白い犬   作:一条 秋

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74 別れの前に 前編

 1月16日日曜日午前7時。

「…………?」

 まどろみを払う様に鳴り響いた呼び鈴の音に、光秋は未だ夢現(ゆめうつつ)の頭で起き上がり、梯子伝いにベッドから下りて玄関へ向かう。

―誰だぁ?こんな朝早く……―

 早朝の訪問者に内心愚痴りつつ、欠伸をしながら覗き窓に顔を寄せる。

 直後、

―法子さん!?―

窓越しに見えた予想外の人物に驚愕するや、すぐに開錠してドアを開け、青いコートを羽織って左肩に大きめのカバンを提げた法子の姿を直に確認する。

「……おはようございます」

 突然のことにどうしていいか判断がつかず、思わず普通に挨拶する。

「おはよう……上がっていいかな?」

「!どうぞ!」

 やや遠慮がちな法子に慌てて応じると、光秋はドアから下がって法子を部屋に通す。

 そのまま居間に移動すると、法子はカバンを下ろしてコートを脱ぎ、先日と同じフリル付きの赤いロングスカートに白いワイシャツを着た姿を露わにする。髪留めはもちろん赤フリルのシュシュだ。

「!すみません!僕こんな格好で!」

 それを見て、自分がまだパジャマなのに気付いた光秋は、慌てて箪笥から赤チェックのワイシャツと緑のズボンを引っ張り出す。

「ちょっと着替えますんで、少し待ってください!」

 そのまま廊下に駆け出し、仕切りのカーテンを閉めると、すぐに持ってきた服に着替える。

「別に、慌てなくていいよ。私が突然押しかけたんだし……というか、別にそのままでも……」

「そういうわけにはいきませんよ」

 申し訳なさそうに声を掛ける法子に、光秋は好きな女の人がしっかりとした服装をしている横で寝間着姿でいることへの羞恥心からそう返し、着替え終わった服装をさっと確認する。

―……我ながら、大事な時はだいたいこの格好だよなぁ。借りにも……その、デートだっていうのに、その辺能がないというか……ま、お気に入りだから仕方ないか―

 思いつつ、畳んだパジャマを持ってカーテンをくぐる。

「あ、暖房点けるの忘れてましたね」

 パジャマをベッドに置きながら思い出すと、エアコンの許に歩み寄ってリモコンで電源を入れる。ベッド下から出したコタツを点けると、ようやく腰を落ち着けて法子と話せるようになる。

「バタバタしてすみません」

「ううん。私こそ朝早くにごめん」

「で、早くにどうしたんです?」

 互いに頭を下げると、光秋は本題を促す。

「そんな大したことじゃないんだよ。傍から見ればね。ただ…………昨日私たちの部屋から帰っていく姿を見てたら、少しでも早く会いたいって思っちゃって……」

「……なるほど」

 確かに、傍から見れば大したことではない。しかし裏を返せば、法子――というよりも伊部姉妹にとってはとても重要なことだ。そう理解し、自身2人の気持ちに共感しつつ、光秋は静かに頷く。

 と、顔を上げながら部屋の隅に置かれたカバンに視線を向ける。

「ところで、そのカバン何です?」

「あぁ…………今夜さ、泊めてもらうと思って」

「えぇ!?」

 法子の返答に、光秋は再び驚愕する。

「泊まるって……明日出ていくんですよ?その前に引っ越しの立ち合いしなきゃいけないし……」

「別にそんな遅くまでいないよ。私も明日仕事だし。今夜泊めてもらって、明日ここから直接支部に行くの。ここにはそのための着替え諸々が入ってるの」

「はぁ……」

 多少強引ながら一応筋が通っていると感じた法子の計画に、光秋は呆然と応じる。

―もっとも僕自身、法子さんや綾と最後の夜を過ごせるというのに悪い気はしない。寧ろ願ったり叶ったりだ―「ただ……男の一人部屋に泊まり込もうって、法子さんも大胆ですね。それとも綾の発想かな?」

「さぁね。私たちにもよくわかんない。でも、私はなんとなく綾寄りの発想だと思うな……もっとも、襲撃中にニコイチに乗り込んだり、演習の乱入者を実弾なしで迎撃したりした光秋くんも結構大胆だけどね。それに、ついこの間私の部屋で一緒に寝たくせに」

「……まぁ、そうですけど……」

 率直な感想に的確な返しをしてくる法子に、光秋はそれ以上言えなくなる。

「……そういや、朝飯まだだったな……」

 話題を変えたいのもあってそう呟くと、冷蔵庫を開けて買い置きしていた菓子パンと500ミリペットボトルのレモンティーを出す。

「それが朝ご飯?」

「はい。食器類も仕舞っちゃったし、もう何日もいないならこういう片付けが簡単なのでいいかなって、この間まとめ買いしてきて……法子さんは食べてきましたか?」

「……そういえば、光秋くんとこ行くのに夢中で食べるの忘れてたな……今から一度帰ろうかな。荷物も持ってきたし」

 光秋の問いに思い出した様に答えると、法子はカバンを一見して立ち上がろうとする。

 しかし、

「それなら」

直前に光秋が再度冷蔵庫を開け、残っていた菓子パンとレモンティーを出してコタツに置く。

「これどうぞ」

「え?でもこれ明日のってことでしょ?」

「どうせ今日出掛けるんです。帰り際にでもコンビニ寄ってまた買えばいい。クリームパンとチョコパン、どっちがいいです?」

「うーん……それじゃあ……」

 光秋の説明に頷くと、法子はチョコパンを取って袋を開ける。

 光秋も残ったクリームパンの袋とペットボトルのフタを開けると、レモンティーを一口飲んでパンを一口かじる。

 それからしばらくの間、2人は静かに食事を摂る。

 

 質素な朝食を済ませ、片付けを終えると、光秋は風呂場の水盤前で身嗜みを整えて再びコタツに入る。

 それを待っていた様に、法子と交代した綾が声を掛ける。

「今8時だけど、予定通り9時に出る?」

「それがいいだろう。今から出たって何処も開いてないだろうし」

「そっか…………お昼はどうしよう?」

「時間になったら近くの店で食べればいいだろう。それとも、どっか行きたい店あるか?」

「……そうじゃなくて、さ……」

 光秋の問いに束の間言いよどみながら、綾は求める目で応じる。

「また、アキのおにぎり食べたいな……」

「僕のおにぎり?……あぁ」

 言われて光秋は、夏に2人で出かけた際に用意した握り飯――本人曰く「飯団子」――のことを思い出す。

「やったなそういや……でもここには米がないしな。道具も……」

 その時のことを懐かしみながら、粗方片付けてしまった台所を見やる。

「ならさ、法子の部屋行かない?ご飯も余ってるのがけっこうあったし」

「法子さんの?……お前さんがどうしてもおにぎりがいいって言うんならそれでもいいけど……部屋使っちゃっていいのか?」

「……法子は別にいいって」

「……それなら、たまにはそういうのもいいか。よし、行こう」

 束の間目をつむって意識を集中した綾の返答に応じるや、光秋はコタツを切って立ち上がると、コートを羽織って戸締りを確認する。

―エアコンは……いくらもせずに帰ってくるだろうから、いいか―

そう思ってリモコンに伸ばし掛けた手を引っ込めると、携帯電話と部屋の鍵を持って玄関へ向かう。

 光秋に続いて綾も部屋を出ると、ドアに鍵が掛かったのを確認し、互いに手を繋いで法子の寮へ向かう。

 路地をしばらく歩いていると、綾が俯きながら声を掛けてくる。

「あのさ……この間のことなんだけど……」

「この間?」

「先週一緒に出掛けた時、ケンカの……」

「まだ気にしてたのか?そんなに引き摺らなくても」

「だって……」

 言われて先週の四条での一件を思い出しながら応じる光秋に、綾は罪悪感を抱く様に視線を地面に下げる。

「襲撃事件の時は、まだちゃんと動けてたんだよ。『アキが危ない!』って思ったら、怖いのよりもそれをなんとかしたいって気持ちの方が強くなって。でも、この間のケンカは襲撃事件よりなんてことないのに、『怖い!』って気持ちで一杯になっちゃって…………」

 言いながら、綾は奥歯を噛み締め、光秋と繋いだ手に力を込める。

 その様子と、おそらくは無意識に放出しているのであろう、怒りや悲しみ、悔しさ、情けなさといった複雑に絡み合った、自分の中から浮かんだのとは違う思惟に、光秋は綾が自己嫌悪に陥っているのだと察する。

「……僕もさ、この間の事件にしろ、ケンカにしろ、どっちにしてもあぁいうのは苦手だよ。はっきり『怖い』と言ってもいい」

「……」

 前を見ながら語る光秋に、綾は顔を少し上げる。

「それでもどっちも動くことができたのは、“仕事”だったからっていうのが大きいかもしれない。義務感っていうかさ。そうでなかったら、どっちも一目散に逃げてたと思うよ……襲撃事件の方は、“夢”のこともあるけど」

一応補足を入れつつも、最後の方は自嘲気味な笑みを浮かべる。

「あとまぁ、どっちも『怖さ』の質が違うもんな」

「『怖さ』の……質?」

 光秋の発言を繰り返しながら、綾は興味を浮かべた顔をしっかりと上げる。

 それを横目で確認しながら、光秋はさらに続ける。

「襲撃事件はともかく、巷のケンカで死ぬことはまずないからな……そりゃあ、やり方によっては大怪我する可能性はあるわけだから、絶対じゃないけど……とにかく、綾がケンカの時に足踏みしちゃったのは、『怖い』ってのを退けてまで行動できるところまで気持ちを持っていけなかったからじゃないかな。僕が死にかけるところまで行けば、流石に自分の抱える怖さにどうこういってる場合じゃなかったんだろうさ」

「……そういうもんなのかな?」

「断言はできないがね。ただ僕だって、『やらなきゃいけない!』って思える何かがなきゃ、けっこう動けないもんだぞ」

 言いながら、脳裏を過ぎていく幼き日から今日(こんにち)に至るまでの思い出に、光秋は薄っすら苦笑いを浮かべる。

「……とにかくだ、『悔しい』、『情けない』って思いがあるなら、次はそうならないようにすればいいさ。例えば今日ケンカに遭遇したら念で張っ倒すとか」

「……やめてよ、そういう冗談」

「僕だって願い下げだ。最後までそんな余計なことに関わるなんて」

 互いに苦笑いを浮かべ、綾の気持ちもある程度持ち直すと、大通りに出た2人は左に曲がる。

 

 大通りをしばらく直進して路地に入り、寮の玄関をくぐって階段を上る。ドアの前に着いて綾が鍵を開けると、2人は法子の部屋へ上がる。

「今更ですけど法子さん、本当に余ってるご飯使っちゃっていいんですか?」

「うん。どうせ残してても冷凍庫塞ぐだけだし、私も光秋くんの『飯団子』食べてみたいしね」

「それなら……水盤何処です?」

「そっち」

 訊きながらコートを脱いだ光秋は、法子の指さしに従って脱衣所内の水盤で手を洗う。

 食べ物を直に触る都合上、石鹸で両手を丁寧に洗浄し、泡をしっかり流して傍らに掛かっているタオルで水気を拭き取って台所へ向かうと、法子が多数のタッパを電子レンジに入れているところに出くわす。

「ちょうどよかった。今スイッチ入れたから、できたらそこのボウルに全部移しといて。戻ってきたら残りの分解凍するから」

「わかりました」

 言うや法子は脱衣所へ向かい、光秋はレンジ内で温められているタッパを3つ、自分の部屋より少し広めの台所水盤の上に置かれたボウル1つと未解凍のタッパ3つを見る。

 終了を告げる電子音が響くや、光秋は解凍されたタッパをレンジから出してフタを開け、熱いくらいに温まった白飯をボウルに移していく。

 ちょうど脱衣所から戻って来た法子が残りのタッパをレンジに入れるのを見ると、光秋は水盤の上を改めて確認する。

「ところで、具はどうします?」

「あぁ、そうだね……あたし、味噌がいい!」

 光秋の問いに交代するや即答すると、綾は冷蔵庫を開けて味噌の容器を取り出す。

「そういや、お前さんそれ気に入ってたっけ。他には?……」

 初めて自作の握り飯を振る舞った時のことを思い出しながら、光秋は冷蔵庫の中を探る。

「……握り飯の具に使えそうな物はないな。梅干しとかあればよかったんだが」

「あってもあたし食べないよ」

「お前さんあれ苦手だもんな……仕方ない、シンプルに塩結びでいくか」

 真面目に嫌そうな顔をする綾に応じつつ、光秋は台所棚の食卓塩の小瓶を目に止める。

 ちょうど解凍を終えた白飯を交代した法子がボウルに移すと、光秋が水で濡らしたしゃもじでそれらをほぐす。タッパに入っていた時の形が崩れるくらいまで混ぜると、光秋は袖をまくり、水盤で濡らした両掌を痛くなるまで叩き合わせる。

「何してるの?」

「こうしてから握ると、熱さを感じ難くなるんです」

 突然のことに首を傾げる法子に応じると、光秋はボウルから白飯を一握り分取って素早く味噌を載せ、丸く固めたそれを空いているタッパに置く。

「……こんなもんかな?」

 自作の不格好な丸おにぎりに、自嘲気味な苦笑を漏らす。

「下手だねぇ」

「そんなハッキリ言わなくても……僕自身そう思ったけど……」

 遠慮のない単刀直入な感想を言ってくる法子に、光秋はますます苦笑する。

「ちょっと見てな」

 言うや法子は両手を濡らし、しゃもじで掬った白飯を左手に載せ、味噌を適量混ぜたそれの熱さをものともせずにしっかりと握り、見事な三角おにぎりを光秋作の隣に置く。

「……法子さん、ホントいい奥さんになれますね」

 自分が作った飯団子との圧倒的な差に、光秋はそれこそただ圧倒される。

「なに?私に決めてくれた――アキッ!」

「そういう意味じゃないって!」

 からかう笑みを浮かべていた法子の言葉を遮って、目くじらを立てた綾が現れるや、光秋は慌てて付け加える。

「ただ、ここまで差を見せ付けられちゃうとさ…………いや、弱気になっても仕方ないよな。それなら」

 落ち込んだのも束の間、すぐに気を取り直すと、光秋は乾いてきた手を再び濡らし、またも痛くなるまで掌を叩き合わせると、法子の見真似でしゃもじで白飯を掬い、徐々に叩き合わせの効果が薄れて熱さを感じる中、味噌を混ぜたそれを歯を食い縛って握っていく。その成果か、先程よりは三角に近くなった物ができ上がる。

 と、ここであることを思い出す。

「あ……6つ分のご飯でもう3個味噌で握っちゃったな……残りは塩でいいか?」

「うん……法子もいいって」

「じゃあ……」

 綾と、綾伝いに法子の返答を聞くと、光秋は残っている白飯を手塩で握り、綾もそれを手伝う。

 そうして3つの塩おにぎりを作ると、光秋は自分が握った1つと綾が握った2つを見比べる。

「綾も握るの上手いな。見事な三角おにぎり」

「あたしが上手いわけじゃないよ……“法子の手”が慣れてるから……」

「……なるほどな」

 光秋の褒め言葉に、異物を見る様な目で自分の両手を見つめる綾。その心境を察して早々に話を切り上げると、光秋は辺りを見回す。

「ところで、ラップ何処です?」

「ここ」

 返答と同時に綾と代わった法子が手渡してくれた箱を受け取ると、光秋はおにぎりをラップに包んでいく。

「さて、これで主食はできたけど……お茶とかは食べる時に買いますか?」

「だね。ペットボトルなんかは近くのゴミ箱に捨てていけば荷物にならないし」

 光秋の問いの答えながら、法子は棚から出した包みにおにぎり6つを入れていく。

「保冷剤は……いいですよね?冬に」

「いいよ。寧ろ入れたら硬くなっちゃうかも」

「じゃあ、あとはこれを片付けて……」

 法子の冗談に応じつつ、光秋は使ったボウルとしゃもじ、空けたタッパを洗い、脱衣所の水盤で手に付いたデンプンを流す。

 法子の方も味噌を片付けて手を洗うと、2人はコートを羽織り、光秋がおにぎりの包みを持って部屋を出る。

「ありがとうございました。部屋使わせてもらって」

「いいよ。さっきも言ったけど、私も光秋くんのおにぎり食べたかったんだし……あたしはアキと一緒に作れて楽しかったし」

「そっか……」

 法子と綾の返事を聞きながら寮を出ると、光秋は左手を伸ばし、右手を繋いだ伊部姉妹と共に自分の寮へ戻る。

 

 寮の自室に戻ると、光秋は机の上の時計を確認する。

「もうすぐ9時か……ちょっと早いけど、出ますか?」

「それがいいね。中途半端に腰落ち着けてもかえって疲れるし……とりあえず最初の行き先だけど、何処行く?」

「んーん…………」

 法子の問いに、光秋はしばし思案する。

 と、ある場所が頭に浮かぶ。

「……京都駅、かな」

「京都駅?」

「なにかと思い出の場所なんですよ。綾と初めて遠出した時とか、法子さんと食事したりとか……行きは市バスでのんびり行って、着いたら周辺ぶらついて、そんな感じでいいですか?」

「……もともとノープランだしね。それでいっか」

「では」

 法子の返答を聞くと、光秋は財布や携帯電話を点検して点けっぱなしだったエアコンを切り、戸締りを確認してカバンを斜め掛けする。そこにおにぎりの入った包みを仕舞って部屋を出、後から来た小振りのバッグを左肩に提げた法子が出たのを確認すると鍵を閉める。

「じゃ、行きますか。二人……じゃない、三人ぶらり旅」

「途中下車でもしてみる?……ていうか、今人数間違えたでしょ!」

「ごめんごめん。さぁ」

 冗談に冗談で返す法子、頬を膨らませる綾に応じると、光秋はそんな伊部姉妹と手を繋いで最寄りのバス停へ向かう。

 と、路地を進んで表通りに出たところで一旦止まる。

「ところで、バスどっち回りにしよう?どっちでも最終的には駅に着くけど」

「あ、そっか……」

 光秋の問いに、法子は思い出した様に漏らす。

西回りと東回りの違いはあるが、殆どのバスは市内を一周する形で巡り、最終的には京都駅にたどり着く。そしてこの辺りは京都駅とほぼ向かい合う位置にあり、どちらを選んでも移動に掛かる時間は大して変わらず、料金も同じとなれば、あとは利用者の気分次第ということだ。

「……て言っても、違いなんて景色くらいだしね……」

「……じゃあ、またあれやります?ジャンケンで行く方向決めるやつ」

「……それがいっか。そういうのも面白そうだし……じゃあ、今日はあたしがやる!」

 光秋の提案に法子が賛成するや、交代した綾が名乗りを上げる。

「よし。僕が勝ったら西回り、綾が勝てば東回りな……じゃあ……」

「「ジャンケンポン!」」

 結果はグーを出した光秋の勝ちとなり、西回りのバス停へ向かうべく、一行は正面の横断歩道を渡る。

 

 バス停で待つことしばし、やってきたバスの路線番号を見た光秋は、左隣の法子に確認の目を寄こす。

「これは大丈夫ですよね?」

「うん。駅に行くやつだ。乗ろう」

 事前に確認していたバス停に備え付けてある時刻表、そこに書かれている路線一覧の記憶と照らし合わせながら応じた法子はそのバスに乗り込み、光秋も後に続く。

 休日ということもあってか、車内はかなり混み合っており、前の方に1人が座れるスペースを見付けた光秋は、

「法子さん、あそこ空いてます」

と、半ば押し込む様にしてそこに法子を座らせる。

「でも、光秋くん……」

「僕は立ってても平気ですよ。眺めもけっこういいし」

 言いながら吊り革を掴んだ光秋が応じていると、バスのドアが閉まり、重いエンジン音を響かせて走り出す。

「じゃあ、せめてカバン持つよ。貸して」

「……じゃあ」

 法子の好意に甘えてカバンを差し出し、それが膝の上に置かれたのを見ると、光秋は視線を窓に移す。

 眺めがいいという発言に偽りはなく、実際橋の上を通った際に窓越しに見えた鴨川と河川敷の景色は、とても絵になる。

 橋を渡れば大通りの脇に多様な店が隙間なく並び、その前に延びる歩道にはコート標準装備、場合によってはマフラーや毛糸の帽子を備えた人々が行き交っている。

 しばらく進むと停止を求めるブザー音が響き、停まったバス停でまとまった人数が降りて席に空きが目立つと、どちらがということもなく後部の2人掛けの席に移動して並んで座る。

「よかったね、席空いてさ」

「僕はあのままでもよかったんですけどね」

「あたしが嫌なの。一緒に座れないのが」

「そうかい」

 左隣の法子と綾にそれぞれ応じると、光秋は返してもらったカバンを膝の上に置き、右の窓に顔を向けて景色観賞を再開する。

「……こうして改めて見ると、この辺も賑やかというか、活気がありますよね。四条みたいな有名所の観光地とはまた質が違う……例えるなら法子さんの家がある商店街みたいな……」

「そうかな……?自分の育った町を悪く言うわけじゃないけど、あぁいう田舎の商店街と観光都市の町並みを比べられてもねぇ……」

「そんな難しい話じゃないですよ。なんて言うか……住むには便利で過ごしやすいというか……都会過ぎず田舎過ぎずというか……そりゃあ、都会のど真ん中でしょうけど……」

 いまいち自分の意図が伝わらない様子の法子に補足を入れるものの、上手い表現ができないことに光秋は我ながらもどかしくなる。

「あたしはなんとなく解るよ。元気なものに触れてるとアキも元気になる感じが伝わってくる」

「……お前さんの場合、ノーマル的コミュニケーションでは反則なところもあるけどな……まぁ、とりあえず伝わってるならいいや」

 綾の理解方法に多少の引っ掛かりを覚えながらも、一応の理解者の存在に少しだけ救われた気分になる。

 そんな会話の間にもバスは大通りを巡り、先週訪れた八坂神社の前を通過する。名所近くでの数回の停車を経て、一行の目的地たる京都駅に差し掛かる。

「……そろそろだな。荷物大丈夫?」

「うん。バス賃は……」

 注意を促す光秋に応じながらバッグを確認した綾は、そのまま取り出した財布から小銭を出す。

 光秋もカバンを提げて代金を用意したところでバスは停車し、ここに来るまでに車内を一杯にした人々に混ざって、一行は京都駅の降車用バス停に降り立つ。

「来たねぇ、京都駅!」

「お前さんは実に夏以来か……さて、何処を見て回ろうか……」

 喜色を浮かべながら正面の駅を眺める綾に応じながら、光秋は目ぼしい場所はないかと辺りを見回す。

「とりあえず駅行ってみようよ。構内見て回るのも面白そうだし」

「……ですね。駅だけでもいろいろあるし」

 法子の提案に応じると、光秋は手を繋ぎ、少しだけ前を歩く形で京都駅中央口へ向かう。

 大きく開いた出入り口から見える構内は休日ということもあってか、今日も前後左右に行き交う人々で混み合っている。

「もう聞き飽きたかもしれませんけど……やっぱいつ来てもすごいですねここは……」

 もう何度抱いたかわからない感想を自覚しつつも呟くと、光秋は中央口の左右を見回す。

「そういや僕、駅の周辺って歩いたことないな。反対側へはいつも構内突っ切って行くし。法子さんは?」

「……言われてみれば私もないかな。光秋くんが言うみたいに中突っ切った方が速いし……いつだか上を飛び越えて行ったこともあるよね」

「……ありましたね。そんなこと」

 面白半分で混ぜっ返す法子に、光秋は復帰してすぐの予知出動のことを思い出す。

―あの時、頭に血が上ってまた赤くなりかけたんだよな。振り返ってみると、未熟だったというか……それは今もか……―「まぁ、それはいいんだ。せっかくだから、ちょっと冒険してみません?普段行かないとこ行ってみましょうよ」

「いいね。面白そうだし……あたしも」

「よし!」

 法子と綾の了承を得ると、光秋は中央口手前で右に曲がり、伊部姉妹を先導する形で左に京都駅を見ながら歩く。

 仕切りのない広間をしばらく進むと、正面に2車線の道路が見えてくる。周りを見回すと、駅と周囲の高層ビルに挟まれた脇道のようだ。

「この先ってこうなってるんだ」

「中央口と違って寂しいっていうか……静かだね」

 一気に人気が減った脇道に、光秋と法子はそれぞれ感じたことを呟く。

「このまま進めば反対側行けるんじゃない?行ってみようよ!」

「だな。面白そうだ」

 綾の提案に即答するや、光秋はその手を引いて車道脇の歩道を道なりに進んで行く。

 駅の一部と高層ビルに挟まれた、都心のど真ん中にあっては静かな印象を抱かせる道をしばらく歩くと、それまでアスファルトだった路面がタイル張りに代わった道が現れる。

「……なんか、ずいぶんレトロなとこに出たな」

 今まで自分たちが歩いていた――今は右に曲がって表通りに続いているアスファルトの道と、正面に延びるタイル張りの道を見比べながら、光秋は感じたままを呟く。

「確かにね。他にもタイルの道はたくさんあるけど、ここはなんていうか……道だけ大正とかその辺だね」

「……すごい表現ですね……言いたいことはなんとなく解るけど」

 若干頭を捻った様子の法子に一応同意しつつ、光秋は右と正面それぞれの道を見比べる。

「どうします?曲がって表通り出てみます?僕はこのまま真っ直ぐ行ってみたいけど」

「私もそれでいいよ。この道面白そうだし」

「綾は?」

「あたしも」

「じゃあ」

 2人の同意を得ると、光秋は手を引いてタイル張りの道へ踏み出す。

 しばらく進むとT字路に突き当たるが、左は駅の敷地のためか柵が設けてあり、必然的に右へ行くことになる。一本道を左に曲がると、左にスロープ、右に階段が備わった下り坂が見えてくる。

「この先、2つに分かれてますけど……坂と階段で行き先違うんですかね?」

「ううん。同じだと思うよ。車椅子なんかの人はスロープで降りて、そうでない人は階段使うんだよ、きっと」

「なるほど」

 法子の推測混じりの説明に応じると、光秋は坂と距離を詰めながら2つの道を見比べる。

「それなら、スロープの方にしましょうよ。階段はちょっと……」

「……やっぱり、苦手?」

「苦手って程じゃ。ただ今日は、手繋いでるから……」

「離せばいいのに」

「……今日は、できるだけ繋いでおきたいんです」

「……だよね……うん」

 静かな、しかし頑なな意思を含んだ光秋の返答に、法子と綾はそれぞれ応じ、一行は一瞬前より心なしか強く手を握り合ってスロープを歩く。

 坂を下り切ってT字路に差し掛かると、一行は車2台がぎりぎりすれ違えるくらいの幅の正面の道、その左右を見回す。

「ここは左行けそうだな……行ってみます?」

「だね。どっかで曲がらないと反対側行けないし」

 法子の返答を聞くや、光秋はその手を引いて、歩き始めて以降始めて左へ行ける道へ踏み出し、しばらく進むと重厚な高架橋が見えてくる。

「あれ、京都駅の」

「うん。線路乗ってるやつだろう……位置から考えて」

 高架橋を見ながら言う綾に、光秋も左側――京都駅の方を眺めながら応じる。

「……てことは、このまま行くと……」

 一人呟きながら光秋は高架橋の下をくぐり、少し歩くと4車線の太い道が見えてくる。

 その歩道をさらに進むと、重なる様にして佇む2本の高架橋が現れ、その下をくぐって太い十字路に行き着くと、左側にようやく見慣れた景色が見えてくる。

「やっぱり。上手く反対側に出ましたね」

「でも、やっぱり大きな駅だね。外から回り込むだけでけっこう歩いたよ」

 何度か来たことがある京都駅の裏側――八条通側の光景に、光秋は小さな達成感を覚えながら呟き、法子は若干疲れた様子で足を軽く振る。

 それを見て、光秋はふと思い付く。

「どっかで休みますか。そういえば、こっち側の飲食店街に前から入ってみたい店があったんですよ。そこ行きましょう」

「なんのお店?」

「確か、喫茶店みたいなとこだったかな?少なくとも、レストランみたいにしっかり食事するようなとこじゃなかったと思います」

「喫茶店ねぇ……いいや。行ってみよ」

「はい。綾もいいか?」

「あたしもいいよ。アキの話聞いてたら、なんか美味しそうなの浮かんできたし」

「だから、勝手に思考を読みなさんな……」

 法子の返答を聞き、綾を注意するや、光秋はその手を引いて目的の店へ向かう。

「別に読んだわけじゃないよー。勝手に浮かんでくるんだもん……」

 不満そうに頬を膨らませる綾の抗弁を聞きながら少し歩くと、一行は駅構内の飲食店街へ入り、しばらく中を散策する。

「…………あった。ここだ」

 目的の店を見付けるや、光秋は伊部姉妹を先導する様にそこへ入店する。

「いらっしゃいませ。何名様でしょうか?」

「……2人で」

「お好きな席にどうぞ」

奥から出てきた店員に少し迷いながら人数を告げると、促しに従って奥側の2人席に向かい合って座る。

「……なんか、小さいお店だね」

「電車やバスの時間潰しが前提なんじゃないか?京都駅ってそういうのの交差点だし、構内に休憩所みたいなとこもないしな。座って休むための店なんだよ」

 半分程席が埋まっている店内を見回す綾に、光秋は推測混じりに応じ、互いの荷物を足元のかごに入れると、やって来た店員が水とおしぼりを置いていく。それが去ったのと入れ替わる様に、一行はテーブル脇に置いてあるメニュー表を広げる。

「これだこれ!これが食べてみたかったんだよ」

 そう言って光秋が生き生きと指さすのは、器の真ん中に丸い抹茶アイスが載ったあんみつの写真だ。

「これ、外の看板にもあったよね」

「そう。いつだったは忘れたけど、前にここ来た時それが見えてさ、以来食べてみたいと思ってたんだよ!」

「……そういえば光秋くん、こういうの好きだっけ」

 出入り口を見やる綾に光秋は若干興奮気味に応じ、法子は思い出した様に返しながらメニュー表に目を通す。

「じゃあ、私は抹茶パフェにしようかな。来たらちょっとずつ交換しようよ」

「いいですね!じゃあ……すみませーん」

 法子の提案に嬉々として即答するや、光秋は店員を呼び、2人分の注文を頼む。

 注文を聞いた店員が厨房に消えると、綾が思い出した様に呟く。

「そういえばアキ、入る時『2人』って言ったよね?」

「あぁ……正直何て言おうか迷ったけど、()()()()()2人だからいいかなーって……別に他意は……」

「また変な気遣ってるよ。私たちもその辺わかってるから大丈夫だよ。実際、私たちの事情いちいち説明するのも面倒だし、私たちが2人分食べるわけでもないしね」

「それならいいですが……」

 法子の言葉に、ついいろいろ考えてどこか強張ってしまう気持ちを鎮めると、光秋は水を一口飲んで気分転換する。

「それはそうと、食べ終わったらどうするか……」

「……あたし、あそこ行きたいな」

「……あそこか……」

 言いながら視線を横へ向ける綾。その言わんとすることを察しながら視線を追って壁を、その先にある“あそこ”を幻視した光秋は、少し考える。

「……確かに、折角ここに来たなら寄っていった方がいいか。法子さんもそれでいですか?」

「私も別に……と、来たよ!」

 法子の了解を得た直後、先程頼んだあんみつと抹茶パフェが運ばれてくる。

―!……と、焦るな……―

 写真で観るよりも数倍美味そうに見えるあんみつを前に逸る気持ちを抑えつつ、光秋はおしぼりで手を拭き、一緒に運ばれてきた小瓶に入っている黒蜜を全体に均等になるように垂らしていく。小瓶を完全に空けるとスプーンを手に取り、満を持して手を合わせる。

「いただきますっ!」

 言うやいなや抹茶アイスにスプーンを入れ、一口程度に掬ったそれを黒蜜の掛かった寒天や餡子と一緒に口に運ぶ。

―…………うん!予想通りだな!―

 舌の上に広がるアイス、餡子、黒蜜、それぞれの少しずつ異なる甘味と、抹茶の仄かな苦み、寒天の舌触りをしばし楽しむと、また一口掬って口に運ぶ。

「ご満悦だねぇ。そんなに美味しいの?」

「はい。ここに来ようって言った甲斐がありました!」

 抹茶パフェを食べながらの法子の問いに、光秋は上々な気分で答える。

 一方、

「そっちは?」

「ちょっと苦戦中……美味しいけどね」

「あぁ……」

上に載っている抹茶アイスを落とさないように慎重にスプーンを入れていく法子に、パフェ独特の食べ難さを思い出す。

 そうしながらも長グラスの淵まで食べ進めて落ちる心配が解消されると、法子は光秋のあんみつを見やる。

「食べます?」

「ありがと。光秋くんもどうぞ」

「じゃあ一口」

 視線の意図を察してあんみつを勧める光秋に、法子もお返しとばかりにパフェを勧めると、2人は互いの器にスプーンを伸ばす。

「うん!寒天と……この果物は杏子かな?それに黒蜜が絡んでいい甘さだね」

「こっちも。これは白玉かな?それに抹茶アイスが合わさってなんとも……抹茶味のスポンジケーキも好みの甘さで」

「それたぶんカステラだよ」

「あ、そっか」

 互いに感想を語りつつ――光秋は法子の訂正を聞きながら――2人は満足気に食事を続ける。

「じゃあ今度は……はい、あーん!」

「やると思ったよ……」

 法子と交代するやパフェの載ったスプーンを差し出してくる綾、そのどこかで予想していた行動に小さく呟きながら、光秋は店内をさっと見渡す。

 客の数は入った時と大して変わらず、未だに席の半分程が埋まっている状態だが、それぞれの客は、ある者はお喋りに華を咲かせ、ある者はたまに飲み物を挟みながら読書に耽り、ある者はやってきた料理を食べるにことに夢中になっており、少なくともこちらが注目されている様子はない。

―……仮にそうだったとしても、今更か……―「ん。あー」

 すでに何度か公衆の面前でやっている手前、初めての時に比べてあっさり綾の行為を受け入れてパフェをいただくと、光秋は先程とは違う過程で口に入ってきたそれを咀嚼する。

「どう?」

「どうって……さっきも言った通り、甘くて美味いよ」

「そういうことじゃなくってさー……いいや。あたしにも!」

「あいよ」

 望みの返答が得られなかったことに若干膨れると、綾はもの欲しそうにあんみつを見つめる。それに応じながら光秋は溶け始めたアイスの表面を削って寒天や餡子、さらには白玉と一緒にスプーンで掬い、それを綾の口へ持っていく。

「……やっぱり、あれ言わなきゃダメなんだよな……?」

「当然っ!」

有無を言わせない綾に、光秋は小さく覚悟を決める。

「……はい、あーん」

「あーん!」

言いながらスプーンを差し出すと、綾は満面の笑みでそれを銜える。

「……じゃあ、今度は()にも」

「そうきますか……」

 交代と同時にねだってくる法子に応じながら、光秋はそちらにもあんみつをひと掬い持っていく。

「……これ言うんですよね……はい、あーん」

「あーん!」

綾と同じ要領でスプーンを差し出すと、法子は柔らかな笑みを浮かべてそれを咀嚼する。

 そんなやり取りを挟みつつ、一行の休憩を兼ねたお茶の時間は過ぎていく。

 

 しばらくして食事を終えると、一行は互いに荷物を提げてレジへ向かう。

 カバンから財布を出しつつ、光秋は法子にやや強く言う。

「法子さん、ここのお茶代、全部僕に持たせてください」

「え?いいよ。私たちの分は私たちで出すよ」

「そういうわけにもいきませんよ。少なくとも今はね。この間法子さんが言ってた『彼女候補』ってのに照らし合わせるなら、僕は『暫定彼氏』といでも言うべき立場なんだ。こういう時は格好つけさせてくださいよ」

「そういうもんかな?」

「つまらない見栄かもしれませんけど、やっぱり“男”として、その気がある女の人に対してはこれくらいやっておきたいんですよ。僕のためと思って」

「……じゃあ、甘えようかな。『暫定彼氏』くん!」

 光秋の説得、それ以上にある種の意地にその意見を受け入れると、法子は「彼氏」という単語を面白そうに言いながら持っていた伝票を渡す。

 それをレジに置いて2人分の会計を済ませると、光秋は伊部姉妹の手を引いて店を出、先程話していた“あそこ”へ向かう。

 通路をしばらく進んだ先にある広間、そこの出入り口から外に出て、さらに左に進むと、目的の“あそこ”――夏には綾と、秋には法子と腰かけた柵が見えてくる。

「…………座りますか」

「だね。せっかくだし……久しぶりだなぁ」

 来たはいいものの、その後どうしたらいいか迷ってしまった光秋のとりあえずの提案に、法子が頷き、綾が懐かしむ様に呟くと、一行は柵の上に腰を下ろす。

―!……流石に冬はなぁ……―

 ズボンを挟んで伝わってくるすっかり寒気に晒された金属の冷たさに、光秋は背筋を震わせる。

「……やっぱり冬は冷たいねぇ」

「ですね……」

 同じことを感じたらしい法子に頷くと、光秋は夏のことを思い出す。

「そういや綾、夏にここ座ったら指熱くしてたよな。あれは注意しようとした矢先だったっけ?」

「しょうがないじゃん!あの頃はそういうの知らなかったんだし……」

 昔話に懐かしむ笑みを浮かべる光秋、それとは対照的に、綾は恥ずかしいことを蒸し返された様に頬を膨らませる。

「それが半年くらいでこれか……ホント、お前さんは成長が早いよ」

「それは、アキがいろいろ教えてくれたからだよ……」

 精神的に幼かったあの頃の綾と、多少子供っぽいところを残しながらも肉体と吊り合うようになった今目の前にいる綾、その差に光秋は軽く圧倒され、綾は左肩に顔を寄せてくる。

「あの時だよ。アキに世界が広いってこと教えてもらったの」

「そんなこと言ったっけな?」

「言ったよー!あたしちゃんと覚えてるもん!」

「……そういや、あの頃はよくそんな話してたっけ……」

 口を尖らせる綾に言われて、光秋は当時のことを大まかに思い出す。

―振り返ってみれば、田舎から出たばっかの若造が、なんとも大層なことを語ってたなぁ……もっとも、あの時感じたこと、語ったことに間違いはない……と思う。少なくとも、あぁいったこと一つ一つが、今ここにいる僕を形作っているのは確かだろう……―

 そこまで考えた、その時、

「あー、お二人さん?いい雰囲気のところ悪いんだけど、私もいるよ?」

当時のことを振り返る光秋の思考を遮る様に、若干不機嫌さを含んだ法子の声が掛かる。

「わかってますよ……あ」

 それに応えると、光秋は所々舗装の跡がある路面を捉える。

「そういえば、法子さんに綾とのこと詳しく話したものここでしたよね。『お互いを見た』なんて、要領の悪い説明して」

「あったねぇ……NPのテロの時に怒ったことにも触れたよね」

「ちょっとだけね……」

 思い出した様に呟く法子に、光秋は初めての予知出動の時のことを思い出す。

「…………不思議なものです。綾と法子さん、それぞれ違う人格の、でも体は同じ人と、会話の内容は違っても、同じ場所で会話の思い出を作って、そこに今全員で腰を下ろして……こんな数奇な経験、そうそうできないだろうなぁ」

「そりゃあねぇ……一方の当事者である私たちでさえ、なんか変な気分……」

 不意に浮かんだ感慨を思うままに呟く光秋に、法子も、綾の気持ちも含めて感じたままに返す。

 その時、ひと際強い風が一行に吹き付ける。

「……やっぱ、冬ここに長居はまずいですね。中入りますか」

「そうだね。光秋くん明日のこともあるから、風邪ひくといけないし」

その冷気に追い立てられる様に、光秋と伊部姉妹は近くのドアから駅構内へ入る。

 通路中に満たされた温風に力んでいた体を弛緩させると、光秋は腕時計で時刻を確認する。

「もうすぐ12時か……そこのコンビニでお茶買って、昼にします?といっても、何処で食べようか……」

 正面に佇むコンビニを見ながら、光秋は適当な場所はないかと思案する。

「とりあえず反対側行ってみる?そこで座れそうな場所探してさ、そこで食べようよ」

「また駅を迂回して?」

「構内を突っ切って」

「冗談ですよ」

 法子の提案に冗談で応じると、光秋はその手を引いてコンビニに入り、そこでペットボトル入りのお茶を2本買うと、通路を来た方向へ向かって進む。

 先程外に出た出入り口のある広間に着くと、奥にあるエスカレーターを上って左に曲がり、その先にある階段を上って広い通路を直進する。いくつもの主要路線の上を跨いでいるそこは、今日も今日とて激しい人の行き来がある。

―昼時だっていうのに、ここは衰えないな……もっとも、今の僕たちもその衰え知らずを作っている一員なんだが―

 左右をすれ違う、あるいは追い越していく人々の数に圧倒されつつ、光秋は逸れないように伊部姉妹を繋ぐ手の力を強める。

 しばらく進んで右に曲がり、エスカレーターを下って中央口から外に出ると、少し離れた所で立ち止まって周りを見回す。

「しっかし、いい場所ありますかね?構内は何処もごった返してるだろうし、外は……これなら、お茶だけ買って柵のとこで食べててもよかったかな……?」

 軽い後悔を漏らしつつも、光秋は適所探しに目を凝らす。

「あっち行ってみない?少し動いてみようよ」

「……それもそうか」

 綾の提案に頷くと、光秋は指さされた正面の道を歩いてみる。

 と、少し進んだ所にあるバス乗り場、その脇に下へ続く幅広の階段を見付ける。

「ここにするか?邪魔にならないように端っこに座ってさ」

「あたしそれでもいいよ……私も」

「そんじゃ」

 綾と法子の同意を得ると、一行はバス乗り場脇の階段、その1段目の右端に並んで座り、光秋は持っていたビニール袋からお茶を、提げていたカバンからおにぎりの入った包みを取り出す。

「あたしこれねぇ!」

 そう言って綾が真っ先に取ったのは、光秋がはじめの頃に作った不格好な丸い味噌おにぎりだ。

「いいのか?そんな団子で……」

「アキが作ってくれたんだからいいの!いただきまーす!」

 この期に及んでまだ見た目の悪さを気にする光秋とは対照的に、綾は嬉々としておにぎりに噛り付く。

「っ!……しょっぱ……」

「あぁ、急いでたから入れ過ぎたか。ほれ」

「ありがと……」

 予想より多かった味噌に口を結ぶ綾に、光秋はフタを開けたペットボトルを差し出し、綾はその中のお茶を飲んで口直しする。

「じゃあ僕も、いただきます」

 綾にフタを渡して手を合わせると、光秋はお茶を一口飲む。お茶に乗って温かさが喉を通り、それが全身に浸透して寒さに無意識に強張っていた体がほぐれると、法子作の見事な三角おにぎりを一口齧る。

「……たまにはこういうのもいいですね」

 口の中に広がる程よい塩気と白米本来の控えめな甘さ、その自己主張の少ない質素な味わいに、いい具合に脱力した感想が溢れる。

「……ほんとにこれ、入れ過ぎじゃない?」

「そんなにひどいですか?……これは綾かな?いい味噌加減で」

 大量の味噌に苦言を呈する法子に返しながらおにぎり1個を平らげた光秋は、今度は綾作の味噌おにぎりに舌鼓を打つ。


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