軋む身体を捻り、踏み込みながら長剣を突き出す。風を裂く切っ先はしかし、手応えなく虚空を突いた。筋肉の伸縮に全身の傷が悲鳴を上げる。
佐倉杏子の嘲笑う顔が見えた――そう思った次の瞬間、みぞおちに重い衝撃が突き刺さった。
右足からの蹴りだ。両足の支えを失った身体が勢いよく吹き飛ばされる。背中からコンクリートの壁にぶつかり、息が止まった。ずり落ちるようにして路面に倒れ伏す。
「さやかちゃん!」
鹿目まどかの悲鳴が耳鳴りに邪魔されて、やけに遠い。喉の奥からこみ上げる不快な吐き気は抑え込んだが、激しい空咳はこらえられなかった。
それでも美樹さやかは剣を握る手に力を入れ直し、震える膝でどうにか立ち上がった。
気を引き締め直すとぼやけた視界が鮮明になり、薄汚れた路地裏の様子がはっきりと見える。
杏子は薄笑いを浮かべたまま槍を弄び、すぐに仕掛けてくる様子はない。さやかを未熟者と見て侮っているのだ。
その遥か後方では杏子が作った網状の結界越しに、まどかが泣きそうな顔で戦いの成り行きを見守っている。
向ける感情こそ違うが、まどかも杏子もさやかが敗れると思っている。それだけは一致していた。悔しさに思わず歯ぎしりする。
杏子はベテランを自称するだけあって強かった。魔法少女として今日まで生き延びてきた彼女の言葉には、一片の真理があるのも事実だろう。
理解はできる。だがさやかは許すことなどできなかった。巴マミ――敬愛する師、その生き様を否定する佐倉杏子という私欲の魔法少女を。
さやかの中に煌めくように鮮烈な印象を残し、正義の道を示した憧れの先輩。その志を穢す全てを許せない。
長剣を正眼に構え、杏子を睨みつける。
杏子の顔から笑みが消えた。明確な殺意を向け、槍を構え直しながら彼女は言う。
「なに、まだやろうっての? 今度こそあんた死ぬよ、巴マミは引き際ってものも教えてくれなかったのかい?」
「……黙れ」
「もっとも、その辺がなってねえから奴もくたばっちまったんだろうけど」
「黙れえ!」
怒りに任せ、さやかは猛然と飛び出した。マミを愚弄するその口を一秒でも早く閉ざしたい。それだけだった。
しかし身を翻した杏子の姿が視界から消える。
勢い余って前のめりになったさやかの背に、衝撃と激痛が走った。槍の柄で背骨を殴られ、呻き声は路面との口づけで押し潰される。
「考えがなってなけりゃ、動きもまるで駄目だな。弟子だか跡継ぎだか知らねえけど、こんなのしかいないんじゃマミも浮かばれねえな」
「黙れ……お前なんかが、マミさんのことを口にするな!」
さやかは鉄の味の唾を吐き出して起き上がった。振り返りざまに斬りかかる。杏子はそれを予期していたように飛び退き、斬撃は空を斬った。
振り切った後にバランスを保てずふらついた。気迫こそ衰えていないが、身体がついていかない。全身が痛みに震え、膝が笑っていた。
「もうやめて! それ以上続けたらさやかちゃんが死んじゃう!」
まどかがもはや泣き叫ぶような声を上げている。
あの日と同じだ、とさやかは思った。
魔女の第二形態に敗れてマミが命を落とし、仇を討つためさやかが特攻同然の攻撃を繰り返していた時、まどかは同じようなことを叫んでいた。
杏子は離れた間合いのままで槍を振り回しながら、嘲るように言った。
「お友達はああ言ってるよ、そうした方があんたのためだとあたしも思うけど?」
「まどかは関係ない! あたしはもう退かない、マミさんの仇からもマミさんを侮辱する奴からも絶対に逃げたりしない!」
「……そうかい、馬鹿な奴だ」
ぞっとするように冷めた声で呟くや否や、杏子は大きく跳躍した。落下の勢いに体重を乗せ、必殺の突きを繰り出すのだろう。
身体は鉛のように重く、あの攻撃をかわす身のこなしはとてもできない。杏子の姿がどんどん視界に広がっていく。さやかは胸の内でマミに詫びた。
さやかの目に映る眺めが突然切り替わった。
殺風景な路地裏であることに変わりはないが、明らかに先程とは物の位置関係などが違う。目前まで迫っていた杏子の姿も無い。
戸惑うさやかの眼前で長い黒髪が揺れた。シャンプーのほのかな匂いが鼻孔をくすぐる。いつからそこにいたのか、さやかを横から抱くように支える者の姿があった。
長い黒髪と透けるような肌を持つ少女、さやかはその者を知っていた。
「転校生!?」
こちらに触れた手を思わず払いのけてさやかは叫んだ。
つい先日やってきた転校生、暁美ほむら。容姿端麗にして文武両道の優等生――そして魔法少女。それがさやかの知る暁美ほむらの全てだった。
「なんだてめえは、何をしやがった!?」
だいぶ離れた所から杏子の怒鳴り声が聞こえてくる。必中を期した一撃を避けられ、困惑しているようだ。
その声でさやかも我に返った。
同時に横槍を入れたであろうほむらに対する怒りが込み上げてくる。得体の知れない力で杏子の攻撃から逃がしたのであろうが、そんなことを頼んだ覚えはなかった。
「邪魔しないでよ、まだ決着はついてない!」
「この期に及んで、力量差を理解できないというの……?」
「うるさい!」
ほむらを無視してさやかは駆け出した。
冷め切った声、諦観めいた眼差し。ほむらの全てがさやかの神経を逆撫でする。
そしてマミとも対立していたとなれば、さやかにとって彼女の言葉に耳を貸す理由など皆無だった。
わずかな間があって、後頭部に鈍い衝撃が走った。幾ばくかの熱が広がって視界が明滅する。さやかは肉体の制御を失い、路上へ倒れ込んだ。
なんだあれは――青い魔法少女が倒れる姿を見て、優木沙々はそう思った。
曲がり角から覗き見た先は奇妙な静寂に包まれている。
気絶した少女を挟んで黒の魔法少女と対峙する赤い魔法少女は、予期せぬ闖入者に戸惑っているようだ。身構えたまますぐには動こうとしない。
さもあろうと沙々は思った。突然――本当に突然現れて青い魔法少女を助けたかと思うと、今度は助けたはずの相手を殴り倒したのだ。
正確に言えば『殴り倒したように』見えた。沙々は攻撃の瞬間を目で捉えることができず、振り切った腕の状態で殴り倒したと推測しているに過ぎない。
攻撃の正体が掴めずにいるのは、あの赤い魔法少女も同じなのではないか。だから経験豊富であろう彼女が、警戒を露わにして仕掛けようとしない。
いつの間にかこの場に現れたことといい、黒の魔法少女からは危険なものが感じられる。
沙々は撤退を決意した。そもそも魔女探しの途中で魔法少女同士の戦闘に偶然遭遇しただけで、彼女たちをどうこうするのは本来の目的ではない。
潰し合いで消耗したもう一人を倒し漁夫の利を得られれば――そう思い物陰から戦いの成り行きを見守っていたが、こうなってはそれももはやこれまでだった。
踵を返した沙々の背に鋭い声が投げかけられる。
「待ちな! いるのはわかってるんだ、出てこい。今すぐだ」
赤い魔法少女だった。それも当てずっぽうではなく、明らかに沙々のいる辺りに向かって怒鳴っている。
肌が粟立ち、冷たい汗の感触が腋を伝う。乱れる鼓動をどうにか抑えようと無駄な努力をしながら、沙々はどうすべきか自問した。
逃げるか言う通りに出ていくか。
しかし赤い魔法少女の戦いぶりを見た限りでは、とても逃げ切れるとは思えなかった。黒の魔法少女がどう動くかも読めない。下手に逃げて背後から攻撃される事態は避けたかった。
ひと時の逡巡の後、沙々はゆっくりと角から歩み出た。
両手を肩の高さまで上げ、敵意が無いことを示す。それでも二人の魔法少女は油断無い視線をこちらへ向けている。
やがて黒の魔法少女が言った。
「あなたも観客に気付いていたのね、佐倉杏子」
「あんたは……今までに会った事は?」
佐倉杏子と呼ばれた赤い魔法少女が狼狽を露わにした。しかし黒の魔法少女は涼しい顔で髪をかき上げるだけで、何も答えようとはしない。
やがて彼女たちまで五歩程度の距離で沙々は立ち止まった。強張りそうな表情筋にどうにか言う事を聞かせ、怯えた小動物のような顔つきを作る。
表情同様に、わざと震えさせた声で沙々は言った。
「あ、あの……私に何のご用ですか?」
「それはこっちが聞きたいわね。あんなところに隠れて、何をしていたのかしら?」
黒い魔法少女の声は冷たく、取り付く島が無い印象を与えるものだった。
沙々が答えるよりも先に佐倉杏子が吐き捨てるように言った。
「こいつも魔法少女だ。あたしらがやり合うに任せて残った奴を潰す……どうせそんなところだろうよ」
「ちが、違いますぅ……!」
「どうだかね」
沙々は精一杯の媚びを売るが、この二人には効き目が無いようだ。猜疑と警戒に満ちた眼差しが沙々に突き刺さる。特に黒い魔法少女のそれは背筋が寒くなるほど鋭かった。
それでも沙々には彼女たちが向ける感情が敵意に変わらないよう努める、それ以外の選択肢は無かった。今ここで戦うのはあまりに分が悪い。
「魔女を探していたら、たまたまこの人たちが戦っているのを見つけて……それでどうなっちゃうのかと思って、見ていただけです。本当です、信じてくださいよ……」
怯えた無害な少女を演じて沙々は言った。
演じてはいるが、その一方でこの状況を脅威と認識している自分も確かに存在する。どこまでが本心でどこからが演技なのか、自分でもあやふやだった。
そして嘘はついていない。魔女探しをしていたのは本当の事で、この戦闘に遭遇したのも偶然である。あわよくば邪魔者どもを一掃しようとは考えていたが、それはまた別の話だ。
しばしの沈黙の後、杏子が大きく息を吐き出して言った。
「まあいいさ、今はそういう事にしておいてやるよ。ここでやり合えばどうなるかくらい、分かってるだろうしな」
同時に通路の一方を塞いでいた、赤い光の結界が霧散する。
障害物が無くなると、隔離されていた少女が駆け寄ってきて悲鳴じみた声を上げた。
「さやかちゃん! さやかちゃん大丈夫!?」
少女は青い魔法少女をさやかと呼び、今にも泣きそうな顔で揺さぶっている。恐らくただの人間だろう。こんなところまでついて来るとは友達想いな事だと沙々は思った。
ふと、黒の魔法少女と目が合う。
彼女もまた友達想いのこの娘を見ていたようだ。その眼差しは幾ばくか柔らかくなっていたが、沙々の視線に気付くと刺し殺すような鋭さに戻ってしまう。
眼光にたじろぎ、沙々はそれをかわすようにどうでもいい質問をした。
「そ、それで……ええっと、あなたは……?」
「……人に質問する時は、まず自分が名乗ってからにすべきじゃないかしら」
「私は優木沙々、最近この見滝原に来たばかりの魔法少女です。……ほ、本当ですよ」
「そう。……私は暁美ほむら、覚えてくれてもいいし忘れてしまっても構わない」
「暁美ほむら……覚えがねえな……」
傍らで聞いていた杏子が苦虫を噛み潰したような顔で呟く。見知らぬ相手に一方的に名を知られていて気味が悪いのだろう。
一方で沙々はある事に気付いた。暁美ほむらは佐倉杏子を知っていたが、沙々の事は知らなかった。知っていれば杏子にしたように名前を言い当て、動揺を誘おうと仕向けたに違いない。
しかしそれが何を意味するのか、そこまでは沙々にもわからなかった。たまたま杏子を知っていただけかもしれない。
やがてほむらは杏子を、そして沙々を値踏みするように見た後で言った。
「こんなところで決闘の真似事、無意味だとは思わないかしら?」
「そうかい、そういうあんたは何しにきたのさ」
「魔力を無駄使いする馬鹿者どもの仲裁、かしらね」
挑みかかるような杏子に対し、ほむらの目つきは一層鋭くなる。
自分に向けられたものではないのに、沙々は思わず後ずさりそうになった。その瞳はあくまで静かだが、覗き込めば飲み込まれそうな程に暗く深い。
そんな視線をまともに受けて気勢を削がれたのか、杏子はこの場に不似合いなほど軽い調子で言った。
「やめだやめだ、どうにも手の内が見えねえ。ここは退かせてもらうよ」
「賢明ね」
ほむらの言葉も終わらぬうちに、杏子はアスファルトを蹴って大きく飛び退いた。そのまま跳ねるように駆けてあっという間に遠ざかっていく。
「ほむらちゃん、助けてくれたの……?」
杏子の姿が見えなくなった頃、さやかの傍らの少女が震える声で言った。
ほむらに対する怯えもいくらか感じ取れる。仲間というわけでもないのだろうかと沙々は訝った。
対するほむらはわずかに顔をしかめるだけで何も言わない。
少女を見るその目からは、非難とも懊悩ともつかぬものが感じられた。穏やかではないが、暁美ほむらから初めて感情らしいものが読み取れた。
やがてほむらは少女を無視し、沙々へ向き直って言った。一瞬覗いた感情はすでに消え、ひどく無感動な調子である。
「優木沙々、あなたも退きなさい。この場にあなたの欲しいものなんて何も無い」
「えっ? ええっと……」
口ごもって見せながら、沙々は素早く視線を這わせた。その双眸がさやかとあの少女を捉える。
確かに戦闘は終わり、魔女の結界もここには存在しない。だがほむらの態度には引っかかるものがあった。まるで一刻も早く沙々をここから遠ざけたいように思える。さらに言えばあの少女たちから遠くへ、である。
見滝原へ来て日が浅い沙々は、縄張り支配の足がかりを必要としていた。どんな形でもいい、付け入る隙が欲しい。
彼女はそれをこの暁美ほむらに見定めた。
ほむらの視線にたじろいだ振りをする一方で、気持ちを落ちつけ集中を高める。精神のある領域へ意識の手を伸ばし、『契約』によって得た魔法の力を引き出す。この間、一秒にも満たない。
視神経を伝った熱が双眸に宿る。沙々がその瞳をほむらへ向けようとした、その時だった。
空気を裂くような擦過音がした。鋭い風が頬を撫で、髪を跳ね上げて通り過ぎていく。
ややあって、液体が頬を伝う感触があった。触れて確かめた指先は鮮血で赤く汚れている。
沙々はほむらが自分へ向けている物を認識し、すでに形を持っていた内なる魔力が維持できず崩れ去るのを感じた。
ほむらが冷たく言い放つ。
「次は当てる」
突き出した右腕の先には、サウンドサプレッサー付きの自動拳銃が握られていた。それも魔法少女が魔力で生成したような銃とは違う。映画などでよく見かけるベレッタM9ピストルだった。
今になって右頬の傷が熱を持って疼き始める。
背筋が寒くなりながらも、一方で沙々は不可解に思った。今のはいったいどれだけの早撃ちなのか。銃を抜く瞬間も腕を伸ばす動作も、一切見ていない。
しかし考えるのは後だった。魔法を使うほんのごくわずかな挙動すら見逃さない、それほどに警戒している者をこれ以上相手にするのは得策ではない。
沙々は半ば本気で怯えながら言った。
「そ、そんな事しなくても帰りますよー……怖い顔しないでください」
一歩ずつ後退しながらも、もう一度だけ少女たちを見る。
少女が寄り添うさやかは未だ魔法少女姿のままで気を失っている。その腹部で青いソウルジェムが静かに輝き続けていた。
ほむらの口調が急かすように険しくなった。
「さあ行きなさい、早く」
「わ……わかってますって」
これ以上何かすれば本当に射殺される。そう直感した沙々はゆっくりとその場から立ち去った。