ファーストフード店の片隅で、まどかは一人ぼんやりと座っていた。ドリンクはすでに空で、ストローを吸っても氷水の味しかしない。
時間が遅くなってきたためか、店内に学生の姿は少なくなってきた。しかし席を立つ気は起きない。
近頃のまどかはまっすぐ帰るかこうして時間を潰すか、いずれにせよ一人で過ごすことがほとんどだった。共に過ごしてきた友人たちの姿はすっかり遠ざかっている。
あの夜の別れ以来、さやかとはまともに会話ができていない。
学校で話しかけようと思っても、あの日の拒絶を思うと足がすくみ何も喋れなくなってしまう。向こうも話しかけるつもりはないらしい。もちろんパトロールへの同行などしていなかった。
問題はそれだけではない。さやかは志筑仁美ともうまくいっていないようだ。仁美は何も話してくれないが、二人の間にぎくしゃくした空気が漂っているのは間違いない。
自分を取り巻く現状を思うとまどかは気が重かった。さやかを介さなくなったことで仁美と話す機会も次第に少なくなり、学校ではほとんど誰とも喋らず過ごしている。
どうすればいいのだろうか――まどかは背もたれに身を預け、何度も繰り返してきた問いを思い浮かべる。
長く居座ったせいか店員が時々こちらを見ていた。それを無視して考え続けても、やはり答えは出てこない。
何か思いついても自分には無理だという思いがそれを打ち消す。残るのは何もできない無力感だけだった。
どこまでも無力で何もしない、大嫌いな自分。一時期鳴りを潜めていた自己嫌悪だが、最近では四六時中まどかの心を責め立てる。ひたすらに気持ちが重い。
「相席してもよろしいかしら?」
唐突に女の声がした。
制服姿の少女が、コーヒーだけを片手にこちらを見つめている。見滝原中学の生徒ではなかった。
「へっ……? ええと、はい、どうぞ」
急な事でロクに考えもせず間抜けに返事をする。
テーブルを挟んで向かいの席に座る少女を眺め、まどかは訝しんだ。空席なら他にいくらでもあるのに、どうしてわざわざ相席するのか。
改めて向かいの少女を見て、まどかはその美しさに思わず息を飲んだ。
西洋人形のように整った顔立ち、流れるように煌めく長いプラチナブロンドの髪、豊満ながら均整のとれた身体には黒のセーラー服を着ている。夢でも見ているのかと思うほど美しい娘だ。
コーヒーに口を付けてから、少女が顔を上げた。
「どうしましたか、私の顔に何か?」
「い、いえ……ごめんなさい……」
「どうして謝るのです? あなたは何も悪い事はしていない、違いますか」
「え、その……」
返答に困り、まどかは口ごもった。
整いすぎた容姿でそんな事を口にするので奇妙に威圧感があった。思わず目をそらし、顔を伏せてしまう。
少女はこちらをじっと見つめていた。まどかがかわしても視線が付きまとってくる。彼女の眼差しはまるで何もかもを見透かしているかのようだった。
まどかがたまらなくなってきた頃に、少女は言った。
「ごめんなさい、意地悪をしてしまいましたね。……私は美国織莉子、今日は見滝原の友達に会いに来たのです」
そう言って少女――織莉子は微笑んだ。それだけで場の雰囲気がどこか華やぎ、不思議と気持ちが軽くなる。
こちらを見つめる碧眼に魅せられながら、まどかも名乗った。
「私は鹿目まどか……です」
「まどかさん、ですか。よろしくね」
織莉子は思いのほか人懐っこく言った。そうしている姿は人形のようではなく、愛らしい少女そのものである。
不思議な人だ、とまどかは思った。まだ会って間もないというのに、こうして同席していると色々な話をしたいという気持ちにさせられる。
まどかは少し迷ったが口を開いた。
「あの、美国さん」
「織莉子でいいですよ」
「ええと織莉子、ちゃん……」
「何でしょう?」
名前で呼ばれたことが嬉しかったのか、織莉子はふふっと笑った。花のような微笑みに動揺しながらもまどかは続ける。
「織莉子ちゃんって、すごく素敵だね」
「ありがとう、でもそうかしら?」
「そうだよ。美人で、だけどそれだけじゃなくて……うまく言えないけど、雰囲気があるっていうか。それに比べたら、私なんて……」
初対面相手に馴れ馴れしいとも思ったが、ごく自然に口が動いた。
それに喋った内容は全て本心からのものである。彼女と比べて自分が取るに足らない存在だということも含めて。
織莉子は軽くたしなめるように言った。
「そんなに自分を卑下するものではありませんよ」
「でも、私なんて本当にダメで……。何もできなくて……」
「悩み事かしら。誰かに相談してみてはどうです?」
誰かに相談――その言葉でまどかが最初に思い浮かべたのはさやかだった。幼い頃から何かあればまずさやかに相談したものだ。しかし、今はとてもそんな雰囲気ではない。そうでなかったとしても、悩み事がさやかに関する事柄だ。
さやかでなければ仁美だが、今は彼女との間にも微妙な空気が漂っている。そして相談相手としてほむらたち魔法少女が相応しいかと考えると、それもまた違うように思えた。
さやかとの関係がおかしくなるだけで話し相手がこうも少なくなる、まどかは思っていた以上に自分の中でさやかの存在が大きいことを実感した。
やがてまどかは首を横に振って言った。
「今、友達とちょっと気まずくて……そういう話をするのは難しいかな」
「いつも仲良く、とはいかない事もあるでしょうけど……。そういう時でもお互いに納得できるまで、よく話し合った方がいいんじゃないかしら」
「そうだよね。私もそう思うけど……」
まどかの脳裏にあの夜の出来事が蘇る。言いたい事も伝えたい事もあったが、その半分もさやかには届かなかった。拒絶された痛みだけが胸の奥でくすぶっている。
口ごもるまどかに対し、織莉子は少し強い調子で言った。
「きちんと話し合うのは誰にとっても難しい事だと思います。だけど、それを怠って取り返しのつかないことになったら、とても後悔するんじゃないかしら」
「後悔……」
「そのお友達が大切な人であるなら、ちゃんと向き合った方がいいと私は思うわ。それで傷つくこともあるでしょうけど、何もせず後悔するよりはずっといい」
痛いところを突かれたような気がして、まどかは俯いた。傷つく事を恐れてさやかと向き合わず、ずっと逃げていた――それが自分だ、とまどかは思った。
本当にさやかをなんとかしたいなら、何を言われようと説得を続けるべきだった。そうしなかった自分には我が身可愛さが先にあったのではないのか。そう思うと、まどかはそんな自分がたまらなく嫌になった。
やがて織莉子が微笑を浮かべて言う。
「……とまあ、偉そうな事を言ってしまったけど、なかなかうまくいかない時もあるわよね。相手が聞く耳を持たないなら、冷却期間が必要な事もあるでしょうし」
「うん……でも、どうしたらいいかもうわからなくて……」
事態が事態だけに、悠長に構えている時間は無さそうだった。さやかが無謀な戦いを続ければ、やがて取り返しのつかない事になってしまうだろう。
どうして自分は無力なのだろう、とまどかは心の底から思った。
同時に織莉子が羨ましくなる。正しいと思った事をはっきり口にできる強さ、その何分の一かでも自分にあれば違う今もあったのではないか。無い物ねだりとわかっていても、まどかは織莉子のような意志の強さが欲しかった。
織莉子は何事か考えるような素振りで黙っていたが、やがて少し改まった口調で言った。
「どうしても相談相手がいないなら、私でも話くらいは聞きますよ? 誰かに話したら少しは楽になるかもしれないし……」
まどかは思わず顔を上げ、織莉子を見つめ返した。
馴れ馴れしく喋ってしまった自覚はあるが、相手もまたずいぶん踏み込んでくるものだ、とまどかは思った。
その一方で織莉子になら話してもいいのではないか、という気持ちもあった。理由と呼べるようなものは何もない。ただ、織莉子にはそんな気にさせる何かがあった。
織莉子はそれ以上急かすことはなく、ただまどかをじっと見つめていた。青く美しい瞳で見つめられると、不思議と彼女に身を委ねたくなる。
やがてまどかはためらいながらも言った。
「友達が大変で、だけど私には何もできなくて。ずっと考えても答えが見つからなくて、それでもなんとかしたいって気持ちは変わらなくて……。織莉子ちゃんは、自分を変える方法があるなら変わるべきだと思う……?」
結局、まどかは現状についてほぼありのままに話した。念頭にあるのは魔法少女としての契約のこと。まどかがずっと迷い続けている最後の選択肢である。
まどかが喋っている間、織莉子はじっと耳を傾けてくれていた。しばらく考えるように間を置いた後、やがて彼女は言った。
「つらかったのね、まどかさん」
「うん……」
「友達のためになんとかしたいという気持ち、私にも覚えがあります。でもね、まずは今の自分にできることを考えるべきじゃないかしら」
「そう、かな」
「そういうものですよ。身の丈に合わない願いや力、そういった物は災いをもたらすことだってあると思うわ」
「災い……」
まどかはさやかのことを思った。彼女は今もマミの志を絶やさぬことだけを考え、自分を責め、たった一人で戦い続けているだろう。その孤独な姿を思うと胸が痛んだ。
さやかにはもうそんな事はやめてほしい、それがまどかの心からの願いだった。マミだからできた事を他の者が無理に真似てもつらいだけだろう。それこそ織莉子の言う身の丈に合わない願いではないか。
しばしの沈黙が流れた。居心地は悪くない。さやかへの心配で頭がいっぱいなこと、そして織莉子が持つ雰囲気によるものだろうか。
やがて織莉子がテーブルへ少し身を乗り出した。まどかを見つめて微笑む。その笑みは先程までよりどこか妖艶だった。
「あなたの力になれるかもしれない。……魔法少女の事、もっと知りたくないですか?」
「魔法少女……」
織莉子に魔法少女について喋っただろうか、とまどかは疑問に思った。
しかし織莉子が何か知っているというのなら、それを聞きたい気持ちを抑えることができない。
一抹の不安を感じながらも、まどかは織莉子の話に聞き入った。
緑色の不安定な世界の中に、何体もマネキンのような怪物がふわふわと立っている。ここは結界、そしてあれは使い魔だ。
さやかは駆けた。駆け、吼えながら長剣を振るう。使い魔たちを一太刀で斬り捨てていった。たいした手ごたえも無く、真っ二つになって霧散する。
景色が揺らぎ、結界が消滅した。元の立体駐車場が姿を見せる。どうやらこれでこの結界の使い魔は最後だったようだ。
すでに夜を迎えていたが、それにしても駐車場に車は少なく人の姿は見当たらない。しかしさやかにはそれがありがたかった。今は誰にも会いたくない。
疲弊し、重くなった身体がふらつく。その場で膝を突き、荒い呼吸をどうにか整えようと努力する。しかし肩を揺らす大きな息づかいは静まらず、さらに眩暈もして視界がかすんだ。
今夜はまだたいして戦っていないのにどうしたことだろうか、とさやかは思った。
しかし体調がどうであろうと、休んでいることなどできない。もはやこの身にそんな許しなど与えられることはない、与えてはならないのだ。
消える事の無い悔恨が白昼夢のように現れ、さやかを苛み続けている。
マミを死なせてしまった。誰よりも自分を気遣ってくれるまどかを傷つけた。その事実が何度も何度も再現され、さやかに罪深さを思い知らせる。
彼女を蝕む幻影はそれだけではない。
上条恭介――さやかの幼馴染で、魔法少女になってでも助けたいと思った相手。その彼が手の届かないところへ行ってしまった。今頃は志筑仁美と愛を語らっているのかもしれない。
仁美は告白の前にその事をさやかへ告げた。さやかはそれを祝福し、仁美に全てを委ねた。その結果として彼女は恭介と結ばれている。
重い罪を犯し続けた自分が恋愛にうつつを抜かす資格など無い。今はただ、一体でも多くこの街に巣食う怪物を倒さねばならない。マミがいなくなった以上、もはや正義を遂行する者は自分だけなのだ。
萎えてしまいそうな気力を振り絞り、脚に渾身の力を込めて立ち上がる。視界がひどく揺らいだ。眩暈が悪化している。
「そんな身体で何をしようというの。……使いなさい」
背後から聞き覚えのある声がした。
のろのろ振り返ると、何かが投げ渡される。受け取ったそれは、未使用と思しきグリーフシードだった。
視線を声の主に戻す。
非常階段から現れたのはやはり暁美ほむらだった。すでに魔法少女姿の彼女は、相変わらずの冷めきった目でさやかを見つめている。
その眼差しが、鈍麻しかけていた感情を揺り動かした――怒りという形で。
さやかはグリーフシードを投げ返した。ほむらを睨みつけ声を張り上げる。
「あんたの施しなんか受けない。……悪党仲間と仲良くやってるんでしょ、だったらあたしのことなんか放っておいてよ!」
ほむらが一瞬悲しそうな顔をしたように見えた。それはさやかの気のせいだったのだろうか。
次の瞬間、足が床を離れ視界がぐるりと回った。背中をしたたかに打ち付けたさやかの目の前に、ほむらの顔が迫る。いつの間にか組み伏せられていた。
「なにすんのよ!?」
「どうあっても差し出された手を取るつもりは無い――そう言いたいのね?」
「当たり前でしょ! マミさんの死を望み、それを喜ぶあんたたちなんかと誰が……!」
そこまで言いかけた時、ほむらの喉輪がさやかを強く路面に押し付けてきた。息ができず、顔中が熱くなる。
このまま死ぬ、それもいいかもしれない――四肢から力が抜けていく中、さやかはそう思った。
マミの志を無為にして死んでいくのは申し訳ないと思う。しかし、悪党に殺される無様な最期こそ、自分のような罪人には似つかわしく思えてならなかった。
ほむらが冷たく――まるで意識してそうあろうとしているかのように――言った。
「話を聞くつもりが無いならそれも構わない。けれど、この場で浄化はさせてもらうわよ」
ほむらの手にはグリーフシードが握られていた。さやかの拘束を解かぬまま、ソウルジェムへ近づけようとしている。
やめてくれ、とさやかは叫ぼうとしたが喉を押さえられ声にならなかった。自分には浄化を受ける資格などない。薄汚れた罪人にこれほど相応しくないものは他にあるまい。
それなのにほむらはさやかの意志など無視して穢れを取り去ろうとしている。穢れそのものである自分からそれを除去して何になるというのか。
もう一度なけなしの力を振り絞ろうとした時、さやかに伸し掛かる重みが不意に消えた。ほむらが宙に投げ出され、床に転がり落ちる。喉への圧迫が消え、さやかは激しく咳き込んだ。
「無理強いはいけないよ、愛は双方の合意がなくっちゃね」
茶化すような声が聞こえる。
顔を向けると、さやかの傍には黒衣の少女が立っていた。右目は眼帯で覆われ、その顔には軽薄な笑みが貼り付いている。
飄々と笑っているが、その全身からは刃物のように鋭い気配が漂っていた。そんな少女を象徴するかのように、両手には巨大な金属の爪が装備されている。
魔法少女だろうか――初めて見る少女を前に、さやかはそんな事を思った。
「美樹さやか、逃げなさい!」
いつにない激しさでほむらが叫び、駆け出した。手にした自動拳銃が火を噴き、銃声が構内に反響する。
黒衣の少女は踊るようにその身を虚空へ放り出した。くるくると回転する身体は弾道の合間を縫うように舞い、そのことごとくを避けてしまう。
どういうわけか、さやかにも弾の流れが見えていた。着地した少女へほむらは執拗に銃撃を続ける。
少女は弾よりも速かった。右に左に弾を避け、床を蹴ってほむらめがけて踊りかかる。
鉄の爪が閃いた。弾き飛ばされた拳銃が回転しながら遠ざかっていく。ほむらの顔に驚愕が浮かび、その目が右手を一瞬見つめた。
少女が全身を捻り一回転する。回転エネルギーを乗せた後ろ蹴りがほむらの腹に突き刺さった。
華奢な身体が冗談のように吹き飛び、停めてあった車に叩きつけられる。フロントガラスに蜘蛛の巣のようなヒビが走り、背中からぶつかったほむらは咳き込みながら倒れ落ちた。
圧倒的な身のこなしを前に、さやかは夢見るようにぼんやりとしていた。目の前の事態に理解が追い付かない。この少女は何者で、どうしてほむらと戦っているのか。
ほむらがふらふらと起き上がる。頭から血を流し苦悶に顔を歪めながらも、黒衣の少女を燃えるような目で睨んでいた。
「呉……キリカ……!」
「……ああ、そうか。君は知っているんだったね」
名を呼ばれた少女、キリカは別段気にする風も見せずに言った。
知り合いなのかどうか、ともかくほむらにはただならぬ雰囲気がある。キリカに向けている感情は、傍からでも強い怒りと敵意だと見て取れた。
キリカはさやかを一瞥した。悪戯を思いついた子供のような顔をしている。
さやかはどう反応したらいいかわからず、ただ戸惑った。
そしてキリカはほむらへ向き直り、言った。
「人には己の運命を決める権利がある」
「何の話かしら……!」
「死を望む者、怪物になることを望む者――それを止める事なんて誰にもできやしないのさ。暁美ほむら、君もそう思わないかい?」
芝居がかったセリフだが、さやかは引っかかるものを感じた。朦朧としそうな意識をどうにか保ち、話に割り込む。
「あんた、何を言ってるの……怪物になるって、なにそれ」
「魔法少女が怪物と口にしたら、それは魔女以外に何があるっていうんだい?」
「魔女……怪物……えっ?」
「耳を貸しちゃダメよ!」
ほむらが悲鳴じみた声を上げる。
だがさやかの中ではある疑問が急激に生まれ、そして一気に解答へ向かおうとしていた。足りないピースさえ揃えばそれはすぐそこだ。
キリカは口を歪めて笑い、楽しそうに言った。
「怪物になりたがっているのは君――美樹さやかだ。魔法少女は魔女になる、例外なくね。知らなかったのかい?」
「戯言よ、こいつはあなたを惑わそうとしているだけ!」
もはやほむらの否定もほとんど耳に届かない。
現実に対する感受性が鈍ってくる。代わりに自分の感情に対する知覚だけは鋭敏になっていった。世界がぐるぐる回る。身体が重く、まるで自分の物でないような感覚。
そして胸の奥から湧き上がってくるどす黒い感情。それは人の身で抱き続けることなどできないほどに、激しく強い。広がっていく妄執を前に、確信だけが深まっていく。
自分の世界に入りかけていたさやかには、いつ佐倉杏子が乱入してきたのかわからなかった。
杏子が槍を振り回しキリカに跳びかかっている。キリカは爪で受け流し、巧みなステップでかわす。戦闘の物音がひどく遠かった。
それでも、杏子のその声だけははっきり聞こえた。
「なにボサッとしてんだバカ、さっさと逃げろ!」
それはさやかに向けられた声だった。だがそこから先は反転し襲いかかるキリカに遮られ続かない。
杏子の槍が多節棍に変形し、打ち掛かる障壁のように広がる。四方から棍がキリカに伸びる。だがその波状攻撃ですらキリカを捉えられない。
ほむらが何か叫び、ショットガンを連射した。銃声が轟き、やけにゆっくりとショットシェルが乱舞する。
キリカはひたすら楽しそうに攻撃を避け続けていた。
わけがわからなかった。この戦いがいったい何のために行われているのか、自分に何の関係があるのか。鈍ってしまった意識では全てが理解できない。
だがはっきり聞き取れた、杏子の逃げろという叫び。
怒鳴りつけてでも言うのだから、それが正しいのだろうとさやかは思った。
ふらふらと、その場からゆっくり離れていく。