畳四畳。
トイレ、風呂は共用。そして食事も共同で。
楽しい事も嬉しい事も悲しい事も苦しい事も共有していきたい。
住んでいるみんなで家族になる。
それが俺が今住んでいる〝そよかぜのいえ〟だ。
管理人さんの名前は〝塚原菫〟さん。2人の娘が居て、それぞれ〝葵〟ちゃんと〝杏〟ちゃんだ。
2人と一緒に微笑んでいる姿はまさにお母さんという感じで、この〝そよかぜのいえ〟でもお母さん的な立ち位置にいる。
しかしたまに見せる少女の様な微笑みに俺は少し心臓が高鳴ってしまうのだが。
まぁその度に杏ちゃんが不機嫌になるので、なんとか自制しようと努力はしている。
杏ちゃんは管理人さんの2人の娘の妹の方だ。
俺は気に入られているらしく、よく部屋に遊びに来るし、行動も大体一緒にしている。
いつもはご機嫌な杏ちゃんだが、1度不機嫌になると直るまでが大変だ。
まずムスッと口を尖らせながら怒ってますよ。というアピールを始める。
そして俺の事なんか知りませんよ。と言いたげに顔を逸らし、腰に手を当て無言になるのだ。
ココまで怒らせるともう謝ろうが、何か物で釣ろうが機嫌は殆ど直らない。
しかし別にコレだけならば酷い話ではあるが、杏ちゃんを放っておけば良いだけの話に思える。
だが、今までに何度かこうなった杏ちゃんを放っておいた事があるが、それから後の流れは大抵同じだ。
怒っている杏ちゃんに背を向けた瞬間、さらに怒りを増した杏ちゃんは俺の背中を小さく握った可愛らしい拳で叩く。
可愛らしいものだ。だが、俺が振り向くとまたそっぽを向く。
そして俺が再び前を向くと、「うー!」と唸り声を上げ背中をポンと叩くのだ。
いくら可愛いとは言え、ずっとコレを繰り返しているわけにも行かず、出掛ける事もあるのだが……。
普段とは違い手を繋いでくれず、横も一緒に歩いてくれない。
かといって出掛けないわけもいかず、しょうがなく後ろを気にしながら歩く事になる。
しかし何よりも辛いのは俺が誰かと会話をする度に、服を小さく引っ張り寂しそうな顔をして俯いてしまう事だ。
そんな顔をさせたくは無いというのに、その原因である俺がどうする事も出来ない。
無力感。
言葉にすれば簡単だが、そんな言葉では表現できない……まるで体が底なしの沼に沈んでいく様な感覚を全身に感じ、体が重くなる。
しかし何よりも辛いのは俺ではなく、目の前で俯きながら涙を堪えている小さな存在だろう。
俺はそんな顔も想いも杏ちゃんにはさせたくない。
だから、なんとか回避したいのだ。そう何か方法があれば……。
「それ、先週も言ってた」
「ごめん。急な仕事が入っちゃって」
今日は休日。
カレンダーで赤い数字が書かれている日だ。
さりとて俺は変わらずワイシャツにネクタイを通しているところで。
鏡を見ながら逆三角形を形作っているところなのだが。
扉の前には最初嬉しそうな顔からだんだんと悲しげな顔に変わっていく杏ちゃんがいた。
「約束したのに……」
「来週なら行けるから!」
「先週もそう言ってた。映画、今日で終わりなのに」
杏ちゃんは潤んだ瞳でこちらを見ながらフラフラと近寄ってくる。
そしてそのまま俺のワイシャツをギュッと握るとジッと見上げてきた。
その小さく揺れる瞳と涙で濡れる瞳を見て、俺は胸が締め付けられるような感覚を味わう。
「見たかったのに」
「その映画……俺が一緒に行っても良いぜ」
答えに窮していた俺の前に舞い降りたのは救世主ならぬ、先輩だった。
いつの間にか出掛ける為に服を着替え、ニートな事など悟られぬどこに出しても恥ずかしくないイケメン姿で登場する。コレで助かった。
「司くんじゃ、や」
「そ、そんなぁ」
……と思っていたが、どうやら勘違いだったらしい。
再び俺を責めたてる作業を始める杏ちゃん。
いつもなら先輩は床に這ったまま泣き崩れているのだが、今回は珍しく真剣な顔つきでこちらを睨んでいた。
「そういえば明。お前昨日も出勤してたな。しかも帰ってきたのは今日の朝だ」
「……そうですね」
俺は杏ちゃんに責められている事が頭から吹き飛び、背中に流れる冷や汗を感じさせないように笑顔を浮かべた。まぁ多少ぎこちなかったが。
しかしそんな笑顔でごまかされる先輩ではない。
そして心なしか、杏ちゃんの握る力が強くなった気もする。
「何時間寝たんだ?」
「7時間半ですかね」
「相変わらずごまかそうとするのが下手だな明。嘘はつきたくない。しかし知られたくは無い。その結果がソレか。俺は1日の睡眠時間を聞いたんだが。優秀なお前が分からないワケないよな?」
先輩の眼光は和らぐこと無く鋭く俺の顔を突き刺している。
下から来る鋭い視線と既にしわが酷い事になっているワイシャツも問題だ。
「おにーちゃん約束破った」
「ち、違うんだ! 今週だけ。今週はちょっとだけ睡眠時間少ないかもしれないけど、来週には『先週もそう言ってた』うぐっ」
俺は弁明しようと杏ちゃんに向けていた顔を先輩に向けつつ、横目で時計を確認する。
現在時刻は7時ジャスト。
後、10分以内に支度しなくては間に合わない。
優先事項は会社にとりあえず向かう事だ、杏ちゃんには後でアイスを買ってくるとして、先輩にはあの楽しみにしていた漫画を買ってくれば良いだろう。
今は2人を振り切ることに全神経を向ける!
「あー、もしもし? 神宮寺明の代理の者だが。今日明は体調がよくないので休む。あぁ!? テメェ、過重労働で訴えても良いんだぜ? そう、あぁそうだ。よし。話が早くて助かるな。んじゃ! ……よし。じゃあそういう事だからお前は今日休んで、ココで寝てろ」
先輩はいつの間に掠め取ったのか俺の携帯で颯爽と会社に電話を掛け、俺を休みにしてしまった。
常識も何もあったものじゃないな。
俺は小さくため息を吐き、首元のネクタイを外し、ハンガーに掛ける。
「ま、俺はまだ眠いから寝るぜ。ちなみに明、次に約束破ったら……」
それだけ言い残すと先輩は口笛を吹きながら階段を降りていった。
そして仕方なく俺は服をパジャマに着替え、布団の中にもぐりこんだ。
杏ちゃんはこちらをチラチラと名残惜しそうに見ていたが、そっと扉を閉めて出て行く。
俺は電気を消し、そっと瞳を閉じた。
全身から力を抜き、重力に身を任せる。
ふぅ。とりあえず寝るか。
さて、今日休んだという事は週明けの月曜日に片付けなきゃいけない仕事が……。
「おにーちゃん。眠る時はお仕事の事考えちゃ駄目だよ」
突然カーテンの閉め切られた暗い部屋に一筋の光と声が届いた。
杏ちゃんはそれだけ言うと再びドアを閉める。
……困ったな。いや、何で俺の考えが分かったんだろう。
まぁ考えていてもしょうがない。寝るか。
ぐぅ、眠れない。
そうだ! 寝る前に、少しだけ仕事を片付けてから寝よう。
そうそう、それが気になってたから眠れなかったのか。
「おにーちゃーん? まさか起きて仕事をするワケないよ、ねー?」
「お、おぉ」
俺は立ちあがろうとした中途半端な体勢で再びやってきた杏ちゃんに苦笑いを浮かべながら答える。
杏ちゃんは微妙な笑みを浮かべながら再び扉を閉めた。
……寝るか。
俺は布団にもぐりこみ、目を閉じる。
今度は何も考えず、ただ体を放り出し、意識を底なし沼へと沈めていく。
なんとか眠りの感覚を掴み、意識をゆっくりと沈めていった。
それから扉が少し開き、誰かが部屋に入ってきた事を俺は消えそうな意識の中で感じていたが、意識は既に夢の世界へ足を踏み入れており、そのまま眠り始めた。
布団の中に小さい何かがもぐりこんできている。それの正体も考えずに。
目覚めは最悪だった。
長い時間寝るものじゃないな。と俺は上半身だけ起こし首を鳴らす。
肩を回すと嫌な音と共に軽い痛みが腕にまで広がった。
布団に寝るのなんて何日ぶりだろうか。床とは違い硬くないのは良くない。
掛け布団の暖かさも、まだ冬の寒さが抜けきっていない初春では何時間でも眠りに誘われてしまいそうだ。
久しぶりに味わったが、危険だな。
時計を確認すればちょうど全ての針が頂点を指していた。
昼か。どうやら5時間も寝たらしいな。そりゃあ体も痛くなる。
そして俺の横には小さなふくらみがあった。それはどうやら杏ちゃんらしいが、どうして俺の布団で一緒に寝ているのかは分からない。
しかし気持ちよく寝ているようだし、ここは起こさない様にそっと布団から出るか。
「が、しかし服を掴まれているので1人での脱出は不可能なのだった」
って、俺は何を1人で言っているんだ。
俺は両腕を宙に浮かせながらヤレヤレと肩を上げた。
さて、どうするかと布団を少し上げてみればそこには幸せそうな寝顔の天使……もとい、布団という楽園に辿り着いた天使か。
そして何気なく顔を上げ、ドアを見てみれば半開きの向こうからこちらをジッと見つめる瞳が……っ!
「って、怖っ!!」
勢いで叫んでしまった俺だが、叫んだ事で頭が少し冷静になり、その呪われそうな鋭い瞳の持ち主が、何か得体の知れない化け物ではなく先輩だという事が分かった。
それが分かり安心するが、何故そんな恨みがましい視線をこちらに向けているのか理由が分からない。
「うらやましい」
理由が今分かった。いや、分かる。
そうか、俺のすぐ横に原因が居ましたか。
チラッと横に視線を向けてみればそこには少し笑みを浮かべながら俺の服を強く掴み眠る少女が。
「先輩、一応聞きますけど……そこで何を?」
「最初はお前がちゃんと寝ているか確認しに来たんだが。どうせ睡眠時間足りていないのに5時間くらい寝て、1回目が覚めたから満足だな。とか思ってるだろうと思ってな」
その言葉に俺は背中に冷や汗を掻きながら手を振り否定する。
しかしその動きがぎこちなかったせいか先輩は鋭い視線をこちらに飛ばしてきた。
人が目線で傷つく事があるのであれば、俺の体は既に布団の上に倒れこんでいるだろう。
「そんなワケ……ないですよ? まだ、寝ますし?」
「そうだな。それが良い。ほら、寝るまで見ててやるから……寝ろよ」
俺はなんとも言えない表情を浮かべているのだろう。
口元を引きつらせながら、布団に横になり掛け布団を被った。
目を閉じるが、眠くならない。
このままでは先輩はいつまでも出て行かないし、俺は会社へと向かう事も出来ないだろう。
しかし、俺には必殺技がある。
全身の力を抜き、ゆっくり大きく呼吸をする。
そしてあるタイミングから少しずつ呼吸を小さく、そしてさらにゆっくりにしていく。
瞼に力を入れないのもポイントだ。
今はまだ疑い深い先輩だが、もう少しすれば出て行く。
そして出て行けば、そのまま自分の部屋に帰り、また昼寝をするだろう。
その隙に杏ちゃんの手を外し、そして着替え会社へ行く。
まぁ昼からの出勤になるが、ある程度の仕事は出来るだろう。
「寝たか」
先輩は小さな声でそう言いながらドアを開き、閉じる音が聞こえた。
ここで飛び起きてしまえば廊下を歩いている先輩に気づかれてしまうかもしれない。
だからもう少し待つ。
そう、ここは我慢だ。
もしここで俺が起きている事が知られれば先輩はこの部屋で寝るとか言い出しかねないからな。
杏ちゃんが起きてくる可能性もある。
慎重にコトを進めるんだ。
心静かに、冷静に、クールに行く。
……そろそろ、かな?
俺はうっすらと目を開け、そして上体を起こし、目の前に居る先輩と目があった。
叫びださなかった俺はなかなか頑張ったと自分でも思う。
「おはよう。まだ……10分くらいだけど? 随分早起きだなぁ」
「あははは、トイレにでも、行こうかな! なんて」
俺は右手で頭を掻きながら口だけで笑うが、表情は全く笑顔ではないのだろう。
先輩も乾いた笑みを浮かべながら俺の肩をしっかりと掴み、笑顔が夜叉の顔に変わる。
「今日はこの部屋で本でも読ませてもらうよ。なにせ日当たりが良さそうだからな」
「それは良いと思いますよ。とってもね」
どうやら今日は布団から逃げられないらしい。
俺はため息を吐きながらゆっくりと布団という名の敵地へと全身を沈めた。
まどろみの中で俺は〝そよかぜのいえ〟の縁側に居た。
しんしんと雪が空から舞い降りていたある冬の昼下がり。
俺は荷物を横に置きながら縁側に1人座り込んでいた。
この時はまだそう呼んでいなかったが、先輩にこの家に連れてこられたからだ。
「おう、待たせたな」
「別に。用事があるなら早くしてください。次の仕事に行かなきゃいけないので」
俺は冷め切った顔で先輩の顔を見ることも無く、庭を眺めたまま抑揚の無い声で答えた。
そんな俺に先輩は何を思っていたのだろうか。
今更聞くのは怖いが、少し聞いてみたい気もする。
「次の仕事か。もう必要ないだろう。仕事なんてくだらない事に命を削る必要はない。止めてしまえ」
「は? なんて言ったんですか?」
それまでは他人のどんな言葉も俺に響くことは無かったが、その言葉は妙にずっしりとした重みをもって俺の心に入り込んできた。
それもそのはず。この当時の俺にとって仕事をするという事が生きる事で、仕事をする事でしか人との繋がりや世界に関わる事が出来なかったのだ。
だからその繋がりを絶やさない様に必死に繋いできたのに、それを目の前で否定されたのだ。心が平穏でいられるハズは無かった。
「くだらない。と言ったんだ」
「仕事をする事が俺の生きがいだと……知ってもですか? あんたみたいに生きている意味を持っている人間とは違う。俺は、俺はこんな事でしか世界が見えないんだ!」
強い目をした。瞳の奥に確かに輝きを持っている男。
泥の底で今にも沈みそうな体でそれでもなんとか地面にしがみついていた俺とは対極に居る存在に俺は憎しみをぶつける。
しかし彼は言葉を発する事も無く、ただ黙って俺の目を見つめるだけで。
「そんな俺に必要ない? くだらない? あんたに何が分かるんだ!!」
握りすぎた拳が色をなくし、感覚が無くなろうと俺は叫び続けた。
当時の俺にとって世界は寒すぎて、1人で生きていくにはあまりにも孤独だった。
何もしなければ誰にも見つからないまま底なし沼に1人消えていってしまう。
ただ、それが怖かった。
「俺は!! 『わぁ、雪だぁ! お母さん、雪だよ!』……?」
俺は部屋の中に居た先輩を睨みつけていたが、すぐ背後から聞こえてきた甲高い声に振り向いた。
そこには厚着をした元気な女の子が少し降り積もった雪の上で両手を広げながら走り回っている。
しかし空ばかり見て走り回っているからか何かに躓き雪の上に盛大に転んでいた。
「ぎゃうー!」
しかもどうやったのか顔から雪の上にダイビングしている。
そしてそんな彼女に小走りで駆け寄ってきてハンカチで顔を拭いている女性。
それは当時の俺が、いや今も変わらないが、俺がずっと求めてきた〝家族〟というモノの姿だった。
少女は自身の頭を掻きながらバツが悪そうに笑い、女性の手を取る。
女性も困ったように微笑みながら少女を立ち上がらせ、服についた汚れを払っていた。
「お前、いや明君。今何歳だ?」
「今年で……17」
先輩は小さく「そうか」と呟くとまた無言になってしまった。
俺はあまりにも眩しすぎる家族の姿から目を逸らす様に再び先輩に向き直り、その顔を見て衝撃を受けた。
先輩は悔しそうに唇を噛み締めながら、どこか泣きそうな顔で当時の俺を見ていたからだ。
そして先輩は静かに頭を下げた。
「すまなかった」
「何を謝ってるんだ」
先輩は震えながらもなんとか答えた俺の言葉に反応する事も無く、ただ頭を下げ続ける。
何故先輩がそんな事をするのか理解できず、俺はただ流されるままにその光景を見ていた。
「俺があの時引き取れば良かったんだ。だが、それが出来なかった。それは俺がまだガキだったからだ。それに関して言い訳をするつもりは無い。だから俺は、お前と過ごせたハズの時間を過ごしたい。コレは俺のワガママだ。お前がこのまま家族の温もりを忘れたまま孤独に消えていくだなんて耐えられない。見たくも無い。だから、ここで過ごすはずだった時間を今から始めたい」
「家族の……ぬくもり……?」
それは10年以上前に失われたハズの何か。
俺は無意識に立ち上がり、後ずさりをする様にこちらをまっすぐに見つめている先輩から離れようとした。
しかし、数歩下がってすぐに何かにぶつかってしまう。
「きゃ!」
「お、っと」
俺には殆ど衝撃など無かったが、俺のすぐ後ろに居た何かは違ったらしい。
何かが雪の上に落ちる音と小さな声が聞こえた。
俺は急いで振り返り、そして目が合った。
それは酷く小さな少女で、ぶつかった衝撃でだろうか目じりには涙が浮かんでおり、そして毛糸の帽子が雪の上に落ちていた。
「おにーちゃん。どうしたの?」
どうしたの? は俺の台詞だ。と思いながらも俺は何も口に出せずにいた。
ただただ、何故か滲んでいく視界の中で少女を見つめる。
「どっか痛いの? それならあんず、凄い魔法知ってるよ」
言いながら少女は俺の強く握り締めた拳をその小さな手のひらで包み、口付けをした。
そして俺の拳を何度も優しく撫で、そして俺に微笑んだ。
「少しだけ痛い痛いが隠れますように」
この時俺はきっと今までの人生で1番動揺していたのだろう。
「えっとね。痛いのって妖精さんが危ないよー。って教えてくれてるんだって」
ずっと見ないようにしてきた〝家族〟を見てしまって。
「だからね。えっとね」
出会ったばかりの人に家族になりたいと言われて。
「きっともう少ししたら痛いのが無くなるから」
少女に優しくされて。
「後もう少しだけおにーちゃんの痛いのが隠れますように」
だからしょうがないのだ。こんなにも涙が溢れて止まらないのは。
俺は少女に両手を差し出したまま雪の上に膝立ちになり、ただただ涙を流し続けた。
それから長い時間泣いていたが、杏ちゃんはずっと傍で俺の手を握り続け、優しい笑みを浮かべていた。
「少しずつで良い。焦らなくて良いんだ。ゆっくりと答えを出してくれれば良い」
先輩も俺の背後に立ち、一言一言を噛み締めるように言う。
「ただ、命を削って仕事をする事だけは反対だ」
「それでも俺には仕事しか……」
先輩は俺を見ながら静かに首を振った。
「これだけは覚えておけ明。命は売る事はできるが、買う事はできない。1度売り払ってしまえば二度と取り戻せないんだ。だからそんな方法で絆を確かめるなんて悲しい事を考えないでくれ」
俺は黙って何も言えず俯く。
「ここならきっと明の求めているモノが見つかる。だから……」
結果的にその言葉がキッカケになり、そのまま〝そよかぜのいえ〟に住み、そして現在に至る。
それから俺は少しずつだが、この場所での生活に溶け込んでいた。
夢の世界から現実世界への帰還は人によっては重労働だと聞くが、俺は比較的楽だ。
水の底からゆっくりと体が浮上していく感覚と言えば良いだろうか。
だんだんと水面に近づくにつれ意識がはっきりとしていくのだ。
「おはよう」
「ん。先輩、おはようございます」
俺は上半身を起こした後軽く体を動かし、頭を覚醒させる。
数秒としない内に思考はくるくると回り始め、視界もはっきりとしてきた。
時計を見ればあれからさほど時間は経っていないみたいだ。
先輩は窓際で本を読みながら穏やかにこちらを見ている。
俺は先ほどまで見ていた夢を思い出しながら口元で小さく笑った。
「随分と楽しそうな夢を見ていたみたいだな」
「えぇ。まぁ、そうですね」
どんな夢を見ていたかを話すのは少し恥ずかしい。
しかし俺が夢の内容を話さなくても先輩には全て分かっているのか、何も言わず静かに目を伏せた。
そんな対応が心地よくて、俺も笑みを作ったまま静かに目を閉じる。
そして数刻そうしていたが、ふとすぐ横で小さな寝息を立てている存在を見てこの後どうするかを考える。
杏ちゃんが見たいと言っていた映画の上映時間を調べて、みんなで見に行く。
そして帰りに駅前のファミレスで夕飯を食べて、家に帰る。
帰りにデザートを買ってきても良いな。
俺は想像するだけで心が暖かくなる。そんな休日を心に描いて杏ちゃんの可愛らしい寝顔を見続けた。
それから少しして目を覚ました杏ちゃんが頬を夕日の様な色に染めながら俺の背中をポカポカと叩き、それを見た先輩が羨ましいと叫ぶ。
それはそれで楽しい。そんな俺の春の1日が過ぎていった。