11.はつゆきトーン(後)
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:07
椅子の背が撓る。
腰から力が抜けて、背もたれに体重を押し付けようとする。
原点割れを示す黒点棒まで吐き出して、宮永咲は嘆息した。
(やっちゃったぁ……)
上家の少年の顔色に感慨は見えない。かれは淡々と、咲が卓上に置いた点棒とチップ(チープなプラスチック製のコインだった)を手元に回収した。
義務感めいた衝動に押し出されて、咲はかれに笑いかけた。
「……すごいね」
「今のはたまたまだろ」
と、京太郎は苦笑交じりに答えた。
謙遜ではなく、事実である。それは咲も理解している。先刻の一打は避けえない交通事故だった。実力や駆け引き、読みの関与しない偶発的な出来事でしかない。今回は
(けど、ホントに全然わかんなかった)
高い打点には、相応の気配がある。打ち子の挙動や場況から推し量るのではなく、咲は感覚的に卓上で息づく存在感を察知する。先刻の京太郎にそれがなかったわけではない。単純に、咲のピントが場に合っていなかったのである。ブランクや油断が招いた失着といえばそうかもしれない。けれども咲は強いて自分に言い訳はしなかった。麻雀はしょせん遊戯である。咲はおのれの実力に関して矜持を持ってはいない。失策を挽回しようとする焦りと、だから彼女は無縁である。
卓上で起きるあらゆる出来事はなるべくしてなるものだ。
(強くなったんだ――すがくん)
自動卓に敷設されている手元の7セグメントディスプレイに、咲の点数が表示されている。彼女は平坦な瞳で数字を眺める。
『-7000』
ついぞ記憶にない値だった。家族で打ち交わした日々の中でも、東一局でここまで凹んだ記憶は数えるほどしかない。具体的には、麻雀を始めたばかりの時代にまで遡る必要があるかもしれない。
「そっか」
かろうじて空気を震わせる程度の声音で、咲は呟いた。
「わたし、
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:09
東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})
【北家】花田 煌 :25000
チップ:±0
【東家】宮永 照 :24000
チップ:±0
【南家】須賀 京太郎:58000<割れ目>
チップ:+1
【西家】宮永 咲 :-7000
チップ:-1
上家の照が親番となる東二局、京太郎の心境はかれ自身不思議なほど凪いでいた。
(出来すぎの32000――とはいえまた割れ目だ。守勢に回ってリードを守りきるには序盤過ぎる。さぁて――)
東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})
配牌
京太郎:{三三四[五]②④⑧⑧467東南}
(――こっからどうする)
前回の照との対局から京太郎が学んだのは、照から勢いを奪うことの重要性だった。
宮永照は暖機するように、連荘を重ねるごとに打点を上げていく。その打ちまわしが加減に由来するものか何らかの制限なのかはわからない(現時点では後者と仮定して相手取るしかない)。従って、照に張り合うには何より速度が重要になる。高打点に届く前に連荘を断ち切る必要があるからだ。
もちろん、その程度の対策は前回の直対の際にも試みていた。効力の程は結果が物語っている。前回について言えば、いくら京太郎が副露の頻度を増やしたところで、照の面前に追いつけなかったのである。
(単純におれが下手ってのも理由ではあるんだろうけど)
京太郎は特に面前に拘りを持っていない。けれども副露を得意としているかといえばそうでもない。麻雀における副露と守備は、特別な才能でも持たない限りは経験と観察力、判断力――総じてセンスと呼ばれる地力がものをいう分野である。
東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})
1巡目
照:{■■■■■■■■■■■■■}
打:一
東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})
1巡目
京太郎:{三三四[五]②④⑧⑧467東南} ツモ:{一}
(とはいえ、照さんが今日もだんだん打点を上げてく心算なら、出端をおさえなきゃァしょうがねえ。最大でも4000の支出に抑えられるなら、ある程度は突っ張る)
{打:東}
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:11
流れという言葉を京太郎が遣えば、ほんとうにそれを知るものの失笑を買うに違いない。それでも、前局の和了に続き、京太郎は己の自摸に手応えを感じていた。
東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})
5巡目
京太郎:{一三三四[五]②④⑥⑧⑧467} ツモ:{二}
(ほぼ無駄自摸なしの一向聴)
照
河:{一北①中八}
京太郎
河:{東9南⑨}
咲
河:{東91二}
花田
河:{①5三2}
裏づけのない自信が、そっと京太郎の肩を叩く。
(いける)
誰より早く聴牌へ届く。
打:{4}
(ここで追い討ちをかける)
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:11
(一向聴か聴牌、かな)
東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})
5巡目
咲:{六七八九②③[⑤][⑤]⑤46白中} ツモ:{西}
(次巡、槓材を引ける――)
{打:中}
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:11
東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})
5巡目
花田:{②②③④⑦⑦⑧78南南發發} ツモ:{④}
(嵌{③}で一役――{78}を落とせば面前混一色七対子の一向聴ではありますが、{8}は須賀くんのド本命。割れ目である以上巡目が早かろーと河の気配は安かろーと……赤とドラがひとつでも絡めば満貫なみの失点は、すばらくない。とはいえここで連荘させて一人旅は、もっとすばらくない。さて――)
手中の{④}を弄び、花田は幾許か黙考の間を置いた。
(――少し勝負)
打:{8}
発声はない。
(わたしにも、年長者のめんもくってものがあるから――そう簡単にらくしょーはさせませんよ?)
花田は唇を歪める。
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:11
東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})
6巡目
照:{三四六①③③67789白白} ツモ:{東}
{打:東}
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:11
東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})
6巡目
京太郎:{一二三三四[五]②④⑥⑧⑧67} ツモ:{⑧}
(――ふーん)
暗刻を重ねた{⑧}を見下ろし、京太郎は場の有効牌を数え上げた。
(受け入れの広さは
打:{②}
(ここは正攻法で受ける)
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:12
東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})
6巡目
咲:{六七八九②③[⑤][⑤]⑤46西白} ツモ:{⑤}
{打:白}
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:12
「ポン」
と、照がいった。
東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})
7巡目
照:{三四六①③③67789} ポン:{白横白白}
打:{六萬}
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:12
「ム」と、照の打牌を見た月子が唸った。「{①}じゃないんだ」
「{六萬}も受け入れ枚数は変わらないからな」池田が呟いた。「それに{②}を直前で須賀が切ってるとはいえ、フリテンの受けを残しちゃうし、嵌{七萬}見切ったんなら前巡自摸切りより先切りしとくべきだったって感じかな? ま、エラーってほどじゃないけど」
「あの人ねえ」月子が遣る瀬無さげにため息をついた。「エスパーかっていうくらいに当たり牌ビタ止めするのよね。なにか、そういうコツってあるのかしら」
「ビタ止めって……結果的にそうなってるだけだろ、さすがに」池田は苦笑して月子の言に首を振った。「つか、つっきーと囲む卓ならあたしも結構止められる自信あるよ。手が早くなる分、あんたの当たり牌すんげーわかりやすくなるじゃん」
「……?」
と、月子は池田の言葉を聞きとがめること暫時、数秒沈思の海にもぐって、発言の意図するところに気づくや否や、勢いよく膝を打った。
「あ、あー、なるほど。そういうからくりね」
「いまさら気づいたのかよ……」
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:12
東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})
7巡目
京太郎:{一二三三四[五]④⑥⑧⑧⑧67} ツモ:{四}
(赤{⑤}がねーなら最高形は打{④}の構え――だけど)
打:{一萬}
(
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:12
「うーん」
満足げに京太郎の打牌に頷く月子とは対照的に、池田は思案顔で首を傾げていた。
「何よ。デジタル的にも今のは正しいわよ」
「いや、それはわかるよ」と、池田はいった。「須賀もまァ、麻雀それなりにできるようになったなと。それはあたしも認める。けども」
「けど?」
「いっとくけど、怒るなよなー」池田はそう前置きして、「なんかアイツ、小さくまとまってないかなー……。あそこは嵌{⑤}を見切ってあくまで打{④}で押すのもありじゃないかな。じっさい、{⑤}は全部あっちの
「うっわー、出たわよ、ほらまぁ、こういう、こぉーいう根拠のない……ばかじゃないの!」月子はうんざりした顔で池田の意見を一蹴した。「あのねえ、この巡目で手牌読みとか、そういうオカルティックなことはうちの須賀くんに吹き込まないでくれる? せっかく彼を健全でハイクオリティなデジタル雀士に育て上げようとしてるんだから」
「燕雀鳳を生まずっていってな」池田はにやりと笑みを浮かべた。「自分にできないことを教えようとしたところで、なかなか上手くはいかないもんだぜ」
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:12
東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})
7巡目
咲:{六七八九②③[⑤][⑤]⑤⑤46西} ツモ:{九}
「……」
{打:西}
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:12
東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})
7巡目
花田:{②②③④④⑦⑦⑧7南南發發} ツモ:{⑨}
打:{7}
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:12
「{7}……チー」
東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})
8巡目
照:{三四①③③677} チー:{横789} ポン:{白横白白}
打:{①}
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:14
「……あの打点ですっげー前のめりだな」池田が呆れ混じりに照を評した。「ホントに強いの? アレ」
「見てればわかるわ」月子は肩を竦めた。「いやでもね」
そして、その言を裏付けるように、
「ツモ――」
2巡後、手牌を晒したのは宮永照だった。
東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})
10巡目
照:{三四③③678} チー:{横789} ポン:{白横白白}
ツモ:{{二萬}}
「500オール」
東二局0本場 ドラ:{九}(ドラ表示牌:{八})
【北家】花田 煌 :25000→24500(- 500)
チップ:±0
【東家】宮永 照 :24000→26000(+2000)
チップ:±0
【南家】須賀 京太郎:58000→57000(-1000)<割れ目>
チップ:+1
【西家】宮永 咲 :-7000→-7500(- 500)
チップ:-1
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:15
東二局一本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
【北家】花田 煌 :24500
チップ:±0
【東家】宮永 照 :26000
チップ:±0
【南家】須賀 京太郎:57000
チップ:+1
【西家】宮永 咲 :-7500<割れ目>
チップ:-1
払い出した点棒の行方を、京太郎は漫然と見送る。京太郎が卓に置いた他家に倍する点棒を、照は数瞬首を傾げて見つめ、その後得心した様子で収納に放り込んだ。
そんな照を眺めながら、かれは脳裏で前局を振り返った。
(手順に落ち度はなかった)
少なくとも与えられた配牌と自摸の中でかれは最善を尽くした。無論それでも和了の確約はありえないのが麻雀である。余分な想像は予断に繋がり、判断力を損なわせる。そうとは知りつつ、京太郎は前局の和了逃しを象徴的な事柄として受け止めた。東一局に吹きつけた想定外の追い風が、照の和了により断たれたような気がしたのである。
(少なくともおれには、流れなんか、わからない。でも照さんにはそれがわかる。あのひとはたぶん、
京太郎は意識的に深く大きく呼吸する。肺に酸素を取り込み、血液を全身に廻すイメージを思考に浮かべる。下家――咲の築山が開門となった東二局一本場の配牌を、
照の表情筋は相変わらず動かない。咲は萎縮した仕草で理牌を行っている。口元にはかすかに綻びの兆しが見える。(楽しんでいるのであれば何よりだ)と、京太郎は彼女から32000を出和了った事実を棚に上げ思う。花田はいつだって楽しげである。ただし彼女はあまり金銭を賭した麻雀には馴染みがないらしく、今日は普段より幾分緊張が見える。背後を顧みれば、やや離れた位置に置かれたソファに座って、月子と池田が囁きを交し合っている。
周囲は良く見えている。
調子は決して悪くない。
京太郎は手牌を眺める。
東二局一本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
配牌
京太郎:{七九②⑥⑨147東南北北白}
(面子手が6、七対子に国士も5向聴かよ)
思わず笑みがこぼれた。
巡り合わせの悪さを、京太郎ももどかしく思わないわけではない。点差の有利が心理に与える余裕を、かれも否定はしない。
(それでも、よくある。こんなこと、ほんとうに、いくらでも良くあることなんだ)
仮に咲の立場でこの配牌に行き会えば、京太郎は焦らずにはいられないだろう。
(まァ、この
東二局一本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
1巡目
京太郎:{七九②⑥⑨147東南北北白} ツモ:{2}
(面子手まで5向聴――)
下の下の配牌に凡庸な自摸を得て、京太郎は思索に瞬時を費やした。遠い和了を直向に目指せば、精々が1向聴で流局の牌勢である。それ以前に目一杯に構えて受けを広げ続ければ、進退窮まり放銃する未来が容易に見通せる。
麻雀の実力は、余程の差でもなければ短期的に測れるものではない。月子が京太郎に麻雀を手ほどきするに当たって、最初に伝えた言葉のひとつである。長期的な視野で勝率を上げることをこそ至上の命題とすべきであり、あらゆる局面で遮二無二和了を目指すような無駄な危険を、冒すべきではない。
その方針は大局的には正しいけれども、局地的には唯一の解答ではない。
(この牌姿で急所潰していくのもばかばかしい――せいぜい捻ってみせようか)
打:{4}
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:16
(打{4}……またすがくんがはやそう)
東二局一本場、
(へんなルール)
と、咲は思う。先ほどの月子の説明(咲も遅れて受けた)によれば、考案したのは京太郎とのことである。一通り把握した上で咲の持った感想は、
(お姉ちゃん――だけじゃなくて、最後の最後まで、勝ってる人が不利になり続けるルールみたい)
というものだった。赤ドラも割れ目も偶然性が強く作用する要因であり、余程でなければどんな局面からでも一発逆転が可能である。
(なんか、ギャンブル、ってかんじ)
東二局一本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
1巡目
咲:{一一三五八八[⑤]⑦289東東} ツモ:{一}
(このままだと、たぶんまたお姉ちゃんが和了る)
打:{2}
ため息混じりに河に牌を打って、咲は左手の指で喉元を擦る。
白刃のような鋭い注視を、彼女はひっきりなしに感じている。出所は言うまでもなく対面である。咲がこの部屋に足を踏み入れてから、照の
(だまって来たから怒ってる?)
恐らくそうではない。照が激するような場面を、咲はあまり見たことがない。照が放つ雰囲気は、どちらかといえば発奮に近い。家族で囲む卓では近ごろついぞ見られないような気魄をもって、この対局に臨んでいる。ただ、いくら考えてもその理由がわからなかった。
この日の朝、彼女は尋常ではなく眠い眼を押し開き、まだ薄暗い駅まで父に送り出されて電車に乗じた(照は自転車で駅に走ったらしい)。生来寝起きの悪い咲にとって、常ならばまずありえない行動である。それを彼女も自覚していたから、咲は未だにこの場所で麻雀を打つことに迷いを残している。
(お姉ちゃんと、前みたいに遊ぼうとして来たのに、そういえば、何を話すかも考えてなかったよ)
顔色をうかがい、頭を下げて時間が過ぎるのを待つだけであれば、咲がこの場に来た意味はなくなる。
かといって、照や京太郎に対するスタンスも定まっているわけではない。
結果的に、彼女は自らがもっとも慣れ親しんだ打ち回しを選択した。
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:16
東二局一本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
1巡目
花田:{[五]六九②③③⑥⑧1336中} ツモ:{發}
打:{九萬}
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:16
東二局一本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
2巡目
照:{二四八①①②③⑤[5]9南北白} ツモ:{7}
{打:北}
東二局一本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
3巡目
照:{二四八①①②③⑤[5]79南白} ツモ:{三}
{打:南}
東二局一本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
3巡目
照:{二三四八①①②③⑤[5]79白} ツモ:{6}
打:{9}
東二局一本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
4巡目
照:{二三四八①①②③⑤[5]67白} ツモ:{八}
打:{①}
東二局一本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
5巡目
照:{二三四八八①②③⑤[5]67白} ツモ:{④}
{打:白}
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:18
一直線に有効牌を引いて5巡目で聴牌を入れた照の自摸を、池田は胡散臭げに「都合がよすぎる」と評した。
「――河、むっちゃ強いな。それにしても、あれで立直しないのはなんでだ? 東一と何がちがうんだ?」
「東一はそもそも和了する気がない立直だったってことでしょう」
と、月子はいった。
「ふゥん」
と、池田も応じた。
月子は大口を開けて拳大の結びを瞬く間に咀嚼していく池田を尻目に、戦況を見守る。スムーズに連なっていく摸打の音を呼び水に、彼女は京太郎の『頼みごと』を思い出していた。
宮永照との再戦を、かれは病床で口にした。
五日ほど前のことである。須賀家自体には毎週足を運んでいる月子だが、一度京太郎の部屋で前後不覚に陥って以来、かれの私室に足を踏み入れることは極力避けている。しかしさすがに病人を見舞っておきながら寝床から引きずり出すわけにもいかず、月子はかれの枕元で所在なげに視線を彷徨わせつつ、見舞い品のりんごを剥いてやっていた。
少年の呼吸は浅く速く、頬は薄っすらこけて、目は潤んでいた。弱った京太郎を、月子は新鮮な心持で観察した。この年下の友人が持つ社交的な側面が、月子はあまり好きではない。器用な振る舞いが、大事なものを隠す覆いのようで癇に障るのである。だからこそ、稀に垣間見るかれの素面が、月子は嫌いではない。
京太郎は驚くほど醒めた貌と年齢相応の相をそれぞれ使い分けて、他者と角逐を合わせることもなく日々を過ごしている。世辞にも付き合いやすい人間ではない月子とかれが良好な関係を継続していられるのは、京太郎があまり自分の意見というものを持たないせいだった。
京太郎の部屋は、そんな主の人格を表している。寝台と机と書棚が揃った部屋には、生活や学業に必要な備品以外はあまりものがない。麻雀関連の書籍や走り書きはとくに気に入ったものでなければ図書館で済ましているらしく、かれの麻雀の傾倒ぶりからすると意外なほど、書棚の隙間が目立っている。
そんなありきたりな部屋に、京太郎と月子は二人きりだった。月子は無心でりんごを剥き、ひと口大に刻んで更に積み上げた。さすがに寝込む京太郎に麻雀を教えるわけにもいかず、すぐに暇を持て余した。とはいえ月子も学校をサボタージュしており、今さら家に帰ったところでとくにすることもない。うろうろと部屋を右往左往していると、机上に妙に手の込んだ葉書が飾られていることに気づいた。
クリスマスカードだった。宛名には当然京太郎の名前があり、差出人はカードの装飾に合わない達筆で『南浦数絵』と記名されている。
露骨に眉根を寄せて、月子は苦しげに呼吸する京太郎を顧みた。こういう京太郎の如才ない部分が、月子は気に喰わないのである。しかし京太郎がそういう人間でなければ自分と友人であり続けることも難しいとわかっている。非論理的な感情の鬱屈に当惑した月子は、とりあえずカードの内容を読みふけった。
すると、ふいに、熱に浮かされた口調で、京太郎がこういった。
――場を用意してほしい。
数絵の律儀な文章に目を落としながら、そんなものどこにだってあるわと月子は答えた。
京太郎は億劫そうに首を振った。
――大人の目が入らなくて、夜通し麻雀やっても大丈夫な場所。ねえかな。
あるわけないでしょうと月子は答えた。同時に、いつだって麻雀のことしか頭にない友人に腹も立てた。
――春金さんとか、おまえの親父さんに聞いても、だめかな。
しつこいとにべもなく答えつつ、月子は内心驚いた。京太郎が、これほどひとつの事柄に食い下がるのは珍しい。そもそもかれはあまり人に頼るということをしない。何か負い目でもあるかのように一定の距離を置いた関係性が、京太郎の対人処方である。今回の相談は、そのルーティンから外れたものだった。
だから月子も気まぐれを起こした。ひとに頼ることに不精な友人に、たまの甲斐性を見せてやりたくなった。
ただし、照に対する勝ち目はないと、釘を刺すことは忘れなかった。
京太郎はどうかなと笑って、その日明答することはなかった。
(30000点のリード)
その京太郎は、いま、ふたたび宮永照との対局に臨んでいる。いくつかの変則ルールを用いたかれの狙いは、麻雀の有するギャンブル性をあたう限り増幅させることにある。そういった意味では、東一局の和了は目論見通りだった。
(骨身に染みてるでしょうけど、そんなの、安全圏でもなんでもないわよ、須賀くん――)
そして、月子の視線の先で、
東二局一本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
6巡目
京太郎:{七九①②⑨⑨123北北白白} ツモ:{⑥}
京太郎が照の中り牌を掴んだ。
「まだ一段目だ。――出るな」
と、池田が冷静にいった。
が、
{打:白}
京太郎はノータイムで打{白}といった。
「お?」
「あら、ハズレね」目を瞬く池田を見、月子はほくそえんだ。
「聴牌気配察したのか? あの河から? まじか……」
照
河:{一北南9①白}
{二}
「先生役としては怒らなくちゃならないところなんでしょうけど」月子は一転、口元に苦笑を浮かべる。「たぶん、そうじゃないわね、あれは。熱意のたまものというか、なんというか――ただの信頼の裏返しで、べつに須賀くんの実力じゃないと思うわ」
「なにそれ」
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・駒ヶ根市・トーワマンション701号室/ 07:19
(
嘆息と共に、京太郎は手仕舞いの覚悟を決めた。直後、
「ロン」
と、照の声が響いた。
東二局一本場 ドラ:{3}(ドラ表示牌:{2})
6巡目
照:{二三四八八①②③④⑤[5]67}
ロン:{③}
「――3200の一枚」
「うわたっ――」
放銃者は、花田である。1向聴を入れたまさにその瞬間の出来事だった。照の進みの早さを警戒しての先切りと見えたが、それでも遅かった。
京太郎と花田の分水嶺は、たんに照との対局経験の有無に根ざすものである。
【北家】花田 煌 :24500→21300(-3200)
チップ:±0→-1
【東家】宮永 照 :26000→29200(+3200)
チップ:±0→+1
【南家】須賀 京太郎:57000
チップ:+1
【西家】宮永 咲 :-7500<割れ目>
チップ:-1
(やっぱり、強え)
こみ上げる高揚に緩む口元を、京太郎はてのひらで覆い隠す。
(さァて、いまのはたまたまヤマが当たったけど、どうやって崩せばいいのかね、この親――)
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・飯島町・高遠原・片岡邸/ 07:20
片岡優希は一瞬前までカピバラの背に乗って空を飛んでいた気がするが、もちろん実際にはいつも通り暖かい布団の中でまどろんでいる。鳴り響く目覚まし時計のベルが意識を徐々に現実に引き戻し、彼女は夢の内容を早々に忘れる。
ベルは鳴り続ける。
けたたましいその音を止めようと片岡は手を伸ばすが、届かない。ふだんは枕元に置いている目覚まし時計は、今日に限って部屋のドアのふもとにぽつんと配置されている(もちろん昨夜、彼女が自分でその場所に置いて起床時刻を設定した)。
「う――う、うぅ」
と、幼子がぐずるように、片岡は枕へ顔面をこすりつける。たっぷり9時間以上は寝たものの、眠気はまだまだ強い。しかし本能的な睡眠への欲求を押しのける何かが、片岡の意識に覚醒を促す。
(なんだったっけ――)
重たい瞼を薄っすら開いて、彼女は覚束ない手つきで枕の下をまさぐる。
指先が紙片にふれる。
親を経由して花田煌から渡されたそのメモを、ぼうと見やって――
記憶が火花のように明滅し、屈辱が想起され、闘志が燃え上がる。
――片岡優希は跳ね起きた。
「思い出したぁっ!」
二秒で寝巻きを脱ぎ捨て全裸になるや、彼女は
「――このまま年越しなんて、ごめんだじぇ!」
▽ 12月30日(月曜日) 長野県・信州麻雀スクール/ 07:20
徹夜明けの頭を振りながら、栄養剤を片手に、春金清は仕事道具を清掃する。牌の一枚や点棒の一本に至るまで磨き上げる彼女は、不眠のため精神が躁状態にある。同じように教室内の清掃に励む同僚に鬱陶しがられながらも、どうにか今年を乗り切れたことを彼女は声高に祝う。
(まあ、相変わらずの自転車操業。来年は危ういかな)
と、後ろ向きな思考に浸った矢先、備え付けの電話が鳴り出した。春金も含めた同僚たちが、互いに顔を見合わせる。年内の営業はすでに終了している(もっとも、今夜からはこの教室はちょっとした賭場に趣を変えることになるが、通常の客層はそんな事実は知らない)。周囲が向ける催促の視線に押されるようにして、結局春金が受話器を取った。
「はい、信州麻雀スクールです。申し訳ありませんが、年内の業務は――はい、私ですけど……って、数絵さん? あれ? なに、ひさしぶりじゃん。どしたの、こんな時間に。ううん、いいいけど、え、いま駒ヶ根SAにいんの? じゃあもうすぐ着いちゃうじゃん。あ、じゃあ、年越しはこっち? へえ――あ、そういえば、駒ヶ根っていえばさ、月子さんが今日――」
▽ 12月30日(月曜日) 鹿児島県・霧島市・国分/ 07:20
眠れぬ夜の次に、旅立ちの朝が来る。凍りつくような空気の中で、少年は鈍くのっぺりとした灰色を貼りつかせた空を視る。端々にかかる薄雲は襤褸切れのようにも見える。所々穴の開いた雲の衣はいかにも寒々しくて、彼の眉間に皺を刻ませた。
「着替えは持った? あと、ハンカチと、ティッシュと、くつしたと、あ、向こうは寒いから懐炉もきっと要るわ。持ってる? ねえ、やっぱりひとりで大丈夫かしら……」
目の前で旅支度を指折り数える従姉の姿を、石戸古詠はどこか隔たった眼差しで見つめる。
「ひとりじゃないよ」と、彼は平坦な声色で応える。極力従姉を安心させるような表情を心がける。「空港でお祖母さんとも合流するからさ。それよりほんとにごめんね。こっちは色々忙しくて大変な時期なのに、ぼくだけ旅行に行かせて貰っちゃって」
「もう、それはいいっていったじゃない」
と、石戸霞は柔和に微笑んだ。年のころはまだ12程度だというのに、彼女には見るものを心安くさせる独特の雰囲気がある。また彼女は年齢に比して身長や体格も早熟である。そんなわけで、古詠と並んで歩いた場合二人が一つ違いの姉弟と見られることはほとんどなかった。
「神代さんや狩宿にもお土産買ってくるから、よろしく言っておいてよ。次に会うのは年明けになっちゃうけど」
「ええ……」
見送る霞の表情は、あくまで不安げだった。
「あと薄墨さんには――」クリスマス当日にインフルエンザに罹り、隔離状態で本家の一室に臥せっている年上の麻雀仲間を思い、古詠は言った。「『よいお年を』って言っといて」
「ええ……え? それわたしが言うの?」
この年嵩の従姉の存在は、いつも古詠を少しばかり混乱させる。彼女は古詠の死んだ母に瓜二つである。そして古詠もまた、母に良く似た面立ちをしている。当然、霞と古詠も顔立ちや雰囲気は似通っているのだった。だから古詠と霞を並べて血縁を疑うものはどこにもいない。身内さえ、縁遠い中には二人が従姉弟ではなく実のきょうだいだと勘違いしているものもいる。
けれども実際は違う。霞は古詠にとってあくまで従姉である。この夏に出会うまで存在さえ知らなかった他人である。そこに加えて『母に似ている』という要素がある。その要素はいまの石戸古詠にとって負でしかありえない。日々夜毎母の亡霊に脅かされている彼にとって、母の面影は何であれ歓迎すべきものではない。
もちろん、その不快感は霞にぶつけていいものではない。古詠にもその程度の分別はある。ただし感情を完全に割り切れるほどいまの古詠には余裕がない。元々どこか超然とした物腰の従姉を、彼は得手にはしていなかった。彼女と相対する場合、古詠は常に膜を一枚挟んでいた。
霞個人に対する感興といったものは、古詠のなかにはほとんど存在しない。霞に限らず、他人全般について古詠は特別な感情は持ったことがない。ただ霞が持つ種々の性質が、古詠を戸惑わせるだけである。
そんな内心を表出させないよう、彼は腐心する。
「じゃあ、霞さん――」
と、口にすると、霞の顔がほんのわずかに曇る。他人行儀な呼び方が露骨に線を引かれているようで気にしている――とは、古詠が鹿児島に来て作った数少ない友人の助言である。
そのことを思い出した彼は、それらしい言葉を推し測り、訂正した。
「――じゃなくて、お姉ちゃん。いってくる」
言い直した台詞を耳にした霞は、一瞬だけ気まずさを堪えるような顔をした。自分が無理に呼ばせているのではないかと気にしている顔だった。
ただ、そんな葛藤は喜色に塗り替えられて、すぐに消えた。霞は年相応の、屈託のない笑顔を面に浮かべた。
「――はいっ。いってらっしゃい、古詠くん」
上機嫌の霞に手を振って、空港へ向かうバスの発着場へ古詠は歩き出す。彼の胸裏には呼称一つで一喜一憂する従姉への不可解さと、ただ場を凌ぐために彼女の機嫌を取ったことについての若干の後ろめたさがある。古詠は霞がどうすれば喜ぶかを知っていても、霞が
古詠が持つ霞に対する感謝に偽りはない。世話になっているという認識もある。だからことあるごとに言行で報いている。けれども根本的な所で古詠と霞の互いに向けた姿勢には齟齬がある。霞は古詠を家族として、弟として扱うと決めている。彼の入り組んだ生い立ちを労わりたいと、少女らしい善良さで心から考えている。
古詠は彼女に、しかし何も求めていない。家族であってほしいとも考えていない。彼女から何かを受け取ろうとも思っていない。古詠にとっての鹿児島の石戸家とは、行き場のない自分を引き取った親切な人々である。それ以上でもそれ以下でもない。だから彼は尽きない感謝を行動として表している。遠慮や気遣いがなくなることはない。
この数ヶ月を経て、さすがに古詠は彼と霞を始めとする人々との温度差に気づいている。ただしそれを無理に正すことに益はないということも知っている。だから彼は自分の器量が許す限りそれらしく振舞う。善い少年、良い子供として、石戸古詠は鹿児島の地での半年を過ごした。
母の亡霊を常に傍らに置いたまま。
やがてバスが来る。彼は左隣を見る。そこには歳を取った霞――ではなく、死んだはずの母がいる。彼女はやはり涙を流している。古詠はもうその妄想に反応しない。彼はすっかり自分の狂気を受け入れた。欠伸をかみ殺し、バスに乗るすんでで、頬に冷たいものを感じる。
空から雪が降っている。
(初雪か)
感情は揺れない。
頬に触れて解けた雫を拭って、彼は父と妹がいる土地へ旅に出る。
2013/1/7:感想でご指摘頂いた箇所を修正(漢字を開いていた箇所がわかりにくかったため変換)
2013/2/20:牌画像変換