ほうほうのていで路地裏を抜けた沙々は、やがて駅前の繁華街に出た。
飲食店が立ち並び、いかがわしい遊興の店も数多く軒を連ねている。すでに夜の帳は降り、輝くネオンの通りを多くの人間が歩いていた。
こうして人混みを歩いていると、つい先程まで命のやり取りをしていた事が嘘のように思えてくる。人の流れに身を任せ、沙々はまるで酔ったように現実感の乏しさを味わっていた。いかにも所在無さげに、ぼんやりと歩く。
やがて頬の疼きで、傷をそのままにしていたことを思い出した。
沙々は舌打ちして右手のひらで傷を覆い隠す。通行人に見とがめられないよう気を付けながら治癒の魔力を送り込んだ。暖かく柔らかな感触が傷を撫で、痛みが引いていく。
治療を続けながらも、沙々は今になって怒りが込み上げてきた。痕が残ったらどうしてくれるつもりだ、と胸中で暁美ほむらを罵る。
沙々は自分の容姿が並み以上であることを自覚していた。状況によっては利用価値もあるだろう、ただし傷物でなければ。
万一を思った時の苛立ちを、汚らしい街並みが増幅させる。薄汚れた猥雑な建物の数々、古びたアスファルトを飾る誰かの吐瀉物。アルコールと性欲に溺れた人の群れ。その全てが沙々の神経を不快に逆撫でた。
治療を終え、触れても痛みが無いことを確かめながら、沙々はこれからの事を考えた。つまりいかにしてこの見滝原の狩場を、自らの支配下に置くか。
別の街で活動していた沙々が見滝原へやって来たのは、長らくこの街で活動していた巴マミの死を知ったからである。
マミが生きている頃、沙々は見滝原に手を出そうと思った事は一度も無かった。
巴マミにまつわる数多くの伝説めいた噂話、それが恐らくは事実であると沙々は信じていた。多くの魔法少女が絶好の狩場を手に入れようと画策したが、それでもマミの縄張りであり続けた事実がそれを証明している。
そのマミが今はいない。沙々は千載一遇の好機と考えやってきたのだが、この街にはすでに魔法少女がいる、それも複数。
正面からぶつかっては駄目だ、と沙々は自らに言い聞かせた。
路地裏での出来事からも、この街が一筋縄ではいかないことは明らかである。うまく立ち回るためにはもっと情報が必要だった。
「ちょっといいかな。君、学生だよね?」
背後から横柄な男の声がする。肩を掴まれ振り返ると、二人の制服警官が暇そうに沙々を見つめていた。
こっちは暇じゃないんだ、という言葉を沙々は飲み込んだ。
こうした事態は初めてではなく、魔女探しをしていればどうしてもつきまとう面倒臭い問題だった。
沙々は身の内に秘められた魔法の力を引き出した。両の瞳にわずかな熱が宿る。
「消え失せろ」
沙々は低い声で言った。普通であれば警官たちは沙々を拘束しようと躍起になるだろう。
しかし、そうはならなかった。呆けたように沙々を眺めるだけである。ぼんやりと立ち尽くす彼らの両目、その角膜はほのかに赤い光を帯びていた。
やがて年かさの警官が生気の乏しい声で言った。
「わかった、そうしよう」
それだけ告げると警官たちは去っていった。
沙々はそれを見届け、掴まれた肩を軽く払って再び歩き始める。
精神操作――それが契約によって沙々が手に入れた力である。今のように簡単な命令に従わせることはもちろん、強度を上げれば完全な洗脳状態に陥らせることも可能だった。そしてその対象は人間に限らない。
強度の低い操作であれば沙々の負担も少ないため、日常の煩わしい出来事を解決するには便利な能力でもあった。
他の魔法少女は今のような事態をどうやって回避しているのだろうか。我が事ではないが、沙々は少し興味を持っていた。
しばらく歩き、やがて沙々はこの辺りでいいだろうと判断した。
人の流れから抜け出し、電柱の隣で立ち止まる。そしてざっと辺りを見回した。今のところ、沙々に注目している者は一人もいないようだ。
視線を戻し、数歩先の路地を見つめる。
程なくして目当ての人物が現れた。先程の少女に肩を借りて歩くさやかである。
未だ名を知らぬ少女は沙々に気付き驚いたようだが、さやかは怪訝な顔をするばかりだった。気絶していたので当然だろう。
沙々はさも偶然であるように歩み寄り、朗らかに、友好的に声をかけた。
「また会いましたねー、さっきはどうもです」
「えっ……あの……」
「誰よまどか、知り合い?」
口ごもる少女をまどかと呼び、さやかが問い詰める。
しかしまどかと呼ばれた少女はうまく言葉が出てこないらしく、救いを求めるような目で沙々を見つめた。
「優木沙々といいます、私もさっきそこの路地裏にいたんですよ」
仕方がないので沙々はかいつまんで説明してやった。先程の戦闘を目撃したこと、ほむらや杏子と短いやり取りがあったことなどである。
話を進めていくうちにさやかの表情がどんどん険しくなっていった。
やがて最後まで話し終えると、さやかは舌打ちして噛みつくように言った。
「つまりあんたは無様に負けた私を笑いに来たと、そういうわけ?」
「いえいえ、そんなんじゃないですって。だいたいここで会ったのだって偶然じゃないですか」
もちろんこの遭遇は偶然ではない。
先程の立ち去り際、沙々はさやかの魔力の波長を記憶していた。それを位置情報として捉え、彼女たちが路地裏から出てくる場所へ先回りしたのである。
これだけ人目があれば暁美ほむらも仕掛けてこないだろう。
沙々は情報を欲していた。何を仕掛けるとしても、まずは街の現状を把握する必要がある。そのため比較的与しやすいと見たさやかに接触したのである。
不安げなまどかを尻目に、さやかはなおも攻撃的な態度を崩さなかった。
「偶然? 怪しいもんだね」
「まあそう言わないでくださいよ。それより歩きましょうか、帰る途中ですよね?」
さやかを適当にかわしながら言うと、まどかが黙って頷いた。さやかの刺々しさにすっかり気圧されているらしい。
歩き始めて間もなく、さやかが苛立たしげに言った。
「なんであんたもついてくるのよ」
「さっきの事があったばかりですから、そこまで送ろうかと思って」
「そんなの頼んでないし必要ない! だいたいあんただって魔法少女でしょ、何をするかわかったもんじゃない!」
「ちょっと、さやかちゃん……」
咎めるようなまどかの言葉もさやかには届いていないようだ。燃えるような目で沙々を睨み、ちょっと刺激すればすぐにでも飛び掛かってきそうな雰囲気である。
何をカリカリしているんだガキめ、と沙々は胸中で毒づいた。予想以上の拒絶に辟易しながらも、それを表に出さず喋り続ける。
「なんでそんなに魔法少女を敵視するんです? あなただって魔法少女じゃないですか」
「あんたもあの転校生や杏子って奴と同じ、自分のことしか考えてない魔法少女なんでしょう? グリーフシードのために平気で人間を使い魔に食わせてるんだ!」
そういうことか、と沙々はある程度納得がいった。
このさやかという少女は巴マミと同類、正義の味方気取りの魔法少女なのだろう。数は多くないが、こういう手合いは稀に存在する。
彼女たちは過剰な正義感に振り回されて積極的に使い魔をも狩り、やがて魔女に成長して落とすであろうグリーフシードを枯渇させていく。
沙々にとって同じ縄張りには存在してほしくないタイプだった。佐倉杏子と戦闘になったのもその辺りが原因だろう。
不可解なのは手の内や本心を見せていない沙々に対しても強い拒絶を示していることだった。不信感に囚われているのかもしれないが、その辺りまでは知るすべも無い。
沙々は面倒臭くなってきた。いくつかの手間を省略するためにも魔法を使うことにする。意識を集中して形作った魔力を、密かに視線と言葉に乗せた。
「そう言わないでくださいよさやかさん。私はあなたの力になりたいんです、もう少し素直に話してくれませんか?」
「素直に……」
沙々の言葉を反復するさやかの双眸に、先程と同じ赤く暗い光が一瞬灯る。しかし警官の時と違い、さやかの表情はしっかりしたままだった。
さやかに使ったのはごく短い時間だけ効果のある、軽い暗示程度の精神操作である。猜疑心と過剰な怒りを鎮め、知っている事や考えている事を話そうという気持ちへ誘導するための。
案の定、さやかはごく自然に我に返ったような様子で言った。
「ごめん、ちょっとイライラしてて……言い過ぎたよ」
「いえいえ、気にしてませんよ。さやかさんは魔法少女になってから長いんですか?」
「ううん、あたしなんてまだまだ……それでもマミさんと一緒に、見滝原を守るため戦ってたんだ」
さやかは堰を切ったように喋り始めた――さやかの内なる堰を切るよう仕向けたのは沙々なのだが。
魔法少女になって日の浅いさやかは先輩であるマミの指導と援護のもと、見滝原の魔女や使い魔を相手に戦ってきた。
最初は危なっかしかったさやかも少しずつ腕を上げ、マミとのコンビネーションも良くなってきていたという。
だけど、と言って言葉を切り、しばしの間を置いてからさやかは続けた。
「あの魔女……倒したと思ったら、姿を変えて。あたしを守ろうとして、マミさんは……」
「さやかちゃん……」
その時の事を思い出したのか、まどかがつらそうながらも気遣わしげに言う。
さやかは涙を流し、嗚咽を漏らしていた。
「絶対仇を討ちたくて……必死で戦ったよ。だけど魔女は強くて、あたしはボロボロで、近くにはまどかがいて、だから、あたしは……」
そこから先は言葉にならなかった。ひどくむせび泣き、まどかにその背をさすられている。
だからまどかを連れて逃げたのか、と沙々は理解した。
戦術的に正しい判断だが、さやかのような人間は自分を許すことができないのだろう。実力に見合わぬ矜持や信念を持つからそういうものに苦しめられることになる――沙々はそう思った。
しばらくしてから、さやかはいくらか落ち着いた様子で言った。
「あたしはマミさんの分までがんばる……がんばらないといけない。マミさんがいた頃と同じように見滝原を守らなくちゃいけない。それが、マミさんを死なせたあたしの責任なんだ……」
それは限りなく破滅への近道だった。
巴マミと同じ事ができる魔法少女などほとんど存在しない。遠く及ばぬ身で同じ振る舞いを続けようとすれば、必ず無理が出て本人に降りかかる。
さやかは早晩力尽き倒れる、沙々にはその姿が目に浮かぶようだった。
沙々はあくまでさやかの身を案じるように、穏やかな声で言った。
「杏子さんと戦っていたのもそのためですか」
「そうだよ……あいつや転校生は、グリーフシードさえ手に入れば街の人がどうなろうと構いやしないんだ。マミさんがいればそんなこと絶対許したりしなかった」
「さやかちゃん、だからってあんな無茶しないで。さやかちゃんが死んじゃったら、私……」
「まどか……ごめん」
今にも泣きそうなまどかの頭をさやかはそっと撫でる。本当に仲の良い友人同士なのだろう。
亡き恩人の志を受け継ぎ正義のため戦う魔法少女と、傍らにあってその身を案じる友人。じつに美しい姿だった。あまりに立派で美しすぎて、沙々とは住む世界が違う。
彼女たちはどこまでも相容れないであろう人種だった。ずっと陽の当たる場所で生きてきた人間が考えそうな、甘ったれた理想を信じて生きている――沙々にはさやかとまどかがそう映った。
さやかを協力者とするならば、さらなる精神操作が必要だと沙々は思った。元の人格を破壊し、完全に操り人形にするレベルでの洗脳を施さねばならないだろう。魔法の強度を上げればそれだけ沙々自身への負担も大きくなる。
そこまでして味方につけるだけの価値がさやかにあるのかどうか、沙々が検討しようと思った時だった。
チカチカと、何か鬱陶しい光が沙々の目に入る。何気なく顔を上げて沙々は今度こそ凍りついた。
光の発生源はここからまっすぐ進んだ先にあるビルの屋上、そこに立つ人影である。
正確にはその人影が構えるライフル、そこに据え付けられたスコープのレンズが反射した光だった。この距離では判然としないが、あのシルエットは暁美ほむらのように見える。
冗談じゃない、と沙々は本気で怯えた。
今の反射光も恐らくわざわざ仕向けたもの、沙々に対する最後の警告なのだろう――これ以上接触を続けるなら殺す。有無を言わさぬメッセージだった。
駅前広場に差し掛かり、場所もちょうどよかった。
沙々は立ち止まり、全身を伝う冷や汗の不快感にも顔色を変えることなく言った。
「この辺りまで来ればもう大丈夫でしょうかねぇ」
「うん、ありがとう沙々……話して少しだけ楽になったよ」
「何かあったら声をかけてください、私はしばらくこの街にいますから。……それでは、また」
「沙々ちゃんも気をつけて帰ってね」
別れを告げ、さやかとまどかが遠ざかっていく。
笑顔で見送る沙々は内心、心底ほっとしていた。この程度の接触で殺されかけるとはさすがに思いもしなかった。
暁美ほむらがこうまで気に掛ける二人、というよりまどかには何があるのだろうという疑問が湧き上がってくる。路地裏でまどかを見るほむらからは、並々ならぬ何かが感じられた。
しかし今の沙々にできるのは早々にこの場を立ち去ることである。今夜の一番の収穫は、下手にまどかに手を出すべきではないという事実だった。
駅前ホテルのスイートに戻った沙々は、一気に疲労を感じてベッドに身を横たえた。広い間取りと豪華な内装も、消耗しすり減った神経を慰めるにはあまり役立ってくれない。
この部屋は見滝原での活動拠点とするため、とりあえず一ヶ月の契約で借りて支払いも済ませてある。未成年ゆえの不都合は魔法の力で誤魔化してあり、支払いそのものは正当なので足が付くことは無いはずだった。
しかしせっかくのホテルも今後の状況次第では無駄になりかねない。
魔法少女の数は多く、今のところ味方と呼べる者はいなかった。暗示が消えればさやかの態度も再び硬化するだろう。
改めて暁美ほむらのことを考える。
なりふり構わない様子からは沙々への敵意というより、さやかとまどか――恐らくはまどかだけ――を守ろうとする強い意志を感じた。
その真意は知りようがないが、今はその事実だけで十分だった。当面はまどかへの不要な接触を控え、決定的な対立を回避するしかない。さやかと杏子の戦闘を仲裁した意図も不明であり、沙々はほむらに対する最終的な態度を保留にせざるを得なかった。
ならば佐倉杏子はどうか。
こちらも情報は少ないが、さやかの証言を信じるなら損得の計算はできるようだ。路地裏で早々に退いた事を考えても馬鹿ではないらしい。それで直ちに味方に引き込めるわけではないが、沙々の立ち回り次第では敵対を回避することも不可能ではないだろう。
論外なのはさやかだった。精神操作を仕掛ける前の刺々しい態度、あれこそが沙々と彼女の本来の関係だろう。杏子に後れを取ったさやかを洗脳し手駒にしたとしても、コストに見合った働きは期待できなかった。
「くそっ、どいつもこいつも……」
外で被っている仮面を脱ぎ捨て、見滝原の魔法少女たちを罵る。
有効な手を見出せない現状に沙々は苛立っていた。この街でやっていけないとなれば、新たな縄張り候補を探す必要に迫られる。
沙々には帰る場所が無かった。元々住んでいた街で死にかけて以来、流浪の日々は続いている。
そうでなかったとしても家族や学校といった社会との繋がりは全て捨ててしまった。魔法少女になる前の鬱屈した日々、あの頃を思えばたとえ苦境にあっても自らの足で歩く今の方がよほどいい。それだけは紛れもない本心だった。
「慎重に、慎重に……」
自らを落ち着かせる呪文のように呟く。下手を打って以前のような事態に陥るのは避けたかった。見滝原にはまだ来たばかり、焦ることはない。
そうやって気持ちを鎮めながらも、一方で胸の奥がざわつくのを沙々は感じた。
あの日、魔法少女になって日も浅い頃。二人組の魔法少女と戦闘になり、敗れた沙々はかろうじて逃げ延びた。
縄張り争いは珍しいものではなく、その事で彼女たちを非難する気は無い。だが沙々を見る彼女たちの態度、その目、それは今でも忘れることができなかった。
まるで虫を潰すように殺されそうになった。台所の害虫を駆除するように躊躇無く、何の感慨も無く。その記憶が沙々を苛んだ。魔法少女になる前に味わってきたものが生ぬるく感じるほどの、完全な存在の否定。
そこまで考えて沙々は我に返った。これ以上自分で古傷をえぐってみたところで何も得る物は無い。シャワーを浴びて今日はさっさと寝ることにした。