白い犬   作:一条 秋

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46 病床の夢 後編

 12月5日日曜日午前8時。

 光秋はベッドで布団を被りつつも、その意識は中途半端に冴えている。

―…………起きるか―

 さすがに寝過ぎていると思って心中にそう呟くと、布団ごと上体を起こし、少し伸びをしてメガネを掛け、ベッドから降りる。

「……昨日よりは、ずっとましだな」

 重さや痛み、熱が退いた体にそう呟くと、朝食の準備をしつつベージュのズボンに灰色のTシャツ、黒チェックの上着に着替え、エアコンを点け、コタツを出して朝食を摂り、朝の分の風邪薬を飲む。

 食事の片づけ等を済ませると、

―一応、今日もトレーニングはやめとこ―

コタツに入って新聞を読む。

 しばらくして新聞を一通り読み終えると玄関の呼び鈴が鳴り、光秋はコタツから出て玄関へ向かう。

―伊部さんかな―

 思いながらドアを開けると、黒いコートを着て赤いフリルのシュシュで髪を束ねた伊部が立っている。

「おはようございます」

「おはよう。具合どう?」

「昨日よりずっといいです。まだ本調子じゃないだろうけど」

 言いながら、2人は居間へ向かう。

 居間に着くと、伊部はコートを脱いで壁のフックに掛け、風呂場の水盤で手を洗って青いズボンを履いた足をコタツに入れる。

「ふー、寒かった……」

「そんなに寒かったんですか?」

 灰色のセーターを着た上体をコタツに寄せながら呟くと、先に入っていた光秋が訊く。

「うん。風が強くてね……ところで、光秋くんの風邪はだいたい治まったみたいね。顔色もいいし、赤くもないし」

「おかげさまで。喉もすっきりしましたし、なんぎ――だるい感じも取れました」

「そう。よかった」

「はい」

「……」

「……」―いかん。会話が途切れた……―

 光秋が応じたのを最後に2人の会話は止まり、そのことに若干の焦りを覚える。

―そう言えば、昨日もこんな感じだったよな……せっかく来てくれたのに(だんま)りっていうのは、いかんよな……あ―

 そんなことを考えていると、光秋の視界に先程まで読んでいた新聞が入る。

―そういや、サン教関連で気になる記事があったよな……それについて話振ってみるか―「……あの」

「そう言えばね」

 同時に呼び掛けてしまし、2人とも言葉に詰まる。

「……なんです?」

「光秋くんこそ」

「伊部さん先でいいですよ」

「そう?……それじゃあ。昨日帰ってから藤原三佐から電話がきて、光秋くんの具合訊いてきた」

「三佐からですか……あれ?でもなんで僕に直接掛けないんです?」

「様子がわからないから、寝込んでる時に掛けたりしないように気を遣ったんでしょう」

「あぁ、なるほど。で、なんて答えたんです?」

「『大丈夫ですよ。だいぶ回復しました。熱も下がって顔色もよかったですよ』って。そしたら三佐、『奴はひょろひょろしているようで丈夫だからな』って、自分のことみたいに自慢げに話してた」

「へー、三佐が……」

 応じつつ、伊部の説明にあった藤原を想像して、光秋は少し嬉しくなる。

「で、光秋くんが言おうとしたのは?」

「あぁ、今朝観た新聞にちょっと気になる記事がありまして……」

 言いながら、新聞を持って記事が載っている面を開き、そこを指しながら伊部に渡す。

 そこには昨日の午後、新潟で起こったサン教過激派による警察署襲撃事件についての記事が載っている。幸い襲撃犯は10人程という小規模なものであり、凶器も金属バットや鉄パイプであったため、短時間で鎮圧され、襲撃された警察署及び周囲には大した被害は出なかったということが書かれている。そして、サン教本部も襲撃犯たちのことは関知していないという主旨のコメントを述べている。

「……どうです?」

 伊部が記事を読み終えるのを見計らって、光秋は問う。

「ESO実戦部隊の一員として言わせてもらえば、反社会的行動をとった襲撃犯たちを赦すわけにはいかないな。被害が最小限に抑えられたのが不幸中の幸いだけど」

「伊部さん個人としては?」

「私個人?うーん……さっきと同じかな。どの道犯罪者を野放しにしておくわけにはいかないし」

「なるほど」

「そう言う光秋くんは?」

「僕は、確かに伊部さんが言うように犯罪を赦すわけにはいかないってところはあります。他人(ひと)の命を一方的に脅かすものなら尚のこと。ただこの記事から感じたのは、こういう宗教組織が政府機関を攻撃するっていう構造が、僕が元居た世界と似通ってるなって」

「そうなの?」

「えぇ。もっともこういう新興宗教じゃなくて、かなり歴史のある宗教に由来するみたいですが……一応、僕が物心つく頃には、新興宗教が事件を起こすことはありましたが。ただ、それこそ物心つき始めた頃なんで、詳しいことはよくわかりませんが」

「そうなんだ……私と同じだね」

「?」

 伊部が呟く様に言ったことが引っ掛かりつつも、光秋は話を続けることにする。

「もともとこの記事を読んだのは、『新潟』って文字が飛び込んできたからなんですが……といっても、事件があったのは新潟市で、僕が住んでた所とはまた違うんですが……それを言ったら、そもそも新潟は新潟でもまた違う新潟なんですがね……それはいいんだ。ただ記事を読んでたら、昔祖父が言ってたことを思い出しまして」

「お祖父さんの言葉?なんて言ってたの?」

「『宗教戦争ほど厄介なものはない。命が惜しくないんだから』って……確か、さっき話した宗教絡みの事件のニュース観てた時に言ったと思いますが……こういう話を観ると、そのこと思い出しちゃって」

「そう……命が惜しくないっていうのは?」

「神様――信仰しているものに命を差し出してしまうからだそうです。命が惜しくなくなれば、それこそ自爆だの特攻だのできてしまう。さらに自分たちの信じることは絶対だ、必ず正しいんだって認識が持たれれば、百人千人殺すことも躊躇わなくなる。要するに、傍から見ればおかしい……恐ろしいことをする精神的ハードルが低くなるんでしょうね」

「……なるほどね。確かに言えてるかも」

「勿論、宗教そのものが悪いなんて言いません。人間ってそんなに強くないから、精神的な支えを求めることは、寧ろ普通だと思います……ただ、信仰っていうのは一種の感情だからなぁ……感情に訴えてことを起せば、確かに収拾が付き難い。僕の世界の今がそうです。僕の世界も大国同士のイデオロギーに基づく戦争が起こりそうになって、それがなんとか不発に終わるや、入れ替わる様に民族や宗教の紛争が世界各地で起って、それが21世紀を迎えて10年が経つ今も続いてて……!」

 一人でそこまで話して、光秋は伊部が遠い目をしていることに気付く。

「……すみません。少し自分の世界に入ってました……」

「うんうん。私も話に着いて行けなくて、ごめん……」

「そんなことはいいんですが……まぁ、体調が回復した証と受け取ってくれればいいかと」

「それはそうだね。話してる時の光秋くん、なんか生き生きしてた」

「えぇまぁ……こういう話が好きなんで」

「そっか」

「……まぁ、せっかくなんでまとめさせていただくと……いろいろ言いましたけど、要するに暴力で――争いでものごとを解決しようっていうのはおかしいってことと、感情的にならず、少し冷静になってものごとを見る必要がある、ということで」

「そうですね。光秋先生?」

 強引に話を終わらせる光秋に、伊部は笑みを浮かべて応じる。

「止してください。本当に、こういう話に興味があるって程度のことですから…」―もし今頃、サン教みたいな組織が向こう側にあったり、ESOに拾ってもらえなかったりしたら、僕もそういうところに入ったかもしれないからな……!―

 若干の危機感を覚えながらそう思うと、光秋は携帯電話の振動に気付き、ズボンのポケットから出して画面を開く。

「メール?」

「えぇ……一尉と二尉からです」

 伊部の問いに画面を見ながら応じると、同時に来たメールをそれぞれ観てみる。

 小田一尉は、

『具合どうだ?少しはよくなったか?落ち着いたら連絡くれ。』

竹田二尉は、

『よ!風邪治ったか?にしても、姉さん女房に看病されるなんて羨ましいぜ!』

と、2人の性格がよく出ている内容だ。

―『姉さん女房』は余計です―

 思いながら、光秋は小田に、

『心配かけてすみません。おかげさまでだいぶよくなりました。明日からまた出るので、よろしくお願いします』

竹田には、

『おかげさまでだいぶよくなりました。だた、「姉さん女房」は余計です!』

と、それぞれに返信のメールを打つ。

―……ま、少なくとも今は、そういう心配はしなくていい……かな?―

 伊部の顔を見ながらメールを送ると、光秋は少し安心しながらそう思う。

 

 しばらくの間、2人はコタツに籠って本を読んで過ごす。伊部は光秋の部屋にある物を借りて読んでおり、一定のペースを保って読んでいるところを見ると気に入っているようである。

 と、光秋は机の上の時計を見る。

―11時半か……―「そろそろお昼にします?」

「そうだね……ちょっと早いけど、そうしよっか。なににする?」

「外食でもいいですよ。ちょっと外の空気も吸いたいし……前行ったあそこ、こっちに初めて来た時に奢ってくれたとこ、あそこ行きません?ちょうど近くですし」

「具合がいいならそれでもいいけど?ほんとに出歩いて大丈夫?」

「粗方治ってますし、明日には出勤するつもりなんです。大丈夫でしょう。そんな遠くじゃないし、体の慣らしも兼ねて行きましょうよ」

「そう。それじゃあ、行こっか」

 伊部が応じると、2人はコートを羽織り、光秋はコートの右ポケットに財布を、ズボンの左ポケットに鍵を入れてコタツの電源を切る。

―……すぐ帰ってくるし、いいか―

 エアコンの電源は切らないことにすると、光秋は伊部と共に玄関へ向かい、それぞれ靴を履いて外に出、ドアの鍵を掛けて食事に向かう。

 

 路地を通って表通りに出ると、2人は正面の横断歩道を渡り、反対側の歩道を左に進む。

「……確かに風強いですね。寒い」

「でしょ」

 吹き付ける強めの風に、光秋は伊部が言っていたことに納得し、左隣を歩く伊部は身を縮めて応じる。

 少し歩いて目的の店に入ると、奥から男性店員が出てくる。

「いらっしゃいませ。何名様でしょう?」

「2人です」

「こちらへどうぞ」

 伊部の返事に応じると、店員は2人を店の奥へ案内する。

 昼時とあってかなり混んでいる店内を進むと、2人席に通され、光秋と伊部は四角いテーブルを挟んでそれぞれ席に着く。

「なににする?」

「ちょっと待ってください……」

 伊部が開いてくれたメニュー表に顔を近づけ、光秋は食べたい物を選ぶ。

「じゃあ、トマトソースを」

「パスタのやつね。私は……ミートソースにしよ。他にない?」

「いいえ」

 光秋が応じると、伊部は呼び出しボタンを押す。

「トマトソース1つと、ミートソース1つ」

「かしこまりました。少々お待ちください」

 やって来た女性店員に注文を告げると、伊部は運ばれてきた水を一口飲む。

 と、携帯電話の振動音が2回鳴り、伊部はコートのポケットからそれを出して画面を開く。

 メールなのか何度かボタンを操作し、少しして電話をコートに戻す。

「誰からです?」

「田舎の友達。年末帰れってこられるか訊かれたけど、わからないって打っておいた」

「ふーん……確か、岩手でしたよね。出身」

「うん。そういえば最近、全然帰ってないな……お正月辺りはどうなるかね…………」

 話している間に注文の品が運ばれ、光秋は右手にフォークを、左手にスプーンを持ってトマトソースのスパゲティを食べようとする。

 と、伊部は再び携帯電話を出し、背部のカメラで自分のミートソースを撮影する。

「どうしました?」

「え?けっこう美味しそうだったから、さっきのメールの友達に画像送ってあげようと思って。食通だからこういうの送ると喜ぶの」

「へー、そういう人っているんですね?」

 光秋が浮かんだ感想を言う間に、伊部はボタンを操作して友達にその画像を送信し、電話を戻してミートソースを食べ始める。光秋もそれに続く。

「それが高じて、雑誌の料理記者になったって言ってたくらいだからね」

「へー……」―料理記者かぁ…………―

 食べながら語られる伊部の友達のエピソードに、光秋は漠然とした感慨を覚える。

 

 しばらくして食事を終えると、2人は席を立って会計に向かう。

―どうしよう?昨日のこともあるし、ここは僕が持った方が…………いや、やめとこ。前に同じ様なことを言って怒られたっけ―

 光秋が以前のことを思い出していると、案の定伊部は勘定を別々に頼み、2人はそれぞれの料金を払って店を出る。

 強風に震えながら寮に戻ると、光秋はコートを脱いで椅子の背もたれに掛け、コタツの電源を入れる。コートをフックに掛けた伊部はすぐに入り、光秋も風呂場で手を洗って台所の水盤で風邪薬を飲み、歯ブラシをくわえながら入る。

「……ほんと光秋くんって几帳面だね」

「んー……」

「あ、いいよ。終わってからで」

「んー……」

 歯ブラシをくわえたままで満足に話せない光秋を見て、伊部は会話を止める。

 少しして歯磨きを終えると、光秋は風呂場に行って口を漱ぎ、再びコタツに入る。

「几帳面と言いましたけど、悪くなる時はなるんですよ。それが一番悔しくて」

「それはそうだね。報われない努力ほど悲しいものはないから…………」

 光秋に応じながら、伊部は大口を開けて欠伸をする。

「ごめん。お腹一杯になったら眠気が…………ちょっと寝かせて」

「どうぞ。あ、なんなら……」

 言うと光秋は立ち上がり、ベッドの上の枕を取って伊部に差し出す。

「ありがとう。じゃあ、ちょっとだけ…………」

 枕を受け取りながら言うと、伊部はそれを敷いて頭を載せ、少しして寝入ってしまう。

「んー……」

 左側を下にして寝る伊部を見て、光秋は携帯電話を取り出し、そのカメラを作動させて伊部の寝顔を1枚撮る。

「!」

「…………」

 予想より強いシャッター音とフラッシュに一瞬驚くが、伊部はかまわず眠り続けている。

―……とりあえず、コタツ切るか。点けっぱなしだと風邪ひくし―

 思うと光秋はコタツの電源を切り、撮った画像を改めて見てみる。

―……こうして見ると、伊部さんって美人ってだけじゃなくて、かわいいところもあるよな…………綾……!―

 唐突に浮かんだ名前に、自分で驚く。

―なんで綾が……そりゃあ、体は一緒なんだろうけど…………―

 そこまで考えて、以前タッカー中尉から聞いた言葉が浮かぶ。

―『お前さ……アヤと、伊部二尉?……のことを、ゴッチャに見てないか?』…………いかんな。これじゃあの時と一緒だ。今目の前にいるのは『伊部法子』なんだ。『加藤綾』じゃない。なら、今は伊部さんを見てあげなきゃいけないんだ。そうしないと、綾にも伊部さんに対しても失礼になる…………ただ…………―

 最後の一線で煮え切らない気持ちを持て余しながら、光秋は携帯電話を閉じてセーターの左ポケットに仕舞う。

 

 伊部の画像を撮って以降、光秋は余熱でも充分温かいコタツに足を入れ、文庫本を読んで過ごす。

 しばらくして、

「…………ん……んーん……」

「……おはようございます」

 コタツで寝入っていた伊部が、唸りながら起き上がる。

「……おはよう…………今何時?」

「4時40分です」

 寝起き顔で欠伸混じりに訊く伊部に、光秋は机の上の時計を見ながら答える。

「けっこう寝ちゃったなぁ…………うーん!…………」

 呟く様に言うと、伊部は両腕を上げて唸りながら伸びをする。

「お疲れじゃないですか?もう殆どよくなったし、今日は早めに帰って休んだ方が……」

「大丈夫。そういうんじゃないから。お腹が一杯になって眠くなっただけだから……」

「ならいいんですが…………」

 光秋がやや心配しながら返すと、伊部は首を左右に回す。

「もうすぐ5時か…………夕飯なににしよう……」

「またどっか行きますか?」

 伊部の目を擦りながらの問いに、光秋は思い付いたことを返す。

「それもいいけど……冷蔵庫の中の物、あれからいじってないでしょう?」

「えぇ……また作るんですか?」

 伊部の言いたいことを察し、光秋は少し遠慮がちに問う。

「嫌?」

「嫌じゃないですが、その……」

「遠慮しなくてもいいの。一応まだ病欠中なんだし、私がやりたいってのもあるから」

「それなら……お言葉に甘えて……あり物でいいですよ」

「だからさぁ……なにができるかなぁって……」

 言いながら伊部はコタツから出て、冷蔵庫の中を調べ始める。

―…………女房っていうか、あれじゃお母さんだな―

 伊部の背中を見ながら、光秋はそんなことを思う。

 

 少しして、伊部は昨日買ってきた物の残りで夕食を作り始める。

「……なにか手伝いましょうか?」

 コタツに腰を下ろしている光秋は、仕切りのカーテン越しに伊部に呼び掛ける。

「うーん……いいかな。そんな大したことはしないし。それにここの台所、狭いから2人でやると動き難いかも」

「まぁ、確かに……」

「気にしないで、そこで本でも読んでて」

「はい…………」

 カーテン越しの伊部に応じると、光秋は若干尻の座りの悪さを覚えつつ、手元の文庫本に目を落とす。

 少ししてカーテンが開き、右手にどんぶり、左手に箸が入ったコップを持った伊部が入ってくる。

「お待たせ。すぐ持ってくるから先食べてて」

「はい」

 目の前に置かれた昨日と同じ様なうどんが盛られたどんぶりを見ながら応じると、光秋は冷蔵庫からスポーツドリンクのペットボトルを出し、中に残っている分をコップに注ぐ。

 その間に、伊部も鍋に入ったうどんを持ってきてコタツに入り、光秋の許にコップを差し出して残ったスポーツドリンクを全て注いでもらう。

「それじゃあ、いただきます」

「どうぞ」

 伊部が応じると、光秋は合わせた手を解き、右手に箸を持ってうどんを一口すする。

「……うん。やっぱりいいですね」

「そう?」

「昨日は舌に自信がなかったから言いませんでしたが、なかなか美味いですよ」

「ありがとう。でも、褒めてもなにも出ないよ」

「そんなんじゃありませんよ。思ったことを言っただけです……こう言うと、生意気って思われるかもしれませんが……」

「なに?」

「……伊部さん、将来いい奥さんになれると思いますよ。もっと言うといいお母さんに…………」

 若干気恥ずかしくなりながら言うと、照れ隠しにうどんを掻き込む様に食べる。

「いい奥さんっていうのはよく聞くけど、お母さんっていうのは初めて聞いたなぁ……」

 微笑みを浮かべながら応じると、伊部もうどんを一口すする。

「……でも、そう思いたくもなりますよ。僕なんかのためにここまでしてくれて」

「それは、前にも言ったでよ。光秋くんは私の弟分なんだから」

「はぁ……」―『弟分』……か…………―

 再び尻の座りの悪さを感じつつ、伊部が言ったことを口の中で復唱すると、光秋はうどんを一口すする。

「……ところで、伊部さん前に士官学校時代に付き合ってた人がいるって言ってましたよね」

 調子の悪さをなんとかしようと、光秋は思いついたことを言ってみる。

 と、

「ん?……うん…………」

―変なこと訊いちゃったかな?…―

 伊部が若干顔を俯けるのを見て、少し後悔する。

「……別に、言い辛ければ言わなくてもいいんです。ただ、なにぶんそういう関係……男女関係ってものに乏しくて、つい好奇心が出てしまうというか…………」

「そうなの?光秋くんモテそうな感じだけど?」

「またぁ。モテませんよ。顔だってそんなパッとする方じゃないし、性格だって自分で言うのもなんですけど気難しくって、付き合いも上手い方じゃないし。伊部さんくらいですよ。こんなのにここまでしてくれるのは……あぁ、あと綾もいたか」

 思い出した様に言うと、光秋はふと綾の顔を思い浮かべる。

「綾、ねぇ……」

「……僕のことはいいんですよ。伊部さんはどうだったんです?」

「私は…………」

 呟く様に応じながら、伊部は遠くを見る目になる。

「……私は、けっこうあったかな。誰かに好意を向けられること」

「士官学校時代の人とか?」

「うん。その人は陸軍志望で、私がいたESOのコースとはまた違うんだけど、共通授業でよく一緒になって……というか、あの人の方から積極的に関わってきたかも」

「ふーん?……」―積極的、ね……―

「よくフミと3人でつるんでたなぁ…………卒業後はドイツの方に配属されたって聞いてるけど……あれから会ってないけど、元気かなぁ」

「ドイツ、ですか……」

 遠くを見る伊部に呟く様に返すと、光秋はうどんを一口すする。

 

 しばらくしてうどんを食べ終えると、光秋は残ったスポーツドリンクで風邪薬を流し込む。

「ごちそうさまです」

「お粗末さま」

 光秋の言葉に応じると、伊部は食器類を鍋に重ね置きし、台所に運んで皿洗いを始める。

「……さて」

 呟くと、光秋はコタツから出、伊部の後ろを通って風呂場に向かい、水盤の蛇口を回して風呂を入れる。

「お風呂入るの?」

「はい。体調も殆どよくなったし、昨日入れなかったんで」

 伊部の寄こした声に、光秋は湯加減を調節しながら返す。

「あ、ひょっとして、そっち水出なくなりました?」

「それはいいんだけど、ほんとに大丈夫?」

「大丈夫ですよ。寧ろひと風呂浴びてスッキリした方が気持ちいいんだ」

 伊部に応じながら、光秋は風呂場から出てコタツに戻る。

 5分程して程よく溜まったお湯を止めると、光秋は台所にまだ伊部がいるのを見、

―……もう少し待つか―

歯ブラシを持って風呂場を出、再びコタツに入る。

 一通り磨き終わってコタツから出ると、入れ違いに皿洗いを終えた伊部がコタツに入る。

 水盤で口を漱ぐと、光秋は居間に戻って着替え一式とタオルを用意する。

「では、入らせてもらいます。テレビでも観ててください」

「りょうかい。ごゆっくり」

 伊部の返事を聞くと、光秋は仕切りのカーテンを閉め、脱いだ服を洗剤と一緒に洗濯機に入れ、閉めたフタの上に着替えを置く。洗濯機を回すと風呂場に行き、湯船に肩まで浸かる。

「ふー…………ドイツかぁ…………」

 2日ぶりの入浴に知らぬ間に安堵の溜め息を漏らすと、先程の会話を思い出し、吐息混じりに呟く。

―伊部さんの恋人か……いや、元恋人か?…………恋人……想い人か…………―

 脈絡のない思考をしていると、不意に綾の顔が浮かび、そのことが綾との精神感応の際に観た光景を――幼い姿をした自分を優しくも力強く抱きしめてくれた綾を思い出させる。

―……あそこまでしてくれた綾に、僕は結局、何もしてやれなかったな…………『気付いた時がJust time』、とは言ったものの…………!―

 そこまで考えたところで滴が頭に落ち、ハッとした光秋は長考を中断する。

「……ま、どっち道過ぎたこと、か…………」

 そう呟いて綾のことを隅に押しやると、風呂から出て体を洗う。

 2日ぶりということもあっていつもより心なしか丁寧に洗うと、再び風呂に浸かって温まり、少しして風呂桶の栓を抜いてあがり、桶の上の物干しに干してあるタオルで体を拭く。

 その間に湯が抜け切ると、シャワーで風呂桶を軽く水洗いし、風呂場を出る。

 洗濯機の上のバスタオルを取って髪を拭き、体中の細かな水気を拭き取り、水色のチェック柄のパジャマに着替えると、バスタオルを首に掛けてカーテンを開ける。

「長かったね。30分くらい?」

「いつもこんなもんですよ。今は寒いのもあるかもしれないけど」

 コタツに入って文庫本を読んでいる伊部に応じつつ、光秋は冷蔵庫から目薬の袋を出し、コタツの上に置いたそれから1本出して左目に一滴注す。

「お風呂好きなんだ」

「て言う程でも……好きかと言えば好きですよ。1日1回は入らないとスッキリしなくて」

 伊部に応じつつ、光秋はバスタオルをハンガーに掛け、押し入れからドライアーを出して髪を乾かす。

「……ところで、そろそろ帰らなくて大丈夫ですか?」

 終えたドライアーを押し入れの戻しつつ、光秋は6時20分を指している机の上の時計を見て問う。

「んー……明日もあるし、そろそろ帰ろうかな……もう完全なんでしょう?」

「殆ど。とりあえず、明日はちゃんと出勤できると思いますよ」

「……じゃあ、もうちょっとしたら」

 伊部の返答を聞きつつ光秋はコタツに入り、2本目の目薬を注す。

 少しして洗濯機が止まり、ハンガ―ラックに洗濯物を干し終えた光秋が3本目の目薬を注し終えると、

「……じゃあ、そろそろ行こうかな」

伊部は読んでいた文庫本を机の本棚に戻し、フックに掛けてあるコートを羽織る。

「2日もわざわざ、ありがとうございました」

 目薬の袋を冷蔵庫に戻しながら言うと、光秋は伊部に続いて玄関へ向かう。

「気にしないの。私は光秋くんの姉貴分なんだから。じゃあ、また明日。お休みなさい」

「お休みなさい」

 光秋が応じると、伊部はドアを開ける。

 赤フリルのシュシュで束ねた黒髪がドアに隠れると、光秋はドアの鍵を閉め、コタツに向かう。

―……姉貴分、か……―

 伊部の言葉を口の中で呟きつつ、コタツに足を入れる。

「…………というか、好意のある人に『姉』とか『女房』じゃなく、『お母さん』を見てしまう男って、どうなんだ……?」

 なんとなしに浮かんだ疑問を口にすると、天井に目のやり場を求める。

 

 12月6日月曜日午前7時半。

 朝食等を済ませた光秋は、ESOの制服の上に緑のコートを羽織り、灰色のカバンを右肩に斜め掛けして支部へ向かう。

 正門をくぐると、

「光秋くーん!」

「!」

後ろから呼び掛けられて振り返ると、左隣の小田一尉と並んで歩く伊部を見る。

「おはようございます」

「おはよう」

「体、もういいのか?」

「だいたいは。今日は試運転ということで、あまり無理はしませんが、概ね大丈夫です」

 小田の問いに応じると、光秋は伊部の右隣に着き、3人で本舎へ向かう。

―さてと。休んだ分、無理のない範囲で取り戻すか!―




 「病床の夢編」は今回で終了です。
 次回もお楽しみに!

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