ばいにんっ 咲-Saki-   作:磯 

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8.たそがれミーム(後)

8.たそがれミーム(後)

 

 

 ▽ 12月下旬(月曜日)長野県・長野市・権堂町/ 15:02

 

 

 その娘についての噂がある。

 陳腐で根も葉もないけれども、それだけに誰もが無遠慮に装飾を貼り付けていく。

 たとえばこんな話が、ある場所で行き交う。

 

 いわく、彼女は駅前の通りで事故死した小学生の霊である。彼女の家庭は貧窮しており、父母はパチンコ・スロットに足しげく通っては消費者ローンの戸を叩き、返金するために借金する類の人間であった。父母はしばしば親類友人に金銭を無心することがあった。そんなとき、ともに連れ出されたのが少女である。哀れを演出するための小道具として、両親に少女は利用された。用が足りれば彼女は、盛り場の夜が23時を迎えるまで――煌びやかで騒々しい店舗が鎧戸を降ろすまでのあいだ、放置された。そんな彼女が時間を潰していたのがゲームセンターだった。もちろん少女は遊ぶ金など毫も持たない。時おり少女を哀れんだ大人がいくらか彼女にゲームを奢ってやると、常は俯いて決して顔を上げない彼女は眼を輝かせて喜んだ。もっともそんな奇特な人種がそうそう現れるとは限らないし、良からぬ目的を持って少女に近づくものもいる。何より盛り場は警邏の巡回路である。いちはやく少女の境遇を問題視したのは、親切な警官だった。

 警官は彼女の環境を聞き、両親に苦言を呈した。表面上、両親は諾々と官憲の説教に頭を垂れたが、内心は面子を潰された屈辱で満ちた。その矛先は少女に向いた。彼女に金輪際警察に見咎められるような()()は打つなと固く言い聞かせ、きつく折檻した。もちろん、少女は素直に両親の言うことに従うほかなかった。彼女はことのほか他者の視線に過敏になった。誰かに声を掛けられそうになればすぐに身を隠した。追われれば素早く逃げた。ある日、くだんの警官が再び彼女を見かけたときも同じだった。少女は言いつけの通り警官の目から逃れ、――そして、通りで左折するトラックの内輪に巻き込まれて帰らぬ人となった。

 以来、そのゲームセンターには()()という。誰もいないはずの空間で、筐体だけが音を発していることがある。そんなとき、その場所には()()がいる。目を凝らしに凝らすと、幽かな影が見えることがある。そこには少女が座っている。少女は楽しげに笑っている。生前自由に楽しめなかったゲームを、好きなだけ遊んでいる。

 

 ディテールがやや凝っているせいか、現実的でやるせない感はあるものの、ありきたりな怪談である。眉に唾して聞く気も起きないほど平々凡々とした巷説に、異常があるとすれば()()がほんとうに存在する点に尽きる。

 

 ――という、その界隈で最近まことしやかに流れる噂を、余所者の須賀京太郎はもちろん知らない。存在感が薄すぎて一見幽霊に見えなくもないという特異体質を活かして噂を積極的に流しているのが()()当人であることも、かれはもちろん知らない。噂には生い立ちも含め一切真実が含まれていないことなど知るはずはない。

 ()()の名前は東横(とうよこ)桃子(ももこ)という。

 孤独を極めた少女である。

 単純に偶然、二人はその日出会った。

 

 

 ▽ 12月下旬(月曜日)長野県・長野市・権堂町/ 15:02

 

 

「……」

 

 投じられたフランクな質問を持て余して、三秒ほど、京太郎の心中でいくつかの行動が浮かんでは消えた。幽霊という過去例のない入力に、さしものかれも反応に窮したのである。

 応じる。目を擦る。一度死んだ感想を聞いてみる。自分の正気を疑う――いずれも適当ではない気がした。そもそも正解があるかどうかもわからなかった。だから、最終的にかれは、黙殺を選んだ。さりげなく左側の気配から目を逸らして、画面に再び向き直る。筐体に硬貨を投入し、また対局を始める。

 

 横目を少女に向ける。

 少女は笑顔のまま固まっていた。それもやがて解けて、彼女は諦めきった調子で嘆息する。床に届いていない両足をぶらつかせると、

 

「……あー」

 

 と、低い声でうめいて操作盤のうえに突っ伏した。

 非常にわかりやすい落ち込みようだった。

 

(う)

 

 京太郎の胸が、罪悪感に疼く。そもそも隣席の少女が本当に幽霊なのかと、脳裏で自問が渦巻いた。しかし一度無視してしまった以上、今さら声を掛けるのも白々しい。また、そもそも少女が生きていようと死んでいようと、京太郎に関わりはないのである。

 かれは気持ちを切り替え、画面上の対局に集中する。

 

 東一局0本場 ドラ:{二}(ドラ表示牌:{一})

 配牌(南家)

 kkk(京太郎):{一五九①④⑤⑦⑦289西北}

 

 和了目を見出せない配牌だった。が、京太郎はこうした配牌が嫌いではない。1巡目で一向聴や二向聴であるよりも、自摸次第で行方が決まる手作りが好みである。もっとも今回に限れば、たとえ聴牌を果たしたところで打点は高が知れている。月子の教えに即せば安牌を溜めて見に徹する場面であった。

 麻雀は四人で行う遊戯であり、四局に一度、和了れれば首尾は上々である。自身の和了番で、如何にして他家に打撃を与えるか――そして、他家の和了番では、如何にして被る害を抑えるか。京太郎は、単純にその二点の巧拙が麻雀における肝だと考えている(そして、毎局必ず聴牌を入れるような『強さ』を、かれは最初から考慮していない)。

 和了を目指すとき、打ち筋は拘束される。自摸の向き先を察知し、山から最終形を掘り当てることに神経を割く必要がある。同時に他家の歩みに目を向ける必要もある。自摸切りの頻度や空切り、待ち替えの有無。場に見えるドラの枚数。巡目が進めば進むほど、局面は張り詰めて、来るべき決着の瞬間を強く浮き彫りにする。思考は情報の波に浚われて、意識からは余分な領域が削ぎ落とされる。

 

(相手の顔が見えない麻雀)

 

 為すべきことは変わらない。ただし現実で打つ麻雀とは、やや情報量に差がある。摸打が自動的に処理されるために、進行も円滑である。リズムよく巡目を深めていく局面に没頭して、京太郎はひたすら打つ。思考が先鋭化される。教え込まれた牌理が、打牌の取捨選択を円滑にする。もっとも、最大効率を追いかけたところで裏目からは逃れ得ない。マクロな最適解とミクロな正着手は、往々にして食い違い、最終的に一致する。

 

(何回も――何千回も、何万回も)

 

 京太郎は打つ。

 

(頭を捻って、知恵を絞って、繰り返し打つしか――ないのか)

 

 じわりと、頭が熱を持つ。

 

(そうしてるあいだに、おれと、照さんの差は、どれだけ広がるんだ)

 

 女々しいと自覚しながらも、かれの思考は宮永照を追いかけた。正確には、彼女の麻雀を追いかけた。京太郎の脳裏には、24時間前に彼女が重ねた摸打がこびりついている。かれは具に敗北した半荘の展開を思い返すことができる。

 京太郎は思考の半分で画面上の半荘をこなし、残り半分で昨日の感想戦を行う。

 

 東一局0本場 ドラ:{二}(ドラ表示牌:{一})

 1巡目

 kkk(京太郎):{一五九①④⑤⑦⑦289西北} ツモ:{二}

 

 打:北

 

({八2348東白白發發發發中}――上家打{九萬}手出し、自摸{6}打{發}、下家打{1}手出し、対面打{①}手出し、上家打{北}手出し、自摸{東}打{中}、下家打{二萬}手出し、対面打{⑤}手出し、……)

 

 東一局0本場 ドラ:{二}(ドラ表示牌:{一})

 4巡目

 kkk(京太郎):{一二四五③④⑤⑦⑦⑨899} ツモ:{東}

 

 打:{東}

 

(――上家打{西}前巡自摸の手出し、自摸{2}打{八萬} 、下家打{南}1巡目自摸の手出し、対面打{南}自摸切り……)

 

 思考の比重は、徐々に現在よりも過去へ傾いていく。

 

(出和了を狙うとしても、發の暗槓はほんとうになかったか? ドラの活かしどころはなかったか? あの手は鳴いてでも和了るべきだった――)

 

 東一局0本場 ドラ:{二}(ドラ表示牌:{一})

 9巡目

 kkk(京太郎):{二四四五③④⑤⑦⑧⑨99北} ツモ:{二}

 

 打:{北}

 

(おれは、あのとき、)

 

 東一局0本場 ドラ:{二}(ドラ表示牌:{一})

 12巡目

 kkk(京太郎):{二二四四五③④⑤⑦⑧⑨99} ツモ:{二}

 

(――ほんとうに、勝とうとしてたか?)

 

 打:{五萬} (立直)

 

 そのとき、

 

「え。両面に受けないんっすか?」

 

 と、声が上がった。京太郎はほとんど無心で、

 

「そうだなァ――もうちょい浅ければ普通に両面で受けただろうけど、直前で二枚も{三萬}{六萬}の筋が処理されたし、対面も1巡前に{五萬}落としてる。マタギをそんなに信じてるわけじゃねえけど、関連牌が他に全然見えてないし{五六か四五}、ちょっと捻ってドラ期待の{一三}の塔子があるような気がする。で、塔子が{五六}だった場合{四萬}打ったら刺さるだろ。どっちにしても{三六}の筋はもう山に生き残ってる気がしないから、それなら四枚壁になってる{8}頼みに1枚切れの{9}出てくるかな、と」

 

 一息に答えた。

 

「あ、なるほど――っす」

「まァ、それでも、{四萬}が通りそうだったら普通に両面に受けるべきなんだけどな――」

 

 自然に受け答えしている自分に気づいて、京太郎ははっと周囲を見回した。

 先刻いた気がした少女の姿は、かれにはもう見えなかった。薄ら寒いものが背筋を伝うが、それも一瞬のことだ。恐ろしいという感覚がないわけではないが、恐怖に対する具体的な方策が思い浮かばない。

 受け入れるほかないと悟れば、とくに迷わず京太郎は不思議を容れることができる。

 

「――そのほうが枚数有利だし」

 

 そして次巡、自摸った{三萬}で放銃して、赤恥を掻いた。

 

「こういうこともあるわけだ」

「それが麻雀っすからねぇ」

 

 しみじみとした共感の言葉に安堵している自分に気づいて、京太郎は思わず苦笑した。

 

 

 ▽ 12月下旬(月曜日)長野県・長野市・権堂町/ 15:51

 

 

 16時前に、京太郎はゲームセンターを後にした。

 出掛けに、缶ジュースの自動販売機で温かい汁粉を買うと、かれはそれを麻雀ゲームの筐体に置いた。踵を返して階段へ向かうと、「忘れ物っすよ」という声がかかった。京太郎は律儀に、

 

「お供えだ」

 

 と答えた。

 

 いささか時間を無為に費やした感があるが、もともと目的といえば漠然と死に場所を探す程度の外出である。焦ったところで詮無いと思いなおし、かれはのんびり街を散策する。

 姿のない声の主とは、あのあと二、三度会話にも満たない言葉を交わした。全てに麻雀に関わる話だった。いかんせんプレイ中だったこともあり長々と話し込むことはできなかったけれども、京太郎は自分の中で死のイメージが変わるのを感じた。

 

(おれが死んで、死んだとして――幽霊になっちまって、あんなふうに、ゲーセン麻雀打ってるなら、それはいまと何が違うんだろうな)

 

 益体がないが、悪くもない空想だった。思い出し笑いをマフラーの下で噛み殺して、京太郎は歩く。陽は傾き、日中の温もりは失われつつある。冬の信州における寒気に妥協はない。相当な厚着越しにも染み入る冷気は、京太郎の身を竦ませる。市街地の中心を抜け、緩い歩調で、かれは道なりに進み続けた。

 空の色彩から、蒼が抜けつつある。皮膚を刻むような風に晒されて、むき出しの耳が少し痺れる。家路につく同年代の子供らを見送りながら京太郎は往く。河でもあればな、とかれはふと思う。この季節である。コートを脱いで水に飛び込めば、溺死よりも先に心臓が止まるかもしれない。と、極力楽な死に様を選り好みしている自分に気づいて、京太郎は馬鹿馬鹿しくなる。

 理由をつけて死を順延させるのであれば、それは結局死にたくないということである。

 

(そうだな)

 

 今さら、京太郎は、認めた。

 

(おれは、たぶん、死ぬほど死にたいわけじゃないんだよ、照さん)

 

 ただ、()()()()()()だという思考から、どうしても逃れられないだけだった。生きていることに違和感がある。後ろめたさがある。日々の暮らしに収まりがつかない。京太郎の歯車はどこかで歪み狂って、今日まで狂い続けている。不協和音はもう無視できないほど高まっている。

 

(――そこだけは、あんたの間違いなんだ)

 

 わかりやすい原風景があればよかった。たとえば、両親との不和や、心に深い傷を負うような具体的な何かが過去にあれば、京太郎はそこに悪因を見出すことができただろう。けれども京太郎の思い込みに特別な由来や明確な原因はない。だからこそかれは、誰にも心情を吐露することができなかった。不満も意味なく、ただいなくなりたいと臆面もなくいえる勇気も厚顔さも、かれにはなかった。

 秘していたそれらの感情を見破られて、自棄になった。

 それがいまの京太郎である。きょう一日の行動が、無様で稚拙であることはかれも十分自覚していた。その認知は苛立ちに拍車を掛ける。達観した振る舞いをしつつも、感情の奔流には抗えない。いっそ全てを終わらせる心算で踏み出した逐電も、時間を置きすぎたせいか冷静さと怖気に絡め取られつつある。かれはいよいよ自分がわからなくなる。何をすれば良いのか、何をしたいのか、何が正しいのか。全てに明確な答えがほしいと痛切に思う。しかしそもそも自分が何を問題としているかもよくわかっていないことに気づく。端緒である『衝動』には理由がない。理由がない以上抜本的な除去などできるはずもない。自分が最初から袋小路にいて、『衝動』を解消することでしか問題に終わりは来ないことをかれは知る。

 

(なるほど)

 

 一応の帰結を見て、京太郎の心は軽くなる。いい加減、思い煩うことにかれも嫌気が差していた。ここまで遠出した以上、何らかの決着を付けたいという心理も手伝った。

 かれは踏み切ることにした。

 すると、驚くほど肩が軽くなる。思い定めて行動に移れば、あとはほとんど迷わないのが京太郎という少年の特性だった。澄み渡った思考に任せて、()()()()()のに適した場所をかれは探す。

 あちこちの標識を見、西に橋があることをかれは知る。太陽が沈む方角へ漠然と向かう。胸の内に涼やかな風が吹いているようだと、京太郎は感じる。迷妄や躊躇を断つことは、かれが快適に生きるために(そして死ぬために)、恐らく必要不可欠だった。身を切り裂いていくような寒さも、いまは気にならない。

 やがて日も落ちる。

 すでに、京太郎の脳裏から帰宅の選択肢は消え去っている。かれは、急かされるように歩く。二十分ほど歩いたところで、河川に架かった橋にたどり着く。薄暮の橋に宮永照の背中を幻視したが、もう心は疼かない。吐く息が白く天に立ち上るのを、眺めて、かれは橋の中ほどに行く。欄干に手を掛ける。川面に目を向ける。水位が思ったよりもずいぶん低い。京太郎の矮躯であっても、足は容易に川底へつきそうだった。流れも穏やかで、到底溺れやすそうには見えない。

 ただ、きれいな川だと思った。

 落ちつつある陽光の緋色が水面に映えて、不定形の光の鱗が、誘うように揺れている。かれは鞄を足元に置く。靴も脱ぐ。マフラーをほどき、コートを脱ぎ、その場に畳む。通りすがった老婆が、けげんな顔をかれに向ける。声は掛けてこない。かれは快活に「こんにちは」といって笑う。老婆は戸惑った風に挨拶を返し、会釈して通り過ぎていく。

 京太郎は天を仰ぐ。これまでも幾度か、無体な運試しに身を投じたことはある。死んでもいいと思い、実際に大怪我を負ったこともある。ただ過去の行いは、『衝動』に促されてのものだった。それらはどこか自動的で、真実単なる衝動だった。どうしようもない何かの発露として、京太郎は死に少しずつ足を進めていった。

 今回は違う。

 かれはかれが思う必要性に従って、命を投じようとしている。結果は二の次である。死んでも、死ななくても、どちらでもよい。命を擲つことそのものに、かれは興味があった。これまで自分の頭を悩ませ続けた命題がどの程度のものか、その実態を知りたかった。そのためには、どうやらほんとうに死んでみるしかない。だから、かれは死んでみようと考えた。

 照や家族のことも、頭の中から消え去っていく。最後に残ったのは、これまでに幾度かあった、思い出深い対局の記憶だった。図書館の対局を思った。級友たちと打った人生最初の勝利を思った。石戸月子に巻き込まれた勝負を思った。池田華菜に連れて行かれた金を賭けた勝負を思った。花田煌に誘われ出場した小さな大会を思った。南浦数絵とその祖父に受けた指導を思った。宮永照に喫した敗北を思った。いずれも、かれの中で、決して色あせていない記憶だった。

 

 その事実は、京太郎をそれなりに満足させた。

 

 一息で欄干によじ登ると、京太郎は呼吸を調えた。

 風が一際強く吹いた。

 視界の端で、黒髪が流れるのを見た。

 

(――月子?)

 

 もちろん、違った。

 ゲームセンターで見たあの少女が、そこにいた。

 京太郎は彼女を凝視する。確かに、そこに()()。やはり薄い印象だが、存在していることには間違いない。少女はそこに立ち、息づいて、足下には影も見える。顔には表情もある。いま、彼女は何かに驚いたように目を丸くして、京太郎を見ていた。手には未開封の汁粉の缶が握られている。

 

「よう」

 

 と、京太郎はいった。

 

「どうも」と、少女は呟いた。

「あー、っと」京太郎は、その反応を見、「おまえ、もしかして、幽霊じゃない?」

 

 少女は無言で頷いた。

 

「そりゃ、わるかった。お供えなんていって」京太郎は笑って、手を立てた。「勘弁してくれ」

「そうっすね。だから、コレは返すっす。もらう理由、ないんで」

 

 少女は素っ気無くいって、缶を京太郎の足元に立てた。

 そして、じっと、欄干に立つ京太郎を見据えた。

 

「いっしょに麻雀やったよしみで、いっておくっす」

 

 淡白な調子で彼女はいった。

 

「今、冬っすよ」

 

 思わず、京太郎は吹き出した。

 

「知ってる」

 

 と、笑いながら、かれは答えた。

 

「じゃあ、何しようとしてるんすか」

 

 笑われたことが気に障ったのか、やや硬質な声で彼女がいった。

 

「いや、まァ――気にするなよ」

 

 嘆息すると、京太郎は川面を名残惜しげに見て、かぶりを振った。いつぞやの照の言葉を思い出した。もちろん、幽霊ではないと判明した少女の目前で川に飛び込む気はない。そそくさと欄干から足を下ろし、靴を履きなおした。コートを着込み、鞄を持ち、少女につき返された汁粉を掴む。買った際は暖かかった缶は、外気に晒されすっかり温度を失っていた。

 

「要らないなら、飲んじまうぞ」

「どーぞ」猜疑心に塗れた瞳で、少女が応じた。

 

 京太郎は冷え切った指をプルタブに掛ける。気の抜けた音と共に開封された汁粉が、仄かに甘いにおいを立ち上らせる。できれば暖かい内に飲みたかったとこぼしながら、京太郎は一息に中身を呷った。

 

「――それじゃ」

 

 口内に充満する甘味に顔をしかめて、京太郎は黙然と佇む少女に背を向ける。

 その背に、やや掠れた声で、問いが飛んだ。

 

「麻雀、好きなんすか」

 

(――)

 

 京太郎は足を止めた。

 振り向いた。

 

「なんで、そう思う」

「さっきの……ゲームセンターで」

 

 少女は、京太郎の勢いに喫驚した様子でこたえた。

 

「――ずっと、すごく、楽しそうだったから」

 

 その回答は、綺麗に京太郎の穴を埋めた。

 無闇な納得が、京太郎の胸に落ちた。慮外の感情が、ふいに京太郎の感情を揺さぶった。過去に類を見ないほど大きく、突然の不意打ちだった。かれは危うく声をあげて泣き出すところだった――かろうじてその感情を呑み込むと、次に訪れたのは笑殺の衝動だった。

 それら全てを一瞬で処理して、それでも隠しきれずに声を震わせながら、京太郎は、

 

「好きだよ」

 

 と、いった。

 

「それより大事なものも、やりたいことも、あるかもしれない。でも、おれは、麻雀が好きだよ」

 

 口にして、それが正解だと理解できた。

 

 そろそろ夜になるな、とかれは思った。

 




2013/2/19:牌画像変換
2013/4/2 :変換漏れを修正

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