ニニィ   作:個人宇宙

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【21】一人

 

 

 ようやく今日の仕事を終えた良央は、椅子に座りながら大きく体を伸ばす。

 報告書のデータを送信して、誰もいなくなった会社を出る。

 時計を確認すると、もう午後の十時を過ぎている。この時間になってしまうと、なんでこんな遅い時間まで仕事をやらなくっちゃならないんだという怒りはとっくに消え失せている。

 

 疲れた。早く家に帰りたい――。

 それだけしか、今の良央の頭の中には無かった。

 今日もクライアントのところへ行って、細かな打ち合わせをした。

 来週の土日には大阪でイベントがあり、良央もそこに行かなければならない。初めてのことで不安は募るが、ここまで来た以上はちゃんとやらないといけない。

 

 ジュースを飲む元気もなく、へとへとの体でビルの外に出る。

 その途端、凍えるような北風が襲ってきて、良央はぶるっと体を震わせてしまう。寒さで手の動きが鈍くならないうちに、良央は歩きながら音楽プレイヤーを操作する。今日はミディアムテンポの曲にしよう。

 

 カレンダーは二月になり、暦の上ではもう春だが、相変わらずの寒さは続いていた。つい五日前には東京で大雪が降ってしまい、まだ道路にはちらほら雪が残っている。

 駅前にある牛丼屋には、新作メニューの写真が入口のドアに飾られている。

 牛肉の上に野菜炒めが乗っかっており、見ているだけで涎が垂れてきそうだ。このまま中に入ってしまおうかと思ったが、結局それはやめて、そそくさと神保町駅に入った。

 

 穏やかなピアノの演奏が、すっと疲れた脳を刺激する。電車を待っている間、しばし耳元から流れる優しい世界観を堪能する。もし、この世に音楽が無かったら今ごろ自分は頭がおかしくなって発狂していたかもしれない。そう思ってしまうほど、疲れ果てていた。

 

 都営新宿線に乗っている最中、今日は何曜日だったのか一瞬忘れてしまった。

 すぐに木曜日だと思い出したものの、明日も仕事に行かなければならない事実に直面して、小さくため息を吐く。今日が金曜日だったらどれだけ幸せだったか――。そんな、しょうもないことを考えているうちに、電車は新宿三丁目駅に辿りついた。

 

 時計がもうすぐで十一時になる頃、良央はようやく帰宅することができた。

 ポケットから鍵を織り出して、部屋のドアを開ける。

 中は完全な暗闇だった。一瞬、胸の中が締め付けられるような感覚を抱いた。

 部屋の電気を点けると、朝出かける時と全く同じ光景が広がっていた。

 脱ぎ捨てられたパジャマ、くしゃくしゃになっている布団、昨晩に飲んでいたビール缶も枕元に置きっぱなしだった。一週間前だったら絶対にありえない光景である。どんなに散らかっていても、ニニィがちゃんと片づけてくれるからだ。でも、この部屋にニニィはいない。

 

 ――そうだ。ニニィはイギリスにいるんだった。

 そう思いながら、良央はビール缶を持つ。重さからして、まだ半分ほど残っている。このまま飲んじゃおうかなと一瞬考えたが、結局そのまま捨てることにした。

 

 ニニィがイギリスに向けて出発したのは、月曜日のことだった。

 今回は本格的な移住に向けての様子見と、研究所の役員とコンタクトを取るための一時的な渡英なので、三日後の日曜日には再び日本に戻ってくる予定だ。ニニィとの生活が始まってそれなりに時間が経ったが、彼女がここまで家を空けるのは初めてのことだった。

 

 小さい鍋に水を入れて火を点ける。冷凍庫から固まったご飯を取り出すと、それを電子レンジに入れる。それから台所の棚にしまっていたレトルトカレーの袋を取り出して、鍋の水が沸騰してきたタイミングを見計らって袋を入れる。

 今日の夕食はレトルトカレーだ。

 昨日まではニニィが作ってくれた料理を電子レンジで温めて食べていたが、それも尽きたので、今日は自分で作らないといけない。そういえば、冷凍ごはんも渡英する前にニニィがわざわざ炊いて、ラップに包んでくれたものだった。

 

 三分待った後、ご飯とルーが温まったのでそれをお皿に盛りつける。飲み物のお茶も用意して、居間の小テーブルに座った良央は、そのまま遅い夕食を始める。

 食べている最中、良央はリモコンに手を伸ばしてテレビを点ける。すると、すぐに有名な芸能人たちの笑った顔が映った。こんな時間にテレビを見るのは久しぶりのことだ。普段ならこの時間はニニィが寝ているので、テレビは点けられなかったのだ。

 

 しばしの自由が得られた、と思う。

 ニニィがこの部屋にやってきてからは、いろんなことが制限されていた。

 消灯時間は十時だったし、部屋中は綺麗にしないといけなかったし、ゴミ捨てを忘れたり、お風呂に入らなかったり、だらしないことをすると必ずと言っていいほど怒られた。良い子なのは間違いないが、たまに真面目すぎることを言ってきて、煩わしいと思う時もあった。

 

 カレーを食べ終えた良央は、食器を流し台に持っていく。

 すると、流し台には月曜日から溜まっている食器が積み重なっていた。洗うのが面倒だったので、余っているスペースに食器を強引に押し込んでいく。

 ニニィが帰ってくるまでは、どんなことをしても良央の自由である。だらしないことをしても怒られることはないし、ニニィの前では行えないことも悠々とできる。明日は大学時代の友人を家に集めて、久しぶりに麻雀をする予定だ。

 

 しかし――。

 レトルトカレーの味を思い出しながら、良央は小さく息を吐く。

 もう、四月から彼女の手作り料理は食べられないのだ。

 

 この仕事を終えたら、家でニニィの料理が待っている。

 この数ヶ月、それをモチベーションにして仕事をこなしてきた良央だが、彼女がいなくなってしまうと、次は何をモチベーションにしてやっていけばいいのか――。まだ、良央は見つけることができなかった。

 

 彼女が作ってくれた数々の料理が、良央の脳裏に蘇ってくる。

 ニニィが丹精込めて作ってくれた料理はどれも絶品で、お店で出されるメニューとほとんど変わらないクオリティだった。普通のお店だったらまた来店すればその味を堪能できるが、あの味はニニィにしか作ることができない。

 

 それに家事のこともある。

 ニニィがいたときは良央も手伝っていたものの、いざ彼女が不在になってしまうと、また疎かになってしまっていた。部屋はゴミや脱ぎ捨てられた服でだいぶ散らかっていたし、流し台は使用済みの皿が大量に放り込まれている。たった五日でこの有様だから、四月以降はもっと悲惨なことになるだろう。改めて彼女の偉大さを痛感してしまう。

 

 頭を掻いた良央は、そのまま寝ようと居間に戻ろうとする。しかし、昨日も風呂に入ってなかったことを思い出したので、良央は風呂場に入る。

 風呂のスイッチを押して、居間に戻った良央は部屋のカレンダーを眺める。

 

 ニニィの出発日は、卒業式から三日後の三月二十日だ。

 タイムリミットは刻一刻と迫っており、彼女との生活はすでに一ヶ月を切っている。まだ、真冬のような寒さが続いているが、来週からはどんどん暖かくなって、いよいよ待ちに待っていた春がやってくる。

 もう一度、良央はため息を吐く。

 四月以降の自分の生活を想像するだけで、どうしてこんな沈んだ気分になるのだろう。

 良央はカレンダーに載っている雪の絵を見る。早く寒い季節が終わってほしいと思う反面、まだ終わってほしくないと願う気持ちも一方ではあった。

 

 ※

 

 ニニィが戻ってきた後も、良央たちの生活に大きな変化はなかった。

 渡英までの手続きや、渡英後のサポートは全て花蓮がやってくれるので、そこまで良央たちが動く必要もなく、ただいつも通りの生活を過ごしていった。

 仕事の関係で土日もなかなか休みが取れなくなってしまったが、それでも休みが取れた日はニニィを連れて積極的に外に出るようにしていた。ニニィが部屋にやってきた当初はお互いに一歩も外に出ない日も多かったので、その時に比べたらあまりに大きな変化である。二月最後の休日には、クリスマスの時には行けなかった念願のスカイツリーに行くことができた。

 

 そして、少し春の陽気を感じるようになってきた三月の上旬――。

 この日の午前中、久しぶりに早起きをした良央はニニィをある場所に連れていった。

 そこは、中野から少し離れたところにある墓地だった。

 今日は午前中から暖かい陽気に包まれており、空も雲一つない快晴だったので、ふらふらとしているだけで気分も穏やかになりそうな天気だった。

 

「ここに俺の母さんの墓があるんだ」

 

 入口を通過した後に良央が言う。

 

「良央さんのお母さんですか?」

「まだニニィには言ってなかったけど、母さんは俺が大学一年の頃に死んだんだ。心臓発作でね。あまりに急すぎて、しばらくショックから立ち直れなかったよ」

 

 そして、良央たちは目的の墓の前に辿り着いた。これといった特徴のない普通の墓石だが、この下には確かに良央の母親が眠っているのだ。

 ニニィと良央は墓石の前で、いったん両手を合わせる。

 すでに掃除用具は用意していたので、早速二人は掃除を行うことにした。

 

「良央さんのお母さんは、どんな方だったんですか?」

 

 周囲の雑草を抜きながら、いきなりニニィは尋ねてくる。

 

「俺の母さん?」

「はい」

「そうだな。強いていうなら、小言の多い人だったかな」

「えっ?」

「冗談冗談」良央は笑う。「良くも悪くもよくしゃべる人だったね。よくきついことを言われたけど、ちゃんと俺のことを考えて言ってくれて……。良い母親だったよ」

「そうですか……」

「ニニィの母親はどんな感じだったの?」

 

 花蓮から簡単なことは聞いていたが、直接ニニィの口から聞いてみたくなった。

 

「実は、あんまりお母さんのことは知らないんです」

 

 良央は首を傾げる。

 

「なんで?」

「研究でかなり忙しかったようでして、一緒にいた記憶がそんなにないんです。いつもお父さんのそばにいたので、お父さんのことなら良く覚えています。お父さんは仕事でどんなに忙しい時でも、私と一緒に遊んでくれまして、本当に優しいお父さんでした」

「ということは、ニニィはお父さん子なんだな」

「はい。大好きでした」

 

 大きめの雑草を抜いてから、ニニィは良央を見る。

 

「良央さんのお父さんは、どんな方だったんですか?」

「ああ、俺の父さんね……」

 

 良央は固い表情で、ほうきで集めた雑草をゴミ袋に入れる。

 彼の様子に首を傾げるニニィを尻目に、掃除を終えた良央は軍手を外し、今度は墓石を洗うためにたわしと水の入ったバケツを用意する。

 

「実は、父さんと関わった記憶はほとんど無いんだ」

「えっ?」

「俺が幼い頃に離婚しちゃってね。それ以来、父さんとは一度も会ったことがない。母さんが死んだ時も告別式にやってこなかった」

「そうなんですか……」

 

 その後、墓石を丁寧に洗い終えた二人は、最後に花と線香を供えて再び両手を合わせる。良央は天国の母親に、何度やったか知らないお詫びと今日までの出来事を簡潔に報告した。

 墓参りを終えて、出口まで歩いている途中、ニニィが桜の木の前で足を止めた。

 

「もう少ししたら満開になりそうですね」

 

 彼女の言う通り、桜の木の至るところには蕾ができており、一部は花びらは少しだけ開いている。今年は三月になってから、やたら暖かい日が続いているのだ。

 

「今年はいつ頃満開になるんだっけ」

「私の卒業式の日くらいですね。今年は、平年よりやたら早く咲くらしいですよ」

 

 やけに弾んだ声で答えたので、もしやと思って良央は尋ねた。

 

「ニニィ。もしかして桜が好きなのか?」

「はい、大好きです。毎年この時期になると、よく写真を撮りに行きます」

「へーっ。そこまで好きだとは意外だな」

 

 この時、良央は良いことを思いついた。

 

「そうだ。せっかくだから、最後にみんなでお花見でもしないか」

「お花見ですか?」ニニィは目を丸くさせる。

「家の近くに中野公園というところがあって、そこに大きな桜の木があるんだ。どうせなら、最後にみんなを誘ってパーッと盛り上がるってのはどうかな? 有野くんや利香ちゃん、花蓮さん、もし大丈夫そうだったら大叔父さんも誘ってみて――」

「あ、あのっ!」

 

 いきなりニニィは声を張り上げて、良央の言葉を止める。

 

「あの、お花見は私もしたいですけど、もし、良かったら」

 

 その顔はどこか緊張していた。

 

「もし、良央さんが良いって言うなら……私たち二人だけで、お花見をしたいです」

「えっ。でも、二人だと寂しくないか?」

「いえ、そんなことはないです」

 

 彼女は首を大きく横に振る。その顔は赤く染まっていた。

 参ったな、と思いながら良央は頭を掻く。

 ニニィにとっては日本での最後のイベントなんだから、多くの人に集まってもらいたいのが良央の本音である。しかし、主役であるニニィがそう望むのなら、仕方ないけどそれに応えてやろうと思った。

 

「分かった。そこまで言うなら、二人で桜の名所でも回ってみるか」

 

 すると、ニニィの表情が一気に輝いた

「ありがとうございます」

「タイミングは卒業式の次の日――十八日とかにするか。ちょうど土日は大阪に出張しなければならないし、何とかその日に代休をもらえるようにするよ」

 

 ニニィの卒業式は、三月十七日の月曜日である。

 しかし、運が悪いことに十五日の土曜日から三日間、良央は大阪に出張しなければならず、卒業式に出られなくなってしまった。このことは先日ニニィにも伝え済みであり、彼女は残念そうな顔をしながらも許可してくれた。

 

「じゃあ、そろそろ帰るか」

 

 そう言って、良央は桜の木から離れようとした時だった。

 いきなりニニィが手を伸ばして、良央の手を握ってきたのだ。

 

「どうした?」良央は首を傾げる。

「あ、あの……。このままいいですか?」

 

 このまま、とは手を繋ぐことだろう。

 特に断る理由もなかったので、良央は了承した。

 

「ああ、いいよ」

 

 すると、ニニィは手を握る力をさらに強くさせた。

 どうしたんだ、と声に出そうかと思ったが、何となくその気になれず良央はそのまま歩き始める。

 

「ニニィ」

「はい」

「たった七ヶ月間だったけど、すごく楽しかったよ。寂しい気持ちは分かるけど、イギリスに行っても頑張れよ。応援してるから」

「……はい。ありがとうございます」

 

 彼女は頭を下げる。

 その時、生温かい風が吹いて彼女の金色の髪を揺らす。出会った時と比べて、その髪は肩まで伸びており、そのせいか急に大人っぽくなったように見えた。

 結局、家に帰るまでニニィはその手を離そうとしなかった。

 

 


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