八月二十八日、朝の六時半に起床した良央は、あたふたと準備を進めていた。
二日前の夜、良央は源二郎に電話でニニィの面倒を見ることを了承した。
すると、早速準備を進めて、今日から部屋に移り住むということになった。
ニニィの希望で、中学校が始まる前に準備を済ませたかったからである。八月の休日は残すところ三十一日の土曜日だけだったので、こうして良央の出勤前という少し無茶な流れで、ニニィがやって来ることになったのだ。
昨晩も少し片づけたとはいえ、部屋の中はまだまだ汚かった。
だらしない生活を続けていた代償である。さっきワイシャツに着替えたばっかりなのに、すでに汗びっしょりだった。
そして、時計が七時半を指した瞬間、家のインターホンが鳴った。
「ああ、ついに来ちゃったか……」
結局、あまり片付けができないままになってしまった。良央は扉を開ける。
以前に会った時とあまり変わらない地味な帽子と服装で、ニニィはやって来た。持ち物は小さな鞄一つだけである。それ以外の荷物は、午前中に宅配でやって来るらしい。
「お、おはようございます」
「おはよう。まだ散らかったままだけど、入って入って」
「はい」
どこか落ち着かない雰囲気で、ニニィは中に入る。
そして、キッチンや居間の惨状を目の当たりにして、大きく目を見開いた。
「ごめん。少しは片づけたつもりなんだけどさ」
「いえ……お仕事、大変なんですね」
完全に引いている様子である。
「ええと、トイレやお風呂はここにあるから」
良央は誤魔化すように大きな声で言う。
そこまで広い部屋でもないので、案内はすぐに終わった。トイレや風呂は簡単な掃除すらしていなかったので、中を見たニニィはまた引きつった顔になっていた。
朝の貴重な時間はあっという間に過ぎてしまい、もう時計は八時前になっていた。
「あっ。まずい、そろそろ行かないと」
「朝ごはんは食べましたか?」
「いや、食べてない。いつもギリギリまで寝てるから、朝はいつもコンビニでパンとかを買ってるんだ」
「会社で食べるんですか?」
「人が来ないうちにな。無理そうだったら抜いてる」
ふと、ここで気になることがあったので、良央は冷蔵庫の中を開けてみる。
普段からろくに料理などしないので、中はすっからかんである。手間の牛乳パックを確認すると、賞味期限から一週間も過ぎていた。
「そうだ。ニニィさんの昼飯とか考えなくちゃな……」
牛乳を処分した後、良央は財布から千円札を取り出そうとする。しかし、いろいろ考えた挙句、千円札を元に戻して、今度は一万円札をニニィに渡した。
「これやるから昼飯や必要なものを買ってきていいぞ」
「えっ?」ニニィは目を瞬かせる。
「収納棚とか医薬品とか、今日からの生活に必要なものだ。――まあ、あらかた実家から持ってきているとは思うけど、まだまだ足りないものも沢山あるだろ? その金は自由に使っていいから、ニニィさんで決めてくれ」
「は、はい……」
ぽかんとしているニニィを尻目に、良央は充電しておいた音楽プレイヤーを持つ。
これで全ての準備が整った。
部屋のカギを持って、いざ出発しようとする。しかし、今日からニニィがこの部屋にいることを思い出し、慌ててUターンして彼女にカギを渡した。
「危ねえ危ねえ……。今のところ家のカギはそれしかないから、大切にしてくれよ。なんなら鍵屋に行って、スペアキーを作ってもいいから」
「はい」
「あと、俺が帰ってくるのは、いつも八時が九時の間くらいだから、それくらいの時間帯は家にいるようにな。そうしないと、俺が部屋に入れなくなるからさ」
「分かりました」
「じゃあ、いってくる」
玄関で軽く手を振ると、ニニィも同じように手を振った。
「いってらっしゃい」
革靴を履いて、良央は部屋を出る。
もちろん、外に出るまでに音楽プレイヤーの再生は怠らない。
今日は朝早く起きたこともありかなりの寝不足だったため、気合いを入れるために激しいロック曲を選択する。
今日も昨日と同様、外は朝からすさまじい熱気に包まれていた。
中野坂上駅までは十分ほど歩くが、いつもその間にワイシャツの中の下着がぐっしょりになってしまう。この感触が大嫌いな良央にとって、これだけで仕事に行く気が七十パーセントくらいダウンしてしまう。もっとも、仕事へのやる気は最初からあまり高くはないのだが。
歩いている途中、良央の脳裏に先ほどの「いってらっしゃい」の声が蘇ってくる。
間近であの言葉を言われたのは、実に何年ぶりのことだろう。あの部屋で一人暮らし始めたのは、今から六年以上も前だ。もう、しばらく聞いていなかった言葉である。
もう一度、「いってらっしゃい」の声が蘇ってくる。
何の前触れもなく、急に体が少しだけ軽くなったような気がした。
相変わらず外は憎しみすら感じるくらいの暑さなのに、さっきと打って変わって、嫌な気分を感じなかった。
良央は激しい楽曲から、ミディアムな楽曲に切り替えた。
※
「ただいまー」
仕事を終えた良央が部屋の扉を開けた瞬間、あまりの光景に開いた口が塞がらなかった。
朝まで油や食べ物の残りカスで盛大に汚れていたキッチンが、新品同様にピカピカに輝いていたからだ。しかも、コンロには鍋が置かれており、そこから良い匂いが放たれている。
「あっ。おかえりなさい」
脱衣所に繋がるドアが開かれ、そこからひょっこりとニニィが顔を出した。洋服の下にエプロンを付けた格好である。
「これ、ニニィさんが掃除したの?」
「はい。今日はキッチンとトイレとお風呂を掃除しました」
「えっ、ほんとに?」
その言葉を聞いて、慌てて良央は風呂場への扉を引く。
すると、今朝まであれほど汚れていた床が真っ白になっており、タイルのあちこちに出来ていた黒カビも根こそぎ無くなっていた。
まるで、この部屋を初めて見に来た時にタイムスリップしたみたいだった。軽い塩素みたいな匂いがするのは、直前まで掃除用の薬品を使っていた証拠だろう。
「すごいな……。全部ピッカピカだ」
「シャンプーや小物は全部そこのカゴにまとめておきました」
彼女の言う通り、タオルを掛けるポールには、シャンプーなどが入ったカゴがぶら下がっていた。昨日までは、シャンプーの容器などは全て風呂の床に置いてあった。
そのため、どの容器も全て黒ずんでいたのだが、それは全て新しいものに差し替えられていた。
「このカゴはニニィさんが買ってきたの?」
「はい。近くの百円ショップで」
「なるほど。それは安上がりだ」
トイレの方も見てみると、こちらもほこり一つないピカピカな状態だった。おまけにこれまで取り付けていなかった便座カバーがあったり、芳香剤や造花が置かれてあったりと、ただ綺麗にするだけでなく、持ち主が快適に使えるような工夫があちこちに施されている。
「造花とかも全部、百円ショップで?」
「いえ、芳香剤だけは近くのスーパーで買いました」
「どうして?」
「すごく匂いがきつかったからです」
「別に、そこまでこだわる必要はないんじゃないかな……」
「いえ。匂いは非常に重要なので、そこはどうしても譲れませんでした」
「そ、そうか……」
ちょっと頑固なところがあるかもしれないな、と思いながら良央はトイレを出る。
居間の方は今朝よりはだいぶ片付いているものの、まだ物が散乱している状態だった。隅にはダンボールが積まれており、その中に彼女の荷物が入っているのだろう。
「ニニィは夕飯もう食べた?」良央が問う。
「いえ、まだです」
「じゃあ、先にそっちを済ませよう」
良央が脱衣所でスーツから私服に着替えているうちに、ニニィは夕食の準備を進めていく。
今日のメニューは野菜たっぷりのシチューと、春雨サラダ、ピラフだった。料理はできると聞いていたが、まさかここまで本格的なメニューだとは思ってもみなかった。
隅にある小テーブルを真ん中まで持ってきて、二人で向かい合う位置に座る。
彼にとって、この部屋で他人と本格的な夕食を摂るのは初めてのことだった。
お互いに「いただきます」と言ってから、良央はシチューを口に入れる。濃厚なクリームと野菜のコクが口いっぱいに広がり、思わず「おおっ」と声が出てしまった。
「あ、口に合いませんでしたか?」恐る恐るニニィが問う。
「いや、すごくうまくて、つい声が……」
空腹だったこともあり、それからの良央は速いペースで食べ物を口に運んでいった。
ピラフはパラパラで、サラダもドレッシングが効いてて非常に美味しかった。それをニニィに言うと、彼女は嬉しそうに「ドレッシングは自分で作ったんです」と返してくれた。
あっという間にテーブルの食べ物は無くなり、良央は満足そうに息を吐く。
久しぶりに充実した夕食の時間だった。食べただけなのに、身も心も温かくなったような気がした。
「ごちそうさま。すごくうまかったよ」
「ありがとうございます」
ニニィは微笑みながら、小さな声で返す。そして良央の食器を重ねて、そそくさと流し台に持っていった。何となく後ろをついていくが、彼女が「私が洗います」と言って、そのまま皿洗いを始めた。
流し台は、昨日まで薄汚いプラスチック製の三角コーナーとスポンジ置き場があったが、それが全て捨てられて、代わりにステンレス製のバスケットだけが置かれていた。どうやら、三角コーナーは廃止となったようである。
良央は、熱心に皿を洗っているニニィを眺める。
初日だから自分を良い子に見せるために、わざと頑張っているんじゃないか――。
そんな邪推な考えも浮かんだが、すぐにそれを振り払った。
「ニニィさん」
「はい?」彼女がこちらを向く。
「今日はありがとう。これからもよろしく」
すると、彼女は嬉しそうに顔を輝かせた。
「はい」
――やっぱり、この子はすごく良い子だ。
こうして、良央と十四歳の少女との生活が始まった。
◇
共同生活が始まって二日目――。
良央を見送ったニニィは早速エプロンを着て、掃除に取り掛かる。
すでに昨晩の段階で、良央が捨てて良いものとダメなものを分けてくれたので、これで心置きなく居間の掃除ができる。早速、ごみ袋を用意して、いらない物の処分に取り掛かる。
これから、この六畳の小さな部屋で暮らさなければならないのだ。不必要なものはなるべく処分して、二人が快適に暮らせるような空間を作らなければならない。すぐに使う必要のない荷物については、この近くにあるトランクルームにすでに預けている。
ある程度、処分が完了したら今度は床の掃除に取り掛かる。
きれい好きのニニィにとって、居間の隅にたまっているホコリだったり、床の汚れは昨日からかなり気になっていることだった。やるからには、徹底的にやらなければ気が済まない。
掃除のために、いったん良央が必要だと言ってくれたものを廊下に移動させる。
衣類や薬品などの日用品の他に、マンガやCDなども多くその中に含まれている。どれもニニィにとって、読んだことも聞いたこともない代物ばかりだ。
ふと、ニニィはその中に入っている『ある物』に目を留める。
それは紅色の小さな箱で、いかにも高級そうな品物が入っていそうな箱だった。試しに開けてみると、中には青色の宝石のペンダントが入っていた。
「きれい……」
思わず、見とれてしまうほどの美しさだった。
初日の部屋の惨状を見て、いかにも不健康そうな暮らしをしてきた良央が、こんなきれいなペンダントを持っているとは少し意外だった。
これはニニィの勘だが、明らかに彼が購入したものじゃなさそうな気がした。
ペンダントを箱に戻して、とりあえず掃除を再開しようとした時だった。
突然、家のインターホンが鳴り、ニニィはびくっと体を跳ねらせる。
こんな朝に来客なんて、明らかにおかしかった。残りの荷物の宅配も、今日の午後に到着するように指定しておいたはずである。
恐る恐る、ニニィは玄関の受話器を取り上げる。
「はい」
「朝早くに申し訳ありません。柳原花蓮と申しますが、ニニィ・コルケットさんですか?」
聞こえてきたのは女性の声だった。
しかも、柳原という名字は、彼女にとって所縁のある名でもあった。
「ご、ご用件はなんですか?」
「瀬名源二郎さんのことで重要なお話がありまして、お伺いに来ました。もしよろしければ、少しだけお時間をいただけませんでしょうか?」
「おじいちゃんのことで?」
「ええ。あと、付け加えさせていただきますと――」
女性はいったん間を置いてから答える。
「私は柳原久子の孫に当たる者です」
「えっ」
「祖母から、何度かニニィさんの話を聞いております」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
ニニィは受話器を置いて、エプロン姿のまま玄関の扉を開ける。
すると、そこには二十代後半くらいの髪の長い女性が立っていた。
「あっ……」
その顔を見た瞬間、疑惑は確信へと変わった。
凛々しさを備えた目と引き締まった表情は、間違いなく久子そっくりだった。
ニニィにとって、柳原久子とは命の恩人にも等しいような存在だった。だいぶ昔に彼女に会っているような、そんな奇妙な既視感すら抱いてしまった。
「初めまして。ニニィ・コルケットさん」
久子の孫の女性は小さく微笑んで、ニニィの手を握った。