優木沙々というイレギュラー   作:SBS

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最終話

 沙々は地に倒れ伏していた。何も見えないが、かろうじて自分が仰向けだと認識できる。全身がかつてないほど重い。耳鳴りが早鐘のように何度も響く。

 記憶の繋がりが曖昧だった。沙々の援護を受けた杏子の槍が、織莉子を貫いたところまでは覚えている。

 それから辺りが光に包まれ、その後の事が思い出せなかった。

 重い瞼をどうにか持ち上げる。目に入ってきたのはまず炎だった。白み始めた空を背にして、炎が燃え盛っている。揺れる炎と影がスローモーションのようだった。

 屋敷の中にいたのにどうして空が見えるのか。そう思い視線を這わせ、そして沙々は納得した。辺りは瓦礫と埃にまみれている。ここは見る影もなく破壊された屋敷の跡だ。

 そこでようやく、沙々は自分に覆いかぶさるように倒れる杏子に気付いた。

 生きているのか死んでいるのか、それは定かでないが少しも動く気配が無い。その背には、真っ赤な服よりもなお赤黒い染みが広がっていた。近くには彼女の槍が転がっている。

 起き上がろうとするがうまくいかない。まず杏子を脇にどけようと思った時、沙々は右腕が動かない事に気付いた。

 改めてそちらに顔を向け、そしてどうにもならないという気持ちに襲われた。

 右腕が巨大なコンクリートの塊に押し潰されている。肘から先が下敷きになり、沙々からは見えなかった。見えなくてよかったのかもしれない。

 しかしこのままでは動くこともできない。腕のありさまに気付いた途端、急に痛みが走り始めた。何とかならないかと辺りを見渡しても、破壊の痕跡が炎に照らされているばかりだ。

 気力が萎えかけた時、視界の隅から足を引きずるようにして進む人影が見えてきた。

 それはほむらだった。全身から血を流し、魔法少女服もボロボロになっている。脇腹に突き刺さったコンクリート片が特に重傷のようで、傷の周りは血でべっとり汚れていた。

 すでに傷だらけの彼女だが、その双眸には強い光が宿っていた。右手には大型拳銃デザートイーグルが握られている。

 やがてほむらは沙々たちに気付いたようだ。しばしこちらを見つめた後、ゆっくりと近づいてくる。

 不意にほむらの背後で瓦礫の山が崩れ、人影が勢いよく立ちあがった。

 織莉子だ。槍で貫かれた胸を朱に染めながらも、ほむらに飛び掛かる。

 傷のせいか反応できず、ほむらは背後から組みつかれた。その細い首に織莉子の両腕が巻き付く。

 このまま首をへし折るつもりらしい。もがくほむらの顔がみるみる真っ赤になっていく。

 ほむらが身体を捻った。織莉子のあばらに肘がめり込む。拘束は緩むがまだ解けない。

 上体がわずかに前傾した後、ほむらの頭頂部後方が織莉子の顔面に叩きつけられた。今度こそ織莉子はのけぞり、その腕から力が抜ける。

 ほむらは織莉子の両腕を掴み、そのまま前方へ投げ飛ばした。織莉子の身体が宙を舞い、勢いよく放り出される。

 ほむらがデザートイーグルを構え直す。

 織莉子は受け身を取って着地した。身体を横たえたまま、勢いよくほむらの足首を蹴り払う。ほむらは仰向けに倒れ、織莉子は全身のばねを使って跳ね起きた。

 織莉子は一歩踏み込んだ。ほむらの脇腹に刺さるコンクリートの破片、それを靴底で踏みつける。

 ほむらが顔を歪め、苦痛に呻いた。織莉子は執拗に、ねじり込むように踏み続けている。そしてデザートイーグルを蹴り飛ばした。

 拳銃が遠くへ飛んでいった後、織莉子はほむらに馬乗りになった。

 胸元を掴み、顔面を勢いよく殴りつける。織莉子の拳が叩きつけられるたびに、ほむらの顔から血が飛び散った。

 ほむらは執拗に、激しく殴られ続けている。もがいて抵抗しようとしていた動きも止まり、一方的に殴られていた。

 このままではほむらは死ぬ、沙々は確信した。

 とにかくここから抜け出さなくてはいけない。しかし、いくら引っ張っても下敷きになった腕は抜けそうになかった。

 こうしている間にもほむらは殴られている。沙々には手駒にした魔女たちとの接続が感じられず、魔力弾を撃つだけの力すら残っていなかった。

 引き抜こうとするたびに激痛が腕に広がった。どうしても抜けない、押し潰しているコンクリートが巨大すぎる。

 どうすれば、と沙々が焦り始めた時だった。自分の上に今も覆いかぶさっている杏子と、彼女の槍が目に留まる。

 すでに答えは導き出されていた。あとは、沙々が実行するかどうか、それだけだ。

 

「杏子さん……私に、勇気を……」

 

 沙々は祈るように呟き、無事な左腕で杏子をそっと脇にどける。彼女は眠るように目を閉じたままだ。今はどうしてやることもできない。

 左手で槍を短く握った。潰された右腕を見る。肘より上、二の腕辺りもすでに千切れかけていた。気の滅入る眺めだが、これならば。

 沙々は躊躇した。

 だが、何かできる可能性を残しているのはもはや自分だけだ。やらなければ全員死に、何もかもが終わる。ほむらが殺されてしまう。

 大きく息を吸い込む。目を反らしたくなるが、外すわけにはいかない。沙々は渾身の力で槍を振り下ろした。

 穂先が半ば千切れた腕に食い込む。それでもなお骨は固く、両断を阻止した。

 沙々は激しく呻いた。このまま気を失ってしまいたい痛みが意識を塗りつぶす。それでも気絶するわけにはいかない。意志の力だけで意識を保つ。

 槍を握る手にさらに力を入れ、そのまま押し込んだ。軋むような音がして、筋肉組織と骨が穂先で押し潰されるように裂けていく。

 沙々はたまらず絶叫した。信じられないほど痛い。そんな痛みを自分で与え続けねばならない。気絶して逃げることもできない。逃げ場のない痛みが意識を支配する。

 なおも、押し込んだ。やがて穂先が地面に当たった感触がする。涙目で見ると、沙々の腕は二の腕の先で完全に両断されていた。

 押し潰された組織が止血の役目を果たしているのか、思ったより出血は少ない。それでも剥き出しの肉と神経は、空気に撫でられるだけで飛び上がりそうなほど痛む。

 ここからが本番だ、と沙々は自分に言い聞かせた。そのためにわざわざ自分の腕をちぎるような真似をしたのだ。

 左手の槍を杖代わりに、両足に渾身の力を込める。身体は鉛のように重い。腕の切断面は気が狂いそうなほど痛む。それでも、沙々はゆっくりと立ち上がった。

 視線を移し、一歩ずつ前へ進む。腕が無くなったことでバランスが崩れ、ひどく歩きづらい。転びそうになるたび、槍で支えてどうにか耐える。

 痛い思いをして、腕まで失った。本当に馬鹿な事をしている、と沙々は自嘲した。

 だがこれは誰に強いられたわけでもない、自分の意志で決めた事。瓦礫の中を這うように進んでいる事を、沙々は後悔していなかった。

 そしてなにより、と思う。

 なにより、ここでほむらを見捨てたらきっと沙々の願いは叶わなくなるだろう。その願いはつまらない意地のようなものだが、それだけが最後の希望でもあった。

 だから沙々は歩く。

 近づくにつれて、織莉子の罵声が聞こえてきた。血塗れの拳でほむらを殴りながら、何度も何度も彼女を呪詛している。

 

「お前が世界を、人の世を弄んだせいで、私は恐ろしい未来を何度も何度も見続けた、見続けなければならなかった! ……お前だけはここで殺す、そうすればあんなものを見なくて済む!」

 

 その間もほむらは休むことなく殴られ続けていた。もはや何か答えることもできないらしい。

 織莉子は馬乗りの体勢を保ち、ひたすら殴打を繰り返している。その背後に、沙々はようやく迫った。左手には逆手に握った槍がある。

 しかし、織莉子は振り返るといきなり飛び掛かってきた。

 そのままぶつかり、沙々は織莉子ともつれ合うようにして地面を転がる。手を離れた槍が遠ざかっていく。

 

「邪魔よ……!」

 

 織莉子が吐き捨てるように言う。

 直後、沙々の全身に電流のように激痛が走った。右腕――正確には右腕があった辺りから痛みは広がっている。沙々は大声を上げ、激しくのたうちまわった。

 織莉子が右腕の切断面を握りしめている。引きちぎられ、敏感になり過ぎた神経が乱雑に掴まれ、かき回された。

 とうとう沙々は心が折れそうになった。視界が揺らぎ、意識が遠くなる。力など入らなかった。

 織莉子は両手を沙々の喉に押し当て、体重と共に圧し掛かってきた。万力のような力で、織莉子の手が沙々の首を締め上げる。息ができない。早くも酸素の供給が滞り始めている。

 しかしその刺激で、沙々はいくらか意識が鮮明になった。自由な左手でもがくように暴れる。

 指先が固い物に触れた。目を開くと、沙々の指は織莉子のソウルジェムを触っていた。 いつか、ほむらが言っていた事が蘇る――ソウルジェムは魔法少女そのもの。ならば、これを破壊すれば……。

 

「何を、触っている……!」

 

 織莉子がその動きに気付いた。勢いよく手を払われる。沙々の左腕は虚しく地面に横たえられた。

 再び右腕の近くに激痛が走った。先程とは比べ物にならない、信じがたい痛み。悲鳴を上げて暴れるが、それでも痛みは収まらない。

 もがく沙々の目に、切断面に織莉子の指が突き立てられる様子が映った。五本の指が傷口に食い込み、乱暴にかき回されている。

 意識が遠くなった。痛みの情報量があまりに多すぎる。

 暗くなり始めた視界で、織莉子は沙々に馬乗りになった。拳を交互に振り下ろし、顔面を殴っている。

 だが痛みはすでに溢れてしまったのか、顔が揺さぶられるような感触しかなかった。もう抗う気力など残っていない。

 自分にしてはよくやっただろうか、と沙々は思った。急激に訪れる眠気に従い、ゆっくりと瞼を閉じ始める。

 半開きの目に映る織莉子が、大きくぐらついた。その背にぶつかったほむらが、何事か叫んでいる。

 織莉子は血を吐きながらも振り向き、呪いを吐いた。

 

「おのれ……暁美ほむら、まだ……!」

 

 振りほどこうと織莉子は暴れるが、ほむらはその背にしがみつき離れようとしない。織莉子の注意は完全にほむらに向いていた。

 沙々の左腕は、思いのほか素直に動いた。ブローチのように首元に付いているソウルジェムを、力任せにむしり取る。

 織莉子が驚愕、いや恐怖の表情でこちらを見た。

 だが、もう遅い。

 沙々は織莉子のソウルジェムを、転がっているコンクリート片に叩きつけた。呆気なく、ガラス玉のように砕け散る。

 その瞬間を、沙々は不思議な気持ちで見届けていた。手の中で命が砕け、失われる。それは何故か初めてのような気がしなかった。

 織莉子の目の焦点が合わなくなった。ややあって、糸の切れた人形のようにその身が力を失う。

 ほむらに押された織莉子の身体は、その場で横倒しになった。背には軍用ナイフが深々と突き刺さっている。

 

 

 

 夜明けが近い。美国邸を飲み込んだ炎も今はほぼ収まり、静寂に包まれていた。

 空の青は、かすんでしまった目にもはっきりと見える。きっと今日もいい天気に違いない、そう思うと嬉しくなった。

 沙々はその頭をほむらの膝枕に乗せ、横たわっていた。不思議と、痛みも苦しみもない。ただ、眠気だけがとめどなく波のようにやってくる。胸に乗せた左手では、黒く濁ったソウルジェムが弱々しく明滅していた。

 ほむらはこちらを見下ろし、何も言わずじっと見つめている。髪が鼻先に触れてくすぐったかった。

 ほむらの傍らでは、まどかが心配そうに沙々を見ていた。特に怪我らしい怪我はないようだ。

 

「まどかさん、無事……だったんですね。よかった、じゃないですか……」

 

 やっと振り絞った沙々の声は消え入りそうだった。喉や腹に力が入らない。

 それでもほむらには聞こえたようだ。彼女は黙って頷いている。

 それだけでも沙々は報われたような気持ちになった。この戦いは無駄ではなかった、少なくともほむらは目的を果たしている。

 ここに姿が見えない者がいる。沙々はそれが気がかりだった。

 

「杏子さんは……?」

 

 ほむらは、今度は首を横に振った。

 沙々もまた首を小さく横に振り、微かに笑って言った。

 

「杏子さん……バカ、ですねぇ……私なんか、放っておけば……」

 

 自然と涙が溢れてくる。自分の事しか考えていないと言わんばかりのポーズを取っていた杏子が、沙々を庇って死んだ。

 沙々はその死が悲しかった。自分には誰かの死を悼む気持ちなど無いと思っていたのに、今は悲しくて仕方がない。

 死。

 沙々はもうすぐ自分も死ぬことを理解していた。傷は重く、回復させるにはあまりに消耗しすぎている。

 しかし、胸の内は不思議なくらい穏やかだった。

 理由は沙々にもわかっている。ロクでもない人生だったが、こうして最期を看取ってくれる友ができた。

 そんな友の為に沙々は死ねる。考えていたよりずっとまともな最期だった。

 沙々はこうして膝枕してくれる友を見上げ、言った。

 

「ほむらさんは、信じたとおりに進めば……それでいい」

「ええ。……沙々、私は忘れない。あなたという仲間が、友達がいたことを。絶対に忘れないから」

「嬉しい、なあ……私なんかに……」

 

 沙々は嬉しくて笑った。

 それなのに涙はますます溢れてくる。泣いているのに、心は満たされていた。怖いことなんて何もない。

 自分のような人間が、陽の当たる場所へ戻ることなどできるわけがない。沙々はそれをわかっていた。

 そして今、死を迎えようとしている。だがそれは沙々が思い描いていた、孤独なものではなかった。

 前が見えなくなってきた。それでももう一度、ほむらを見つめて言う。

 

「一緒にいて、楽しかった。あなたの……仲間のために死ねる。悪くない、気分ですよ……」

 

 沙々を見つめるほむらの眼差しは優しかった。そんな顔ができるなら、その思いはきっとまどかにも届くに違いない。

 東の空が橙色に輝いていた。地平線に日が昇る。陽光に照らされて輝く大地は、沙々がもう一度見たいと思った景色そのものだった。

 沙々は、心から満足して左手に力を込めた。

 

 

 

 ほむらは傷つき、重くなった身体で一人立っていた。

 空は暗く、吹き荒れる雨風は際限なく地上を破壊し続けている。

 高台から見下ろしているのは、壊滅していく見滝原の街だった。ワルプルギスの夜は今もなおその猛威を振るい続けている。

 織莉子との戦いで消耗し仲間を失ったほむらでは、まるで歯が立たなかった。

 武器は全て底を尽き、魔力もほとんど残っていない。今のほむらにできるのはこうして滅びゆく見滝原を眺めること、そして過去へ戻ることだけだった。

 一際目立つ、大きな体育館が倒壊していく。あそこは避難所で、中にはまどかとその家族がいる。

 ほむらは何も変えることができなかった。

 まどかが、そして多くの人間が濁流と瓦礫に飲まれて消えていく。その死と破壊が、ほむらの胸に刺すように刻まれる。

 この光景を忘れてはならない。忘れることなどできない。今ここで起きているのは、すべて紛れもない現実なのだ。

 美国織莉子の非難は的を射ている――ほむらはそう思った。

 何度も何度も無関係の人間を巻き込み、犠牲にする。破滅する世界を見捨て、次の世界に逃げ込む。

 ほむらと関わった人間――共に戦った仲間の思いも何もかも無為にして、無かった事にしてやり直す。実際は無かった事になどできないというのに。

 優木沙々と出会うのは今回が初めてだった。数多の時間軸を繰り返すうちに、彼女のようなイレギュラーが発生することもある。力を貸してくれることもある。

 だが、ほむらはそれすらも己の無力によって無意味にしてしまった。沙々とは二度と出会うことすらないかもしれない。

 友と思えた相手との永遠の別れ。

 それは繰り返される時間の旅で擦り切れた心にとっても、強い痛みだった。

 

「罰は、受ける」

 

 ほむらは雲に覆われた空を見上げ、一人呟いた。

 まどかを救ったその時には、きっと相応しい報いが待っているに違いない。いつか来るその日を思い、ほむらは盾の仕掛けを動かした。

 

 

 

 


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