夜の見滝原市街地を沙々は一人歩いていた。日没からすでに時間が経っており、通りを歩く学生の姿もほとんど見当たらない。
パトロールで回りそうなところと言われてもどうしたものか、と沙々は改めて思った。
沙々は美樹さやかを探していた。沙々だけではなく、ほむらと杏子も手分けして街中を探して回っている。
この捜索を提案したのはほむらだった。
わざわざキュゥべえがあんな事を言いに来たならば、さやかの身に何か起きるのかもしれない――彼女はそう言っていた。
意外なことに杏子が賛成した。それ故に沙々も反対しなかったのである。反対はしなかったが、気は乗らなかった。
美樹さやかは妄執に囚われ、まともな判断もできず自滅の道を進んでいる。もはや誰が何を言おうと彼女は耳を貸さないだろう。
さやかには魔法少女としての適性が無かった、このまま淘汰されることが彼女の運命なのだ――沙々はさやかへの評価をそう定めていた。
ただそれを強弁し、ほむらたちといらぬ対立を生むつもりはなかった。なので反対はせず、こうしてふらふらと街を探し歩いている。
もしも見つけてしまったら面倒だから『大人しく』させようかと、そう思った時のことだった。見知った人間の姿を見かけて立ち止まる。
あれは鹿目まどかだった。制服姿のまま、不安と焦燥に取り憑かれた顔で誰かと一緒に歩いている。
もう一人の少女のセーラー服、あれは沙々も在籍している学校のものだった。だが着ている人間を見て、そんなことはどうでもよくなる。人目を引く長い銀の髪、アンティークドールのような顔立ち。見間違えるはずがなかった。
「美国織莉子……!」
思わず口にしたその名、その響きに沙々は頭が熱くなるのを感じた。かつて沙々が五郷で敗北した二人組の魔法少女。美国織莉子はその片割れに他ならなかった。
熱は全身に広がる。傷つき倒れた沙々へゴミを見るような目を向けた織莉子。今も消えずに沙々を苦しめる記憶、その元凶。今すぐこの手で引き裂いてやりたい衝動に駆られる。
だが、沙々は織莉子に一度敗れたのだ。このまま戦っても同じことの繰り返し、今度こそ死ぬだろう。頭に血が昇っていても、力の差だけは理解していた。
こうしている間にもまどかと織莉子は遠ざかっていく。いったい何をしようというのか、しかし自分たちにとって不都合な事に違いないと沙々は直感した。
そしてほむらは恐らくまどかを気にかけている。今後のためにもここで放っておくのは得策ではなかった。
沙々はほむらに電話をかけた。しかし出ない。呼び出し音は鳴っているので通じているのだろうが、一向に出ない。杏子も同じだった。テレパシーも圏外である。
「ああくそっ、やるしかないですかねぇ……!」
沙々は吐き捨てるように呟いてメールを送った。
読んでくれることを祈り、織莉子たちを追って走り出す。彼女らが消えていったのは駅だった。
広大な見滝原駅構内を、奥へ奥へと進んでいく。連絡通路を駆け抜け、入り組んだ階段を上り下りする。
そうするうちに沙々は違和感を覚えた。まだ夜も早いというのに人の姿が無い。いつしかまどかたちも見失ってしまっていた。
「この感じ……」
肌を刺す嫌な気配に身震いし、沙々は思わず呟いた。構内全体に異様な妖気が漂っている。周囲の空間が陽炎のように揺らいでいた。限りなく結界に似ている。
今歩いているここは本当に見滝原駅なのか。そんな疑問を抱きながら沙々は中央ホームに出た。
やはり誰もおらず、煌々と灯る照明だけが無人のホームを照らしている。
沙々は周囲を警戒しながらゆっくりと歩く。そうするうちにたった一人、ベンチに腰掛ける人影が見えてきた。
その顔を見て沙々は息を飲んだ。美樹さやかである。
元々は彼女を探し求めて街を歩いていたのだ。しかしこんなところで何をしているのか。さやかはこちらに気付く様子が無い。
沙々はさやかの前で立ち止まり、声をかけた。気のせいか、妖気が先程までより一層濃くなっている。
「さやかさんじゃないですか。私です、優木沙々ですよ」
こうして顔を合わせるのは、魔法であれこれ聞き出した夜以来である。だからさやかが自分を忘れてしまったのかと沙々は思った。
しかしそうではないらしい。目の前で声をかけているのに反応しなかった。虚ろな目でただひたすらに宙を見つめている。
魔女に魅入られてしまったのだろうかと考え始めた時、さやかが唐突にこちらを見た。ぎょっとする沙々に対し、独り言のような調子で話し始める。
「ああ、あんたは……また会ったね」
「お久しぶりです。ここで何してるんですか?」
「私ね……前にも話したけど、ずっと戦っていたよ。マミさんがいなくなった街で、私がマミさんの代わりになるんだって、馬鹿みたいなこと言って、ずっと馬鹿みたいに戦ってた……」
「……さやかさん?」
どうも様子がおかしい。一応は沙々を認識しているらしいが、まるで心ここに在らずだ。別の誰かと話しているように、あるいは自分に言い聞かせるように喋っている。
「戦い続ければいつか許しが得られるんじゃないかって、根拠もなく心のどこかで思ってた。マミさんを死なせてしまったこと……まどかを、大切な友達を傷つけたこと……そういうのひっくるめて全部許される日が来るんじゃないかって、都合のいいこと考えてた」
許すも許さないも、すべては自分の心次第ではないのか。しかし沙々は口には出さなかった。今のさやかにはどんな言葉も通じそうにない。
さやかがソウルジェムを手のひらに乗せて見せた。
今度こそ沙々は絶句する。青かったはずの宝石は黒く濁りきり、まるで小さな海の中のように闇が泡立ち蠢いていた。こんな状態のソウルジェムなど聞いたことがない。
沙々は後ずさりながら声を上げた。
「さやかさん、それは……!」
「結局、私は許しが欲しいだけだったんだ。魔女退治を続けていれば、いつか物語の主人公みたいに報われる日が来るんだって……。だけど笑っちゃうよね、そう信じて殺してきた魔女が……あたしたちの、魔法少女のなれの果てだって言うんだよ……」
「魔女? 魔法少女が……!?」
さやかの言っている意味がわからない。魔法少女が魔女になる、それはいったい何の話なのか。
しかしもはやさやかは沙々の話など聞いていない。後悔と自嘲、そして絶望。幾重もの感情がない交ぜになった泣き笑いで、彼女は言った。
「正義のためって言いながら、自分のために仲間の末路を殺して、大切な友達まで傷つけて……私、本当に救われないよ……!」
「さやかちゃん!」
どこかから鹿目まどかの悲鳴じみた声が聞こえる。さやかのソウルジェムが砕け散るのはそれとほぼ同時だった。
狂った嵐のような風が吹き荒れる。沙々の小柄な身体が浮き上がった。慌てて掴む物を求めた両手が虚しく宙を撫でる。
ホームの支柱に背中から叩きつけられた。息が止まり、視界が揺らぐ。
なおも突風は吹き抜ける。沙々は激突した支柱にかろうじて両手をかけた。それでも全身が揺さぶられ、手のひらがちぎれそうに痛い。
美樹さやかが糸の切れた人形のように、風に流され遠ざかっていく。何が起きているか理解できず、こうして飛ばされないようにするので精いっぱいだった。
そんな中でも沙々ははっきりと目にした。砕け散ったソウルジェムがよく見知った魔女の卵――グリーフシードへと変化する瞬間を。
気が付けば沙々はコンサートホールの真ん中に立っていた。
赤を基調としたステージ、円形に広がる座席。ステージでは青白い人影の楽団が激しくも物悲しい曲を演奏している。ここが現実世界のはずがなかった。
ステージの中央には甲冑姿の巨大な人魚がたゆたっていた。両手にサーベルを握り、その周囲では木製の車輪が無数に飛び交っている。
魔女だ――人魚の魔女とでも呼ぶべきか。これまで幾度も戦ってきた怪物の姿を目の当たりにして、ようやく沙々は我に返った。
「なんなんですかねぇ、これは!」
わけの分からぬ事態への苛立ちに喚きながらも、沙々は素早く変身した。その身が光に包まれ、橙色の魔法少女姿になる。
「さやかちゃん、ねえさやかちゃんなんでしょ!?」
鹿目まどかが叫び声を上げ、舞台袖から飛び出してきた。彼女もこの結界に巻き込まれてしまったらしい。
声に反応したのか、魔女の動きが激しくなった。サーベルを指揮棒のように振り回している。それに呼応し、でたらめに飛んでいた車輪が周囲めがけて撃ち出された。
沙々は自然と身体が動いていた。喉が枯れるような声で叫ぶ。
「なにやってんですか!」
ホールを駆け抜け、まどかに飛びついて押し倒す。すぐ真後ろを車輪が通り過ぎる気配がした。ただの人間があんなものを食らえばひとたまりもない。
手を貸して引き起こしてやる。まどかは沙々を見上げ、驚いたように言った。
「沙々ちゃん!? どうしてここに……!」
「話は後ですよ! あなたを守りながらじゃとても戦えない、一度退きます!」
まどかを庇うようにして立ち、杖を握りしめながら怒鳴る。
こうしている間に車輪がいつ飛んできてもおかしくない。今は指揮棒でしかないサーベルを振り下ろしてくる事とてあるだろう。
しかしまどかは駄々っ子のように首を振り、悲痛な声で叫んだ。
「待って、さやかちゃんをこのままにはしておけない!」
「何を言ってるんです!?」
「あなただって見たよね!? さっき、さやかちゃんが――」
まどかがそこまで言いかけた時、車輪の一つがこちらめがけて飛んできた。今から避けるのでは間に合わない。
ならば。沙々は全身に力を溜め、タイミングを見計らった。自分の攻撃が届く範囲に見えない線を引く。それが間合いだ。
車輪が床と水平に飛んでくる。そしてその瞬間、魔法の杖を全力で振り下ろした。杖と車輪が触れ、凄まじい衝撃が腕まで伝わってきた。それでもそのまま振り切る。
真っ二つになった車輪が左右に飛び散った。床や壁に叩きつけられ、轟音と共に埃が舞い上がる。
どうにか攻撃をやり過ごしたが、沙々は生きた心地がしなかった。次に同じことをしても、うまくいく自信など無い。
沙々はまどかを睨み、苛立ちに任せて怒鳴りつけた。
「いいから脱出です、死にたいんですかあんたは!?」
「だって、さやかちゃんが……!」
「だってじゃないです! あなたに何かあればきっとほむらさんに恨まれる!」
「でも、それでも……あの魔女はさやかちゃんで……! 織莉子ちゃんもそう教えてくれた!」
「織莉子!?」
思わずその名を聞き返し、ふと顔を上げる。
まどかが出てきた舞台袖。その出入り口に半ば隠れるようにして、純白の装束に身を包んだ魔法少女――美国織莉子がこちらの様子をうかがっていた。
沙々と目が合うと、織莉子は口の端を歪めて笑みを浮かべた。何もかも思い通りだとでも言いたげな、愉悦に満ちた嘲笑。
間違いない、この事態は美国織莉子が引き起こしたのだ――沙々はそう確信した。
彼女が関与しているならどんな備えを用意していてもおかしくない。この罠を噛み破る以外に生き残る道は無さそうだった。
再び人魚の魔女の指揮が激しくなった。飛び交っていた無数の車輪がその周囲で静止する。次の瞬間、一斉に弾き出された。狙いは全て沙々とまどかである。
あんなものを叩き落とす事などできない。まどかを抱えて避けることも不可能だった。
そこまで考えた時、沙々はまどかを突き飛ばしていた。短く悲鳴を上げ、まどかはステージの手前へ転がり落ちていく。あの位置ならサーベルと車輪の死角になる。
見届けた沙々の腹に車輪が激突した。続けて飛んできた車輪が肩にぶつかり、その次が再び腹に。沙々は車輪と一緒に吹き飛ばされた。
たまらず叫び声を上げる。打ち上げられた身体が放物線を描いて飛び、座席の背もたれに真上から墜落した。背中を打ち付け、背骨から電流のように激痛が走る。
「沙々ちゃん!?」
ステージの方からまどかの悲鳴が聞こえる。
痛みに全身が痺れ、手足が重かった。特に左腕が動かない。肩から腕にかけて、骨が砕けているようだ。
震えながら上体を起こした時、沙々は喉をこみ上げる異様な感触をこらえきれず、激しく咳き込んだ。
口から嘔吐のように大量の血が噴き出す。腹の辺りが鈍く痛んで熱い。内蔵が破裂していてもおかしくなかった。
満身創痍になり、気が触れそうな痛みに呻きながら、沙々は思った――自分はいったい何をしているのだろう、と。
痛い思いをして死にそうになり、得にもならないことをしている。
今もそうだ。まどかを置いて自分だけ避けるという選択をしなかった。そんな選択肢が思い浮かばなかった。
ほむらの制裁を恐れたのだろうか。しかしここで死んでしまってはそれまでのはずだ。本当にわけがわからない。
苦痛と意味不明の振る舞いの数々、その中にあってしかし確かなものがひとつだけある。美国織莉子への憎悪だ。
織莉子が憎い。自分をゴミのように扱い、今また罠に嵌めて殺そうとしている。織莉子への憎しみ、そして怒り。それだけは紛れもなく自分の感情だと言いきれた。
激しい怒りだけを支えに、沙々はボロボロの身体をどうにか起き上がらせた。そしてホール全体を見渡す。
魔女の注意は自分からもまどかからも逸れているようだ。そもそもが知能の高くない存在、視界から消えてしまえばいなくなったものとみなしてしまうのかもしれない。
これなら時間も取れる。沙々は確信し、精神統一を始めた。車輪の雨に晒されていてはそれもおぼつかないが、いま攻撃はやんでいる。
やがて沙々の中で魔力が一つの形を持った。最も得意とし、そして一番の切り札である精神操作――洗脳の力を彼女は解き放った。
不可視の魔力が魔女に次々と突き刺さる。沙々と魔女は意識の深部で繋がり、精神の領域の一部を共有した。魔女の感情が大量に流れ込んでくる。
悲憤、憎悪、絶望。水底よりもなお暗い感情にあてられ、自分も引きずり込まれそうな錯覚に襲われる。その真の名は、オクタヴィア・フォン・ゼッケンドルフ。
沙々は何度も繰り返してきたように、意識下において支配を宣言する。
『魔女オクタヴィア、今からこの優木沙々に従ってもらいますからね。その力の全てで、私の敵を倒しなさい!』
オクタヴィアは一瞬震え、すぐに従属の静止へと移行した。
だが沙々には違和感があった。魔女から流れ込んでくる無数の感情、その波長にわずかだが見知った感覚が混じっている。
「美樹……さやか……?」
まさか本当にこの魔女は美樹さやかだったものだというのか。
いくら否定しても、ホームで最後の瞬間に感じ取った波長との類似性が頭を離れない。美樹さやかの絶望と魔女オクタヴィアの絶望、別物だと言い張るにはひどく似通っていた。
魔法少女は魔女になるというのか。もしそうだとしたら……。
そこまで考えて、沙々は雑念を追い出した。今は目の前の戦いに集中しなくてはいけない。倒すべき敵、美国織莉子は今もステージの舞台袖にいる。
沙々の敵意を命令と受け取り、オクタヴィアがサーベルを振るった。無数の車輪が呼び出され、織莉子めがけて雨のように降り注ぐ。
織莉子は悠然と構え、避けるでも防ぐでもなく、迫る車輪の群れを見上げていた。
どうするつもりだ、と沙々が思った時だった。眼帯を付けた黒衣の魔法少女が飛び出し、織莉子を庇うようにして立ちふさがる。
忘れるはずもない、あれは呉キリカだ。あの日、沙々を痛めつけ、切り刻み喜んでいた。沙々が敗れた二人組、それはこの美国織莉子と呉キリカに他ならなかった。
キリカが目にも止まらぬ速さ――本当に信じがたい速さ――で、両手の巨大なクローを振り回した。
車輪は近づく端から次々にバラバラになっていく。全て細切れに切り刻まれ、車輪攻撃は織莉子に触れることすらできなかった。
キリカはこちらを見上げ、よく通る声で言った。
「織莉子には指一本触れさせないよ。特に優木沙々、お前みたいなドクズにはね」
「ゴキブリみたいなサイコ女が言ってくれるじゃないですか……」
黒服のキリカを揶揄するが、沙々にはもはや余裕など無かった。
こちらは立つのもやっとの重傷で、しかも相手は以前敗れた二人組。手の内を知られているので洗脳は難しく、魔女の攻撃も決め手にならない。
今度こそ死ぬのか。沙々が覚悟を決めかけた時だった。
「まどか!」
ライフルを手にしたほむらがステージの上に駆け付けた。遅れて杏子もやってくる。
沙々は自分が心から安堵していることをはっきり自覚した。ただ、二人ともどこかしら怪我をしているのが気になる。
ほむらがその名を口にしたまどかだが、つい先程までいたステージ手前から姿を消していた。
「ほむらちゃん!」
まどかの悲鳴がステージに響く。
その後ろで織莉子が首に腕を巻きつけて拘束し、まどかを盾にしていた。まどかは必死でもがいているが、普通の人間に振りほどけるはずもない。
それを見たほむらは呆けたように固まってしまった。しかしそれもほんの一瞬のこと。その美しい顔は激しい怒りに歪んだ。
「美国織莉子ォォォ!!!!!」
ほむらはかつてないほど激昂した。跳ね上げるように89式小銃を構え、一歩踏み出す。狙いを定めるその双眸は殺意にぎらついていた。
織莉子は不敵な笑みを浮かべた。大げさな仕草で締め上げた腕の力を強める。喉を圧迫され、まどかが苦しげに呻いた。いつでも首をへし折れると言いたいらしい。
「まどか! まどかを、まどかは関係ない! まどかを離しなさい、離せッ!」
「おいほむら、落ち着けって!」
ほむらは怒りを通り越し、完全に錯乱していた。人質がいるにも関わらず飛び出そうとしている。杏子に羽交い絞めにされてもなお激しく暴れていた。
そんなほむらを尻目に、織莉子は涼しい顔で言った。
「ようやく会えましたね……時間遡行者・暁美ほむら」
ほむらが暴れるのをやめ、息を飲む。そして信じがたいものを見るような目で織莉子を見つめていた。
「おい、あいつは何を言ってるんだ?」
杏子が羽交い絞めを解きながらたずねる。しかしほむらは答えず、織莉子を睨み続けるだけだった。
「キリカ」
織莉子が短く呟き、顎でほむらを示した。キリカが小さな何かを放り投げる。動揺しながらも、ほむらはそれを受け取ったようだ。
織莉子はまどかを引きずるように後退しながら言った。
「私からのメッセージはそこに入っています。……ああ、追いかけようなんて考えない方がいいですよ。大事な人の首が折れても構わないと言うなら話は別ですが」
「美国織莉子……お前は……!」
「では、また後でお会いしましょう」
憤るほむらを無視し、織莉子はまどかを連れて走り出した。
追わせないと言わんばかりに身構えていたキリカも、やがて後に続く。入り組んだ結界の闇に消え、すぐに見えなくなってしまった。
「まどか……まどかぁぁぁぁぁ!!!!!」
ほむらは喉が裂けんばかりに絶叫した。やがて力なく崩れ落ち、両手と膝を床に突く。その全身が激しく震えていた。
沙々は痛む身体を引きずり、どうにかステージまで降りていった。一歩踏み出すたびに振動が響き、腹や肩がひどく傷む。
その様子に気付いた杏子が少し安堵した様子で言う。
「なんだ、生きてたか」
「残念でした……これでも、しぶとい方でしてねぇ……」
憎まれ口を叩いて笑うが、こうして立っているのもつらい。かろうじて生きているような状態だった。
やがて杏子は人魚の魔女・オクタヴィアを見上げて言った。
「これが本当にあいつの……美樹さやかの魔女、なのか?」
「そう、らしいですねぇ……」
確証は無く、沙々はそう答えることしかできなかった。
しかし恐らくそうなのだろうという、確信めいたものは胸の内にある。今も伝わってくるオクタヴィアの絶望は、美樹さやかの絶望……。
ふらりとほむらが立ち上がった。憔悴した幽鬼のような顔だが、瞳だけはぎらぎらとした輝きを失っていない。
ほむらが突き放すように言う。
「こいつはかつて美樹さやかだった存在、間違いないわ」
「……どうすればいい」
絞り出すような声で杏子がたずねる。苦虫を噛み潰したような渋面だった。
ほむらの声はなおも冷たい。
「殺すしかないわ、放置すれば魔女として犠牲者を生み出す。……このまま手駒にすると言うなら別だけれど」
「えっ……」
ほむらと目が合い、沙々は思わず声を漏らした。ぞっとするようなもの凄い形相で、こちらを睨みつけている。今こうして話している時間も惜しいと言わんばかりだった。
今まで殺し、あるいは道具にしてきた魔女が自分たちの末路。
ほむらが言うならそれは本当なのだろう、彼女は恐らく何かを知っている。美樹さやか捜索を提案したのも、この事態を危惧したからではないか。
魔女になった自分を思い、沙々は気分が悪くなった。
従属させるたびに覗いてきた、魔女の深淵。狂おしいまでの敵意と憎悪、絶望。妄執だけで塗り潰された真っ黒な精神。あんなものに、自分もいつか成り果てるというのか。
そんな魔女たちを道具として使ってきた自分。新しい玩具を手に入れる程度のつもりで洗脳を繰り返してきた。戦いで使い潰し、不要になれば死を命じる。
魔女になった自分が玩具にされている姿を沙々は想像してしまった。足元がぐらつき、視界がぶれる。
見上げた先では魔女オクタヴィア――さやかだったものが次なる命令を待つように、じっと佇んでいた。今もこうして弄んでいるのは、つい先程まで話していた相手のなれの果て。
そこまで考えた時、沙々は耐え切れなくなって吐いた。
身体を折り曲げ膝を突き、胃が空になっても、えずき続ける。傷の痛みももはや気にならなかった。死にたくなるような嫌悪感だけが意識を埋め尽くそうとしている。
オクタヴィアが咆哮を上げ、身悶えした。
沙々の精神が大きく揺らぎ、洗脳の制御が危うくなっている。このままでは再び魔女本来のあり方に戻り、暴れ始めるだろう。
だがそれでも、沙々には何もできなかった。ただ震える身体を抱えるように縮こまる。
「……その気が無いと言うなら、やることはひとつよ」
ほむらが冷ややかに言い放った。いつの間にかオクタヴィアの身体には、爆弾がいくつも設置されていた。時間を止めたのだろう。
それを見た杏子が食って掛かる。
「おい! こいつは、この魔女は美樹さやかなんだろう!?」
「そうよ」
「だったら、なんでお前は……!」
そこで言葉に詰まり、顔を背ける杏子。
その姿を見て沙々はどうして、と思った。
杏子がさやかと会ったのは路地裏での戦いが最後のはず。敵対していた相手のためにどうしてそんな顔ができるのだろう、と沙々は杏子を見つめていた。
こちらの視線の意味に気付いたのか、杏子は絞り出すような声で言った。
「……戦いはしたけど、死んでほしいと思うほど憎んだことはねえよ。それは沙々、あんたも同じだ」
「私……?」
杏子は何を言っているのだろう。本気で殺すつもりで戦った沙々に対して、どうしてそんな事を言っているのか。杏子とてあの時は殺す気でかかってきたのではないのか。
混乱し消耗した意識では理解が追い付かない。
ほむらはしばらくこちらを見つめていたが、やがてリモコンのような物を手にし、杏子に言った。
「可哀相だと思うのなら、殺してやる以外にできる事なんて何もない。……魔女になるって、そういうことよ」
「畜生……」
杏子もそれ以上は何も言わない。
オクタヴィアが爆発に飲み込まれた。爆音がホールに轟き、耳を聾する。炎と煙に包まれ魔女の姿が見えなくなる。
その時、沙々は思わず身震いした。自分とオクタヴィアを繋いでいた物が、たった今切れたのだ。沙々は美樹さやかだったものの死を悟った。
いつか自分も、自らが生み出した結界の中で、たった一人で死んでいくのか。その恐怖と孤独な情景に沙々は怯えた。
「場所を変えるわよ、準備もしなくてはいけない」
いつものような涼しい声で言って、ほむらは左手のひらを広げて見せた。SDカードだ。これが先程投げ渡された物なのだろう、ここに美国織莉子の言う『メッセージ』がある。
どうしてほむらはこんなにも早く立ち直り、落ち着き払っていられるのだろうか。そう思った沙々だが、彼女の右手を見て息を飲んだ。
右の拳は真っ白になるほど強く握りしめられ、小刻みに震えていた。爪が手のひらに食い込んでいるのだろう、指の間からは真っ赤な鮮血が溢れ出ている。
ほむらは激怒している。それでも必死で冷静に振る舞おうとしているのだ。沙々は、美国織莉子が触れるべきでないものに触れたことを悟った。