三月十六日、日曜日。午後三時――。
この日、利香はいつものように家の居間でゲームをやっていた。
彼女のお気に入りであるアニメの魔法少女たちが登場するゲームである。ステージは最終面の真っ只中であり、ラスボスに魔法少女たちが苦戦しながらも果敢に立ち向かっている。
今や利香のテンションも最高潮に達しており、ボタンを押す手にもどんどん力が入っている。そして、待ちに待ったケージが溜まり、ついに最強の技を出すボタンを押そうとした時だった。
突然、家のインターホンが鳴り、利香は現実に一気に引き戻される。
――もう、なによ! こんな大事な時に!
今、この家にいるのは利香一人だけだった。
兄の俊樹は友達の家に遊びに行っており不在だ。母親からは誰か来てもドアを開けちゃダメだと言われていたので、そのまま無視しようと思った矢先――。
「すいませーん。どなたかいませんかー」
外から聞こえてきたのは、利香にとって馴染みのある声だった。たちまち、ゲームに水を差された怒りが消えていった。
「ニニィおねえちゃーん! いるよ!」
利香はゲームを置いて、玄関まで駆けていく。
ドアを開けると、ニニィが少し驚いたように目を見開いた。
「あっ。利香ちゃん。久しぶりね」
「久しぶりー。どうしたの。お姉ちゃん?」
利香が尋ねる。彼女が家までやってくるのは、これが初めてのことだった。
「俊樹くんはいる? さっき携帯にかけたんだけど繋がらなくてね」
「ううん。お兄ちゃんは友達の家に行ってる」
「ああ、そうなの。どうしようかな……」
ニニィは困ったような顔を浮かべる。
おそらく、兄は遊びに夢中になっていて電話に気付いていないんだろう。
「お兄ちゃんに用事があるの?」
「うん。一応、お兄ちゃんにもあるけど、利香ちゃんにもね……」
迷った素振りを見せた直後、ニニィは利香と目線を合わせるようにしゃがみ込む。その表情はつい先ほどと違って、どこか穏やかだった。
「ねえ、利香ちゃん」
その声に、反射的に利香は背筋をぴんと伸ばす。
「利香ちゃん。何度も言ってるかもしれないけど、お兄ちゃんのことは好き?」
突然のことに少しおかしいなと思いながらも、利香はこくりと頷く。
「うん。好き」
「じゃあ、お姉ちゃんと約束してくれる?」
「えっ?」
「これからもお兄ちゃんのことは大切にするって」
利香は目を見開く。どうしていきなりそんなことを言ってくるのか分からなかったが、利香の返事は言うまでもなかった。
「うん。約束する」
ニニィはふふっと笑顔を浮かべると、利香の頭にそっと手を置く。
「良い子ね。さすが利香ちゃんよ」
ここでニニィは立ち上がる。
「実はね。利香ちゃんとお兄ちゃんに、すごく大事なことを伝えなきゃならないの。お兄ちゃんは今ここにいないから、もしお兄ちゃんが帰ってきたら伝えてくれる?」
すごく大事なことだと聞いて、利香は目を瞬かせる。
そしてニニィは悲しそうな顔で、ゆっくりと話し始めた。
◇
三月十五日。ニニィの卒業式を二日前に控えた日の朝――。
この日、良央は朝早くから家を出ようとしていた。
「じゃあ、行ってくる。月曜日まで留守番を頼むよ」
「はい。気を付けてください」
玄関でニニィに見送られて、良央は出発した。
すでに一部の生活品を除いて、ニニィの私物のほとんどは配送を済ませているので、後は出発の日を待つだけとなっている。少しだけすっきりした居間を眺めながら、良央はドアを閉めた。
今日から三日間、良央は大阪へ出張の予定だった。
夏ごろに行われるイベントの打ち合わせだったり、大規模セミナーやイベントへの参加だったり、どれも今後に大きく繋がる重要な仕事ばかりである。本当はせめて十七日の卒業式だけでも行ければいいな、と思っていたが、会社からの許可が降りず、泣く泣く不参加となってしまったのだ。
丸ノ内線に乗って東京駅に辿り着くと、待ち合わせ場所ではすでに上司が待っていた。
「おはようございます。早いですね」
時計を確認すると、時間は待ち合わせの十分前だった。
「まあ、早いに越したことはないだろ」
弁当の袋を持って、上司は苦笑する。
七歳年上の直属の上司は、良央にとって心強い存在だった。
仕事もバリバリこなすことができ、人間的にもしっかりした人だった。
まだ良央が会社に入り始めたばかりの頃、なかなか会社の仕事に慣れず、精神的にやや不安定だった彼をサポートしてくれたのは紛れもないこの上司だった。
彼のおかげで、良央もここまでやってこれたと言っても過言ではない。今回の出張でニニィの卒業式に行けなくなったのは不本意だったが、まだこの上司と行くならマシだろう、と今は考えるようにしている。
指定のホームに行くと、すでに大阪行きの新幹線が止まっていた。早速、良央たちは中に入って、指定の座席に腰掛ける。大阪までは約二時間半だ。
「最近、お前の様子を見て思うんだけど――」
新幹線が東京駅を出発した直後、ふと隣の席の上司が口を開いた。
「あんまり元気がない感じだな。いったい何があったんだ」
えっ、と良央は反応する。
「そ、そうですか?」
「うん。去年の年末くらいまでは成績も良くて、すげえ働いてるなという感じがしたんだけど、今年になってから妙に覇気がなくなったと言った方がいいのか……。成績もあんま芳しくないし、何かプライベートで嫌なことでもあったのか?」
良央は空笑いをする。
確かに、ここ最近はあまり仕事がうまくいってないことは自覚していた。
「まあ、あると言われたらあると答えなくちゃいけないですね」
「恋人にでも振られたか?」
反射的にびくん、と体を跳ねらせてしまう。
「いや、恋人ではないですけど、大切な人と別れなくちゃいけないことになりましてね」
「大切な人と?」
「ええ。だいぶ昔から親しくしていた友人です」
本当のことを言うと面倒な気がしたのて、さらりと嘘をつくことにした。
「へえーっ。よっぽど大切な友人なんだな」
「ははは……。そうですね」
「まあ、気持ちは分かるが、それをいつまでも引きずっているわけにはいかねえだろ。今日の夕飯は俺のおごりにしてやるから、それでちょっとは元気出せ」
「あ、ありがとうございます」
頭を下げてから、良央は窓の景色を眺める。
上司の言う通りである。これ以上、ニニィがいなくなるショックを引きずっているわけにはいかない。彼女と一緒にいられる日はあと少ししかないが、せめて後悔はしないように過ごしたい。それにイギリスに行っても電話やインターネットで、いつでもニニィとは連絡を取り合うことができるのだ。決して二度と会えなくなるわけではない。
まだ東京を出たばかりのこともあり、窓の外は建物ばかりだった。
隣の上司は本を読み始めていたので、良央は音楽プレイヤーを用意する。
聞くのはニニィも好きなバンドの曲だ。すでにバンドのCDは全て、ニニィにプレゼントとして渡している。そういえばニニィがそのバンドを聞くきっかけになったのは、十月の路上ライブである。
――ニニィをおぶって家に戻ったのも、いい思い出だな。
目を閉じて、良央は再生ボタンを押す。
音楽を聞きながら、良央はこの七ヶ月間のことを思い返した。
ニニィとの生活は特にこれといった大きな刺激もなく、地味で淡々としたものだった。
一緒に食事をしたり、喧嘩をしたり、一緒に家事をしたり、仲直りしたり、学校や仕事に行ったり、たまに一緒に出かけたり、生活における当たり前のことをやってきただけだった。
しかし、その当たり前が、あと数日で終わってしまうのだ。
ずん、と何の前触れもなく、良央の中で悲しいという気持ちが湧いてきた。
映画やドラマのような刺激もない、あんな地味で単純な生活に対して、自分でも疑問に思ってしまうくらい恋しい感情が出てきてしまうのだ。
リアルタイムではたいしたことないと感じていた多くの出来事が、急にかけがえのない思い出のように変換されていく。これまでの思い出が蘇っていくたびに、こんなところで終わって欲しくない気持ちが湧いてくる。
大きく息を吐いて、良央は目を開ける。
耳から流れてくるのは、この前の路上ライブでも歌ってくれた曲だ。そういえば、あの時ニニィから、どうしてこのミュージシャンが好きになったのか、と聞かれたような気がする。
――俺、なんて答えたんだっけ。
それを思い出した瞬間、良央は稲妻に打たれたような感覚を抱いた。
※
三月十六日。午後一時――。
ようやく打ち合わせが終わった良央はビルの会議室を出て、近くの休憩スペースまで行く。今日は休日なだけあって、スペースには誰もいない。自販機で缶コーヒーを購入して、一口飲んでから近くにある椅子に腰を下ろした。
今日の予定はこれで終わったので、これからの時間はしばしの自由行動になる。
大阪出張の三日間のうち、日曜日の今日は実質小休止の日だった。ちなみに明日は朝から夜の八時まで仕事が詰まっているので、東京の家に帰れるのは深夜の予定となっている。
昨日、今日の仕事の成果については、無難に終わったというのが素直な感想だった。
上司に多少のフォローを任せる場面もあったが、それ以外は可もなく不可もなくといった感じで話は進み、この調子で明日の打ち合わせもできればと思った。
コーヒーを飲み切り、そろそろ会議室に戻ろうとした時だった。スマートフォンから着信が来たので、確認してみると知らない番号だった。
「もしもし?」
『もしもし、良央さんですか? 柳原花蓮です』
「花蓮さん? どうしたんですか」
『申し訳ありません。昨日、持っていた携帯を解約しまして、会社の固定電話からかけています。今、お時間の方は大丈夫ですか?』
花蓮の口調はどこか重たく、何となく嫌な予感がした。
「ええ。大丈夫ですけど、何かあったんですか?」
『今、私のそばにはニニィさんがいます。これは直接ニニィさんの口から話した方がいいと思いますので、ニニィさんに代わりますね』
その直後、受話器が渡されるような音が聞こえた。
『もしもし。良央さんですか?』
それは紛れもないニニィの声だった。
「ニニィ。どうしたんだ」
『実は、良央さんに重要なことを伝えなければならなくなりました』
「重要なこと?」
『急に出発が早くなりまして、明日の夕方――日本を出ることになりました』
からん、と右手に持っていた空の缶コーヒーがフロアに落ちた。
一瞬、良央はニニィが何を言っているのか理解することができなかった。
缶コーヒーがころころと向かいの椅子まで転がっていく。
――明日出発? 出発は三月二十日じゃなかったのか。どういうことなんだ。
良央は「ははっ」と笑った。
「それは急な話だな……。いったい何があったんだよ」
『研究所の方から急な要請を受けまして……。私もまだ状況がよく分かっていなくて』
その直後、電話口から物音が聞こえてきた。
『電話代わりました。柳原です。ニニィさんに代わりまして私から説明します。実は研究所の上層部が今週の水曜から急に海外に行くことになりまして、前日の火曜日までにニニィさんに会うことはできないかという要望を受けたんです。ニニィさんの卒業式は明日の午前中で終わりますので、少し無茶な日程になりますが、明日の夕方に日本を出ることになりました』
スマートフォンを持つ手がどんどん震えてくる。
――上層部からの要望? なんでそんな無茶な要望に従うんだよ。
しかし、良央はその言葉を花蓮にぶつけることができなかった。
上層部からの要望と花蓮は言っているが、実質的には命令に等しいものだったんだろう。さすがに社会人として多少なりとも働いてきた良央には、それくらいのことは察することができた。
『ニニィさんからお話は聞いています。本当は火曜日に良央さんと花見に行く予定だったと。しかし、ここで上層部の要望を断ってしまいますと、今後のニニィさんの活動に影響が出てしまう可能性があると判断しまして、勝手ではありますが、私の方からニニィさんを説得させていただきました。――まだ、ニニィさんは十五歳になったばかりです。研究所内では、依然としてニニィさんが来ることを快く思っていない方もいます。どうかお察しください』
そこまで言われてしまうと、良央から反論することなどできなかった。
再び電話口から物音が聞こえてきて、ニニィに変わった。
『良央さん……。ごめんなさい』
ニニィの声に力は無かった。
明日の夕方に出発ということは、花見に行けないどころか、良央に会えないまま出国することになるのだ。もう、お互いに顔を合わせることは当分ないのだ。
良央は目を閉じる。もう、この事実を受け入れるしかなさそうだった。
「おいおいおい! なんでニニィが謝んなくっちゃいけないんだ?」
いきなり大声をあげた良央に、ニニィは驚いたような声をあげる。
「全くさー。ニニィの上司も空気が読めない奴らだな。あと数日で桜も見ごろになるのに、どうしてこんなタイミングでイギリスに来いと命令するんだか。でも、だからといって断るわけにもいかないし、こればっかりはタイミングが悪かったとしか言えないよな」
ニニィは黙っている。
「心配するな。花見はいつだってできるし、イギリスに行ってもこうして電話で会話することはできるんだ。今年は無理になっちゃったけど、また来年にも桜は咲くだろうし、その時期になったら日本にまた来ればいいだけの話さ」
『……はい。そうですね』
しばらく間があった後、ニニィは静かに答えた。
「イギリスに到着して、新しい番号を契約したらすぐに連絡してくれよ。毎日はさすがにきついと思うから、週に一回くらいは連絡を取り合うようにしていこうぜ」
『はい』
ニニィが持っている携帯電話は、すでに三日前に解約を済ませている。
つまり、この電話が終われば、少なくとも出国するまで連絡を取り合うことができなくなるのだ。
「まさか、これが最後になるなんてな……」
『ごめんなさい、良央さん。今まで本当にお世話になりました』
「こちらこそ。日本に戻ってきたら、またうまいメシ食わせてくれよ。研究所に行ったらいろいろと辛いこともあるかもしれないけど、大叔父さんのために頑張れよ」
『はい。ありがとうございます』
静かであるが、確かな力強さを感じさせる声だった。
彼女も成長したな、と良央は思った。
出会った時はあんなに弱々しい印象しか感じなかったニニィが、今や大切な人のために旅立とうとしているのだ。
「じゃあ、元気でな」
『良央さんも、どうかお元気でいてください。さようなら』
電話が切れた後も、良央はしばらくその場に立ち尽くしたままだった。
もしかしたら今のは良央を驚かせるために花蓮たちが仕掛けたドッキリで、もう少ししたらネタ晴らしの電話が掛かってくることことを期待したが、どれだけ待っても電話は掛かってこなかった。どうやら、本当にニニィは渡英してしまうらしい。
「なんで行っちゃうの?」
誰もいない休憩スペースで、良央はよく分からない笑い声をあげた。
ついさっきの電話がニニィとの最後の会話になってしまうなんて、夢にも思わなかった。この現実を受け入れるのは、もう少しだけ時間が掛かりそうだった。
「おう、そこにいたのか」
その時、上司が休憩スペースにやってきた。
「なにのんびりしてんだ。そろそろ昼飯に行くぞ」
「はい」
何とか平静を装って、良央は答えた。
ビルのフロアを歩きながら、どうにかして東京に戻れないかと良央は考えた。
さすがに月曜日は仕事があるので無理だとしても、今日だけなら頑張れば何とかいけるような気がした。
大阪から東京に戻る時間は、新幹線を使って約三時間だ。
かなり無茶ではあるが、今から超特急で東京に戻り、ニニィとちゃんと別れを済ませて、夜に大阪へ戻れば、明日の朝の打ち合わせには間に合うはずだ。夜行バスを使うのもいい。あれなら二十三時くらいに東京を出発しても、明日の朝には十分に間に合って――。
「おい、あぶねえぞ!」
上司の怒鳴り声が聞こえた直後、がくっと体のバランスが崩れる。
ここでようやく、目の前にビルの階段があることに気が付いた。しかし、考え事をしていたせいでそのまま足を踏み外してしまう。
一瞬だけ、宙に浮かぶような感覚。
そして、恐ろしい勢いで迫ってくるリノリウムの床――。
頭を強打した良央は、そのまま意識を失った。
◇
『嘘つき、おねえちゃんの嘘つき!』
三月十六日、日曜日。午後三時十分――。
ニニィが帰った後、家の玄関で利香はぼんやりと立ち尽くしていた。
明日の午後、ニニィはイギリスに旅立ってしまう。
あまりに突然すぎることに、利香はまだ現実が受け入れられないままでいた。
実は出発前日の十九日の水曜日に公園で遊ぼうとこっそり約束をしていたのだが、十七日にイギリスに行くことが決まったので、それは完全にできなくなってしまった。
先ほどニニィが家にやってきたのは、そのことを伝えるためだった。
ニニィは頭を下げて謝ったが、約束を守ってくれなかったことに腹を立てた利香は、思わず「嘘つき!」と叫んでしまった。
どうにかしてニニィを悪者にしないと、自分の気が済まなかった。何度もニニィは謝ってきたが、すっかり冷静さを欠いてしまった利香はそのままニニィを追い出してしまった。
結局、ニニィは悲しそうな顔で帰っていった。
利香の中で徐々に罪悪感が出てきたのは、それからすぐのことだった。
――わたし、なんであんなこと言っちゃったんだろ。
慌てて道路に出て、ニニィを探してみるが、どこにも姿は見当たらない。いつも会っている三角公園にも行ってみたが、彼女の姿はなかった。
ふらふらとした足取りで利香は家に戻る。
罪悪感はいつしか大きな後悔へと繋がっていた。
もう、会えなくなっちゃうのに、どうしてあんなひどいことを言ったのだろう。
謝らなければいけない、と思った。
しかし、今の利香にニニィを探せる手段はなかった。利香は携帯電話を持っていない。
利香にはまだ早いということで、親が許してくれないのだ。それさえ持っていれば、登録したニニィの電話電話を掛けて謝ることができたはずだ。
携帯電話さえあれば――。
その瞬間、利香の頭にある方法が閃いた。
自分が携帯を持っていないのなら、兄の俊樹から借りればいいじゃないか。兄とニニィが、携帯電話でやり取りをしているところを何度か見たことある。
しかし、肝心の兄は友達の家に遊びに行っている最中だった。
その場所は知っているが、いかんせん距離がありすぎた。いつも行っているスーパーとは比べものにならないくらい、ここから離れた場所にあるのだ。七歳の利香にとって、それは大冒険に等しい距離だった。
――無理だよ、遠すぎるよ。
どうやら、せっかく思いついた方法も無駄に終わりそうだった。
「うっ……うっ……」
どうすることもできない悔しさで、ついに涙を流してしまった瞬間だった。
『なにやってるのよ。立って! 立つのよ!』
突然、奥の方から馴染みのある声が聞こえてきた。
それは利香の好きな金髪の魔法少女――マリちゃんの声だった。
『まだ終わったわけじゃないわ! みんなの力を合わせて立ち向かっていくのよ!』
慌てて声が聞こえてくる居間の方へ駆けていくと、床に起動しっぱなしのゲームが落ちていた。どうやら、テーブルから落ちた弾みでゲームが勝手に進んでしまったようだ。激しい戦いで傷ついているマリちゃんは、それでも果敢にボスに立ち向かおうとしている。
『諦めないで!』
その言葉が、利香の頭の中で何度も再生される。
マリちゃんはアニメで出てくる魔法少女の中でもっとも勇敢な子だった。
どんなに強そうな敵が目の前にやってきても、決してひるむことなく全て倒していった。利香はマリちゃんのその勇敢さが好きだった。マリちゃんのような強い女の子になれればいいなと思っていた。一人で初めて買い物に行った時も、マリちゃんの励ましがなかったら絶対にできなかっただろう。
『諦めないで!』
流れた涙を拭って、ついに利香は決意した。絶対に会えるといった保証はないが、今の利香にはそれしかやれることがなかった。
――お兄ちゃんのところに行かなきゃ。
怖いという気持ちはある。
でも、こんなところで怖気づくわけにはいかない。大好きなマリちゃんから大きな力をもらった利香に、ためらう理由などなかった。
家のカギを持って、利香はさっそうと外に出た。
◇
三月十七日。午前十一時――。
頭に包帯を巻いていた良央は、病院のベッドで呆然としていた。
昨日、ビルの階段から転落して前頭部を強打した良央は、上司から通報を受けた救急車によってそのまま病院に運ばれた。
幸いにも意識はすぐに戻ったが、しばらく記憶が混濁してしまい、会話の際に自分でも何を言っているのか分からない時があった。
昨日のうちに検査が行われ、今のところ頭蓋骨や脳に異常はないとのことだった。
ただ、負傷したのが人体でもデリケートな部分である頭なので、医師の勧めもあり、昨晩は病院で安静することになったのだ。良央にとって人生で初めての入院だった。会社の方には上司を通じてすでに伝えてあり、今日の打ち合わせは上司一人で行うことになった。
ぼんやりとしていた矢先、病室の扉が開けられた。
やってきたのは上司だった。
「おう、状態はどんな感じだ」
「今のところは特に異常はないとのことです」
「そうか。それは良かった」
「本当にすいません。迷惑をかけてしまいまして」
「まあ、そんなに気にするな。午前中の打ち合わせも無事に終わったし、この調子なら午後も問題なくいけそうだ。今は安静にして、今後に備えておけよ」
「ありがとうございます」
この人が上司で本当に良かったと、心の底から思った。
「じゃあ、俺はまた一時から打ち合わせがあるから、とっとと行くよ。何かあったら携帯で連絡してくれ。お大事にな」
そう言って、上司は病室から出て行った。再び病室は沈黙に包まれる。
窓の外に目を向けてみると、桜の木が風に吹かれて花びらを散らしているのが見えた。満開まではもう少し先だが、この時点でも十分に見とれてしまうくらいには咲いている。
――今ごろ、ニニィは卒業式なのかな。
そう思いながら、良央はぼんやりと桜を眺める。
結局、自分の失態で日曜日に東京に行くという計画は完全に無くなってしまった。もっとも、怪我をしなくても行かない可能性の方が圧倒的に高かっただろうが。
良央は大きく深呼吸をする。
もう、これ以上ニニィのことを考えていても仕方ない。すれ違いのまま別れてしまうのは辛かったが、そこは何とか受け入れていくしかない。
この瞬間、先ほどの上司の「携帯」という単語が頭によぎる。
病院に運ばれてから一度もスマートフォンをいじってなかったことを思い出した良央は、反射的にポケットに触れる。しかし、そこに端末はなかった。もしかしたら荷物の中に入っているかもしれないと思い、良央は近くに置いてあった鞄を開けてみる。案の定、スマートフォンはそこに入っていた。特に破損している部分はなく、これから問題なさそうだ。
そして電源を点けた直後、良央は目を見開いた。
そこには、俊樹から大量の着信があったからである。
何があったんだと思いながら確認してみると、昨日の二時頃から立て続けに電話を掛けてきたようだ。
さすがに病室で電話を使うのは気が引けたので、良央は病室を出ると、近くに置いてあった公衆電話から俊樹の電話番号をプッシュした。
何度かのコールの後、俊樹が電話に出た。
『もしもし?』
「もしもし。古川良央だけど、有野くん?」
『あっ――。良央さん! いったい今まで何やってたんすか!』
いきなり大きな声を出した俊樹に、良央は一瞬たじろぐ。
「まあ、いろいろあってな……。で、有野くんこそいったいどうしたんだよ。何度も何度も俺の携帯に掛けてきて、何かあったのか」
『あっ、ちょっと待ってください。ついさっき卒業式が終わったところで、人のいない場所まで移動するんで、そのまま通話は切らないでください』
彼も卒業式だったのかと思いながら、良央は百円玉を流し込む。
しばらく待った後、ふーっと息を吐く音が受話器から聞こえてきた。
『すんません。待たせました』
「で、何があったんだよ」
『ニニィさんのことは聞いてますか?』
「ああ。今日の夕方に出発することはもう聞いてるよ」
『なら話は早いですね。ニニィさんの新しい連絡先とか聞いてますか? 登録していた番号にかけても、お掛けになった番号は使われていないと出てきてしまいまして』
思わず、良央はため息をついた。
「悪い。今、ニニィは携帯を持ってないんだ」
『えっ――。じゃあ、もう良央さんもニニィさんとは連絡が取れないんですか?』
「ああ。少なくともイギリスで新しい番号を取得するまではな」
『そ、そうなんですか……』
へなへな、とその場に崩れる俊樹の姿が想像できる。
「なんだ。そんなにニニィに会いたいのか」
『いや、俺と言うよりかはむしろ利香の方が会いたがっているんです』
「利香ちゃんが?」
ここで俊樹から、昨日の午後にニニィが利香の家にやってきたことを話してくれた。
しかし、いきなり彼女がイギリスに行くことに戸惑ってしまった利香は、衝動的にニニィにひどい言葉を浴びせてしまい、そのまま彼女を帰らせてしまったらしい。
利香はそのことでどうしてもニニィに謝りたくて、兄である俊樹に頼ってきたことを教えてくれた。
『実は、昨日の三時頃に良央さんの家を訪ねたんですが、誰もいなかったので帰ってしまいました。携帯に何度も掛けても繋がらなくて……。いったい、どうしたんですか』
良央は百円玉を追加で入れる。
俊樹が細かいことを説明してくれた以上、良央の方もちゃんと説明した方がいいと判断した。
「実は今、大阪にいるんだ」
『お、大阪?』
「会社の出張でね。そこでちょっとしたトラブルが起こったんだ」
ここで良央は、出張と頭のケガのことについて詳しく説明した。
『そうだったんですか……。ケガしてたんですね』
「だから、さっきまで携帯を使うことができなかったんだ。情けないことだけど、有野くんたちと同じように俺もニニィに会うことはできないんだ。そういうことだから、利香ちゃんのメッセージをニニィに伝えるのは当分先になりそうだね」
『でも、良央さんは怪我で今日の仕事にはもう行かなくていいんですよね? だったらこれ以上、大阪にいる必要はあるんですか?』
びくん、と良央は反応する。
頭のケガで思考が停止していたのか、俊樹に指摘されて初めてその事実に気づいた。
「まあ、言われてみればそうだな」
『良央さん。このまま諦めるつもりなんですか?』
ここで急に俊樹の声が低くなった。
『もう、良央さんが大阪に居続ける理由はないんですよね? だったら、このまま東京に戻ってきてもいいんじゃないんでしょうか』
「おい……。いきなり何言ってんだよ」
『ニニィさんは良央さんのことが好きなんですよ? 最後くらい、無理をしてもニニィさんに顔を見せにいったらどうですか? 俺だって、せめて別れる前くらいは好きな人の顔を見てから出発したいですよ』
「お、おい! ちょっと待ってくれ! なんだよそれ!」
脇目も振らず、思わず良央は声を張り上げる。
「ニニィが、俺のことを? なにわけの分かんないこと言ってるんだよ」
俊樹は驚きの声をあげた。
『ええっ! もしかして良央さん、気付いてなかったんですか?』
「気付くも何も、ニニィはまだ十五なんだぜ」
『それがどうしたって言うんですか! まさか良央さん――十五歳の中学生が誰かを好きになるわけなんかない、と思っているわけじゃないでしょうね』
「い、いや、そんなことは……」
『とにかくガチなんです! ニニィさんは良央さんのことが好きなんですよ。ディズニーランドで良央さんがいない時に、ニニィさんからそれっぽいことを聞きましたから』
「あ、ああ……」
俊樹の叫ぶような言葉に、良央は力のない返事をする。
――ニニィが俺のことを?
未だにそれを信じることができなかった。
しかし、ランドに行った時、やたらニニィは自分から離れようとしなかった。あの時は渡英する寂しさから取った行動だと思っていたが、まさかそんなことが――。
体が熱くなってきて、額から汗が流れる。頭の奥でじんじんと痛みを感じるのは、おそらく昨日のケガのせいだけではないだろう。
電話口から、ため息を吐く音が聞こえてきた。
『良央さん。このままでいいんですか? ニニィさんと電話だけで別れを済ませるなんて、寂しくないっすか? 多分、ニニィさんは悲しんでると思います』
出発は今日の夕方、という言葉が良央の脳裏に蘇る。
『俺、この前のディズニーで言いましたよね。ニニィさんに告白しようと思ったけど、やめたってこと。あれは、ニニィさんが良央さんのことを好きだと分かったから諦めたんですよ。まあ、そもそもうまくいくとは思ってなかったですけどね』
時計を見ると、針は午前十一時十分を指している。
『良央さん! あんたはニニィさんを惚れさせた男なんですよ! 頭のケガがなんですか。大阪にいるからなんですか。利香のためにも、早く東京に戻ってきてください。こんな所で諦めないでくださいよ!』
がしゃん、と勢いよく良央は受話器を置いた。
荒い呼吸をしながら、改めて今の状況を振り返ってみる。
今から超特急で病院を出れば、夕方前には東京に到着するだろう。
しかし、それで必ずニニィに出会えるとは限らない。なんせ、すでにニニィとは連絡が取れない状態になっているのだ。もしかしたら、東京に到着している頃には、すでに空港にいる可能性だって無くはない。
でも、それがなんだっていうんだ。
これまでの思い出が、走馬灯のように蘇ってくる。
彼女の喜怒哀楽の表情。二人でいろんな場所に行った時のこと。そして、夕方の住宅街で一緒に手を繋いで家に帰った時のこと。
――行け、と頭の中で何者かが囁いた。
このまま顔を合わせないまま、別れるわけにはいかない。
彼女に会えたところで何を話せばいいのか分からなかったが、とにかく今は東京に戻らなければと思った。
この時、良央の中ではしばらく鳴りを潜めていた感情が蘇ろうとしていた。それは大人になったら出ることはないだろう、と思い込んでいた――言い様のない衝動だった。
「ニニィ!」
彼女を名前を叫びながら、良央は病室まで駆けた。
◇
ニニィ・コルケットにとって、柳原久子との関係は、桜で始まって桜で終わった。
「悪いわね。こんな病人をここまで連れてきてね」
「いえ、平気です」
そうは言ったものの、車椅子で長距離を運ぶのはなかなか辛かった。
ニニィが車椅子の久子と一緒にやってきたのは、神田川にある南小滝橋だった。小学四年生になる直前、久子がニニィと源二郎を連れていった思い出の場所である。
「良かったわ。死ぬ間際にこの景色を見れて」
「おばあちゃん、そんな物騒なこと言わないでよ」
「ふふっ。そうね」
その場所は、今年も大量の桜で覆われていた。
アーチのように無数の桜が神田川の上を覆っており、何度も見ているはずのニニィも思わず感嘆の息を漏らしてしまう。
「きれいね。本当にきれい……」
久子がつぶやく。
春の穏やかな風が吹いて、桜の花びらが散っていく。
久子が倒れたのは、つい一ヶ月前の出来事だった。
ニニィが小学校から帰ってくると、家の台所で苦しそうに倒れている久子を見つけて、そのまま救急車を呼んだのである。幸い命に別状はなかったが、その直後に久子は自らの口で「医者から余命三ヶ月の宣告を受けた」とニニィと源二郎に伝えた。
ニニィにとって、あの時の衝撃は今でも忘れられなかった。
久子が患ったのは、肺癌の一種である大細胞癌という病気だった。
これは後になって分かったことだが、大細胞癌はなかなか初期症状の出にくい病気のようで、判明した時はすでにかなり症状が進行していたらしい。今日の外出も病院にかなり無理を言って、許可を取ったものだった。
車椅子の久子は座ったまま、ニニィを見上げる。
「ニニィちゃん。ちょっと訊くけど、源二郎さんから私のこととか聞いてる?」
「おばあちゃんのこと?」ニニィは首を傾げる。
「……そう。何も聞いてないんだったら好都合ね。もう私には残された時間もあまり残されていないし、このタイミングだから言っちゃうね」
そして、久子は再び桜を眺めた。
「私と源二郎さんはね。昔、付き合っていたのよ」
「えっ?」
「だいぶ昔、もう三十年以上も前のことよ。でも、すぐに別れちゃったわ」
「別れちゃったの?」
「いろいろあってね。詳しいことは話しても仕方ないから省略するけど、若い時の源二郎さんは本当にどうしようもない人でね。仕事のことしか考えない人で、彼の無責任な行動や言葉で傷ついて、そのまま別れちゃったのよ」
「えっ。じゃあ、どうしておばあちゃんはおじいちゃんと付き合っていたの?」
すると、久子は笑い声をあげた。
「なんていうかねー。昔の源二郎さん、本っ当にハンサムな人だったのよ。あの顔に騙されて近づいていった女は数知れず――まあ、私もその一人だったってわけよ」
「おばあちゃんが、おじいちゃんに……」
驚きはしたが、そう言われると妙に納得してしまう自分もいた。
使用人としてニニィの家にやって来たのだが、それにしてはやけに源二郎に話しかけていたので、何となく普通の関係ではないと思っていたが――。
「じゃあ、いつおじいちゃんと再会したの?」
「今からちょうど六年前くらいだったかな。中野坂上駅で偶然にね。ちょうどニニィちゃんが日本にやってきた直後で、いろいろと悩んでいた源二郎さんにアドバイスを送ったことがきっかけで、また付き合いが始まったのよ」
「そうだったの……」
「最初、源二郎さんから悩みを聞かされた時は驚いたね。昔はあれだけ人間に関心のなかった男が、真剣に悩んだ表情で私に打ち明けてくるんだもん。そのせいで、それまで最悪だった彼の印象がガラッと変わったわ。きっと彼に人間の心を与えてくれたのは、紛れもないニニィちゃんのおかげね。ニニィちゃんのおかげで今の源二郎さんがいるのよ」
ここで久子は大きく咳をして、苦しそうに胸を抑える。
「おばあちゃん、大丈夫?」
「……何とかね。全く困ったものよ」
「早く病院に戻ったほうがいいよ」
「いいや。もうちょっとだけ、この景色を見させてちょうだい。これが最後なのよ。こんな中途半端なところで終わったら、死んでも死に切れないわ」
痛みをこらえるような表情になりながら、彼女はゆっくりと息を整える。
久子は大丈夫だと言っているが、ニニィにとっては今にも倒れるんじゃないかと気が気でならなかった。
強い風が吹いたので、帽子が吹き飛ばされないようにニニィは手で抑える。
「源二郎さんが言ってたけど――」
先ほどに比べて、苦しそうな声で久子は口を開いた。
「ニニィちゃんだけ、卒業式の時に泣かなかったそうじゃない」
「あっ……。うん」
「周りの女の子はみんな泣いていたのに、ニニィちゃんだけ表情を変えずに立っていて、ちょっと浮いてたって言ってたよ。あんまり悲しくなかったの?」
この人に嘘をついても仕方ないので、ニニィは正直に「うん」と答える。
今から一週間ほど前、ニニィは小学校の卒業式だった。
久子が言った通り、悲しいといった気持ちはほとんど起きなかった。
楽しい思い出が無かったわけではないが、クラスメイトとそこまで馴染みがあったわけでもないので、泣くほど感情が揺れることがなかったのだ。
「まっ。別に泣かなかったって、責めるわけじゃないから安心しなさい」
「うん……」
「でも、誰とも親しくなれずに卒業するのはちょっと寂しいわね。まあ、いろいろ辛いことはあったから仕方なかったのかもしれないけど、もう少し積極的になるべきだったのかもね」
ごもっともな言葉に、ニニィは何も言い返すことができない。
「そこはニニィちゃんの良いところでもあり、悪いところでもあるわね」
久子は顔を上げて、再びニニィと目を合わせる。
「無理にやる必要はないけど、いざという時は自分から積極的にいかないと、後で取り返しのつかないことになりかねない場合だってあるのよ。ニニィちゃんはまだ若いから平気だけど、これからの長い人生――人間関係や仕事、または恋愛でも、いつか自分から積極的にいかないといけない時がやってくると思うわ」
「うん」
ニニィはこくりと頷く。
いつの間にか、久子の口調には力強さが戻っていた。
「あなたが窮地に陥った時、私は思い切って源二郎さんにニニィちゃんに会わせてくれと頼んだ。その結果、私は幸せな三年間を過ごすことができたし、ニニィちゃんもこうして小学校を卒業させることができた。あの時の私の選択は間違ってなかったと思うわ」
「うん」
「あなたには、私の持っている技術の全てを教えたつもりよ。そんなたいしたものじゃないけど、今後のニニィちゃんの人生に少しでもプラスになれるようにね。――だから、ニニィちゃん。私は一足先に逝っちゃうけど、どうかこれからも元気でいてちょうだいね」
「おばあちゃん……」
今にも泣きそうなニニィに、久子は微笑んだ。
「そんな悲しい顔しないで。あなたはすごく頭の良い子だから、絶対大丈夫よ」
桜の花びらを浴びながら、久子は微笑んでいき――。
※
ニニィの意識は現在に戻る。
南小滝橋の目の前には、無数の桜が咲き誇っていた。
今年も神田川をアーチにするようにして、大量の花びらを咲かせている。急にイギリスに行くことになってしまい、一時はここに来ることすらできないかもしれないと危惧されたが、何とか来ることができた。
もちろん、この場所に行くことは事前に柳原花蓮から許可はもらっている。
つい数時間前、ニニィは中学校の卒業式を済ませたばかりだった。
それからすぐに中野坂上に戻り、一人でこの南小滝橋にやってきた。なので、まだ学校の制服を着たままであるし、横に置いてある鞄の中には卒業証書も入っている。
この景色もしばらく見ることができない。
ニニィにとってそれは辛いことだったが、せっかく研究所の人がくれたチャンスを逃すわけにはいかなかった。祖父を救うためには、自分が頑張るしか方法はなかった。
久子の死後、ニニィはどうすればこの世に存在する病気を治すことができるのか、ひたすら考えていた。
どうして、この世界には病気というものが存在しているのだろう。どうして、あんな優しい久子が病気で死ななくちゃいけなかったんだろう。病気に対して憎しみすら抱いていたと、表現した方が良いかもしれない。
それと同時期に祖父と通じて、研究所の人がニニィにこんな提案をしてきた。
――もし、君が望むなら、両親と同じ研究をやってみないか?
それから、ニニィは研究所の力を借りながら、独学で病気治療のための勉強をやってきた。もちろん、これで本業を疎かにしてしまったら本末転倒なので、学校の勉強や家の家事もちゃんと行ってきた。おかげで同級生と一緒に過ごす時間を確保できず、小学校に続いて中学校でもこれといった友達はできなかった。
春の柔らかい風が吹いて、桜の花びらを舞い散らせていく。
自分はこれから祖父の病気の治療法を見つけるために、イギリスに旅立たなくてはいけない。これまで独自にやってきた研究とは比べものにならないくらい、あそこでは厳しい現実が待っているだろう。
本当は良央とも別れたくはなかった。彼との生活を終わらせたくなかった。
しかし、大切な祖父の命を助けるためには、覚悟を決めるしかなかった。
ニニィにとって、瀬名源二郎は自分の父親によく似た感じの人だった。
彼女の父親は、不器用だけど真面目で誠実な人間だった。
研究で忙しい母親の代わりとして、不器用ながら幼いニニィに接してくれていた。
怖い夢を見てしまい、一人で泣き崩れている時は無言でずっとそばにいてくれた。彼が作った料理を食べて「すごくまずい」と素直に答えると、本気でショックを受けたようにがっくり肩を落とした。その姿は、奇妙な可愛らしさすら感じてしまった。
源二郎は、どこかそんな父親を彷彿させるような人間だった。
普段は仕事もテキパキと効率的にこなしていく彼だが、いざ自分がやってくると、仕事をやっている時以上に必死な様子で自分に接していこうとしているのだ。
もっとも、ニニィが祖父に対して、そんな感情を抱くようになったのは久子が来てからだった。久子がやってくる前は、自分に降りかかってくる言葉の壁だったりクラスメイトのいじめだったり、やってくる脅威に抵抗しているので精一杯だったからだ。
久子が来なかったら、自分は間違いなく他人に関心を持つことができない人間になっていただろう。
ニニィは目を閉じて、これまでの三年間を思い浮かべる。
研究のことで頭がいっぱいだった時は、別に自分に親しい人ができなくても良いと思っていた。同級生の女の子たちがアイドルやファッションの話題で盛り上がっている時も、どうしてそんなことで楽しそうにできるんだか、と心の中で馬鹿にしたこともあった。
でも、馬鹿だったのか紛れもない自分自身だった。
それに気付かされたのは、紛れもなく古川良央という人間だった。
彼のおかげで、ニニィは何かを楽しむことの喜びを初めて知ることができたのだ。
良央のおかげで彼女は初めて音楽という趣味を持つことができたし、彼と一緒に行ったスカイツリーやディズニーランドはどれも新鮮で楽しかった。
これまで全く見向きもしなかったファッションにも興味を持つようになり、新宿のデパートで可愛らしい服を試着した時の衝撃は今でも忘れられなかった。
新しい自分に生まれ変わったような感覚だった。
これまで勉強や家事といった、家の中で完結する世界しか知らなかったニニィは良央との生活で、初めて外の世界に存在するものに興味を持つことができたのだ。
――そして、人を好きになるということも、初めてこの生活で知ることができた。
ニニィはゆっくりと目を開ける。
持ってきたデジタルカメラを構えて、目の前の景色を何枚も撮っていく。これは毎年行っていることだ。撮影した写真を確認している最中、カメラの上に桜の花びらが舞い降りてきたので、思わず顔を綻ばせながら払い落とす。
絶対に戻ってこようと、写真を見ながらニニィは自分に誓った。
今、この気持ちを彼に伝えたところで、彼を大きく戸惑わせるだけである。彼が自分をそんな目で見ていないことなんて、とっくの昔に承知していることだった。
だから、せめてもの形見として、久子のレシピ本を全て彼の家に置いてきた。
彼が自分を子供ではなく大人として見てくれる日がやってくるまで、自分の存在を忘れさせないために、今の自分が最も大切にしている本をあの場所に置いてきたのだ。レシピについて全部とは言い切れないが、だいたいは頭で覚えている。
時計を確認すると、時刻はもうすぐで午後三時である。
そろそろ行かないと、出発の時間に間に合わなくなってしまう。
「さよなら……」
小さくそう呟いて、ニニィは橋を離れようとした時だった。
「ニニィ!」
背後から馴染みのある――しかし、このタイミングではありえないはずの声が聞こえてきた。
振り向くと、そこには頭に包帯が巻かれてある良央が立っていた。