白い犬   作:一条 秋

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81 お姫様との再会

 1月27日木曜日午後9時。

 寮の自室、その浴室で汗を流してしばらく経った光秋は、今日一日分の疲れを抱えた体を椅子に預け、先日京都で購入した本を読んでいた。

 

「ふぅー……東京に来てから、かれこれ10日かぁ…………」

 

 切りのいい所で本を閉じると、壁に掛けたカレンダー、その斜線で消された日付の数を眺めながら感慨を抱く。

 一方、

 

「といっても、肝心の研修は相変わらずというか、劣等生一歩手前って感触から抜け出せないよなぁ…………」

 

目の前に依然として横たわる大きな課題に、思わず嘆息が漏れる。

 

―こっちに来て10日……それはつまり、法子さんや綾と会ってなくて10日ってことでもあるんだよなぁ…………―

 

 それに続く形で思い出した様に浮かんできた認識に、思わず目頭が熱くなる。

 

「『ホームシック』ならぬ、『法子(ホーコ)シック』ってか?……なんて言ってると、綾が怒りそうだが」

 

 我ながらしょうもないと思えることを考えて気を紛らわそうとするものの、一度胸中に湧いた寂しさはなかなか消えない。

 その時、机の上に置いていた携帯電話が振動する。

 

「電話か……?……!?法子さん……?」

 

 見計らったかの様なタイミングに目を丸くしたのも束の間、すぐに通話ボタンを押して電話を左耳に当てる。

 

「もしもし!?」

(こんばんは光秋くん!今大丈夫?)

 

 少し動揺を含んだ光秋の声に、法子も方も心なしか弾んだ声を返してくる。

 

「大丈夫ですよ。ちょうど暇してたんで」

(よかった……10日ぶりだね。元気?)

「綾か……まぁ、ぼちぼちかな?研修は思った通り大変だけど、なんとか……ギリギリついていけてる……かな?」

 

 変わって沈んだ声で訊いてくる綾に、光秋は自分でも煮え切らないと思える返答を返す。

 

「そっちこそどうだ?僕がいなくて泣いたりしてないか?」

(してないよー!そこまで子供じゃないしっ)

 

 さっきまでの寂しさを吹き飛ばすつもりで茶化す様に言う光秋に、綾の電話越しにも膨れた顔が浮かんでくる声が返ってくる。

 

「そっか……そりゃ結構」

 

 その声音は、何よりも光秋を安心させる。

 

(アキの方こそ、大丈夫?)

「大丈夫って?」

(ここ最近、いろいろ感じてからさ。さっき訊いた時も返事いまいちだったし……)

「…………」

 

 おそらくはテレパシーによる感知なのだろう。心配の声で訊いてくる綾に図星を突かれた気がして、光秋は何も言えなくなる。

 

(言っとくけど、勝手に心読んだわけじゃなくて、いつもみたいになんとなく感じたっていうか……)

「いや、わかってる。それは大丈夫」

 

 慌てて補足説明する綾に、光秋はこうしたことにすっかり慣れた心境で応じる。

 

「こっちの生活にしたってさ、さっきも言ったように研修は大変だし、知らない土地での再スタートだから当分はいろいろごたつくだろうし、それを引いても組織――人と人の中にいるんだから、そりゃいろいろあるさね。それは必然だから」

 

 半分は自分に言い聞かせるつもりで述べると、光秋は柿崎のことを思い出す。

 

「それにさ、悪いことばっかりでもなかったんだよ。“味方”っていえる人もできたし」

(あ、そのことなんだけど……)

 

 少し盛り返した語調で告げるや、若干低くなった綾の声が返ってくる。

 

―……え?この声は…………―

 

 心中に動揺の声を漏らしながら、光秋は電話の向こうに古井戸の様な目をした綾を視る。

 

(まーた女の人にデレデレしてたでしょ!)

「してないっての!」

 

 案の定の言葉に即否定の声を上げると、一度深呼吸して気持ちを落ち着ける。

 

「そりゃあ、ちょっといい顔はした気がするよ。でも別に、変な意味じゃないさね。右も左もわからない中、気に掛けてくれたのがありがたかったからさ……」

(……そういうことなら……)

 

 その説明に納得してくれたのか、綾の声から怒気が抜けていく。

 

―しかし、こうして声に出してみて思うが……小学生に気に掛けてもらうとは、僕もかなり情けないような…………いや、そういう気持ちは主任になった後、行動で挽回していけばいい。それより……―

 

 先程までとは違う理由で再び盛り下がりそうになった気分をどうにか持ち直すと、先日の富野との会話を思い出した光秋は、今まで以上に弾んだ声で語る。

 

「そういえばこの間、富野大佐がこっちに来てさ」

(トミノ……?……え?大佐が?)

 

 首を傾げる綾に代わって、法子が意外そうに応じる。

 

(またどうして?)

「ZC対策の会議だって言ってました。トイレ行ったらばったり会ったんですけど、その後少し話しまして……“次の人”って聞いたことありますか?」

(「次の人」?……なにそれ?)

 

 法子・綾共に予想通りの返答が返ってくると、光秋はさらに気分を向上させる。

 

「もともとは横尾主任――横尾中尉のお父さんが考えていたことらしいんですが…………」

 

 それから富野との会話で得た概要を嬉々として語ると、法子の納得した声が返ってくる。

 

(なるほどね。光秋くんが好きそうな話だ)

「どうも……法子さんは、横尾中尉からそんな話聞きませんでしたか?」

(全然。純君からもだけど。2人も私も、あんまりそういうこと話さないしね)

「そっか…………そういえば、そっちの気候どうです?寒くないですか?」

 

 法子の返答と、自分だけ一方的に話し過ぎていたかもしれないという反省から、光秋は話題を変え、その後はとりとめのない会話が続く。

 京都は雪がちらつく、雪の積もった道は滑るから大変だ。研修室は暖房が効いていてありがたいが、ときどき暑く感じる、休憩時間に飲むお茶が気持ちいい。

 そんな傍から見ればなんということのない話題の積み重ねに、光秋は10日ぶりの充実感を覚えていく。

 時間を忘れて話しを続ける中、ふと机の上の時計を見ると、間もなく11時を指そうとしている。

 

―いけね。もうこんな時間か……―「すみません。もう遅いから今日はこの辺で」

(え?もうそんな……あぁ……)

 

 電話の向こうでも時刻を確認したらしい法子の声が漏れる。

 

(だね。また今度)

「はい……今日はわざわざ掛けてきてくれてありがとうございます」

(いいんだよ、私たちが話したかっただけだし)

「それでも、僕にとっては凄くありがたいですよ」

(……あたしも、アキとおしゃべりできて楽しかった)

「僕もだ……それじゃあ、また今度。おやすみなさい」

(うん。おやすみ……おやすみなさい)

 

 三者共に寂しさを含んだ声を交わすと、光秋は電話を切って充電器に繋ぐ。

 

「…………それでも、久しぶりにたくさん話せてよかったんだ」

 

 気を抜けば再び広がっていきそうな寂しさをその言葉で押し込め、それ以上の楽しさ・充実感を思い起こしながら、光秋は床に就く。

 と、先程の会話の影響だろうか、暗い中布団を被って仰向けに寝ていると、不意に綾との精神感応の思い出が浮かんでくる。

 

―そういえば、あんな超常的な感知能力……コミュニケーション手段とでもういうのか?……あれを使っても、結局認識の齟齬は残ったよな。今ではかなり曖昧になったけど、体験していた時も、「綾になっていた」というより、「綾の視点であいつの今までを見ていた」だけだった気がする。カメラの位置を変えた様に、綾の見聞きしたもの、感じたことは解っても、その根底には僕の――「加藤光秋の価値基準」があったような。綾の方も似たり寄ったりじゃなかったか?…………確かにこの部分があれば、どんなにセンサーが優れていても、本質を見極めるっていうのは難しいかもなぁ…………―

 

 そうして一度回り出した思考は止まらず、結局完全に寝付いたのは日付が変わってからだった。

 

 

 

 

 1月28日金曜日。

 昨夜の夜更かしが祟った所為か、その日の光秋は朝から瞼が重かった。

 それでも通勤のために足を動かしたり、外の冷気に晒されたりでどうにか覚醒状態を保ち、物は試しと缶コーヒーを飲んできちんと目を覚まそうとするものの、研修の専門用語の羅列は容赦なく意識を眠りへと(いざな)っていく。

 

―…………!いかん!とにかく手を動かして……―

 

 しかし光秋も黙って誘われるわけにもいかず、意識が飛びそうになる度にハッとしては意識してノートにペンを走らせ、睡魔への抵抗を試みつつ覚えるべきことを覚えていこうとする。

 そうして午前の部の前半はどうにか乗り切ったものの、10時の休憩を挟んで始まった後半、それも半分を過ぎた11時頃。

 

「………………」

 

 ついに睡魔に屈した光秋は、上半身を真っ直ぐに保ちながらもこくこくと舟を漕ぎ出す。

 思考能力が低下し、心地いい浮遊感に包まれる中、

 

「………………!?」

 

唐突に頭頂に走った激痛に一気に意識を再浮上させると、目の前に右手を手刀にした藤岡主任が、鋭い視線を向けてくるのを見る。

 

「マンツーマンで居眠りとは、いい度胸だな、加藤二曹。誰の為の研修だと思っている?」

「…………僕の為です……」

 

 低い声で訊いてくる藤岡に、光秋は恐怖と恥ずかしさに小さくなりながら答える。

 

「わかっているなら質問に答えろ。念壁を張った敵に対する対処法は?」

「え、えー…………」

 

 手刀を引っ込めながら出された藤岡の問いに、光秋は朦朧とした意識で聞いた研修の記憶から答えを探そうとする。もっとも、大部分が虫食い状態となっているため、回答の構築は困難を極めた。

 

「…………高火力、例えば機銃の集中砲火によって念壁を飽和させ、そのまま本体を攻撃する……」

「間違ってはいない。が、それはスマートな方法ではないと教えたぞ」

 

 言いながら、藤岡はホワイトボードの記述を指さす。

 

「念壁は張り方によって強度に差が出る。より狭い範囲に集中して張れば、それだけ頑強なものとなる分、範囲以外からの攻撃を受けることになる。一方広範囲、それこそ自分の周囲を囲む様に張れば全方位からの攻撃を防げる反面、一カ所ごとの防御力は低下し、極一点に集中して力を加えられれば突破されてしまう。また展開時間が長引けばそれだけサイコキノの消耗も激しくなり、均等に張ったつもりの念壁にもムラができてしまう。意識が向いていない方向からの攻撃、つまり不意打ちに弱くなるというわけだ」

「…………」

 

 重ね重ねの失敗を恥じらいながら、光秋はホワイトボードの記述と、藤岡の口頭説明を自分なりにノートにまとめていく。

 それを見やりながら、藤岡は肝心な部分に話を進める。

 

「そうなってくると、二曹が言った様な集中攻撃も確かに効果はあるが、攻撃側の消耗が激しい上に時間も掛かりやすい。大口径火器による一点突破は低消耗・短時間で決着できる一方、サイコキノにも攻撃を予見されて防がれてしまうこともある。そうなると……?」

「……一番効果的なのは、不意打ち?」

 

 不自然に言葉を切った藤岡に、光秋は先程の解説から予測したことを言ってみる。

 それに対し、藤岡は一回深く頷く。

 

「そういうことだ。ただし、これにしたって相手の注意を引き付ける囮役はいるし、攻撃側は相手に気取られないよう慎重に、かつ迅速に行動しなければならない。要は連携ができていなければならないということだ」

「……なるほど」

「また、我々特エスを運用する側の人間としては、こうした攻撃に晒されないように目を光らせる必要もある」

「攻撃される……あぁ、NPとか」

「それが一番大きいな。あとは直接攻撃には向かないが、攻撃を補助する能力に長けた超能力者とかな」

「なるほど……」

 

 藤岡との問答を重ねながら、光秋はそれらもノートに書き加えていく。

 一方、頭頂の痛みはなかなか引かず、それが研修中に居眠りしていたという事実を否応なしに思い知らされる。

 

―やってしまった…………―

 

 

 

 

 午後0時。

 

「はぁー…………」

 

 午前中の研修を終えた光秋は、1階へ下りていくエレベーターの中で先程の居眠りを思い出し、独り嘆息を漏らす。

 

―やっぱり、昨日の夜更かしがいけなかったか……?まさか寝てしまうとは……―

 

 藤岡への申し訳なさや失敗に対する羞恥から顔を俯けていると、扉が開き、とぼとぼした足取りで1階に降りる。

 正面玄関に近いエレベーター乗り場の周囲はそこそこ人の往来があり、

 

―ま、過ぎたことを悔やんでも仕方なし。今後は就寝時間に注意しよ―

 

そう反省しながらその人波に乗って食堂へ向かおうとする。

 その時、

 

「すみません!」

「?」

 

周囲の複数の話声を押しやる様なよく通る声が背後から響き、思わず足を止めた光秋は、振り返った先に自分の許へ真っ直ぐに向かってくる人影を見る。距離が近付くにつれて、癖のある茶髪を背中を覆う程に伸ばし、黒縁メガネを掛けた白いコート姿の日系女性と判ってくる。

 

「やっぱり!光秋さんですね!」

「……あの、どちら様でしょうか……?」

 

 自分の前で止まるや、少し息を上げながらも嬉々として言うメガネの女性に、見覚えのない光秋はど忘れの不安を覚えながら訊ねる。

 

「あぁ、これじゃわかりませんよね……ちょっとこちらに」

 

 周りを行き交う人々を一見するや、女性は光秋の手を引いて近くの曲がり角へ向かう。

 

「あ、あの……!?」

 

 突然手を引かれたことに加え、――コートで正確な太さはわからないものの――女性の細い腕からは想像できない程の力を感じ、光秋の不安は小さな動揺に変わる。

 その間にもエレベーターからある程度離れた人気(ひとけ)のない所まで移動すると、手を離した女性は光秋と向き合い、

 

「私です。私!」

 

と、メガネを上げて裸眼を見せながら告げる。

 

「…………えー…………」

 

 それでも心当たりのない顔に光秋が困惑していると、女性は再度周囲を見回し、声の大きさに注意しながら言う。

 

「祝賀パーティーの時はお世話になりました。まさかこんな所でまたお会いできるなんて!…………()()()()()()()()()!」

―『ご縁』?…………!―「あぁっ!!」

 

 女性の説明と、何よりも最後に強調して言われた「ご縁」という言葉に、光秋は半月程前の新年祝賀パーティー警護で会ったさる家系の女性――鷹ノ宮涼子のことを思い出し、驚愕の声を上げる。

 

「た、たか……の……りょ、りょう……――!」

 

 動揺のあまりすっかり回らなくなった口に、涼子はそっと左手を当てて塞ぎ、右の人差し指を自分の口の前に持ってくる。

 

「…………」

 

 その動作に静かにしてくれという意思を読み取ると、光秋は口の調子を整えることも兼ねて一度押し黙り、3回程深呼吸して動揺を鎮める。

 そうして口も気持ちも落ち着くと、今一番の疑問を、声の大きさに注意しながら問う。

 

「……本当に、涼子様なんですか?」

「はい。あ、ただ今は、『鷹野(たかの) (すず)』と呼んでください。この格好の時の名前なんです」

「はぁ…………で、何で変装なんて?」

「先日お会いした時にも触れましたが、いろいろとややこしい身の上なもので。外出の時は人目を気にしなければいけませんから……」

「なるほど……」

 

 最後の方はどことなく自虐気味に話す涼子に、光秋はその複雑な立場を完全とはいえないまでも察し、一応の納得を覚える。

 

「それともう一つ、何で本部に?」

「気になる予知を感知したので、その報告に」

「予知?」

「私、レベル6の予知能力者ですから。小さい頃から、能力の検査やこういう報告で、本部にはよく訪れていて」

「そうなんですか……」―予知ってこんなふうに算出してるのか?―

 

 涼子の説明に、光秋は傾げていた首を伸ばしつつ、新たに素朴な疑問を抱く。

 と、今度は涼子の方が訊いてくる。

 

「私からも訊きたいのですが、光秋さんはいつからこちらに?定期的に通っていましたが、今日まで一度も見掛けたことがありませんが?」

「あぁ、10日くらい前に、京都から異動になって」

「京都から…………もしかして、特エスの主任ですか?」

「何でわかったんです!?」

 

 自分の現状を的確に当てた涼子に、光秋は先程とは違う質の驚愕を覚えるものの、当の涼子も若干の困惑を浮かべる。

 

「え?本当に……?いえ、パーティーでお会いした時はESOの制服を着ていらした光秋さんが、今はスーツを着ているので……ESOで私服勤務の仕事と聞いて真っ先に思い付くのが特エス主任だったので、試しに言ってみたのですが……」

「あぁ……なるほどね……」

 

 推測過程を説明されて納得する一方、光秋はふと思う。

 

―結果的には偶然の正解だったとはいえ、服装ってよく目に付くものを手掛かりに、その場で手に入れられない情報は事前に知り得たこと――「知識」とでもいうのか?――で補いつつ、状況を正確に把握しようと努めるか…………こういうのを「洞察」っていうのかな?―

「……あの、光秋さん?」

「!……あぁ、すみません」

 

 不安そうな涼子に声を掛けられて、光秋はようやく現実に戻ってくる。

 

「私の顔になにか付いてましたか?先程からじっと見られて……」

「あ、そんなに見てましたか?」

 

 心なしか照れた様子で言う涼子に、光秋は無意識の内にしていたことを指摘されて少し恥ずかしくなる。

 

「すみません……ちょっと前に変わった話を聞きまして、その所為か、涼子様――」

()()()

「あぁ……スズ……さん?……の仕草を見ていたら、ついいろいろ考えてしまって……失礼いたしました」

 

 鋭い訂正に若干困惑しながら応じつつ、光秋は頭を下げる。

 と、後ろから声が掛かる。

 

「お嬢様!こんな所にいたんですね!」

「?」

 

 やや焦りを含んだ声に振り返ると、光秋はこちらに速足で近付いてくる黒髪を後ろに1本に結った女性を見る。歳は20代後半くらいだろうか。黒のビジネススーツに茶色いコートを羽織り、すたすたと歩を進める様子が活動的な印象を与えてくる。

 

古泉(こいずみ)さん?なにか?」

「なにかじゃありませんよ。ずっと車で待ってたのに一向に戻ってこないから、予知部の方に電話を入れたらまだ来てないと言われて、何かあったのかと慌てて探しに来たんですよ」

「え!?そんなに時間が……」

 

 「古泉」と呼ばれた女性が若干怒りを込めながら告げると、涼子は慌てて左手首の腕時計を確認し、途端に狼狽を浮かべる。

 

「えっ!?もうこんな!!……すみません光秋さん!今回はこれで!!」

「あ、はい……?」

「さ、早く!!」

 

 突然の事態についていけていない光秋を差し置いて、古泉に急かされた涼子はエレベーター乗り場へ駆けて行く。

 

―……涼子様って“さる家系”――厳密にはその親戚筋なんだよなぁ……あのコイズミって人、侍女ってやつか?もしくは護衛か……いやでも、だとしたら今まで涼子様一人だったのは何で…………―

 

 静かになったのを機にふと浮かんだ疑問を考えてみるものの、圧倒的情報不足の中で浮かんでくるものはなく、仕方なく思考を中断した光秋は、当初の目的通り食堂へ向かう。

 

―それにしても、まさかこんな形で涼子様と再会するとは。変装には驚かされたが……でもよくよく考えると、立場のある人だからなぁ。私生活とか何かと気を遣うんだろうし、必要なことなのかぁ…………?―

 

 祝賀パーティー以来の予想外の形での再会、その時の動揺を思い出しながら、光秋はよく知らないなりに涼子のことを察してみる。

 そうしながらも食堂に入り、注文を済ませてトレーを受け取ると、混み合っている中でどうにか見付けた席を素早く確保し、頼んだ塩ラーメンをずるずるとすすっていく。

 

 

 

 

 食後、気分転換に本舎の中をふらついていた光秋は、不意に目に入った構内地図の前で足を止め、遊び感覚で現在位置を探してみる。

 

―今いるのは……ここか…………あ―

 

 さらにその周囲を見回すと、進む先に予知関連の部署があることに気付き、食前に交わした涼子との会話を思い出す。

 

―涼子様、あの後この辺りに行ったってことか…………―

 

 その時、

 

「!光秋さん!」

「?」

 

驚きを含んだ声で名前を呼ばれ、声がした方を向いた光秋は、先程と同じ癖のある長い茶髪にメガネ姿の涼子と、その後ろに控える様について来る古泉を認める。

 

「涼子さ――スズさん?まだいらしたんですか」

「今終わったところです」

 

 勝手に帰ったと思っていた光秋は意表を突かれながら言い、涼子は少し疲れた様子で応じる。

 と、急に何かを思い付いた様に顔を上げ、迷った様に視線を泳がせたのも数瞬、涼子は光秋の目を見据えて告げる。

 

「その……この後お時間あるようでしたら、少しお話できませんか?」

「この後?」

 

 言いながら、光秋は腕時計で時間を確認する。

 

「12時35分……1時から用があるので、それまででしたら」

「ありがとうございます!」

 

 光秋の返事に涼子は笑みを浮かべると、後ろの古泉を見やる。

 

「大丈夫ですよね?古泉さん。今日はこの後用事はありませんし」

「えぇ、確か……ところでお嬢様、この方は?」

「あぁ、ESOの加藤光秋さんです。先日パーティーでお会いしました。光秋さん、こちら私の……掻い摘んで言うと“マネージャー”の、古泉奈々未(ななみ)さんです」

「古泉です……パーティーでお会いしたということは…………もしかして、襲撃からお嬢様を守ってくださった!?」

「えっ?」

 

 途端に真剣な眼差しで訊いてくる古泉に、光秋は一瞬どう答えるべきか悩む。

 

―これはどうしたもんかな?正直に話すとニコイチ関連に話が及んで具合が悪いが……いや、別れ際、涼子様にはその辺りについて釘を刺した記憶がある。なら、それとなくはぐらかすくらいでも大丈夫か?―

 

 多少の不安は残りながらもそう断じると、光秋は不自然に長く空いてしまった気がする間を埋める様に口を開く。

 

「……えぇ、まぁ……守ったというか、避難していたところを誘導したんですが。そうですよね?」

 

 努めて自然体に語りつつ、同意を求める目を涼子に向ける。

 

「え?……えぇっ!そうなんです。何処に行けばいいかわからなかったところを案内していただいて……」

―……大丈夫か!?―

 

 一瞬ハッとして慌てて応じる涼子の様子に、光秋の中の不安は増大する。

 が、

 

「……そうですか」

 

一瞬訝しむ様な顔をしたものの、古泉は特に追及することなく、姿勢を正して光秋を見据える。

 

「何であれ、お嬢様を助けていただいたこと、私からも感謝いたします。ありがとうございました」

「あ、いえ、僕も自分の仕事しただけですから……」

 

 深々と頭を下げる古泉に戸惑いながら、光秋は思ったことを告げる。

 と、

 

「仕事をした、ですか…………」

 

―……何だ?どこか張り詰めているような……悔やんでるような……?僕変なこと言ったかな?―

 

何気なく言った自分の一言を顔に少し影を落としながら呟く古泉に、光秋はさっきとは違う不安を覚える。

 もっともそれも束の間のことで、すぐに涼子が光秋の手を引いてくる。

 

「それはそうと、早く行きましょう!時間が勿体ないです」

「え?あの…………」

 

 再び女性にしては強く感じる力で引かれることしばし、光秋は最寄りの自動販売機の近くに誘導される。先日富野大佐と話した場所だ。

 

「いいんですか?あの人……コイズミさんでしたっけ?置いてきちゃって」

「彼女は千里眼持ちですから。レベルが高いからEジャマーが効いていてもおぼろげに感知できますし、すぐに駆け付けられる距離にいれば大丈夫です」

「あぁ、あの遠くのことがわかる能力ね……とっ」

 

 涼子の説明に抱いていた心配を払拭するや、光秋は自動販売機に小銭を入れようとしていた涼子を制する。

 

「ここは僕が持ちます」

「いいえ、そういうわけには。誘ったのは私ですから」

「女の人に奢らせたら格好がつきませんよ。僕の顔を立てると思ってここは」

 

 食い下がる涼子に応じながら、光秋は自動販売機に小銭を入れる。

 

「何にします?」

「……では、レモンティーを」

「ホットで?」

「はい」

 

 遠慮がちな涼子の注文を聞くと、光秋はレモンティーのボタンを押し、自分も熱い緑茶を購入して傍らのベンチに腰掛ける。

 

「……正直、さっき会った時は驚きました……その髪、染めたんですか?」

「ウィッグです……ほら」

 

 率直な感想を述べながら疑問を投げ掛ける光秋に、左隣に座る涼子は茶髪を掻いて、隠れていた首元に短くまとめた黒髪を見せる。

 

「あぁ、こうなってるんだ。メガネは?」

「伊達です」

「やっぱり」

 

 案の定な返答に、光秋は納得しながら短く返す。

 

「今度は私から訊きたいのですが……先程飲み物のお代を払っていただいたのは……その……私がそういう立場の人間で、気を遣ったからですか?」

「気を遣う……?」

 

 言っていいのか迷った様子で訊いてくる涼子に、質問の意図をいまいち把握し切れていない光秋は返事に困ってしまう。

 涼子も涼子で、言ってしまったことを後悔する様に顔を俯け、両手で持て余しているレモンティーの缶に視線を逃がす。

 

「すみません……本当はこんなこと、訊くようなことじゃないし、普段ならそんなに気にならないんですけど…………何故か今日は気になってしまって……」

「……まぁ、そりゃ多少は気を遣いますね。さる家系の親戚筋……僕みたいな庶民からすれば『お姫様』と言ってもいいような立場の人が一緒にいれば。それは確かだ…………ただ、それを差し引いても、やっぱり男が女の人にお金を出してもらうっていうのは格好がつかないというか……て、これじゃ聞きようによっちゃ性差別かな?」

 

 言いながら、光秋は自分の返答に苦笑を漏らす。

 

「とにかく、半分以上は僕の個人的な美学ですから。あんまり気にしないでください」

「…………それなら、いいのですが」

 

 そう付け加える光秋に、涼子は俯いていた顔を少し上げ、缶のフタを開けてレモンティーを一口飲む。

 と、今度は顔を上げて、遠くを見る様な目で語り出す。

 

「赤裸々に言えば、小さい頃から不特定多数の人にいろいろな感情を向けられるのは慣れていました。生まれもそうですし、さっき説明したように高いレベルの予知能力がありましたから、昔からそれでESOに協力していて、それを強調する形でマスコミにも取り上げられ続けて…………だから、初対面の人に突然親しげに声を掛けられたり、逆に突然罵倒されて指を指されたり、そういうのには慣れっ子でした…………でも、初めて会った時の光秋さんは、そのいずれとも違うと感じました」

「初めて会った時?…………あぁ、迎賓館の裏手ね」

 

 聞かれているかどうかはあまり気にせず、胸の内にあるものをひたすら声に出そうとしている様子の涼子に、光秋は確認しながら応じる。

 

「あの時、光秋さんは純粋に私のことを心配してくれたと、少なくとも私はそう感じました。生まれや能力に関係なく……その、何と言っていいのか…………“私”を見てくれたと感じました」

「そりゃあ、まぁ……あの日は寒かったですから……」―というか、あの後法子さんに教えられるまで、涼子様のことなんて全く知らなかったからな。単純に『薄着の人が立ってる』くらいしか考えてなかったような……―「あーでも、『けっこう美人だなぁ』くらいは思ったかなぁ……」

「…………美人、ですか?私が?」

「えぇ」

 

 その時のことを思い出して湧き上がってきた無知に対する恥じらい、それを誤魔化す様に呟いた光秋に、涼子は心なしか顔を赤くする。

 

「?……大丈夫ですか?顔赤いけど」

「え?……えぇ、大丈夫ですっ。レモンティーで温まったかな!?」

「それならいいですが……まだまだ寒い日が続くだろうから、風邪には気を付けてくださいね。僕もだけど」

 

 そんな涼子を多少心配しつつ、光秋は不意に東京に引っ越す前日、京都巡りから寮に戻るバスの中で伊部姉妹と交わした会話を思い出す。

 

―『変わったのは周りじゃなくて、僕の認識』……考えてみれば、涼子様の素性を知る前と後で、確かに僕の態度も変わってきたような。さっき正直に言ったように、多少は気を遣っているというか――どうしても“壁”を感じちゃうよな。それは、『さる家系の親戚筋としての涼子様』を知ってしまった――先日の富野大佐との話で言うところの『偏見』・『先入観』を持ってしまったから、と言い換えることもできるか……―

 

 そこまで考えると、光秋は改めて涼子に視線を向ける。未だ赤みを残す顔でレモンティーをすする涼子は、その視線に気付くことはない。

 

―涼子様が『慣れっ子になったこと』っていうのも、結局はそういうことなのか?一人一人が断片的な、あるいは強調された情報から抱いた『鷹ノ宮涼子というイメージ』を、こうして実体を持った本人に投影している――偏った見方をしている。そして、僕もそれに陥りつつある…………―

 

 そうして導き出された理解に、光秋はひどくもの寂しい気持ちになる。

 

―初めて会った時のことを話す涼子様、どこか嬉しそうだった。それは、知らなかったとはいえ、僕が彼女に対して偏った見方をしなかったから……か?小さい頃から不特定多数の感情を向けられてきた涼子様にとっては、あんな些細な接し方でも嬉しかったってことか…………なら―

 

 胸の中で決意と言っては大袈裟な、しかし確かな判断を下すと、光秋は上着のポケットから携帯電話を取り出す。

 

「すまないがスズさん、連絡先教えてくれないか?」

「……え?あの……」

 

 藪から棒な申し出と、何よりも急に砕けた口調になった光秋に、涼子は目を丸くする。

 

「あぁ、いろいろ考えてさ、少なくともその姿でいる時――2人だけの時は、これくらいの距離感がいいのかなって思って……びっくりしたかね?」

「……いきなりだったので、ちょっと」

「そりゃ失礼」

「いえ……私の方も、そうしていただけると助かります!あ、連絡先ですよね!」

 

 説明する光秋に嬉々として応じると、涼子はコートのポケットから携帯電話を出し、それぞれ連絡先を交換し合う。

 

「あ、僕と同い歳……1カ月お姉さんか」

 

 送られてきた情報を確認するついでに拝見した生年月日――「1991.05.05」という日付に、光秋は思い付いたことを言いつつ、画面端の時計を確認する。

 

「あっと、そろそろ戻らないと」

「もうそんな?……わざわざ付き合っていただき、ありがとうございます」

 

 言いながら腰を上げる光秋に、涼子は少し寂しげな顔を浮かべつつ、こくりと頭を下げる。

 

「いやいや、こちらこそいろいろ勉強になった。なにより、スズさん――『涼しい』って書くのか?――とは、なにかと縁がありそうだしな。東京に一人で来た身には、今後とも仲よくしてくれると助かる」

「はいっ!こちらこそ!」

 

 画面を一見して字を確認しながら応じる光秋に、涼子――涼は柔らかな笑顔を返してくれる。

 

―ホント、笑顔が素敵な人だなぁ……―「じゃあ、僕行くから…………あ」

 

 言って歩き出したものの、不意に浮かんだ疑問にすぐに足を止めた光秋は、振り返って涼に問う。

 

「そういえば、今日ここに来た理由の予知って、何だったんだ?」

「あぁ。この近くにある住宅地の1件に空き巣が入る光景が視えたので、念の為にと」

「……意外と地域密着型だったんだな」

 

 てっきり大事件を予想していた割に身近な事案が返ってきて、拍子抜けした感想を溢しながら、光秋は今度こそ研修室へ向かう。

 

―…………あ。またお茶飲むの忘れた―

 

買ってからずっと左手に持っていた緑茶の缶を伴って。

 

 

 

 

 速足で離れていく光秋の背中を見送りながら、涼子は寒さにも似た寂しさを和らげる様に、いくらか(ぬる)くなったレモンティーを口に注ぐ。

 

「随分と楽しげな時間でしたね」

「……古泉さん」

 

 光秋が去ったのを感知してやって来たのだろう古泉に、涼子は顔を向けながら応じる。

 

「……えぇ。いろいろありましたけど…………急に口調が変わった時は驚きましたけど、それでも、光秋さんがそういうふうに接してくれることは、嬉しかった」

「私としては、お嬢様にあのような口の利き方をするのはいただけないのですが」

 

 会話中、特に連絡先の交換をした時のことを思い出して少し気分が回復する涼子に対し、古泉は角を曲がって消えた光秋の背中に若干険を含んだ視線を向ける。

 

「私はそれが嬉しかったんですっ。連絡先だって教えていただいたしっ」

「……恋ですか。お嬢様も乙女ですねぇ」

「こ、恋っ……!?」

 

 からかう様な、感心した様な緩い顔で言われた古泉の一言に、狼狽を浮かべた涼子はそれ以上何も言えなくなる。

 

 

 

 

 午後8時半。

 寝間着に着替えた光秋は椅子に腰を下ろし、涼子――涼からもらった連絡先を改めて確認する。

 

―自分から申し出たこととはいえ、まさか“お姫様”の連絡先を知ることになろうとは…………一会(いちえ)では終わらなかったか―

 

 以前鴨川で綾に語ったことを思い出しつつ、目の前の現状につい感慨深くなってしまう。

 その時、持っていた携帯電話が振動し、着信を知らせる。

 

「法子さん?またか?」

 

 一日経って再び掛けてきた法子、あるいは綾の意図を測りかねつつ、昨日の失敗を繰り返さないよう自戒しつつ、それでも心なしか弾んだ心境で光秋は電話に出る。

 

「もしもし?」

 

 直後、

 

(…………光秋、まーた女の人にデレデレしてたでしょ)

「!?」

 

仄暗い井戸の底から這い出してきそうな綾の低い声がスピーカーから響き、光秋は途端に戦慄する。

 

「いや、だから、別にデレデレなんて――」

(嘘ッ!お昼頃女の人と……この間のパーティーの人と話してる気がしたっ!!)

「…………お前さんのセンサーはどうなってるんだ……?」

 

 妙に的確な綾の感知能力に、呆れと感心がない交ぜになった声を漏らしつつ、光秋はどう説得するか頭を抱えることになる。

 法子も進んで弁護してくれることもなく、伊部姉妹を納得させるのに再び夜遅くまでかかってしまった。


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