ばいにんっ 咲-Saki-   作:磯 

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23.ばいにんテール(十二)

23.ばいにんテール(十二)

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:40

 

 

「もう、9時前か」

 

 壁の時計を見た池田華菜が、間を繋ぐように呟いた。

 月子は小さく頷いて、

 

「池田さんは、誰が勝つと思う?」

 

 と、いった。

 

「それを聞くかあ」池田は苦笑して頬を掻いた。「つっきーは、だれに勝って欲しいの?」

「だれって……」反問に月子は言いよどんだ。

「そういう場況だとおもうよ、もう」

 

 深い考えがあっての言葉ではなかった。アガりトップが三人を占め、かつ配牌も開かれていないこの状況でそれを問うことの無意味さがわかっていないわけでもなかった。

 南四局(オーラス)を迎えての各人の順位は、一位に京太郎、300点差の二位に花田、花田から300点差の三位に照、そして照から2700点差の四位に咲という並びである。この半荘には西入の規程はない。そして和了止めもない。ラス親である咲以外の誰かが和了った時点で勝負は決する。

 月子のうちには仄かな期待がある。

 純粋な麻雀の力量と経験において卓に着く誰より低い須賀京太郎が、先だって宮永照に手も足も出なかったかれが、勝つかもしれない。出端で得た交通事故のような貯金を、ほぼ削られるばかりでようよう維持しているトップ目だということは無論わかっていた。ただ京太郎が実力の範疇で懸命に尽くしていたことも事実である。そして、だからこそいま僅差のトップについていられる。

 正直に言えば、月子は京太郎に勝って欲しかった。かれは多少なりとも自分に師事した。だから月子はかれに何かを投影しているのかもしれない。明確に傑出している照や咲を下して、京太郎がこの勝負を勝ちぬけたのならば、それはさぞかし胸のすく光景だろうという確信があった。

 

 けれどもその願望を、月子は素直に露出することができない。期待や願望は裏切られ続ける。それが月子の経験則だった。

 

「強いて言うなら」答えあぐねた月子を見透かすように、池田は言葉を引き取った。「やっぱりあの、おかし好きな人じゃない? 南三局(さっき)もほとんど場を完全にコントロールしてたし」

「おかし好き……宮永、照さんのほうよね。でも、そうかしら?」月子は首を傾げた。「たしかに聴牌は取ってたけど、すぐにオリてたじゃない」

「きらめんがツモり四暗壊してまで{⑥}抑えたのは、まァ、もともと危険牌だってことには変わらなかったんだけど、あのひとが河に{②⑦}並べて見せたせいもあると思う。ずーっと須賀に絞り入れてたし、そもそもあの局面で{⑥⑦}の両面から{⑥}タンキに受けていいことなんか、フツーないし。たぶん、あそこは自分じゃなくて他家に和了らせて須賀を削りたかったんだ。完全にオリてたのに立直後に対面から{4}鳴いたのも――ま、ただの一発消しかもしれないけど、あれで結果的に本来須賀がツモって和了りのはずだった{①}をきらめんに流すことになった」

「それはないでしょ」

 

 池田の言葉を、月子は取り合わなかった。

 

「仮にそれが本当だとして、おまけに宮永さんが花田さんや須賀くんの手をほぼ読み切ってたとして。それでも役満崩していくつもあるうちの危険牌をたまたま花田さんが止めるなんて、それはもう読みとかそういうレベルじゃないわ。わたしや池田さんや須賀くんとか……前々から花田さんの性格や打ち筋を知ってればまだしも、宮永さんは花田さんとは初対面よ。おまけにこれが最初の半荘」

「そうなんだよね」月子の反論を、池田はあっさり受け入れた。「自分の手は三色(高目)をアッサリ見限ってたし、やりくちが遠回りでバクチすぎる。そこはあたしもへんだと思う」

「どっちにしても、結果的に須賀くん、花田さん、宮永さんは1翻だろうとアガった時点で優勝確定――そういう場にはなった。割れ目ありのルールとはいえこの三人は完全に横並びだし、最後の最後で完全に運ゲーになったわねえ」

「それも麻雀。これも麻雀」

 

 ソファの上であぐらをかいて、池田はオーラスを迎える卓を見つめた。

 高鳴る鼓動を意図的に無視しながら、月子も池田に倣った。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:42

 

 

 ボタンを押す咲の指の向こうで賽が踊る。少しならず熱を込めた指先がわずかに白む。

 

 踊りを終えた直方体の出目は5・5(右十)である。

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 【南家】花田 煌  :26000<割れ目>

     チップ:-5

 【西家】宮永 照  :25700

     チップ:-3

 【北家】須賀 京太郎:26300

     チップ:-6

 【東家】宮永 咲  :22000

     チップ:+14

 

 オーラスの開門には、花田煌の山が選ばれた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:44

 

 

 燃え上がった熱はそのままに、咲の心理は平穏だった。点差は平たいとはいえ、咲はひとり不利である。この局で本場を積まずに決着を目指すならば割れ目も考慮して最低1000オールを自摸和了る必要がある。それだけではなく、三人を凌いでトップに立ったところで、この半荘では和了り止めができない。

 全員を捲くった上で、点差を守る。

 それが咲に課せられた勝利条件である。

 

(らくちんだとは、思わないけど……)

 

 京太郎も花田も、与しやすい相手ではなかった。何よりもこの卓には照がいる。彼女を制さない限り咲に勝ちはない。それはいかにも難事である。

 

(できないかな? できないかな……)

 

 胸中で唱える言葉は空疎だった。ただ音だけを連ねた感がある。なんとなれば、咲はもう、()()()になっている。

 

(できないかな――)

 

 咲は照を見る。

 

(――そんなに、難しいかな?)

 

 咲にとって、彼女は越えがたい壁だった。過去君臨し続け、今後もそうであることを疑ったことはない。咲の主観における照はある種の信仰対象ですらあった。照の強さに疑いを差し挟む余地はない。ただ、咲は少しだけ、自分の立ち位置を見直すべきだとも感じていた。

 照の強さを疑う必要はない。

 ただ、己の弱さを疑う必要はあるのかもしれない。

 

「……ふぅ」

 

 深呼吸と共に、咲は山を切り取る。

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 配牌

 咲:{二二六六六③⑧⑧⑨24白白白}

 

 彼女の瞳が嶺上に突き刺さる。

 

(――{白}、{六}、{⑤}――{東})

 

 不可触の領域に萌える四枚の(はな)を、彼女の双眸だけが視通している。

 

 その瞳に、焔が燃えている。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:44

 

 

(おちついて)

 

 花田は指に灯った和了の火照りを擦って落とす。

 

 ――流れは自分にある。

 

 デジタルに払拭されつつあるそのオカルトは、麻雀を打つものの肩をしばしば叩く。枯れたすすきの陰に見る幽霊のようにそれはもっともらしい。花田は頭からその霊感を否定しているわけではないけれども、信じた傍から裏切られた経験は山ほどある。潮目が変わり流れが来たとばかりに打牌(フォーム)を崩せば、幸い勝ったとしてもそれは拾った勝利である。

 

(しっかりと、場をよく見て)

 

 花田は漠然と、運を有限の代物と解釈している。それは彼女独特の感性である。いくら汲めども水が尽きない甕はない。運も同様である。たとえば(ツキ)がどこからか自然と湧き出てくるものだとしても、使い切る速度が湧出(ゆうしゅつ)のそれを上回れば器は枯れる。水の多寡や甕の軽重、柄杓の大小は個々人によって違うのかもしれない。花田は自分の器がそれほど大きいとは考えていない。

 ただ使いどころを誤らなければ、どんな相手をも刺すことが出来ると信じている。

 

 そして、彼女はオーラスの配牌を開いて、

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 配牌

 花田:{一三四②④⑤⑦1147南西}

 

(あっはっは。すばらくなぁい)

 

 胸中乾いた笑いを上げた。塔子は足りない。仕掛けも遠い。{1}(ドラ)は対子でもいまばかりは余計な手荷物でしかない。アガりトップの局面でこの配牌は、最悪とは言わないまでもひどくもどかしく感じられた。

 だからこそ、彼女は笑った。

 口はしを仄かに吊って眦を決する。

 姿勢を正して十三枚の牌に触れる。

 息を深く吸い込み、

 

(――でも勝つ)

 

 静かに密かに、気炎を吐いた。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:44

 

 

 この日、この場所に座り、牌を握っている宮永照について照は考察する。奇縁が結った四人が集って牌を手に手に麻雀を打ち合っている。思惟と技術と霊感と運の限りを尽くしてちゃちな点棒を遣り取りしては一喜一憂している。傍目には滑稽な絵なのかもしれないとふと彼女は考える。少なくとも不可思議であることには否定の余地がない。一年があと一日で終わる今日という日に、彼女は二つも年下の少年に請われてずいぶん遠くまで足を伸ばし、そして金銭を賭して麻雀を打っている。

 

(おかしい)

 

 場にいる誰も気付かないほどかすかに、照は微笑んだ。付き合いがもっとも長い咲ですら見逃すほど小さな、それは発露だった(仮に咲が照の微笑に気づけば、きっと瞠目したはずだ)。

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 配牌

 照:{三八②⑥1356東南西北中}

 

 授かった十三枚の牌を、照は笑みを消した容貌で見つめた。

 

(六向聴)

 

 勝敗のかかった終局で劣勢であることも、これほどの悪配牌となったことも、ついぞ彼女の経験にはないことだった。目を伏せて数秒、照は胸に兆した得体の知れない感情について沈思した。

 正体はすぐに思い当たった。

 自分が卓上でそんな感情を覚えたことに、彼女はほんの少しだけ驚いた。

 

(わたしは)

 

 と、照は思った。

 

(興奮している)

 

 それからその表現は少しはしたないかもしれないと考えた。とはいえ自覚は更に症状を助長させた。頬から首元にかけての皮膚一枚を隔てて、照のなかみがじわりと熱を孕む。甘い痛痒に似た疼きがへその下から太ももを伝ってふくらはぎに向かう。厚手のタイツとスリッパ越しにカーペットを噛む足の指に少しだけ痺れがある。とてもすわり心地の良い椅子に深々と腰掛けながら、照はすっかり冷めたココアを一口飲む。

 

 己の右手を開閉する。

 彼女は水と鏡を想像する。

 体と心が自分のものではないような違和感と、かつてないほど()()()()()という直感がない交ぜになっている。

 彼女は水と鏡を空想する。

 

 予兆めいた心の揺らめきは、いまや明確な波となって照の静謐な心理に紋を描いていた。照はつかの間、予期せず芽生えた不思議な情動の汀に思考を遊ばせた。瞑目して洞察の焦点を内向させた。彼女は『宮永照』という記号を象る様々な要素を完全に客観的に分析し分解して詳らかにしようと試みた。波紋を連ねる水面に指を浸し、腕を浸し、肩を浸し、首まで浸かった。ふるえて止まない己の心象が鳴らす音に耳を澄ませた。何も聴こえなかった。あるいは何もかも響き合っているせいで誰の声も何の音も互いに殺しあってしまったものだと思われた。照は自分を(あるいは自分だと思われる像を)直視した。当然そのためには鏡が必要である。けれども照の前にはただ揺れる水面だけがある。水面に映る自分の顔を彼女は幻視する。当然振動する水は像を正しく描かない。捉えどころのない人面は造作さえつかめない。どれだけ顔を水面に近づけてもそこに仄見える相貌は捉えられない。照の顔は波に洗われ常に無貌である。なおも諦めず照は自分を捉えようと凝視を続けるが、やがて無為を悟った。彼女は答えを得た気分になった。()()()()()()()()()()()のだと彼女は思った。それは少しだけ残念で、そしてとても納得の行く解だった。牌を握っているとき、照は自身の非人間性について無自覚だった。人の本質を見透かすとき、照は自身の犀利さについて無自覚だった。けれどもいま、家族以外の人々と向き合って麻雀を打っている自分を鑑みて、照は『宮永照』という存在について少しだけその理解を深めることが出来た。

 是非はどうあれ幼い彼女はそう感じた。

 

 彼女は水と鏡を幻想する。

 

 そこに身を浸す少女はいない。

 

(――そうか)

 

 照は自分こそが水と鏡なのだと、確信する。

 粟立つ肌だけが、彼女の感情の出力を隠していない。

 そして、鏡が現出する。

 

 

 ▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 08:44

 

 

 南四局0本場 ドラ:{1}(ドラ表示牌:{9})

 配牌

 京太郎:{一七九①②③赤⑤⑦23669}

 

「――」

 

 京太郎は、咲も花田も照も見ていない。

 己の手牌も見ていない。

 14枚の王牌を含む残り83枚が積まれた山を、ただ黙して見つめている。

 




※本文には別途加筆する可能性がありますが、その際は活動報告でお知らせさせて頂きます。

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