白い犬   作:一条 秋

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79 前任者の思惑

 1月23日日曜日午前10時。

 昨日柿崎と交わした約束に従って、光秋は電車を降りて本部の正門前へ向かう。

 厚手のズボンにコートを着込んでいるものの、顔に吹き付ける風は今日も冷たい。

 

―うー寒っ……今更だが、本当に見舞いの品用意しなくてよかったかな?―

 

 冷風に震え上がりながら、手ぶらの身に遅まきながら不安を覚える。

 

―……いや、昨日柿崎さんとも話した通り、状態がわからないんじゃ下手に持って行かん方がいいか。何か言われたらキチンと謝っておこ―

 

 そう思うことで不安を押しやり、寒さに追い立てられる様に歩を速めていると、いくらもせずに正門に着く。

 周囲を見回すが、柿崎はまだ来ていないようだ。

 

「……待つか…………寒いっ!」

 

 吹き付ける強風にコート下の肌を粟立たせていると、駅側から声が掛かる。

 

「加藤さーん!」

「おぉ、柿崎さん。おはようございます」

「おはようございます!」

 

 挨拶を交わしつつ、ここまで来るのに駆け足だった柿崎は一旦呼吸を整え、改めて光秋に顔を向ける。

 

「すみません。遅れちゃって」

「いや、僕も今来たとこだから……ところで、柿崎さんって確かテレポーターだったよな?」

「はい……?」

「いや、走って来たみたいだからどうしたのかと。もちろん、超能力の私的利用はあんまり歓迎されないけど……」

「……それもありますけど、入間主任が、『超能力ばかり使ってると体が(なま)るから、普段はできるだけ歩きなさい』って」

「なるほど……じゃあ、その入間主任の部屋に案内してもらおうか」

「はい」

 

 不意に浮かんだ疑問を解決すると、光秋は柿崎に続いて正門をくぐり、医療棟へ向かう。

 その間にも、光秋は思ったことを訊いていく。

 

「そういえば、駅の方から来たみたいだけど?」

「住んでる寮がその近くなので」

「寮?家から通ってるわけじゃないのか?」

「私、奈良出身ですから」

「奈良?また遠いなぁ。僕の前の職場の方が近いくらいだ」

「……加藤さんは確か、京都支部から来たんですよね?」

「あぁ。でも出身は新潟」

「新潟!?……京都と新潟もかなり遠いですよね?」

「まぁね……“遠い”ねぇ……」

 

 目を丸くする柿崎に、光秋は空を見やり、「向こう側の新潟」を思い浮かべながら返す。

 そうしている間にも医療棟の玄関をくぐり、柿崎先導の下に廊下を進み、突き当たりにあるエレベーターに乗り込んで上昇する。柿崎が押した階で降りると、また廊下を少し進んで入間の病室の前に着く。

 

「ここです」

「うん……」

 

 柿崎の言葉に応じてドア横の表札を確認すると、光秋はドアをノックする。

 

「はい?」

「失礼します」

 

 中から入間の返事が聞こえると、光秋はドアを開けて病室に入り、柿崎もそれに続く。

 

「どうも入間主任。御加減はいかがですか?」

「加藤さん。菫もまた来てくれたの?」

「私は、加藤さんに道案内頼まれて……」

 

 一礼する光秋に、ベッドの上で上体を起こしている入間は嬉しそうな顔を浮かべ、柿崎は少し照れる。

 

「そう。おかげさまで、だいぶいいですよ。先日はどうもありがとうございました」

「それはなにより……」

 

 柿崎と光秋にそれぞれ応じ、深々と頭を下げる入間に、光秋はその腕を見やりながら返す。

 殆ど病床衣のゆったりとした袖に隠れて見えないものの、手首の周りからは腕全体に巻き付けられた包帯がちらっと覗き、その下にあるだろう銃弾が掠ってできたいくつもの傷を想像する。

 

「……」

 

 今は掛布団に隠れて見えない脚の方も似た様な状態だったことを連動的に思い出すと、暖房が効いているはずの病室で背筋を震わせ、心なしか手足に切られた様な痛みを薄っすら覚える。

 

「……あ、お見舞いが遅れてしまって申し訳ありません。研修のことでいっぱいいっぱいで、恥ずかしながら頭が回らなかったもので。それと、主任の状態がわからず手ぶらで来てしまい……」

 

 そんな感覚を忘れたいこともあって、光秋は今回の見舞いで気になっていたことを詫び、頭を下げる。我ながら言い訳がましい物言いに恥ずかしくなるが、今に限ってはその恥ずかしさが悪寒と幻覚痛とでもいうべく感覚を上書きしてくれるのがありがたい。

 

「あぁ、いいんですよ。突然の転勤でいろいろ大変だったでしょうし、こうやって来てくれるだけで、部屋から出られない身には嬉しいものです。なにより加藤さんは命の恩人なんですから、あまり気にしないでください。それより、いつまでも立ってないで座ってください。菫も」

「……では、失礼します」

「……」

 

 詫びに返しながらベッド脇の丸椅子を勧める入間に光秋は応じ、柿崎もちょこんと頭を下げてそれに続く。

 

―言われてみれば、個室で一人きりの身に、来客は嬉しいよなぁ……―

 

 柿崎の分の椅子を用意しながら、中学の頃に虫垂炎で入院した時のことを思い出した光秋は、入間の言葉に一人共感しながら自分の椅子に腰を下ろす。

 

「…………」

 

 途端、何を話していいかわからなくなる。

 

―どうしよ?一応推薦の件は訊きたいけど、流石にいきなりは……かといって、他に気の利いた話題も思い付かないし…………柿崎さん、なんかないか?―

 

 小学生に頼ることに情けなさを覚えながらも、沈黙に耐えかねた光秋は左隣の柿崎に期待の目を向ける。

 その思いが通じたのかはわからないが、タイミングを合わせる様に入間が柿崎を見ながら口を開く。

 

「昨日は殆ど桜ばっかりが話して、菫は隅で黙ってたけど、なにか言いたいことあったんじゃない?」

「……ううん。具合のこととか、いつ退院できるかとか、知りたいことは全部桜が訊いちゃったから……」

「そう?……加藤さんも、何か言いたいことがあるんじゃないですか?」

「……そちらから振っていただいたのは、正直ありがたいです」

 

 意図的と判る入間の目配りと問い掛けに、踏み出す機会を与えてくれたことに感謝しつつ、光秋は本題に入る。

 

「本部に来てから――いいえ。祝賀パーティーの後に転属の指示を受けてからずっと気になっていました……何故、僕が主任の後任に指名されたのでしょうか?ご存知かと思いますが、僕は一般部隊の一介の隊員に過ぎません。しかもESOに入ってからまだ1年にも満たない……自分で言うのもなんですが、まだ『新人』と言っていい。ましてや特エス主任――というより、『人を使う』ことそのものが丸っきり素人というか、畑違いの分野です。そんな人間が、何でこんな“花形”に就けたのか……」

 

 現状に対する愚痴も交えていることを自覚しつつ、気になっていることを言い切ると、真っ直ぐに入間の目を見据える。

 それを見返しながら、入間はゆっくりと語り始める。

 

「あなたの認識は、概ね正しいでしょうね。確かに、通常の人事ではまずあり得ないことでしょう。私が復帰するまでの間、他の主任に任せる方が理に適っている」

「そうです。それなのに何故……小耳に挟んだ話では、そう言う入間主任自らが僕を推薦されたとか。どういうことです?」

「……一番大きな理由としては、加藤さんがUKD‐01――いえ、今はMB‐00というのでしたね――その試験要員だったからだそうです」

「ニコイ――00の?」

 

 思わぬところで出てきたニコイチの識別番号に、光秋は意表を突かれる。

 

「これは私も断片的に聞いた話なのですが、サン教のベース制圧の際にDD‐02が乱入した一件以降……というより、もっと前からそれらしい話はちらほら聞こえていたのですが……本格的な人型兵器の開発が急がれていたそうです。それと並行して、超能力戦力の新しい運用方法を開発できないかと。こうした流れに加えて、テロリストによる人型兵器を用いた先日の一件が、それに拍車を掛けたとも」

「……つまり、人型兵器の試作品を試験的に使っている僕と、レベル9の入間隊の特エスたちのセット運用を試みたい……と?」

「そのように考えている者もいるようです」

 

 自身の要約を肯定した入間を見て、光秋は否応なしに合点する。

 

―なるほど。要するに、DDシリーズによる襲撃、NPやZCによる人型兵器を用いた攻撃、そうした“新たにできた状況”に対して、新しい対処法を研究する……その実験要員ってことか。DDシリーズこそ超能力は無効化されるが、それ以外――NPやZCに対しては、確かにそういうのも必要か。人型兵器――メガボディって新兵器に関しても、追々いろいろ調べる必要があるんだろうし…………ただ……―

 

 さらに大まかな状況整理を行いながら、それでも引っ掛かるものを感じる。

 

「それでも解らないのは、僕に主任までやらせることです。今の話に従うなら、僕はあくまで00の運用要員であって、柿崎さんたちとは連携だけすればいい。わざわざ僕が指揮を執る理由としては、どうにも弱い気がするのですが……?」

「……私があなたを推薦した、と言ってましたね」

 

 明文化された光秋の“引っ掛かり”に、入間は確認の声で応じる。

 

「そういう話……噂とでもいうようなものを聞きました」

「……推薦と言う程明確に推したわけではないんです。ただ、東局長から負傷中の菫たちの扱いについて意見を求められた時、パーティーでの一件を語らずにはいられなくて」

「パーティー?…………もしかして、柿崎さんたちを指揮して入間主任を助けたことですか?」

 

 他に心当たりがなかったので言ってみるものの、その時の入間の状態を思い浮かべる光秋はいまいち発言に自信が持てない。

 

「でも、主任はあの時……」

「加藤さんは気絶していると思っていたようですが……いえ、実際それに近い状態だったのでしょうが……」

―?……どういうことだ?―

 

 要領を得ない入間の言い方に、光秋は首を捻る。

 

「沈んでいく意識の中、なんとなく感じたんです。『あ、あの子たちが頑張ってる』って」

「……わからない話ではありませんが」

 

 自身ニコイチ関係で何度か気を失った際、意識が戻る直前くらいに周囲の会話がぼんやりと聞こえてくることを思い出し、光秋は一応の同意を示す。

 

―気絶したと思ったのは診断ミスで、実際は辛うじて意識が残ってたってことか?朦朧としてるっていうのか―

「そうして気が付いたら、ここに運ばれていて。感じたことが気になって菫たちに聞いてみたら、加藤さんが指示を出して、桜たちの力で私を助けてくれたと」

「いえ、まぁ……確かに指示は出しましたが…………」―実際には法子さんや綾、涼子様も協力してくれたし、僕が動く前から止血をしていたのは涼子様だし……―

 

 事実関係を述べながら視線に感謝の意を含んでくる入間に、目の前の危機を乗り越えることにただ無我夢中だった光秋は、その視線にむず痒いものを感じながら心中に反論を呟く。

 

「そもそも僕、口しか出してないし…………」

 

そしてその一部が、思わず口を突いて出る。

 しかし、入間はそれに返す素振りを見せず、変わらぬ視線を光秋に向け続ける。

 

「……本部で桜たちと初めて会った時、どう思いましたか?」

「どう?……」

 

 唐突な問いに束の間首を傾げるものの、光秋はすぐに本部での初対面の記憶――研修室での拒絶宣言を思い出す。

 

「……正直に言うと、腹が立ったといいますか……こっちで会ってすぐに『お前の言うことは聴かない!』なんて言われて、その時は可笑しくなりました」

「……」

 

 その時のこと、加えて目の検査後の会話を振り返って若干眉を寄せる光秋に、柿崎が気まずそうに身を縮こませる。

 

「やはり、そうでしょうね……」

 

 言いながら、入間は深く頷く。

 

「それがあの子たちの普段の様子です。高過ぎる能力の所為で不相応なプライドを抱いて、他人(ひと)の言うことなんてろくに聴かなくて、そのくせ歳相応に脆くて……そんな子たちなんですよ、入間隊の特エスは。これでも今は、私が初めて会った時よりだいぶ丸くなったんですけどね」

「はぁ…………」

 

 非難するような口ぶりとは裏腹に穏やかな表情で語る入間に、光秋は呆然と応じながらも秋田での一件を思い出す。基地の廊下でぶつかった際にジュースを溢されたことに激怒し、クリスマスを家族と過ごせないことを悲しんだ、本当に初対面だった頃の柏崎の姿を。

 

―入間主任の評価は正確だな。強力なくせに、変なところで幼いというのか…………そういえばベース制圧の時、補給から戻る途中で“声”を聞いたような……?あの声音……というより雰囲気、柏崎さんに似てたような……?いや、今はそれより―

 

 不意に浮かんできた連想を押しやると、光秋は目で続きを促す。

 

「そんなあの子たちが、あなたの指示を聴いて私を助け、赤の他人であるあなたに称賛の言葉を告げた……それで私も、信じてみたくなったのかもしれません。あの子たちが信じた、あなたを」

「…………それを局長に話して、結果このような人事が通った、少なくとも判断する上での参考にされたと?」

 

 視線に熱を込めながら語る入間。その視線に耐えられなくなった光秋は目を逸らしつつ、確認の声で問う。

 

「そこまでは断言できませんが……先に話した人型兵器の件もありますし……」

「……確かに。総合的な判断の結果、ということなんでしょうが…………」

 

 曖昧に応じる入間に一応の同意をすると、光秋は再び何を話していいかわからなくなる。

 

―『信じる』、と言われても…………僕は主任やあの子たちの気持ちに応えられるものなんて、持ち合わせてませんよ?―

 

 そんな不安を心中に呟いた直後、病室のドアがノックされる。

 直後に返事を待たずにドアは開き、入ってきたチリ毛が目を引く人物を見て、光秋は意表を突かれる。

 

「古谷大尉?」

 

 思わず目の前の人物――古谷合空軍大尉の名を声に出す。

 

「加藤二曹?どうしてここに……」

 

 古谷の方も驚いた顔を浮かべるものの、数瞬してなにかを思い出した表情に変わる。

 

「あぁ、そういえば本部に異動になったんだな。鈴子(すずこ)から聞いた」

「スズコ?」

「あ、私のこと」

 

 初めて聞く名前に首を傾げる光秋に、入間が自らを指さす。

 

「あぁ……はい。今日は入間主任のお見舞いに……古谷大尉は?」

 

 入間に頷きを返して理解を表しつつ、自分の目的を述べた光秋は、そのまま古谷に訊き返す。

 

「俺もだ」

 

 短く応じると、古谷はベッドに歩み寄る。

 

「!どうぞ」

「ありがとう」

 

 慌てて席を譲った光秋に礼を言うと、古谷は入れ替わりに丸椅子に腰を下ろす。

 

―古谷大尉と入間主任かぁ……―

 

 2人の顔をそれぞれ見やると、光秋はサン教ベース制圧の後、法子と建屋を移動している途中に2人らしき人影を目撃したことを思い出す。

 

「……あの、お二人は知り合いなのですか?」

「付き合ってる」

 

 思わず口を突いて出た光秋の問いに、古谷はすぐに答える。

 

―あ、やっぱり―

「えっ!?」

 

 2人の人影を目撃して以降、漠然とそんな予感を抱いていた光秋はすぐに合点し、一方で柿崎は困惑を浮かべる。

 

「主任、今までそんなこと一度も……」

「あら?言ってなかったかしら?」

「今知りました……」

「……ごめん。言った気になってたかも」

 

 唖然と返す柿崎に、入間は自分の小さな失敗が可笑しかったのか、微笑みを浮かべて詫びる。

 その様子を見て、光秋はもう一つあることを思い出す。

 

「ときに古谷大尉、今の話、タッカー中尉に――隊の方々にはされましたか?」

「隊の奴等?……あぁ、言われてみればしてないな。話す機会もなかったし」

―なるほど……中尉に心当たりがないわけだ―

 

 目撃した後の食事の席でタッカーが言っていたことを思い出し、その理由にまたも合点する。

 

「……それじゃあ、僕そろそろ。なんかお邪魔のようですし」

 

 最後の方は冗談めかして言うや、光秋は踵を返してドアへ向かう。

 

「あ、私も!」

 

 柿崎も慌てて続くと、2人は一礼して退出し、医療棟の玄関へ向かう。

 

「柿崎さんは別にいてもよかったのに」

「いえ、主任に好きな人がいるってわかって、その人が同じ部屋にいて……とにかくなんか混乱しちゃって……」

「ま、確かに居辛い雰囲気だよなぁ……」

 

 柿崎に共感しつつ、加えて入間との会話も途絶えていたことを思い出した光秋は、独特の雰囲気から脱した解放感に肩の力を抜く。

 と、左隣を歩く柿崎が、若干の迷いを含んだ視線を向けてくる。

 

「……その……加藤さんは、好きな人とかいないんですか?」

「…………」

 

 あくまでも子供の好奇心と理解しつつも、その方面に関する自身の事情を思い返した光秋は、束の間言葉に詰まる。

 

「…………いるよ」

 

 嘘をつく気にもなれず、かといって詳細を語る気も起らず、要点だけを短く告げる。

 

―細かく語るわけには……いかないよなぁ。綾の件は今でも機密扱いってのもあるが、それ以上に…………特殊な事情こそあれど、僕がしてることって要するに『二股』だもんなぁ……とても小学生には語れないわ……―

 

 伊部姉妹との関係をそのように振り返ると、光秋は苦いものを噛む様に顔を歪める。

 

「そうですか…………」

 

 消え入る様な声でそう応じると、柿崎は顔を俯ける。

 

「…………」

「…………」

 

 そうしてしばらく沈黙が続くと、おもむろに顔を上げた柿崎が、今度はどこか不安そうな顔を向けてくる。

 

「その……入間主任が話してたことですけど……私たちのこと……」

「ん?……あぁ、君たちの評価か?僕も短い付き合いだから断言はできないけど、的を射った評価だったと思うが」

「そう……ですか……」

 

 聞いた時に抱いた感想を告げる光秋に、柿崎は視線を下げながら応じる。

 

「あ、ただ、柿崎さんに関してはちょっと違うかな?柿崎さん、ちゃんと他人の話聞くし」

「…………」

 

 そう付け加える光秋に、柿崎はどこか申し訳なさそうな顔を浮かべる。

 

「……入間主任、言ってましたよね?私たちが加藤さんのこと褒めてたって」

「あぁ。言ったな」

「あれ、一番いろいろ言ったの私なんです。『加藤さんが助けてくれた』、『ペキパキ指示を出す加藤さんが凄かった』って……」

「……」

 

 言葉を重ねるごとに表情が陰っていく柿崎に、しかし光秋は敢えて無言を通し、先を促す。

 

「……だって、弾を取り出す時はなにもできなかったから……そりゃ、加藤さんにそう言われたのもあるし、結局それでよかったんだけど…………桜や菊が主任助けるのに一生懸命になってるのを、私はただ見てることしかできなかったから……だから、協力してくれた加藤さんのことを少しでも教えてあげようと思って、たくさん話して…………でも、それが加藤さんを困らせることになったんなら……私…………!」

 

 先程の光秋の包み隠さない応答を思い出したのだろう。メガネのレンズ越しに柿崎の目が潤んでくる。

 それを見るや光秋は足を止め、柿崎の正面に回り込むと、膝を折って目線の高さを合わせる。

 

「あのな、君一人の行動でどうなるって程、世の中単純じゃないんだよ」

 

 柿崎の肩に左手を置き、その目を真っ直ぐに見据えながら告げる。

 

「……」

 

 それで半べそをかいていた柿崎が泣き止むと、さらに続ける。

 

「確かに、いろいろ困ることや面白くないことはあるよ。そりゃ仕事だもの、当然だ。ただ、それは柿崎さんが何かしたからじゃなく、僕の要領とか、柏崎さんたちの気持ちとか、上の人たちの考えとか、いろんなもんが絡まってそうなってるだけだよ。そもそもESOに――組織に入るって決めた時点で、意に沿わないこともやることになるって、覚悟……て程じゃないかもしれないけど、心構えみたいなものはしてたんだよ。今の状況も、結局その内ってことだ」

 

 そこで一旦言葉を区切ると、柿崎の様子を窺う。目の周りこそ濡れているものの、その目はしっかりと光秋を捉えている。

 

「そもそも、こっちはもうやってやろうって決めてるんだ。今更泣かれる方が迷惑だ……だから、シャキッとしてなさい」

「!……」

 

 言いながら肩に置いていた左手を柿崎の頭に持っていき、掌で包む様に撫でると、柿崎は顔を赤くする。

 

「わ、わかりました!わかりましたから!シャキッとしますからそれやめてください!恥ずかしい……!」

「……よろしい」

 

 慌てたり恥じらったりする柿崎の様子が可愛らしく、また可笑しくもあったために多少の名残惜しさを覚えながらも、完全に泣き止んだのを確認した光秋は手を離す。

 

―……そうだよな。もう決めたんだ。組織の一員としての義務もある。期待されてるなら、それに応えたいって欲求もある。できる・できないは、やりながら見極めていけばいい。その為の研修なんだし…………なんだ。結局それだけのことじゃないか―

 

 柿崎に言ったことを振り返り、改めて咀嚼することで、乱れがちだった気持ちが急速に整理されていく。

 

―他人に言って聞かせなければわからないこともある、か……―「ありがとな、柿崎さん。入間主任のお見舞い、来てよかったよ」

「え?あっ……どういたしまして……?」

 

 自然と口を突いて出た礼。その唐突な言葉に戸惑いつつも、柿崎は小さく返礼する。

 それを見届けて立ち上がると、光秋は腕時計を確認する。

 

「さて……もうすぐ11時って頃合いだが……なにか食べに行くか?」

「え?……でも私、そんなお金……」

「心配しなくていいよ。僕が持つ。というか、持たせてくれ」

「いや、でも、お茶のお礼ならこの間……」

「お礼なら、今新しくできたよ。そもそもこの間も言ったが、子供がそういうこと気にするんじゃない……あ、でも、もしかしてこの後用事あるか?」

「いえ、そういうわけじゃ……」

「なら付き合ってよ。いい店教えてくれ。そこでいいもの食べよう」

「…………わかりました」

 

 少し強めに迫る光秋に根負けすると、柿崎は首肯で応じ、2人は歩みを再開する。

 が、すぐに柿崎が思い出した様な顔をする。

 

「あ、でも……私もこの辺のお店よく知りません」

「そうなのか?」

「外で食べることがあんまりなくて……」

「あぁ……それなら、歩いて探すか。気に入った店があったら教えてくれ」

「……わかりました」

 

 そうして柿崎が了承すると、2人は町内散策へ向かう。


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