ばいにんっ 咲-Saki-   作:磯 

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1.かくあれかしときみはいう

 ▽

 

 供されたモーニングセットをひょいひょい口に運びながら、

 

「ところで、私はいわゆる、麻雀で生きている人種なんだ」

 

 と、春金清はいった。

 特段意外な告白ではない、とベーグルを食みながら月子は思う。月子の父親である新城直道は、プロでこそないものの、ただ麻雀を打つだけで生活が成り立つ類の人物である。自然、彼を慕って集まる人種も似たような傾向が多くなる。

 

「君のお父さんとは毛色が違うけれど、同類くらいはいってもいいかもしれない。といっても、所属は旗揚げしたばかりの草の根団体で、世に言うプロ雀士に比べるとだいぶん社会的立場は低いよ。お金もあの人たちみたいにたくさんはもらえないしね」

「それと、私を引き取ることと、何の関係があるんですか?」

 

 月子は冷静に問い返した。春金の誘いは唐突で、もしかしたら驚いて見せるべきだったのかもしれない。ただ予兆が一切ないかといえば、そうではなかった。家にやって来た父と親しい初対面の女が、朝から自分を外に連れ出してまで話がしたいと言うくらいなのだから、それなりに突拍子もない展開を予想することはできる。今日から新しい母親になる、と言われる可能性も織り込み済みだった。

 

「直接的な関係はないよ。ただ……まあ、ちょっと聞いておくれよ。ねえ、興行が軌道に乗っていないいまの状態で、麻雀で生きていく、というのはとても難しいんだ。一匹狼ならともかく、所帯を抱えてというならなおのことだ。マンション巡って賭場を荒らして、で生計が立つほどきょう日の景気はよくない。だからまあ、麻雀教室とか、講習会とか、雀荘の裏メンバーやったりなんかもしながら、日々口に糊しているわけ」

「大変そうですね」

「とてもね」春金は頷いた。「さて、そんな状況を打開するにはどうしたらいいか? 地道な下積みは、もちろん続けなくてはいけない。けれどそれだけでは競争過多なこの業界を生き抜くことはできない。誰もを黙らせるのにいちばん手っ取り早いのは、やっぱり実力示すこと、なんだけど……それが簡単にできれば苦労はないよね」

 

 急に勢いを落として、春金は肩をすくめる。月子はその瞳に、敗北の残り火を見た気がした。春金からは、手ひどい負けを喫したもの特有の色がほんのかすかに見て取れる。

 

「うまくいかなかったんですか?」

「てんで駄目だった。去年の国民麻雀大会(こくま)でね、惨敗を喫したよ。優勝には及ばずとも、なんて気概で臨んじゃいなかった。旗を取る気で卓についた。本選まではそこそこ調子よく進んで、だけど、まあ、色々あって負けたわけ。手前味噌だけど、私は一応団体の旗頭の一人でもあったから、そこでわれわれの野望は成就への迂回を余儀なくされたのであった、まる」

「話、終わっちゃったじゃないですか」

「そう思う? でも、そうは問屋が卸さないわけだな。勝負事やってれば、特にこんな競技なら、どんなに手ひどい負けを喫したところで立ち止まってなんていられないでしょ。前が駄目なら次、次が駄目なら次の次。何度だって、乾坤一擲の勝負を続けることはできる。……矢玉さえあればの話だけどね」

「難しいんですね、大人の世界って」月子は興味なさげに呟いた。

「子供も大人もないでしょう。世界ってきっと難しいものですよ。――さて、お待たせして申し訳なかったけど、そろそろ本題に入ろうか」

「……ようやくですね」

「アハハ、ちょーしでてきたじゃん」月子の軽口を、春金は嬉しそうに聞き流した。「それでね、当座時間が空いた私が次に仰せつかったミッションというのが、人材の発掘。より具体的には、麻雀が強くて、メディア映えする可愛い女の子の捜索」

「……」春金の言わんとすることは、さすがに月子にも察せられた。「もしかして、わたしを引き取るって、そういう意味ですか」

「もしかして、そういう意味です。月子さんなら、ルックス的にもちょーかわいいし。麻雀も強いんでしょ、どうせ。あの先輩の娘さんなんだもん」

「それ、根拠になってませんよ」

「かわいいってところは否定しないところとか、強者特有だよ。で、実際のところ、話聞いてみて、どう? 少しは興味持ってくれた?」

「正直、揺れます。今の家を出られそうなところとか、特に」

 

 隠しても意味がない場面である。月子は正直に心情を打ち明けた。

 そんな月子を、春金はやや痛ましげに見つめていた。

 

(なんだか、騙しているみたいだけど)

 

 胸中で、月子は少しだけ罪悪感を持て余した。

 春金は恐らく、娘が父を嫌う余りに家からの逐電を熱望している、という構図を想定しているものと思われた。

 春金にも言ったとおり、月子は父である新城を好いてはいない。ただし、好意への転化を諦めるほど、新城の人間性を否定することもない。

 いまの生活は苦痛だが、実際のところ、月子の苦痛は新城やその仲間たちに由来するものではない。問題はもっと単純で、根本的なものだった。

 

 月子にはただ、安らげる場が必要なだけだ。

 そして、それは今の家ではありえない。

 それだけの話でしかない。

 

「そう、それはよかった」

 

 春金が、おもむろに席に備えられている紙ナプキンを広げた。次いでアンケート用のボールペンを手にとって、鼻歌交じりに数字を書き込み始める。

 

「……?」

「じゃんっ。何切る問題~」

 

 手元を見る月子へ向けて、春金はやたらと嬉しそうに牌姿を見せ付けた。

 

 {七七八八九⑥⑦⑧234678} ドラ:{5}

 

 示された文字を一瞥する。{九萬}切りならタンヤオ聴牌、{七萬}、{八萬}切りで形式聴牌の姿である。ありふれた問題で、とりわけ良問という程でもない。首を傾げてから、念のため月子は確認することにした。

 

「場況は?」

「そこはあんまり気にしなくていーよ」

「そこが一番大きいと思いますけれど、……一手の変化が12種42牌あるので、{七萬}切るでしょ。まあ、他家に手が入ってそうだったり、オーラストップ目かアガリトップであれば、手成りの{九萬}切りで双ポンでも別にいいと思いますけど」

「そういう模範解答もいいけど、口ぶりからして君の打ち筋じゃなさそうだね。ほんとうのところ、私は、君の感性に興味があるんだ。どれくらい打てるかっていえば、打てるに決まってるのは()()()。それ以上のものが見たいのさ」

 

 声を落として、春金は試す目を月子へ向けた。

 ああ、と月子は納得した。

 

「テストってことですか」

「そう取ってもらってかまわない」

「でもこれ、前提からして成り立ってないです」

「うん? どういうこと?」

 

 今度は、春金が戸惑う番のようだった。春金は自分と打ったことがないのだから、その反応も仕方ないのかもしれない。月子は言葉を選びながら、意図をつまびらかにした。

 

「もちろん配牌次第ですけれど、この牌姿になるまでにわたしが副露してないことはありえないです。それじゃあ、()()()()。仮に配牌がこの形なら{九萬}切って両立直しかしませんし、そうでないなら――たぶん、せいぜい2副露して索子の一通か、上家から運良くドラが出ればチーして食いタンくらいの手になります。それが最終形です」

「ごめん。意味がわからない」満面を疑問符で埋めて、春金がいった。「ええっとー、月子さんはすごく引きが弱いってこと? アンチ面前派?」

「それほど他の人と打ったことがあるわけじゃないのでよくわかりませんけれど――」月子は頷いた。「引きは、弱いというより、()()みたいです」

「スピード優先はべつに珍しいスタイルじゃないし、むしろ最近の主流だけど……引きがない、っていうのは珍しい言い回しだわ。否定はしないけど、だいたい錯覚よ、そういうの」

「そうですね。ただ、今までがそうだったから、何がわたしなのかって聞かれれば、それがわたしだって答えるしかありません。摸打ってそういうものでしょう?」

 

 実績も確信もある事実ではあるが、それは決して絶対ではないとも月子は感じている。現在は必ず未来に繋がっているが、未来を約束する手形にはならない。運勢と呼ばれるものについてはなおさらだ。

 

「なるほど」腑に落ちない顔で春金は引き下がる。「当たり前だけど、やっぱり直接打つのが手っ取り早いね。ではさっそく、といいたいところだけど、今日はそろそろ学校へ行かなくちゃ、か」

「そうですね」

「いいわ。ちょうど明日から週末だし、また顔を出すよ。予定は空いてる?」

「はい」完全に空白です、と心中でだけ呟いた。

 

 ちょうど食事も取り終えて、月子は店内の時計を見やる。時刻は7時20分を回ろうとしているところだ。小学校までは車で送るという春金の言葉に甘えてランドセルは持参しているが、東風戦でものんびり打っていられる時間ではない。

 

「あの、最後にひとつ、いいですか」

「お父さんのこと?」

 

 博徒らしい勘の鋭さを発揮する春金だ。

 素面の自分を思い出しながら、月子は頷いてから疑問を口にした。

 

「あの、本当に、わたしのこと、春金さんにお願いしたんですか。……あの人が」

 

 月子が思う父――新城直道の像に、娘を他人に託すという行動がどうにも合致しない。娘を不憫に思って春金に話を持ちかけたなどというよりは、無関心が極まりペットのように手放そうとしている、とでも考えたほうがしっくり来るほどだ。

 春金は、そんな心境を見抜いたようだった。気まずげに後ろ頭を掻きながら、手中で車のキーを弄んでいる。

 

「あの環境については、まあ教育上どうしようもなく悪いとしかいえないし、月子さんにはかなり思うところがあるだろうけど……」

 

 嘆息、

 

「先輩は、無情ってわけじゃないよ。それに、鈍感でもない。むしがいい話だし、私が言うのも業腹なんだけど、できれば、そこを二人が分かり合えるといいなって思ってる」

 

 先輩、と口に乗せる春金の声色は、やはりどうにも女めいていた。

 話を交わすうちに春金へ好感を抱き始めている月子だが、父への傾倒ばかりは許容できそうもない。

 

「……そうですか」

 

 春金はいわゆる善人ではない。ただ面倒見が良い人間ではある。それがこの一時間強で月子が抱いた春金への所感である。

 彼女の誘いに興味は惹かれるが、それが月子の問題を解決する可能性は、どうやら低い。

 ウエイターを呼びつけて会計を済ませる春金には届かない音程で、月子は呟いた。

 

「確かにわたしはお父さんのこともあの家も好きじゃないですけど、嫌いというわけでは、ないんですよ。ただ辛いだけなんです。本当にそこだけです。――でもそれが、一番の問題なの」

 

 ▽

 

 夏休みが近くなる。与えられた四十日以上の時間は永遠のようにも感じる。ただ小学生四年生ともなれば、その感興が錯覚であることもわかっている。

 錯覚でも構わない。少なくとも普通であれば、夏休みは胸を焦がして待望するものだ。だから、須賀京太郎は押し迫る終業式に素直に胸を躍らせた。

 

 しかしそれはそれとして、週末の休みも待ちわびていることに違いはない。放課後の教室で、京ちゃん京ちゃん、と呼びかけてくる友人たちに合わせて、京太郎は土日の計画を話し合う。基本的に京太郎の交友関係は広かったし、彼らの年頃にしては珍しく男女間の溝や確執といったものにも無頓着だった。たいがい、男子は集まった頭の悪い遊びに興じては馬鹿笑いしたり怪我をして怒られたり、していた。

 サッカー、野球、プール、ゲーム、映画、あるいは何の目的もなく歩き回るのでもいい。時間の潰し方はいくらでも思いつける。気の置けない友人たちと頭を空にして遊ぶ時間は京太郎にとり無心で楽しめるものだった。

 友人の一人が、ふと思いついたようにいった。

 

「そうだ。なんか四人でいくと麻雀タダでやらせてくれるところがあるんだけどさ、そこ行かねえ? 卓も全自動なんだよ。隣小のやつとかもきてるみたいだし」

「麻雀?」京太郎は首をかしげた。「花札とかトランプならできるけどなァ。麻雀はおれ、やったことないな。ルールも詳しくは知らないし。テレビで見たことはあるぜ。あの、なんか、プロとかもいるやつだろ」

 

 京太郎の牧歌的な発言を受けて、周囲がやにわに騒然とした。

 

「京ちゃんマジで!? 小鍛冶プロとかしらないの!?」

 

 彼は少しだけ考えてから、

 

「誰それ」

 

 友人たちは、口を揃えて信じられないと言い立てる。信じられないのは京太郎のほうである。ほとんど毎日顔をつき合わせて遊んでいる仲なのに、麻雀ブームについて無知なのはどうやら自分だけだった。

 

「え、なに。おまえらみんな麻雀できんの?」

「まあフツーに。点数計算できないけど」「おれも」「ぼくはできるよ」

「へえ……麻雀って面白いんだ?」

 

 気のない問に対する反応はまちまちだった。勢い込んで頷くものもあれば、煮えきれない顔で思案するものもいる。京太郎も麻雀が運の要素の強いゲームであることくらいは知っている。また、やたらルールが複雑で、とっつきにくいことも(それが京太郎が麻雀を敬遠している一番の原因でもある)。

 それらの性質を鑑みて、向き不向きが好悪の度合いに直結する遊戯なのだろうとは想像できた。

 ただ巷間、麻雀が大流行していることも事実である。プロのトップリーグ戦やタイトル戦はゴールデンタイムで中継されるほど人気のあるコンテンツだし、娯楽としては野球、サッカーに並び立つといっても大げさではない。

 

 そして京太郎はというと、この年にして、ギャンブルは嫌いではなかった。もっと具体的にいえば、彼は無謀さを愛している節があった。1か0かという極端さの中に身を投げて、破滅に触れたいという願望が、京太郎の根源にはある。

 

 ただ、それはあくまで嗜好のベクトルでしかない。友達を相手に致命的なものをやり取りする気は、さしもの京太郎にもありはしない。せいぜい、友人たちが皆できるというのならば、退屈を紛らわすためにもルールを覚えて損はないと、その程度の関心が芽生えつつあるだけである。

 

「まあいっか。みんなやるんなら、教えてくれよ。じゃあ、明日は七久保駅に集合な」

 

 ▽

 

 そうと決まれば、少しでもゲームを楽しむために、京太郎はルールの予習をすることにした。放課後の遊びの誘いを断って、家路を遠回りしつつ彼が向かうのは町内の公民館に敷設されている図書館である。平時はあまり馴染みのない施設ではあるが、毎年夏休みになれば読書感想文のネタを探すべく頼りにする場所でもある。勝手はいくらか知っていた。

 

「麻雀のルールが知りたいんですけど、そういう本ってありますか?」

 

 気安い口調で司書の老人に尋ねると、彼は破顔して本棚の一角へ京太郎を導いた。

 案内された先で、京太郎は目をみはった。

 

「うわあ」

 

 麻雀のスペースは『一角』どころではなかった。マニュアルはもちろん、主だったプロの自伝や指南書、プロのリーグ戦、タイトル戦の牌譜から、打筋の研究本に見目よい女流プロのグラビアまで、『麻雀』というジャンルの中で実に多岐にわたるラインナップである。

 

(すごいな)

 

 圧倒されながらも何冊か初心者向けの教本を手に取る(グラビアに若干惹かれたことは否定しない)京太郎に、司書の老人は微笑みを絶やさず、友達とやるのかい、と聞いてくる。

 そうですと頷くと、老人は公民館の談話室に雀卓があるよと告げてきた。

 

 雀荘に足を運ぶほどではないものの、コミュニケーションのツールとして麻雀を愛好する老人は存外多く、公民館の談話室はそうした人々の集会所になっているらしい。主な層は年寄りが占めているが、孫を連れてくる例も多くあるらしく、中には京太郎よりも幼い子もいるとのことだった。喫煙も禁止されており、年寄りたちは子供を見つけるとこぞってお菓子やらジュースをあげたがるので、良かったら試しに打っていくといい、と司書は言う。

 話だけ聞けば天国のような空間である。京太郎は少し思案して、

 

「じゃあ、ちょっとルール覚えたら」

 

 と答えた。

 早速席のひとつに腰を下ろして、図解入りの教本を捲り始める。巻頭では麻雀の歴史について触れられていた。大陸で生まれた原型。日本への渡来に、欧米での拡散、米国での研磨。今まで知らなかった遊戯の歴史を興味深く読みふける。現在日本で主流となっている麻雀のルールはいわゆるアメリカ式から発展したものだが、国内においても関東・関西(完全先付けもしくは後付、赤ドラの種類)、あるいは雀荘・競技(アリス、割れ目、一発、裏、カンドラ、カン裏の有無)により様々な差異があるとのことだった。

 この時点で、京太郎は詳細なルールをすべて把握することは諦めた。ローカルな違いではなく、要諦の部分だけを押さえればよいと彼は判断して、ページを捲る。

 文章に目を通しながら、京太郎は脳裏に麻雀の原則を列挙する。

 

 四人が順番に『山』から一枚ずつ牌を取り、四つの面子にひとつの頭が出来上がるまでは十四枚の手札を取捨選択し、一枚捨てることを繰り返す。

 基本的には誰かが和了(あが)るか、河に72枚の牌が捨てられた(目安として、親の自摸は18回)時点で一局が終わる。

 『親』と呼ばれる、得点が1.5倍、自摸被りが2倍となる立場が一巡するまでが一区切りで、それを1度で終わらせるのが東風戦。2度巡るのが東南戦(いわゆる半荘)。他にも4巡を区切りとする完荘も存在するが、昨今では前者か後者が主流である。

 安全牌、リーチ、副露、翻に符、あとはいくつかの役。

 

「ふーん」

 

 一見茫洋としているが集中力と要領のよさには恵まれている京太郎は、一通り項目に目を通すと、これは実践して慣れる類のゲームであると結論付けた。将棋の定石と同じようなもので、ゲームの流れを身体で覚えないことにはいくつかの鉄則も頭に入りそうにない。

 そうなると、司書の誘いは渡りに船といえた。頁を閉じ、一息ついて、京太郎は凝った首を廻らせる。と、視界に小動物の姿が目に入った。

 

「う、うぅ」

 

 小動物と見えたのは、同年代か、少し年下と思しき女の子である。後頭部で二本にくくった短髪を揺らして、目一杯つま先立ちして手を伸ばし、届きそうで届かない本棚をしかめ面でためつすがめつ、ふらふらとしている。

 

(……スルー)

 

 京太郎はその光景を忘れることにした。あえて意地悪する気もないが、見知らぬ少女に対して、頼まれもしないのに手を貸すのは異常だと彼は思う。仮に自分が少女の立場ならば逆に恥ずかしい。

 試練のときだと、心の片隅でエールを送りつつ横目すると、少女が本棚の奥からずるずると足場を持ち出してきたところだった。よほど目当ての本への執着が強いとみえる。

 なんとなく胸騒ぎを覚えて、彼は腰を上げた。少女は足場に上る。手を伸ばす。届かない。さらに伸ばす。届かない。業を煮やした少女は軽く跳ぶ。ようやく本に手がかかる。

 そして足場が倒れる。

 

「え」

 

 少女の足は着地点の見当識を失って、後頭部から床に落ちる――

 

 ――落下が始まる寸前で、京太郎は少女の腰を思い切り抱きすくめた。

 

 ほとんど直感的な動作で、力加減など出来たはずもない。「ぎゅえっ」と蛙の断末魔のような声が頭上で聞こえたが、安堵の息を漏らす。

 

「あっぶねーなァ。気をつけろよ」

「え、え、え?」

 

 軽くて体温の高い少女を、やや乱暴に立たせてやる。目を白黒させて状況把握に努める少女をよそに、京太郎はまさか誰かに見られてはいまいなと周囲を探る。幸い、目撃者はゼロであった。

 

「えっと……」混乱する少女。

「……」沈黙する京太郎。

 

 図書室の静謐を乱すものは、空調の音ばかりだ。

 京太郎は再度嘆息する。倒れた足場を起こし、少女が取ろうとしていた本を代わりに取ると、まだ混乱している少女の手に押しつける。

 

「ぁ、りが、と……ぅ」

「どーいたしまして」

 

 まごまごして礼をいう少女をよそに、京太郎はそれじゃといって背を向ける。彼の顔はすでに赤面していた。

 

(恥ずかしい。超恥ずかしい! かっこつけすぎる、おれ!)

 

 級友に見られずに済んで、心底良かったと思う京太郎である。

 自噴のあまり、麻雀のことも忘れ、彼は席に戻る。どっと疲れた感がある。が、そこでまた例の『感覚』がやってくると、羞恥の潮は一瞬で引いた。冴え冴えとした脳裏で、先ほど読み込んだ麻雀のルールを整理する。

 

(これ、ようするに、重さと速さ、押しと引きで戦うゲームだな――)

 

 極端な例を挙げれば、五千点以上のリードで迎えた最終局の親でリスクを負う必要はない。安手で流すか振り込まないことに専心すべきで、さらに点数に余裕があれば明らかに安いとわかっている他家へ振り込んでゲームを終了させるのも一手である。

 

「咲、本は見つかった?」

「うん。あ、あのね、さっきね、あの子に……」

 

 外野の雑音を遮断して、京太郎は思考に没頭する。

 

(プレイヤーの相手は、基本的に上位者と下位者だ。これはゲームなんだからあたりまえだ。でも、それだけじゃなくて、状況のこともよく考えなきゃいけない。完璧には無理でも他のプレイヤーをコントロールすることができれば一番いい。まず勝つことを考える。そこで勝った場合は、次に負けないことを考える、って感じか)

 

 京太郎の気質的な側面は、「負けない」戦術は弱腰とも感じる。圧倒的なトップで迎えた最終局で役満を和了する合理的な理由があるとすれば、それは合計収支を意識した場合か、純粋に手成りで役が仕上がった場合だけだろう。

 

(負けないことだけを考えてゲームするんなら、そいつはねーな。でも、楽しいのは、たぶん、……リスクを承知で、勝ち切ることを考えるほうだ)

 

 それ以外に、ただその感性を支持する実際的な理屈は、「そのほうがカッコイイ」くらいしかない。そして、破滅願望に傾倒している京太郎にとって、ギャンブルは勝利を主目的としない。

 擬似的な死命の境で散る火花。

 技術や思考の最善を尽くし、工夫を凝らして、それでも届かない偶然に全てを委ねる瞬間こそが心地よい。勝ちきることができればなお楽しい。いわば、勝利は付属品である。

 

(あとは、やっぱりやってみねーとわっかんねー)

 

 そう結論付けて、司書に声を掛けようと立ち上がる。

 その目先に、先ほどの少女と、少女よりやや年嵩とみえる娘がもう一人、いた。

 似た面立ちからして、二人は姉妹とみえる。ただ年嵩の少女は凛然とした雰囲気をまとっており、本を取ろうとして派手に転びかねない危うさは(一見)ない。伸びた背筋といい強い眼光といい、表情がほとんどないことも手伝い、妙な圧迫感を持つ少女であった。

 反面、年少のほうは全体的にふわふわしていた。胸元で借りた本を抱きながら、京太郎へ向けてものいいたげな上目を送っている。京太郎は醒めた目でそれを見る。

 

「なに?」

「この子が世話になった」年嵩の少女が朴訥とした口調でいった。京太郎に話しかけるというより、独り言のような調子である。「ありがとう」

「どういたしまして。でも、礼はもう聞いたよ」辟易して京太郎は応じた。

「麻雀やるの」

 

 こちらの応答を一切無視して、彼女は京太郎の手元に目を向ける。切り込むような問いかけに、京太郎は爽快さすら覚えた。

 

「これから覚えるとこ。ここでも打たせてくれるって言うから、人がいるならやろうかなって」

「良ければ教えようか」

「……まっすぐだな」

 

 衒いが一切ない彼女の発言に、京太郎は目を瞬いた。別段断る理由もなかった。

 

「できれば。お姉さん、強いのか?」

「おまえよりは」簡単に頷く少女だった。

 

 恐らく事実なのだろう。京太郎は「そりゃ、ありがたい」とだけいった。

 

「……そっちのそいつは?」

 

 急に水を向けられて、小動物のような少女はびくりと身を竦ませた。

 

「あっ、わ、わたしは……そのっ」

「……咲。どうする」

 

 姉妹らしき二人が視線を交換する。

 京太郎と年長の少女とを見比べると、年少の少女はじゃっかんためらいを見せた。何かを天秤にかける様子で、瞳を右往左往させる。

 ややあって、小声で呟いた。

 

「わたしは……いい。みてるほうがいいよ、お姉ちゃん」

「そう」

 

(ん?)

 

 辞去する言葉へ素っ気無く応じる態度に、京太郎は違和感を覚えた。

 底冷えするような何かが、『お姉ちゃん』と呼ばれた娘の瞳に宿っている。あるいは煮え滾りすぎて固定化している。京太郎にその感受性を補う語彙があれば、姉の心理に隔意の先触れを見出すことができただろう。

 ただ、幼い彼は機微も未熟だった。

 だから反射的に、彼女の頬を指でつまんで引っ張った。

 

「!?」

 

 少女は、ものすごい勢いで驚いた。

 

「うわぁ……」

 

 もう片方の少女も、かなり怯んでいた。

 

「おれは京太郎」とかれはいった。「よろしく」

「なぜ頬を引っ張っている」

 

 やや聞き取りづらい言葉で彼女はいう。眉目はいささかも揺らいでいない。

 

「いや、なんか、怖い顔してたから」

「……」

 

 その台詞を受けて、彼女は右手で空いた側の頬をつるりと撫ぜた。腑に落ちない調子で眼差しを受けて、ようよう京太郎もつまむ指を離してやる。

 

「てる」とだけ彼女はいった。

「はい?」

「行こう、きょうたろう」

 

 テルは有無を言わさず京太郎の腕を取る。京太郎は引きずられながら、窮鼠の目を同道する他方の娘へ向けた。彼女はにへら、とゆるい笑顔を返してくる。愛想笑いにしては眩しすぎて、京太郎は胸に暖かい気持ちが芽生えるのを感じた(これがいわゆる父性だと彼が知るのはずっと後のことである)。

 

(あ、名前か)

 

 年長の少女――テルは司書に声を掛けると、別人のような愛想良さ(「案内していただけますか?」「ありがとうございます!」)で談話室における卓の借用を申し出る。彼女たちはどうやらこの図書館の常連のようで、司書は快く案内を買って出た。

 

 状況に取り残されながらも、どうやら麻雀が打てそうだと京太郎は胸を弾ませる。

 その遊びが、自分が世界からいなくなるまでの日々を短くしてくれることを希う。

 

 導かれた談話室は、その名から想像していたよりもずっと広く、活気もそれなりにあった。前評判どおり比率は年寄りが多いが、京太郎たちと同年代かそれ以下の子供も何人かいる。

 少女たちの姿を眼にするや、老人たちはこぞって群がってきた。とくに年少のほうが大人気で、彼女の両手はすぐに飴やらせんべいで一杯になる。そんな彼女を眺めるテルの顔つきは無表情だがどこか柔らかいところもあって、京太郎は先刻感じた空気が急に疑わしくなった。

 

「で、教えるって、おれはどうすればいいの?」

「とりあえず一回打ってみる」言い出したわりに、テルにはあまり明確なビジョンがないようだった。

 

 幸い、卓も空いており、面子にも不足はない。京太郎とテル以外の二人も、場にいた二人の老人ですぐに埋まった。

 手積みのため、不慣れな手つきで何度も牌を取りこぼす京太郎を、他の三人は穏やかに見守った。

 

 

 ルール:半荘戦

  持ち点:25000点持ち・30000点返し(オカ:20000点)

  赤ドラ:なし

  喰い断:あり

  後付け:あり

  ウマ :なし

 

 起親(東家):老人A(大沼)

 南家    :老人B(南浦)

 西家    :テル

 北家    :京太郎

 

 

「よろしくお願いします」

 

 テルが折り目正しく一礼する。京太郎もそれに合わせて、頭を下げた。

 

「よろしくお願いします」

 

 胸が弾む。

 楽しげな予感が、彼の中で踊っている。

 十三枚の手牌に触れる寸前で、彼は背後に座る妹へ声を掛けた。

 

「そういえや、おまえ、名前は? まだ聞いてないよな?」

「あっ……と、さ、さき」

「さき?」

 

「そう、咲」

 

「サキ、ね」京太郎は頷いた。

 

 サキがおずおずと手を挙げる。

 

「あの、なんて呼べばいいかな……?」

「そんなん好きにしろよ」

「う……」

 

 「こまっています」と顔に表れかねない勢いで狼狽するサキに、京太郎は何度目かもわからないため息をついた。

 姉も妹も、面白い性格をしていると思った。

 

「じゃ、始めるか」

 

 初陣が始まる。

 




2012/9/21:照、咲の二人の関係性に言及した地の分を修正(登場人物の所感除く)
2013/2/12:牌画像変換

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