}を引き、暗刻が揃った。しかし二向聴の速度を、今の月子は量れない。瞳はまだまだ浅い河へ向く。300点差の親である南浦に、少しでも遠い牌を残したい。だが、そんな推知が可能な巡目ではない。

 

(素直にいくしかない……{白}なら、ほとんど安牌みたいなものだし)

 

 打:{2}

 

 しかしその後、月子の手は一向に動かなかった。全般的に速く高い場が続いたこの半荘では珍しく、表面上は静かに巡目が進む。

 月子の焦燥は膨らむ一方だ。なまじ()えるばかりに、彼女には己の運の潮目が引いていく瞬間が手に取るようにわかってしまう。

 けれど、そんな苦境は、何度も経験していた。父や兄や、父の舎弟と、何度となく麻雀を打っていたのだ。その場で月子は、立派に打っていたのだ。父や兄に、及ばないまでもおさおさ劣らない戦績を収めていたのだ――。

 

 母が、壊れてしまうまでは。

 

(凌ぐ。凌いで見せる)

 

 そして、11巡目、満を持して親の南浦が牌を曲げた。

 

 南三局

 11巡目

 南浦:{■■■■■■■■■■■■■} ドラ:{①}

 

 打:{南(手出し)}

 

「立直」

 

(来た。また負けた)

 

 よくないイメージが月子の脳裏を去来する。目線は自然と、南浦の河を浚った。

 

 南浦

 捨牌:{( 中 )東九2⑨四⑧}

    {⑨6①}{横南}(立直)

 

(安牌は{①}(ドラ)だけ)

 

 南三局

 11巡目

 池田:{■■■■■■■■■■■■■} ドラ:{①}

 打:{南(手出し)}

 

 南三局

 11巡目

 花田:{■■■■■■■■■■} ポン:{中横中中} ドラ:{①}

 

 打:{九(手出し)}

 

(――{九萬})

 

 鳴くべきだ、と月子の感性は訴えた。

 が、喉が強張り、ついぞ彼女が発声することはなかった。

 

 南三局

 11巡目

 月子:{二二三五七八①①78白白白} ツモ:{③} ドラ:{①}

 

(無筋の{③}なんか……切れるはずもない)

 

 打:{①}

 

 そして、南浦の一発目が回った。

 

「――……っ」

 

 南三局

 12巡目

 南浦:{■■■■■■■■■■■■■} ドラ:{①}

 

 打:{①}

 

(安牌増やしてちょうだいよ……っ)

 

 続く12巡目も、南浦以外の三家は親の安全牌を切り落とした。

 そして、いち早く安全牌が尽きたのが月子である。

 

 南三局

 13巡目

 月子:{二二三五七八③④78白白白} ツモ:{③} ドラ:{①}

 

「失礼……」

 

 搾り出すように発言して、月子は沈思した。

 

(壁がない。ノーチャンスにも賭けられない。筋すらない。もう{白}を落とすしかない。仮に――打って刺さるなら単騎。{中}と{南}を切っておいて、{白}で待つ理由がない。あの子の感覚でそれを当てられたなら――もう巻き返せる気がしない。大丈夫、と思う。当たらない、と思う。でも、絶対じゃない)

 

 取り留めのない思考が、月子の脳裏で錯綜する。考えているようで、それは雑念でしかなかった。

 事実上、月子は切り出す牌を決めている。

 

(――ああ。麻雀って、こんなに苦しかったっけ。ああ、わたし、わたし――)

 

 打:{白}

 

 思考を放棄した散漫さに押し出された牌に向けて、

 

「ロンっ――!」

 

 花田煌の発声が掛かった。

 

「…………はい」

 

 月子は半ば意外、半ば諦念とともに上家を見やる。

 

 南三局

 花田:{四四四七八九發發發白} ポン:{中横中中} ロン:{白} ドラ:{①}

 

「――12000ですっ」

 

南三局

花田 煌    :14600→27600(+12000、+1000)

石戸 月子   :27200→15200(-12000)

南浦 数絵(親):26900→25900(-1000)

池田 華菜   :31300

 

(――こんなに、麻雀が、下手だったんだ)

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール/ 11:45

 

 

南四局

花田 煌    :27600

石戸 月子   :15200

南浦 数絵   :25900

池田 華菜(親):31300

 

 迎えた南四局(オーラス)に、荒波が立つことはなかった。苦し紛れに月子が狙った清一色が成就することはなく、8巡目、

 

 南四局

 8巡目

 池田:{②③④⑤⑥⑦23456北北} ツモ:{1} ドラ:{北}

 

 池田が面前で平和を自摸和了し、終了となった。

 

「ツモ。2600オール――アガりやめだな」

 

南四局

花田 煌    :27600→25000(-2600)

石戸 月子   :15200→12600(-2600)

南浦 数絵   :25900→23300(-2600)

池田 華菜(親):31300→39100(+7800)

 

結果

花田 煌    :- 5.0

石戸 月子   :-17.4

南浦 数絵   :- 6.7

池田 華菜   :+29.1

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール/ 11:50

 

 

「さて、けっこう長引いちゃったな」と、池田がいった。「時間的にはお昼だけど、どうする?」

 

 月子は反射的に声を上げていた。

 

「もう一回」顔を伏せたまま、いった。「もう一回だけ、お願い」

 

 池田は肩をすくめた。

 

「べつに、昼飯食べてからでもいいと思うけど? おまえ、熱くなってるし」

 

 次の言葉を発するには、深呼吸が必要だった。

 

「お願いします」

 

 深く、月子は頭を下げた。

 同い年の子供相手に頭を下げたのは、恐らく彼女の人生で初めてのことだった。

 何を意固地になっているんだ、と月子の内側で諌める声がある。

 

「――わかった」池田は応じた。「トップが否とはいえないし、あたしはいいよ。ほかのふたりは?」

 

 それぞれ、快諾が返ってきた。

 

「だってさ」という池田に対して、月子は答えることができない。

 

 本当は、礼を言うべきなのはわかっている。

 けれどもいまの月子に、そんな余裕はなかった。

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール/ 12:05

 

 

 立て直しを期した月子に、牌が微笑むことはなかった。それどころかより徹底的に、彼女は打ちのめされる結果となった(月子はこの展開を半ば予期していた)。

 

 東一局、起親の月子は思うように鳴きを入れることも出来ず、ようやく役牌を食い入れた後も、二度の処理ミスを繰り返した。あとは前回の焼き直しだった。池田華菜が10巡目に仕上げた黙聴(だまてん)の倍満に刺さり、一瞬で16000点を失った。

 

 東二局も、池田が吹き上がった。6巡目で掛かった立直の筋引っ掛けに、月子が一発で放銃したのである。結果追加で8000点を失い、残り点数は1000点となった。

 

 もはや、月子に表情はなかった。摸打に気概を込めることもない。ただただ、彼女の心は苦しいばかりだった。何をしても、どう打っても、勝利へのイメージが湧かないのだ。

 

 長引いた一回戦と異なり、二回戦の結末はあっさりと訪れた。

 

「ツモ――2000オール。あんたのトビで終了だ」

 

東三局(終了)

花田 煌    :25000→23000(-2000)

石戸 月子   : 1000→-1000(-2000)

南浦 数絵   :25000→23000(-2000)

池田 華菜(親):49000→55000(+6000)

 

結果(2回戦終了)

花田 煌    :- 7.0(小計:-12.0)

石戸 月子   :-31.0(小計:-48.4)

南浦 数絵   :- 7.0(小計:-13.7)

池田 華菜   :+45.0(小計:+74.1)

 

 

 戦績の収支を見つめて、月子はそっと吐息した。

 

(2連続ラス。おまけに一回は――トビ。まったく……あれだけ大口叩いて、道化にもほどがある、ってやつね)

 

 ふふ、と自嘲の笑みを浮かべる。

 

「それじゃ、約束どおりお昼にしましょうか。――ちょっと、わたしはお手洗い」

 

 やや早足になって、かろうじて優雅に、月子はきびすを返す。

 

「あっ、あのそっちだんしと」花田が何かを言いかけたが、月子は足を止めずにトイレへ向かった。

 

 ベージュの押し戸を開けて、トイレの敷居を跨ぐ。

 真っ直ぐ個室を目指す。

 戸を引いて中に這入り込む。

 鍵を閉める。

 パンツを下ろすこともなく便座に腰を落とす。

 

 月子は両手で顔を覆った。

 

 深呼吸した。

 幻聴が聴こえた。

 

 ――それがかわいそうだと思っただけよ。

 

 誰あろう、二時間前の石戸月子の台詞だった。

 

(うわぁあああああ! 死にたい! 殺したい! 死ね! 殺してっ! さっきのわたし……っ! ああああーっ! あぁ、あっあっあっ、うぅ、ふっ、ふぁあーっ、ふあーん! ああああーっ! わああああーっ!)

 

 羞恥と屈辱の余り、涙がこぼれてきた。鼻水も出た。だが嗚咽はかみ殺した。どこで、誰に聴こえるかもわからない。他人に泣いていることを気取られるほど月子が忌むものはないのである。

 数分ほど心中で絶叫を上げ続け、心が平静を取り戻すのを待った。

 

「……ふう」

 

 ようやく当面の衝動をやり過ごすと、月子は立ち上がった。中座が長引けば気取られる恐れがある。負けて悔しくて泣いたと思われるのは我慢がならない。

 が、正直、すでに月子のモチベーションは底を打っていた。

 

(……帰っちゃおうかしら)

 

 その場合春金の面子を潰すことになるし、負け犬の汚名を背負う羽目にもなるが、少なくともこれ以上自信を失うことはなくなる。何よりも自分を大事に思う石戸月子という少女ならではの保身方法であった。

 

 麻雀など、運不運がもっとも重要なゲームであることは月子も理解している。

 だからこそ、それを手玉に取った月子は勝ち続けることができていた。

 

 だが今日、自らの麻雀の底の浅さを見せ付けられた。

 

(というか、言い訳じゃなしに、本当に鈍ってるわね、わたし。それに何より、久しぶりの麻雀であの池田って子の相手は、ちょっと無理目だわ。正直前に座られてるだけでもつらい。お父さんの近くにいるのがしんどいから逃げてきたのに――同じようなのを相手にしているんだから、世話がないわ)

 

 いわゆる「運勢」に対する月子の感覚は、論理では説明がつかないほどに際立っている。

 

 月子がいまの家を離れたいと思うもっとも大きな理由は(純粋に精神的な負担もあるにせよ)、あの家に吹き溜まる不運と、それを相殺する父の運勢にあった。

 

 波間に漂い続けると酩酊するように、大きな運を持つ存在に近づくと、月子は同じように酔ってしまう。三半規管が狂うのだ。酷い場合には、嘔吐さえ伴う。常人と接する場合ですら不快感を覚えずにいられない月子にとって、父や池田のような存在は毒でしかなかった。

 

 もし池田に抱きつかれでもしたら(そんなことは絶対にしそうにないが)、月子は一瞬で卒倒する自信がある。

 

「はあ……」

 

 思い付きには後ろ髪が引かれるし、今日の池田に勝つ手は思い浮かばない。それでも人生においては、気の進まない道に身を投げる必要があることを月子は知っている。

 洟をひとすすりして目元を拭うと、勢い良く個室の戸を開いた。

 

 ――そこで、ひとりの少年と出会った。

 

「あ?」

「え?」

 

 

 ▽ 長野県 信州麻雀スクール・男子トイレ/ 12:23

 

 

 女子としてはかなり長身の月子より、わずかに下に少年の目線はある。柔らかそうな癖毛の下の顔は、それなりに整っていると見えなくもない。ただ子供らしからぬ疲れた光がその目には宿っていて、全ての印象を台無しにしていた。

 

「……」

「……」

 

 今小用を済ませたばかりと思しきかれは、男子トイレの個室から飛び出してきた月子に少し面食らっているようだった。他方月子はというと、一瞬で状況把握したあと、反応に窮して身を固めている。少年が手を洗い、ハンカチで手を拭き、立ち去る様を黙って見送り、ようやく一息ついた刹那、

 

「おい」

 

 すぐに少年が戻ってきた。

 

「ふわあ!」と変な声で驚く月子である。

「ほら、これ」

 

 少年が手渡してきたのは、熱いおしぼり(アツシボ)である。基本的に他人が触れたものには触れたくない月子であるが、さすがに彼女も少年の意図はわかった。

 ちらと横手の化粧台を眺めれば、なるほどそこに映る少女の瞳は真っ赤である。瞼もやや腫れている。

 ようは、顔を拭けということだと月子は受け取った。泣いている女の子に対する少年の対応は、同じクラスの動物みたいな連中よりだいぶ月子の好みと言えた(というよりも、スマート過ぎて胡散臭いほどだった)。

 しかし、

 

「誰も、何もお願いなんかした覚えはないけれど」

 

 それでも跳ね除けるのが石戸月子である。

 

「そっか、わるかったな」少年はあっさりと引き下がった。「じゃあ、片付けておく」

「まって」そうすぐに退かれると、追いすがりたくなるのも月子だった。基本的に天邪鬼なのである。「……もらうわ」

「おう」

 

 少年は気安く破顔した。瞳の印象を裏切る、年相応に幼い笑みだった。

 受け取ったおしぼりを、月子は顔に当てる。心地よい熱が、瞼を通じて眼球に沁みていく。

 不快感はない。

 嘔吐感などかけらもない。

 

 あれ、と月子は思う。

 

(――なんで、)

 

 少年の手に、一瞬触れた。彼の手が触れたおしぼりを顔に当てた。

 それほどではなくても、少しは『酔う』と思っていた。それは月子にとってもはや人生と一体化した感覚だった。他人とは、例外なく、月子にとっての異物でしかなかった。親も、双子の兄ですら、同じだった。誰もかれもが、月子の『波』に干渉する異邦のひとたちだったのだ。

 

(――なのに、)

 

 まるで平気だった。

 どころか、頭がかつてないほど冴え渡っていた。

 

(――なにこれ、)

 

 月子は、生まれて初めて、いま、不快感を覚えていなかった。

 

 肌に這う虫のような異物の感触も、絶え間なくこめかみを苛む痛みも、いつだって喉元に引っかかる異物感も、気を抜くと吐きそうになる目眩も、しじゅう付きまとい続けた苛立ちも、

 何もかもが、忽然と消えた。

 

 世界に自分以外がいなくなる日まで付き合うつもりだった感覚が、消失した。

 

(治った、の?)

 

 力いっぱい、おしぼりを握り締める。

 月子は目を剥いて、立ち去りかけている少年の襟首を掴みとめた。

 

「待ちなさい」

「おわっ、な、なんだよ!」

「ちょっと来て」

「え、どこに、えっ!?」

 

 月子は少年を引きずってトイレを飛び出す。あたりをうかがう。手近なところに、手持ち無沙汰そうにしている花田が立っていた。ちょうどいい、と月子は思った。

 花田もまた、月子を目にして顔を綻ばせた。

 

「あ、あの、石戸さん、よかったらお昼、ごいっしょに、」

「いいところにいたわ。スバラさん」

「花田ですけど!?」

「失礼」月子は咳払いした。「花田キメラさん」

「煌! き・ら・め、ですっ! 私なにと合成されちゃってます!?」

「ちょっとお手を拝借」月子は意に介さず、花田の手を取った。

 

 小さく柔らかい女の子らしい手だ。指先の麻雀ダコだけが、硬い手触りだった。

 好ましい手の感触だが、

 

「おえっ」嘔吐感は、今度こそ月子を襲った。

「えーっ!?」ショックを受けたように立ちすくむ花田である。

 

(治った……わけじゃない)

 

 空えずきをやり過ごし、改めて引きずってきた少年に目を向ける。今さら少年の存在に気づいたらしい花田が「どちら様?」と問う。

 

 同じ疑問を、もっと根本的に、月子は抱いた。

 

「あなた、人間?」

 

「人間だよ」と少年は即答した。「人間の、幽霊みたいなモンだ」

 

「人間でも、幽霊でも、なんでもいい……」震える声で月子はいった。「……あなた、名前は?」

 

「え、須賀京太郎」今さらながら、目の前の少女が際物だと気づいたらしい少年が、迷いながら自分の名を名乗った。

 

「そう、須賀、京太郎、くん」

 

 その名前を、月子はかみ締めるように呟いた。

 それから、決然と京太郎を見つめた。

 

「こ、これはいったい」外野で花田がどきどきしていた。「もしや、ラブ的なあれでしょうかっ」

 

「須賀くん」

「な、なに?」

「お願いがあるわ。いきなり会って、なんだけど、はしたない子って、思うかもしれないけど……どうしても、どうしても聴いて欲しいお願いがあるの……っ」

「なんだよ……」

 

 月子は胸に手を当て、更に京太郎の襟首を握る力を強め、万感を込めて告白した。

 

「腕を切り落として、わたしに頂戴」

 

「警察呼んでくれ」京太郎は冷静に花田へ訴えた。

 

「お願い!」月子は必死だった。「お金なら、お金なら払うから! 一生かかっても払うから! わたしの安らかな日常のために腕を頂戴! 足でもいいから! なんならホームヘルパー雇って一生お世話するから!」

「誰か、ちょっと、誰か。なにこいつ、頭おかしいんだけど。っていうか力つええんだけど」

「ゆ、ゆびっ。指ならいいでしょ!? それか耳とか! ねっ、それならたぶんそんなに問題ないわ!」

「え、いくらくれんの」

「ひゃ、ひゃく……せんえん」

「思いなおしてそれかよ。出直して来い」

「出世払いするから!」

「人の体仕分けようってやつが何に出世するつもりなんだよ……」

 

「ナニコレ」

 

 呆然と立ちすくむ花田の肩を、背後から叩くものがあった。

 池田華菜である。

 

「ごはん食べないの?」

「いや、そうしたいのは山々なんですが……」対応に窮する花田である。「石戸さんのイメージが。うわーショックー」

「そうか?」池田は首を傾げた。「あたしは一目であいつの頭はおかしいって思ったけど」

「とりあえず、あのふたり、止めませんか」おずおずと提案したのは南浦数絵であった。「なんか怖いことになりそうですし……」

 

「おーい」そこに携帯電話を片手に持った春金がやってきた。「出前とるよー。何がいい?」

「ミソラーメン」と池田はいった。

「中華丼でお願いします」と南浦はいった。

「とんこつラーメン」と花田はいった。

 

「月子さんは?」

「腕とか指とかがいいらしいよ」池田が笑いながらいった。

「カニバルだなあ」春金が顔をしかめる。「適当になんか頼んでおくか」

 

「先っちょだけ、先っちょだけでいいから!」月子は見苦しく喚き続けた。

 

「考えておくよ」

 

 辟易した調子で、京太郎は呟いた。

 




2012/7/29:誤表記修正
2012/9/1:誤字修正
2013/2/18:牌画像変換

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