27.あたらよムーン(弦)
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・カフェ ムース/ 14:18
感情が千々に乱れて心の平衡が失われるような、そんな動揺はなかった。
判りやすく声を上げることも涙を流すことも彼女はしない。ただ母が死んだという巨大な一石はとても高い飛沫を上げて月子の中に沈み込み、余裕があるとはいえない彼女の容器の底へまっしぐらに落ちていく。心の水位が上がり、月子は名状できない息苦しさを覚える。双子の兄の言葉は、彼女の体の真ん中にある何か重要な回路のようなものを大方塞いで見せた。
月子は、
(なるほど)
と、思った。
会話が途切れたタイミングを見計らったウエイターが持ってきた銅製のタンブラーを、かたい面持ちで見下ろした。結露した器の中では氷が涼しげに浮かんでいる。
水の味はわからなかった。
喉を抜けていく温度も曖昧だった。
それでも、
「そうなんだ」
と、月子はいった。
古詠が眉根を寄せた。
「『
二の句はなかった。悲しくないのか、とも、他に言うことはないのか、とも古詠は訊かなかった。月子が想像した通りだった――間を空けた対面でも、月子は兄の性格(あるいは性質)を熟知している。彼が他人を気遣うことなど決して無いと知っている。
古詠が月子の感想を掘り下げないのは、だから彼の気遣いではない。単純に、母を亡くした妹の心境になど興味がないのだろうとあたりをつけた。
「まァ、
(やっぱり)
月子は無表情を保ったまま、確信を深める。無意味な満足感が彼女を慰める。けれどもふと気づけば、タンブラーに這わせた指は少しばかり震えている。微震が氷と水に伝い、月子が制御しきれない感情の一部を代弁している。恐らくその場にいる全員が月子の押し殺した感情に気づいていたけれども、ひとりは純粋に興味がなく、ひとりは言葉を掛けあぐねていた。
最後の一人、つまり父である新城だけが、月子にいった。
「悪かった」
「謝るのは勝手よ、『おとうさん』。でもわたし、謝ってほしいとは、どうも思ってないみたい」月子は言下に応じた。どこか決まりきった台詞を読み上げているような空々しさがつきまとった。「わたしはこんな性格だし、いまはともかく、少し前まで余裕もなかったから、……べつに、間違ってはなかったんだと思う。ただ、やっぱり、黙っていてほしくは、なかったの」
月子はため息をつく。
息継ぎのように間を取る。
思考さえ喘いで、矛先が定まらない。
(――自殺か)
片手で顔面を覆う彼女は、自身が負った傷の深さを計っている。
神妙な三人の様子を前に、ふいに大声を上げて暴れ出し、身も世も無く泣き叫びたくなる。それは悲哀の所産ではない。暴力的な自棄衝動か、自虐的な好奇心が齎す空想である。
積みあがっている何かを発作的に破壊したくなることと、そんな内面を億尾にも出さず振舞うことの平凡さを、いまの石戸月子は心得ている。
誰にでも、何もかもを擲つ自由がある。
そして、それを自制する力を持っている。
月子はその力を理性と呼ぶと知っている。
母からはその力が欠けてしまったのかもしれない。
自分や古詠が、そして父が、母から進む力を奪ったのかもしれない。
「ねえ、もういいかな」平板な声を上げたのは古詠だった。「それなりに驚いただろうし、悲しくないだろなんてことは言わないけどさ、母さんはどっちにしたってもう月子の前からいなくなってずいぶん――一年以上も経ってるわけじゃないか。それが永遠になっただけで、べつに今の何が変わるわけでもないんだ。だからやっぱり、月子は父さんに感謝したほうがいいんだよ。きっとね」
「……」
月子は、凝然と兄を見返した。母に関する葛藤が一瞬吹き飛ぶほどの驚きが、彼女の胸を打ったのである。まがりなりにも古詠の口から慰めに似た言葉が出たことは、月子にとってそれほどの衝撃だった。
「母さんは」と、古詠は(月子が思う)彼らしくも無い強い語調で続けた。「自分から降りたんだ。いろんなものをほったらかしにして途中で止めたんだ。誰がいちばん悪いのかって言えば、それは母さんなんだよ」
「古詠」老女が、月子さえ身を竦ませるような鋭い声を発した。
「いわせてよ、お祖母さん」古詠は譲らなかった。「それでも母さんを責める資格はぼくらにはない。家族のぼくらにないからには、この世の誰にもたぶんない。
古詠が周囲を見回した。
視線をまず受け止めたのは、新城だった。
「たとえそれが正しくても、おまえだけが決めることじゃない。おまえだって、そんなふうに考えられるようになるまでには時間が必要だっただろう」
と、彼は言った。
「まあ、ね」
「月子にも、少なくとも同じくらいの時間が要る」
反問を許さない断固とした口ぶりだった。古詠はばつが悪そうに口をつぐんだ。
石戸の祖母が、場を取り成すように咳払いした。
「きょうは大事な話があったのだけれど――日を改めたほうが良さそうですね」
「いえ」と、新城がかぶりを振った。「先送りにしても意味がない。何も今日決めるというわけでもない。本題があるなら、それは今切り出すべきでしょう。いま言ったことと同じです。考える時間は、あればあるほどいいとは言わないが、少なくとも無いよりはましだ」
「むかしの貴方には、考える頭があったようには思えませんでした」
「子供らの手前、それはおたくの目が曇っていたからだとしか言えませんな」
(うえっ)
唐突かつ鋭すぎる皮肉の応酬に、月子は思わず新城と祖母の顔を見比べた。父がほんとうの意味で激昂したところを月子は知らない。ただ、本能的に絶対に怒らせてはいけない人種だと感じていた。
そして、父に対してためらいもなく挑発を仕掛ける祖母も、同種の存在だと思った。
「――まあよいでしょう」はじめに折れたのは祖母だった。「古詠の言い草ではありませんが、娘と貴方のことはそれこそ終わってしまった話です。それよりも、子供たちについての話を始めなければならない」
「同感です」
応じて口元に煙草を運びかけた父の手から、
「一本頂きます」
あまりにも自然な動作で、祖母が煙草を奪った。テーブルに備え付けてあるマッチを擦り、火を点し、紫煙を燻らせマッチの火を消すまでの一連の仕草が、見蕩れるほど堂に入っている。上品な見目と雰囲気に似つかわしくない所作を目にして、月子は目を瞬いた。
「おいバアさん」父がやや崩れた口調で呟いた。
「――不味い」煙を吐き出しながら、祖母は無表情で評を下した。「相変わらず安い煙草を吸っていますね、直道さん。――まア、良いでしょう。たしかに貴方の言う通り、先送りにしても意味はあまりないことです」
そういって、彼女は手鞄から一葉の写真を取り出し、月子と新城に見えるよう向きを直してテーブルに置いた。
(――子供の頃の母さん?)
写っていたのは、一瞬月子がそう見間違えるほど母の面影を残した少女だった。もちろん良く見れば随所に違いは見て取れる。ただ瞬間的に錯視する程度には似た造作である。
写真の中央をその少女が占め、向かって右隣には古詠、左隣には後ろ髪をお下げにした少女が立っている。三人は子供らしい遠慮の少ない距離感でファインダーに収まっていた。牧歌的な光景だった。幸運を切り取ったような、そんな微笑ましいスチルである。
祖母が、細く長い指で写真に写る見知らぬ少女を示し、
「中央にいるのが霞」と、月子に向けて語った。「私の孫で、つまりあなたと古詠の従姉でもあります。左にいるのは神代小蒔さま――長じれば神境に住まう女子らの要となるかたです」
「……きれいな子たちですね」
なんとなく感想を求められているような気がして、月子は当たり障りの無い言葉を返した。
「気立てもよいですよ」祖母は歯切れよく請け負った。「難しいところはあるでしょうけれども、きっと貴女とも仲良く出来るはずです」
「――」
その言葉の意味するところを、もちろん月子はすぐに悟った。
とっさに、父に横目を送った。泰然と目線を返され、月子は思わず瞳を逸らす。次いで行き先が古詠に向かう。彼は白けた顔を漠然と月子の左方に向けている。ふたりとも、何かを口出ししようとする気配はない。最終的に祖母へ意識を落ち着かせて、月子はやや硬い声音で問いを発した。
「あの、それって、つまり?」
「古詠といっしょにうちの子になる気はありませんか?」
「は、……」
予測はついても、うまい切り返しまでは都合よく浮かばなかった。
「あの、」
月子は答えあぐねる。
心はまず否定に向いた。
けれども明確な理由は見当たらない。
不慮の報せが立て続けに訪れて、月子の思考は飽和しつつあった。
「えっと、それは」
「あなたの」祖母は柔らかく、それでもきっぱりと畳み掛けた。「
よく砥がれた刃物のように、祖母の言葉は鮮やかで鋭かった。
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 14:18
インターフォンはとりあえず無視した。それでもめげずに音は鳴り続けた。騒音が対局の続行に支障を来すどころか、隣近所からの苦情を招くまであまり猶予はないように思えた。
『……』
当然ながら照、咲、花田および池田の無言の要求は卓を立てた京太郎に向いた。
が、かれもまた困惑している点については彼女らと同様だった。
京太郎はこの施設についての扱いは月子に一任していたし、明るみに出るといろいろな問題を招く可能性があることも言い含められている。とはいえいまマンションの7階は全室無人になっているという話だったし、もともとこの部屋で賭場を開帳していたオーナーは既に別の箱へ移っている。マンション麻雀のオーナーにとって客との繋がりや信頼関係は何より重視されるものであり、少なくとも
(まあ、いいか)
現実的には、止まない呼び出し鈴を無視し続けることはできない。とりあえず応じることに決めた京太郎は、覗き窓越しにドアの向こうにいる来訪者の姿を確かめた。
(……あ?)
そこに見知った顔をふたつ認めて、かれは顔をしかめながらドアを開く。
「おひさしぶり」と、南浦数絵はいった。
「よう、負け犬」と、片岡優希はいった。
「……ああ」
京太郎は答えに窮して、とりあえず二人を室内に招きいれた。
あれ、と京太郎の背後から二人の姿を目にした池田と花田が声を揃える。
「おぉ……久しぶりだし!」
「その節はどうも……ホントに麻雀やってるのね、――と」
コートを脱ぎながら様相を見渡した南浦が、卓に座るふたりの少女を目に留めて、顔をしかめた。
「また女の子ばっかりね、須賀くん。相変わらずチャラいわ」
「いきなりそれかよ。……たまたまだよ」
「それで、どの子が本命なの?」冗談交じりに南浦がいった。
京太郎はためらいなく照を指差した。
「あのひと」
簡潔な回答が、室内を一瞬で完全な沈黙に陥れた。
南浦の苦笑が凍り、片岡は収支表を片手に聞き流し、池田と花田は意味深に目配せを交し合い、咲は凝然と照を振り返り、照は周囲の注視を完全に黙殺して何も聴こえていない風を装った。
『……』
結果、全員が京太郎の発言をなかったことにした。
「さ」と、気を取り直した京太郎は照、咲に声を掛けた。「中断、悪かったな。続き、やろうぜ」
「まて」
と、京太郎を制したのは、収支表を手に提げた片岡である。満面に苦渋を浮かべて、彼女は紙面に記された京太郎の収支状況を突きつけた。
「……まじめにやってるのか?」
「やってる」京太郎は即答した。「おれは、全力で、勝ちにいってる」
「それで、これか?」片岡が犬歯を剥きだしにして唸った。「いくら負けてるんだじぇ、これ――」
「五回戦が終わったところでマイナス333。要するに、もう16650円溶けてる」
「さんびゃくぅ!?」
喫驚する片岡を尻目に、南浦が首を傾げて池田に問うた。
「点5の五回戦で、須賀くんがそんなに? ウマは?」
「ワン・スリー。で、チップが2000点ぶんだし。おまけに割れ目ありのトビなし」池田がいった。「このルールなうえに須賀の体勢がかなり悪いのもあるけど、何より相手が悪い。
「割れ目……なるほど」照と咲に流し目を送って、南浦は得心したふうに頷いた。「でも、それにしても……ちょっと、信じられないわね。須賀くんがとても強いという気はないけれど……」
「たしかに、要所で少し緩いところは目立つね。ふだんのアイツらしくないかもしれない。それだけ気負ってるんだろ。じゃなけりゃ――ま、どうだろう」
外野の遣り取りを耳に入れながら、京太郎は片岡を避けて卓へ向かう。体にはやや倦怠感が付きまとっていた。夜っぴて牌とにらみ合っていたことも影響しているだろうし、先に患った風邪で崩れた体調がまだ完全に癒えていないせいもある。
(金はもっても、身体がまずいかもな)
深々と息を吐いた京太郎の肩を、掴んだのはやはり片岡だった。
「……わたしとかわれ」
「あ?」京太郎は、険相で振り返った。「なんだと?」
「だ、から」やや怯んだ様子で、片岡がなおも言い募った。「わたしが打つ。負けっぱなしはごめんだじぇ。せっかくあのお姉さんがいるんだから、この前のクツジョクを返すじょ!」
「……」
京太郎は天を仰いで瞑目した。いくつかの言葉が頭を過ぎった。『無理だ』『勝てるわけが無い』『やるだけ無駄だ』『金は持ってきてるのか』――すべてが不適当で、大方は京太郎の身に跳ね返ってくる物言いだった。
改めて、京太郎は今日の自分を省みる。五回の半荘でアベレージマイナス66オーバーは、端的にいって異常な沈み方である。ルールの特性があったとしても、京太郎自身麻雀を始めて以来ここまで短時間で負けが込んだのは始めての経験だった。それほどに照が強いと見るべきか、話にならないほど自分が弱いと見るべきかは判じかねた。両方とも妥当な理由だったからである。
片岡が不甲斐ないと感じるのも無理はないと思った。
それでも、彼女に席を譲ることはできない。
それだけは、どうしてもできない。
「わるいな、おまえとは替われない。この面子でなきゃ、意味が無いんだ」
と、京太郎は言った。
「――なんで」片岡が唇を噛んだ。「じゃあ、勝てるのか? 逆転できるのか? ぜったいに?」
「麻雀に絶対は無い」京太郎は、それだけはきっぱりと言い切った。「でも、そいつを逃げ口上にはしたくはない。――正直に言えば、難しいんだろうな。おまえが打ったほうがずっとマシかもしれない。前の時だって、結局照さんを追いかけられたのは月子とおまえだけだった」
「なら、」
「でも、今日はだめだ」
疲れを声に滲ませて、京太郎は片岡を諭した。
「ここはおれの卓だ。おれの勝負だ。おれの麻雀だ。どんだけひでえ負けだろうが、それはおれのもんだし、何よりまだ、勝負の途中だ」
「むゥ……」
「やりたきゃ、おれのあとにやれ。そんときは、おれも口出しはしない」
片岡が黙り込む。しかつめらしく口を結んで沈思する。袖が余った赤いセーターを握り締めて、彼女はとても重大な決断を前にした人のように迷いを見せた。
「頼むよ」
と、京太郎はいった。
「おれの勝負なんだ。止めないでくれ」
「…………わかったじぇ」
見開いた片岡の瞳に、星のような光が舞っていた。やおら右手を振り上げると、勢いをつけて京太郎の背を叩く。
景気のいい音を鳴り響かせて、片岡はこう言った。
「――勝てよ!」
「がんばるよ」
軽く応じて、今度こそ京太郎は卓に向き直る。
花田は微笑ましげに眼を細めていて、京太郎はどことなく居心地の悪さを感じる。
すわりが悪そうに何度も尻の位置を調節している咲は、もの問いたげな空気を醸していた。
そして、照が、座る京太郎を見つめている。
「いつまでやるの?」
と、彼女は言う。
「終わるまでやるんだ」
と、かれは答える。
「だれかの持ち金が尽きるまで?」照は問う。
「だれかの気力が尽きるまでかもしれない」京太郎が言う。「とにかく、打てる限り勝負は続く。飯は食ってもいいけど、終わるまでは打ち続ける。日が暮れても、夜が来ても、明日になっても、終わらないかぎり麻雀はつづく。そういう勝負だ。最初に言ったとおりだ」
「なるほど」
照が頷き、もう一度「なるほど」と繰り返した。
「それでも」と、彼女は言った。「京太郎は私には勝てないかもしれない」
「なァ、照さん。それを決めるのはあんたじゃない。あんたは強くておれは弱い。それは動かないだろう。でもそうじゃないんだ。そういうもんじゃねえんだよ。なあ、照さん――おれは、ほんとうは、勝ち負けじゃなく、あんたに
「よくわからない」
応じる彼女の瞳は無機質だ。
まるで、鏡のようだった。
京太郎はその鏡を正面から覗き込んで問うた。
「照さん、麻雀、楽しいか?」
「よくわからない」
「なら」
と、かれは言った。
「おれが教えてやる」