ばいにんっ 咲-Saki-   作:磯 

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7.たそがれミーム(前)

7.たそがれミーム(前)

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 17:05

 

 

 木枯らしが気忙しげに渦を巻く。襟元を撫でる寒風に、帰り道を行く少年少女が身体を縮こまらせる。昨日と同じように散り散りに家路へ着く流れの中で、二人ばかりが校門へ続く途上に立ち止まっている。動かない二人は少年と少女である。二人は言葉少なく相対している。少女は東を見、少年は西に向いて佇んでいる。必然少年の目には夕暮れの全景が映りこむ。かれの瞳の中で、今日も冬の太陽は山の端に沈む。橙色の残照は一本の剣のように校舎を貫き、窓を透かし、須賀京太郎の眼球を焼いた。

 かれは右手を面前にかざして両目を細める。

 太陽を背にする宮永照を見る。

 彼女は校舎に自分の存在を刻むように、長い影法師を引き連れて立っている。照の立ち居は、数時間前この小学校を訪れたときから何ら変わりない。彼女の様子がおかしく見えるのは、だから京太郎の側に変化した要素があるためだった。京太郎は靄がかかったような頭で、

 

(負けたなァ)

 

 と、思う。

 念願だった照との麻雀に対する感想は、それに尽きた。

 照との半荘は都合五回行われ、照はその全てを他家を飛ばして終了させた。しかも五回のうち二回は、自分以外の三家を全て飛ばすという有様だった。終わってみれば、南場に漕ぎ着けたのは、月子が参加していた最初の一半荘だけである。その後の四回は、南場にさえ辿りつくことはできなかった。

 

(負けた――)

 

 と、繰り返し京太郎は思う。その独白の空々しさを、かれは認めざるを得なかった。()()()、とかれは実際に口に出して呟いてみる。

 それは、とても事実には思えない。照と打ち交わした麻雀に、勝ち負けなどありはしなかった。照はただ和了り、飛ばし、終わらせただけだ。誰も彼女に追随さえできなかった。月子以外は、彼女から直撃さえ奪えなかった。「勝負にならない」という言葉の意味を、はじめて京太郎は具体的に実感した。

 

「石戸さんは」

 

 と、日暮を背に受け照が呟く。朴訥とした口調にやや気懸りな情が混じる。京太郎はそれを察して、強いて気楽に応じた。

 

「大丈夫だと思う。ただ、気分が悪くなっただけだってさ。一半荘しか打てなくてごめんって、照さんに伝えといてって言われた」

「うん」

 

 頷きを返す照の表情は、京太郎の位置からではうかがい知れない。真正面に立っているにも関わらず、逆光が照の端整な顔を塗り潰している。顔のない女と会話をしているような気分になって、京太郎は矢継ぎ早に言葉を連ねた。

 

「あいつ、ふだんはすげえ丈夫で、全然寝なくてもケロっとしてるようなやつなんだ。珍しいこともあるもんだ――」

 

 かれの脳裏には、口にする話題とは全く異なる情景が浮かんでいる。一半荘目の南一局、弛緩した意識で河底を打った時点から、京太郎の態勢は取り返しがつかないほどに崩れた。

 あの失着に、精神的な衝撃を受けたというわけではなかった。良くも悪くも、京太郎の放銃は凡庸なエラーでしかない。悔やむに悔やめない気持ちはあるが、麻雀を打っていればどこかでああした失策は犯すものである。忘れては意味がないが、一日引きずるほど大仰なものでもない。とくに京太郎は気持ちの切り替えが早い性質だったから、一度の誤謬を長く引きずるということは少なかった。

 衝撃という意味では、一半荘目に京太郎が飛んだ直後、月子が卓に突っ伏して動かなくなったときのほうがよほど京太郎を驚かせた。対局が始まって以降、月子が始終顔色を悪くしていたことには気づいていた。それでもかれの中には身体的には頑健極まりない石戸月子のイメージがあって、彼女が倒れたという事実に、思考は一瞬ついていかなかった。

 月子は呂律の回っていない口調で「少し休む」といい、教室の端に座り込むと、とうとう夕方まで復帰することはなかった。月子の開けた穴には適当に他の卓の面子を引き込み、順番に入れた。即席のメンバーは皆照と一度打つと辟易したような調子で席を立ちたがった。傍目には照の麻雀は幸運(バカヅキ)を大上段に振りかぶった摸打そのもので、手のつけようがない。片岡以外はろくに聴牌すら入れられずに箱下終了を押し付けられるのだから、京太郎も気持ちはわからないでもなかった。結局二度以上照と同卓したのは、京太郎と片岡だけである。 

 

 音をあげたのは、京太郎が最初だった。五度目の半荘で、照が起親だった。東一局で京太郎、片岡、そしてもう一人が飛んで試合は終わった。

 誰も何もしないままだった。

 勝負は始まりさえしなかった。

 永遠に始まることはないだろうと、承服せざるを得なかった。

 そして京太郎は、無力を悟った。緊張の糸が途切れるのを感じた。だから、片岡が「もう一回」と口に仕掛けるのを制した。

 

 時計が17時前に差し掛かるのを見て、そろそろ終わろうか、とかれはいった。

 

 片岡は、その言葉にショックを受けたようだった。大きな瞳を瞠り、口を開けて、何事かを声にならない声で口走った。京太郎が聞き返す間もなく、疲弊しきった様子で席を立つと、彼女は「帰る」と一方的に宣言した。瞳は潤んで、今にも雫を落としそうだった。けれども泣くことはしなかった。京太郎は片岡の意地を見た気がした。無言で遠のく小さな背中にどんな言葉を掛けるべきかもわからず、ただ教室を出て行く片岡を見送った。

 

 なんとなく、もう彼女と麻雀を打つことはないかもしれない、とかれは思った。

 

「帰るね」と、照がいった。「今日は、ありがとう」

 

 少女が踵を返す。陽が没しきる。

 京太郎は、発作的にその背に声を掛けた。

 

「ごめん」

 

 照が足を止めた。

 

「――なにが」

 

 と、彼女はいった。

 京太郎は、言葉に詰まった。咄嗟に発した謝罪の裏を、詳らかに話すべきか今さら逡巡した。「なにが」と照は言った。彼女は今日一日の出来事について、特に問題を感じてないのかもしれない。けれども京太郎には、到底そうは思えなかった。

 照は今日、一度もまともに「麻雀」を打てなかった。

 

(たとえば)

 

 と、京太郎は思う。

 この日、彼女は決してオリなかった。あらゆる聴牌に妥協なく突っ張った。暴牌としか見なせない打牌を幾度も繰り返した。だれもそれを咎められなかった。照は結局、読みと指感のみを頼りに全ての対局を乗り切った。それで特に問題もなく、放銃もなかった。それで乗り切れる程度の対手しか、照の卓にはつかなかった。(たぶん、月子以外は)誰も照の思考を、意識を、予測を超えることはできなかった。

 そして、照が特定の誰かを狙い撃ちにするということもなかった。時には一発の出和了を見逃して自摸和了に徹したこともあった。高目を放棄し安目で和了ることもあった。照は丁寧に丁寧に力の加減を調整しているのだと京太郎は感じた。それでもなお、かれは彼女の敵とはなりえなかった。

 悔いさえ浮かばない。

 京太郎は純粋に不甲斐なく、そして只管に照に申し訳がなかった。

 こんなにもつまらない麻雀があり、それをよりにもよって照に強いたことが、京太郎が思う最大の過ちだった。

 

 こうした心境の諸々を、京太郎は全て言葉にして整理することが出来たわけではなかった。かれの心象は混沌として、ただ、疲れていた。

 

「――いや」

 

 結局、ろくに言葉を継げずに、京太郎はため息をついた。

 その間を見計らって、

 

「やっぱり、帰る前にすこし、あるこうか」

 

 照が平坦な口調で提案した。

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 17:17

 

 

「今日も、寒いね」

「ああ……」

 

 しなやかな背中を追いながら、京太郎は照の意図が読めずに、曖昧に頷きを返した。日はすっかり落ちた。街灯がちらついて、黄色い光を放っている。ふたりは校舎の周囲に流れる小川に掛かった橋のうえにいる。吐息の白さと星の輝きを見比べて、京太郎は照の言葉を待った。

 照がいう。

 

「京太郎は、今日、楽しかった?」

 

 京太郎は刹那、目を閉じて、

 

「楽しかった、とはいえないな」

 

 と、答えた。

 照は続けて、

 

「じゃあ――()()()()()()()()?」

 

 と、尋ねた。

 

「――ええ、と」

 

 今度は即答できなかった。

 掠れた、音になり切れない声で、どうかな、とかれは呟いた。

 

 石戸月子が危惧していたような、敗北による瑕は、かれには刻まれなかった。京太郎は相応に沈み、気落ちして、けれども何事もなければ、明日からまた牌を握るだろう。心の奥底で今日の出来事を引きずりつつ、表面上は何事もなく麻雀に没頭するに違いない。

 人の心理が具える襞は複雑極まりない。それは誰であろうと変わりない。ただ、須賀京太郎という少年が抱える厄介さは、他者に与える印象と実態に途方もない乖離がある点にあった。かれは多少捻くれつつも基本的には善良で、麻雀が好きで、運動もそれなりに得意で、勉強はややまずく、勝負事に傾倒するきらいがある。それらは紛れもなく京太郎を構成する不可欠な要素の集合で、わかりやすいかれの特性だった。

 ただし、それら全ての特性の根底には、かれが殆ど表出させないひとつの指向が存在する。

 

 煮え切らない京太郎の返答を待たずに、照はさらに続けた。

 

「京太郎は、どうして麻雀をするの?」

 

 彼女の声色に、特別なものは含まれていない。世間話の延長に、照の問は存在する。実際に変哲のない言葉は、けれども、京太郎にとって刃物のような鋭さを孕んでいる。

 

「楽しい、から」今度はようよう、しかしはっきりと、京太郎は答える。

「何が、楽しいの?」

 

 京太郎は言葉に詰まる。返事が思い浮かばなかったからではない。

 理由を口にすることが、単純に憚られた。

 

(それは――)

 

 宮永照の言葉は続く。彼女の質問は無垢で、他意などなく、たんに京太郎という少年を知ろうとしている。詰責の響きはない。言葉に悪意はなく、無機的で、だからこそ犀利だった。照の直観と洞察は鋭利過ぎた。彼女は自分の()()()()()()()ことにまだ無自覚だった。虫や動物を解剖するような無頓着さで、照は京太郎を披きつつあった。

 

()()()()」と彼女は重ねて言った。「()()()()()()()()()()

 

 照は静かに呼吸する。

 京太郎は息さえ詰めて、照の横顔を眺めている。彼女は手袋を欄干に添えて、静かに双眸を河流へ向けている。うろのように凝った闇の奥で水の流れる音がする。そんな雑音でもなければ時が止まったと錯覚しかねないほど、照の表情は動かない。

 

「あのときもそうだった」

 

 と、照はいった。

 

「ずっとそうだった。京太郎は、ほんとうは、麻雀とは違うことがしたいように思える」

 

 京太郎の喉が鳴る。

 静止していた照の横顔が動いた。ゆっくりとずれた眼差しが、京太郎の視線と交わった。真っ直ぐに引かれた眉毛の下で、息を呑むほどに深く澄んだ照の瞳が京太郎を凝視(みつめ)ている。

 

「京太郎は、どうして、わたしと、うちたかったの」

 

 照の質問は最後まで密やかで、正しい回答を期待している風でもなかった。

 

「――京太郎は、どうしてそんなに、()()()()()

 

 問いを発し、それを受けた少年の様子だけで十全を知りうる少女は、具体的な言葉を求めない。子供から少女への、そしていずれ女への変遷を控えた宮永照は、京太郎がその短い生涯で秘し続けた事柄の大半を、一瞥で解き明かした風だった。

 照の瞳に少しだけ憐憫が混じる。

 京太郎はただ黙然として、『須賀京太郎』が何もできずに解体される様を見送った。抵抗の余地なく、照の異常な感性はかれの奥底まで見透かした。行為の主体が誰かは関係なく、生理的な不快感が京太郎の全身を這いまわる。肌が粟立ち、目前に立つ人影と、友誼を結んだ少女との同一性がかれの中で損なわれ始める。

 

 物語でも読むように。

 頁でも捲るように。

 簡単に、照は京太郎を解き明かした。

 

(人間じゃないな)

 

 と、京太郎は思った。

 そして、自分が彼女にこだわり続けた理由を知った。

 初めて出会ったときから、ずっと、京太郎は彼女の眼に魅入られていた。

 

「理由なんか、ないよ」

「……」

「ただ、いつのまにか、そうだったんだよ」

 

 乾ききった声で、京太郎は答える。ただ()()だから()()なのだ。京太郎はどうしても、自分が不要であり消えるべきだという強迫観念を忘れられない。これから先、成長するにつれ、一過性の心情として処理されるかもしれないその意識から、ただ今は何をしても逃げられない。

 

(おれはいなくなるべきだ)

 

 けれども、死ぬのは不実である。京太郎の良識と、生物としての臆病さが、かれを極端な行為に走らせない。死は恐ろしい。それにあからさまに命を投げ捨てれば、それはかれだけの問題に収まらない。京太郎は自分の身はともかく、周囲の全てに傷ついてほしいとは寸毫も思わなかった。時折発作的に投げ捨てたくなることはあっても、今日という日までかれが生きているのは、結局のところかれの社会性が衝動を上回っていることの証左に他ならない。

 

 麻雀は。

 

 京太郎に死を思わせた。死を忘れさせた。死の代償行為だった。深く内容を学べば学ぶほど、京太郎を虜にした。純粋にその遊戯を京太郎が好まなかったわけではない。ただ、京太郎はもう、夜毎考えることに疲れていた。叶わない願いや叶ったところで何の意味もない夢に心を煩わされることに倦んでいた。かれは思考を怠りたかった。同時に全てを吐き出して、誰かにつまらない悩みだと笑い飛ばしてほしかった。けれどもかれの自意識は誰かに心情を吐露するをよしとはしなかった。もっとも身近な人間である父母は家に寄り付かず、友人たちには打ち明ける決心がつかず、月子はどちらかといえば京太郎に体重を預けている風情だった。京太郎は気を吐き続ける必要があった。

 だから、自分を殴り飛ばして叱咤した照ならと、かれは期待していた。

 かれは、照に、甘えたかった。

 

 本当は、麻雀など二の次だったのかもしれない。

 麻雀を続けていれば、また照に会えると思ったのかもしれない。

 だから今日まで、狂ったように麻雀を打ち続けていたのかもしれない。

 

 京太郎の日常に根付いておらず、強く、綺麗で、非日常の化身のような照に、そんな役目を押し付けた。

 

「ごめんね」と、照はいった。

「ちがう」反射的に京太郎はいった。

 

 照はかぶりを振った。

 

「京太郎に、麻雀、教えないほうが、よかったね」

 

「違うんだって……謝るなよ」

 

 京太郎は力なくうめいた。猛烈な羞恥が身を焦がした。自分のあまりな無様さに気づいて、視界が眩んだ。照と再会して以降のここ数日の心情の動きが、甚だ滑稽に思えた。唇が寒さのせいばかりではなく震える。涙が出るほどかれは慄く。

 最悪なのは、見透かされたことそれ自体ではなく、()()知られてしまったことだ。自分の与り知らぬところで何もかもを押し付けられて、一方的に熱をあげられ、思い入れの矛先にされ、それを照が悔やんでいることだ。

 京太郎が麻雀にふれたあの日、照の行為は完全な善意に基づくものだった。多少強引だったかもしれないけれども、瑕疵などひとつもなかった。京太郎の頬を打った行いも正当な怒りだった。照に負い目など何もない。

 

「照さんが、謝ることじゃないだろ……」

 

 ごめんね、と照はもう一度だけ、繰り返した。

 京太郎は、絞るように呟いた。

 

「そんなふうにしてほしくて、あんたに会いたかったんじゃ、ないんだよ」

 

 かれは片手で顔を覆った。空を見上げた。今にも涙が溢れそうだった。

 深く、照が吐息を落とした。

 

「そのままなら、京太郎は麻雀を続けても、辛いだけだと思う」

 

 最後に頭を下げると、照は、

 

「ばいばい」

 

 と言って、その場から去った。

 

 静かになった。

 

 すぐに夜が来た。耳が痛いほど夜気は冷えた。服の裾から寒気が忍び入り、身体の内側まで凍てつかせる。星の眩さがいやに目障りだった。ごめんね、という照の声が京太郎の耳に残った。耳を済ませれば、照の置いていった言葉がまだ其処彼処にわだかまっている。京太郎はひとつひとつの言葉を反芻する。ごめんね、と照は言った。暴いたことではなく、暴いたあとに見えたものについての謝罪だった。彼女の洞察は概ね正しかった。正しすぎた。けれども言葉はてんで的を外したものばかりだった。京太郎はそれが不思議でならなかった。どうして、京太郎自身の問題について照が何かを負う必要があるだろう? 照の優しさは傲慢さと紙一重だ。

 

 京太郎は欄干に体重を預ける。

 腕を組み顔を伏せる。

 

「――はぁ」

 

 泣こうと思ったが、涙は出ない。どうしても泣けない。そもそも何も悲しいことなどない。かれはただ()()であっただけだし、照はありのままを知っただけである。それに気づくと、京太郎は泣くことを諦めた。自分がすべきことは他にあると考えた。

 

 差し当たって、体調の悪い月子を家まで送ることを、かれは思いついた。

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 18:01

 

 

「で、ちゅーとかしたのかしら?」

「いきなりそれか」

 

 月子は未だに教室に居座っていた。さっさと施錠して帰宅したい様子の講師が、床に伸びた少女を見下ろし辟易としている。京太郎は講師に一言断ると、かれより上背も体重もある月子を引きずり校舎を後にする。月子をピックアップする春金清は、19時過ぎに京太郎の家に到着する予定だった。

 さかんにオンブオンブと訴える月子の要求を叶えてから、最初の一言が先の台詞である。

 

「だって、二人とも全然戻ってこないし、わたしのこと置いて帰ったのかと思ったら須賀くんだけ戻ってきたじゃない? 何かあったのかなって思うでしょう」

「その何かがどうしてちゅーになるんだよ」

「だって須賀くん、宮永さんのこと好きなんでしょう?」

 

 月子が耳の後ろ側で呟くと、京太郎は思い切り表情を歪めた。

 

「なんのことだか」

「バレバレですけどー」

「うるせーよ。重いんだよ」

「何照れてるのよ。宮永照さんだけに」

「ばかじゃねーの……」

「好きっていーえーよーうー」

 

 頬を摘まれた京太郎は、黙秘を貫くことを決心した。そもそも他人に語れるほどかれの心情は整理されていないし、いまは普段どおりに振舞うだけで精一杯だった。照に対する感情は、この際棚上げにしておくしかない。

 その後もしばらく月子は背中ではしゃぎ続けたものの、京太郎から芳しい反応がないとわかると途端に静かになった。

 冬とはいえ、人を一人背負って歩く重労働は、京太郎を疲弊させた。余計な半畳がないのは望むところである。かれは黙々と家路を急ぐ。自分の鼓動と呼吸に集中し、時折驚くほど冷え切った月子の足に両手を添えなおして、歯車仕掛けの人形のように前へと進む。

 やがて、月子が、

 

「悪かったわ」

 

 と、呟いた。

 

「おまえもかよ」思わず、京太郎は吐き捨てた。

「わたしもって?」

「なんでもない」京太郎はこたえる気がないことを語調で示した。「で、何が悪かったって?」

「きょう、わたしが余計なことしなければ、片岡さんは宮永さんに勝ててたの」

「タラとかレバとか、麻雀でンなもん――」

「違うの」月子は硬い声で言い切った。「()()()()()、わたし。南一局の1巡目に、片岡さんと須賀くんの自摸を摩り替えたの」

 

 唐突な告白に、京太郎は不意をつかれた。全く何のことか、見当がつかない。月子がそんな行為に及んだ理由もわからなければ、いつ仕出かしたのかもわからなかった。

 だから素直に、かれは感心した。

 

「――すげえな。さっぱりわかんなかったよ」

「まあ、ね」

 

 月子の応答には、苦笑の響きがあった。

 

「でも――だから、になるのか? 勝てなかったんだよな」

「そうね。勝てなかった」月子の声が沈んだ。「やったことは、後悔していない。途中からすっかりむきになってしまったけれど、それでもわたしはやっぱり、勝つことが大事だと思う。――でも、結果に結びつかないどころか、裏目を引かせたことは、とても、よくなかったって思うわ」

「おまえの考え方にはときどきついていけないよ」京太郎は乾いた笑いを漏らした。「いつもおかしいけど、今日はとくにおかしかったな、おまえ。よくわかんねえけど、そんなに――イカサマしてまで、照さんに勝ちたかったのか?」

「さあ」

 

 と、月子はいった。はぐらかす風ではない。単純に、問いへの答えを持っていないようだった。

 

「思うところは色々あったけれど」と彼女は続ける。「いちばん大きかったのは、『試したい』って気持ちだったと思う。たぶん、宮永さん(あのひと)には勝てないっていうのは、最初からわかってた。何をやっても、どうしたところで、無駄って気はしてた。でも、やらずにはいられなかったの。――じゃないと、なんか、しゃくじゃない」

「初対面なのに、よくもまあそこまで買えたもんだな」

 

 邂逅の時点で、月子の照に対する警戒心は異常だったことを京太郎は想起した。かれには感知さえできない領域で、照と月子には通じるものがあったのかもしれない。

 思い返せば、照の側も、どこか月子を特別に意識していた。

 この日、本当の意味で照と『勝負』をしていたのは、月子だけだったのかもしれない。

 

「アツくなってしまったのは、宮永さんに、兄さんを被せてたからでしょうね」

 

 兄、という単語に、京太郎は首をかしげた。かれの知る限り、月子の家に住む彼女の親族は父の新城のみである。月子の家庭事情が相応に込み入っていることは推察していたが、具体的な情報を聞いたことはなかった。

 

「にいさん」

「そう、兄さん」月子は頷いた。「いったことなかったかしら? わたし、実は双子でね。いまは一緒に暮らしてないんだけれど、上に兄がいるの。麻雀も――まあ、もともとは、兄さんのついでで始めたようなところがあるわ。それで、これがまた、ばかみたいに強いわけ。もう、ただただ、打てば負けるし、負けることがそのまま麻雀だと思うくらい、勝てないの。――わたしが負けず嫌いのせいかもしれないけれど、兄さんと麻雀を打って、楽しいと思えたことなんかほとんどなかった。どうして双子なのにこんなに違うのかとか、そういうことばっかり、考えさせられた」

 

 だから、兄さんは大嫌いなの、と月子は続けた。

 肉親についての言葉とは思えないほど、乾燥した口調だった。

 

「会ったことねーけど、おまえの兄貴も照さんくらい強いの?」

「宮永さんほどじゃないと思うけど、強いわね」と、月子は言い切った。「兄さんなら、今日の5半荘のうち、一回くらいは勝ちを獲れたかもしれない――そのくらいと思って頂戴。とりあえず、()()()()()()、いい勝負はすると思うわ」

「ぴんとこねーな」京太郎はいった。「麻雀なんて、そもそも、運がいちばん大事なもんじゃねーのか」

「それって要するに、運量が上の相手には何をしても無駄ってことでしょう。合ってるじゃない。今日の状況が、まさしくそれよ」

「あほか」京太郎は一蹴した。「運なんて、その日その日で違うだろ。調子が良い日もあれば、悪い日もある」

「そう思う?」月子が神妙な様子でいった。

「あ?」

 

「――()()()()()()()?」

 

「思えるよ」

 

 京太郎は言下に応じる。月子がその反応を望んでいる気がしたからである。ここまで来れば、月子の懸念を京太郎も察することができた。

 彼女は、京太郎が麻雀に見切りをつけることを恐れていた。宮永照のような存在――勝つことを運命付けられたような存在が、この界隈には厳然と存在する。彼ら彼女らは彼岸にいて、京太郎は此岸にいる。京太郎が打つ麻雀と照が打つ麻雀は同じでいて致命的に異なる。卓上において、照が勝者であることを約束されているのだとすれば、その対手は同類でない限り必ず負ける。負けることが前提の勝負に挑むものはいない。それは競技の大前提である公平性を損なっている。

 その現実の一端に触れて、月子は京太郎に問うた。

 京太郎は問題にもならないと答えた。

 ――嘘ではなかった。

 

 ただ、本音でもなかった。

 

「そう。――よかった」

 

 だから、心底安堵したように呟く月子に、京太郎は後ろめたさを覚えた。

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日)長野県 国道153号線 タコス(ファミリーレストラン)/ 19:41

 

 

 予定通り、19時過ぎに月子の迎えはやってきた。ただし訪れたのは長身の女性――春金清ではない。

 月子の父、新城直道だった。長身痩躯の新城は黒いコートにスーツを着込んで、面差しの厳しさも手伝い一見して堅気ではない雰囲気をまとっている。国産車から長い足を降ろす彼の姿を目にしたとき、月子は「げ」と呟き、京太郎も思わず目を丸くした。新城が須賀邸まで足を運ぶのは、初めてのことだったからである。

 新城は一瞥して月子の体調が良くないことを見て取ると、京太郎に向けて、

 

「世話ァ掛けたな」

 

 と、いった。京太郎は、

 

「べつに。おれのほうが月子には世話になってるんで」

 

 と、答えた。

 それがどうやら新城の琴線に触れたらしい。彼は破顔すると、強引に京太郎を車中に連れ込んで夕食へ誘った。いずれにしろ京太郎の夜食はコンビニエンスストアの弁当か出前しか選択肢がない。とくに断る理由も思い浮かばず、かれは招きに応じた。

 ファミリーレストランへ向かう途上、月子は寡黙だった。というよりも、人心地ついて気が抜けたようだった。ぐったりした様子で後部座席に寝そべり、助手席の京太郎を呆れさせた。新城はそんな月子の様子を目にしつつも、とくに何もいわなかった。

 レストランへついても月子は回復せず、無念げな気色で車内で休んでいる旨を伝えた。さすがに気後れする京太郎を、新城はやはり構わなかった。結局男ふたりで入店する羽目になった。何でも好きなものを喰えという新城に、京太郎は甘えた。かれには食の好みはなかったから、適当に同年代の好みそうなハンバーグセットを注文した。

 注文を終えると、待つだけの時間がやってくる。京太郎の心境はひたすら沈黙を貫くことを支持していたが、実際的にはそうも行かない。かれは話題を探す。とはいえ京太郎と新城に共通する話題など月子と麻雀のことしかなかった。

 

「おじさんって、麻雀、強いんだよな」

「それで身を立ててるんだから、弱いとは言えねえな」唐突な話題にも関わらず、新城は簡単に応じた。

「麻雀、好きなんだ?」

「好きじゃなきゃ続かないだろうよ」

「――そうかな」

「おまえは、嫌々打ってンのか?」

 

 反問を受けた京太郎は、黙りこくって水を一飲みした。

 

「違う、と思う」

「ははあ」新城が快活に笑った。「おまえ、負けたな?」

 

 図星を刺されて、京太郎は苦虫を噛み潰したような顔になった。

 

「違うよ。――勝負にもならなかった。そもそも、勝ち負けなんて話にも、持っていけなかったんだ」

「ふゥん」新城が目を細めた。「成る程な。月子(アレ)も一緒にやられたってわけか。そんで一丁前に凹んでやがるのか」

「まァ、そんなところ」京太郎は言葉を濁した。さすがに新城に、事情を明かす気にはなれない。「おじさんは、麻雀で負けたことは?」

「そんなもん、腐るほどある」新城が呆れ顔になった。

「え、いや、だって――」京太郎は戸惑った。「すっげえ強いって、月子が」

「俺だけが強けりゃァ、そりゃ負けはない」新城が鼻を鳴らした。「だが、実際はそんなワケもない。卓には必ず勝ち負けがある。()()にある。そしておまえのいう『すっげえ強い』同士がやりあえば、どっちかは負ける。そんなもん、当たり前だろう」

 

 新城の台詞は、道理だった。

 同時に京太郎は、自分の目線が一方的であることに気づいた。

 かれが連想したのは、当然宮永照の打牌である。

 彼女は強い。

 京太郎が実際に知る限り、及ぶものなどないようにさえ、思えた。

 ――けれども、そうではない。

 初めて彼女と打った麻雀で、照はプロ二人を相手にしていたとはいえ、確かに負けたのである。

 少なくとも、いまの照は絶対ではない。

 

(つまり)

 

 と、京太郎は、自明の理に思い至った。

 

(――おれが、弱いだけだ)

 

 純粋に力が足りず、照に窮屈な麻雀を打たせた。それだけは確実に京太郎の咎だった。かれ自身が内面で照をどう置いていたかは、あくまで京太郎だけの問題である。それを暴いたのは照自身だし、負い目に感じるのも照の都合でしかない。京太郎には照の感じ方を左右する力はない。事実である以上弁解もできない。それは京太郎の力ではどうにもならないことだった。

 けれども、麻雀に関しては違う。

 事実上、限りなく不可能に近いとしても、京太郎が照と対等に戦うことは、無理ではなかった。

 

(でも、強かったら、どうだっていうんだ)

 

 照に伍すだけの実力が自分にあったとして、それがいったい何を解決するのだろうと京太郎は考えた。

 答えは明白である。

 何一つ問題は片付かない。

 強さは、京太郎を救わない。

 戦い、勝つ――強さとは、それだけのものだ。

 

(もう――めんどくせえな)

 

 京太郎は、それ以上突き詰めることを諦めた。問題は根深く、何かしらの答えを出したところで一朝一夕に解決する気配はない。思い煩うことそのものが、いまのかれにとってはストレスだった。京太郎は全てを擲ちたかった。何もかもを手放したかった。心はその方針を全力で支持している。ただ何かが、かれをすんでのところで押し止めている。

 気も漫ろに、かれは新城との雑談に興じる。運ばれた料理に手をつける。切り分け口に運び咀嚼し嚥下する。まるで味がしない。耳の奥で照の声が何度も繰り返されている。京太郎はそのたびに耳を塞ぎたくなり、苛立ちを押し隠すのに苦労する。

 

(なにが、ごめんなんだよ)

 

 目元が熱くなる。

 京太郎は肉を食む。

 

(自分だけ、言いたいこと言って――)

 

 遠ざかる照の背を思い、思考がかき乱される。

 

(――勝手に、納得しやがって)

 

 対面の新城が、京太郎から目をそらして、呟いた。

 

「泣いても、月子には黙っておいてやるぞ」

「泣かねえよ。何も悪いことなんか起きてねえんだ。誰が泣くかよ」

 

 鼻を啜って、京太郎は一気にライスを口の中へ掻き込んだ。

 

 

 ▽ 12月下旬(月曜日)長野県・長野市・権堂町/ 13:50

 

 

 明くる朝、目覚めた瞬間、遠くへ行こうと京太郎は思った。

 

 意識は睡眠から覚醒へ、鮮やかに切り替わった。部屋の窓を開け放つと、冷たい朝の空気が流れ込んで来た。かれは顔を洗い、歯を磨き、まず学校に電話を掛けた。風邪気味なので今日一日休みますと担任に告げた。最近はそうでもないものの基本的には善良な京太郎の虚言はすんなり担任に受け入れられ、京太郎の逐電の第一段階は成功を収めた。それからかれは全財産と毎朝食卓の上に置かれている千円札二枚を手提げ鞄にねじ込み、家を出た。

 

 快晴だった。冬の高い空が蒼穹を無辺際に延ばしていた。霜を踏みしだいてかれは目的もなく歩き始めた。小学校への道は最初の一歩から踏み外していた。30分ほど無目的に歩くと、隣の学区に行き着いた。見慣れない同年代の子供たちが、隊伍をなして通学路を歩いている。通りには腕章をつけた有志の保護者と思しき大人がところどころに立っている。彼らの目を憚って、京太郎は道を逸らす。国道(バイパス)を目指して歩き始める。9時を回り、授業がとっくに始まったころに、かれは七久保駅へたどり着く。特に目的地も定めず、かれは電車の到着時間が近いホームに立つ。重役出勤と見える高校生が無遠慮な視線を向けてくる。京太郎はとくに気にせず空を仰ぐ。太陽はまぶしく、空は青い。目に染みるほどだ。ホームから望む南アルプスの山には薄く白い化粧が施されている。どこまでも真っ直ぐ伸びる線路を前に、京太郎は少しだけ途方に暮れる。やがて電車がやってくる。駒ヶ根方面である。京太郎は何も考えずに車両に乗り込む。通勤時間帯から外れているためか、車内には空席が目立つ。暖かい空調に一息ついて、京太郎は腰を落ち着ける。

 目を閉じる。

 かれは眠る。

 

 目覚める。

 着いた駅は駒ヶ根だった。名前の通り山々の麓に位置する駅を、京太郎は感慨もなく見渡して、次の電車に乗り継ぐ。岡谷から中央本線に乗り換え松本へ向かう。ここまで来てようやく、かれは意味もなく県庁所在地を目的地に定めることにした。だからさらに篠ノ井線を乗り継いで、車窓の旅を続けた。途中、老婆二人組が京太郎を見咎めて、あれこれと話しかけてきた。京太郎はのらりくらりともっともらしい話を仕立て上げて、彼女たちの暇つぶしに付き合った。時刻は昼を回っていた。かれは老婆たちからもらったみかんやら飴で、空腹を紛らわせた。

 長野駅には13時過ぎに到着した。景色は地元とはまるで違っていた。当たり前のことだが、知っている顔などどこにもない。皆早足で歩いている。時間の流れ方まで変わったかのようだった。半日を掛けて見知った土地から発作的に離れ、いま、京太郎の胸を満たすのは奇妙な開放感だった。()()()()()()()()()()()()()()()、とかれは思う。誰に出会うこともない。誰を気にすることもない。何を患うこともない。

 京太郎は自由だ。

 そして、目的のない自由ほど退屈なものはない。

 かれは嘆息すると、やはり当所もなく歩き始めた。

 

 京太郎――つまり子供が昼日中に歩く様は、それなりに耳目を集めた。とはいえ、迷う様子もなく(実際には迷うために歩いている)動き回るかれを正面きって見咎めるものはいない。京太郎はは警邏中の警官にだけ気を配り、それ以外は概ね気ままに街を漫ろ歩いた。市内を廻る電鉄に乗り、二駅ほど過ぎたところで車窓から見えた商店街に惹かれ、下車した。時刻は14時前に差し掛かっている。今日中に地元へ帰る場合は、20時前には折り返しの電車に乗る必要があることを京太郎は意識した。両親が京太郎の不在に気づくかどうかは五分五分だが、気づかれた場合は流石に大事になる可能性を否めない。ただ、そもそも帰らない場合はそんなことを気にしたところでしようがない。京太郎は帰宅についての判断を保留することにする。

 

 かれがまず始めに目をつけたのは、アーケードの奥まった位置に居を構えるゲームセンターだった。それなりに規模が大きく、警官の巡回場所としていかにも指定されていそうな風情である。補導されるならばそれもよしと、むしろ堂々と京太郎は店内に足を踏み入れた。

 屋内は電気的な騒音で充満していた。入ってすぐ出くわしたプライズ系の機器が占拠する一角を物珍しげに眺めつつ、京太郎は店の中を一通り回った。店は二階建てで、一回にはプライズと新機種と思しき大型筐体がスペースを占め、二階は半分がコインゲームコーナー、残り半分が小型筐体が連なるビデオゲームコーナーのようだった。

 京太郎の興味を惹いたのは、二階に十台ほど並ぶ麻雀ゲームのコーナーだった。見たところ、一台を除き他は空席である。京太郎はその内の一席に腰を下ろす。

 モニタの上に据えられたパネルに、筐体を通して全国の系列店下にいるプレイヤーと卓を囲める旨の解説が記載されている。ほとんど思考を経由せず、京太郎は筐体にコインを投入した。

 

(あァ――)

 

 ゲームが始まり、配牌が画面に表示される。覚束ない手つきで機械的に打牌を選択しながら、京太郎はふいに、頭をかきむしりたくなった。

 

(――おれは、こんなところまで来て、なにやってるんだ)

 

 どこまで逃げたところで、問題はかれと共にある。何が京太郎を悩ませているのかといえば、実は単純な二択でしかない。

 

 京太郎は、今日、半ば以上死ぬ心算で家を出た。

 

 照のいう『ほんとうにやりたいこと』が自害であるならば、それが正しい行いだと思ったからだ。

 けれども、京太郎は、生や死とは関わりのないところで、麻雀に興じている。たまたま目に付いたからといえばそれまでである。けれどもいま、かれに時間を潰す必要はなかった。落ち着いて自分を顧みることこそ必要だった。益体のない遊戯に没頭する余裕などないはずだった。

 けれどもかれは、麻雀を打っている。

 問題から逃げるために、麻雀を打ち始めたのだと、いまはわかる。

 それを思い知らされてなお、かれは麻雀を打っている。

 勝ちたいわけではない。

 強くなりたいわけでもない。

 死の代償行為としてだけ麻雀に価値を見出しているのかといえば、たぶん、それだけでもない。

 

(打ちたいから、打ってる)

 

 と、京太郎は、ぼんやりと考える。牌を自摸る。河に捨てる。場を見る。仕掛けが入る。切り出しを見る。廻す。廻す。廻す。打てない牌を引く。オリる。オリる。立直が掛かる。オリる。また立直が掛かる。オリる。オリる。――一発で自摸られる。親かぶりである。かれは最善の心算で打ち回した。けれども収支は減だった。直撃よりはましかもしれないが、けれども、理不尽な心地を拭えない。画面のエフェクトに目を瞬かせながら、京太郎は打つ。

 半ば夢心地でかれは打つ。

 

(これで負けたなら、もう――いいかな)

 

 旗色は極めて悪い。二局目・6巡でダマの親満貫に刺さり、かれの持ち点は東三局で10000点を切る。かれは諦念と共に牌を自摸り、打つ。牌勢は劣悪だ。後がないとばかりに目一杯に構え、一向聴まで漕ぎ着けたところで他家の立直が入る。戦える打点ではない。かれは基本に則りオリる。オリる。自摸られる。また失点する。

 まだ対局は続く。

 かれは手成りで打つ。

 聴牌する。

 浅い巡目だ。

 三面張の受け入れに、迷わず牌を曲げる。

 2巡後に、他家の追っかけ立直が入る。

 京太郎の胸裏の戸を、不安が叩く。

 さらに2巡後に、他家に自摸られる。

 ――受けは愚形の辺張待ちである。

 

 京太郎は、思わず、笑った。

 

(ひっでえゲームだよなァ――これ)

 

 理不尽で、残酷で、絶対というものがどこにも存在しない。

 これが麻雀だと、京太郎は思っていた。

 そうではない人もいると、今は知っている。

 そして、南一局――最後の親番が回ってきたとき、京太郎の持ち点は4000まで減じていた。

 

 南一局 ドラ:{五(ドラ表示牌:四)}

 配牌

 京太郎:{三五五六七七八九④8東南白白}

 

「――は」

 

 好配牌に、京太郎は目元を歪める。

 

(けど、すんなり萬子色に寄せられる気がしねえな――)

 

 打:{南}

 

 麻雀は厳然たる確率の遊戯である。千や万の対局を連ねれば、そこには自力が浮き彫りになる。だからこそ牌効率は有効だし、和了率の上昇や放銃率の低減には甲斐がある。けれども局地的に、非効率な打ち回しが奏功する場合もある。それもまた、麻雀の妙味である。

 

 南一局 ドラ:{五(ドラ表示牌:四)}

 10巡目

 京太郎:{三四五五五六七八⑦678白} ツモ:{⑥}

 

 前巡、すでに対面から立直が入っている。

 打てば恐らく、京太郎は飛んで終了する。

 飛んで終わったなら、それで終わりでもよいと、京太郎は心底思いこんでいる。

 

 そして――。

 

 

 ▽ 12月下旬(月曜日)長野県・長野市・権堂町/ 14:44

 

 

「うぎゃー!」

 

 唐突に、左隣の席から声があがった。

 

「――オモ3ウラウラ一発タンピン三色!? 親の三倍満っすか! マジっすか! なんでド高目つかむかなー!」

 

(――は?)

 

 京太郎は、凝然と顔を声の元に向けた。

 

(んな、莫迦な。――ぜったい、さっきまで、誰もいなかった)

 

 しかし、そこには、確かに人がいた。

 

「あぁあ、レートがぁ……飛び率がぁ……うー、とんだ事故っすよ、これ」

 

 しかも、明らかに京太郎と同じ年頃の子供だった。見目は少女だが、異常に存在感が希薄で、目線を切ったらまた存在を認知できなくなりそうなほど、儚い。確かにそこにいるのに、どうしても焦点が合わない。常に暈をまとっているように曖昧な姿だった。

 

(おいおい)

 

 冷たいものが京太郎の背を伝う。

 幽霊を自認するかれだが、本物らしき現象に遭遇するのは、初めてのことだった。

 

「――ん?」

 

 強張って一言も発せない京太郎の視線を悟った幽霊が、フッとシニカルに笑った。

 

「見かけない顔っすけど――君も、サボりっすか?」

 




2012/11/26:誤字修正
2012/11/26:ご指摘頂いた誤記・およびその他誤字修正
2013/2/19:牌画像変換

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