ニニィ   作:個人宇宙

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【01】プロローグ

 

 

 今日の仕事を終わらせ、良央は思いっきり体を伸ばした。

 報告書のデータを送信して、タイムカードを押して外に出る。

 今日は夕方から、いくつか抱えている案件の担当者から立て続けに電話がやってきて、その対応に追われてしまった。喉がとても渇いている。

 

 ボタンを押して、エレベーターがやってくるまでの間、良央は音楽プレイヤーを取り出して、今日はどんなアーティストを聞こうかと考える。

 今日はいろいろあって精神的に疲れたので、激しい音楽で鬱憤を晴らそうと決めた。準備を済ませて音楽が鳴り始めた直後、タイミング良くエレベーターがやって来た。

 一階に出ると、彼はロビーにある自販機の前で足を止めた。

 左上にあるコーラ缶が甘い誘惑を仕掛けてきたが、そこは我慢して冷たいお茶を購入する。今、腹の膨れる炭酸飲料なんか口に含んでしまったら、せっかく彼女が作ってくれた料理が食べられなくなってしまうからだ。

 

 外に出ると、むわっとした暑さがやってきた。

 すでにカレンダーは十月なのに、依然として残暑の厳しい日が続いている。

 お茶で今日も働きまくった喉を癒しながら、良央は駅前の牛丼屋を通過する。

 新メニューの牛丼の写真が、食べてくれと言わんばかりにドアに張り付いている。一ヶ月前の自分なら、そそくさと中に入っていただろうが、彼女が来てからは外食は一度もしていない。

 

 耳元のイヤホンからは、歪んだギターが大音量で鳴っている。

 飲みきったお茶を駅のゴミ箱に捨てて、良央は改札口を通る。

 時刻は午後八時。神保町駅のホームには、良央と同じように多くの仕事帰りのサラリーマンが並んでおり、あくびをしながら良央もその列の中に入る。

 二分も経たないうちに、緑色の線が入った車両がホームに入ってきた。

 

 今日は、都営新宿線のボディでやってきたようだ。

 昨日と一昨日は、新宿線と直通運転を行っている京王線のボディ(こちらは紫と青の線が入った車両である)でやってきたのだ。

 もちろん、これは「今日はラッキー」と言えるような珍しい光景ではなく、なんてことない非常に些細な変化である。

 

 音楽プレイヤーの音量を落としてから、良央は車内に入る。さすがに大音量のまま車内に入るわけにもいかない。それくらいのマナーは弁えていた。

 新宿三丁目から丸ノ内線に乗り継ぎ、彼は家の最寄駅である中野坂上駅に着いた。

 ここから家までは徒歩十分ほどである。会社から家までは合計四十分――。短めの音楽アルバムなら、一枚通して聞けるくらいの通勤時間である。

 

 マンションに着いた良央は、そのままホールを抜けた先にある階段を昇る。部屋は二階にあるので、わざわざエレベーターを使う必要がないのだ。

 二〇五号室の前まで着くと、音楽プレイヤーを止めて、部屋のドアを開ける。

 彼女がやって来てから、帰りの際はいつも鍵を使う必要が無くなったからだ。

 

「ただいま」

 

 中に入ると、ゆっくりとした足取りで一人の少女がやってきた。

 

「おかえりなさい」

 

 透き通っているような白い肌。おかっぱで癖のない金色の髪。

 彼女の名前はニニィ・コルケット。イギリス生まれの彼女は、まだ十四歳である。まだ学校の制服を着たままで、黒のセーラー服と金色の髪が妙なギャップを醸している。

 

「飯はもう食べた?」

「いえ、まだです」

 

 横のキッチンを見ると、鍋からは香ばしい匂いが立ち込めてきた。

 匂いからしてカレーだろう。凝った料理をするニニィにしては、今日は珍しくシンプルである。

 

「じゃあ、一緒に食べるか。着替えるから、ちょっと待ってて」

「はい」

 

 キッチン前の狭い廊下を抜けて、良央は居間に入る。

 廊下と居間の間に作ったカーテンを引いて、良央はスーツから私服に着替える。

 

 彼女が良央の部屋で暮らし始めたのは、つい一ヶ月前のことだ。

 それまで八畳一Kの賃貸マンションで細々と一人暮らしをしてきた良央にとって、彼女との出会いは人生で二番目に衝撃的な出来事だった。

 

 着替えが終わり、良央たちは早速夕食の準備を始めた。

 居間をちょうど二つに分けているカーテンを開けて、良央は隅に引っ込めていた小テーブルを真ん中に置く。ニニィが二人分のカレーとお茶をテーブルに置いて、夕食が始まった。

 

「うん。うまいよ」

 

 一口食べてから、良央はそう評した。

 

「今日はカルダモンを少し多めに入れて、食べやすい感じにしてみました」

 

 ニニィの言葉に、良央はスプーンを止める。

 

「カルダモンって、スパイスのやつ?」

「はい」

 

 ここで台所の方を見ると、いくつものスパイスの名前が付いたケースが並んでいた。クミン、ターメリック、ジンジャー。どれもカレーに必要なスパイスである。

 

「もしかして、スパイスから作ったの?」

「はい」

 

 さらっと述べるニニィに、思わず感嘆の息を漏らしてしまった。

 カレーなんて市販のルーを使えばすぐに完成するのに、彼女は手間を惜しまずに手作りカレーを作ってくれたのだ。しかも、それがとんでもなく美味いときたもんだ。

 一口食べるたび、魔法みたいに仕事の疲れが取れていくような気がした。

 

 食事を済ませた良央は、皿を流し台まで持っていってそのまま洗い始める。

 

「あっ。お皿は私が洗います」

「いいよ。俺がやっとくから、自分の皿を持ってきて」

 

 一瞬、申し訳なさそうな顔をしながらも、ニニィは言う通りに皿を持ってきた。

 特にこちらから命令したわけではないのだが、ニニィは料理や掃除、洗濯といった家事全般を率先してやってくれる。

 しかも、その全てがぐうの音も出ないほど完璧にやってのけるのだ。

 

 ニニィはテーブルを片づけると、居間のカーテンを閉める。

 おそらく、私服に着替えるためだろう。縦長の八畳の居間を二人でシェアするために、簡易的ではあるが部屋の真ん中にカーテンを作ったのだ。

 窓側がニニィのスペースで、手前側が良央のスペースである。

 なんせ相手は年頃の少女である。非常に狭っ苦しくなるが、お互いのプライベートを多少なりとも確保しないと、二人の共同生活は成り立たない。お互いにちゃんと話し合った末の結論だった。

 

 皿と鍋を洗い終えた良央は、そのまま居間に戻る。

 すると、カーテンが開けられ、ニニィがひょいっと出てきた。

 すでに私服に着替えている。彼女の着るのは、いつも黒や茶色といった地味な色の服だった。

 

「トイレです」

 

 そう言って、ニニィは彼の横を通り過ぎる。

 トイレは玄関のすぐ先にあるので、必然的に良央のスペースを通り抜けなければならない。ばたん、と扉が閉まる音が聞こえた。

 

 買ってきた雑誌をめくりながら、良央は彼女に初めて会った時のことを思い返した。

 大叔父の源二郎から、突然の連絡があったのは一ヶ月前。

 そして、良央の前にやってきたのは、源二郎と金髪の少女――ニニィ・コルケットだった。話してみて、真っ先に感じたのは「おとなしそうな子だな」という印象だった。

 実際、かなりおとなしい子だった。

 

 そして、彼女が有名な医療一家の末裔である話も、その直後に聞かされたのだ。

 

 




一部修正する部分が残っていますが、完結まで執筆済みです。
年内完結を目指して投稿していきたいと思います。

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