ばいにんっ 咲-Saki-   作:磯 

16 / 45
3.ほうこうフール(前)

3.ほうこうフール(前)

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・七久保/ 11:55

 

 

 京太郎が照と待ち合わせたのは昼前、場所はくだんの図書館だった。照は今日も温かそうな装いで、膝下までをすっぽりと覆う暖色のウールコートが、鮮やかな色合いのハイカット・スニーカーとよく馴染んでいた。眠たげなその瞳は図書館の門前で手を振る京太郎を捉えると、ほんのわずかに細められた。

 

「よう」と、京太郎はいった。

「おはよう」と、照はいった。

 

 借りたマフラーの返却は速やかに行われた。月子の助言に従いわざわざ菓子屋で購ったケーキを手渡すと、心なしか嬉しげに照は「ありがとう」といった。よかったら一緒に、という誘いを受けて、照と京太郎は図書館の談話室で一時を過ごした。

 京太郎はそこで彼女を麻雀に誘った。一方的にものを渡して頼みごとを断り難くするという手口だったが、照は葛藤する様子もなく二つ返事で了承した。ふたりは京太郎の先導の元、その日の場に向かった。

 

 晴れ間は見えるが、雲の多い空だった。相変わらず空気は冷え切り乾いて、風は頬をしびれさせる毒を含んでいるようだった。照はミトン型の手袋越しに耳を時折擦りながら、京太郎の取り留めない話に相槌を打ったり首を傾げたりした。彼女の視線を、京太郎は意味もなく追いかけた。陽に当たって溶けかけている霜柱や、河辺に茂る外縁を狐色に変じさせたセキショウや、踏みしだかれて色あせたイチョウの葉や、老人が連れた白い犬を共に眺めた。緩い歩調のなかで、時間の流れ方が酷く穏やかだと京太郎は感じた。

 

(おれは、このひとを、意識してる)

 

 と、京太郎は思った。

 かれは自分の感情をどう名付けるべきか、少しの間迷う。照に対する好感は確かにあった。それは初対面の日、卓を囲み、帰り道で頬を打たれた瞬間からかれの胸に根付いている。ただかれは自分が他人に対して恋情や慕情を抱けるとはとても思えなかったし、その資格がないとも考えていた。京太郎にとって、麻雀を介さないコミュニケーションは表層的な反射がこなす作業のようにすら思える(もちろんそれはかれの思い込みに過ぎず、かれが麻雀を通して得た経験とそれ以外の経験に客観的な優劣や多寡が存在するはずはない。かれもそうした理屈はわかっている。それが現実なのだと知っている。ただ実感だけが伴わない)。

 そんな人間が、いっぱしに他人を好きになったりするものだろうか? と京太郎は懐疑する。

 

「どうかした?」

 

 思考に内向して急に黙り込んだ京太郎を訝って、照がいった。

 京太郎は反射的に韜晦しようとして、やめた。留保や迂回をすることに何の意味があるとも思えなかった。ここでごまかしたところで、それはただ感情の損傷を厭うだけの逃避だとかれは考えた。

 だから、軽く浅い呼吸を挟んで、かれは思ったままを打ち明けた。

 

「もしかしたら、おれは、あんたのことが好きなのかもしれない」

 

 照が、ぽかんと口を開けた。

 

「あんたの顔を見ると、背筋をしゃんとさせなくちゃと思う」訥々と、京太郎は感情を仕分けるように語った。「その眼で見られると、こっちも眼をそらせなくなる。話しかけられればどんな言葉も聞き逃しちゃいけないような気がするし、あんたの()()()を嗅ぐと頭がぼうッとする。女子が誰それが好きだとか、どんなヤツが好みだとか、そんな話をしてるとき、おれの頭には、照さん、あんたの顔が浮かんでる。――だから、おれは、あんたのことが好きなのかもしれないと思った」

 

 照は口を開けたまま、意味もなく手を振ったり、コートのポケットを探ったり、髪形を整えたりした。応じかけて口を噤み、いもしない言葉のあて先を探して目線を左右させ、最終的に、

 

「え――――――うん」

 

 とだけ、彼女はいった。

 出会ったばかりの年下の少年から唐突に告白された小学生女子としてはありきたりでも、宮永照という人間としては相当に希少な反応だったが、羞恥と思考に意識の八割を割いている京太郎に照の表情を観察する余裕はなかった。

 

「でも」と、京太郎は続けた。「おれはひとを好きになったことはないし、これからもなるとは思ってなかったから、『それ』が『そう』なのかわからない。べつに何かをもらいたいわけでもねーんだ。強いて言うなら麻雀がしたいだけで、それが好いた惚れたとは違う話なのはおれにもわかる。ただ、いま言うべきだって、なんとなく思った」

「そう……」

 

 頷いた照は、それきりしばらく、物思いに沈んだ。

 京太郎は胸の鼓動が激しく打たれるのを、一方で朦朧と、一方で冷静に受け止める。前者のかれは歳相応の少年である。世間知が足りず、感情に率直で、愛され方を覚えないままに育ちつつある、どこにでもいる子供だった。後者のかれは世を拗ね斜に構える少年である。あらゆる物事に価値と意味を見出せず、自分を含めた世界の全てを俯瞰できる心算になっている。

 

 会話が途絶えても、京太郎と照が感得する時間の相対的な速度に変化はなかった。渡る寒風に首をすくめ、陽射しの暖かさに救われる。着々と目的地の小学校へ二人は進み、幼い二人の歩幅のぶん、きっかりと距離は縮む。

 校舎のシルエットが見えた頃だった。見計らったように、唐突に照が、

 

「ありがとう」

 

 と、いった。

 黙考のすえに吐き出された言葉にしてはずいぶんと味気なく、簡素で、何より肝心な要素が欠け落ちていた。ものごとから要点だけを抽出しようとして、そのために付随する色々なものを削ぎ落とし、結果必要な部分まで除いてしまったような具合だった。

 

「お、おお」

 

 京太郎は目を瞬きながらとりあえず照の礼を受け取った。先ほどの話題を蒸し返そうとはかれも思っていない。好意を伝えたところで、その先の展望などありはしないのだ。差し当たりかれが照に望むことは、やはり麻雀しかない。照に触れたり、時間を共有したり、喜ばせたいといった欲求はそこに含まれない。

 そして麻雀の時間はすぐそこまで迫っている。京太郎の脳裏から他の全ては薄れてしまう。存在がなくなるわけではない。ただ焦点が合わなくなるだけだ。

 

 ――宮永照はそうではない。卓につき牌を握ったとき、彼女は少女ではなく『宮永照』になる。彼女自身に変化が訪れるわけではない。ただ周囲は否応なく気づかされる。そこに座る存在が()()()()だと思い知らされる。

 

 誰かは、()()()()を称して魔物と呼んだ。

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:13

 

 

 まずはじめに片岡優希が(くさめ)をした。鼻を擦りながら彼女は「急に寒くなったじぇ」と呟いた。次に()()に気づいたのは石戸月子だった。月子は須賀京太郎がご執心の少女を一目見てやろうと、窓から身を乗り出し校門を踏み越えやってくる少年少女を視界に捉えた。まず京太郎を見た。少年はいつもどおりこの世の全てに興味が無いという顔をしていた(仏頂面が崩れて時たま見えるかれの笑顔が、月子は嫌いではない)。次に、かれの後ろについて歩く少女を見た。

 

 次の瞬間、吐気が月子を襲った。

 

 遠慮呵責のない悪寒だった。見えない手が内臓を直接鷲掴みにした。月子は思わず桟から身を離す。背筋の温度が急激に下がり、一時的に思考が軽い恐慌状態に陥った。

 

「なにあれ」と彼女は呟いた。「あんなのだなんて聞いてない。なに、あれ――」

 

 一度ならず馴染んだ感覚だったせいもあり、比較的素早く彼女は解けた思考をまとめた。それから今日、自分と片岡、そして京太郎が『あれ』と打つという事実に思い当たった。

 

(――冗談じゃない)

 

 と、彼女は思った。意味がない。『あれ』と打って益することなど何もない。片岡はまだしも、とりわけ京太郎にとって、『あれ』は害毒でしかない。かれが『あれ』と打ち交わすことで学べることなど一つしかない。

 そしてそれは、京太郎が学ぶ必要のないことだ。

 

「あの――莫迦!」

 

 京太郎への悪態を吐き捨て、月子は唾液と共にえずきを飲み下す。身を翻して大股で教室を飛び出し、廊下を駆け抜け、三段飛ばしで階段を下りる。余勢を駆って上履きのまま校舎外に駆け出すと、息ひとつ乱さず京太郎と『あれ』の前に立った。

 

「月子?」

 

 京太郎が軽く驚いたように顔を上げていた。後方の少女の様子に変化はない。一見、どこにでもいる可愛らしい少女だった。無表情さえ何とかすれば、ローティーン向けのファッション雑誌にいても可笑しくない風貌である。けれども彼女が発する存在感は、ある種の人間にとっては到底許容しがたいものだった。表情も感情も運勢も知覚できる距離にまで近づいて、月子は確信を深める。須賀京太郎とその少女の組み合わせは、途轍もない違和感を月子に与えた。

 

「石戸月子です」と月子は名乗った。

「宮永照」と少女が応じた。

 

 何気なく向いた照の双眸に、月子は視線を合わせる。それだけで月子は居心地が悪くなり、心が波立つのを感じた。照の瞳は、何もかもを見透かしているようだった。世の人々が言葉を尽くし努力を尽くしてもなしえないことを、彼女の視線はあっさりと実現させることができる。荒唐無稽な直感に、月子は疑いを抱けない。

 

「来て早々申し訳ないんですけれど」と、月子は照に向けていった。「今日はもう解散ということにしませんか」

「おい」京太郎が声をあげた。「何言ってるんだ」

「須賀くん、ちょっとこっち」月子は京太郎を手招きする。警戒心を漲らせて寄ってきた京太郎の襟首を捕まえて耳元に口を寄せると、彼女は鋭く呟いた。「あのひとと打つのは止めておきなさい」

「なんで」

「勝てないから」と、月子は万言に勝る理由を口にした。「須賀くん、いい、須賀くん。わたしが誰かのために忠告するというのはとてもとても珍しいことよ」

「それは知ってる」

「だったら、この気持ちを汲んでほしい」と、月子はいった。「あのひとはだめよ。少なくともいまの須賀くんがあのひとと打っても、何も得ることはない。そこに成長はない。たぶん満足もない」

「へぇ」と、京太郎は面白げに口元を歪める。「じゃァ、なにがあるんだ」

 

 説得の方針を間違えた、と月子はさとった。

 

「……現実があるんでしょうね」苦いものを口にする表情で、月子は答えた。「面白くもない、理不尽な現実ってやつが、きっとあなたを待っている」

「それが現実なら、避けては通れないってことだ」京太郎は心を決めた口ぶりだった。

「何も今日、向かい合う必要はないっていっているのよ」

 

 自分が何を忌避しているのか、説得を試みながら月子は整理した。まず、初めて目にした宮永照は誰の手にも余る存在だった。少なくとも同年代の輪において、照は異質に過ぎた。羊の群れに恐竜が混ざるようなものだ。そして月子は、そうした存在を他にも知っている。麻雀を打ったこともある。心を折られ、麻雀から離れようと思ったこともある。

 

(つまり)と、月子は自分の感情を認めた。(わたしは須賀くんにそうなってほしくないと思っている。須賀くんはバカでカッコつけで麻雀狂いだけれど、だからって傷ついてほしいとは全然思わない。だからわたしは必死になってる)

 

 もちろんそれは月子の勝手な思い入れでしかない。事実京太郎の意識はすでに対局へ向かっている。もはや物理的な手立てでも講じない限り、勝負は避けられそうにない。だからといって力尽くで京太郎や照を麻雀から引き離したところで、それは一時的な対処に過ぎない。月子は京太郎とのまずまず居心地の良い関係を失い、かれは日を改めて照と卓を囲むだろう。

 そして吹き散らされるだろう。

 

「何をそんなに心配してるんだ?」京太郎は訝しげにいった。「おれが弱いのなんていまに始まったことじゃない。勝てないのも、とりあえず認めるしかない。でもだからって打たない選択肢なんて選ばない。負けるのが厭ならそもそも勝負なんてしねーよ。それに、どれだけ実力が離れてたって、絶対じゃない。麻雀ってのは――そういうもんだろ」

「それは、そう、だけど」

 

 月子の言葉が勢いを無くした。京太郎は正しい。反論の余地はない。けれどもかれが本当に正しく宮永照と打つことの意味を把握しているとは思えない。

 あるいは月子の反応は過敏に過ぎるかもしれない。少なくとも京太郎がそう思っていることは明らかだった。京太郎にとってみれば照も月子も格上の打ち手という意味では違いがない。今日、月子の予感が違うことなく宮永照が勝ち、須賀京太郎が惨敗を喫したとする。京太郎にとってその敗北は他の敗北とは違う意味を持ちえるのだろうか?

 京太郎は持たないと思っている。

 月子は持つかもしれないと思っている。

 その相違が感性や経験に由来するものである以上、月子に京太郎を論理的に説き伏せる術はない。彼女は不承不承その結論を受け入れる。苦し紛れの月子の矛先は、ぽつんとひとり佇む宮永照へと向かった。

 

「宮永さん」月子は事務的な口調でいった。「わたしはあなたは須賀くんと打つべきじゃないと思ってる。初対面でこんなことを言うのは気が引けるけれど、あなたは()()()()()()にいるべきひとじゃないように見える。あなたにはあなたに相応しい場がきっとあるし、そしてそれはここじゃない。帰ってもらえません?」

「それは京太郎が決めることだと思う」照の回答はこれ以上ないほど率直だった。「京太郎が望むなら私は打つ。今日私は、そのためにここにいる。そしてもう京太郎の結論は出てるように見える」

「そういうことだ」と、京太郎はいった。

 

 月子は――

 思い通りにならない怒りを感じなかった。忠告を聞かない京太郎への苛立ちもなかった。融通の利かない宮永照にも悪い感情を抱くことはなかった。ただ、言いようのない寂寞が胸の奥から湧いてきて止まらない。気を抜けばそれは涙に変わりかねない感情の粒だった。その感情は諦観と呼ぶべきものである。尊い何かが今しも失われるかもしれない。けれどもそれは仕方のないことだった。何しろ諦めはずっと月子の隣人だった。これからも慣れ親しんでいくことだろう。

 

(冗談じゃない)

 

 と、月子は思った。

 

「わかった」月子はいった。「ならもう何も言わない。水を差して悪かったわ。打ちましょう、須賀くん。――それに、宮永さん」

 

 彼女は静かに照を見つめる。照は月子の視線を意に介していない。照は京太郎を見ている。京太郎も照を見ている。月子は歯を鳴らす。どいつもこいつも、と彼女は思う。

 

(そんなに麻雀が好きか――)

 

 石戸月子は()()を据える。なるほど確かに、麻雀に絶対はない。どんな怪物も永遠に勝ち続けることはできない。どんな魔物も永遠に引き続けることはできない。京太郎の主張はまったく正しい。当然過ぎて非の打ち所がない。

 けれどもそれは、あくまで()()()と永遠に打ち続けることが出来ればの話だ。

 

(――だったら、自分でなんとかしてみせなさい、須賀くん。あなたの旗は、あなたの腕が振るべきよ)

 

 彼女は静かに照を見つめる。

 

(正念場は、いつだって唐突にやってくる)と彼女は思う。(まだロクに話もしてないし、須賀くんが懐くくらいなんだから、きっと宮永さん、あなたは悪いひとじゃないんでしょう。――でもやっぱり、あなたはここにいるべきひとじゃない)

 

 視線には決意がこもっている。

 

(どうせあなたも、いつか人間辞めてしまうひとなんでしょう。ただ強ければ他の事なんかどうでもいいってひとなんでしょう。父さんや兄さんと同じ人種なんでしょう。なぜこんなところに迷い込んだのかは知らないけれど――獲物が欲しいなら、どこか遠いところを狩場にすればいい)

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:30

 

 

 ルール:半荘戦

  持ち点 :25000点持ち・30000点返し(オカ:20000点)

  赤ドラ :なし

  喰い断 :あり

  後付け :あり

  喰い替え:なし

  ウマ  :なし

 

 起親(東家):片岡 優希

 南家    :須賀 京太郎

 西家    :宮永 照

 北家    :石戸 月子

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:30

 

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 【東家】片岡 優希 :25000

 【南家】須賀 京太郎:25000

 【西家】宮永 照  :25000

 【北家】石戸 月子 :25000

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:30

 

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 配牌

 片岡:{三三四四五①②③④⑦⑦58東}

 

(なんだか空気が重いじぇ……)

 

 片岡優希は、上家と対面から質の違う圧迫感を覚える。正確に言えば、少し前からずっと息苦しさのようなものを感じている。

 朝起きたときには、いつもの通り快調だった。朝食も昼食もたらふく食べており、充電は完了済みである。天気も晴れている。不調の種となるようなものは何もない。

 それでもやはり空気は重々しい。迂闊に軽口を叩くことを許さない雰囲気が、ずっと卓上に沈澱している。その発生源は主に月子である。しかし本質的な原因は対面の――なんとかいう年上の女にある気がした。根拠はなかったが、片岡一流の直感がそう囁いている。

 

(なんかしゃべれ、京太郎)

 

 昨日知り合った男子に目顔でそれとなく救援を求めるが、かれは難しい顔で首を傾げるだけだった。『むり』と眉毛が言っている。

 

(おおう。使えないヤツめ……)

 

 しかたなく、片岡はいつもどおりに麻雀を打つことにする。

 

 打:{東}

 

 今のところ麻雀は、彼女にとっていくつかある娯楽の一つに過ぎない。ルールが(とくに点数計算が)難しく、まだ所々慣れきっていないけれど、好きか嫌いかで言えば『勝てれば好きだ』と答えることはできる。負けるのは好きではない。だから負けてもまったくへこたれなかった昨日の京太郎を見て、彼女は少しだけ感心した。

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:30

 

 

 月子の危惧を、京太郎はそれなりに正しく察している。彼女が照を恐れていることはわかっている。あの居丈高な少女が、意味もなく他人を怖がるとは京太郎も思っていない。月子の忠告を跳ね除けた以上、京太郎には彼女が案じた良くない結果を受け入れる義務がある。

 けれども、半信半疑であることは否めない。

 月子の危惧は、大げさすぎるとかれは思う。

 

(たとえば、今日)

 

 京太郎はイメージしてみる。可能な限り最悪な勝負の結末を脳裏に思い描く。

 

(おれが手ひどく負けたとする。十回連続東一局で照さんに振り込み続けて十回連続ハコラスになったとする。もちろんおれは無様すぎて死にたくなる。でも麻雀をやめたりはしない。じゃア、十回が百回なら、千回ならどうだ?――そうなったらわからない。少なくともおれはおれの打ち方に二度と確信を持てなくなるだろう。でもそんなことは実際にはありえないし、そもそも百回や千回打つ時間はない)

 

 改めて、月子が心配するような事態には陥らないと京太郎は結論付けた。月子自身は多くを語らないが、彼女は何かしら強者に対する苦手意識のようなものを強く持っている。直面した照に、月子は苦手とする何かの影を見たのかもしれない。そのために過剰に反応した。

 論理の筋道は通ったが、京太郎にとっては少し面白くない話だった。

 自分がその程度のことで麻雀を見限ると思われていたことに対して、腹が立った。

 

(だいたい、頭から負ける前提で同情されるのも気に入らねえんだ――)

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 配牌

 京太郎:{一四八九①①②258西北北}

 

 直視に耐えない手牌である。和了の手順など、ほとんど見えはしない。けれどもどんな配牌も、天和という例外除けば和了を約束されてはいない。論理に沿った最善手を打ち続けても、感覚に基づく正着を打ち続けても、それは勝利することとイコールではない。敗北しないこととイコールではない。そこに麻雀の妙味がある。

 

優希()がダブ東の切り出し――あいつの場合、対子からの払いも平気でやりそうだから、なんともいえねえが)

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 1巡目

 京太郎:{一四八九①①②258西北北} ツモ:{7}

 

(急所が多すぎる牌姿だ。上手く聴牌に漕ぎ着けたって愚形が残る。テーマを決めよう。この局――積極的に和了は目指さない。そして、死んでも振り込まない。{一萬}(ドラ)は使い切る)

 

 打:{5}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:30

 

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 1巡目

 照:{二五六⑥⑧⑨4白白白中南南} ツモ:{發}

 

「――」

 

 打:{⑨}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:30

 

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 1巡目

 月子:{{一一二七七③④⑥468發發}} ツモ:{9}

 

(この世にいるのかもしれない麻雀の神さま)と、手元の牌を並べて月子は皮肉混じりに思う。(牌の中からでもなんでもいい。もし見てるのなら――あいつらみたいに贔屓なんてしなくていいから、せめて意地悪するのをやめてほしい)

 

 打:{9}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:30

 

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 2巡目

 片岡:{三三四四五①②③④⑦⑦58} ツモ:{3}

 

 打:{①}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:30

 

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 2巡目

 京太郎:{一四八九①①②278西北北} ツモ:{3}

 

 {打:西}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:30

 

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 2巡目

 照:{二五六⑥⑧4白白白發中南南} ツモ:{三}

 

 {打:中}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:31

 

 

(ダブ東のあとの打{①}、{5}のあとの打{西}、上家から整理された翻牌――)

 

 月子は神経を集中させる。彼女が想像する最高の状態は、須賀京太郎と出会った日、その直後にかれに指示しながら打った麻雀である。

 あのとき、月子は突き抜けていた。壁の向こう側へと足を踏み入れかけていた。たとえ一過性のものだったとしても、一度出来たことが、二度出来ない道理はない。

 

(理屈はなんでもいい)

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 2巡目

 月子:{一一二七七③④⑥468發發} ツモ:{東}

 

 {打:東}

 

(ただ、勝ちたい)

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:31

 

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 3巡目

 片岡:{三三四四五②③④⑦⑦358} ツモ:{⑤}

 

 打:{②}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:31

 

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 3巡目

 京太郎:{一四八九①①②2378北北} ツモ:{1}

 

 引き寄せた{1}が、手役に現実味を与える。それは往々にして罠である。ただ狙えるべきところで狙わないものでもない。

 

(三連続の索子()引き――手順はとっくに{一萬}を手放せって言ってるけど)

 

 打:{四萬}

 

(欲目は落ち目の誘い水――かな?)

 

 京太郎は、打{四萬}といった。

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:31

 

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 3巡目

 照:{二三五六⑥⑧4白白白發南南} ツモ:{5}

 

 照の目が、一瞬だけ片岡の河と、彼女が次巡、自摸る牌へ向いた。

 

 打:{二萬}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:31

 

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 3巡目

 月子:{一一二七七③④⑥468發發} ツモ:{八}

 

 打:{⑥}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:31

 

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 4巡目

 片岡:{三三四四五③④⑤⑦⑦358} ツモ:{4}

 

(きっ――たぁ!)

 

 打:{8}

 

「リーチっ! だじぇ!」

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:32

 

 

 揚々たる立直宣言に、京太郎は眉をひそめた。

 

(――矢ッ張り速ぇな)

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 4巡目

 京太郎:{一八九①①②12378北北} ツモ:{西}

 

 片岡への安牌は三枚ある。親の立直へ太刀打ちできる向聴数ではないが、上手く立ち回らなければ早々に苦境に立たされる。

 

(気負ったところでこんなもんだ。苦しいけど楽しい――いつもの麻雀じゃねえか)

 

 打:{②}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:32

 

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 4巡目

 照:{三五六⑥⑧45白白白發南南} ツモ:{七}

 

 打:{三萬}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:32

 

 

 上家から親立直一発目に打たれた牌を、月子は戸惑いと共に見つめる。喰い取れる牌ではある。だがその後の展望はよくて片和了りの2000点だし、悪ければ親への放銃に繋がる。鳴けるはずはなかった。

 

(いきなり{三萬}(無筋)――ド危険牌の強打って、もう聴牌ってるわけ? それともただの()任せのブンブンさん?)

 

 片岡

 河:{東①②横8}

 

 京太郎

 河:{5西四②}

 

 照

 河:{⑨中二三}

 

 月子

 河:{9東⑥}

 

(――そんなわけないか。この序盤で{二三萬}の両面塔子落としってことは――いっこ前の{二萬}が()()()ってこと? {一萬}(ドラ)の受け入れを見切ってまで払ったのは、そういう意味?)

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 4巡目

 月子:{一一二七七八③④468發發} ツモ:{中}

 

(お願いだから山が透けてるとか、言い出さないでよね――)

 

 打:{8}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:32

 

 

「さあ、――一発ゥ!」

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 5巡目

 片岡:{三三四四五③④⑤⑦⑦345} ツモ:{1}

 

「ならずだじぇ……」

 

 打:{1}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:32

 

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 5巡目

 京太郎:{一八九①①12378西北北} ツモ:{9}

 

 打:{①}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:33

 

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 5巡目

 照:{五六七⑥⑧45白白白發南南} ツモ:{⑤}

 

 {打:發}

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:33

 

 

(また生牌――しかもわたしの有効牌)

 

 照の意図を、月子は慎重に測る。たんに切り出しに窮して適当な牌を被せているとは思いにくい。照は不穏なほどに気配がなく、月子の見立てでは恐らく未だ聴牌もしていない。かといってベタオリには到底見えない。何かを企図して{三萬發}と並べ打っている。

 

 月子:{一一二七七八③④46中發發}

 

(わたしに鳴かせようとしてる――つまり、この自摸筋で続けたくない理由があるんだ)

 

 片岡の特性に、早くも照が把握したとは思いたくない月子である。それは願望が色濃い推測だった。だが事実として照が自摸筋をずらそうとしている以上、月子としてはその誘いに乗るわけには行かない。

 なぜならばこの半荘、月子が期して臨むのは勝利ではない。

 宮永照の妨害である。

 

(麻雀は四人でするもの。それだけ突き抜けているんだから、ちょっとくらいのアンフェアは覚悟しているでしょう)

 

 月子は、照から打たれた{發}を見送る。

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九})

 5巡目

 月子:{一一二七七八③④46中發發} ツモ:{一}

 

(最上は流局。次は片岡さんが自摸ること。その次はわたしか須賀くんが振ること。いよいよとあれば、差込もする――)

 

 {打:發}

 

(今日は、宮永さん(あなた)にまともな麻雀はさせない)

 

 断固たる決意をもって、月子は{發}を抜いた。

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:34

 

 

「むっ――」

 

 と、片岡は山から自摸った牌を、満面の笑みで見つめた。

 

 東一局 ドラ:{一}(ドラ表示牌:{九}) 裏ドラ:{⑨}(裏ドラ表示牌:{⑧})

 6巡目

 片岡:{三三四四五③④⑤⑦⑦345} ツモ:{二}

 

「ツモ! えぇっと――ウラはないから」

 

「6000オール」と京太郎がいった。

 

「そう、6000オールだじぇ!」

 

 東一局0本場

 【東家】片岡 優希 :25000→43000(+18000)

 【南家】須賀 京太郎:25000→19000(- 6000)

 【西家】宮永 照  :25000→19000(- 6000)

 【北家】石戸 月子 :25000→19000(- 6000)

 

 素直に喜ぶ片岡を尻目に、月子はひとり、息をつく。

 

 そんな月子を視界の隅に捉えて、照がぽつりと呟いた。

 

「過保護」

 

 そして、次局――

 

 

 ▽ 12月中旬(日曜日) 長野県・飯島町・町立小学校/ 13:36

 

 

「ロン」

 

 と、照がいった。

 

 東一局1本場 ドラ:西(ドラ表示牌:南)

 4巡目

 照:{四四七八九②③344556} ロン:{①}

 

「1000は1300」

 

 放銃したのは、月子だった。

 

 東一局1本場

 【東家】片岡 優希 :43000

 【南家】須賀 京太郎:19000

 【西家】宮永 照  :19000→20300(+ 1300)

 【北家】石戸 月子 :19000→17700(- 1300)

 




2013/2/19:牌画像変換
2013/3/8:ご指摘いただいたわかりにくい表現を修正

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。