薄紅色の思い出。
あの日、あの桜の花びらがひらひらと舞い落ちていたあのまだ肌寒い春の日。
まだ昼過ぎだというのに薄暗いその部屋で俺は膝を抱え俯いていた。
そして部屋の中央の布団には寝ている人物が居る。
しかしその人物はもう目を覚ますことは無いだろう。
そう医者が言っていた。当時の俺にはそれがどういう意味かも、その人物がどんな人物なのかも知る事は無かったが。
この当時の俺は何も分からず、知らず。ただ漠然とした不安に震えそうな体を抱えていた。
そんな俺の気持ちなど知らず桜の花びらはゆっくりと地面という名の死へ向かう。
かの花びら一枚、一枚に心があれば今どのような事を思うのだろうか。
今、彼らにはどんな景色が見えているのだろう。
後悔は無いのだろうか。
未練は無いのだろうか。
満足しているのだろうか。
生きるという事はどういう事なのだろう。
その答えはまだ出ていない。
きっとこれからもまだでない。そんな気がしている。
いつか答えが出るとしたら、それはまさに今の祖父の様な。桜の花びらの様な時なのだろう。
だから今の俺に出来る事は〝どこかにある生きる理由を探すため〟に生きる事だけだ。
俺はまるでその場に居なかった他人の様な位置から昔の俺を見つめる。
彼にはこれから数多の困難が訪れる。そして彼が本当の意味で祖父の最期の言葉を理解するのにはまだまだ時間が掛かるだろう。
俺はゆっくりと薄紅色に染められていく空を仰ぎながら、その部屋を出た。
今この記憶では俺は部外者だ。
あと少しすれば祖父は一時的に目を覚ます。
そして彼に大事な言葉を残すのだ。それはその時の彼には理解する事が困難だが。
10年以上経った今なら少しは分かる。
きっと生きるという事は……。
誰かが俺の頬を触っている。
その少しくすぐったい感覚に俺は身をよじった。
それに驚いたのだろうか、その手は怯えるように俺の頬から離れていく。
しかしまた少しして同じように触ってくる。
その手はきっとあの子だろう。
俺は夢という名前の海から現実という名前の陸へと上がる。
重い瞼をゆっくりと開き、前を見るが、そこには何も見えない。
いや、見えてはいるのだ。正確にはそれがなんなのかを理解する事が出来ない、だ。
ぼやけた視界からははっきりとした輪郭を掴む事は出来ず、それが何か。という事しか理解出来ない。
少しずつ回転を早めていく思考に、急激に浮上してくる意識。
俺は安定していく視界と意識の中で、自分が縁側で昼寝をしていた事を思い出した。
先輩が花見をすると言い初めて、準備をしていたのだが、俺は場所の確保という事で中庭に繋がる縁側のすぐ下にレジャーシートをひき、皆を待っていた。
しかし予想よりも準備に手間取っていた様子だったので、手伝いを申し出たのだが断られてしまい、しかたなく縁側に座り込みながら静かに散る桜を見ていたのだ。
そして気が付いたら寝ていた。という事か。
俺はここまでの状況整理をしながら首を鳴らし、上半身を起こしながら周囲を確認した。
まだ誰も来ていないようだ。ただ1人を除いて。
その少女は俺が突然起きた事に驚いているのか、両手で口元を押さえている。
俺はその少女の方を向きながら自然と笑顔になる。
「やぁ。もう準備は出来たのかい?」
少女の頭を撫でながら、俺は口を開く。
頬を朱色に染めた少女はどこか嬉しそうにはにかみながら首を縦に振る。
「もう少しで……お母さん達も来るよ」
俺は口で小さく「そっか」と言いながら少女の頭から手を離し、中庭の桜を見据える。
随分と懐かしい夢を見ていた。
祖父の死は間違いなく俺の人生に大きな影響を与えた出来事だった。
その後、神宮寺の本家に引き取られてから走り続けてきた。
寝る暇も惜しんで、命をすり減らしながら、それでも止まれなかった。
生きる意味が分からないから。自分が世界に居ても良い理由なんて分からなかったから。
そんな俺が、今こうしてあの日祖父の部屋から見たような桜を見ながらのんびりと日々を過ごしている。
面白いモノだな。人生って奴は。
そんな事を考えていた俺は口元に小さく笑みを浮かべた。
あの時から忘れていた〝笑う〟という事。
そしてこの場所に来て、取り戻した〝生きていく〟という事。
「おにーちゃん、なんか難しい顔してる」
俺はいつの間にか隣に座り、俺の顔を覗き込んでいた少女の顔をゆっくりと見る。
彼女の名前は〝塚原杏〟。ここ〝そよかぜのいえ〟の管理人さんの娘だ。
肩で切り揃えられた栗色の髪に、アメジストのごとく鮮やかで大きな瞳。
少し人見知りでいつも顔を伏せているが、学校でも可愛いと評判らしい。
まぁこのくらいの年頃の男など妙なプライドばかりが先立って正面から女の子と向き合う事など出来ないだろう。
俺は初めて会った時から特に意識する事もなく、ただ何となく付き合ってきた。
そして、そんなこんなでだんだんと懐かれて、今では家に居る時は殆ど一緒に行動している。
「そうかな?」
「うん。なんかココがぎゅ-ってしてた」
杏ちゃんは自分の眉間を指差しながら口を尖らせる。
そんな顔を見て俺は思わず笑ってしまった。
「なんで、なんで笑ってるの?」
「何でも無いよ。強いて言うなら〝生きている〟からかな」
俺は空を仰ぎ、小さく息を吐いた。
そんな俺を見て杏ちゃんは首を傾げながら不思議そうな顔をしている。
杏ちゃんの頭をなるべく優しく撫でながら俺はそっと微笑んだ。
「それは嬉しいってこと?」
「そうだね。そうなるかな」
杏ちゃんは俺に撫でられながら寄り掛かってくる。
頬を朱色に染めながら嬉しそうにはにかむ杏ちゃんを見て俺の頬が緩んだ。
「おー、おー。俺が居ないところでお楽しみじゃないか」
「先輩、もう飲んでるんですか?」
「コレが! 飲まずに! いられるかー!!」
先輩こと、朝霧司。現在職なし。
先輩は右手に持った一升瓶を天に掲げながら叫ぶ。
そんな先輩の姿に怯えたのか、杏ちゃんはそっと俺を壁にし、先輩から隠れた。
「俺、今朝から小説読んでただろ? 『そういえば読んでましたね』そう。〝未来漂流記〟ていう本だった。いや、タイトルはどうでも良いんだ。問題はその作品の主人公には娘が居た。名前は未来ちゃんって言うんだがな? その未来ちゃんは主人公の事が大好きなんだ。しかしそれを言えない。その葛藤の中で、遂に未来ちゃんは何も言わずに主人公と別れてしまうんだ! 分かるか!? この苦しみが、あの娘は今も泣いているんだ。しかも主人公はそんな未来ちゃんの気持ちも知らず笑顔で別れるんだ。〝君とまた未来で会える事を楽しみにしてる〟キリッ。ってなんでやねん! なめてんのか! 俺が主人公だったら何が何でも未来ちゃんと結ばれる方法を見つけるのに……。『ん? それって倫理的にどうなんです?』知るか! 倫理なんて犬にでも喰わせてしまえ! 結局主人公の奴は他に好きな奴が居るとかで、未来ちゃんは別れるまでずっとその2人の応援をしてるんだ。なんて健気なんだ……。う、うぅ……」
「うわぁ、泣き始めちゃったよ。この人」
俺は先輩から距離を離した。
そして同じように俺の背中に居た杏ちゃんも一緒に移動する。
先輩はそんな俺たちに気づくことなく悔しそうに床板を叩いていた。
「しかし重要なのはそれだけじゃない。その主人公、妹が居るんだがな。名前は希ちゃんっていうんだがな。おいおい何後ずさりしてんだ。こっちに来いよ」
先輩は俺の肩を掴むと恨みがましい視線を向けてくる。
そんな目で見られても、俺はどうする事も出来ません。と言う事も出来ず俺はとりあえず笑顔で先輩の肩を叩いた。
「分かってますって、先輩。だから、あんまり引っ張らないで下さい」
先輩は俺の服を掴み、引っ張り上げる。
正直、服が駄目になってしまうので止めて欲しいのだが、既に酔い始めている先輩に何を言っても聞いてくれそうに無い。
俺は先輩の手を穏やかに離す策は無いかと考える。
が、そんなに簡単に浮かんだら苦労は無いワケで。とりあえず現状としては……。
「まぁまぁ。話はちゃんと聞きますから、とりあえず座ってください」
先輩は鼻息を荒くしていたが、俺に諌められ少し落ち着いたのか座り込み、庭の桜の木を眺めていた。
先ほどまで話していた小説でも思い出しているのだろうか、遠い目をしてここには無い何かを見ている様な表情をしている。
普段の先輩はまるで大きな子供の様なヒトだが、今の様な年相応の落ち着いた表情をしている先輩はまるで別人のようだった。
俺と違い、街中に居ても決して埋没する事の無い整った顔立ち。
少し冷たい印象を与えがちだが、笑顔が多いからか女性人気はかなり高い、らしい。
体型も問題ないし。一時期金を荒稼ぎしていたらしく、もう一生働かなくても良いくらい稼いだらしい。
問題があるとすれば、金を稼ぐのを止めたからか、今働いていない事。
働くというのは人間に許された最高の楽しみなのに、それをしていないなんて……理解できない。あぁそれと、もう1つあった。
「あー、どこかに俺の妹か娘いないかなー。小2くらいの」
ロリで始まりコンで終わるあの病にかかっている事だろうか。
その内どこかで通報でもされなければ良いけど。
「ここでなら良いですけど。あまり外で危ない発言しないで下さいよ。この家から逮捕者が出るのは嫌です」
俺が呆れた様に肩をすくめながら言うと、後ろで杏ちゃんが小さく頷いているのを感じた。
そんな俺たちを見て先輩はわざとらしく大きなため息をつく。
「俺だって愛が欲しいのよ」
「いや、だからといって一桁は犯罪です」
先輩はいじけたように縁側から足を投げ出し、床に体を倒す。
そして天井に向かって手を伸ばし、真剣な表情になった。
「いつだって、欲しいモノは手の届かな『あ、みんなそこに居たんだ!』ぐぎゃっ!!『へ?』」
床に寝転がり、決め台詞を吐いていた先輩は突然の襲撃によって倒れた。
いや、既に倒れていたが。
気分良く話していた先輩の腹の上に無造作に乗ったのは1人の女の子だった。
その襲撃者は今俺の後ろにいる少女杏ちゃんの姉で、塚原葵ちゃん。
彼女は活発な輝かんばかりの笑顔と、スラリと長い手足と綺麗な長い黒髪を風に靡かせていた。
杏ちゃんと良く似た顔立ちだが、杏ちゃんとは違い太陽の様にいつも元気に笑っている子だ。
葵ちゃんは咳き込んでいる先輩にその細く綺麗な手を合わせながら謝っている。
「葵君は重いんだから、気をつけてもらわないと」
先輩は息を整え、何も考えずそんな事を言い放つ。
その発言に、葵ちゃんの顔から先ほどまでの笑顔で消えている事にも気づかず、まるで被害者の様な顔つきで寝ている状態から起き上がろうとした。
しかし、そんな先輩の肩を葵ちゃんは無表情で押さえつける。
眉を顰めながら先輩は葵ちゃんを見るが、葵ちゃんは無表情のままだ。
「ねぇ、司にぃ。私って重いかな?」
「あぁ、死ぬかと思ったぜ。気分は道路でトラックに潰された蛙みたいなモンだな」
「そう」
葵ちゃんは無表情から一転、満面の笑みになると先輩の腹の上に自分の膝を乗せた。
少し苦しそうな顔をする先輩。だが、彼女は止まらない。
「ねぇ。本当に重い?」
だんだんと足に体重を掛けていく葵ちゃん。
「う、お……重い」
「いやいや、きっと気のせいでしょ。ね?」
「お、おもい」
どこか暗い笑みを浮かべたまま、葵ちゃんは体重を掛け続ける。
どうしようかと思案していると、誰かが俺の服を引っ張る感触が。
「司くん、苦しそうだよ?」
「そうだね。そろそろ止めようか」
まぁ先輩のうかつな発言が原因とは言え、先ほどから本当につぶれた蛙の様な声を出している人間を見捨てる事も出来ない。
俺はゆっくりと立ち上がり、葵ちゃんに声を掛けようとした。
しかしそれよりも早く葵ちゃんの肩を叩いた人物が居た。
「葵。やりすぎよ」
その人は葵ちゃんと杏ちゃんの母で、この〝そよかぜのいえ〟の管理人、塚原菫さんだ。
葵ちゃんと同じ髪質の黒髪を三つ編みにして肩から下ろしている。
穏やかに微笑んでいる〝大人の女性〟の代表の様な方だ。お母さんの様だとも言う。
しかし1番の疑問は先輩と管理人さんが殆ど同じ年齢だという事で。
そして、何よりも2人の見た目が俺と殆ど変わらない年齢に見えるというのに、一回り近く離れているというのだから驚きだ。
葵ちゃんは瞳に少しの涙を浮かべながら母に抱きつく。
「だって、だって司にぃが重いって言ったんだもん。私重くないもん!」
「いや、マジで死ぬかと『先輩、少し黙ってましょう』……そう怒るなよ」
先輩は座り込み、落ち込んだように肩を落とした。
そんな姿を見ても全く同情など出来ないワケだが。
しかしそれでも一応フォローはしておく事にする。
「先輩。女の子はそういう事を気にするんですから。あんまりうかつな事言っちゃマズイですよ」
「女の子って。あぁそうか葵は女の子だったか。それは悪かったな。最近は全然意識してなかったよ。女の子。そうか女の子かぁ」
先輩は1人で何度も頷き自分の中で納得しているみたいだ。か、しかしその発言を聞き、ふらりと管理人さんから離れ、先輩の背後に幽霊の様に立っている人物は納得など何もできていないのだろう。
「まぁ、昔はそれなりに……『司にぃのバカっ!』ぎゃん!」
葵ちゃんは先輩の頭を振りかぶった手のひらで叩きながら走って逃亡しようとした。
その背中に管理人さんが声を掛ける。
「葵。からあげ、食べないの?」
その声は決して大きな声では無かったが、葵ちゃんの耳にはしっかりと届いたらしい。
走り出そうとした格好のまま時が止まった様に停止した葵ちゃん。
そして大きなため息を付くとゆっくりとこちらに戻ってきた。
どうやら花見はようやく始まるらしい。
柔らかな風に舞い上げられてひらひらと空に遊ぶ薄紅色の花びら。
俺は縁側で透明なコップに入った日本酒を舐めるようなペースで飲んでいる。
左手で体を支えながらボーっと桜の木を眺めて物思いにふけていた。
そんな俺の横には杏ちゃんが両手で少し大きめなコップを持ち、小さく喉を鳴らしながらゆっくりとオレンジジュースを飲んでいる。
たまに小さく息を吐き、俺の方を見て首をかしげている姿はその道の人が見れば、あまりの可愛らしさに思わず自宅に連れて帰ってしまうほどだろう。まぁ犯罪だが。
桜の木の下を見れば、レジャーシートの上で酒を飲んでいる先輩。
そしてそんな先輩に酒を注いでいる管理人さんと、先輩に話しかけるキッカケを探している葵ちゃんが居た。
実に楽しそうだ。
俺はそんな光景を見ながら、酒を口に含む。
口に含む度に、喉と胃に心地よい刺激が与えられ、その場所の体温が少し上がった。
肌寒い春の空の下で全体的に上がった体温を定期的に冷やしながらまた酒を補給する。
アルコール中毒者は酒が燃料だと言うが……なるほど、と思う。
俺は桜の下で焼酎やらウィスキーやらを飲んでいる先輩や管理人さんとは違い強い方では無いから、どちらかと言うとこういう機会でも無いと飲まないのだが……。
やはり、たまに飲む酒というのはどうしてかやたら旨く感じるのだった。
俺が1人空を眺めながらボーっとしているといつの間にか横から居なくなっていた杏ちゃんが両手で大事そうに一枚の皿を持って走ってきた。
トテトテという音がしていそうな可愛らしい走り方だ。
「お母さんから食べ物もらってきた」
杏ちゃんの背中の向こうで管理人さんが笑顔で手を振っている。
走って取りに行ったのだろう。頬を朱色の染めながら白い息を吐いていた。
そんな杏ちゃんが可愛らしくて、俺は頭を優しく撫でる。
杏ちゃんはくすぐったそうに首をすくめ、頬を朱に染めたまま緩ませていた。
可愛い。あぁ可愛いなぁ。なんでこの子はこんなに可愛いのだろう。
それからしばらく頭を撫でていたが、杏ちゃんに少し怒られてしまった。
そして俺は杏ちゃんとまた並んで座りながら管理人さんの作った料理を食べる。
からあげ、桜の形をしたニンジンの入った煮物、出し巻き卵、エビフライ……などなど。
サラッと作ると言っていたが、流石は管理人さんと言うべきだろうか。
「これ、私が握った」
そう言いながら杏ちゃんは1つのおにぎりを俺に差し出してくる。
そのおにぎりは形は少しいびつだが、どんな店の綺麗に作られたおにぎりよりも美味しそうに見えた。
「ありがとう。貰うよ」
それを一口食べる。
すぐに砂を噛む様な感触。やたらしょっぱいのは塩を入れすぎたのだろう。
ふむ。どうするべきか。
杏ちゃんの今後を考えれば、コレを素直に言うべきなのだろう。
失敗をそのまま失敗としない子だ。きっと次に活かすに決まっている。
しかし、その前に悲しんでいる杏ちゃんを見なくてはいけない。
それは耐えられそうに無いな。
よし、このまま何も言わずに食べよう。
俺はそう決意すると、次の一口を食べようとおにぎりを口に近づけていった。
しかし、横からの突然の乱入者のその小さな口の分だけおにぎりを食べられてしまった。
「しょっぱい……やっぱり美味しくなかった」
「いや、違うんだ、俺は結構好きだよ? 『無理してる顔してる』」
杏ちゃんは責める様に俺に迫ってくる。
右足の上に手を乗せ、その顔は俺の顔にくっつきそうな近さだ。
俺は逃げようと身を反らすが、杏ちゃんはそれを追ってさらに迫ってくる。
「悪い所があったら言ってほしい」
「いや、それは」
少し涙ぐみながら唇を尖らせ、怒っているという様子の杏ちゃん。
悲しませたくなくて。とは言いづらい雰囲気だ。
俺は右手で体を支えていたが、杏ちゃんは無理して前のめりになっていたのだろう、体勢を崩してしまった。
そして俺は倒れ掛かってくる杏ちゃんをそっと抱きとめた。
少しの間呆然としていた杏ちゃんだが、状況を理解したのか頬を夕日の様に赤く染めながら慌てて俺からどこうとする。
しかし体勢を崩しているので簡単にはいかず、少し浮き上がったかと思うとまた俺の上に倒れ掛かってきた。
「あ、あの」
俺は右手で体を必死に支えていたが、それを止め縁側に寝そべった。
酒や食べ物は離れた場所に逃がしてあるからこぼれてはいないだろう。
「あれ? おにーちゃん?」
「もう少しこうしていたいな」
俺は短くそれだけ言うと、青空を見た後静かに瞳を閉じた。
遠くで先輩達の声が聞こえる。そして風の音、鳥の泣き声、車の音。
あらゆる音が耳に届くが、それら全てを遠い世界に感じながら胸の上で俺の体に居る小さな存在を近くに捉えた。
杏ちゃんはそのまま俺の胸に頭を置き、寝ているようだ。
「おにーちゃんの音、トクトクいってる」
俺の意識は少しずつ世界に溶け込んでいって。
だんだんと消えていく世界の中で誰かの声を最後に聞いた。
「たのもー!」
それは今までに聞いた事の無い声で。
何故だろう。この穏やかな日常に何か新しい変化が訪れる予感がした。
でもそれは嫌な感じではなく。どちらかと言えば……。
「あのー!! 二宮翠ですけどー!! 誰か居ないんですかー!?」
新しい本を買ったときの様な。
新品の靴を買ったときの様な。
そう、新しい世界が開ける予感とでも言えばいいのだろうか。
「あん? 誰だ、お前」
いや、もっと簡単な表現を俺は知っていた。
「だから、二宮翠ですって」
「だーかーら! なんでココに居るのか! って聞いてるんだよ!」
「あぁ言ってませんでしたね。今日からここの新しい住人になった〝二宮翠〟さんです」
管理人さんののんびりとした声と、先輩と葵ちゃんの叫びが重なった。
そしてその声は当然俺たちにも届いていたが、2人共眠りの世界の住人になっていたのでその声を聞く事はあっても起きる事は無かった。
意識が消える直前俺はふと考えていた事の結論を導き出していた。
多分この気持ちは……未来を、次の扉を、宝箱を開ける気持ち。
そう、ワクワクする気持ちなのだろう。
何か劇的な変化があるわけではないが、ちょっとだけ騒がしい日常に会いにいこうか。
俺は静かに笑みを浮かべたまま意識を夢の世界へと旅立たせた。