「ふーっ。満足満足」
映画館――新宿バルト9を出た良央は、思いきっり腕を伸ばす。
隣のニニィは、相変わらず地味な服と帽子を着用している。
「ニニィはどうだった? 面白かったか?」
「はい。面白かったです」
バルト9の近くには、新宿三丁目駅へ続く階段がある。
二人は寄り道せず、その階段を降り始めた。新宿三丁目から丸ノ内線に乗れば、十分もかからずに中野坂上に到着する。
今日は、二人で一緒に映画を見に行くことにした。
見たのは最近、ネットで秘かに話題となっている外国映画である。
ある家に老人と小さな女の子が住んでおり、老人が病気で余命が一年と宣告されてから物語が始まる。老人と女の子との間に血は繋がっていない。
ストーリーとしては、これからの未来に不安を抱く女の子を老人が励ましていき、最後は女の子に見守られながら亡くなってしまう流れになる。
これだけだと、単なる感動ストーリーで終わってしまうが、ストーリーの合間に血の繋がっていない二人がどうして一緒に住むようになったのかが、絶妙なタイミングで語られており、しっかりとした構成でじわじわと話題になった作品である。
丸ノ内線のホームに入った二人は、そのまま電車が来るのを待つ。
「おじいさん、本当に良い人だったな。女の子が新しい家に行くことになった時、『しっかりお手伝いをするんだぞ』と言った場面は特に良かったな」
「はい……」
丸ノ内線が到着したので、二人はそれに乗る。
良い映画なのは間違いないが、内容が大人向けだったので、行く前はこれで良いのか結構迷った。やっぱりニニィくらいの歳なら、派手な演出の映画が好みなんじゃないのかと思い、当初は往年の人気マンガを実写化した映画にしようかと思っていた。
しかし、ネットのレビューを確認してみると、ストーリーがあまりに原作から離れてお粗末な出来だったらしく、最終的にやめることにした。
やはり、物語の生命線はストーリーにある。
映画のことで話しているうちに、あっという間に二人は家に到着した。
時計の針は十五時を指しており、まだ夕食まで時間がある。
それを確認したニニィは、秋用の上着を再び着た。
「買い物に行ってきます」
「ああ、いってらっしゃい」
ニニィが軽く手を振って、そそくさと部屋を出て行った。
今日の夕食は何が出るんだろう、と思いながら良央は映画館で買ってきたパンフレットを眺める。ニニィとの生活が始まって以来、食事の時間がとても楽しみになった。
とにかく、彼女の作る料理は美味いのだ。
和食、洋食、中華、基本的なメニューなら何でも作ることができる。
先日はデザートでニニィ特製のプリンが振る舞われ、あまりのうまさに衝撃を受けてしまった。味は濃厚で、なめらかな食感と共に口の中でとろけていく感覚に、思わず鳥肌が立ってしまった。たまに知り合いからお店のプリンをもらう時があるが、それに匹敵するくらいのうまさだった。
――どうやったら、あんなにうまい料理が作れるんだろうな。
ふと、良央の視線が小テーブルに移る。今はニニィの勉強用として使われているが、その研究書の中に混じって『レシピ』と表紙に書かれたノートに目が留まった。
パンフレットを閉じて、良央はテーブルに近づいてそのノートを取る。
よく見ると、『レシピ』の下に『ナンバー5』と細いボールペンで書かれてあった。つまり、このナンバー以外のレシピ本もあることになる。
中を開くと、予想通りいろんな料理のレシピが細かく記されてあった。少し茶色に変色しているので、書かれてからそれなりに時間が経っているのだろう。
よく見てみると、筆跡が明らかにニニィの字ではなかった。テーブルに開かれたまま置いてある研究ノートとは異なり、かなり角ばった字で書かれていたからだ。
――誰かから、このレシピ本を受け取ったのか?
良央はノートを元に戻す。ニニィに誰からレシピ本を受け取ったのか聞きたかったが、そうなると、こっそりノートを見たことも打ち明けなければならない。
そう考えると、然るべきタイミングで尋ねた方がいいかもしれない。
良央は先ほどの映画のパンフレットを手に取ると、再び続きを読み始めた。
※
ニニィが帰ってくると、一枚の封筒を良央に渡してきた。
裏には源二郎の名前が記されており、良央は一瞬ドキッとしてしまう。
「大叔父さんから俺宛てにか」
中身を開けてみると、源二郎直筆の三枚の手紙が入っていた。
内容に簡単に要約すると、ニニィのことを頼んだという旨と、これから一ヶ月おきに良央の口座にお金が振り込まれる旨と、緊急の連絡先の番号が記されていた。
一応、ニニィにも見られる場合を考慮してか、病気については全く触れていなかった。その代わり、海外の長期滞在に関することが細かく書かれてあった。真面目な性格の源二郎のことだから、出張が本当のことだと思わせるためにわざわざ細かい嘘をついたのだろう。
すると、手紙を読んだニニィが困ったように独り言を漏らした。
「おじいちゃんったら……。わざわざここまで書かなくていいのに」
良央にとって、その言葉は聞き捨てならなかった。
「ニニィ。今、なんて言った?」
ニニィは目を瞬かせる。
「ここまで書かなくていいって、どういうことだ?」良央は続ける。
「あっ。え、ええと……」
明らかに動揺している様子である。
それを見て、良央の中である推測が生まれた。
ニニィはすでに源二郎の身に何があったのか、薄々と察していたのかもしれない。ニニィは医療一家の末裔で、病気についても研究しているので、この可能性は高いだろう。
「知っていたのか?」
やや遠回しに言ってみると、ニニィは驚きながらも頷いた。
「良央さんも、知っていたんですか?」
これで確定した良央は、正直に打ち明けることにした。
「大叔父さんが病気を患ってることで間違いないよな? 初めてニニィに会った次の日に、ひっそりと俺に打ち明けてくれたんだ」
「そうだったんですか……」
「やっぱり、ここ最近の大叔父さんの様子はおかしかったのか?」
ニニィはこくりと頷いた。
「でも、おじいちゃんが病気だと分かったのは、柳原花蓮さんという方が私にそのことを教えてくれたからなんです」
今度は良央が驚く番だった。
「教えてくれた?」
「はい。私が良央さんの家にやってきた翌日にその方が来まして、私におじいちゃんが病気だということを教えてくれました」
「名前は柳原花蓮といったな。知り合いなのか?」
「いえ、私は初めて見る方でした……」
「大叔父さんの知り合いってわけか?」
「そう言ってました」
「なるほどな」
彼女がいったい何者なのか、良央は気になってきた。
「あの、このことはおじいちゃんには内緒でお願いします」
ここでニニィが恐る恐るといった感じで口を開いた。
「おじいちゃんはまだ、何も知らないと思ってますから」
「ああ、分かった。気をつけるよ」
そうでないと、源二郎が居酒屋で話した意味が無くなってしまう。源二郎はニニィに病気のことを知られたくないために、わざわざ良央を居酒屋に呼んだのだ。
ここでニニィが立ち上がると、スーパーのビニール袋を持つ。
いくつかの食材を台所に置くと、いつも使っているエプロンを着用し始めた。
「もう夕食の支度をするのか?」
「今日は、ちょっと仕込みに時間が掛かりますので……」
微笑しながら返すニニィだが、その顔色は悪かった。
映画のパンフレットを読みながらこっそり彼女の様子をうかがったが、結構忙しそうで、夕食の準備の合間を縫って良央のワイシャツにアイロンをかけたり、洗濯物を畳んだりしていた。今日は午後まで映画で潰れてしまったので、その皺寄せがやってきた感じだ。
相変わらず顔色は悪いままだったので、良央は尋ねた。
「大変そうだけど大丈夫か?」
「あっ、はい。今のところは」
「何か手伝ってやろうか?」
「いえ、これくらいは私一人で十分です」
そう答えて、燃えるゴミの袋を持って外に出ていった。
※
夕食中、ふと良央は思ったことを口にしてみた。
「ニニィ。大叔父さんの病気のことだけど」
魚の骨を取っていたニニィが箸を止める。今日は和食を中心にしたメニューだった。
「詳しいことは、その柳原さんという人から聞いたのか?」
「はい。最近になって見つかった難病だと聞いてます」
「うん。そうだな」
「おじいちゃん、やっぱり死んじゃうんでしょうか?」
ぴん、と場の雰囲気が変わったような気がした。
良央は味噌汁をすする。
「まだすぐに死ぬと決まったわけじゃないよ。医者から余命宣告されても長生きする人だっているし、もしかしたら途中で治療法ができたり、進行を抑える薬が開発される可能性だってあるかもしれないんだ。そう簡単にあきらめちゃいけないと思う」
「でも、今日の映画のおじいちゃんはすぐに死んじゃいました」
うっ、と良央は言葉に詰まってしまう。
あの映画では、医師の宣言通り一年で老人は亡くなってしまった。
思い返してみれば、舞台設定が源二郎とニニィの関係によく似ている。
それに気付いたのは、先ほど映画のパンフレットを眺めている時だった。ただ、あの時はニニィは源二郎の病気のことを知らないので、大丈夫だろうと思い込んでしまったのだ。
ニニィは箸を置く。その手は小刻みに震えていた。
「ごめんなさい」
「なんでニニィが謝るんだよ」
「せっかく良央さんが映画に連れてってくれたのに、こんな自分勝手なことで……」
「いや、俺もちょっと配慮が足りなかったかもしれない」
ここで良央も箸を置くと、本棚に視線を移した。
あの本棚には薬学に関する研究書が、隅から隅まで納められている。
「この前、難病についての研究をしているって言ってたよな」
「はい」
「俺の推測なんだけど、その病気って大叔父さんが発症している病気なのか?」
びくん、とニニィは反応すると、首を縦に振った。
「……そうです。あの日から研究を始めました」
「専門家じゃない俺が言うのも難だけど、それってこの部屋で研究書をひたすらめくっているだけでうまくいくものなのか?」
ニニィはうつむいたまま黙り込んでしまったので、すぐさま良央は続けた。
「いや、別に責めてるわけじゃないよ。遠くの病院で頑張ってる大叔父さんのために、何かできることはないかって思って研究を始めたんだろ。その気持ちはすごく偉いと思う」
「いえ、良央さんの言う通りだと思います」
ニニィは両手をぎゅっと握る。
「私一人がここで頑張ったところで無駄なんじゃないかって」
ニニィの言う通り、十四歳の女の子ができることは高が知れている。良央も詳しいわけではないが、新薬の開発には途方もない時間と費用が必要になるのだ。
良央はコップのお茶を飲む。
「じゃあ、もうこのまま大叔父さんは死ぬしかないのかな」
「そんなのは嫌です……」
「嫌だったら、このまま勉強を続けた方がいいと俺は思う」
ニニィは顔を上げて、良央と目を合わせる。
「もうちょっと前向きに考えてみよう。大叔父さんの五年生存率が五十パーセントだったら、残りの五十パーセントは五年以上――もしかしたら十年以上生きる可能性だってあるじゃん。今、大叔父さんはちゃんとした病院で本格的な治療を受けているんだ。そう簡単に死ぬわけがない。もし、大叔父さんが五年でも十年でも長く生きてくれたら、その間にニニィや他の研究者たちが治療法を見つけられるかもしれないだろ」
きょとんとしているニニィに対し、良央は続ける。
「ニニィは高校もしくは大学を卒業したら、創薬の研究とかができるところに行きたいのか?」
「はい。できれば……行きたいです」
「だったら、今からいろいろ勉強しておいてもいいんじゃないかな。今すぐ役に立つ知識じゃないかもしれないけど、もしかしたら働き始めた時に役に立つかもしれない。ニニィが難病に効く薬を作ってくれるまで、大叔父さんが生きてくれることを信じてさ」
良央は再び箸を持つと、切り干し大根を食べる。味は言うまでもない。
食べながら、良央は鼻で大きく息を吐いた。
「……って、専門的な知識のない俺が言っても、全く説得力がないよな」
「いえ、そんなことないです。ありがとうございます」
良央は魚を食べるが、しょうゆを付け忘れてしまったので思わず顔をしかめた。
「ニニィの目から見て、大叔父さんはどんな感じの人なの?」
「とても真面目な人です。いつも書斎にこもって本を読んでました」
「どんな本を読んでたの?」魚にしょうゆを付けながら良央が問う。
「経営に関する専門書とか、時代小説とか」
「なんか、喫茶店で会った時のイメージそのまんまだな」
「でも、とっても優しい人ですよ」
「そうなのか?」
「いつも私の料理を『おいしい』と言ってくれたり……。とても優しい人です」
それを聞いて、良央は箸を動かす手を止める。
この瞬間、居酒屋で源二郎が良央に頭を下げている時のことを思い出した。
あの時、源二郎は「ニニィに何一つしてやれなかった」と言っていたが、気付かないところで、ちゃんと彼女に与えていたじゃないかと思った。
良央はふっと笑った。
「そっか。優しい大叔父さんのためにも、ちゃんと病気の勉強を頑張らないとな」
「はい。片付けが終わりましたら、やるつもりです」
「おお、そうか」
何気なく返した良央だったが、片付けという言葉を聞いて、ふと思ったことがあった。
――片付けが終わって、勉強をするのは何時からだろう?
良央は、向かい側で黙々と食べているニニィを眺める。
彼女がこの部屋に来て一ヶ月が経ったか、これまで家のことはニニィに全て任せてきた。
風呂や居間は彼が何をすることもなく掃除をしてくれて、食事についても毎日三食しっかり作られており、しかもその全てが美味しいときたものだ。
料理や掃除、買い物、洗濯――。
家の仕事は意外と時間を喰ってしまう。
おまけにニニィは中学生なので、必然的に家事は学校から帰ってきた後になる。
膨大な家事で貴重な勉強時間を潰されていることは、間違いなさそうだった。
これまで一度も不満を漏らしたことないのが、おかしいくらいである。
良央自身も仕事が忙しくてなかなか手伝えないのも事実だが、完璧に家事をこなす彼女に甘えすぎているのは明白だった。
勉強をしていくことがニニィにとって大事なことだったら、少しでもその時間を確保するべきなんじゃないのか。良い子であるのは間違いないが、少し自分を犠牲にしすぎる傾向が感じられた。これも彼女の真面目な性格故のことだろう。
そうすると、このまま指をくわえて見ているわけにはいかなかった。
「ごちそうさま」
夕食を食べ終わった良央は、自分の皿を流し台に入れる。そしてスポンジに洗剤をつけて、そのまま皿を洗い始めた。
「ニニィ。食べ終わったらお皿を持ってきて。俺が全部やるから」
「えっ。いいですよ。私がやります」
「遠慮するなって。ところで、お風呂の掃除はもう終わったのか?」
「はい。さっきやりました」
「じゃあ、トイレは?」
「いえ、トイレはまだですけど」
「じゃあ、それは俺がやっとくから、ニニィは自由にしてていいよ」
「えっ……」
ニニィは動揺しているのを尻目に、良央は黙々と皿を洗っていく。
――これからはちゃんと俺も家事をやっていこう。
この部屋の住人として、当たり前だが大きな決意をした瞬間であった。