ニニィ   作:個人宇宙

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【15】岐路

 

 

 事の発端は、この日の仕事を終えた良央がスマートフォンを確認してからだった。

 

「花蓮さん?」

 

 つい数十分前に、花蓮から着信があったのだ。

 良央の会社は年末は比較的忙しくない時期だったので、今日の退社は七時と割と早めだった。神保町駅までの道を歩きながら、良央は履歴から電話を掛ける。

 相手はすぐに出た。

 

「もしもし、花蓮さんですか?」

「良央さんですか? 申し訳ありません。突然、お電話をいたしまして」

「いえいえ。何か用ですか?」

「それがですね――」

 

 妙にぎこちない口調に、良央は首を傾げる。

 

「いえ。詳しいことは直接、面と向かい合って話したほうが良いですね。いきなりですが、これからお時間は空いていますか?」

「えっ。これからですか?」

「はい。できれば、ニニィさんも一緒にお願いできますか?」

「ニニィも?」

「はい。ニニィさんのことで重要なお話があります」

 

 良央は足を止める。急に胸の鼓動が早くなってきた。

 

「重要な話って、どういうことですか?」

「それはお電話の中ではなく、直接お話をした方が良いかと思います」

「分かりました。今、仕事場を出たばかりなので、中野坂上駅で合流してから一緒に俺の家に行きましょう。念のため、これから電話でニニィに確認しますけど、おそらく問題はないかと思います」

「ありがとうございます。では、九時にいったん駅で待ち合わせましょう」

 

 花蓮との通話を切ると、すぐにニニィの電話番号に掛ける。

 花蓮がいきなりやってくることに驚いたもの、特に予定もなかったのでニニィからも承諾はすぐに得られた。

 得体の知れない不安を抱きながら、良央は再び花蓮に電話をかけた。

 

 ※

 

 それから駅前で花蓮と合流を果たし、部屋に招いた後に彼女が発したのがこの言葉だった。

 

「ニニィさん。来年の四月からイギリスの研究所に行くつもりはありませんか」

 

 一瞬、良央は何を言っているのか理解することができなかった。隣に座っているニニィも唖然とした様子で花蓮を見つめている。

 良央は思わず軽く笑ってしまった。

 

「すいません。詳しく説明してくれますか?」

「もちろんです」

 

 そう言って花蓮は鞄から、クリアファイルに入った紙を取り出した。

 中身は英語で書かれているのでさっぱりだったが、ニニィの方はすぐに反応を示した。

 

「これ、私がこの前に出した――」

「はい。ニニィさんの研究論文です。これを私が所属するイギリスの研究所に提出しましたところ、非常に高い評価を得ることができました。私も拝見させていただきましたが、とても十四歳とは思えない完成度で、ただただすごいとしか言い様がありません」

「どうして、柳原さんが持ってるんですか?」と、ニニィ。

 

「それは後で詳しく説明しましょう。話を戻しますと、ニニィさんの論文を拝見した我が研究所の所長がニニィさんに大変興味を持ちまして、先日の遠隔会議で私が詳しいお話をしましたところ、昨日の夜、特例でオファーの命令が出されたのです。つまり、ニニィさんがご希望すれば、来年から研究所の職員として働くことができるのです」

 

「は、働くって……」震えた声で良央は返す。

「正直に申し上げますと、これは大変異例なことです。いくらニニィさんが来年の三月で日本の義務教育を修了するとはいえ、まだ十四歳――。若すぎるのではないかという意見も所内で多くありまして、結論に時間が掛かりましたが、独学でここまでの成果を出したことが大きく評価されまして、このタイミングでのオファーになりました。もちろん、ニニィさんがコルケット家の血を受け継いでいることも大きな要因となりましたが」

 

 花蓮はクリアファイルを鞄にしまう。

 

「我が研究所は、ニニィさんの両親が大きな功績を残したこともありまして、世界的にもトップクラスの資金力と技術力を兼ね揃えています。ニニィさんはまだお若いですので最初は研修生としての所属となりますが、ニニィさんの力ならば、いずれは研究所の中核を担ってもらう存在になるでしょう。この前、ニニィさんからお電話を頂きまして、その時は良央さんの家で暮らしていくと答えていましたが、どうか今一度、ご検討をお願いできますでしょうか?」

 

 急にめまいがやってきて思わず頭を押さえてしまいそうになるが、そこは堪える。

 

「イギリスということは、ニニィはそこに移住するんでしょうか?」

「そうです」

「そもそも花蓮さんがいる研究所って、ニニィの両親がいたところなんですか?」

 

 花蓮は首を傾げる。

 

「良央さんにはまだ説明してなかったでしょうか」

「イギリスの研究所にいるってことは知ってはいましたが、そこまでは……」

 

 ニニィがイギリスの研究所に行く。

 その場合、必然的にニニィはこの家を出て行くことになる。

 

「まさか、今すぐ決めろとは言いませんよね」

「はい。結論は遅くとも来年の一月中旬までにお願いします」

「あ、あの……」

 

 ここでニニィが口を開いた。

 

「さっきの論文のことですけど、どうして柳原さんが持っていたんですか? おじいちゃんから私の論文をイギリスの研究所の人に渡しているというお話は聞いてましたけど、その方は柳原さんとは違った名前でした」

「それは私の同僚の名前ですね。同僚から受け取った論文を私が本部に流していたのです」

「そうだったんですか……」

 

 ニニィは沈黙する。

 しばらくの間、ストーブの音だけが部屋の中に小さく響いた。

 

「ニニィさん。私からの説明は以上ですが、いかがでしょうか?」

 

 花蓮は尋ねると、ニニィは険しい表情で頭を抱える。

 

「分かりません。何が何だかもう……」

「そうですね。私も同じ立場だったら、きっと頭が混乱していたでしょう。しかし、どうか冷静になって考えてみてください。もし、ニニィさんが我が研究所に来ましたら、病気の源二郎さんが助かる可能性が高くなるんです」

 

 ニニィは驚いたように顔を上げる。

 

「先日、お電話でニニィさんはそのまま日本の高校に進学しまして、将来は日本の専門機関に入って源二郎さんの病気を治す研究したいと言っていました。しかし、果たしてその時まで源二郎さんは生存していますでしょうか?」

 

 良央は唾を飲む。

 それは、良央自身も頭の隅で考えていたことだった。

 源二郎の五年生存率は五十パーセントである。

 ニニィが高校に進学することになったら、間違いなく結果を残すまで五年以上の時間がかかるだろう。進学以外にまともな選択肢が無かったのも事実だが、ニニィが頑張っている間に源二郎は力尽きてしまうだろうと、良央もある程度の覚悟は決めていた。

 しかし、来年の四月からニニィが研究所に行けば――。

 

「先ほども言いましたが、我が研究所は最先端の設備と資金力を揃えておりますので、ニニィさんが望んでいる難病の研究もできるでしょう。ニニィさんが研究所に来れば、源二郎さんが生きている間に難病の治療法が確立される可能性はぐっと高くなります。少なくとも、この部屋で細々と研究書をめくっているよりかは遥かに良くなるでしょう。私の見る限りでは、ニニィさんには両親に匹敵――いや、それ以上の才能を持っていると断言します。限られた環境の中で、あれだけの論文を完成させた実力は驚嘆に値します」

 

 花蓮はここでいったん言葉を止める。

 

「私、個人としましては、ニニィさんは研究所に行くべきだと思ってます。生まれ故郷とはいえ、何年も離れたイギリスで再び生活を始めることは多大な負担になりますが、このようなチャンスは二度とありません。どうか、良い答えを出していただければと思います」

 

 ニニィは呆然と床を見つめている。

 呼吸が異様に乱れており、まだ思考が追いついていない様子だった。

 

「ニニィさん」

 

 それを見かねた花蓮が、声を穏やかにして言った。

 

「あなたの夢は、ご両親のように難病で苦しんでいる人を助けることですよね」

 

 彼女はぴくんと反応する。

 

「私はニニィさんのご両親を尊敬しております。当時、不治の病と呼ばれていた難病を抑制する特効薬を開発して、大勢の患者に生きる希望を与えてくれました。突然の不幸な事故で亡くなられてしまいましたが、その意思はニニィさんに限らず、私たち研究所の職員にもしっかりと受け継がれております」

 

 穏やかながらも、花蓮の口調は迫力があった。

 

「今、この世界には様々な難病で苦しんでいる方が大勢いらっしゃいます。我が研究所も、その方たちを救うために日夜、懸命な研究を行っております。私たちはニニィさんと一緒に、あなたの抱いている夢を叶えたいと思っております」

 

 そして、深々と頭を下げた。

 

「重ね重ねとなりますが、どうかよろしくお願いいたします」

 

 長い話を終え、花蓮はニニィが用意していたお茶を飲む。

 一息つくとスーツの内ポケットから名刺を取り出して、それをニニィに渡した。

 

「何か分からないところがありましたら、その中にある携帯番号に掛けてください。良央さんは以前、渡したことがあるので大丈夫ですよね」

 

 見てみると、確かにそれは俊樹たちと銭湯に行く前にもらった名刺だった。

 

「そうですね。俺も方からも何かあったら連絡します」

「お願いします」

 

 花蓮は手元の時計を確認すると、鞄を抱えて立ち上がった。

 

「こんな遅い時間に申し訳ありませんでした。年末年始でお時間もあるかと思いますので、お二人でじっくりと話し合って決めてください。それでは私はこれで失礼いたします」

 

 そのまま玄関へ向かおうとしたので、すぐさま良央も腰を上げた。

 

「待ってください。もう遅い時間なので駅まで送ります」

 

 花蓮は一瞬だけ驚いた顔になったが、すぐに微笑んでくれた。

 

「ありがとうございます」

 

 ニニィを部屋に置いて、良央と花蓮はマンションを出る。

 すでに時刻は九時半を回っており、夜の住宅街は静寂に包まれていた。今日の夜は特に冷え込むと朝のニュースで報じられており、肌を刺すような寒さだった。

 良央は白い息を吐いた。

 

「年末はゆっくり過ごそうかと思っていたんですけどね」

「すみません。当初は十二月中旬には結論を出す方針だったのですが、予想以上に議論が長引きまして、こんなタイミングになってしまいました」

「そうなんですか」

「ちなみに、良央さんはニニィさんが行かれることに賛成ですか?」

 

 良央は口を噤む。ニニィを預かっている人間として、どのように答えればいいのか。

 迷った挙げ句、良央は首を縦に振った。

 

「……今のところは賛成ですね。ニニィの夢は以前から聞いていましたし、それを叶える絶好の機会だと思います。でも、最終的な結論はニニィと話し合って決めたいと思います」

「前向きに考えていただきまして、ありがとうございます」

 

 花蓮は鞄を持ち直して、再び前方を見る。

 今日は分厚い雲に覆われていることにあり、夜空に月や星は全く見えなかった。今の良央の気持ちを象徴するかのように、どんよりと空は暗闇に包まれていた。

 

 


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