実は、体調を崩していました。
9月になり、新学期が始まった。青道高校ではお祭り騒ぎだった。だが本人たちからすれば、もう秋にしか目が向いていないのだが――――
「金丸~~!! 今年の野球部、凄かったな!!」
一般学生からの激励。金丸としては、レギュラー争いの最中なので、夏の話にはあまり目を向けていないのだ。
「ああ。」
「特に大塚!! それに沖田も!! 沢村も凄かったよなぁ!!」
「あの甲子園でバンバン三振を取っていたもんな!!」
「やっぱ甲子園ってすごいのか!?」
「ていうか、東条も凄かったよな。アイツもやっぱりすごかったんだな」
金丸の話を聞かずに、一年生たちは次々と質問攻めをする。自分の事ではないことを突っ込まれ、金丸は若干イライラしている。
「もうすぐ秋大会なんだ。休む暇はねェよ」
そして、沢村はというと――――
「――――――――――――――」
教室では無表情のまま、何か難しい本を読んでいた。いつも教室で騒いでいた彼が大人しいのだ。
「――――どうしちゃったんだよ、沢村の奴」
「イメチェン?」
「けど、陰のある沢村も――――」
夏の甲子園である意味光南の勢いを削ぐどころか、勢いづかせたのは自分だと考えていたのだ。だからこそ、沢村は夏が終わってからあんな調子だ。
金丸はそれだけではないと考えている。
――――アイツは頼もしかったはずの武器を、失ったんだからな――――
決め球のスライダー。あの球を打ち砕かれたことで、精神的に折れてしまった。それまであの球に頼り、いざという時のよりどころだったあの切り札が。
だが、そんな気落ちしている彼も、一応秋に目を向けていた。そしてその目に向けた結果、彼にかかる重圧も並大抵のものではない。
降谷はスタミナ不足、大塚は怪我明け。
安定感のある川上を後ろに置きたい中、先発として投げ抜くことが一番求められているのだ。
夏の予選では大塚、夏の甲子園では丹波。彼はいつもエースの後ろを追っていた。そしていざエース候補という立場に立った時、
その覚悟と実力に迷いを感じていたのだ。
夏予選で、そして準々決勝で、チームの為という一心で、最高の投球を見せた大塚。
夏予選の悔しさをばねに、最強打線に挑んだ丹波に。
自分は果たして、あんな投手になれるのかと。
「けど、沢村って、前は熱い性格よね。甲子園でも結構吠えていたし」
「うんうん。最初はエースになる、って散々騒いでいたけど、なっちゃうかも」
見てくれがやはりいいので、実力と結果を見せつければ自然と女子達の話題にもなる。だが、残念。沢村は若菜以外眼中にない。
だが、だからこそ、逆に沢村に大きなプレッシャーとなって襲い掛かるのだ。
周囲からの期待が、こんなに重いモノとは知らなかったと。
「―――――――――――」
春市は、トーナメントを進めば進むほど、凡打を繰り返した。初めての大舞台で、自分は力を出し切るどころか、
――――全然、全然届かなかった。
全国レベルの選手との差を痛感させられた。まるで自分は相手にならない。沖田、東条、そして投手陣が頑張る中、一人だけ調子を落とした。
――――最初で最後の、兄貴との夏――――
成長した姿を見せることが出来なかった。自分の情けなさばかりが目立った。
「――――」ゴゴゴゴゴゴっ!!
そして、暗いオーラを出していた春市とは対照的に、降谷はエネルギーを感じていた。
――――課題はスタミナ。ペース配分。僕には、何もかもが足りない。
ペース配分を考えずに投げた。それが自分の体力強化につながると感じた。
――――その時に必要なのは、投手としての“実力”だ。“才能”じゃねぇんだよ。
辛辣な新主将の言葉。投手としての実力が足りないと断言した。その言葉によって、降谷は必至に打開策を考えていたが――――
――――地道な走り込み、足腰の強化。
本を読むのはあまり好きではなかった降谷が、わざわざ書店までいって買った野球の本を片手に、秋大会での雪辱を誓う。
――――それでも、マウンドを譲りたくない。
色々な感情が滲み出ている期待の一年生たち。だがそれでも、彼らはもがきながら前に進んでいた。
甲子園で輝かしい活躍をした割に、影が増した野球部。それが、1年生のクラスで不穏な空気を生んでいた。
だが、そんな不穏さを感じさせない者もいる――――
「とりま、おはよう金丸」
「信二、昨日の試合はお疲れ。」
そこへ、沖田と東条がやってくる。まだホームルーム前なので、自然と廊下に集まる野球部員たち。
「ああ、沢村はスライダーが使えなくなったのが痛いな」
ダブルヘッダー第2試合。相手は格下だったからこそ、無失点投球が出来ていたが、引き付けて打つことを心掛けていた相手チームに何度もヒットを浴びていた。
沢村の球質の軽さを全国で知られたため、やはり確実にスイングすることと、ミートすることを心がければ攻略は可能というデータを光南が示している。
結局沢村は7回被安打6を浴びながら、無失点の投球。甲子園での経験値と、緩急を使った投球で躱しながらの状態。やはりスライダーが使えないことで、相手が躊躇いなく振ってくる。だからこそ、今できるのは――――
「チェンジアップの精度を高めること、またスライダーが使えるようになる為に、フォームの同一化。」
その問題の他にも、やはり根源的な問題は―――――
「やっぱ、球速が見劣りするからな。いや、沢村が普通なんだが――――」
左で、1年生で130キロ。遅いわけではない。むしろ他校なら既にエース。だが、青道のエースはそれだけでは足りないのだ。
現時点で、先発を任せることになるのは沢村。リリーフ経験もある安定感抜群の川上を後ろに置きたいのが現状。降谷も、まだ先発では使えない。
やはり―――――――――
「大塚がもうすぐ帰ってくる。それからだな、新チームの本当の始動は」
期待されているのは、大塚が戻ってくること。もう今週には帰ってくる。
「本当に、早く練習に合流したいな」
そして教室にいる大塚。落ち着いた表情で学校に登校していた。しかしやはり彼は1年生の中でも最も期待されている選手の一人。上級生たちは休憩時間や大塚の状態を見て話しかけるのを自重していたが、同学年の生徒は――――
「大塚君、凄かった!! 2回戦の完封、私、感動しちゃった!」
よくわからない女子に声をかけられた大塚。はっきり言ってほとんど印象がない。
「うん。けど最後に詰めが甘かったね」
淡々と話を合わす大塚。色々と甲子園で勉強した大塚は、適当に話をしていた。
「今度、練習試合はいつなの?」
すると、今度はほかの女子に声をかけられる。こんなに女子が教室にいたのかというほど、大塚の前には集まっていた。
「ごめんね。まだ怪我が完治して間もないんだ。リハビリのメニューをこなすまでは練習試合は禁止。」
「そうなんだ……でも、試合に出るなら応援しにいくね!」
高い音で次々に出場試合での応援に駆けつけることを宣言していく。大塚は、その高い声の前に頭が痛くなるのだが、表情には出さなかった。
「――――ふう」
ホームルーム間近なので、生徒たちがそれぞれの教室へと帰っていく。勿論同じクラスメートの女子もいたので、ちらちらと大塚を見ていた。
―――――俺は最期に先輩たちの夏を―――――
ぼんやりと、あの甲子園の残光が見える。自分がいない時、そして試合の勝敗が決まった光景がまだ大塚の目には焼付いていた。
そして大塚は、野球部よりも学校での日常の記憶が濃くなっていった。
「淡々としていたからこそ、食堂には近寄らなかったなぁ」
午前の授業が終わり、昼休みになった青道高校。気まぐれに、大塚は食堂へと向かった。いつもは弁当を作ってもらっているが、今は―――――
バチンっ!
「お兄ちゃんのバカ!!」
涙目の妹に、頬を叩かれた。やはり怪我をしてしまったことが引き金になったのだろう。だが、約束を破ったのは自分だ。だからこそ、反論することは出来ないし、反論する気もない。
中学時代のあの大怪我で、平静を装っていた時も、彼女は怒っていた。
何も晒さない兄を前にして、家族は信頼されていないのではないかと。
苦しい時に、彼は何も言わなかったから。
「なんで、なんであの時と変わっていないの? なんでそんなに前を行くの!? なんで!? お兄ちゃんは何に焦っているの!?」
「―――――美鈴――――」
「他人に弱さを晒すことがそんなに怖いの!? なんで誰かを頼ろうとしないの!? 苦しくないの!?」
「――――――――っ」
大塚の心に突き刺さるその言葉。自分は弱さを見せたくない。それは事実である。
「―――――これは俺の問題。俺が何かに悩んでいても、俺は乗り越える。だからいつものように―――」
「家族が怪我をして、冷静でいられるわけないでしょ!? 何を言っているの!?」
怒り狂った時の妹を抑える術を、彼は知らない。彼女が怒るのは大抵正論を振りかざせない時だ。自分に非があると、解っているからこそ、栄治は何も言えないのだ。
その後も、美鈴は最後の一線でだれにも頼ろうとしない兄の態度を改めるよう何度も言うが、栄治もそこを曲げようとしない。
――――誰かに話したところで、どうにもならない。
なってしまったことで、悔いるのは誰でも出来る。問題なのはその後どうするのか。
いつまでも悔やむことなんて、凡人にも出来る。
―――――俺には時間がない。その高みに至るには、時間が少なすぎる。
大塚はその夜、最後まで“誰も”見ていなかった。
結局、泣き疲れによって美鈴がダウンし、大泣きしていた美鈴を綾子に任せ、悶々としたまま就寝することになった大塚。
それが昨日の事だった。
「――――大塚?」
振り返ると、同じクラスの友人が大塚に声をかけていた。それも、何か焦っているような顔をしていた。
――――なんで、そんな顔をしているんだ?
秋の定期テストもまだまだ。体育祭も何も問題はない。だからこそ、彼がそんな顔をする理由がわからない。
「どうしたんだ、山崎君」
「お前――――鏡見てみろよ、ひどい顔しているぜ――――」
それだけを言うと、彼は去っていった。
「―――――やっぱり、そうなのかな――――」
心が穏やかではない。焦りもある。自分の不甲斐無さ、独りよがりが原因だと。
身体はもうすぐ治るだろう。だが、ここまでチームに迷惑をかけた自分に、居場所はあるのだろうかと。そして、片岡監督にも顔向けできない。
目の前にやることが多すぎて、大塚は少し参っていた。
放課後、もう教室から帰る頃。クラスメートたちの数も少ない。
「大塚君―――いいかしら?」
そこへ現れたのは、3年生のマネジャー長の貴子だった。3年生たちは悔しさも残るが、甲子園という舞台を経験している。だからこそ、決勝まで行けたことに達成感も少し潜んでいた。
だが、彼女は大塚の決勝の試合終了後の表情が気になっていたのだ。今後の青道を支える選手の一人でもある彼には、ここで止まってほしくない、ここで腐ってほしくない。
「えっとね。大塚君、アジア大会は見ているかしら?」
何よりも、野球に対して前を向き続けてほしい。彼にその気持ちがあるのなら。だからこそ、これはある種の賭けであり、彼女の前に舞い降りた、彼の気迫を取り戻させるきっかけになるかもしれない。
「アジア大会――――そうですね、リハビリに忙しかったので、あまり目にする機会もありませんでした。」
「そう――――大塚君――――」
貴子は、この事実に賭けていた。彼の投球を覚まさせた“彼”ならば、きっと――――
「台湾に面白い選手がいたそうよ。それもとびっきりのね」
「――――台湾?」
9月5日には、確か準決勝が行われる筈。日本は順調に勝ち進み、次の相手は中国。そして逆ブロックにはフィリピンと――――
「台湾――――ですか。確かに、アジア諸国ではそれなりの実力と基盤はありますからね。」
「そう。でもね、私が見つけたのは、貴方がライバルと認めた彼がいるからよ」
「!?」
ライバル。その言葉だけで大塚の目は見ひらいた。台湾選手で、貴子が目を付けた選手。そして、自分のライバルと目される男。
――――舜臣、先輩―――――
貴子はカバンからある新聞を見せたのだ。そこには――――
―――――台湾に新星現る。
――――2年生エース、楊舜臣。韓国相手に2安打無四球完封。
――――最速147キロ、14Kの三振ショー。
――――西東京、無名の高校から選出。人選の批判を掻き消す快投。
そこには、更なる力を得たライバルが、世界の舞台で鮮烈なデビューを見せつけたのだ。
「――――――――――――――――――――」
言葉が出ない。甲子園だけがすべてではないとは頭では分かっていた。
自分が強く意識したライバルが、とんでもないことを成し遂げていた。
―――――ああ、もう。なに悩んでいるんだ俺は!!
――――やることやって、やり通さなきゃこのモヤモヤは晴れない!! 当たり前の事だろう!!
悔しかった。そして情けなかった。今の自分を見て彼は失望してしまうかもしれないと。
――――俺も、負けてられない。あの人は、俺と同じ野望を抱いているんだ。
大塚和正の息子として、大塚和正のファンには負けられない。負けたくない。
彼の心が無理やり動いた。軋むような音がしたが、それでも関係ない。
今の彼には、負けていられない、前に進まないといけないという気持ちに突き動かされていた。
「一足先にプロで――――と言いましたが―――――」
大塚は、穏やかな笑みを浮かべてその記事を読んでいた。大塚は公式戦で見せていた、目力が戻ってきた。
――――秋大会、燃えないわけにはいかない。
ライバルの存在。それが大塚の冷えていた心を熱くさせる。
大塚は無自覚だが、楊舜臣以外の投手に、あまり興味を抱いていなかった。柿崎や神木に対しては、もちろん意識はしている。だが彼に対しては特別な感情がある。
だからこそ、冷え切っていた彼の心に熱を取り戻すには楊舜臣以外、貴子は思い浮かべられなかったのだ。
伝説を追う者同士、惹かれあうモノがあると。
「大塚君、元気は出たかしら?」
やや心配そうな顔で、大塚の様子をうかがう貴子。これでダメなら、彼女が彼にかける言葉は見当たらない。それはきっと自分ではなく、彼とともにこの夏を駆け抜けた上級生の選手たちだろう。
「――――やっぱり。本当に――――今の3年生たちの輪に入りたかったです。」
「大塚君―――――」
「1年生ではなく、同じ年に入学して。夏の借りは、必ず返します。100倍にして」
入学当初のぎらつきが戻った。いや、渇きを覚えてから一層強烈な存在感を感じるようになった。
コンプレックスの塊だった彼が、それでもう一度走り始めた。良くも悪くも苛烈さを覚えた彼は、さらに歩みを進めるだろう。
投手としての実力はあくまで結果。だが、自分の方が投手としての引き出しは多かった。それなのに、丹波がチームから慕われていた理由を、ずっと気にしていたのだ。
しかし今は、大塚はもはやそのことについて執着する必要はない。ただただ彼と投げ合いたい。楊の投球に挑みたい。それは投手だけではなく、打者としても。
――――俺は、止まるわけにはいかない。ああっ、くそっ!! 何やっているんだ、俺は!!
心の中では、感情が煮えたぎっている大塚。しかし、それを心の奥底だけに止めようとする。
「ありがとうございます、貴子先輩。そして一つ、後輩からのお願いがあります」
頭を下げた大塚。その顔は、獰猛なまでに嗤っていた。
高ぶっていた。ここまで感情が高ぶるのは、沖田に出会った時、坂田と対戦した時。
そして夏予選の3回戦だ。
「何かしら、大塚君?」
元気を取り戻した大塚だが、貴子は彼の雰囲気にやや気圧される。それは怖いというわけではなく、ただただ大きいと感じた。
「――――秋季大会決勝は必ず先輩総動員でお願いします。エースの力投、見せつけてやりますから」
――――何が正しいのかはわからない、けど最善を尽くすことに集中すればきっと
なまじ色々考えてしまうから、よく悩んで立ち止まってしまう。悩むことはいいことだが、それで自分の在り方を歪めるのは本末転倒。
自分に出来ることをしようと彼は考えた。
―――――そうだ。俺が出来ることをやればいいんだ。俺の出来ることを、ただひたすらに頑張ればいいんだ。
――――そうだ、頑張るんだ。頑張ればいいんだ。
大塚は、気持ちが晴れ晴れとしていた。悩んでいた心がハイになった。興奮して、顔がニヤついてしまう。
目の前に先輩がいるというのに、それは失礼なんじゃないかと思うぐらい。
「――――ええ。必ず見にいくわ。だから、大塚君。これが貴方の前に残った、最後の課題。」
貴子は、大塚がずっと気になっていた言葉をあえてつく。
「仲間を信頼し、仲間に信頼される、そんな選手になりなさい。」
「――――はい。」
そして、その様子を吉川は貴子と大塚のやり取りを見ていた。自分を追い詰める傾向にある大塚。そんな彼の重荷を彼女は簡単に軽くしてしまった。
―――――私には、無理、なのかな
彼が切り換えられたのは、藤原先輩のおかげである。自分には出来なかった。
「私に出来ること、マネージャーとして、出来ることをしなきゃ――――」
しかしその考えを振り払い、マネージャーとして出来ることをしようと心がける吉川。
そして、タイバンコクで開かれた決勝戦。日本はある投手の前に、完全に沈黙していた。
目の前にいるのは、日本史上最強の投手の幻影。
『大変なことが起ころうとしています!! 5回まで得点を許さない緊迫のゲームから始まったU-18アジア大会決勝!! 日本は台湾先発楊舜臣からヒットはおろか、ランナーすら出せていません!!』
会場は騒然としていた。いや、異常な声援が飛び交い、何が起きているか、観客は戸惑っているのだろう。
日本のベンチは苦しい表情がほとんど。大して台湾のベンチは特別な緊張感に包まれていた。
『柿崎君も踏ん張ったんですが、6回の集中打がここにきて相当重いですね。』
6回に崩れた柿崎。台湾打線につかまって一挙4点。そのままマウンドから引きずり降ろされてしまった彼は、ベンチでタオルを頭にかけていた。
そして―――9回裏が始まる。
『さぁ、台湾のマウンドには楊舜臣が続投!! アジア大会で歴史に残る記録を築こうとしています!! 7番からの攻撃!! 何としてもランナーを出したい!!』
『こんな快挙を許すわけにはいきませんね。何とか一矢報いてほしいです』
日本代表には、坂田久遠が右肘の違和感で召集を辞退した。
とはいえ、横浦の岡本、稲実の原田、光南の優勝メンバー、宝徳、妙徳など、名だたる強豪の選手たちが集っていた。
その打線を抑え込んでいるのは、台湾のエースに成り上がった、楊舜臣。
「――――――――」
その表情に気負いなどない。あるのは
――――目の前のバッターを、ただ抑える。
彼は大塚と違い、確かな熱量を含みつつも、思考はシンプルだった。
心は熱く、頭は冷静に。
7番後藤からの攻撃。彼は、この投手にある投手の幻影を見ていた。
――――マウンドでの気迫、その投球スタイル、圧倒的な制球力。
あの男と同じだ。いや、それ以上の覚悟を感じられる。この男が目指しているのは、奴ではない。
唸る速球が外に広い国際ルールの特性を存分に活かす。アウトコースに伸びのあるボールが入り、手が出ない。
そして2球目―――――
ククッ、ストンッ!!
確実に打者のチェックゾーンを越え、鋭く地面に突き刺さる勢いで落ちる変化球。それに、後藤は大塚の切り札と似た軌道を描いていることに気づく。
――――落ちる球には必ずその前兆みたいな軌道が見えてくるはず。なのに―――
「!!!」
楊舜臣の落ちる球は、ストレートだと誤認してしまうほどに伸びがあった。球の勢いが落ちず、鋭く落ちる。それがスピードこそ劣るが、大塚のSFFとの共通点。
大塚栄治の伝家の宝刀、SFFにスピードは劣る。だが、高速フォークというには遅く、フォークというには球速がある。
いや、これが恐らく彼のSFF―――――
続くボールは右打者のアウトコース、膝上あたりから逃げる外角の変化球。バットがとどかない。
『空振り三振~~~!!! ここでスライダー!! これで一死!! ランナーが出ません!!』
続く8番打者も打ち取り、台湾の優勝、楊舜臣の完全試合まで、あと一人。
手早く2ストライクと追い込んだ楊舜臣。
――――舜臣、お前が日本でここまで出来た理由はなんだ?
台湾代表の捕手、張欽明は、彼の経歴に何かを感じていた。彼の目指すスタイルが、アジアでもっとも有名な男に似ていると感じたのだ。
その愚直なまでの制球力。キャッチャー目線でなければわからない。そのコントロールに対する執着心。
――――決まっている。
楊舜臣の投球の原点は言うまでもない。
――――あの選手を超える投手になる事だ。
インコース低めのストレートが決まった。楊舜臣はすぐに“緊張を解く”。
――――そのコースはストライクだ。そういう“投げ方”をしたのだからな。
涼しげな笑みを浮かべ、マウンドで君臨する台湾のエース。周りの尋常ではない雰囲気の中でも、彼は冷静なままだった。
この大記録を前に、この大舞台を前に。山のように動じない。
大歓声が球場に轟く。それはかつてテレビ越しで見たことがある景色。まるで自分があの伝説の瞬間に立っているような感覚だった。
台湾史上最強のアマチュア投手の誕生を祝福するかのごとく、観客は総立ちになる。
自分が投手を志したあの瞬間を思い出しながら、この瞬間自分は彼と同じことを世界でやってのけたのだと。
だからこそ、喜びを爆発させるのではなく、彼は噛み締める。自分はここまで来た、
自分はもっと上を目指せるという確信が、彼の最上の至福であった。
『見逃し三振~~~~!!! 楊舜臣、アジア大会決勝で完全試合達成!! 日本、この台湾の新星の前に、完膚なきまでにねじ伏せられました!! 日本、連覇ならず!! 歴史的な敗北を喫しました!!』
『そんな馬鹿な――――いや、ありえないでしょ。これが17歳の投球なのか!? これじゃあ、まるで―――――』
『――――恐ろしいですね、これほどの投手が、台湾に。いえ、西東京の無名校にいたという事実が、信じられません。運命、奇跡としか、言いようがありません』
『才能だけじゃない。努力も――――いや、これだけ打者相手に投げ込める投手というのは、アマチュア界では今まで見たことがない――――彼は何と戦っているんだ?』
偉大な投手の幻影を追い続けて海を渡った青年。最後の夏は、その幻影に近しい人間と投げ合い、その夏に終止符を打たれた。
だが、その経験は無駄ではない。彼自身の努力もあるが、それでも、この経緯と結果を前に、奇跡、運命、そのような抽象的な言葉で表現することしか出来ない。
――――伝説に挑み続ける男、楊舜臣
『そうですねぇ。日本にも甲子園を沸かせた選手はいましたが、まるで相手になっていませんでした。9回まで球威どころか、制球力までおちません。普通は球が浮く場面なんですが――――』
『――――日本の同世代を完全に抑え込んだ、この投手には今後も注目したいですね。もしかすれば、久しぶりの外国人がドラフト指名されるという可能性も全く否定できなくなりました。プロも黙っていませんよ。これは――――』
『僕ならドラフト一位指名ですね。こんな逸材、メジャーも黙りませんよ――――』
天才は、エースへの道をまた志した。
そしてもう一人の秀才は、天才に宣言するかのように、世界に名を轟かせた。
この秋、二人が再び相見える瞬間は訪れるのか。
主人公に必要なのは、ライバル。
同じ野望を抱いたら、対抗心は湧きます。
今の彼は、もう何も怖くない、状態です。
あれ? これヤバくない?