坂を上り、鴨川周辺に建ち並ぶ飲食店を見て回ること数分。
中規模の蕎麦屋に入った2人は、店の隅の2人席に向かい合って腰を下ろすと、光秋は足元に、法子はその上にカバンを置く。
「やっぱけっこう混んでますね」
「お昼時だからね……」
人でごった返している賑やかな店内を見回す光秋に、法子はテーブル端のメニュー表を取って応じ、広げたそれを2人で見る。
「……じゃあ僕、きつねうどんで」
「ここ蕎麦屋だよ?」
「蕎麦よりうどんが好きなんですよ」
「そういえば、食堂なんかでもよく食べてるよね。じゃあ私は……天ぷら蕎麦にしよっかな」
各々食べたい物を決めるや、それを見計らったかの様に店員が湯呑に入ったお茶を持ってくる。
その店員に注文を頼むと、法子はお茶を一口飲んで口を潤す。
「……ところでさ」
「……はい?」
どこか沈んだ様子で語り掛けてくると、同じくお茶を飲んでいた光秋は湯呑を置いて向き合う。
「さっきはごめんね。ケンカの時、助けに行けなくて……」
「あぁ。仕方ないですよ。さっきも言ったけど、綾はあぁいうの苦手なんだし」
「そういうことじゃなくてね……私あの時、代わろうとしたんだけど、どういうわけか上手くいかなくて……仕方なく通報するように言うのが精一杯で……」
「……そういえば綾もそんなこと言ってましたね。調子の良し悪しでもあるのか……?ま、それはともかく、丸く治まったんですし、綾にも言った通り過ぎたことを悔やんでも仕方ないですよ」
「そうなんだけどね……」
どうということはないふうに光秋は返すが、法子はどこか煮え切らない様子だ。
と、先程頼んだ2人の注文が運ばれてくる。
―いいところに来てくれた―「とりあえずこの話はここまで。食べましょうよ。いただきます」
「……いただきます」
タイミングのよさに内心感謝しつつ、光秋は敢えて強引に話を終わらせてきつねうどんをすすり始め、法子も渋々ざるの蕎麦を適量取って椀のつゆに浸ける。
「…………温まりますねぇ」
煮え切らない話題が終わった代わりに訪れた沈黙に耐えかねて、光秋は食べたうどんの感想を漏らすが、
「私は冷たいのなんだけどね」
「……失礼しました」
法子のあっさりとした返答に、すぐに話が尽きてしまう。
―またこれだ。すぐに話題が尽きてしまって……―
再び訪れた沈黙をどうにか破ろうと、光秋はうどんをすすりながら頭を巡らせる。
と、
「そういえばさ」
「……はい?」
唐突に口を開いた法子に内心安堵しつつ、うどんを呑み込んだ光秋は顔を上げる。
「光秋くん、綾とはけっこう仲いいよね。昨日から何度もご飯食べさせ合いっこしてたし」
「あ……いや、あれはあいつがやってたのに合わせたっていうか……」
どこか棘のある視線で聞いてくる法子、その完全な不意打ちにその時のこと――近いところで鴨川での八ツ橋のこと――を思い出し、光秋は気まずさと恥ずかしさを同時に覚える。
「『合わせた』ねぇ……じゃあさ」
「?」
光秋の気持ちの整理がつかない間にさらに続けると、法子はおもむろに天ぷらの1つを取ってつゆに浸ける。
そして、
「私も、あーん!」
「法子さん……」
笑顔で天ぷらを差し出してくる法子に、光秋は既視感と新鮮さ――本来相反する2つの感覚を同時に覚える。
―既視感は服装が同じ所為……新鮮さは法子さんと綾の雰囲気の違いからくるのか?…………しかし…………―「法子さんまでそれやるんですか?」
冷静な部分で自己分析する一方、予想外の行動をとる法子に思わず呟く。
「綾も言ってたでしょ。仲よしの間じゃこうするって……それにさっきも言ったけど、私だってちょっとは妬けるんだよ?」
「……わかりました」
努めて笑顔で、しかし最後の方はどこか悲し気に応じる法子に短く返すと、光秋は静かに口を開けて天ぷらをいただく。
―……これは烏賊かな―
食べる前に衣の合間から見えた白い部分と独特の歯応えにそう思いつつ、衣につゆが染み込んだ烏賊を咀嚼する。
「どう?」
「……美味いですね。適度にふやけた衣と烏賊の弾力がなかなか」
法子の問いに、烏賊を呑み込んだ光秋は思ったままを答える。
「そっか……じゃあ……」
「……りょーかい」
それに返す様に口を開ける法子に、綾とのやり取りの経験から意図を察した光秋は、渋々うどんを数本すくって、汁が垂れないようにどんぶりごと法子の方に寄せて口に運ぶ。
―やっぱり、あの一言言った方がいいのか?でも法子さんだし…………その法子さんがこういうことしてるんだよな…………えぇい!ここまで来たら…………―「はい、あーん」
「あーん!」
しばしの思案の後、結局言った光秋に、法子は喜色を浮かべて差し出されたうどんをすする。
「うん!蕎麦屋のうどんっていうのもなかなか美味しいね」
「そりゃよかった」
笑顔で感想を述べる法子に応じると、光秋はどんぶりを自分の許に戻して食事を再開する。
―法子さんまでこれをやるとは……綾のを何度か見たからだとは思うが、なまじ似合ってるから尚のこと…………―
もやもやした気持ちを持て余しながら、光秋はうどんをすすり続ける。
食事を終え、法子が押し切る形で全額支払うと、2人は店を出る。
「で、この後どうしましょう?法子さんは何処か行きたいとこありますか?」
「そうだなぁ……」
カバンを左肩に掛け直しながら問う光秋に、左隣の法子は顎に手を当てて空を見上げる。
―こういう「知的」とでも言う様な仕草は綾にはないよなぁ。法子さんの場合、それが様になってるからなんとも……―
その様子に、心の中で素直な感想を漏らす。
と、法子は下ろした顔を向けてくる。
「正直、私も何処に行きたいってないんだよね。綾が言ってた様に、光秋くんと一緒にいられることが大事っていうか……」
「言ってましたね。バスの中で……」
後半は薄っすら照れながら言う法子に、光秋も少し気恥ずかしさを覚えながら返す。
「でも、何処でもいいっていうのも困るし……」
「なんですよねぇ…………じゃあ、この辺テキトーに回るってどうです?面白い場所を見付けたらそこに行って、それが終わったらまた歩いて――要はぶらぶらするってことで」
「それがいいかもね。いろいろ見れそうだし。じゃあまず右に行くか左に行くか、ジャンケンで決めよ」
「ジャンケン?」
「私が勝てば右、光秋くんが勝てば左」
「なるほど。じゃあ……」
「「ジャーンケーン、ポン」」
結果は光秋がパー、法子がチョキだ。
「私の勝ちだ。じゃあ右だね」
「そんじゃ、行きますか」
「うん!」
光秋に応じると、法子は指を絡める様に手を繋ぎ、2人は四条通の方へ向かう。
十字路に差し掛かる度にジャンケンを行い、勝った側に進むことを続けて十数分。
行く宛てもなく四条通周辺をぶらぶらしていると、光秋は右前方にある店を見付ける。
「……あそこって」
「古本屋だね」
法子が言う様に、そこは日本州内に留まらず合衆国各地に店舗を出している大型古書店だ。
歩道側にはめられた窓ガラス越しには、本を一杯に収めた多数の棚が見える。
―古本屋かぁ……―
「入ってみる?」
「え?……あぁ……」
法子からの唐突な提案に一瞬意表を突かれるものの、束の間視線が店に釘付けだったことを思い出し、素直過ぎる反応に光秋は少し恥ずかしくなる。
もっとも、恥じらいと誘惑に勝てるかは別問題だが。
「……じゃあ、ちょっとだけ」
ものの数秒で自分の欲求に膝を折るや、自分でもわかるくらい軽い足取りで自動ドアをくぐる。
「!……」
ガラス越しでない大量の本を前に、心なしか気分も上気する。
「ここからは昨日みたいに別々に回ろうか。しばらく自由に見て後で合流」
「それで」
「じゃあ後でね……実は、私も入ってみたかったんだよね」
薄っすら笑みを浮かべて別れる法子を見送ると、光秋も早速小説のコーナーに足を運ぶ。
「……」
本棚に顔を近付け、容量一杯に並んだ背表紙を指でなぞりながら、右から左へ、上から下へと無心で移動していく。
―……この曲……歌は知らないけど、声は年末のテレビで歌ってたグループと同じみたいだな。昔の流行歌か?……どうであれ、こういうのもいいな!―
不意に聞こえてきた店内放送で流れる歌、それを聞きながら店内を回る現状にさらに気分をよくしながら、光秋は棚巡りを続ける。
気になった本を手に取って数ページ立ち読みし、それを何度か繰り返しながら店内を一通り回る。その中で気に入った2冊の文庫本を脇に抱えてレジに向かい、会計を済ませてビニール袋を受け取ると、それをカバンに仕舞いながら出入り口のそばに移動して法子を待つ。
―とんだ掘り出し物に遭遇したな。いい買い物だった!―
以前話に聞いて気になっていた本が2冊も手に入ったことに思わず頬を緩めながら、その本が入ったカバンを微笑みを浮かべて見やる。
と、ビニール袋を持った法子が歩み寄ってくる。
「ごめん、待った?」
「いえ。僕も今来たとこですから。にしても、思ったよりけっこういましたよね……あ、もうすぐ4時だ」
言いながら光秋が腕時計確認すると、3時50分を指そうとしている。
「ホントけっこういましたね。本漁りに夢中で気付かなかったけど……とりあえず出ますか」
「だね」
法子が頷くと、2人は手を繋いで古本屋を出る。
少し歩いた所で一旦止まると、光秋は法子が持っているビニール袋を見やる。
「それもカバンに入れますよ。その方が手荷物減るでしょ」
「いいの?じゃあお願い」
申し出に素直に応じるや、法子は本の入った袋を渡し、それを光秋はカバンに仕舞う。
「さて、中途半端な時間になっちゃったけど……」
「もうちょっとぶらつかない。で、6時くらいにどっかのお店でご飯にしよう」
「……それがいっか……じゃあ、もうしばらく」
法子の提案に応じると、光秋は手を繋ぎ直して、古本屋に入る前の要領で再び歩き出す。
「にしても、古本屋もいいですね。書店にはない独特の雰囲気があって好きだ」
「わかるじゃん。綾も気に入ったみたいでね、ちょくちょく交代しながら回ってたよ」
「あ……」
自分の感想に返してくれた法子の言葉に、光秋は古本屋巡りの興奮で頭の隅に押しやられていた今回の遠出の主旨を思い出し、法子に対して申し訳ない気持ちになる。
「そのことなんですが……なんかすいません。一緒にいることが大事って言われながら、僕一人ではしゃいじゃって……」
「え?……あぁ、さっきの古本屋のこと?いいよ。それを言ったら私や綾も一人で楽しんでたんだし。息抜きにちょっと離れるくらいさ」
「はぁ……」
「それに本屋なんかは、人それぞれ行きたいコーナーが違うんだから、こればっかりは2人じゃ回れないよ」
「それはそうでしょうけど……」
なんということのない様子で法子は返してくれるが、それでも光秋は申し訳なさを拭い切れない。
―残り少ない時間、少しでも一緒にいようって話だったのに…………!?―
そんな後悔を察してくれたのかはわからないが、唐突に身を寄せてきた法子に、光秋は一瞬心臓を跳ね上がる。何着もの服を挟んでとはいえ腕と腕が触れ合う絶妙な距離感は、綾の抱き付きに慣れつつある身にも別種の刺激を与えてくる。
「そういうふうに思うんだったらさ、この先はしっかり付き合ってよ。それでいいでしょ」
「……それもそうですね」
その一言でやっと立ち直ると、ちょうど十字路に差し掛かった2人はジャンケンで行く方向を決める。
光秋がグーを出して勝ったため、右に曲がる。
「それにさ、古本屋は古本屋で楽しかったでしょ?光秋くんもいい物買えたみたいだし」
「それはまぁ……て、何で知ってるんです?綾のテレパシーですか?」
「店を出る前に合流した時、嬉しそうな顔してたでしょ。それで充分わかるよ」
「……敵わないなぁ、法子さんには」
何もかもお見通しな様子の法子に心の中で諸手を挙げながら、光秋は苦笑いを浮かべて歩き続ける。
午後6時。
「そろそろ夕食にしますか?」
「そうだね。どっかいいお店ないかな……」
日が落ち、街灯や周囲の看板が辺りを照らすようになった頃、腕時計で時刻を確認する光秋に応じながら、法子は周囲を見回す。
「……せっかくだし、あそこ行ってみない?」
言いながら左手で1件の店を指さし、それを追った光秋は、普段ならまず入らない高級感溢れる洋食店を目に止める。
―また高そうな……いやでも、『しっかり付き合う』って約束したしな…………ここは腹を括るか…………―「じゃあそうしますか」
DDシリーズに対峙する時の3割くらいの覚悟を決めながら応じると、法子に先導される形で店のドアをくぐる。
ドア端の鈴が澄んだ音を鳴らすと店の奥から店員が現われ、法子が人数を告げると、2人は席に案内される。
「……ここは
テーブル下にカバンを置いて腰を下ろしながら、光秋は自分たちしかいない店内を見回し、脳裏に浮かんだ昨日の同じ時間帯のレストランと比較しながら呟く。
「……やっぱり、いい店だから入り難いのかな?」
「日曜の夕方っていうのもあるんでしょ。明日からまた仕事だから。あと目立つ場所じゃないから、観光客の人には見付け難いのかも」
「あぁ、なるほど……」
咄嗟に浮かんだ推測に推測で返す法子に、光秋はその方が妥当かと納得しながら応じる。
その間にメニュー表が2冊運ばれ、各々ページをめくって食べたい物を決める。
―……予想はしていたが……
さっと流し読みしただけでも圧倒的に目に付く4桁の値段の数々に、光秋は思わず心の中で後ずさってしまいそうになる。
それでもどうにか踏み止まり、好みと値段を擦り合わて注文を決めると、ちょうど法子も決め終わったのを見て呼び出し機を鳴らす。
「ステーキセットを」
「私もそれで。あ、あとブドウジュース2つ」
「え?」
「かしこまりました」
付け加える様な法子の注文に意表を突かれていると、確認する間もなく店員は厨房の方へ行ってしまう。
「ブドウジュースって……2つって僕もですか?」
「そうだよ。カッコイイ大人ならワインでも頼むのかもしれないけど……ほら、私弱いし」
「あぁ、なるほど」
最後の方は照れながら話す法子、その格好つけようとしてつけきれない様子を愛らしいと感じて微笑みを浮かべそうになるも、光秋はそれを失礼と思って緩みそうになる頬を強引に抑える。
「普段まず入らないようなオシャレなお店に入ったからさ、せっかくだしせめて気分だけでもと思って……」
「そういうことですか。気遣いありがとうございます。案外ブドウジュースがちょうどいいかもしれませんね。僕まだ未成年だし、明日仕事だし」
「……明日、か」
感謝と共に思ったままを伝えると、法子は少しだけ寂しそうな顔をする。
―明日、か……今日別れたら、あと1週間なんだよな……―
その理由を察して、光秋も少しだけ胸が寒くなる。
「…………」
「…………」
そうして互いに口が重くなり、2人の間に外気にも負けない冷たい沈黙が訪れる。
しかし、それも束の間。セットメニューのサラダとブドウジュースが運ばれてくるや、光秋は頭を軽く振って寒さを払う。
「あんまり暗くなるのもいけないですね。今はとにかく、ここでの食事を楽しみましょう」
「そうだね。ちょうど来たし、早速」
言いながら法子も気持ちを切り替えると、ブドウジュースが注がれたグラスを取り、意図を察した光秋もそれに倣う。
店側の配慮か、もともとそうして出すのかは判らないが、一本足のワイングラスに注がれたブドウジュースは、その赤黒い色合いと合わさって、さながら本当にワインの様だ。
「「乾杯!」」
息の合ったタイミングでグラスを触れ合わせ、カチンという軽快な余韻を聞きながら互いに一口飲む。
「けっこう美味しいね。それなりの値段だったから期待はしてたけど、いいものなのかな?」
「なんじゃないですか?ちょっと酸っぱいところがいいですね」
感想を述べる法子に応じながら、光秋はグラスをフォークに持ち替えてサラダを食べ始める。
一口サイズに千切ったレタスと紫レタス、トマト、みじん切りにしたニンジン、タマネギ、パプリカなどをゴマドレッシングで和えたさっぱりとした味が、舌に残っていたブドウジュースの甘味を程よく薄めてくれる。
サラダを食べ終えて口をさっぱりさせると、それを見計らったかの様に盆を持った店員が現れ、使い終わった皿とフォークの代わりに主役たるステーキと小ぶりのパンを置いていく。
「うわぁ……!思ってたより美味しそう……」
「鉄板じゃなくて皿っていうのがまた豪華な感じしますよね。えーっと、フォークがこっちで、ナイフが……」
感動の声を上げながら、おそらくは日高に送るのであろう画像を携帯電話で撮影する法子に応じつつ、光秋は右手にナイフ、左手にフォークを持ってこってりとした香りが漂うソースのかかったステーキを切り分ける。普段とは違って左手にフォークを持つ感覚に少々戸惑いながら、切れ目から赤身の覗く一切れをよくソースに絡ませて口に運ぶ。
「…………」
口の中に広がる旨味にしばし言葉を失い、
―…………こんないいもの食って、
心の中では思わず腰が引ける。
「……『美味しそう』じゃなくて、本当に美味しいね。柔らかくてジューシーで……」
「僕はあまりの美味さに怖くなってきましたよ……」
目で見た時以上の感動を漏らす法子に、光秋は本音で返す。
―……いや、しかし、いつまでもビビッているわけにもいかないよな…………しっかり付き合うって約束したんだし、ここは一丁!―
心中に気合いを入れて引け腰から立ち直ると、光秋はブドウジュースを一口飲んで気持ちを落ち着かせ、ステーキを一切れ切り分ける。
「法子さん」
「ん?」
添えられていたブロッコリーにソースを絡めて食べている法子に呼び掛けると、光秋は切り分けたステーキにフォークを刺し、
「……どうぞ!」
僅かに緊張を含んだ声と共にそれを差し出す。
「……え?」
その行動に、法子は一瞬目を丸くする。自分や綾ならまだしも、光秋が自主的にこのような行動に出たことが余程意外だったようだ。
「……どうしたの?急に」
「いや、しっかり付き合いうって約束したから、偶には僕の方からと思って……とにかく!どうぞ!」
自分で説明して気恥ずかしくなりそうな気持ちをどうにか抑え、光秋はやや強い語調でさらにフォークを近付ける。
「……ありがと」
あたふたしている光秋が可笑しかったのか、それとも何かしてあげたいという思いが通じたのか、法子は礼と共に笑顔を向ける。
しかし一瞬後には、それが細目のイタズラの笑みに変わる。
「でもそういうことなら、『どうぞ!』じゃないでしょ?」
「…………やっぱり言わないとダメですか?」
「そりゃあ、中途半端じゃねぇ」
言わんとすることを察して緊張で強張っていた表情をさらに硬くする光秋に、法子は可愛いものを観る様な笑みを向ける。
しかしそれも束の間、DDシリーズに対峙する時の4割5分程の覚悟を決めると、光秋は法子の顔にぶつかる勢いでさらにフォークを突き出し、
「はい!あーんっ!」
厨房にまで届くかと思える程の大声を上げる。
「……ごめん。私もからかいが過ぎたよ……」
あまりの声と、メガネのレンズで拡大された真剣な眼差しに小さくなりながら謝罪すると、法子は差し出されたステーキを食べる。
「……うん。美味しい」
「……まぁ、ものは一緒ですからね」
咀嚼して笑顔を浮かべる法子を見て、緊張から解放された光秋は脱力しながら呟く。
「そんな身もふたもないこと言わないでよ……え?あ、うん」
そんな光秋に口を尖らせていると、不意に法子は見えない者の呼び掛けに応える様に二、三言呟き、一瞬項垂れて綾と代わる。
「アキ!あたしにも!」
「……今法子さんの時間だろう?」
「ちょっとだけだよ。それよりさ!」
「わかったよ。ステーキでいいか?」
「うん!」
―……ホント、去年までのもどかしさが嘘みたいにお手軽になっちゃって―
目の前の光景に率直な感想を抱きながら、光秋は切り分けたステーキをフォークに差して綾に差し出す。
「はい、あーん」
「あーん!」
慣れた手付きで口元に持っていったそれを、綾は満面の笑みで口にくわえる。
「うーん!法子が食べた時も感じたけど、やっぱり美味しいね!」
「そりゃよかった」
「じゃあ、今度はアキも」
言うや綾は傍らのパンを手に取り、程よい大きさに千切ったそれを光秋に差し出す。
「はい、あーん!」
「……さすがにこの返しは予想外だな」
直接指で摘ままれたパンを見ながら思ったままを呟くと、光秋は綾の指を噛まないように注意してそれを食べる。
―……なんか、ウチの犬みたい…………白い犬だけにか?―
自身の様子に向こう側で飼っていた犬におやつをあげる時を連想しながら、口の中のパンを咀嚼する。
「どう?」
「……このパン、よく味わうと少し甘いな。なかなかいいぞ」
「……だからそういうことじゃないんだけどなぁ……」
感じたままを答える光秋に、綾はどこか諦めた様に呟く。
しかし少しして、綾は怪訝な顔をする。
「ところでさアキ、法子の時はガチガチって感じだったのに、あたしの時はなんかあっさりしてない?」
「え?…………あぁ」
言われて光秋は、さっきまでの自分を振り返ってみる。と、確かに法子の時は終始緊張気味に、綾の時は自然体で食べさせていたことに気付く。
「言われてみれば……まぁ、お前さんは昨日の夕飯からこの調子だしな。慣れちゃったのかも」
「…………なんか、複雑」
その呟き通り、綾は「慣れた」という言葉に嬉しさと怒りが混ざったような混ざらないような、なんとも複雑な表情を浮かべる。
そうしている間に催促されたのか、見えない者に渋々頷いた綾は一瞬項垂れて法子と代わる。
「綾もやるねぇ……」
「思わず家で飼ってる犬のこと思い出しちゃいましたよ」
少し前にパンを摘まんであげた指を眺める法子に、光秋はその時感じたことを漏らす。
「そういえば犬飼ってるんだよね……なんて名前?」
「サブローです。みんなもっぱら『サブ』って呼んでるけど」
6月に見た携帯電話の待ち受けに載っていた家族写真のことを思い出しながら、好奇心から訊く法子に、光秋はすっかりご無沙汰な愛犬の白い顔を思い浮かべながら答える。
と、
「……どうしたの?」
答えるや、ナイフとフォークを置いて表情を曇らせる光秋に、法子は顔を寄せながら問う。
「いえ、あいつとも、なんだかんだで10カ月くらい会ってないんだなって思ったら、ちょっと寂しくなっちゃって……」
応じながら、撫でた時のふさふさとした毛並みの感触を掌に思い出し、光秋は知らぬ間に自分の右手を見つめる。
―家にいる間は、毎日顔合わせてたのにな……あいつの散歩も僕も仕事だったっけ…………いや!これ以上はよそう。どの道、自分の意思で京都の大学に行くって決めた時点で、長らく会えなくなるっていうのはわかってたんだ。それがちょっと歪になっただけだ…………―
そう思うことで掌の感触を――寂しさを隅に押しやると、気まずそうな顔をしている法子を見る。
「すみません。また変なこと話しちゃって」
「ううん。私の方こそごめん。今のは私の方が考え足りなかったよ……」
「そんなことは……まぁいいや。今は今を楽しみましょう」
「……そうだね…………じゃあさ」
そう言って気持ちを切り替えると、法子は切り分けたステーキを光秋の口に持ってくる。
「流石に私はあそこまでできないけど、お返しをね……はい、あーん」
綾がパンをあげた時のことを思い出してか、若干照れ臭そうに言いながらそれを差し出してくる。
「……綾にはあぁ言ったけど……法子さんの方も慣れてきちゃいましたね……」
昼食時、さらにいえば昨日の夕食時から何度か繰り返したやり取りを思い返し、このやり取りそのものに慣れつつある自分を自覚しながら、光秋はその一切れをいただく。
それからパンをかじりながらステーキを食べ切り、カップに注がれたコンソメスープを飲み終えると、デザートに皿に盛られたバニラアイスが運ばれてくる。
それを法子が携帯電話で撮影するのを眺めつつ、光秋は半球に盛られた白にスプーンを入れ、傍らの赤いソースと絡めて口に運ぶ。
「どう?」
「……優しい甘さですね。このソース……ブルーベリーかな?その酸っぱさと合わさってなかなかですよ」
舌の上に残った味を感じながら、法子の問いに光秋は思ったままを答える。
「どれどれ……?うん。バニラの甘さとブルーベリーの酸っぱさがなんとも……」
言いながら頬を緩ませる法子を眺めつつ、光秋はアイスを食べ切り、ブドウジュースを飲み干してステーキセットを完食する。
「食べたねぇ……」
「ですねぇ……たまにはこういう贅沢もいいですね…………さてと」
互いに満足感を覚えながらひと息つくと、光秋はカバンを提げながら立ち上がり、法子もそれに続いて会計へ向かう。
「法子さん、今回は僕にも払わせてください。せめて自分の分だけでも。流石にあれだけの額を女の人に払わせるのは気が引けるんで」
「ホント光秋くんって変なところで臆病だよね……まぁでも、確かに昔上官に奢るなんてって言ったけど……今の私は光秋くんの彼女候補だしね。それくらいは甘えようかな」
「彼女候補って……」
おそらくは現状を端的に表現しただけの、しかし耳がむず痒くなる言葉に苦い顔を浮かべながら、光秋は法子と共に支払いを済ませ、手を繋いで店を出る。
「7時か……そろそろ帰りますか?」
「……そうだね」
腕時計で時刻を確認する光秋と、それに答える法子、互いに心なしか沈んだ声を交わすと、そこから一番近いバス停へ向かう。
「……」
「……」
店にいた時の緩やかな雰囲気から一転、互いに口が重くなり、それに比例する様に2人の周囲も重く感じる。
一方で、あるいはそんなだからこそ、どちらがというわけでもなく互いを握り合う手に力を込め、伝わり合う熱が“重さ”を緩和してくれる。
そうして歩くこと数分。
誰もいないバス停に着いた2人は備え付けのベンチに並んで腰を下ろし、何台も来るバスを眺めながら目的のバスを待つ。
しばらくしてやってきたバスに乗り込み、最後部席左側に並んで座ると、エンジンの微震を感じながら今朝出発したバス停へ向かう。
「……すっかり暗くなっちゃったね」
「ですね……」
道路脇の店から漏れる明かり以外暗くて何も見えない車窓を眺めながら呟く法子に、光秋はどこか寂し気に返す。
「……バス停着いたら、寮まで送りますよ」
「え?いいよ。遅くなるし」
「ちょっとくらい大丈夫ですよ。それに、法子さんも女の人なんだから」
「そういう気遣いならいいよ。私だってこれでも実戦部隊なんだし」
「そうでしょうけど……一応ね。あとは……僕の為と思って」
言いながら、光秋は繋いだままの手に力を込める。
「……そういうことならね……」
言外の意図を察すると、法子は顔をやや赤くしつつ、小さく頷く。
バスに揺られて数十分。
各々小銭を出してバスを降りると、光秋と法子は離していた手を繋げ、法子の寮を目指す。
―…………なんか喋らなきゃいけないのにな……―
沈黙に焦る気持ちとは裏腹に、光秋の口は貝の様に閉じたままで、結局はバスに乗る前の様に握り手に力を込めるだけに終始する。
そうしている間に、寮の入り口前に着く。
「……ありがとう。ここまで来ればもういいよ」
「いや、ここまで来たんです。部屋の前まで送らせてください」
もういいと言う割りに名残惜しそうな顔を向ける法子にやや強い調子で返すや、光秋は自分から手を引いて階段を上る。
光秋に先導される形で自室の前に来ると、法子は鍵を開けて部屋に入る。
「あ、そうだ……はい。法子さんと綾の分」
「ありがとね」
光秋が預かっていた本の入った袋をカバンから出して渡すと、法子は寂しそうに礼を言う。
「……じゃあ、また明日」
「はい。おやすみなさい」
ドアを支える法子に応じると、光秋は階段へ向かって歩き出そうとする。
と、
「あ、ちょっと待って」
「はい?」
すぐに法子に呼び止められるや、光秋は振り返って声がよく聞こえるようにと顔を寄せる。
刹那、左頬に微かな潤いと温かさを感じる。
「…………!?」
数瞬かけてキスされたと理解すると、寄せていた顔を離した法子がドアの合間からイタズラが成功した様な笑みを浮かべる。
「彼女候補でも、これくらいはいいでしょ。海外じゃ挨拶なんだし。じゃ!」
一方的に言い切るや、法子は返事を待たずにドアを閉める。
―…………今のは、法子さん?それとも、綾……?―
自分の知っている法子ならしない行動、しかし綾の雰囲気ではなかった覚え。相反する情報と、それ以上に突然の深めのスキンシップに混乱しつつ、光秋はひとまず自分の寮へ向かう。
―……それにしても、今日の……実質デートは上手くいったのか?―
寮を出ながら混乱から立ち直ると、今日一日を振り返ってみる。
―…………まぁ、多少踏んだり蹴ったりなところもあったけど、概ね上手くいったよな。八ツ橋もステーキも美味かったし―
ケンカの仲裁や古本屋の件が引っ掛かるものの、全体を視て可の自己判定を下すと、光秋は冷たい強風に追い立てられる様に家路を急ぐ。