1月22日土曜日午後1時。
午前中の研修を終え、菓子パンに缶コーヒーという簡単な昼食を済ませた光秋は、東京本部本舎から敷地内の医療棟へ東京に来て初めての目の検査に向かう。藤岡主任には事前に許可をとって時間を空けてもらい、午後2時頃に研修を再開することになっている。
「えーとー?……こっちか」
藤岡に教えてもらった通りに敷地内を進み、医療棟の玄関をくぐると、事前連絡に従って受付で要件を告げ、指示と看板の誘導に従って指定された部屋へ向かう。
「……ここだな」
ドアの上の表示を確認して呟くと、ノックして中へ入る。
「すみませーん」
「あ、はい。連絡があった加藤二曹ですね」
「はい」
「こちらへ」
歩み寄ってきた短い黒髪の女性看護師と短いやり取りを交わすと、光秋はその人の案内に従って部屋の奥に通される。
―……これは―
大掛かりな眼圧測定機が壁際に設置され、視力検査用の視標がいくつか壁に掛かっている光景に、思わず懐かしさを覚える。
―こういうのを見るのもだいたい1年ぶりかぁ。上杉さんだと触って終わりだったからなぁ―
向こう側では定期的に見た、しかしこちら側に来てからはすっかりご無沙汰だった光景に、思わず小さな感動を覚える。
「どうぞ、こちらに座ってください」
「……あっ、はい」
看護師の呼び掛けに気を取り直すと、光秋はカバンを下ろして眼圧測定機の椅子に腰掛け、メガネを背広の胸ポケットに仕舞って小型カメラの前に突き出た台にアゴを載せる。
左右の眼圧を測り、そのまま横の椅子に移動すると、今度は看護師が手元のリモコンで操作して点灯させる円の欠け方向を答えて視力を測定していく。
―サイコメトリーでパパッと済ませるのも悪くないが……やっぱりこっちの方が目の検査に来た感じするな!―
答える傍ら、心の中で約1年ぶりの感覚に独特の尻の座りのよさを覚える。
その間にも測定を終え、メガネを掛け直した光秋は看護師の誘導に従って部屋を出、診察室の前に移動する。
「少々お待ちくださいね」
「はい……」
看護師が部屋に消えると、光秋はドアの横の長椅子に腰を下ろす。
周囲には自分以外誰もおらず、なんとなしに膝上のカバンに目をやると、その中に入っている研修ノートを幻視してしまう。
―研修が始まって今日で4日目。寮でも復習してなんとかついていけてるが……
思わしくない研修の感触に、つい嘆息を吐いてしまう。
―本当、何でこんなことに……入間主任は何でこんな僕を推薦したんだ……?―
弱音と疑問が混ざった思いを胸中に渦巻かせているとドアが開き、先程の看護師が顔を出す。
「加藤二曹、お入りください」
「あ、はい」―……とりあえず、この話は一旦後だな―
そう思って気持ちを切り替えると、カバンを持って診察室に入る。
部屋の内装は京都支部の上杉のそれと大差なく、診察机には黒い髪を短く切り揃えた白衣姿の男性医師が座っている。
「!……」
どことなく刃物――「医者」という職業も合わさってか――メスの様な鋭さを持った眼光に一瞬悪寒を覚えるものの、その傍らに微笑みを浮かべて着席を促す女性看護師を認めてどうにか気を取り直すと、光秋はカバンを足元に置いて目の前の丸椅子に腰を下ろす。
「……お願いします」
「……加藤光秋。実戦部隊二曹な……」
やや緊張気味に会釈する光秋に、医師は手に持った三つ折りの紙束を見ながら唸る様に言う。机の上の封筒からして、上杉の紹介状だ。
「あ、はい……一応、今特務部隊主任の研修中です」
「……」
光秋の補足に医師は無言を返すと、机の引き出しからルーペとペンライトを取り出す。
「メガネ外してくれ」
「はい……」
それを見て医師の意図を察すると、光秋は言われた通りメガネを上着の胸ポケットに仕舞う。直後に看護師によって部屋の照明が消され、カーテンも閉めて暗くなると、医師がルーペを介したペンライトの光を目に当ててくる。
「……」
眩しさに耐えること少々、両目共に確認を終えた医師はペンライトを下ろし、それに合わせる様に看護師が照明を点ける。
「……上杉の奴、相変わらず仕事は丁寧だな」
―あぁ、そっか。この人が上杉さんの言ってた先輩なんだ―
カルテを見ながらの医師の呟きに、光秋は異動の少し前に上杉が話していたことを思い出す。
「……特に変わりはないな。指定の薬を出すよう言っておくから、受付で受け取ってくれ」
「はい……ありがとうございました」
顔を上げた医師の診断に一礼で応じると、光秋は席を立ってカバンを肩に掛ける。
―どうも取っ付きにくいなぁ。不愛想というか……僕も傍から見れば似た様なもんかもしれないけど……―
失礼を承知で医師に対する率直な感想を胸の中に漏らすと、振り返って部屋を出ようとする。
その時、医師は何かを思い出した様に顔を上げる。
「あぁ、そういえば紹介が遅れたな。ESO専属医の
「……あ、はい!……よろしくお願いします!」
突然の自己紹介に、医師に対して苦手意識を抱きつつあった光秋は意表を突かれ、慌てて頭を下げる。
「珍しいですね?先生が自己紹介なんて?」
不思議そうな顔をする看護師に、医師――黒澤は再びカルテに目を落としながら返す。
「俺だって、後輩が大事に面倒診てた患者には少しは気を遣うさ。あと、幼馴染の同僚でもあるしな」
「幼馴染……?」
黒澤の口から出てきた唐突な単語に、全く心当たりがない光秋は首を傾げる。
「お前さん、京都では竹田柔蔵と同じ隊だったんだろう?あいつからもそう聞いてるが」
「…………あぁあ!」
続く黒澤の問いに、光秋は送別会で竹田が話していたことを思い出し、思わず手を打って合点する。
が、直後、
「黒澤さんが二尉の……あれ?でも、上杉さんの先輩って……?」
上杉と竹田が言っていた人物はそれぞれ別人、そう思っていたために、束の間混乱してしまう。
「そうだ。柔蔵とは子供の頃から、上杉とは医大からの付き合いだ。なんの因果か、俺を通じて知り合った2人が、今じゃ京都で仲よくやってるようだがな」
「……あぁ、なるほど」―この人を介して竹田二尉と上杉さんが……僕が法子さんを介して横尾中尉や日高さんと知り合ったようなもんか―
黒澤の補足を充分噛み締め、自分の人間関係を例にイメージを整理してようやく納得し切ると、光秋は上杉と竹田がそれぞれ言っていたことを思い出す。
―この人を頼れ、かぁ……思ったより不愛想ってわけでもないし……―「とりあえず、今日はありがとうございました」
「あぁ。お大事に」
黒澤の返事を聞くと、光秋は今度こそ振り返って診察室を出る。
―この人なら安心……かな?―
受付に戻った光秋は、近くの長椅子に腰を下ろし、会計に呼ばれるのを待つ。
―遅いなぁ……薬の用意でも手こずってるのか?―
待っているのは自分だけだというのになかなか呼ばれないことに若干イラつきながら、じっとしていた所為か少し凝った首を左右に回す。
と、
「…………あ」
偶然顔を向けた先の廊下が目に入り、そこからこちらにやって来る柏崎、北大路、柿崎の3人を見掛ける。服装は先日と同様、私物らしきコートと紺色の学校の制服だ。
「「!……」」
向こうもこちらに気付いたらしく、柏崎と柿崎はどこか気まずそうに、北大路は棒付きの飴を銜えた顔に無表情を浮かべながら近付いてくる。
「加藤……さん……こんにちは」
「こんにちは……奇遇だな。こんなとこで」
なんと言っていいか迷いながら挨拶してくる柿崎に、光秋は努めて自然体に返す。気を抜くと、先日の柏崎の一方的な宣言が思い出されてつい視線が鋭くなってしまうため、そんな自分をどうにか抑えることに意識の何割かを回す。
「入間主任がここに入院してて、そのお見舞いに……加藤さんは?」
「僕は目の検査の帰り。今会計待ってるとこ」
柿崎の問いに、光秋は受付を見やりながら応じる。
「そっかぁ、入間主任ここに入院してるんだっけ……ところで、君たちその格好は?学校帰りか?」
「あ、これは――」
「土曜日に学校があるわけないだろう。普段本部に来る時は、この格好で来るように言われてんだよ」
今度は光秋の質問に柿崎が答えようとすると、それを遮る様に柏崎が呆れ混じりに言ってくる。
「そんなこともいちいち説明しなくちゃいけないんですか?主任になるとか以前に、常識を疑いますね」
―……我慢、我慢…………―
銜えていた飴を離すや言ってきた北大路に腹が熱くなるのを自覚するものの、子供相手に声を荒げるのもみっともないとの思いから理性を働かせた光秋は、どうにかその熱を押しやる。
「すまんね。『学校』って付くところとはもう1年近く縁がないから、つい感覚を忘れてしまって」
「……」
実際に感じたことも含めて至極冷静に告げることを心掛ける光秋の返事を、しかし北大路は飴を銜え直しながらそっぽを向いて聞き流す。
「……」
「加藤さーん。加藤光秋さーん」
その傍若無人を絵に描いた様な態度に再び立腹しそうになるものの、ようやく呼ばれた会計に再度怒りを鎮め、長椅子を立って受付へ向かう。
「あ、あの……それじゃあ……」
「……あぁ。それじゃあ」
おっかなびっくりに頭を下げる柿崎に、光秋も怒気が出ないように注意しつつ返すと、少女3人は玄関へ向かう。
会計を済ませ、受け取った目薬の入った紙袋をカバンに仕舞うと、一つ深呼吸して荒立ちつつあった胸中を鎮めた光秋は、少女たちとの一連のやり取りを振り返ってみる。
―北大路さんの言動、確かに失礼なところはあったものの……子供相手にあぁもカッカするとは、僕もまだまだかぁ…………―
もともと自制心とか忍耐力とかいったものには自信があったのだが、たった今抱いた自己認識がそれをあっさりと押しやってしまい、心の中で溜息が漏れる。
しかしそれも束の間、先程の会話からもう一つあることを思い出し、柏崎たちがやって来た廊下に顔を向ける。
―そういや、入間主任ここに入院してるんだよなぁ…………明日確か休みだったし、僕も見舞い行こうかな?前任者への挨拶もしたいし……僕を彼女たちの主任に推薦した理由も訊きたいし―
不満、疑惑、怒り、興味――現状抱いているさまざまな思いが混ざった視線を一瞬廊下へ向けると、光秋はカバンを提げ直して玄関へ向かう。
医療棟を後にした光秋は、予定通り本舎に戻り、研修を再開、午後3時を回った今は小休止に入っていた。藤岡は休みに入るなり煙草を吸ってくると言って出ていき、曽我も顔を出す気配はなく、今部屋には光秋一人だ。
「うぅー…………!」
自分しかいない室内で、勉強疲れを絞り出す様に唸り声を出しながら伸びをし、首や肩を軽く回して凝り固まった体をほぐそうとする。
―そういや、ここんとこ体動かす機会が減ってるような……―
思いつつ、立場上仕方がないこととはいえ、ここ数日テーブルに座りっぱなしだった自分を振り返る。もちろん、今でも気付けを兼ねて簡単に体を動かしてから出勤しているのだが、京都支部で多くの時間を藤原三佐との訓練に割いていた頃と比べれば、運動量の激減は否定できない。
「…………誰もいないし、ちょっとだけ……」
室内を見回し、誰も入ってくる気配がないことを確認すると、席を立ってホワイトボード前の広く空いている辺りに出る。
肩周りを中心とした軽い柔軟運動を行うと、障害物が少ないドア側を向き、足を肩幅に開いて拳を握った両腕を前に伸ばす。
「……っ……っ……っ」
ゆっくりと息を吐きながら腕を腰に引く動作を3回行い、左腕を伸ばして右腕を腰に引いた姿勢になる。
「!……!……!……やっぱいいな!」
右、左、右と、突きの基本動作を3回行う。普段からやり慣れた基本中の基本であるその動きに、この時は何故か昂るものを感じ、知らぬ間に喜色を含んだ声が口を突く。
「ずっとじっとしていたからかな?思った以上に気持ちいいや!」
独り自己分析を述べると、今度は左半身を前に出し、組手をする際の体勢をとる。
流石に室内では空いている空間は狭く、普段の様な大きな動きは行えないものの、軽く手足を出し引きして体を動かすことには充分な満足感を得る。格闘技にあまり明るくない者が見れば、それはさながらシャドーボクシングといったところか。
正面に幻視した藤原に向かって、左拳を二連打、右を出すと見せかけてさらに左を1発入れ、少し後退すると一気に距離を詰めて深めの左を放つ。
アゴに入り掛けたそれを念で止められるや、腰に引いていた右拳の一撃を鳩尾目掛けて放つ。
刹那、
「加藤さん今――!!」
「!?」
不意にドアが開くや柿崎が部屋に入ってきて、一直線に飛んできた拳に驚愕する。光秋も突然の来訪者に動揺しつつもすぐに右腕を急停止させ、慌てて柿崎の許に駆け寄る。
「すまない、大丈夫か!?」
「は、はいっ…………!!」
未だ動揺が残る声でやや強く訊ねると、柿崎は震えた声で応じる。
「…………よかったぁ」
周囲を走査して怪我がないのを確認し、本当に大丈夫なのだと確信すると、思わず安堵の声が漏れる。
「いや、すまない。ビックリさせちゃったな」
「いいえ……ところで、加藤さんなんでパンチなんて……」
柿崎の問いに、今更ながら突きの練習を見られたと理解して、光秋は僅かだが恥ずかしくなる。きちんとした訓練ならいいのだが、今のような軽い運動程度のものは、やっているところをあまり見られたくないのだ。
「あ、いやぁ…………座ってばっかりだったから、ちょっと体を動かそうと……そういう柿崎さんは?こんな所にどうした?」
「私は……これを……」
大雑把に返答するやすぐに訊き返す光秋に、柿崎は両手で持った紙コップを差し出す。
「!」
遅まきながら紙コップの存在と、その中に微かに湯気を立てる緑茶が注がれていることに気付き、同時にさっきのことで零れてしまったのだろう、柿崎の制服の胸元に染みができているのを見て再び申し訳ない気持ちになる。
「それ熱いのだろう?零れてるけど大丈夫か!?」
「あ、はい。ちょっと早く買い過ぎて、
「ならいいが……制服は……」
ひとまず火傷の心配はないことに安堵しつつも、光秋は制服を汚してしまったことに何と言っていいのか困ってしまう。
「あ、これなら気にしないでください。これくらいなら洗えば落ちますから」
「いや、ワイシャツならまだしも、上着はそう簡単には……」
「大丈夫ですから!気にしないでください!」
「は、はい……じゃあ……」
短い関わりながら初めて見る強い語調で告げる柿崎に、光秋はこれ以上この話題に触れない方がいいと判断し、素直に引き下がる。
それを見るや、柿崎は手の中の紙コップを改めて差し出す。
「それよりも……あの、これ。今言った通り、ちょっと零れちゃいましたけど……」
「?……僕に?」
「はい……もしかして、緑茶嫌いでしたか?」
「いやいや、そんなことは……それじゃあ、御好意に甘えて」
不安を浮かべる柿崎を見るや、光秋はすぐにそれを受け取る。
―あ、本当に温いな……―「そうだ。ずっと立たせててごめんな。どっかテキトーな席に座って」
紙コップ越しに伝わってくるお茶の温度に火傷の心配はないと再度安堵すると、研修中に座っていたパイプイスに腰を下ろしながら柿崎に着席を促す。
「はい」
応じると、柿崎は光秋の左隣のイスに座り、互いに向かい合う。
「……」
「あの……美味しいですか?」
「ん?……まぁ、ね」―自動販売機だからね……―
お茶に口を付けるや訊いてくる柿崎に、光秋は可もなく不可もない味を感じながら曖昧に答える。
「……あ、温度はいい具合かな。これくらいの熱さが飲みやすいや」
「それはよかったです。冷めて美味しくなくなったかと思ってたので」
「猫舌にはちょうどいいよ……ところで、どうしてここに?お茶まで買ってくれて。柏崎さんと北大路さんは?」
柿崎と会話を交わしながらお茶をすすりつつ、光秋は先程から気になっていたことを問う。
「2人は、休憩室……て言えばいいのか?とにかく、違う部屋で休んでます。私は……その…………」
「?……どうした?」
急に口籠る柿崎に、光秋は紙コップをテーブルに置き、背中を丸めて視線を合わせ、その表情をよく読み取ろうと心なしか顔を寄せる。
「!あ、あの、加藤さん…………近いです」
「あぁ、すまない」
その所為で狼狽えることになった柿崎に詫びを入れつつ、光秋は顔を少し引く。
それでやっと落ち着いたのか、柿崎は口を開く。
「その……さっき桜と菊が失礼な態度をとったでしょう?それで、怒ってるんじゃないかと思って……」
「……謝りに来たと?」
「謝りっていうか……は、はい。ごめんなさい」
「機嫌を窺いに来た」と出掛かった声を呑み込み、包んだ言い方をする光秋に、柿崎はぎこちない口取りで応じ、頭を下げる。
その様子に、光秋は出掛かった表現の方が適切だったのだと察する。
「まぁ、ちょっとは怒ったかな。特に北大路さんの言い方には」
「は、はい……」
そうとわかればその時のことを思い出して薄っすら怒りに顔を歪め、それを見た柿崎は途端に小さくなる。
「でもな」
それを見計らってやや強く告げると、光秋は小さな怒りを微笑みに変える。
「それは柿崎さんが気にすることじゃない。僕が怒ったのはあくまで北大路さんだからな。それにしたって、僕の方もいろいろおかしな所があったんだし……」
「そうですけど……」
消え入りそうに返す柿崎を見つつ、光秋はお茶をやや多めに飲んで口を湿らせる。
そして、
「ただ、そういうのとは別に、そうやって進んで行動できる柿崎さんはいいと思うよ」
褒めているのとは違う、その態度に素直に感心し、感じたままを告げた光秋は、知らぬ間に伸ばした左手で柿崎の頭を撫でる。
「!?……あ、あの……加藤さん……?」
「そういう部分は大事にしなさい……というのが、君たちより少しだけ長く生きている、僕の様な無取り柄な人間が言える、数少ないことかな」
突然のことに戸惑う柿崎にそう続けると、光秋は手を離してお茶を飲み切る。
「ふー……リラックスにはいいお茶だったな。ありがとう」
「い、いえ…………どういたしまして」
礼を言いながら軽く頭を下げる光秋に、柿崎もぎこちなく頭を下げ返す。
そこでふと手元の腕時計を確認すると、間もなく休憩時間が終わろうとしているのに気付く。
「いかん。もうすぐ休みが終わる」
「あ……じゃあ私、これで」
言うや柿崎は席を立ち、ドアへ向かおうとする。
「……あ、そうだ柿崎さん」
直後にあることを思い出した光秋は、その背に声を掛けて呼び止める。
「はい?」
「突然ですまないが、明日ちょっと付き合ってもらえないか?入間主任のお見舞いに行きたいんだが、部屋まで案内してほしくて」
「主任のお見舞い……ですか?」
「あぁ……やっぱり都合悪いかね?」
「……いいえ!そういうことなら!」
我ながら唐突な頼みに不安になる光秋に、柿崎は明るい笑顔を浮かべて応じてくれる。
「じゃあ頼むよ。あ、詳しい打ち合わせだけど、6時頃にまたここに来れるかね?それくらいに研修終わるからさ」
「わかりました。それじゃあ、また後で!」
「あぁ、後で」
言うと柿崎は退出し、一人になった光秋は珍しくよく喋った口を揉みながら、普段ただぼんやりと時間が過ぎるのを待つだけの休憩よりも、少しだけ疲れがとれた――というよりも活力とでもいうものが湧いてきた我が身を自覚する。
―言いたいこと言ってスッキリしたからかな?柿崎さんには重ねて感謝だ―
そう思った直後に藤岡が部屋に入って来るのを見て、心中に再び気合いを入れる。
―さて、もう一丁頑張りますか!―
光秋がいた部屋を出た柿崎は、とぼとぼと柏崎たちが待つ部屋に歩みを進めつつ、先程の一連のやり取りを思い返す。
―『そうやって進んで行動できる柿崎さんはいいと思うよ』、『そういう部分は大事にしなさい』……か…………―
特に頭を撫でられた時のことを思い出しながら、自分の手で撫でられた辺りを触ってみる。
「大きな手だったなぁ……お父さんと同じような……ちょっと違うような…………」
自分よりもずっと大きな手の感触に、互いの都合からなかなか会えない父親を連想するが、それともまた違うと感じる。
「あ、そうだ。6時にまたさっきの部屋行かないと……」
そんな曖昧な気持ちを持て余しながら、柿崎はこの後の予定を頭の中で確認する。
午後6時。
「では、今日はここまで」
「ありがとうございました」
今日の研修終了を告げる藤岡に席を立って頭を下げた光秋は、その背中がドアの陰に消えるのを見ると、すっかり疲れを溜め込んだ体をパイプイスに預ける。
「はぁー……今日んとこまた復習しとかんと……」
頭に鈍痛を感じながら溜め息混じりに呟くと、テーブルの上の筆記用具をカバンに片付け、いつでも帰れる準備を整える。
それを待っていたかの様にドアが開くと、約束通り柿崎が姿を現す。
「加藤さん、お待たせしました」
「いやいや、僕の方も今研修終わったとこだから。こっちこそ悪いね、呼び付けて」
「いいえ」
「じゃあ、早速明日のことだけど……10時頃に本部の正門前に待ち合わせて、そこで合流して入間主任の病室に向かうってことでいいかね?」
「はい」
「確認するが、主任明日予定ってないよな?」
「いえ、特に聞いてませんけど」
「ならいい……あ、見舞い行くなら、なにか持っていった方がいいか?柿崎さん、主任の好きなものってわかるか?あ、それとも食事制限出てた?」
「え?……いえ、すみません。わかりません」
「そっか……なら今回はやめとくか…………だいたいこんなとこかね」
柿崎の「わからない」を食事制限の意味で受け取ると、光秋は席を立ってカバンを右肩に斜め掛けし、背もたれに掛けていたコートを右手に掛ける。
「さてと……僕はこれから食堂に行くけど、柿崎さんはどうする?」
「私は…………じゃあ、私も」
「なら、君の分は僕に奢らせてくれ」
「え?でも、それは流石に……」
「昼過ぎのお茶のお礼だよ。気にしない」
やや強引かと思いながらも言い切ると、光秋はドア脇のスイッチで室内の照明を消して食堂へ向かい、その後ろを柿崎が不安そうな顔をして続く。
食堂に着くと、2人はそれぞれ食べたい物を頼んでトレーを受け取る。
柿崎は最後まで遠慮するものの、光秋が強引に2人分の代金を払って席を探す。
―しっかりしてるってことなのかもしれないが、子供がそこまで気を遣わんでも……て、ちょっと前までの法子さんも、僕のことこんなふうに見てたのかな?―
2人で出掛けても食事代を自己負担していた法子を思い出してそんなことを考えながら、光秋は7割程埋まっている食堂を見回し、空いているテーブルを見付けるとそこに柿崎と向かい合って座る。
「いただきます……どうした柿崎さん。食べないのか?」
言うや光秋は生姜焼き定食を食べ始めるものの、なかなかトンカツ定食に手を付けない柿崎を見て一度箸を置く。
「え?……いえ、その……」
「なんだ?まだ奢ったこと気にしてるのか?」
「……はい」
「そんなのいいから、早く食べなさい。冷めちゃうぞ」
「……でも」
「『でも』も『行進』もないよ。さっきも言ったが、僕にとってはお茶のお礼でもあるんだし、ちゃんと食べてくれないと僕が困るよ。僕の為と思って、さぁ」
「……それじゃあ……いただきます」
再三にわたる光秋の強引な促しに、ようやく膝を折った様子の柿崎はすっと手を合わせ、トンカツ定食を食べ始める。
その時、
「あら?面白い組み合わせね?」
「……曽我さん」
聞き覚えのある声に首を廻らせると、光秋は左隣に曽我の姿を認める。
「ここいいかしら?」
「どうぞ。柿崎さんもいいかね?」
「……はい」
光秋と柿崎の了承を得ると、曽我は持っていたトレーをテーブルに置いて光秋の左隣に座る。
「……えっと……加藤さんの知り合いですか?」
「あれ?知らないのか?」
曽我を見やりながら訊ねてくる柿崎に、てっきり勤め場所が同じなので顔見知り同士だと思っていた光秋は意表を突かれる。
「無理もないわよ。直接話すのはこれが初めてだろうし」
光秋にそう言いながら、曽我は柿崎の顔を見る。
「初めまして、でいいのかしら?特務部隊藤岡隊所属の曽我ガイアです」
「……入間隊所属の柿崎菫です……あ、いや!今はまだ入間隊ってことになってるんですけど、もうすぐ加藤さんが主任になるんで……えーっと……」
「落ち着いて。事情はだいたい解ってますよ」
「……すみません」
光秋を見やりながら自己紹介であたふたする柿崎に、曽我は自然な笑みを浮かべてフォローを入れる。
―出た。『猫被りの曽我』―
その笑顔の下にある真の表情を幻視し、それを知る前のことに思いを馳せていた光秋は少し懐かしい気分になる。
「ワンちゃん。今アタシのことで失礼な想像しなかった?」
「いいえ」
鋭い指摘を投げ掛けてくる曽我に、しかしどこかでそれを予想していた光秋は自分でも白々しいと思えるくらいきっぱりと即答してみそ汁をすする。
「『ワンちゃん』?」
「『白い犬』ってあだ名だからだろう」
「その通り」
首を傾げる柿崎に光秋は掻い摘んで説明し、曽我も首肯する。
「あぁ……」
それで納得すると、柿崎は曽我に多少の迷いを浮かべた顔を向ける。
「……ところで、曽我さんの名前って……その……」
「変わってる?」
「い、いえ!そうじゃなくて、その……すごい名前だなぁって……」
曽我の端的な表現を慌てて訂正しながら、柿崎は言葉に困った口を誤魔化す様にみそ汁をすする。
「いいのよ。よく言われるから。でも、アタシは気に入ってるの。大地の女神ガイア、格好いいでしょ?」
「確かに、字面は凄いですよね。『地球』と書いて『ガイア』。僕も初めて見た時は驚きました。親御さんも大胆な名前付けますね」
「
10月の演習の際に名簿を見た時のことを思い出し、その時感じたことを呟く光秋に応じながら、曽我はフォークに巻き付けたナポリタンを口に運ぶ。
そこで会話が途絶えたのをきっかけに、3人はそれぞれの食事に集中する。
―曽我さんと柿崎さん……本部付きの特エス2人と夕食ねぇ…………確かに、面白い組み合わせかな。たまにはいいものだ―
一連のやり取りを振り返って満足気にそう思うと、光秋は白飯を巻いた生姜焼きを口に運ぶ。