鹿目まどかの牢を後にして、織莉子は薄暗い地下通路を一人歩いていた。
この辺りはワイン蔵になっていて、酒を寝かせた樽が所狭しと並んでいる。あの牢屋も元々は酒の貯蔵庫だった部屋を改造したものだ。
石の階段を通って地上に上がった。
暗く湿った地下とは打って変わり、見事な装飾に彩られた洋館の廊下が伸びている。外に面した窓から月光が降り注ぎ、幻想的な趣がある。
ここは美国家の山荘だった。県境近くに所有する広大な敷地の中央に建っており、周囲は牧場になっている。父の死後は管理する者も無く荒れる一方だが、人目を避けて何かするには絶好の場所だった。
鏡のように磨かれた木の廊下を歩きながら、織莉子は鹿目まどかの手応えに満足していた。これでまどかは織莉子の思い通りに動くだろう。必要なことだと言ったら、喜んで牢に留まってくれた。
まどかは織莉子が差しのべた手を救済だと信じて疑っていない。それは暁美ほむらに罪を重ねさせないため、という言葉に対しても同様だった。
まどかの目に織莉子はあくまで善意の人として映っているのだろう。そう仕向けたのは自分だがこうもうまくいくとは。織莉子は上機嫌で微笑んだ。
まどかは恵まれた環境で育ち、たいしてつらい思いもせず生きてきたに違いない。人を疑うことなど知らないようだ。
やがて織莉子は玄関前のホールに出た。
天井に灯るシャンデリアがこの空間を煌びやかに照らし、暖色の光を浴びた調度品の数々も場に調和している。在りし日の繁栄を思わせる光景だった。
ホールの中央にキリカが立っていた。一仕事終えた様子で、腕組みなどして周りを見回している。
「あっ、織莉子!」
織莉子に気付き、キリカが嬉しそうに駆け寄ってくる。まるではしゃいだ子犬のようだった。
織莉子はキリカの頭を撫でてやりながら言った。
「キリカ、調子はどうですか?」
「陣なら問題ないよ、今夜中に仕掛け終わる。織莉子と私以外、ここではみんなノロマのクズさ」
キリカは得意気に笑い、織莉子をじっと見上げている。『もっとナデナデして』と言っているのだ。
織莉子はそれこそ犬を撫でるように、優しく撫でててやる。それだけでキリカの顔はだらしなく緩み、とろけそうになってしまった。
今この瞬間こそこんな有様だが、織莉子はキリカの力を高く評価していた。彼女の思惑を実現するためには欠かせない戦力である。
やがてキリカは名残惜しそうに織莉子から離れ、言った。
「それじゃあ、準備の続きがあるからもう行くよ」
「頼りにしていますよ、キリカ」
「もちろん! 私は織莉子のためだったらなんだってできるんだ!」
キリカは輝くような笑顔で言って、走り去って行った。二人きりの時の彼女はいつもあんな調子である。
キリカの戦意は非常に高い、織莉子はそのことに満足した。あの様子ならその言葉通り、死力を尽くして戦うだろう。どんな手を使ってでも。
ここで確実に終わらせる――織莉子は決意を新たにした。己の都合だけで世界を弄び続ける暁美ほむら、その傲慢さを許すわけにはいかない。
鹿目まどかが計画通りに動いたとしても、恐らく自らの歩みを止めることは無いだろう。結局、暁美ほむらは自分の願いしか見ていない、織莉子はそう思っていた。
ただ鹿目まどかが動けば、動揺によって隙を生じさせることも可能だろう。あるいは本当に考えを改めることもあるかもしれない。そうだとしても、織莉子はそんなものを信じるつもりなどなかったが。
鹿目まどかも暁美ほむらも、織莉子は初めから生きて帰す気などなかった。彼女たちはここで死なねばならない、それが破滅を食い止める唯一の手段だった。
そして平行世界を見渡した結果、織莉子は知っていた――ここまで能力を進化させた織莉子は、どの時間軸にもいないということを。つまり自分以外に暁美ほむらを阻止できる者は存在しないのだ。
それ故に、まず殺すべきは暁美ほむら。彼女は鹿目まどかが無事に生存している限り、絶対に他の時間軸へ逃げることなどしないだろう。
ほむらさえ始末すれば、鹿目まどかを殺す事など赤子の手をひねるより容易い。美樹さやかの魔女化と破滅の未来を見せた以上、当面は彼女が魔法少女になる事などまず無いと考えていい。あるいは二度とそんな気は起こさないかもしれない。
そうだとしても鹿目まどかは最後には必ず殺す。織莉子は危険の芽を残すつもりは無かった。彼女らの死をもってあらゆる世界が救われるのだ。
ここで仕留める、絶対に逃がさない。織莉子の意志は微塵も揺るがなかった。
最初は真っ暗な部屋だった。目が闇に慣れた今、部屋の構造や物の配置がぼんやりと見て取れる。静寂の中、時計の針だけが規則的に音を立てていた。
ここはほむらの家の一室だ。沙々は早々に床に就いたが、眠れるものではない。こうして布団にくるまっていても、目は冴える一方だった。
無理に目を閉じてもそれは変わらない。暗闇の中、柔らかなベッドの上で思考が暴走する。とめどなく同じような事ばかりが思い浮かび、何度も何度も延々繰り返された。
何もかもがまとまりがなく、答えに結びつかない。
魔法少女のこと、魔女のこと、便利な道具として魔女を使ってきたこと、魔女になったさやかのこと。そして自分が魔女になった時のこと。
そのそれぞれにまつわる記憶と感情が入り混じり、論理的思考を遮ろうとする。
後悔と未来への怖れに振り回され、普段なら考えもしない道義的な事柄にまで思考が振れそうにもなった。
最初のうちは体温で生温くなったベッドも心地良かったが、思考が煮詰まるにつれてそれもつらくなってくる。今こうしていると、体の芯が疼くようで不快だった。
それでもしばらくはじっとしていたが、やがて沙々は身を起こした。すっかり火照ってしまった身体を引きずるようにして歩き、廊下に出る。
主だった照明は切られ、常夜灯だけが内部構造をぼんやり浮かび上がらせている。ほむらも杏子も眠っているのだろう、ほむらの不思議な家は静まり返っていた。
起こさないよう、静かに廊下を歩く。
ベッドに入る前から思えばいくらか落ち着いたが、気持ちは一向に晴れない。変わらぬ現実が沙々の気を重くさせていた。
やがて突き当りのドアにたどり着いた。玄関とは反対側なので裏口だろう。沙々は少し考えたが、ドアを開け外に出た。
夜明け前の空気は冷たく澄み切って、火照った身体には心地良い。沙々は大きく伸びをして、ベッドで凝り固まった身体をほぐした。
誰もいない静かな街並みだった。
すでに青くなりかけた空には雲一つなく、まだ薄暗いながらも住宅街の家々がはっきりと見える。
眩さに沙々は振り返る。日の出だ。透き通った青い空がやがて橙色に染まり、目映い陽の光が降り注ぐ。朝露に濡れた街路樹や草花がきらきらと輝いている。
また日は昇り、今日という日の始まりを告げている。沙々は夜明けの景色に見入っていた。
こんなにも世界を美しいと感じたのは、いったいいつ以来だろうか。あるいは初めてかもしれない。自然と涙が頬を伝い落ちる。沙々は沸き起こる感情に任せ、ただ涙していた。
沙々はいつも醜い人の世ばかりを見つめてきた。浅ましく、救いの無い人の営みは今も繰り返されている。それはこれから先も変わらないだろう。
それでも世界は変わらず美しかった。沙々の目に映るこの景色もまた、紛れもない現実として存在する。
死と破滅は確実に迫ってきている。
それでもまだ何かを美しいと思える心が残っていた、そのことに沙々は驚いていた。あるいはこんな時だからこそより強く感じるのか。
沙々はこんな景色をまた見たいと思っていた。まだ生きていたいと心から思っていた。生きて、美しいと思えるものをまた見たい。
それが叶わずとも、と沙々は思う。
醜く歪んだ自分がこんな気持ちを抱くことができた。たとえ死ぬとしても、今この時のように澄んだ心のまま逝きたい。
それが偽らざる本心、沙々に残された最後の願いだった。
「おっはようございまーす!」
着替えを終えた沙々が元気よくリビングに入った時、ほむらと杏子は朝食を食べ始めようとしているところだった。
彼女たちは呆気にとられ、何事だと言いたげな顔で沙々を見ている。
沙々は構うことなく喋り続けた。
「今からお食事ですか、私もいただきますよ! 腹が減っては戦はできぬって言いますからねぇ!」
「え、ええ、どうぞ……」
ほむらが気圧された様子で席を勧めるので、沙々は遠慮なく座った。
三人分用意してくれていたことを喜びながら、まずはトーストに手を付ける。まだ焼き立てで暖かく、程よい焦げ目と柔らかさが絶妙だった。
「……食うかい?」
杏子が戸惑いながらも大皿のサラダを勧めた。沙々はそれを小皿に取り分け、ドレッシングをかけて食べ始める。
「美味しいですねぇ、これ。杏子さんももっとどうですか?」
「……そうだな」
首を捻りながらも杏子はサラダを自分の小皿に追加した。
その様子を眺めた後、沙々はほむらに言った。
「食べないと冷めちゃいますよ?」
「そうね、いただくわ……」
「それで作戦はどうするんですか? もう決まっちゃったのかこれから考えるのか……どっちにしても、やるからにはあの女を確実にぶちのめしてやりましょうね!」
沙々ははっきりとそう言い切った。ほむらと杏子は食事の手を止め、じっと沙々を見つめている。
やがてほむらが静かな声で言った。
「協力してくれるならありがたいわ、でもどういう心境の変化かしら?」
「……あれこれ考えましたけどねぇ。魔法少女である以上、どうあっても最期は変えられないんです。だったら生きている間はやりたいようにやる、そう決めたんですよ」
「そう……それも一つの考え方ね」
「私はあの女――美国織莉子が気に入らない。だから叩き潰す、それだけです。悩むのはやめてシンプルにいくって決めましたんでよろしくです」
軽い調子で言っているが、沙々の心ではその覚悟が固まっていた。
因縁ある相手を倒し、現世での出来事に決着をつける。最後の戦いを前に、気持ちは晴れやかだった。
杏子が沙々の肩を叩き、笑って言った。
「いい顔するようになったじゃないか。ま、足を引っ張んなよ?」
「杏子さんこそ。せいぜい当てにしちゃってくださいねぇ」
「大きく出るじゃねえか、そう言うなら楽しみにしてるよ」
今度は沙々の背をバシバシ叩いている。沙々は笑ってされるままにしていた。
ほむらが沙々を見つめている。笑みこそ浮かべないが、その表情は穏やかだった。やがて改まった調子で言う。
「ありがとう、沙々。あなたが力を貸してくれるなら心強いわ」
「なんか照れますね、こういうの」
沙々はくふふと息を漏らすように笑った。作り笑いや嘲笑以外で笑うのは、本当に久しぶりのように思える。
口にこそ出さないが、沙々はほむらと杏子が気に入っていた。初めて組んだ仲間、沙々を対等の存在として扱ってくれる。
この二人のために戦うのなら悪くない。彼女たちのために戦って死ぬのであれば、きっと気分よく最期を迎えられるだろう。沙々はそう思っていた。