ばいにんっ 咲-Saki-   作:磯 

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小学生編(下)
0.かげろうループ


0.かげろうループ-remorseful summer-

 

 

 ▽ 7月下旬 長野県 須賀邸/ 04:53

 

 

 早朝5時前、夜がようやく明けきろうとする時間帯に、須賀京太郎の眠りを妨げるものがあった。騒音である。小刻みに鳴り響く電子音が、朝の静謐を端から丁寧に金槌で叩くように壊していく。枕に顔を押し付けるようにしていた京太郎の意識は、乱暴に現へ引き戻される。

 

「……うるせええぇ……」

 

 連打されるインターフォンに耐えかねて、京太郎はとうとう体を布団から起こした。枕元のフローリングには、夜っぴて起こした牌譜の山が散乱している。花田煌から勧められた学習法で、プロや実業団の試合中継から起こした牌譜を元に、一手ずつ打牌の検討を行うのである。麻雀はその性質上一人では打てないが、これであればひとりの時間でも慰み程度にはなる。

 

 半分霞がかったような有様で、のたくたと京太郎は部屋を出、階段を降り、玄関へ向かう。父母の姿はない。週末は二人とも、互いの相手の家に泊まるのがここ一年ほどの須賀家の通例である。 

 鍵を外し、戸を開けた先にいるであろう人物には、当たりがついている。だから本当は無視するのがもっとも正しい選択だと知りながら、京太郎は一言放たずにはいられなかった。

 果たして、玄関先にいたのは石戸月子だった。相変わらず肩や背中、太ももを大胆に露出した格好で、今日はキャミソールにミニスカート、厚底のサンダル(ミュール)という出で立ちである。

 月子は、小首をかしげて、すまし顔で言った。

 

「おはよう、須賀くん」

「くたばれ」

 

 京太郎は戸を閉めようとした。そのすんでで挟まれたのは月子の足である。鈍い音を立てて閉戸を阻害された扉は、すぐに再び引き戻される。月子の腕力は京太郎よりも上で、機先を制しそこなった力勝負では抗いようがない。

 

「いきなりご挨拶ね。せっかく遊びにきたのに」不機嫌そうに月子がいった。「私たち、――と、友達でしょう」

「夏休み入ってから一週間連続夜明け前にインターフォン連打するようなやつは、友達でも、人間的にどうかしてる」京太郎はあくびをかみ殺しながらいった。

 

 えー、と口を尖らせる月子である。

 

「だって、時間は有限なのよ。遊ぶなら朝早くからのほうがいいじゃない」

「いや……理屈はそうだけどよ……」

「おじゃましまーす」弱った京太郎を差し置いて、勝手知ったるとばかりに月子は須賀家への侵入を果たした。

 

 その背を見送って、

 

(はじめはこんなじゃなかったのになア)

 

 と、京太郎は思った。

 月子が初めて京太郎の家を訪れたのは、麻雀スクールでの邂逅から一週間後の週末である。平日の夜、掛かってきた電話で予定を確認され(番号と住所は電話帳で調べたという)、春金清とともに現れた月子は上品なワンピースを着て、菓子折りまで持参していた。あまりの豹変振りに目を疑った京太郎だが、

 

「だって、ともだちの家に遊びに行くってはじめてなんだもの」

 

 という月子の言に、とりあえず納得した。友達と遊んだことがないという月子の社交性の低さには心底驚いたが、それはまた別の話である。

 最初、家中の月子は、まさに借りてきた猫といった風情だった。初対面時の傍若無人さなど消えうせて、受け答えもぎこちない。約束どおり麻雀を教えてくれとせがんでも、そもそも麻雀をするための道具を持ってきていなかったという始末である。結局その日は、昼過ぎまで春金も交えて適当に見繕ったカードゲームやらをして過ごした。その後、そろそろ暇しとうかと春金が言い出したところで、月子が突然、

 

「須賀くんの部屋が見たいわ」

 

 と、言い出した。京太郎としては、特段否やはなかった。部屋にあるものといえば学習机と本棚、それにベッドくらいのもので、他に何があるわけでもない。つまらないぞと念を押しても、月子の希望は変わらなかった。京太郎の部屋に入った彼女は、何をするでもなく室内をしげしげと見回した。あちこちに触れ、何度も得心したように頷いた。そして最後に、京太郎のベッドへ腰掛けた。

 二秒後には、眠りに落ちていた。

 あとはなにをいっても無駄だった。叩こうが怒鳴ろうが、月子は目覚めなかった。はじめは苦笑していた春金も、日が暮れるころになるとさすがに慌て始めた。月子が何か持病を持っているのではと疑ったのである。とうとう月子の父にまで連絡を取って、基本的に石戸月子は眠らない少女であることが明らかになった。

 須賀家の父母が、週末は基本的に家に寄り付かないことも、恐らくは幸運だった。そうでなければさすがに月子を泊めることは叶わなかっただろう。結局月子が目覚めたのは翌日、日曜の昼前だった。二十時間以上寝入っていた計算になる。さすがに目を腫れぼったくした少女は、開口一番こういった。

 

「……おしっこ」

 

 京太郎は彼女の手を引いて、トイレへ案内した。風呂を沸かしてやり、コンビニで購入したカップ麺を振舞った。人心地ついたところで、月子は春金と共にそそくさと須賀家を後にした。

 以来、月子が須賀家に来て京太郎の部屋に足を踏み入れたことはない。なぜかと、あえて問うことを京太郎はしなかった。

 

「途中でアイス買ってきたから、昼になったら食べましょう」

 

 台所から月子の声が響いたかと思うと、冷凍庫を開閉する音が聴こえる。しょうがないと肩をすくめて、京太郎はさっぱりと睡眠を諦めた。

 

 

 ▽ 7月下旬 長野県 須賀邸/ 05:16

 

 

「一番初めにも言ったことだけれど、麻雀に必勝法はないわ。基本的にも究極的にも、運が強い人が勝つゲームなの。ただ、下手くそな人は()()()()()()()()()()ゲームではある。麻雀を学ぶっていうのは、だから、勝ち方を学ぶというよりは、負けにくくなる方法を学ぶというほうがきっと正しいでしょう。――じゃ、今日はちょっと牌効率のさわりから話しましょうか」

 

 さて、京太郎の希望により麻雀の講師となった月子であるが、その打法に反して、彼女の教育は理詰めで行われた。月子いわく、彼女がいまの打ち方に開眼するまでは『死ぬほど負けた』らしく、その時分に一通りの基礎は叩き込んだのだという。

 

「知っての通り、麻雀はイチからキュウまでの萬子、筒子、索子――27種の数牌(シューパイ)と、四喜牌(スーシパイ)、それに三元牌の、計34種136牌を使って行われる。そしてこれらの牌には、それぞれ優劣がある。わかりやすいところだと、(オタ)風と自風、または場風とを比べたら、とうぜん客風牌を切るでしょう? これはまあ翻がつくかどうかっていうところが肝になるけれど――さて、須賀くん。数牌とそれ以外の牌のいちばん大きな違いってなにかしら?――そう、正解。『順子になること』が数牌の特性で、単純に数牌は字牌(ツーパイ)の4倍弱引きやすい。結局のところ、麻雀でもっとも和了率が高いのは、順子――平和形だわ。とりもなおさず、出来やすいのも平和形なの。順子の捌きが和了率の明暗をわけるといってもいいくらいよ」

 

 月子自身も、錆付いた感性を取り戻すために、基本のおさらいをしている最中らしかった。名のある打ち手だという月子の父に教わる前に、最低限の技術を身につけると意気込んでいる(そういえば、あの夜、途中で別れた南浦老人とその孫は、実は月子の父と共に卓を囲んだらしい。京太郎にはうまく想像できないが、月子の父はとにかくそうした次元の打ち手ということだ)。

 基本的に性格がよろしくない月子だったが、京太郎との相性は比較的よかった。とにかく京太郎は、よくいえば寛大で、悪く言えば他人の言動所作に無頓着なところがある。かれの性格は人によってはその神経を逆撫ですることもあるだろうが、月子は逆に毒気を抜かれがちだった。

 

 あの日、卓を囲んだ少女たちの仲は、どうやら今も続いているようだった。通う学校には友達がいないと広言してはばからない月子だが、花田煌や池田華菜とは、夏休みに入ってからも交友が続いているらしい。夏休み中、春金も含めて旅行に出向く計画まで立てている(それとなく京太郎にも誘いはあったが、さすがに断った)。

 県外に住まう南浦数絵だけはその輪から外れているが、夏休み中にもう一度長野に訪れる予定だという旨が、彼女から出された暑中見舞いに記してあった。ちなみに、月子には南浦からの手紙は送られていないらしい。

 

「それにしても」と、月子はいった。「週末になると、ほんとうにあなたの親、姿を見なくなるわねえ。どこ行ってるの?」

「恋人のところ」と、京太郎はこたえた。

「ふたりいっしょってこと?」といってから、月子が顔を曇らせた。「いや、あぁ――え、そういうことなの。別々?」

「そうそう」

 

 へえ、と月子は呆け顔になった。彼女自身感性がずれていたし、そもそも京太郎があまり気にしていないので、特に気まずい空気が流れることはない。

 

「ふうん。それで成り立ってるなんて、なんか不思議――ドラマの家庭みたいね。でもそれで、須賀くんはさびしくないの?」

「そりゃ、ひとりでいたらさびしいさ」京太郎はあっけらかんと答えた。「だから、おまえが遊びに来てくれて、嬉しいよ。麻雀もできるしな」

 

 ぴしゃん、と音がした。

 月子が自らの口に掌を勢い良くぶつけた音だった。

 

「どうした」と、京太郎はいった。

「なんでもない」と、不機嫌な声で月子は答えた。口元は手に隠されたままである。「――それより、もうすぐ6時よ。どうせ今日も行くんでしょ、ラジオ体操」

 

 おう、と京太郎は力強く頷いた。

 

 

 ▽ 8月中旬 鹿児島県 トカラ列島・悪石島/ 13:33

 

 

 暑気は留まるところを知らない。石戸(いわと)古詠(こよみ)の見上げる空は蒼褪めて、果てが無い。雲すら見えない。太陽は誰はばかることなく熱を輻射して地を焼く仕事に励んでいる。古詠は舌でも出しそうなほど汗を流しながら、足を引きずるように歩く。麦藁帽を結ぶひもは汗を滴らせるほどに湿っている。無地のシャツもまた汗を吸い、背骨が浮き出るほど身体に張り付いている。

 

 少年の両肩が負うのは、簡易組み立て式のデッキチェアとビーチパラソルだ。腕には西瓜を二玉提げている。古詠の体格は11歳の男子としては平均的だが、仮に彼があと三年歳経ていたとしてもほとんど苦行に近い大荷物だった。もちろん、彼は好き好んで荷役に興じているわけではない。ちょっとした出来心から、ちょっとした賭け事に挑み、あっさりと大敗を喫したのだ。その結果がこの仕打ちだった。

 

 汗が地面に落ちる。乾ききった大地は、水気をすぐに失う。牛馬のにおいが鼻をつく。畜糞の入り混じった臭気は、古詠の気を更に滅入らせる。道は長く、景色は美しいが平坦である。目路の限り陽炎が立っているせいか、現実味も欠けている。ただ潮騒だけがいやに涼しげで、気分をいくらか慰めた。

 片道三十分、往復一時間の道程を踏破した彼を、迎えた第一声は容赦の無いものだった。

 

「遅いですよー。待ちくたびれました」

 

 岩礁の汀に遊ぶのは、水着姿の少女であった。手といわず足といわず良く日に焼けた少女の肢体は闊達な雰囲気を発散しており、跳ねるように歩くさまは羚羊を思わせる。

 

「どこかで寄り道でもしてたんですかー?」間延びした口調で、薄墨(うすずみ)初美(はつみ)が言った。

 

 飄々とした出迎えに、言葉を返す余裕は古詠にはない。荷物を地面に落としざま、彼は尻を落として天を仰ぐ。ものも言わずにうずくまり、こみあげる吐気を空えづきとともにやり過ごした。

 鼻歌交じりに荷を回収する少女は古詠に目も呉れず、浅瀬に飛沫を上げながら、即席の休憩所を組み上げた。

 パラソルを開閉しつつ、彼女は、

 

「いい感じです。帰りもよろしくー」

 

 と、言った。

 それから今さら、古詠の惨状に目を留めて、眉を下げる。

 

「それにしても、体力ないですねえ」

「わるかったね」負けた身分では反論する気力も湧かず、古詠は薄墨へ降伏の構えを取った。「しかし、こんなにこき使っておいて、よくそんな口が利けるな」

「まー、泳ぎで私に勝つなんて十年早いって感じですかー」得意げな顔で、薄墨は胸を張った。「この悪石島の人魚の異名を取る私に挑もうなんて……」

「河童の親戚か」

「尻子玉抜きましょうかー」薄墨がにこやかに右手を開閉させた。

 

 震える足腰に鞭打って、古詠は薄墨から距離を取った。そんな様を見て、嘆息する少女の表情は情けないと言わないばかりだ。

 

「そんなだから、学校でもいじめられるんですよ。姫様や霞ちゃんに心配かけて、悪い子ですねー」

 

 薄墨の発言に、古詠は耳を疑った。

 

(いじめ?)

 

 事実無根の話である。中途半端な時機に転入した小学校に、しんから馴染めているとは言いがたい。しかしそもそも、古詠の通う学校に他者を排斥するほどの連帯感は存在していなかった。田舎の子供と侮っていたつもりはないが、皆それなりに乾燥した心持で新たなクラスメートを迎え入れていた。

 

「いや、いじめられてないから」古詠は慌てて否定した。「なんだよその話。なんでぼくがいじめられてるなんてことになってるんだ」

「あれ」と、薄墨は首を傾げる。「でも、霞ちゃんが、夏休みなのに一度も家に友達が遊びに来てない、こよみくんはいじめられてるんじゃないかしらって……」

「友達を家に呼んでないのはほんとうだけれども、いじめられてるとかはないよ」古詠は嘆息した。

「むう……」薄墨は腕組して唸った。「ガセネタをつかまされましたかー。……つまらないですー」

「薄墨さん、けっこう性格キツいね」と古詠は言った。「そもそもあの人、家にいないのに、どうしてそんなこと知ってるんだろう」

「そっか。霞ちゃんはふだんから姫様と一緒でしたね」合点が行ったふうに薄墨は頷いた。「それはそれとして、ホントにぼっちじゃないなら友達のひとりも家に呼べば良いじゃないですか。そうすれば霞ちゃんも安心するんですから」

「いやだよ。親いないとか知られたら気を遣われるじゃないか」

「自分かわいそうですか?」薄墨が鼻を鳴らした。「それ、ばかみたいですよー」

「ああ、なるほど」得心した古詠は笑った。「たしかに、もしかしたら、そういう気分もあるかもしれない。自分ではたんに説明とか面倒くさいってだけだと思ってたけど、ほんとうは、周りにかわいそうだって優しくしてもらいたかったのかな」

 

「……」

 

 薄墨が、拍子抜けしたように白けた顔を見せた。

 彼女は恐らく自分のことが気に食わないのだろうな、と古詠は他人事のように思う。薄墨とまともに顔を合わせたのは、古詠が鹿児島に越して以来これで三度目となる。いずれもまともに会話を交わしていない。

 特に彼女と揉めた記憶はなかったが、どうやら薄墨は古詠を嫌っているらしかった。連絡船でこの島に入ったのは昨晩のことになるが、今日だけでも、薄墨は何かしら理由を見つけては古詠に突っかかってくる。

 ふだんの薄墨がどんな少女かを古詠は知らない。ただいまの彼女の反応は、古詠に妹を想起させる。だからたんに感傷が呼び起こされるだけで、挑発に乗るような気分には、どうしてもならなかった。

 

「ごめんね」と、彼は言った。「たぶん、ぼくを怒らせたいんだろうけど、そんな気分になれないんだ」

「そうですか」打って変わって淡白に、薄墨は答えた。「じゃ、もういいですー」

 

 そのまま、薄墨は抱えた西瓜を岩場に打ちつける。存外と軽い音を立てて四分五裂した玉から適当な塊を見繕うと、指に付着した汁気を舌で舐めつつ、彼女は紅い実にかじりついた。

 そこでいまさら、古詠は喉がからからに渇いていることに気がついた。

 

「それ、もらっていい?」

「持ってきたのは君ですよー」薄墨は古詠を見もせず答えた。

 

 言葉に甘えて、古詠もまた割れた西瓜に手を伸ばす。水気を含んだ果実は甘く、噛んで飲み下すたび身体に活力が染み渡る心地がした。

 ふたりは、しばらく、無心で西瓜にかぶりついた。会話は絶えた。西瓜の実を咀嚼する音、種をより分け吐き出す音、浪打の音、それにとんびらしい鳥の鳴き声が、その空間に響く全てだった。

 一玉を食べきるまでに、十分も掛からなかった。先に満腹になった薄墨が、体を投げ出すように浅瀬に寝転んだ。古詠の目など気にもならないのか、満足げにあいき(げっぷ)さえした。

 

 括られた髪が水に揺らめく様は、古詠に死体を連想させる。

 母が最期に選んだのも水場だった。

 つい数ヶ月前に、小さな借家の浴槽で、母は事切れた。

 その死体を最初に見つけたのは、古詠である。

 心を病んだ母が一時退院する運びとなってから、三日後のことだった。前日、母は久方ぶりに腕によりをかけて手料理をふるまってくれた。古詠も野菜の下ごしらえを手伝った。最後の晩餐は、おおよそ和やかに終始した。笑みが飛び交い、それなりに明日への希望を繋ぐ夜だった。少なくとも古詠はそう思った。どこかのボタンを掛け違えて、母は心を傷めたけれども、それも徐々に快方へ向かい、また家族四人で暮らせる日が来る――古詠は、そんな暢気な空想が持つ信憑性を、まるで疑っていなかった。

 お母さん、がんばるからねと、母はその夜言った。

 

 そして、次の日に死んだ。

 

「……すごい目をしてますよ」

 

「――そう?」

 

 薄墨の声をきっかけに、古詠の意識は現在へ立ち戻る。黒くて大きな薄墨の瞳に、見て取れる感情は浮かんでいない。彼女が古詠に向ける関心の薄さが表れているようだった。

 そんな視線を、古詠は心地良く感じている。

 

 薄墨初美は、活力に溢れた娘だった。古詠にはそう見えた。自分に対して向ける好悪の情がどうあれ、だから古詠は鹿児島で出会った親族の中で、彼女だけはいくらか『人間』らしいと思っている。従姉である石戸霞も含め、霧島神境と呼ばれる領域に関わる幾人かと彼は出会い、言葉を交わしたが、皆例外なく()()している存在だった。受けた気遣いや恩に思うところがあるわけではない。彼女たちに感謝する気持ちは確かにある。ただそういった思考とは別の領域で、古詠の感情が神代の人々を生理的に拒んでいた。

 

「それで――」宙を見つめたままで、薄墨が言った。「君はどうしてまた、ここにやってきたんですかー。べつに私に会いに来たってわけでもないでしょう。盆祭りも終わってるし、この島にはホントに何もないですよ。君みたいに都会から来た人には何も面白くない所だと思いますけど」

「別に都会から来たってわけじゃないけど」古詠は苦笑した。「薄墨さんの思ってる通り、ぼくはこの島には、べつだん用向きはないよ。ただ、ここって何があったって連絡船が来るまでは様子なんて見に来れないでしょ。だから、ちょうどいいかなって思って」

 

 薄墨が顔を曇らせた。

 

「なにか、悪いことしようとしてますかー」

「どうかな。どうだろう」古詠は肩をすくめた。「ぼくはたんに、邪魔されずに出かけたいだけなんだ。でも、さすがにひとりでどこか行ったなんてバレたら、石戸の家の人にも心配かけるでしょう。だから、帰るのは来週ってだけ伝えておいて、この島に来たわけ。薄墨さんのおじいさんたちには前に世話になったし、それならべつに不自然じゃないだろ?――で、ぼくは明後日来る連絡船で一足早く鹿児島に戻って、そこからは暫く自由に動けるようになる、と」

「なるほど。それで、元々帰る予定の日には、何食わぬ顔で戻ってきてると。そういうわけですか」薄墨は、疑問の氷解に微笑みを浮かべた。

「そうそう」

「で、それを聞いた私がだまって君の自由にさせると思いますかー?」と、笑みを崩さず彼女は言った。

「そうしてくれると嬉しいけど、薄墨さんが駄目っていうなら、元々諦めるつもりだよ」

 

「……は?」薄墨が目をみはった。「ちょっと、なんですか、思わせぶりな悪巧みしておいてそんなにアッサリと」

 

「しょうがないよ」と、古詠は答えた。「今の話で誰がいちばん迷惑かっていったら、こっちでぼくの面倒を見ることになってる薄墨さんちだからね。薄墨さんに反対されたなら、それは諦める。貰われ子の身分で、そこまでわがままになるつもりはない。来週帰る日まで、釣りでもやって大人しくしてるさ」

 

「その物分りのよさ、気持ち悪いですねー」やや苛立ちを込めた口調で薄墨がいった。「もちろん、君のわがままなんか許しませんよ。それはぜったい。でも、なんなんです、その態度?」

「態度って……」古詠は眉を集めた。「なんか気に障った?」

「霞ちゃんの家の人も、本家の人も、誰も君のこと、悪く言わないんですよねー。もちろん姫様も霞ちゃんも」指折り数えるように、薄墨は続けた。「家の仕事はよく手伝う。いいつけは素直に聞く。小さい子達の面倒を見る。神境のことには立ち入らない。質問しない。調べもしない――あのですねー、気づいてないなら言いますけど、君、おかしいですよ。子供らしくない」

 

(そういう自分も子供じゃないか)

 

 とは、思っても口にはしない。かわりに、

 

「そう?」と、古詠は落ち着き払って応じた。「じゃあ、どうすれば子供らしく見える?」

「まず、そういう切り返しをしてくる時点でダメダメです」薄墨は言い切った。「君、君、ホントに――」

 

 そこで数瞬、薄墨は言葉を切った。二の句を言うべきか言わざるべきか、迷っているような逡巡である。それで古詠は、彼女が吐きたい言葉についてだいたい察しがついた。

 

「聞きなよ」と、古詠は促した。「そこまでいったらすっきりしたほうがいいでしょ」

 

 薄墨の表情が、苦いものを含まされたように変じた。半身を起こした彼女は、古詠を吃と見据えて、

 

「……お母さんが死んで、悲しくないんですか」

 

 ――そう呟いた薄墨の背後に、()()()()()()()のを古詠は視る。生前の姿そのままだった。顔色は最期に見たように土気色をしていなかったし、眼球は正常で、鼻梁も崩れてはいない。血の臭いをまとってもいない。服薬による曖昧な目線も正されて、柔和な瞳を古詠へ向けている。石戸霞と、そして自分に良く似た母の顔は、数年来見かけたことがないほど安らいでいた。

 ただし、止め処なく涙を流してもいた。悲しげな顔でもないのに、落涙はまるで自動的だった。古詠はその涕泣が何らかの訴えであると解釈した。母は何かを求めている。それが何かについては、おおよそ察しがついている。

 生前の母が此の世でいちばん欲していたものを、古詠は知っている。それはものではない。概念でもない。娘でもない。息子でもない。

 恋人だ。

 母は父を求めている。

 もう一度逢瀬をやり直したいと想っている。

 その未練のあまり、死してなお、息子に姿を見せている。

 

 母の唇が動く。

 無音の名を紡ぐ。

 彼女は父の名を呼んでいる。

 ぽっかりと空いた口腔は深淵だった。歯も舌も咽喉も見えない。そんなところばかりが空想的で、影のない母の姿が幻でしかないと古詠に教えてくれる。

 

「どうかな」と、不自然に間を置いて、古詠は答えた。「正直なところ、よくわからない。自分がどう想っているのかがどうしてもうまくつかめない。悲しくないことはないんだろうけど、正直なところ、ちょっと肩の荷が下りたと感じたことは間違いない。だから、もしかしたら、嬉しいのかな? でも、ほんとうによくわからないんだ。母さんの死体を見つけた瞬間、なんだか、そういう色々なものが全部頭の中から消えちゃったんだよね。その感じがいまも続いてる」

「ちゃんと、泣いたんですか」薄墨はもう後には引けないとばかりに踏み込んできた。

「それ、薄墨さんに関係ある?」純粋に奇妙に感じて、古詠は反問する。

「関係はないですけど、石戸の人たちじゃ、君に気を遣ってちゃんと聞けなそうですからねー」薄墨は嫌そうな感情を隠そうともせず答えた。「しょうがないじゃないですかー」

「泣いたりわめいたり、荒れたり当り散らしたり、怒ったり憎んだり、そういうのが苦手なんだ」古詠は嘆息した。「体力つかうし、面倒じゃない。陰気なのも趣味じゃないし、楽しいことだけやってたほうがいい。笑ってたほうがラクでいい。そういうのがおかしいっていわれたら、そうなんだとしかいいようがないよ。それがぼくなんだとしかいえないよ」

 

「――」

 

 薄墨は、だまって古詠の言葉に耳を済ませていた。大きな双眸は揺るぎもせず古詠へ固定されていた。彼女は確かに、何かしら不穏な気配を古詠から嗅ぎ取っているらしい。それが母の亡霊に由来するものなのか、もしくは古詠の性質自体に対するものなのか、古詠には判別しようもなかった。

 石戸霞や、神代小蒔――霧島神境を訪うたその日に顔をあわせた少女たちは、神に奉仕する役目を負った特別な人間だった。詳しく説明を受けたことはない。ただ雰囲気や、会話の端々で察せられることがある。彼女たちは神の実在を前提としている。超現実的な存在を霊感のようなもので捉え、ときに借力し、ときに調伏している。

 しかし彼女たちに、母の存在を指摘されたことはない。だから古詠は自らの立ち位置を判じかねている。彼は目に映る現実的極まりない母が、自身の妄想である可能性も考慮している。そうであれば話は単純で、彼は自分の狂気と折り合いをつければいい。だが問題は、母の残骸が確かにそこにいて、霞や小蒔の感覚では検知されていない場合である。

 

(面倒くさいな――もう)

 

 未練がましくそこに立つ母を、古詠は哀れに思う。だから極力、願いをかなえてやりたいとも思う。しかし一番先に立つ感情は倦怠である。母は死んだ。古詠はその死を確認した。人は死ねば終わりだ。生きている限りはどんなことでもありえてよい。しかし故人が生者に何かを働きかけることは、古詠にとってひどく条理に沿わないことだった。

 

(母さん、死んだんだろう。生きるのがいやになったんだろう。だからぼくを残して死んだんだろう。だったら、大人しく消えてくれればよかったんだ――)

 

 もう一度、彼はため息をついた。薄墨さん、と目前の少女に呼びかける。

 

「薄墨さんもだけど、この島って、麻雀打てる人、いる?」

「半分以上の島民が打てますよ」と、薄墨は答えた。「私も含めて」

「いいね」と古詠はいった。思わず、口元が綻んだ。「じゃあさ――ぼくのこと、見逃してくれなくていいから、麻雀しようよ。この島に何もなくても、麻雀があればいいや」

「君、麻雀できるんですか?」薄墨は目を瞬かせた。「姫様たちはそんなこと、ぜんぜん言ってなかったですけど」

「あっちじゃ打ったことないからね。ふたりとも強そうで、是非打ってみたかったんだけど、最初ちょっと誘ったときに気が進まないみたいだったからさ」

「なぜですかー」

 

 問われた古詠は、母の幻に醒めた目を送りながら、簡潔に答えた。

 

「何も賭けない博打なんて、つまんないだろ? ――それを厭といわれちゃァ、しょうがないよ。彼女らとは遊べない」

「へえ――なるほど」

 

 薄墨初美が、初めて、本心からの笑みを見せた。

 ただし、その感情は攻撃性の発露である。

 

「ようやく、チョッとだけわかりました、君の事」と、薄墨はいった。「いいですよ。やりましょう。――もし私に勝てたら、見逃す件、考えてもいいですよ」

「やっぱり」と、古詠は破顔した。「思った通りの人だな、薄墨さんは――がぜん、夜が楽しみになってきたよ」

「何のんびりしたこといってるんですかー」薄墨が、勢いをつけて立ち上がる。そのまま躊躇いもせず水着を脱ぎに掛かると、着替えを置いている場所へ走り出した。「打つならこれからですよ。時間には限りがあるんですから」

 

 さすがに古詠は度肝を抜かれて、ぽかんとその背を見送った。遠目に、焼けていない薄墨の白い背や臀部が見える。含羞がまるでないその振る舞いは少年のようだが、彼女の大人びた物言いとの落差が、かえって古詠の頭に血を集めた。

 

 ――しかしそんな淡い感情も、母の姿を認めると急激に冷え込んだ。

 

「麻雀、久しぶりだな」と、彼は言った。

 

 それから薄墨が戻るまで、妹のことを考えていた。

 

 

 ▽ 8月中旬 長野県 信州麻雀スクール/ 11:16

 

 

「雀卓がほしい?」と、南浦数絵はいった。

 

 打:{北}

 

「そうなんだよ」と、京太郎は重々しく首肯する。

 

 打:{二萬}

 

「そっか――うちには生まれたときからあるけど、ない家も普通にあるよね」

 

 打:{9}

 

「一応近場で打つところもあるんだけどな。やっぱり手元で触りたいんだ」

 

 打:{九萬}

 

「ほんとに好きだね――麻雀」

 

 打:{東}

 

「そうだな。好きだよ――きっと、おれはこいつで身を持ち崩すだろう。そんなふうに思うくらい好きだ。月子に教えられて、こいこいやらチンチロ、ポーカーとか、そっちにも手を出してはみたけどさ、悪かァなかったものの、やっぱり麻雀が一番やってて楽しいよ」

 

 打:{五萬}

 

「それは――あはは、小学生の物言いじゃないね」可笑しそうに、南浦は笑った。「須賀くん、ほんと、変わってる――でも、その気持ちはわかるけどね。テレビとか見ていると、やっぱりプロには憧れるもの」

 

 打:{七萬}

 

「それにしても、タイミング悪かったな。せっかく長野に来たのに、ちょうどみんな旅行行ってるところでさ。どうせなら、また囲めたらよかったんだが」

 

 打:{4}

 

「そうね――残念だけど、仕方ない。池田さんも花田さんも石戸さんも、みんないっしょなんでしょう?」

 

 打:{北}

 

「ああ。とりあえず東海まで南下して、そっから三重、奈良、大阪までだとさ――。池田さんは最初ひとりで沖縄まで行くつもりだったみてーだけど、生まれたばかりの三つ子の世話が大変で、予定を短くしたらしい」

 

 打:{六萬}

 

「耳を疑う計画だね、それ」南浦の顔が引きつった。「女の子なのにそんな、一人旅とか、自覚がなさすぎて怖い。……どう?」

 

 打:{八萬}

 

「ロン。一通西(ドラ)3で8000ちょうどだ。――うーん、やっぱり二人打ちは駄目だな。話すほうに熱中しちまう」

 

 京太郎:{八①②③④⑤⑥⑦⑧⑨西西西} ロン:{八}

 

「やられちゃったな」山を崩して、南浦が嘆息した。「巧くなったね、須賀くん」

「たまたまだよ、今のは――アガり損なってたし」

「ううん、これからまだまだ、巧くなると思う」真剣な顔で南浦はいった。「始めたばかりのころって、そういうものだよ。新しい知識や技術を吸い込んで、どんどん巧くなる。自分でもその伸び幅がわかるくらい。でも、たぶん、どこかでそういう伸び方は終わっちゃうんだ」

 

 追懐するように、目を細める南浦だ。京太郎は黙って、先達の言葉に耳を傾けた。

 

「――こういう競技だから、伸び悩む時期に不調が重なることはある。それが続くと、牌から離れたくなることもある。スポーツみたいに、ちょっと休んだからってすぐどうにかなるようなものじゃないけど。お祖父さまは、そういうときには一旦間を置くのも悪くはないって言ってた」

「そうだな。どうしても勝てないときって、あるな」

「だから、気分転換しようか」晴れがましく笑うと、南浦は席を立った。「お昼行きましょう。せっかく長野にいるんだから、おそばとか食べたい」

「マック食べるくらいの金しかないぜ」財布の中身を広げて、京太郎は闊達に笑った。

「しょうがないなァ――」南浦が苦笑いした。「まけといてあげる!」

 

 二人連れたって、打ち場をあとにする。この日も残暑がきびしく、陽射しは猛烈だった。くるくると良く変わる南浦の表情は、初見の怜悧な印象を裏切って、年頃の少女然としている。京太郎は関西の地へ行った馴染みの顔ぶれを思い返して、

 

 ――南浦が後方で立ちすくんでいることに気がついた。

 

「おい、――どうした?」

 

 問うが、彼女は答えない。蒼褪めた顔色で、前方の一点を注視している。

 京太郎は南浦の視線を追う。

 果たして、その先には、京太郎と同年代と見える男女が二人いた。 

 印象に際立ったものはない(少なくとも京太郎にはわからない)。ふたりはただ歩いているだけだ。良く日に焼けた少女が、隣の少年に説教じみたことを言い含めている。対する少年は暖簾に腕押しの風情で、少女の苦言を明らかに聞き流していた。

 

「どういうことなんですか、長野くんだりまで来て、目当ての人がいないって!」

「まァ、いないものはしょうがない。廻り合わせが悪かったとしかいいようがない」

「しょうがないじゃないですよー!」少女はいたく憤慨しているようだった。「もう、姫様たちにバレちゃったんですから、こうなったらとりあえず何かお土産でも買うしかありませんー!」

「ふーん。がんばってね」

「なにいってるんですか、お金は君が払うんですよ」

「え、なんで……薄墨さん勝手に着いて来ただけでしょ。お金は自分で持つっていったじゃん」

「ふふん、この前の麻雀とここまでの旅費で、コツコツ貯めたお年玉はすっからかんですよ。――だからもう、ホントお願いしますー」

「あのねえ――あ、麻雀スクールだってさ。どうせヒマになっちゃったし、せっかくだから入ってみる?……と思ったけど、ノーレートか。やっぱりいいや。まあ、子供でも入れるレート有りの店なんかないもんなァ――」

「お年よりのみなさんが入れてくれたお賽銭をしゃぶりつくして、まだ足りないなんて、君ホントにゲスですねー……」

「え、あれそんなお金だったの……え、マジで? それ、ぼくが悪いの?」

 

 そのまま、二人は京太郎、南浦とすれ違う。彼らはこちらを見もしない。陽炎が立つアスファルトを歩いて、ほどなく、その背も見えなくなった。

 ようやくといった様子で、南浦が大きく息をつく。

 

「なんだったんだ?」尋常ではない彼女の様子に、思わず京太郎は訊いた。「あいつら、なんかあったのか?」

「――ううん、なんでもない」南浦はゆっくりとかぶりをふった。「ごめんなさい。いきましょう」

「……大丈夫か?」

「べつに、へいき」南浦は少し翳りのある笑みを浮かべた。

 

 それから、二人組みが消えた方角へ目を向けた。彼女はしばらくそうしていたが、やがて何かを期すように鋭く息衝くと、鮮やかにきびすを返して、京太郎を促した。

 

 京太郎は、わけもわからぬまま、彼女に従った。

 

 

 ▽ 12月中旬 長野県・飯島町・七久保/ 16:17

 

 

 夏が終わり、秋が来た。

 ――冬枯れの季節になった。

 

 客観的に判断して、麻雀との出会いは須賀京太郎に悪影響をもたらした。これまでのかれは、良くも悪くも志向を持たない少年でしかなかった。虚無的な思想の偏りはあからさまに発露することはなかったし、かれの性格自体は凡庸で善良なものであったためだ。

 ただ、一度のめり込む事が出来ると、今までは水面下に隠れていたかれの本質が現れるようになった。要するに、かれの生活は完全に麻雀中心のものへと組み変わったのである。学業の優先度は加速度的に下落して、観戦したプロの対局の牌譜を起こし、検討するうちに夜が明け、疲労が囁くまま夕方まで寝入ることようなことはしばしば起きた。欠席が増えれば、当然父母へも連絡が行く。須賀家は健全な状態とは言いがたかったが、両親から息子の社会性への懸念が失われたわけではない。須賀家では当然の流れとして、息子から麻雀を引き離す方針が採用された。

 声を荒げ、この決定に反抗する意気が京太郎になかったわけではない。ただかれは、最終的にこの裁可を従容と受け入れた。

 

「いがーい」と評したのは石戸月子だった。「須賀くん、完全に麻雀キチになってたじゃない。あわや家庭内暴力勃発かと思ったわ」

「べつに」と京太郎はいった。「諦めるつもりはないよ。ただ、むだに親に心配を掛けちまったのは、おれが悪かった。それを反省しただけだ。――ま、ウチの外でも麻雀やるなってんなら逆らっただろうけどさ」

 

 さすがに両親も、週末や家庭外での息子の行動を制限する心算はないようだった。彼らが幼少期から全く懐く様子を見せなかった初子を扱いあぐねているのは明らかで、京太郎はそのことを非常に申し訳なく思っている。京太郎の生来の性質が、いまの須賀家の様相の因となった――そんな思いが拭いきれない。

 といって、ことは意気込みひとつで綺麗に革められることでもない。京太郎の姿勢は単なるどっちつかずで、中途半端なものでしかなかった。真実親を思うのであれば、かれは月子の言うような行動に走るべきだったのだ。この件に対する京太郎の処方は、かれと家族の距離を、また一つ広げるだけの結果となった。

 

 生活を忽せにしないこと。また、したとしてもそれを気取られないこと。

 

 京太郎はその点を胸に刻んで、麻雀への没頭を続けた。特定の集団に属するということはなかったが、とくに相手は選ばなかった。参加者を選ばない場が立つと聞けば、どこへでも出向いた。とくに池田華菜は呆れるほどそうした場の情報に詳しく、彼女についていけば相手に困るということはなかった(ただし、たいていの場合京太郎よりかなり上手(うわて)の対手を向こうに廻すはめになった)。

 次に京太郎が入り浸ったのは、花田煌が通う麻雀クラブか、そうでなければ月子の自宅だった。後者はお世辞にも子供が足を踏み入れるに適した環境とはいえなかったし、じっさい初めて月子に案内された折にはひどく驚いたものだった。が、とにかく打てればそれでよいというのが京太郎のスタンスである。月子と同じく物怖じせず、月子と違って素直な京太郎は、比較的大人に(とくに商売女に)受け入れられた。

 

 週末ともなると、京太郎はほぼ必ず家を空けた。友人と遊ぶか、麻雀を打つかがかれの大事だった。

 

 そんな日々の中で、京太郎が気に留めていたのは、夏に図書館で出会ったあの少女たちである。あれから幾度か図書館に通ったものの、すんなり再会ということにはならなかった。折悪しく司書も以前勤めていた人から変わってしまい、彼女らの素性を知るための線が途切れていた。

 京太郎の主観では、卓を囲んだほうの少女は相当な達者である。なにしろプロを向こうに回して一歩も引かずに戦った小学生だ。しかし月子も池田も、「そんな小学生がいてたまるか」と京太郎の主張を一顧だにしなかった。

 

「あのなァ」と池田は諭した。「プロはすごいすごい強いぞ。まじでなんかおかしいんだ。中には、そりゃそうじゃないのもいるけどさ――いっしょに打ったの、南浦プロと大沼プロだろ? そんな卓でおまえ、あたしらと同年代が勝ちそうにかったとか、そんなんがこのへんにホイホイいてたまるか。いたら絶対知ってるし」

 

 残念ながら、少女の名前を失念したうえに人相を伝える能力に乏しい京太郎には、反論する術はなかった。

 

 さらに日が空くと、再会できる目はどんどん薄くなった。京太郎自身も、何をそこまでこだわっているのかを見失いつつあった。もはや慣習と化した図書館通いも、止める踏ん切りがつかないだけだった。

 

(今日は何を読むかね――)

 

 麻雀関連の書籍で目ぼしいものは粗方読んだ。気の向くまま、京太郎は児童書のコーナーに立ち寄る。ふだん目を向けない場所になら何かあるかもしれないという、ありがちな(ゲン)かつぎである。

 吟味したすえ、かれは特徴的な装丁に惹かれ、『エトピリカになりたかったペンギン』という絵本を手に取った。

 

 ――その本の書き出しはこんな具合だった。

 

 

エトピリカになりたかったペンギン

 

 

 つめたい風がいつも吹く、あるさむい島に、およげないペンギンがいました。

 そのペンギンのつばさはとてもみじかく、いくら水をかいてもはやくすすめないのです。

 それにからだもまんまるとして、はしることも、氷のうえをすべることも、とくいではありませんでした。

 

 ペンギンは、まわりのみんなが水にもぐってさかなをつかまえているときも、ひとりだけおかのうえにいます。

 

 ペンギンのなかまたちは、くちばしをそろえていいました。

 

「きみのつばさは、どうしてそんなに小さいんだい。

 きみのからだは、どうしてそんなに丸いんだい。

 きみのくちばしは、どうしてそんなにみじかいんだい。

 およげなくっちゃ、さかなをつかまえることもできないじゃないか。」

 

 ペンギンは、なかまたちに、こういいました。

 

「ぼくは、およげなくてもいいんだよ。ぼくは、ほんとうは、ペンギンじゃないんだ。」

 

「うそをつくなよ。きみがペンギンじゃないなら、なんだっていうんだい。」

 

「よくかんがえてごらんよ。およげないペンギンなんて、いるわけがない。

 だから、ぼくはペンギンじゃないんだ。」

 

 なかまたちは、みんなそろってかんがえこみました。

 

「それじゃあ、きみは、だれなんだい」

 

 きかれたペンギンは、くちばしをとじて、だまりこんでしまいます。

 

 ペンギンは、じぶんがだれなのか、わかりませんでした。

 

 なかまたちは、ペンギンではないといいだしたペンギンをなかまはずれにしてしまいます。

 

「きみがペンギンじゃないなら、どこかべつのところへいってくれないか。

 ここにはおよげるペンギンしかいないし、およげなくっちゃさかなをたべることはできない。」

 

 およげないペンギンは、とてもいじっぱりだったので、なかまたちにあやまったりしません。

 ペンギンはみじかいつばさと足をばたばたさせて、なかまたちとおわかれしました。

 

 きがつくと、ペンギンはずいぶんとおくに来ていました。

 おなかがとてもへっています。

 いまにもたおれそうなほどです。

 もうあるくこともできず、ペンギンはそのばに立ち止まりました。

 

 あまりにおなかがすきすぎて、ペンギンはとうとう泣き出してしまいます。

 

「ぼくは、いったいなんなんだろう。

 ペンギンじゃないなら、なんなんだろう。

 ああ、それにしてもおなかがへったなあ」

 

 そこにあらわれたのがエトピリカでした。

 

 ――。

 

 そこまで読み終えたところで、ふと、何の気なしに、京太郎は顔を上げた。なにやら視線を頬に感じたのである。

 

「ん」

 

 と右手に顔を向けたところに、あの少女がいた。

 

「あ」

 

 と、彼女は口を開ける。京太郎もまた、

 

「あ」

 

 と、呟いて、ふたりは目を合わせたまま、しばらく立ち尽くした。

 

 

 




2012/10/2:誤記修正
2013/2/18→2013/3/13:牌画像変換(差し替えたつもりで差し替え忘れていたため)

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