ニニィ   作:個人宇宙

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【13】かぜ

 

 

 この日の夜、ライブ会場を出た良央は満足そうに体を伸ばした。

 

「いやー。良かった。久々のライブはやっぱ痺れるな」

 

 一方、隣で歩いているニニィの足取りは、ややおぼつかなかった。

 

「……耳が、すごくキンキンしてます」

「結構激しかったからな。俺も初めて行った時はそうだったよ」

 

 以前、下北沢で弾き語りをしたミュージシャンがバンドでライブをすることになったので、今日はニニィと一緒に代官山にあるライブハウスに来ていたのだ。

 平日だったので、仕事帰りで会場にやってきた良央は現在、仕事用のコートを着ている。

 しかし、中のワイシャツは汗ですっかりびしょ濡れだった。

 今日はニニィも一緒だったので会場の後方でおとなしく見ていたが、久々のライブなだけあって観客も熱気もすさまじく、すぐに会場は蒸し風呂状態になってしまった。おまけに着替えをすっかり忘れてしまったので、泣く泣くこのまま帰る羽目になってしまったのだ。

 山手線で新宿駅に向かう途中、ニニィのスマートフォンが振動した。

 

「珍しいな。メールか?」

「はい。有野くんからですね」

 

 言いながら、ニニィはスマートフォンを操作していく。

 ちょうど一週間前、銭湯に行ったニニィは俊樹の謝罪を受け入れてくれた。二人の間でどんなやり取りがあったのかは知らないが、結果は良い方に向かってくれたようだ。

 

 その際、俊樹とニニィはお互いの連絡先を交換した。

 やたら俊樹がお願いをしてきたので、ニニィがやむを得ず受け入れたという感じだ。ともあれ、アドレス帳に登録されている名前が片手の指にも満たないニニィにとって、貴重な人間になったのは間違いない。

 

「良央さん。来週のクリスマスの予定なんですけど」

「うん?」

「実は有野くんから、みんなでスカイツリーに行かないかと誘われているんです」

「それって、俺や利香ちゃんも含まれているの?」

「はい。その日、有野くんの両親が急に仕事で行けなくなってしまいまして、大人の方と同行するなら大丈夫だと言ってくれたそうです」

「なるほどね」

 

 今年のクリスマスは平日だが、この時期は会社もそこまで忙しくないので、今日のように仕事を早めに切り上げれば問題ないだろう。

 

「俺は構わないけど、ニニィはどうするつもりだ?」

 

 彼女は迷った素振りを見せたので、良央は続ける。

 

「せっかく誘われたんだし、行ってみてもいいんじゃないのか。自分で言うのも難だけど、俺たちってあんまり外に遊びにいかない方だしね」

「……そうですね」

 

 どうやら、行ってもいいようだった。

 

「よし。じゃあ、決まりだな」

「本当はクリスマスなので腕によりをかけて豪華な料理を作ろうと思ったんですけど、それはまた来年になりそうですね」

「別に前日のイブでも良いような気がするけどな」

 

 呑気に会話をしているうちに、電車は新宿駅へ到着した。

 

 ※

 

 しかし、その翌日から良央の体調は急激に悪くなっていった。

 全身の倦怠感がすさまじく、頭や体の節々が痛み始めたのだ。

 原因は言うまでもなく、寒い中、濡れたワイシャツを着たまま外を歩いたからである。あの時は大丈夫だろうと楽観的に考えていたが、完全に油断してしまった。

 幸いだったのは、ニニィの三者面談をライブの前日に済ませていたことだった、もしライブ後の日程にしていたら、大変なことになっていたかもしれない。

 

 ライブの翌日、翌々日は何とか仕事をこなすことができたものの、ついに木曜日の夜に限界を迎えてしまい、部屋に戻ってきた直後、そのまま良央は玄関に倒れてしまった。

 慌ててニニィが駆け寄ってくる。

 

「良央さん。大丈夫ですか」

「いや……だめだ、さむい……」

 

 部屋の中はストーブで暖かいはずなのに寒気がひどく、良央は体をがたがたと震わせる。ニニィの介助を経て、何とか布団に移動した。

 熱を計ってみると、三十九度という高熱が出た。

 

「大変……。もうこのまま眠ったほうがいいですね。着替えられますか?」

「うん。なんとか……」

 

 パジャマに着替えた良央はそのまま眠ろうとするが、なかなか寝付くことができなかった。

 頭や体、そして喉の奥が異様に痛く、起きているような寝ているようなよく分からない状態が続いた。ニニィは毛布をかけたり、氷枕を取り換えたり、額の汗を拭ってくれたりと懸命な看病をしてくれたが、状態はなかなか改善されなかった。

 明らかにただの風邪ではなさそうだった。

 真夜中、ふと良央が目を開けると、布団の横で心配そうにこちらを見つめているニニィと目が合った。

 

「良央さん?」

 

 しかし、何も答えられずに良央は目を閉じた。

 結局、その夜は満足に眠ることができなかった。

 翌朝、良央が何とか会社に電話で休むことを伝えた直後、あろうことかニニィも学校へ休みの電話を掛けたのだ。

 

「なんで、ニニィも休むんだよ……」横になりながら良央が問う。

「良央さんがインフルエンザにかかっている可能性があるからです」

 

 良央は耳を疑った。インフルエンザなんて小学生の時にかかって以来だ。

 これでも毎年ちゃんと予防接種を受けていたが、今年はいろいろとゴタゴタしていたので、まだやっていなかったのだ。

 

「すでに私に移っている可能性もありますので、私もなるべく外出は控えるようにします」

「ニニィもインフルになったら、どうするんだよ」

「その時は、柳原さんを呼ぶしかなさそうですね……」

 

 再び熱を測ってみると、朝の時点ですでに三十九度五分だった。確かにここまで急激に熱が上がってしまう病気は、インフルエンザくらいしか考えられない。

 ニニィお手製のドリンクを飲んだ後、良央はニニィと一緒に近くの病院へ行った。

 その結果、ニニィの予想通りインフルエンザだった。

 これで一週間以上、自宅にいることが確定となった。

 診断書と治療薬をもらって自宅に戻ってきたのは、十時を過ぎた頃だった。

 

「とにかく、今は安静にしましょう。何かあったら言ってください」

「ああ……。助かるよ」

 

 毛布を何重にかぶり、良央は再び布団に横になる。しばらくウトウトしていたが、なかなか眠れなかったので目を開けると、ニニィが自分のスペースで勉強していた。しかし、集中できなかったのか、すぐに本を閉じて良央のところに戻ってきた。

 

「こんな時に勉強なんてできませんね」

「でも……いろいろやることがあるだろ」

「いいんです。私に構わず、良央さんはとにかく病気を治すように頑張ってください」

 

 この場にニニィがいてくれて、本当に良かったと思った。この部屋で暮らし始めて、ここまでひどい病気にかかったのは初めてのことだった。もし、彼女が学校に登校していたら、病院にすらまともに行けなかったかもしれない。

 お昼すぎ、再び熱を計ってみると、あろうことか四十一度の表示が出た。

 朝の時点であれだけの熱だったので、ひどくなるとは思っていたが、これはさすがに予想外だった。

 ここでニニィは上着とマスクを着用すると、良央に向けて頭を下げた。

 

「すみません。どうしても足りないものがあるので、ちょっと買い物に行ってきます」

「ああ、いってらっしゃい」

 

 玄関の扉が閉まる音がして、良央はしばし一人になった。

 薬を飲んでだいぶ時間が経ったが、そう簡単に痛みや倦怠感は無くなってくれなかった。

 寒気はようやく収まってくれたものの、目の前の景色が常にグラグラと動いており、まるで自分の魂が半分体から抜け出してしまったような感覚だった。

 

 ――ああ、俺、もしかしたらこのまま死んじゃうかもしれない。

 

 良央の中で、急に得体の知れない恐怖感が出てきた。

 風邪を引いたときは、体よりも気が滅入ってしまうことが多い。

 しかも、今はニニィが不在なので、なおさら孤独を感じてしまう。もし、このまま帰ってこなかったらどうしようと、あるはずもない想像をどんどん巡らせてしまう。

 

 良央は寝返りをうつ。

 かちかち、と部屋の時計の音がやけにうるさく聞こえてくる。

 不安だ。

 急に、一人でぽつんと眠っていることが、ひどく恐ろしいことに思えてきた。

 なんで自分はこんな場所にいるのだろう。なんで自分はこんなに苦しまないといけないんだろう。体がすごく重たい。喉も痛い。景色が歪んで見える。もしかしたら、これは神様が自分を本気で殺すためにやっているんじゃないか。これは神様の天罰じゃないのか。

 おぼろげな意識の中、良央の脳裏に一人暮らしを始めた頃のことが蘇ってきた。

 

 ※

 

 忘れもしない。あれは良央の母親――理恵が病気で亡くなった時のことだった。

 最後に見た母親の姿は、自分に対してひどく怒りを放っている姿だった。

 理恵は父親との離婚後、女手一つで良央を育ててきた。

 どんなに仕事が忙しくても家事は一切手を抜かなかった人で、特に食事については必ず自分で作ったものを良央に食べさせることにこだわりを持っていた。

 

 良央にとってそれは嬉しくもあり、煩わしくもあることだった。

 そして、高校を卒業する直前、良央と理恵は一人暮らしのことで猛烈に喧嘩をした。

 彼女は息子の一人暮らしは早すぎると反対したが、いい加減に母親から解放されたかった良央は一人になるために必死で説得にあたった。

 しかし、結局それは失敗に終わり、半ば家出同然で良央は家を出ていくことになった。

 

 それから、大学に進学した良央は家賃の安いアパートで一人暮らしを始めた。

 当初は家事くらい簡単にできると高を括っていたが、いざやってみるとなかなか面倒なことに気付かされた。家賃のためにいくつかのバイトを掛け持ちでやっていたため、家に帰ってくる頃には体もヘトヘトになっており、到底自分で料理や掃除をする気力など無かった。

 飯はいつもインスタントやコンビニ弁当で済ませ、部屋は常に散らかっている有様だった。いつしか大学で勉強するのも面倒に思うようになってきて、講義も休みがちになってきた。

 バイトと友人と遊びに行く時以外は、いつもゲームや音楽を聞いて時間を消費してきた。

 

 そんな矢先、住所を聞きつけた理恵が良央の部屋にやってくる機会があった。

 当然、だらしのない息子の姿を見た母親はひどく呆れ果てた。

 

 ――なに、だらしない生活をしてるのよ。こんな生活をしているんだったら、すぐに家に戻ってきなさい。ちゃんとしたご飯を食べさせてあげるから。

 

 当時の良央にとって、その一言はひどく自分を見下しているように聞こえた。

 だらしない生活をしていることは自覚していたが、いざそのことを口に出されると自分がひどくみっともない人間に見えて仕方なくなり、その感情が得体の知れない怒りへと変わった。

 

 ――ふざけるんじゃねえ! もう俺のことなんて放っておけよ! 迷惑なんだよ!

 

 怒りに身を任せて、強引に理恵を部屋から追い出した。

 その後も理恵は外で何かを言いながら何度も部屋のドアをノックしたが、やがて諦めたように帰っていった。しばらく、良央は頭の中で母親に対する怒りの言葉を吐いたが、いつしかそれは罪悪感に変わっていた。

 

 なんであんなこと言ったんだろう、とひどく後悔した。

 謝ったほうがいい――。頭の中の自分がそう言った。

 しかし、どうしてもそれができずに、時間だけがどんどん過ぎていった。

 その矢先、理恵が急死したと知人から連絡があった。死因は心臓発作で、家の中で倒れているのを、訪れた知人が発見したとのことである。

 

 あれを超える衝撃は、おそらく人生で二度とないだろう。

 何が何だか状況を理解できないまま、理恵の告別式が行われた。式にはかなりの人が参列をしてくれて、生前の彼女の人徳をまざまざと見せつけられる形になった。

 

 告別式が終わった後、重たい足取りで自分の部屋へと戻った。ろくに掃除もされず、無残に散らかっている部屋をぼんやりと眺めていくうちに、彼は初めて自覚した。

 本当に母親が死んでしまったんだと。

 そして、これまでの自分は母親のによって助けられてきたんだと。

 

 悲しみ、後悔、自分への怒り。

 それが一気に湧いてきて、良央はひっそりと涙を流した。

 いったい自分は、何のために一人暮らしを始めたんだろう。

 自分はできると勝手に背伸びをした結果がこの有様である。それどころか、もう二度と母親に謝ることはできないのだ。

 その後、母親が残してくれた財産がかなりあったので、良央はアパートからマンションに移り住むことに決めた。場所は中学まで住んでいた故郷の中野坂上だ。

 大学にもちゃんと通うようになり、一時期は留年の危機もあったが、無事に四年で卒業することができた。現在の部屋に移り住んだのは、つい最近のことである。

 

 家事も大学に通っていた時期は、割とちゃんとやっていた。

 食事もなるべく自分で作っていたし、部屋もそれなりに綺麗な状態を維持していた。

 しかし、社会人となって自由になる時間が大幅に減ると、再びおろそかになっていった。飯は外食で済ませることが多くなり、居間やトイレの汚れもどんどん目立つようになっていった。仕事で忙しいんだから仕方ないだろ、という言い訳を勝手に作って、勝手にやらなくなっていた。

 

 その矢先、彼の前にニニィ・コルケットという少女がやってきた。

 彼女は良央から何も言わなくても、率先して家事をやってくれる。

 しかも、その全てが完璧なのだ。さすがに彼女一人に負担を掛けさせるわけにはいかなったので、良央も少しは手伝うようになったが、もしかしたらまだ彼女に無理をさせているのかもしれない。

 

 その思いが、ずっと頭の片隅にあった。

 彼女はまだ十四歳で、他にもやりたいことがいっぱいあるはずだ。いくら病気の源二郎のために勉強しているとはいえ、少しは遊んでみたい気持ちもあるんじゃないか。

 良央が薄く目を開けると、ちょうどニニィが彼の手を握ったまま眠っているところだった。至近距離で眠っていることもあり、寝息が鼻にかかってくすぐったい。

 

 ――眠っている?

 

 この瞬間、ようやく目が覚めた良央は条件反射でニニィの手を放した。

 

 


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