白い犬   作:一条 秋

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63 気持ち新たに

―…………ここは……―

 目を開けると、そこはさっきまでいた伊部の部屋であり、光秋は床に腰を下ろしていることに気付く。

 しかしベッドには、右にジーンズに赤シャツの上に白い羽織りを着た伊部と、左に白いワイシャツに赤チェックのロングスカートを着た綾が腰掛けている。

―確かに、現実ではなさそうだな―

 髪を結っているかいないか以外違いのない顔が並んでいる光景にそう思うと、光秋は2人の顔を見据える。

「あの夢みたいなのから1日も経たずにこうなるとはね……」

「ですね……僕の勝手に付き合わせる形になってすみません」

 伊部の感慨に謝りながら応じると、光秋は話を切り出す。

「まず、法子さんはさっきまでのやり取り覚えてますか?」

「なんとなくね」

「それは助かります……まず、綾には謝りたい」

「謝る?」

 唐突な発言に綾は首を傾げるが、それに構わず光秋は正座して両手を床に付け、頭を深く下げる――土下座をする。

「夏に一緒に過ごした、その別れ際に抱いた気持ちに嘘はなく、今でも僕にとっては大事なものだ。でも……同じくらい大事に感じる気持ちを抱く人ができてしまった。それについて……ごめんなさいっ!」

 ただでさえ深く下げた頭を、床に打ち付けるくらいさらに深く下げながら言うと、ゆっくりと顔を上げる。

「あたしと同じくらい大事な人って……法子?」

「はい」

 綾の質問に、光秋ははっきりと応じる。

「漠然とそんな気持ちはあった。こっちに来てからずっと、法子さんは僕のことを気に掛けてくれてたし、僕もそんな法子さんの気持ちに応えたいと思ってた。昨日までなら、それがあくまでも姉貴分・弟分で納まっていたかもしれない。でも、今朝の夢で法子さんが僕をどう思ってるかを知って、僕の気持ちもそれで納まらなくなってきた。ただ……綾が大事な人であることにも変わりはない。どっちがより大事かなんて判断がつけられない。どっちの気持ちにも嘘がつけない…………それが、今の僕の気持ちです」

 長い間心の何処かに引っ掛かっていたものを吐き出す様に、思いの丈を2人にぶつける。

 幻滅されるかもしれない、2人からの信頼を裏切るかもしれない、そんな不安が脳裏にちらつくものの、正直な気持ちを言い切ったことそれ自体に後悔はなく、胸の内がすっきりする。

 しかし一方で、

「……あたしとさっきキスするのを断ったのも、その所為?」

「はい。こんな宙ぶらりんな気持ちじゃ、前の様に接することはできないから……」―つくづく僕の勝手だよな……上杉さんを批難できないや―

綾の問いに答えつつ、重い罪悪感が圧し掛かかり、知らぬ間に顔を俯ける。

 と、

「……まず、顔を上げて」

「…………」

ベッドから下りて歩み寄ってきた伊部の静かな呼び掛けに、光秋はゆっくりと顔を上げる。

「話してくれてありがとね。光秋くんの気持ちはよくわかった……だから、そんな思い詰めないで」

「…………」

「夢で言ったと思うけど、私も光秋くんのこと好き。でも、惚れっぽいこと知ってるから、自分の気持ちに自信が持てない。それでも、私にとっても光秋くんが大事な人であることに変わりない……なんか、光秋くんに似てるね」

「……言われてみれば」

 自嘲的な笑みを浮かべて話す伊部に、少しだけ心が軽くなった光秋も自然と頬が弛む。

「だからさ、そこまで思い詰めないで。それに、これはあくまでも私たち()()の問題なんだから」

 そう続けながら、伊部は綾の方に振り向く。

「綾はどう思う?光秋くんの気持ちを聞いて」

「…………」

 伊部の問いに俯きながらも、綾は静かに答える。

「あたしは、アキが大好き。だから、アキにもあたしを好きになって欲しい……それがあたしの気持ち……かな?でも…………アキは、あたしだけを好きでいてくれないんだよね」

「……」

 その一言が、再び光秋の心を重くする。

 しかし、

「……今更ながら、勝手を承知でお願いしたい」

言わなければならないことを断じ、自分の身勝手さに歯を食い縛りたくなる気持ちを抑えて口を開く。

「さっき言ったように、2人が同じくらい大事という気持ちに嘘はつけない。でも僕自身、こんな中途半端な気持ちでいるのも嫌だ。だから…………僕に考える時間をくださいっ!」

叫ぶや、再び頭を深く下げる。

「短い間にいろいろあり過ぎて、少し混乱してるかもしれない。そうでなくても、すぐに理路整然と判断できることじゃないと思う。だから、この件についてゆっくり考える時間をください。どれくらい掛かるか判らないけど、いずれきちんと決着をつけたい。それまで、待ってください」―…………つくづく、身勝手だよな僕も。そして結局先延ばしをお願いしてる……でも、今はこれしか思いつかない……―

 言い切ると、光秋は今度こそ自己嫌悪に歯を食い縛る。

「だから、顔上げてって。私もこの件は時間空けた方がいいと思う。私だってちょっと混乱してるもん。それに……もう、急ぐ必要なんてないでしょ?」

「!」

 伊部のその一言に、光秋はハッとしながら顔を上げる。

「今回のことで一つわかったけど、私と綾は前より自由に入れ替わることができる。そりゃあ、私たちからすればお互い窮屈な思いもするだろうけど、でも、会いたい時に会えるようになったってことでしょ。今までみたいに、短い間になにもかも済ませることに拘らなくていいじゃない。光秋くんだけじゃなくて、3人でなんとか上手くやっていく方法を考えていこう……ねぇ、綾」

 光秋に語り掛けつつ、伊部は綾に呼び掛ける。

「…………アキはさ、今はあたしと法子、同じくらい好きなんだよね?」

「好きというか、大事だな」

「じゃあ……」

 言うや綾は跳ねる様にベッドから立ち上がり、ぶつかる様に光秋の許に顔を寄せる。

「!……」

 突然の反応と、初めて見る綾の真剣な眼差しに、光秋は束の間戸惑ってしまう。

「あたしが頑張れば、あたしの方をもっと大事に思ってくれるって、そういうこと?」

「あ、あぁ…………今言った理屈で言えば、そういうこともあるかな。そういうことも含めて考えていきたい」

 真剣に訊いてくる綾に、立ち直った光秋も真剣に応じる。

「そっか…………じゃあ、今まで通りじゃん」

「?……今まで通り?」

「?」

 綾の唐突な言葉に、光秋と伊部は首を傾げる。

「初めて法子の話をしてくれた時、あたし言ったよね。アキが好きになれる人になるように努力するって」

「…………あぁ、そういえば」

 言われて光秋は、その時のことを思い出す。

「アキは別に、あたしが嫌いになったわけじゃないんでしょ。だったら、法子よりあたしのことを好きになるように努力すればいいんじゃん!あたしにとっては、今までとそんなに変わんないよ!」

「綾…………」

 呟く様に言いながら、3人での会話を始めてからやっと笑った綾に、光秋はようやく安堵する。

「だから法子、あたし、負けないから!」

「私はまず自分の気持ちを整理しないといけないんだけどねぇ……」

―とりあえずひと段落、かな?……といっても、ここからなんだが―

 勝気そうな綾に伊部は困った顔で応じ、それを見て光秋は和みつつも少しだけ気を引き締める。

 そこで再び光が広がり、視界を埋め尽くしていく。

 

「…………」

 光が納まって辺りに目を向けると、光秋は綾と額を合わせた体勢で固まっていることに気付く。

 ゆっくりと額を離して顔を上げると、綾も若干疲れが浮かんだ顔を上げて目を合わせる。

「ありがとな。話し合いの場を作ってくれて……それはそうと、疲れてるみたいだけど、大丈夫か?」

「んー……ちょっとくらくらする、かな?」

「前よりは上手く使えるようになったのかもしれないけど、やっぱり負担が掛かるのか……もしくは長く使わせ過ぎたか……どっちにしろ、あんまり多用しない方がいいみたいだな。無理させてすまない」

「あたしが自分でやるって言ったんだから、いいんだよ」

頭を下げる光秋に軽い調子で返すと、綾はベッドに座ろうと一度立ち上がる。

 と、

「……あれ?」

「危ない!」

立った途端に綾はバランスを崩し、倒れそうになるところを慌てて腰を浮かせた光秋が支える。

「本当に大丈夫か?」

「……ごめん。急に目が回って」

 抱きかかえる様にして支える光秋の問いに、綾は弱々しく応じる。

 その直後、

「2人とも、さっきからご飯だっ……て……?」

言いながらドアを開けて入ってきた伊部父は、部屋の中で抱き合っている――様に見える――光秋と綾を見て言葉を失い、石の様に固まる。付け加えるならば2人の顔はとても近く、互いに見つめ合っていたために、現時点だけを見ればキスの瞬間に鉢合わせてしまった様な居心地の悪さを覚える。

 もっとも、光秋と、既に交代した伊部も負けず劣らずの気まずさを抱く。

「いや、旦那さん、これはですね……」

「私が、立ち眩みを起してね、光秋くんが咄嗟に……」

「い、いやぁ、私こそ悪かったね。お取り込み中のところを。ただほら、夕飯できたから……ひと段落したら、下りてきて」

「「そういうんじゃありません!」」

 尚も誤解と動揺を続ける伊部父に、2人は腹の底から否定の声を上げる。

 

 その後、一応伊部父の誤解を解いた光秋と伊部は、そのまま共に居間に下りて夕食を摂る。

「……」

「……」

「……」

「?……」

 未だ気まずさの余韻が残る光秋と伊部、伊部父、その3人を不思議そうに見つつも深く追求しない伊部母で食卓を囲みながら、食事の時間は静かに過ぎていく。

 味など判らず、なにを食べたのかもうろ覚えな夕食を終え、食後の片付けを済ませると、光秋と伊部は気まずさから逃れる様に部屋へ戻る。

「まさかあそこでお父さんが来るとはねぇ……」

「ホント、びっくりしました。テレパシー中は時間の感覚が普段と違うから、尚のことですね」

脱力する様にベッドに腰を落とす伊部に、光秋は知らぬ間に強張っていた体から力を抜いて椅子に座る。

 少しして落ち着くと、浴室に行こうと手荷持をまとめる。

 と、

「あ、ちょっと待って」

伊部の呼び掛けに、光秋は作務衣を抱えながら顔を向ける。

「綾が、ちょっと話があるって」

「綾が?」

 光秋が応じると、伊部は糸が切れた様に首を垂らし、数瞬後に違う雰囲気をまとって顔を上げる。

―これは、綾だな―

 その感覚に確信しつつ、光秋は話をよく聞こうと綾の許に歩み寄る。

「話って?」

「えっとね…………アキはどんな人が好き?」

 膝を折って視線を合わせながら問う光秋に、綾は少し照れた様な、どこか言い辛そうな様子で訊く。

「どんな?そうさなぁ……優しい人、かな」

「そういうんじゃなくて……その…………どんな女の人が好み?」

「あぁ、そういうこと。でもそんなこと訊いてどうするんだ?」

 綾が言いたいことを理解しつつも、その意図を察しかねる。

「アキがあたしを好きになってくれるように努力するって言ったでしょ。だから、アキがどんな女の人が好きか知りたいの」

「そういうことか……でも、僕は今の綾も好きだけど」

「今のままじゃダメだから訊いてるの!いいから教えて!」

「ん、でもなぁ…………」

 珍しく目くじらを立てる綾に応じつつ、光秋はしばし考える。

「強いて言うなら、“自分”を持ってる人、かな?」

「『自分』?」

「『自分で考えられる人』と言ってもいいかもしれない。なにについてもとりあえず自分の意見を持てる人――自分の足で立ってる人。身近な例を挙げるなら、法子さんかな。そういう人とは話していても楽しいし、さっき言った様ように背中を預け合える……だいたいこんなところか?」

「……それって、要は法子が好きってこと?」

 応じつつ、綾は頬を膨らませる。

「そういうことでもないんだがな……法子さんだってぼんやりしてる時もあるし。そう言う僕もなんだろうが」

「……なんか納得いかないけど……一応わかった。でも、どうすれば自分の意見を持てるのかな?」

「まずは勉強だろうな。なんであれ、まずは知らないことにはどうにもならんから。手始めに、綾が今一番興味のあることでも調べてみたらどうだ?」

「あたしの興味のあること……」

「僕から言えのはこんなとこだな。じゃ、風呂入ってくる」

「うん。ありがとう」

 綾の返事を聞くと、光秋は夕食の際に下から持ってきたバスタオルを持って浴室へ向かう。

―最初の照れは、あぁいう質問をするのが恥ずかしかったのかな?羞恥心も覚え直しだった奴がかなりの進歩、それなら嬉しい限りだ。しかし……また偉そうなことを言ったが、僕はそういう人に釣り合うだけの人間か……?―

 階段を下りながら、光秋の胸に不安が過る。

 

 風呂から上がって作務衣に着替え、台所に寄って冷蔵庫から目薬を取り出し、居間の伊部父に一言告げると、光秋は冷えた床に追い立てられる様に伊部の部屋に戻る。

 ドアを開けると、椅子に腰掛けた綾が高校の世界史の教科書を読んでいる。

「なにやってるんだ?」

「勉強。あたしの一番興味のあることについて調べてみたらって言ってたじゃん」

 光秋の問いに、綾は一瞬顔を向けて応じると、すぐにまた教科書に視線を戻す。

―教科書は法子さんのか?……即断即行とは、頼もしいな―

 熱心な表情で教科書、それもめくっている位置からして近代の辺りを読み進める綾に微笑みを浮かべながら、光秋はベッドに腰を下ろして目薬を注す。

「……あ、そうそう。法子が話があるって」

「法子さん?」

 光秋が応じると、綾は教科書を机に置いて糸が切れた様に首を垂らし、違う雰囲気をまとって顔を上げる。

―これは法子さんだな……にしても、電話を代わるくらい気軽になったな―

 綾と伊部の交代の様子に、嬉しくもこれでいいのか引っ掛かるものを感じる、複雑な気持ちを抱く。

「えっとね、光秋くんがお風呂に行ってすぐに、藤原三佐から電話があってね。突然だけど大きな仕事が入って、1日から出てくれって。だから、明日の夕方くらいにニコイチで京都に戻ろう」

「また急ですね……でも仕事なら仕方ないか。了解です。大きな仕事って?」

「電話じゃ話せないって。それも休み明けに説明するんでしょう」

「なるほど……でもそれじゃあ、ご両親と年越しできないな……」

 伊部の唐突な連絡に若干驚きながらも応じつつ、光秋は少し勿体ないと感じる。

「仕方ないよ。それこそ仕事なんだしだし。それに、こうして普通に過ごせるだけで私は満足だから……ところでさ」

「はい?」

「私が起きてからこっち、光秋くん私のこと『法子さん』って呼んでるよね」

「…………あぁっ!」

 伊部の指摘に、今更ながら光秋は目を見開いて驚愕する。

「すみません!奥さんたちと話してたらそのまま……すみませんでした、伊部さ――?」

 続く言葉を遮る様に、謝ろうと下げた頭に伊部の右手が置かれる。

「やっと名前で呼んでくれたね。自然体だったから私も気付くの遅れたよ。やればできるじゃん!」

「は、はぁ……」

 顔一杯に笑みを浮かべて頭を撫でる伊部、そんな予想外の展開に、光秋は束の間反応に困る。

 その間にも伊部は頭を撫で続け、髪を挟んで感じるその手の感触に、つい浸っていたくなる。

 が、

「…………うふんっ!」

咳払いと共にその誘惑を振り払うや、光秋は伊部の手を押しやる様に頭を上げる。

「えー……改めまして、すみませんでした」

「なんで謝るの?」

 また撫でられないように敢えて距離を開けて頭を下げる光秋に、伊部は笑いながら首を傾げる。

「だって、先輩にそんな口の利き方は……」

「先輩以前に姉貴分……うんうん、大事な人なんでしょ?」

「そうですが……」

「だったらいいじゃない。それに、この家はみんな伊部さんなんだし。ややこしいし」

―……僕と同じこと言うなぁ…………しかし、まぁ…………―「わかりました。法子さん」

 多少釈然としないながらも、比較的あっさり伊部――法子の意見を受け入れた自分に内心驚きつつ、光秋は目を見てその名を呼ぶ。

 と、下から伊部母の声が掛かる。

「法子ー!お父さん上がったから、次入ってちょうだーい!」

「はーい!じゃあ、私も入ってくるね」

「はい。ごゆっくり」

 光秋が応じると、法子は着替えとバスタオルを持って部屋を出る。

 閉まっていくドアを見届けると、光秋はなんとなしに机に置かれた教科書を取ってパラパラとめくってみる。

―春に大雑把に習ったけど、歴史は僕の方と大方同じなんだよな。もちろん超能力関係の相違はあるが……はっきり違ってくるのは、やっぱり三戦危機からなんだよなぁ……―

 思いつつ、三戦危機に関するページをしばし眺めると、教科書を閉じて机に戻す。

―読み書きからやり直しだった綾が、こんなのを読んで、自分の考えを持とうとするまでになったか。夏の頃は、一つ覚えた分だけ僕が必要じゃなくなっていく様に感じて、それをほんの少しだけ寂しいと感じていたが、今は寧ろ嬉しいね。頼もしい限りだ……―「もっとも、僕も他人(ひと)のことばかり言ってられないけどな」

 独り呟きながら、伊部母や伊部姉妹に語ったことを思い出す。

 

 教科書を斜め読みしながら残り2種類の目薬を注し終えると、光秋はそれらを仕舞おうと部屋を出て台所へ向かう。

 冷蔵庫に目薬を仕舞って廊下に出ると、風呂から上がって緑のパジャマに着替えた法子と鉢会う。

「あれ?どうしたの?」

「冷蔵庫に目薬仕舞いに」

「あ、そっか」

思い出した様に応じると、法子は速足で部屋へ向かい、光秋もそれに続く。

 部屋に入ると、法子はベッドに、光秋は椅子に腰を下ろす。

「まったく、薬がないと調子が維持できないって、面倒な体です……もっとも、法子さんたちに比べればどうということはないんでしょうが」

 床で冷え切った足に少々の痛みを感じながら、光秋は愚痴る様に言う。

「私は、今の状況そんなに不自由に感じないんだよねぇ。確かに綾が出てる時は少し窮屈に感じるけど、思ったよりしっくりくるって言うか……こんなのは人それぞれだから、比べようがないんじゃない?」

「……それもそっか」

 法子の返しに納得すると、光秋は再び机の上の教科書を手に取る。

「そういえば、この教科書法子さんの?」

「うん。突然出してくれって綾に頼まれてね。やっぱり懐かしいなぁ……」

 光秋がパラパラめくる教科書に、法子は遠くを見る目を向ける。

「傍目からすると、随分熱心に読んでる様に見えましたが」

「実際そうだったと思うよ。私の方にもちょっとだけそんな感覚が残ってたから」

「…………ますます、他人のことばかり言ってられないか」

 呟くように、しかしある種の決意を込めて断じると、光秋は教科書を机に戻して法子の目を見据える。

「僕も綾にあぁ言った手前、二人に語ったこと――夢を叶える為に頑張らなくちゃいけませんね。その為の来年の目標……いいえ、今後の目標が浮かびました」

「なに?」

 弱火程の熱が籠った言葉に、法子は興味を持ちつつ静かに問う。

「『自分に正直に生きる』、です」

「?……『強くなる』とかじゃないの?」

 脈絡のない宣言に、法子は面喰う。

「それも含めてですよ。守る為とか、根本的な解決をしたいとか、いずれも僕がそうしたいからやるんです。夢を叶えたいから。だから、自分に正直になるんです。自分のやりたいことを見出して、それを極める為に努力できる様な……努力を努力と思わない様な、そんな生き方がしたいんです」

「…………やっぱり、光秋先生だね。デタラメなようでそうでもないや」

威風堂々と補足する光秋に、法子は笑いながら応じる。

「……また小難しい言い方になりましたが、とにかく、まずは自分に正直に生きる、その延長としての夢と考えてください……あとまぁ、綾よろしく、ちょっと勉強も必要かな?」

多少熱が引いた辺りでさらに付け加えると、光秋は照れ笑いを浮かべる。

 と、そこであることに気付く。

「…………そういえば、今日僕どこで寝れば?向こうの部屋、今日も温めてませんよね?」

「…………あっ」

普段の調子に戻った光秋の指摘に、法子は思い出した様に口を開ける。

「……また、ここでいいんじゃない?」

「……ですね。今から温めてたんじゃ……」

 法子の提案に観念した様に頷くと、光秋は部屋の隅に置いてある布団をベッドの横に持ってきて敷き、その上に胡坐をかく。

―そういえば、今何時だ?―

 そう思って机の上の時計を見ると、もうすぐ9時を指そうとしている。

「もう9時か……時間が経つのは早いですね」

「楽しい時間はあっという間に過ぎるってね」

「……楽しいというより、濃い時間だったと思いますが」

 言いながら、光秋は今日のことを振り返る。

―日高さんちに遊びに行ったら法子さんが酔い潰れて、帰ってきたら綾が復活して、奥さんや法子さんたちと話し合って、今後の目標ができて……本当に濃い時間だったなぁ……でも……―「それでも、法子さんの家に来てよかった気がします。誘ってくれてありがとうございます」

 回想を終えて浮かんできた思いを素直に伝えながら、深く頭を下げる。

「そう……よかった」

 微笑みを浮かべた法子がそれだけ応じると、2人の間に沈黙が広がる。

 が、そこに会話が続かないことへの気まずさなどなく、もう言葉を必要としない、伝えたいことを伝え切った満足感で満たされている。

 と、

「あぁ、そうだ。綾に代わってくれませんか」

「わかった」

光秋の突然のお願いに応じると、法子は項垂れて綾に代わる。

「アキッ!あたしのこと忘れてたでしょ!」

 顔を上げるやいなや、綾は三角にした目を向けてくる。

「ごめんごめん。言うこと言ってすっきりしたらついさ……でも、ちゃんと呼んだだろう?」

「……まぁいいけど」

 光秋が多少の罪悪感を覚えながら謝ると、綾はとりあえず機嫌を直す。

「法子さんを介して聞いてたよな。僕の今後の目標」

「だいたいね」

「それなら……綾は、何を調べようと思ったんだ?」

 夏以来の綾の態度と、先程の教科書の読んでいた辺りから見当はついているものの、敢えて訊いてみる。

「『どうすれば平和になるのか』」

「そう言うと思った」

予想が的中したこと、なにより如何にも綾らしい内容に、思わず笑みがこぼれる。

 しかしそれも束の間、すぐに笑みを消し、綾に挑む様な視線を向ける。

「さっき法子さんにも言ったが、お前さんにあぁ言った手前、なにより僕自身の為、僕も頑張るから…………だから、一緒に頑張ろう!」

「うん!」

結局最後は頬を緩めて断じると、綾も微笑みながら深く頷き、互いに固い握手を交わす。

 その時に互いを見やる表情は、想い人同士というよりも、互いに切磋琢磨し合う同志のそれだった。

 

 しばらくして握手の際の興奮も冷めると、綾は法子に代わり、どちらがというわけでもなく寝る準備を始める。

 法子が布団に入ったのを確認すると、光秋は電灯の紐に手を掛ける。

「じゃあ、おやすみなさい」

「おやすみ」

 法子の返事を聞くと明かりを豆電球にし、光秋も布団に潜り込む。

―結局、また法子さんの部屋で寝るか。それに今は綾もいるんだよなぁ…………いかんいかん。変なこと考えてないで、とっとと寝よう…………でも、そう考えるとどうも一人の布団が寂しんだよなぁ…………―

 そんな雑念を頭の中で巡らせながら、光秋はゆっくりと眠りに就く。

 

「…………」

 耳元の携帯電話の目覚ましに渋々目を開けると、光秋は体を左に転がしてアラーム音を止める。

―6時か……まだ休みだし、いいよな…………―

まどろみの中で時刻を確認すると、再び意識を手離そうとする。

 が、

「……?」

ふと背中に柔らかく温かい感触を覚え、眠りに向いかけていた意識が少し覚める。

―……なんだ?―

思いつつ、大儀そうに体を逆方向に転がし、布団をめくってみる。

 と、

「なぁ!法子さ――否、綾か!?」

布団の下からこちらに体を向けて寝ている綾が現れ、一気に目が覚めるとそのまま跳ねる様に起きて布団から出る。

「!……痛っ……」

慌てて跳ねたために本棚に後頭部をぶつけ、頭に両手を添えて悶絶する。

 その音で目が覚めたのか、綾が目を擦りながらゆっくりと起き上がる。

「んー……?……あれ、アキ?もう起きたの?」

「『起きたの?』じゃないよ……他人(ひと)の布団でなやってんだ…………?」

 寝惚けた様子で訊いてくる綾に、痛みが引いた光秋は呆れながら問う。

「なにって……寝る時一人が寂しいって思ってたでしょう」

「……昨日のあれを読んだのか……まぁ思ったが……まさか、だから僕の布団に潜り込んできたのか?」

「うん」

「『うん』じゃないよ……ちなみにいつから?」

「アキが寝てすぐかな。ちょうど法子も寝た頃だったし」

「てことは、一晩中一緒に寝てたと」

「そうなるね」

「…………」

「……なにか、いけなかった?」

 溜め息を吐きながら渋い顔をする光秋に、綾は若干の不安を覚える。

「…………まぁ、僕もお前さんのお腹を枕にしたりと、夏にはけっこう気の抜けたことしてたから強く言えないかもしれないけど……とりあえず、お前さんも心身共に年頃になったんだから、男の人が寝てる布団に勝手に入るのはやめような」

「……うん」

 努めて冷静に言い聞かせる光秋に、首を傾げつつも綾は一応了解する。

―まだ常識で欠けてる部分もあるのか?追い追いなんとかしないと……しかし、早めに気付いてよかった。こんなところを旦那さんにでも見られたら……―

 そう思った矢先、

「なんか音したけど、大丈夫かい?」

言いながらドアが開かれ、作務衣姿の伊部父が現れる。

「…………」

「どうしました?……あら」

 今の状況――光秋の布団に腰を下ろしている綾と、屈んで見つめ合う光秋――を見て、伊部父は石像の如く固まり、その陰から顔を出した伊部母は一瞬驚きつつも、

「2人とも若いわねぇ」

と、昔を見る様な目で微笑みを浮かべる。

「あ、いやぁ…………」

「……」

光秋も光秋で蛇に睨まれた蛙の様に不思議と動けなくなり、状況が理解できていない綾は周囲の様子を見て困惑するだけである。

 その間にも、石像化から立ち直った伊部父が口を開く。

「……まぁ……私たちの頃とは時代や考え方が違うだろうから、君らの世代はそういうのが普通なのかもしれないが…………流石に娘の家でというのはどうかな?」

「誤解ですっ!」

細目のために常時笑っているように見える顔で、しかし多分な怒りと僅かばかりの嬉しさを含んだ複雑な声音で言う伊部父に、光秋は腹の底から否定の声を上げる。

 

 その後、「どこも乱れていない!」という光秋の必死の呼び掛けと、騒ぎを感じて交代した法子の「寝惚けて布団を間違えた」という説明に、どうにか伊部夫妻の誤解は解ける。

 起き抜けのひと騒動にすっかり目が覚めてしまった一同は、そのまま着替えて朝食を摂ることにする。

 光秋は昨日から着ている伊部父から借りた上下を持って隣の部屋に移動すると、冷気に鳥肌を立たせながら急いで着替える。

 パーカーに着替えた法子と合流すると、先に下りた伊部夫妻の待つ居間へ向かう。

「その……なんかごめんね。綾が変なことして……」

「法子さんが謝ることじゃないですよ。でも、その辺も追い追いなんとかしないと」―またこんな騒動を起こされたらたまらんからな……―

言葉に困りながらも頭を下げる法子に応じながら、先程の伊部父の様子を思い出して再び恐怖する。

 その間にも2人は居間に着き、コタツの上に用意された白飯と大根の味噌汁、納豆の朝食をいただく。

―納豆か。えらく久しぶりだなぁ……―

 光秋が器に盛られた納豆に懐かしさを覚えながら掻き混ぜていると、法子が両親に呼び掛ける。

「そうだ。お父さん、お母さん。私たち今日の夕方……だいたい4時頃に京都に戻るから」

「そんなに早くかい?もっとゆっくりしていけばいいだろう」

「そういうわけにもいかないよ。仕事の都合なんだし」

「仕事か…………じゃあ仕方ないね……」

 法子の説明に、伊部父は寂しそうな顔で渋々受け入れる。

―……やっぱり、そうなるよな…………―

 昨夜の法子との会話の中で感じたことを目の当たりにして多少胸が寒くなりながら、光秋はよく混ぜた納豆をご飯にかけて食べ始める。

 

 食事と、その後の片付け等を終えると、光秋は伊部父に頼んで昨日の様に店の手伝いを買って出る。

 といっても、年末休業中のためにこれといった仕事はなく、あったとしても手伝い程度でできることではないため、必然的に店内の大掃除を行うことになる。

 伊部父と共に備え付けでない物を全て家側に退かし、広々とした店の床を箒で掃きながら、光秋は柔らかな高揚感を自覚する。

―なんだかなぁ……N砲振り回したり、ガトリング砲撃ったりするより、こっちの方がしっくりくる様な…………といっても、ESOの隊員がそれじゃ困るんだろうが……!―

 手を動かしながらここ最近のことを思い返していると、開け放たれた玄関や窓から強い冷風が入り込んでくる。外は晴れているものの、室内用の軽装にこれは堪ったものではない。

「寒いねぇ。早く終わらせようか」

「ですね」

 棚の上を雑巾掛けする伊部父に即答すると、光秋は風に追い立てられる様に掃除を進める。

 掃除を終え、全ての物を元あった位置に戻したところで昼になり、伊部父と共に冷えた体を居間に引っ込ませ、コタツに潜り込む。

 少ししてやってきた法子もコタツに足を入れると、

「冷たっ!……何この脚?」

「さっきまで寒い所にいたから。手なんてもっとすごいですよ」

靴下越しに触れた氷の様な光秋の脚に驚きの声を上げ、光秋も応じながら感覚が鈍くなっている手を差し出す。

「……ホントだ」

「昔から冷えやすい体質のようで」

 氷の様な手に触れて呆れている法子に応じていると、伊部母がどんぶり4つを載せた盆を運んでくる。

「お疲れ様でした。これで温まってくださいね」

 そう言って伊部母が差し出したどんぶりには、もくもくと湯気を立てる雑煮が盛られている。

「ありがとうございます。いただきます」

 応じるや、光秋は汁の中に沈む餅に食らい付き、熱々のそれを口の中で転がす。

 コタツで脚を、鳥の出汁が効いた醤油味の雑煮で体中を温め、凍えていた体に熱さを取り戻していく。

 

 食事とその片付けを終えると、光秋は法子と共に2階の部屋へ移動する。

「…………昼からは仕事ないって言われたけど、そうなるとけっこう暇ですねぇ。夕方までまだ時間たっぷりあるし……」

「いいじゃん。明日からまた忙しくなりそうなんだし」

「……それもそうですねぇ」

 椅子に座る法子に、床に胡坐をかく光秋はぼんやりと返す。

「…………せっかくいい天気だし、ちょっと散歩してこようかな?」

「いいんじゃない…………ならあたしも行く!」

 窓の景色を見て呟くや、法子と代わった綾が身を乗り出す。

「ん。さて、コートはと……」

 短く応じると、光秋は自分のESOのコートと、綾の青いコートを持ってきて羽織り、伊部夫妻に一言告げて勝手口から外へ出る。

 表通りに出ると、光秋は気の向くままに歩き出し、綾はそれについていく。

 商店街には伊部電器の様に休んでいる店もちらほらあるものの、大多数、それも食品関係の店は例外なく賑わっている。

「年末の追い込みって奴かな?……旦那さんたちはやらないのかな?法子さん」

「…………お父さんの方針みたいでね。よそはよそ、うちはうちだって」

 光秋のなんとなく浮かんだ疑問に、綾と代わった法子が答える。

 そうしながら2人――あるいは3人――は商店街を出て、近くの小さな公園の前で立ち止まる。

 雪の積もった公園内では、5、6人程の幼児たちが談笑する母親たちの前で雪合戦に興じている。

「やっぱりこういう場所は何処にでもあるんですね」

「こういう場所っていうのがどういうのかよくわからないけど……でも、私たちが小さい頃より遊ぶ子の数は減ったかな……」

 なんとなく思ったことを言う光秋に、法子は少し寂しそうな顔をする。

「……地方の過疎化ってやつですか。こっちにもあるんですね……法子さんも、あの公園で遊んでたんですか?」

 とりあえず返しつつ、話題を変えることも兼ねて気になったことを訊いてみる。

「うん。この辺の公園は一通り遊んでたなぁ。あとは、ハルちゃんちとか」

「……確かに、あの家は遊び甲斐ありそうですね」

 昨日の記憶を思い出し、心底納得する。

「隠れんぼなんかしようものなら、それは盛り上がったでしょう?」

「盛り上がったねぇ。一度家の中で遭難者が出そうになったもん」

「……あるんですね。そんなマンガみたいなこと」

 法子の思い出に光秋が呆然としていると、幼児の内の1人が念力で大量の雪玉を作り、それを四方八方に投げ飛ばす。

「!」

 その内の1つが顔面目掛けて飛んでくるのに気付くや、光秋は咄嗟に上体を左に傾け、右耳のすぐそばを勢いのついた雪玉が通り過ぎていく。

―よかったぁ!……日々鍛錬していた甲斐があった……―

 冬にも関わらず妙な汗を流しながら、光秋は訓練の成果に感謝する。

 公園内では事態に気付いた母親が幼児に駆け寄り、厳しい顔で注意している。

「それは危ないからやっちゃダメって言ってるでしょう!あそこのおじさんにも当たるところだったんだよ」

―……結局、僕は『おじさん』ですか―

こちらを示す母親の言葉に、光秋は桜たちのことを思い出しながら苦笑いを浮かべる。

 その間にも、母親は幼児の手を引いて2人の許に歩み寄ってくる。

「すみません。御怪我はありませんでしたか?」

「あぁ、大丈夫ですよ。避けられましたし」

「本当にすみません。ほら、リョウくんも」

「……ごめんなさい」

 深々と頭を下げる母親に続いて、「リョウくん」と呼ばれた幼児もちょこんと頭を下げる。

「……今後は気を付けてな。それじゃあ」

 努めて笑顔で応じると、光秋は再び歩き出し、法子もそれに続く。

「……流石、超能力者のいる世界と言いますか……あんなことってあるんですね」

「私の小さい頃もあんなことあったなぁ……友達が念力で投げた雪玉が知らない人に当たっちゃって、みんなで凄く怒られた」

 光秋は改めて自分が元いた世界との違いに感心し、法子は寒さとは違う理由で震え上がる。

 その後も法子と綾が入れ替わりながら散策は続き、最終的に1時間半程歩いて一行は伊部家に帰ってくる。

 伊部夫妻に戻った旨を伝えると、3人は法子の部屋に戻る。

 床に胡坐をかいた光秋は、久々に見た日常の景色を改めて思い起こす。他の公園でも見掛けた雪遊びをする子供たちと、それを見守る親御さんたち。屋根の雪下ろしを行う近所のおじさん。年末の追い込みに精を出す商店街の人たち。

―……サン教やNPの事件がある一方で、あぁやって普通に、日常の中で精一杯生きてる人たちもいるんだよな。ほんの数カ月前の僕がそうだった様に……―

 思いつつ、左ポケットに入っているカプセルをズボンの上から撫でる。

 その様子を見ていた綾が、ベッドの上に腰を下ろした体を前屈みにして訊いてくる。

「どうしたの?」

「ん?……休みが明けたら、また頑張らなきゃなって」

 

 少し休んで散歩疲れを癒すと、光秋と、綾と交代した法子は帰り支度を始める。

 手荷物をまとめ、ESOの制服に着替えると、光秋はなんとなしに法子の部屋を見回してみる。

 と、部屋の隅に置かれた布団、その上に畳まれた作務衣が目に入る。

―あれももう着ないんだよな……なかなかいい着心地だったんだけどなぁ―

作務衣を眺めていると、どうしても名残惜しくなる。

―…………それでも―

 気を取り直して顔を上げると、準備を終えて時間潰しをしているのか、椅子に座って歴史の教科書を熱心に読む綾を見る。

―棚からぼた餅、塞翁が馬、本当にいろいろあったけど、本当にここに来てよかった―「……命を洗われた、かな?」

「え?」

「いや、なんでもない」

 独り言に反応した綾に応じると、光秋は荷物をまとめたカバンを見やる。

―だから、京都に戻ったらまた頑張ろう。やりたいこともできたしな―

伊部母との会話、そして頼みを思い出しながら、静かな、しかし確かな決意を抱く。

 と、下から伊部母の呼び声が掛かる。

「法子ー!光秋さんも!ちょっと降りてきてー!」

「はーい!なんだろう?」

「さぁ……?」

 首を傾げて応じながら、光秋は綾と代わった法子の後を追って、伊部母の声がした台所へ向かう。

―あ、そうだ。布団どうすればいいかも訊かないと―

 法子の部屋に置きっ放しの布団を思い出しながら、光秋は法子に続いて台所に入る。

「なに?お母さ――あれ?お父さんも?」

 てっきり伊部母だけだと思っていたところに伊部父もいるのを見て、法子は少し驚いた顔をする。

「それに……」

―……これは……焼肉か?―

 言いながら、法子はコンロの上に油で濡れたフライパンが置かれているのに気付き、室内に漂う香ばしい匂いに光秋は鼻をくすぐられる。

「いやぁ、法子正月からまた仕事みたいだから、精をつけてもらおうと思ってね」

 言いながら、伊部父は戸惑う法子に布で包まれた弁当箱を渡す。

「……このお弁当、お父さんが作ったの?」

「焼肉はね。あとは殆ど母さんだけど」

「……私のお腹大丈夫かな?」

「!いや、作る時は母さんに見てもらってたし、特に変な物を入れては……」

「冗談!ありがとうお父さん。お母さんも」

 伊部父が狼狽するのを見計らって、法子は満面の笑みを浮かべて礼を言う。

 が、少しして表情を曇らせる。

「……でも、こんなにしてもらって、私2人に大したことできない」

「なに言ってるんだい。こうして元気な姿を見せてくれるだけで、私たちは充分だよ」

「うん……」

―…………親孝行、か―

 伊部父に肩を叩かれる法子を横に見ながらそんな言葉を浮かべると、光秋は家族に対して、今は何もしてやれない自分が歯痒くなる。

 同時に、ほんの一瞬だけ見えた伊部父の寂しそうな表情に、胸の中を冷たい風が過ぎる感覚を覚える。

―旦那さんと奥さん、次はいつ法子さんに会えるかわからないんだよな……否、次がいつになろうと、その次を迎えられるように頑張ればいいんだ。僕だって奥さんから頼まれてるんだ。守ってくれって……だから、また会えるようにするさ―

 独り心中に小さな決意を抱くと、胸を過ぎる寒風を追い払う。

 と、

「あと、これは光秋さんに」

「え?」

言いながら伊部母から同じ様な弁当箱を受け取った光秋は、予想外のことに思わず呆然とする。

「……いいんですか?僕まで」

 それでもなんとか口を動かしてみるものの、そんな言葉しか出てこない。

「もちろん。光秋さんは法子の弟分なんですから」

「……あっ!ありがとうございます!…………あ、そうだ。布団は押し入れに入れておけばいいですか?」―今訊くことじゃないだろう……―

 当然の様に言ってくれる伊部母に照れ臭くなってか、思わず場違いな問いが口を突いて出てしまい、そんな自分に呆れてしまう。

「いえ、せっかくだから洗濯しようと思ってたので、そのままにしておいてください」

―……えぇい!訊いちゃったもんは仕方ない。こうなりゃついでに―「作務衣は?」

「布団と一緒に持っていきますから、そのままで」

「わかりました」

 開き直った光秋の後片付けに関する質問に、伊部母は優し気に答えてくれる。

 と、法子が台所の時計を見る。

「そろっと4時だね。荷物取ってこよう」

「はい」

 応じると、光秋は法子に続いて2階の部屋へ戻り、コートを羽織って弁当箱を詰めたカバンを担ぎ、荷物の確認をして台所へ向かう。

 勝手口で制靴を履くと、光秋は後ろに立つ伊部夫妻に頭を下げる。

「どうも、ありがとうございました!」

「いやいや、少しごたついたけど、私も楽しめたよ。機会があればまた来なさい。その時は一緒に飲もうじゃないか。法子も、何かあればいつでも帰ってきなさい」

「2人とも、体には気を付けて」

「うん」「はい。ありがとうございます」

 笑顔で見送る伊部父と伊部母に、法子は頷き、光秋はもう一度頭を下げると、ドアを開けて外に出、表通りに出る。

―さぁて!戻ったらまた忙しくなるな。でも、負けんぞ!僕は―

 もうすぐ遠くに見える山の合間に落ちようとしている夕日に照らされながら、光秋は心中に活を入れる。

 と、法子が神妙な顔で話し掛けてくる。

「……ふと思ったんだけどさ」

「なんです?」

「……最終的に光秋くんが選んだのが私にしろ、綾にしろ、抱く時は同じじゃない?」

「いや!そういう問題じゃないでしょ!」

 帰り際のとんでもない発言に、素っ頓狂な声を上げて驚愕する。

「わかってる。冗談だよ!早く行こう」

「もう…………」

 イタズラが成功した笑みを浮かべる法子に脱力気味に応じると、光秋は京都へ――務めへ戻る為の一歩を踏み出す。




 「姉貴分の帰省編」は今回で終了です。これで物語全体の一区切りを迎えられたかな。

 でも『白い犬』はまだまだ続きます。
 引き続きお付き合いよろしくお願いします!

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