ばいにんっ 咲-Saki-   作:磯 

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26.あたらよムーン(下)

26.あたらよムーン(下)

 

 

 ▽ 12月29日(日曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 23:44

 

 

 板を一枚挟んだ卓の内側で、自動的な機構によって136枚の牌が攪拌される。乱雑に打ち捨てられた牌はドラムの上で洗われ、磁石のリングに絡め取られて卓の四隅に設えられた吸い上げ口に一枚ずつ滑り込んでいく。レールの上を牌が回り、一山を十秒ほどで積み上げる。それが四方其々で繰り返される。

 

 京太郎はその様を繰り返し確認する。牌がどのように扱われ、どのようにかき混ぜられ、そして山として積まれていくのかを細大漏らさず観察する。疑問に感じたことはメモを取り、ある程度まとまると、夜半であることを気にもせず春金清に電話を掛けて(スクールの講師で麻雀納めの真っ最中だった)訊ねた。集中力が落ち、眠気が思考を捉えても、かれは舌を噛んだり凍てつくような夜気を身に浴びたりすることでやり過ごした。ひたすらに自動卓が牌をかき混ぜ、積み上げる様を凝視し続けた。

 

 そんな京太郎を、月子は理由もなく見つめていた。部屋には二人きりだったけれども、ふたりの間に交渉はなかった。京太郎の意識は愚直な機械にすっかり集中していた。

 かれの師匠筋として、行動の無意味さや不可解さを咎めていないわけではない。月子の(やや過剰な)諫言はもうすでに一通り京太郎へ吐き出しきっている。それでも京太郎は自動卓を何度も回すことを止めなかった。その夜に降雪はなかったけれども、寒さは一入だった。灯油ストーブは休みなく働いていて、まったく言葉が行き交わないその空間では、へたをすると京太郎や月子よりも人間めいて見えた。

 

「何がしたいの」

 

 と、月子はいった。そこではじめて、咥内が乾ききっていることに彼女は気づいた。舌は縺れて発言は不明瞭だった。音はおそらく、京太郎の耳には届かなかった。そうと察して、けれども月子は言を重ねるような気にはならなかった。質問を口に出してみてから、彼女は自分が求めているものが回答ではないと気づいたからである。京太郎が口にするであろう言葉など、聞くまでもなく月子には想像がついた。かれはただ単純で完結な答えを寄越すに決まっていた。

 

 数日前、勝ちたいと、かれは病み上がりの身で月子にいった。月子はその意思の指向を知りつつ空とぼけた。勝てるわ、と答えたのだった。基本を学び、技術を磨き、そして相手を選べばよい。月子は京太郎の言葉を意図的に曲解した。そうする以外に選択肢はなかった。

 

 もちろん、京太郎は()()()に勝ちたいに決まっていた。

 月子はその求めに応じられない。

 

 彼女は、不可能を可能にする魔法使いではない。月子から京太郎へ伝えた麻雀の技術に、特異な内容は何一つ含まれていない。たとえば月子自身が駆使するような『運の偏差』など概念としてすら持ち出していない。ましてやそれを前提とした打牌など教えるはずもない。月子が京太郎と交換した時間は、どこまでも当然で現実的な、地に根付いた論理に満たされている。そこにはいつ失われるともしれない異能や不可視の不思議による揺らぎはない。常識の外に位置するような打ち手を向こうに回して打ち勝つ術など含まれていない。

 

 京太郎の願いは、だから祈りとともにしか存在できない。

 たとえば、幾度も牌を打ち交わせば、かれが局地的に照を上回ることもある。それは京太郎や照の実力に結びつかない厳然たる運の支配する領域の出来事である。それが道理である。

 しかし、『幾度』が『何度』を指すのかを明言できるものはいない。

 京太郎が宮永照に勝利する確率は数学的にはゼロではない。

 けれども運命的に皆無なのかもしれない。

 勝利することを規定された存在が、この世にはいるのかもしれない。

 

(……ばかばかしい)

 

 月子はかぶりを振る。益体のない思考を打ち消す。ソファのうえで膝を抱えて左右に身体を揺らしては、漫ろに視線をさまよわせて最終的にまた京太郎へ目を戻す。長い髪で手遊びを試みる。京太郎を見る。髪を編む。結ぶ。ほどいてまたまとめ、京太郎を見る。少年は牌と機械と戯れている。急きたてられるように必死に、取り付かれたように黙々と、かれは何度も位置を変えては席に座り、部屋の調度を難しい顔で眺める。照明の位置を変える。

 大真面目に、馬鹿馬鹿しいことに取り組んでいる。

 

 少年の横顔は、修辞で飾ればひたむきと評せないことはない。ただ実際には、あまりに切迫していて、およそ十歳に差し掛かったばかりの子供が見せるような顔ではなかった。

 

 須賀京太郎が、これまであまり見せなかった、剥き身の感情が宿った顔だった。

 

 かれと出会って半年近くが過ぎた。その間、月子がもっとも時間と空間を共有した他人は、間違いなく京太郎である。

 だから須賀京太郎について、石戸月子が知りえたことは少なくない。初めて遭遇した違和感を覚えない他人である少年は、月子にとって新しい景色への窓そのものだった。かれと麻雀を通して、月子は友人を得た。花田煌と池田華菜は、(月子は決して口に出してそれを認めたりはしないが)いわゆる親友に分類された。あの夏の日に三人の少女と一人の少年に出会って、長らく停滞していた月子の時計は刻みを再開した。

 そんな存在が、月子にとっての京太郎である。

 

 かれに関することならば、とくに理由がなくとも月子は知りたがった。京太郎の自意識に触れない範囲で、彼女はかれを掘り下げ続けた。何を好み何を嫌い何を思い何を考え何を為し、何を為さないのかを見つめ続けた。語る言葉や選ぶ話題の傾向を分析した。たとえば食材に手をつける順序や、あるいは人と話すときの癖や、珍しいところでは接続詞の種類別の使用頻度をあたう限り整理した。かれと話した内容は毎夜ノートに書き留めて長い夜の手慰みにもした。言葉の端々や目線の行き先を追い続けた。それは何かしらの見返りや結論を求める行動ではなかった。京太郎に限らず、月子は接触を持った人間についてはだいたい同じことをした。出会った人間や話した事柄やその運勢を記録し、分析し、論理的に解体した。ただ中でも、やはり京太郎についての思索に割く時間は群を抜いていた。

 

 月子は自らのそうした習性がやや偏執的であるかもしれないと懸念していたので、いちど京太郎にその秘密を打ち明けたことがあった。出会ってから三ヶ月でルーズリーフ200枚超となった『京太郎ノート』を目にした京太郎は内心かなり驚愕していたけれども、かろうじてその感情を表出させずに、「べつにいいんじゃねえの」とだけいった。

 

「少なくともおれは気にしない」

 

 かれの動揺を月子は見抜いていたけれども、本人の言質は取ったので、行動を改めないことにした。

 そんなふうに、京太郎は感情を面に出すことを自戒する傾向があった。何らかのストレスに遭遇したとき、かれがまず始めに選ぶのは耐えることだった。傍目にもどうしようもない困難に対してもそれは同様だった。かれは、どうにかしてそれをうまく受け入れることができないものかと苦心するのである。

 京太郎の欺瞞は、見抜きようもないほど巧妙なときもある。失笑するしかないほど稚拙なときもある。いずれにせよ、月子は京太郎が隠し立てする全てを暴く心算だった。どれだけ時間を掛けても、須賀京太郎という人間を解き明かす心算だった。

 

 ――京太郎が希死衝動と綺麗に折り合いをつけるそのときまで、月子はかれを見守っていたかった。

 

(……――)

 

 牌を攪拌してはせり上げる自動卓。温風を吐きつづけるストーブ。一心に牌を見つめ続ける少年。順々と意識の矛先を変えながら、月子は膝を折りたたんだままソファに横になる。傾いだ世界では、少年が無為な労を支払い続けている。()()はその様子に胸を痛める。報われればいいと思う(けれども同時にこの上なく勘気を刺激する。身の程を知らず分を弁えないかれのありようは、月子から一時的に理性を奪う。月子のなかの月子が、眠りから覚めた蛇のように鎌首をもたげる)。

 

「ねえ」と少女は呼びかける。

「なに」と少年が応じる。

「そんなことしても、勝てないわよ。なにをしても、あなたじゃあれには勝てないと思う。それはこの先練習し続ければとか、運が良ければとか、そういうことじゃないのよ。あれとあなたが何かを比べること自体が的から外れたことだと知りなさい。羽虫が猛禽と空を争うようなものと知りなさい。あれは決定的に選ばれている娘だし、あなたはあまりにも選ばれていないものなのよ。自分でもわかっていることを、どうして認めようとしないの? あなたがやろうとしていることにも、あなた自身にも、何の意味もないってわからないの?」

「今さらどうした」少年が顔をしかめた。

「めざわりなのよ」少女も顔をしかめた。「わたしは色々なことを諦めながら生きてきたの。これからもたぶんそうしていかなきゃいけないの。あなたよりもずっと持っているけれど、それでも諦めるしかなかったの。あなただってそうやってずっと来ていたはずじゃない。なのになんで今さらそんな、捨てたものを拾いに行くようなことをしているの? 気慰みでやってることじゃないの? 諦めるための道具じゃないの? そんな遊びに必死になっていたら、逃げ場の意味がないわ」

「うるせえよ。ほっとけ。ひとの勝手だ」

 

 と、眠気を引きずった声音で、けれどもきっぱりと、かれは答えた。

 

「……ん?」

 

 月子は目を瞬いて、半眼の京太郎を見返した。

 

「……()()()()()()()()()()()()()()()?」

「寝言吐いてたな」呆れ顔で京太郎は呟いた。「まァ、たいしたことはいってねえよ。あたりまえのことだ。正しいことだ。ぜんぜん、ふつうのことしか言ってなかった」

「そう強調されると逆に気になるけど……うん、信じるわ」

 

 京太郎は肩をすくめて、また卓に戻った。

 月子は黙って、その背中を見ていた。

 

 儀式めいた検証は、12月29日、すなわちかれが宮永照との再戦を約した日の前日朝からひと時も休まずに続けられ、そして12月30日を迎えて暫くして、ようやく終わった。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 14:04

 

 

「……ロン」

 

 京太郎が河に打った牌に対して、咲が和了を宣言した。

 

 南四局四本場 ドラ:{北}(ドラ表示牌:{西})

 6巡目

 {一一一二⑨⑨⑨34赤5南南南}

 

 ロン:{三}

 

「……5200の四本場は、6400です」

 

 それが、五回戦南四局の終わりを告げる和了になった。

 祝儀を含めた合計収支の着順は、以下の通りである。

 

 ―― 五回戦

 宮永 照  :+ 62(+3100G)

 宮永 咲  :+  8(+ 400G)

 花田 煌  :-  9(- 450G)

 須賀京太郎 :- 71(-3350G)

 

 持ち点の着順こそ花田が上回ったものの、チップを稼いだ咲が照に準じる形になった。いずれにせよ照が圧倒的な首位であり、他方京太郎が突き抜けた最下位という構図は二回戦から変わりがない。

 四度目の断ラスを食らった京太郎は、大きく息を吐いて、背もたれに深く体重を預けた。

 

(ここまで――)

 

 薄く目を開けて、対面に席を替えた照を見据える。当たり前のことだけれども、彼女の見目に変化はない。朝このマンションを訪れたときから、宮永照の何かが変わったかといえば、そんなはずはないと京太郎は答えるだろう。

 事実、照は何も変わっていない。

 変わったのは、()()()()()である。

 とはいえ、それも露骨なものではない。放銃はもともと少なかったし、和了を重ねて打点を上げていく特徴も同様である。配牌から聴牌に達する速度も折込済みだった。宮永照はこの場における生粋の強者である。ただ、それを踏まえても、二回戦目以降の照は異質だった。

 圧倒的な打点はない。目を瞠るような速度もない。奇抜な打ち回しでもない。明確な殺し手が存在するわけでもない。目を疑うような和了もない。照はけれども、()()()()()()()()。無数に存在する網目のような岐路の中から、唯一の正着手を一手も間違えずに選び続けている。仮に己の和了目がない局だとしても、正確に被害を最小限にするよう局面を誘導してしまう。一回戦において唯一照に土を着けた咲だけが何とか照に追従し、しかし必ず決定的な場面で読み負けしては下されている。

 これまでどこか自動的だった照の麻雀は、今や他者の牌どころか心理まで見透かしたように変幻自在の強さを見せていた。

 

 しかもその精度は、局面を重ねるごとに増しているようにさえ思える。

 

(ここまで、強いのか)

 

 清算を終えて、京太郎は唇を歪める。

 今日この場に持ち込んだ金は正しく彼の全財産だった。年初に受け取った数年分のお年玉や、朝・夕食のために親から渡された金を、かれはろくに遣うこともなく溜め込んでいた。もとより自ら働いて得た金ではない。使い道を思いつかないからこそ手元に置いていたものでもある。

 五回の半荘を終え、種銭はすでに二万円近く溶けていた。総額九万円は、もとより長期戦を覚悟し、決して有り金が尽きないようにと持ち込んだ金額である。

 それでも、この速度でここまで減ることは想定していなかった。

 

(それに、おれもあまり好くねえ――)

 

 ここまでの展開を顧みて、京太郎は天井を仰ぐ。一言でいえば、今日のかれは()いていなかった。いわゆる半ヅキという状態である。大物手は入る。よく入る。しかし他家に――主に照に――必ず潰され、成就しない。主因は紛れもなく照にあるだろうことは、かれもわかっている。しかしだからといって、入った手を全て無為に見送ったのでは勝利を放棄しているのと変わりない。

 ときに照を欺瞞するためにわざと打点を下げるような打ち回しもした。莫迦正直に立直へ突っ張ることもした。たいした手でもないのに親へ押すことも試した。そのことごとくを照は封殺した。一度惑うことがあっても次の巡目にはもう揺らぐことは無かった。そして同じ手は二度と通用しない。いまとなっては、照に対して京太郎の虚偽(ブラフ)に類する行動は事実上機能しなくなっていた。

 

(まいったな)

 

 素面でどこまで照に抗えるかを、正確に見積もっていたわけではなかった。実力で言えば天と地ほどの開きがあっても、偶然の要素がその間合いを埋めるのが麻雀である。

 ただし、天運が京太郎の味方をすると、誰も保証などしていない。

 

(ただでさえ腕で負けてるのに、運もぼろ負けかよ。――いや、そもそも、()()()()()()なのか)

 

 一回戦で多少善戦が出来ただけに、二回戦以降の負債は京太郎の心理を大きく圧迫した。弱音の虫も騒いだ。何にも増して、根源的な畏怖の気持ちが抑え切れそうにもなかった。

 照に一度和了られるたびに、胸が騒いだ。京太郎を軽い混乱が襲った。和了の声が上がり、牌が倒れ、点数が申告される。擬似的な金銭が支払われる。敗北である。けれどもかれの胸に屈辱や後悔が惹起されない。敢闘した清々しさも希薄である。負けが込みすぎて頭がおかしくなったのかと京太郎は思う。かれは照に対し、この期に及んで憧れさえ感じている自分に気づく。かれは、

 

 憤りすぎて死にたくなる。

 

 京太郎は負けを心から悔いるほど、勝利に拘れない。

 それでも、敗北を当然として受け入れるようなら、牌を握る意味などないことを知っている。

 

「――須賀くん? だいじょぶですか?」

 

 心配げな声が、右方から掛かった。目じりを下げて問うのは花田煌である。

 

「ああ、大丈夫」

「次で六回戦ですけど、お昼もテキトウでしたし、疲れたなら休憩にします?」

 

 冷却の提案である。純粋に京太郎を慮っていることも確かだが、彼女自身も、照の変容に対処するための時間が欲しいと見えた。

 けれども、この場面では頷けない。京太郎は首を振って、

 

「いや、まだ、――あれ。月子は?」

 

 部屋に月子(ホステス)の姿がないことに気づいた。

 

「さっき電話があって、なんか慌てて出て行った。親父さんからの呼び出しだってさ」答えたのはなぜかパジャマ姿の池田華菜であった。「もしかしたら戻ってくるの遅くなるかもって言ってた」

「ふゥん……新城(おやじ)さんからなんて、めずらしい」

 

 京太郎は首を捻った。師事した彼女の視線を意識することで迂闊な摸打を自制しようと心がけている節もあるけれども、月子がいたところで根本的な状況が好転するわけではない。

 ただし、おかしな胸騒ぎがあった。

 月子と父、新城直道の関係性のぎこちなさは京太郎も知るところである。表面的には平凡な須賀家と異なり、月子の家庭事情は判りやすく込み入っている。

 かれは何となく友人の行く先を憂えたが、すぐに思考を打ち切った。

 

「ところで、なんでパジャマ着てるんですか?」花田が池田の格好に突っ込んだ。

「家じゃ寝れなくて超おねむだからだし! 三つ子の夜泣きとかマジハンパねーし!」

「いま寝るとそれはそれで眠れなくなるんじゃ……」

「え? だってどうせ徹マンでしょ?」苦笑いの花田に、池田がきょとんと答えた。

 

 えっ、と宮永姉妹が声を上げると同時、

 

 ――インターフォンが連打された。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・カフェ ムース/ 14:10

 

 

 ――古詠が来てる。会う気はあるか。

 

 電話口で父から告げられたのは、端的で素っ気無い質問だった。月子は一瞬だけ背後の京太郎たちを顧み、返答に窮した。

 

 古詠とは、月子にとって双子の兄の名である。その名を父が口にした以上、同名の他人などではあるはずがない。

 月子と兄――古詠の仲は、良好とはいえない。古詠の側はともかく、少なくとも月子は兄を嫌っている。憎んでいるとまでは言わないけれども、彼女はどうしても兄が好きになれない。だから一年半以上も前に()()()()()()()()古詠と月子は、今日まで一言も交わすことなく暮らしてきた。

 

(なんの用事なんだろう)

 

 と、月子は思うものの、答えは出ない。最終的に月子を頷かせたのは、古詠ではなく母の存在だった。兄が長野に訪れたということは、必然的にその保護者であり遠方で療養していた母も同様のはずである。月子が最後に記憶している母兄との別れは世辞にも碌なものだったとはいえない。けれども兄を伴ってきた以上、母の状態は快方に向かったのであろうと月子は楽観的に結論付けた。

 

 ――自分の人生に、そんな牧歌的な快復はありえないと、心の片隅では理解している。

 

 父が待ち合わせ場所に指定したのは、マンションから歩いて十分ほどの距離にあるカフェだった。左方に聳える雪山を眺めつつ、吹き込む寒風に月子はコートの襟を寄せる。空は九割がたを灰色の雲に切り取られつつあって、降雪を予感させる模様だった。

 

 急ぎ足だったこともあって、目的地にはさほど迷わず辿りついた。

 父の車が駐車場に停車していることを確かめながら、月子はがらにもなく自分が高揚していることを認めた。一度は断絶を受け入れた『家』の人々が、予期せずこの年の瀬に再会を果たすことになった。それは知友を得て心境の変化を果たした月子にとってとても暗示的で、ちいさな幸福を予感させる出来事だった。

 少し呼吸を調えると、月子は白塗りの外観でまとめられた店へ歩み始めた。カウベルが設えられた扉を押し開けた。ウエイターの落ち着いた声が彼女の来店を出迎えた。

 

 待ち合わせです、と店員の男性に告げると、男性は淀みなく店の奥へ月子を案内した。そう広くはない店の一角に、三席が埋まっている四人掛けの席が見えた。どこにいても目立つ父の人相が目に入った。次に月子に対して背を向けるふたりの姿を見た。片方は子供である。そしてもう片方は、

 

(お母さん――)

 

 美しい和装に身を包んだ、白髪の女性だった。

 

(――じゃ、ない、わね)

 

 早速目算を崩され、月子は出端をくじかれた気分になった。それでも今さら顔を出さないという選択肢もない。歩む速度を落として、彼女はテーブルに向かった。

 

 まず父が、目顔で月子を迎えた。彼の右隣が空席だった。とくに断りもなく月子はそこに座ろうとして、

 

()()()()()()()

 

 制された。

 兄――石戸古詠は、月子の記憶よりも少し成長したようだった。相変わらず背も低く顔も母親に瓜二つで女性的だが、彼は紛れも無く兄だった。

 

「ひさしぶり」

 

 と、口にしながら、月子は古詠の制止を無視してそのまま父の隣に腰を下ろした。古詠は少しだけ眉をひそめると、酷く冷たい目を誰もいない方向へ向けて、嘆息した。

 

(……?)

 

 いきなりの所作に困惑しながら、月子は古詠から視線を切って最後の一人を注視する。後姿を裏切らない上品な老婦人がそこにいた。顔の造作そのものは柔和で、少しだけ古詠に似た雰囲気があった。だから月子は、老婦人を母方の親戚であろうと当たりをつけた(それは正鵠を射ている)。老婦人の側はというと、感情の読み取れないしわに包まれた瞳が、やや胡乱な光を放っていた。月子は直観的な嫌悪感を覚えた。老婦人のそれは――有体に言えば、値踏みするような視線だった。

 が、その不快な光は一瞬のものだった。老婦人は一度瞑目すると、すぐに笑顔をつくった。

 

「はじめまして」と、彼女はいった。「月子さんですね? わたしは――あなたのお母さんのお母さん、つまり、祖母にあたるものです」

「……はじめまして」予測が当たったとはいえ、何ともいえない居心地の悪さに、月子は座席の上で腰の位置をずらした。「石戸、月子です。しってると思いますけど」

 

 それから、間を持たせることを期待して、

 

「あの、お母さんは、今日はいないんですか」

 

 と、いった。

 

 老婦人の顔が凍りついた。

 瞬間の強張りだった。目じりが震え、そして感情の発露らしきものはそれで終わった。またしても瞬きを一度すると、彼女は完全に平静を取り戻した。

 そして、あからさまな非難を込めて、月子の左方――新城へ抗議の視線を刺した。

 

「――どういうことでしょうか」

 

 射竦められそうなほどおそろしいその瞳を、新城は真正面から見返した。

 

()()には」と、彼は言った。「母親のことはまだ言っていません。私が言わないほうがいいと判断しました。そして、今日この場で伝えるべきとも」

「……なんて勝手な」婦人が苦みばしった顔で呟いた。

 

 その遣り取りだけで――

 

(……あ)

 

 月子は、自分が発した質問の答えを、半ば悟った。

 

(あ、あ、……え、え)

 

 手がかりを得た思考を抑止するものはなかった。推察を止める理由もなかった。最後に見た母の状態――この場にいる人間の関係性――そして物言い。すべてが、月子の胸騒ぎの先にある結論を補強する材料になった。疑念が一瞬で確信に漸近した。瞬間的に、月子の中でいくつかの、他愛ない記憶が閃いた。『おまじない』をして症状が緩和されたあと、同じ布団で眠りに落ちた記憶があった。買ってもらった新しい服を見せた記憶が、いやになるほど鮮やかに、まぶたの裏で再生された。病床で見た病んだ瞳と痩身を思った。艶やかな黒髪に一筋映えていた白髪を想った。吐気を催すほどの悪寒が月子の総身を貫いた。

 

「なんだ、聞いてなかったんだ、月子。だからお葬式にも来なかったんだね」

 

 古詠の声を聞きながら、月子は推察を否定する材料を探し続けた。

 兄はその心理を見透かしたように、残酷で決定的な言葉を発した。

 

「母さんは死んだよ。自殺したんだ。だから、もう、()()()()()()()()()

 

 もうずいぶん長い間思い返すこともしていなかった。それなのに、

 

 月ちゃん、

 

 という、母の呼び声が、あきれるほど簡単に、月子の深い部分で響いた。

 

 それがもう二度と聴こえない声だということが、とても哀しかった。

 




2013/7/13:ご指摘頂いた誤字を修正。

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