では、どうぞ!
5分程歩いて職員寮の自室に帰宅すると、光秋はカバンの中身を取り出し、目薬やクシなどの備品を室内のもともとあった場所に戻し、布物をまとめて洗濯機に放り込む。
身に付けている小物とメガネを外して机の上に置き、制服一式を脱いで壁のフックのハンガーに掛ける。
私服の着替え一式とバスタオルを用意し、着ていたワイシャツと下着、靴下も洗濯機に入れ、洗剤を入れて回すと、着替えとタオルをその上に置き、風呂場に入る。
―できればひとっ風呂浴びたいところだが、また出るし、時間も心配だしな……―
そう思いながら頭からシャワーを浴び、それでも多少はすっきりとした気分になって風呂場から出ると、洗濯機の上のバスタオルで体を拭く。
―……伸びたな……そろそろ切らないと……―
頭を拭いていると、そんなことを考える。
―明日休みだし、切りに行くか?ついでに部屋の掃除もして…………―
などと考えながら体拭きを終え、用意した下着と白のワイシャツ、薄黄色のズボンを着、机の上のメガネを掛ける。
ドライヤーやクシで髪型を整えてそれらを片付けると、洗濯が終わるまで椅子に座って一息つこうとする。
―……そうだ、歯ぁ磨いとくか。せっかくの集まりだし、きれいにしといた方が―
そう思うや風呂場の水盤に向かい、備え付けの鏡棚から先程戻したばかりの歯ブラシと歯磨き粉を取り出し、歯を磨きながら居間の椅子へ戻る。
磨き終え、水盤で歯ブラシを洗って口を漱ぐと、ピー、ピーという洗濯の終了音を聞き、居間のベランダ側に置いてあるハンガーラックに洗濯物を干していく。
全て干し終わると、机の上の時計を見る。
―5時10分……そろそろだな……―
思うと光秋は新しいハンカチをズボンの右ポケットに入れ、白い靴下を履く。左手首に時計と数珠を巻き、ズボンの左ポケットに携帯電話とカプセル、鍵を入れ、カバンに財布を入れて右肩に斜め掛けすると、玄関に向かう。
白のスニーカーを履いて外に出ると、ドアに鍵を掛けて支部へ向かう。
京都支部の正門前に着くと、光秋は辺りを見回して伊部がいないことを確認し、携帯電話を出して時計を見る。
―5時17分……もう少しかな?―
思いながら携帯電話を仕舞い、門を背にして伊部を待つ。
少しして、
「ごめん。待った?」
言いながら、薄黄色の服の上に白い薄手を羽織り、薄茶のズボンを着、左肩に小さめのカバンを提げた伊部が門の右側から歩み寄ってくる。
「いえ、そんなには」
「そう?じゃあ、行こっか」
「はい」
光秋が応じると、2人は門の左側に歩き出し、最寄りの地下鉄の出入り口へ向かう。
地下鉄駅に下りると、光秋と伊部は券売機で切符を買って改札機を通り、ホームに続く階段を下りる。
ちょうど来た電車に乗り込むと、まばらに人がいる車内でドア近くの座席が空いているのを見付け、そこに並んで座る。
「横尾中尉たちは?」
カバンを座席の下に置いて脚で隠す様にしている光秋が、左隣でカバンを膝の上に置いている伊部を見ながら訊く。
「フミは場所知ってるから自分で来る。タッカー中尉と純君は後から来るって」
「どういう店なんです?これから行くとこ」
「繁華街の路地裏の、小さな居酒屋。料理が美味しくてね。ウチの隊はなにかあると、いつもそこなの」
「そうなんですか……」
「私の入隊祝いの時も、そこだったなぁ……」
伊部は少し懐かしむ様に言う。
「入隊祝い……」―僕の時にはなかったが?……あぁ。訓練やら研修やらでそれどころじゃなかったか……―
思いながら、光秋はESOに入ったばかりの頃を思い出す。
と、電車が停車し、光秋の右隣にあるドアから散々と人が乗り込んで来る。
―そいえば、電車を利用するのも久しぶりかぁ。高校の頃は毎日乗ってたのに……―
ふと、そうなことを思う。
各駅停車をしつつしばらく進むと、電車のアナウンスが目的の駅の名を告げる。
(四条.四条です)
「!」
それを聞いて光秋はカバンを右肩に斜め掛けしながら立ち上がり、伊部も左肩にカバンを提げながらそれに続くと、2人は右隣のドアの前に移動する。
電車が停まり、ドアが開くと、2人はいくらかの人々と一緒にホームに降り、だいぶ混んできた車内を後にする。
「こっち」
と言って右に向かう伊部の後を追って、光秋はホームを歩き出す。
と、少し進んだところで、
「……!フミ!」
伊部は前方に横尾中尉を見つけ、声をかける。
「法子!加藤君も」
振り返りながら応じると、青いワイシャツに濃い青のジーンズを着、右手にハンドバックを持った横尾は2人の許に歩み寄り、光秋は軽く頭を下げる。
「ちょうどさっき着いたとこ」
「タイミング合ったんだ」
横尾と伊部が並んで話しながら進み、光秋はその後に続く。
人の波を縫う様にホームを進み、階段を上って改札機を通り、ホーム以上に人でごったがえしている駅内の通路を逸れないように進んで行く。
その間、伊部と横尾は横に並んでときどき会話もしているようだが、光秋は人混みの中に2人を見失わないようにするのが精一杯であり、会話に加わったり聞いたりする余裕はない。
―……帰り道、わかるかな?―
加えてそんな心配も抱く。
しばらく歩いて出入り口の階段を上ると、3人は高層ビル街を走る4車線道路脇の歩道に出る。そこからまた歩いて車1台が通れるくらいの路地に入り、また少し進む。
と、
「ほら、ここ」
言いながら伊部は立ち止まり、光秋も視線を追って右側に建つ質素な趣の店を見る。若干年季の入っている、一階建の和式造りである。
「今何時?」
「5時55分です」
横尾の問いに、光秋は左手の腕時計を見て応じる。
「ちょうどいいね。入ろう」
言うと伊部は入り口前に掛かっている暖簾をくぐって木製の戸をずらして中に入る。横尾もそれに続き、最後に電話を仕舞って入った光秋が戸を閉める。
3人が入るとすぐに、
「伊部、横尾中尉、加藤、こっちだ」
と、左側から藤原三佐が呼び掛け、顔を向けると、畳の上の長テーブルの周りに白い上着に灰色のズボンを着た藤原と、灰色の上着に黒いジーンズの小田一尉、赤い上着に茶色いズボンの竹田二尉、青チェック柄の上着に白いズボンの上杉が、座ってこちらを振り向いている。
「お待たせしました」
「どうも」
応じながら伊部と横尾はテーブルに歩み寄り、光秋も一礼して続く。
靴を脱いで畳に上がると、光秋は各々の手荷物が置かれている右端にカバンを置き、手前側の右端に座る。
「タッカー中尉と純は?」
光秋の対角線上――壁側の左端に座る上杉が訊く。
「少し遅れて来るみたい。先に始めてていいって」
上杉の左前に腰を下ろしながら、横尾が応じる。
その際に光秋は、伊部が左隣に座るのを見つつ、上杉の左隣に座る竹田が面白くないといった顔をするのを見る。
「それならお言葉に甘えて、始めさせてもらおう」
竹田の左隣に座る藤原が言うと、その左隣に座る小田がテーブルの端に置かれているメニュー表を取り、テーブルの中央に置く。
藤原、竹田、上杉が中心になって、光秋には名前を聞いただけではよくわからない料理をいくつか決め、それぞれメニューを見て自分の飲み物を決める。
皆が決め終わると、
「加藤くんは?」
と、伊部が訊いてくる。
「すみませんが、メニュー貸してください。字が読めなくて」
「あぁ、ごめん」
応じると伊部はメニュー表を取り、光秋に渡す。
―……ウーロン茶でいいか―
メニューを見てそう思い、表をテーブルの中央に戻す。
私服の上に黒いエプロンを掛けた女の店員が人数分の水を運びに来ると、上杉が注文を頼む。
上杉が藤原、竹田と決めた品々とビールを3つ頼み、それに続いて小田がウィスキーの水割りを、横尾がレモンのチューハイを、伊部がウーロン茶を頼む。
「加藤は?」
「僕もウーロン茶で」
上杉の問いに、光秋も左後ろに立つ店員を見て応じる。
注文を確認し終えた店員に一同を代表して上杉が応じると、店員は厨房に向かう。
と、店の戸が開く音が響く。
「……!中尉、純」
顔を向けた上杉の呼び掛けに、光秋も左後ろを振り返る。
「いやぁ、遅れてすみません」
言いながら、水色のシャツの上に青い上着を羽織り、黒いズボンを着た純が一同の許に歩み寄り、白い上着に黒いズボンを着たタッカーが戸を閉めてそれに続く。
「タイミング悪かったなぁ。ついさっき頼んだところだ」
自分の真向かいに座った純に上杉が言う。
「運んできた時に頼みます」
そう返すと、純はテーブル中央のメニューを取る。
タッカーは、
「よう」
と呼び掛けながら光秋の右前――テーブルの端に座り、光秋は軽く一礼する。
「中尉」
「おう」
注文を終えた純がメニューを前に差し出し、タッカーは応じながらそれを受け取ると、
「なににした?」
と、左手に持ったメニューを見ながら、光秋に目配せして問う。
「ウーロン茶です」
「酒じゃないのか?」
「まだ未成年なんで」
「あぁ、そうだったな。んーん……」
タッカーが唸っている間に、先程の店員が左手にグラスがたくさん載った盆を持って一同の許に来る。
「お待たせしました」
言いながら、店員はビールのジョッキ3つを一手に持って上杉、藤原、竹田の許に置き、水割りのウィスキーのグラスを小田、チューハイのグラスを横尾、ウーロン茶のグラスを伊部と光秋の許に置いていく。
と、
「あ、すみません」
純が店員の顔を見て言う。
「追加でウーロン茶1つと、中尉は?」
「……ウィスキーを水割りで」
純に問われたタッカーは、メニューを見ながら応じる。
「かしこまりました」
応じると、店員は盆を左脇に抱えてエプロンのポケットから伝票とペンを出し、書きながら確認をすると、
「少々お待ちください」
と言って、厨房に向かう。
「さて、まず乾杯といきたいところだが……」
言いながら、藤原は純とタッカーを見やる。
「2人の分が来るまで、少し待とう」
「すみません……」
藤原の言葉に、純は軽く頭を下げる。
少しして、純のウーロン茶とタッカーのウィスキーが運ばれて来ると、藤原は一同を見回し、
「では……」
と、右手に持ったジョッキを高く上げ、よく通る声を上げる。
「加藤と伊部の危機的状況からの生還を祝って、カンパァイ!」
「「「カンパーイ!」」」
一同もそれぞれにグラスを高く上げて続く。
全員での乾杯を終えると、光秋は手が届く範囲にいる伊部、タッカー、小田の順にグラスを合わせ、
「いただきます」
と呟く様に言うと、中のウーロン茶を一口飲む。
料理の入った大皿がいくつかと人数分の小皿、割り箸が運ばれて来ると、光秋は近くの煮物入りの大皿から汁の染みた茶色い大根と輪切りにした烏賊を二切れずつ小皿に取り、大根を箸で切り分けて口に運ぶ。
―大根の煮物かぁ、久しぶりだな……―
と、
「……ところで三佐」
伊部が周りの様子に気を配りつつ、近くの者にしか聞こえないくらいの声で言う。
「今回のこと、世間にはなんて言うんです?」
―……それもそうだ。『異界からの使者ロボットと交戦しました』、なんて言えない。言ったところで信じる人がいない―
思いつつ、光秋も藤原を見る。
半分程飲み終えたジョッキを置くと、藤原は伊部の許に顔を寄せる。
「実弾の管理ミスによる誘爆事故ということだ。真相は上位機密に指定、演習参加者全員は今回のことについては誰にも話してはならん、とのことだ」
「了解です」
ー……まるで怪奇ドラマの隠蔽みたいだな。話の綻びに気付いた主人公が事件を辿っていくと、とんでもない真相が待ち受けているっていう…………―
藤原と伊部の話に、光秋は烏賊を摘みながらそう思う。
と、
「……にしても、あれだな」
「なんです?」
小田がウィスキーのグラスを置きながら呟き、光秋は顔を向ける。
「ん……春頃にお前や中尉と会ったと思ったらもう10月で、しかも中尉とはお前たちとの縁とはいえ、一緒に飲み合うようになるなんて、不思議なもんだなぁって」
「あぁ、そう言えば……」
応じつつ、光秋は小田と共にタッカーを見やり、視線に気付いたタッカーも小皿に盛ったレバー焼を食べる手を止める。
「確かに、言われてみれば……あっ!」
と、タッカーはなにかを思い出した顔をし、直後にバツの悪い顔を小田に向ける。
「そういえば、まだ言ってませんでしたね……あの時は、すみませんでした」
言いながら、タッカーは小田に頭を下げる。
「『あの時』?……」
小田は首を傾げる。
「ほら、ニコイチの飛行起動実験の時、俺がこいつに突っかかって一尉がそれを止めた時、俺一尉に暴言吐きましたよね」
「…………あぁ。あったな」
「その時のこと、まだ謝ってなかったんで……」
言いながら、タッカーは光秋の方に顔を向ける。
「お前には一応謝ったが……誤解を与えたかもしれないんで、念のため言っとく」
「誤解?」
「始め、お前のことを『イエロー』呼ばわりしただろう」
「……そう言えば」
言いながら光秋は、タッカーに胸倉を掴まれて怒鳴られた時のことを思い出す。
「あの時、俺ニコイチがどうしても気に入らなくてムシャクシャしてて、ついあぁ言っちまったけど、俺は人種差別者じゃい。ただなにかと面白くなくて……つい、言っちまったんだ……」
言いながら、タッカーは曇った顔を俯かせる。
「いえ、過ぎたことですし、それにその後なにかとお世話になったし、もう気にしてません」
「そうか?……それなら」
光秋に言われて、タッカーは顔を上げる。
―……愛称みたいなもんだからいいが―「ただ、未だに『ジャップ』呼ばわりですけどね?」
思いつつ、光秋は少し笑った顔をする。
「それは、ほら……」
案の定、タッカーは困った顔で返事に詰まる。
と、
「いやいや。そうでもないぜ加藤」
話を聞いていたのか、上杉が加わる。
「現に今日、お前が寝込んだ時なんて――」
「ちょっと待て上杉!」
続く言葉を遮る様にタッカーは慌てて大声を出すが、上杉はそれに少し驚きつつも、
「なんです中尉?隠さなくてもいいでしょう?」
と、ニヤケ顔で言う。
「そうそう。言ってやれ上杉」
竹田も口元を歪めながら言う。
「では」
「だからやめろって!」
話し出そうとする上杉をタッカーは必死な顔をして止めようとするが、
「いいじゃないですか、中尉」
純にもウーロン茶を飲みながら言われ、
「ピュア、お前まで……」
と、呻く様に言いながら脱力する。
―なんだろう?―
光秋もそんなタッカーを見ながら興味を覚え、上杉を見る。
「私も聞きたい」
伊部も言う。
「えー、では改めまして……加藤が起きるちょっと前に、タッカー中尉、純君と一緒にテントに来たんですがね、そん時、中尉ってばすごく慌てて、『
「……」
上杉の説明に、タッカーはあからさまに頬を赤らめ、力なく下を向く。
―そういえば起きる少し前、中尉の声で「加藤」って……いや、意識戻ってすぐだから、記憶に自信がないな……―
そんな2人の様子を見て、光秋はその時のことを曖昧に思い出す。
―ただ……―「中尉、ありがとうございます」
「!……」
光秋の礼に、タッカーは若干赤味が引いた顔を上げ、尻の座りが悪そうに視線を上に向ける。
と、
「私からも、ありがとうございます。タッカー中尉」
「……」
伊部にも言われると、タッカーは両目を固く閉じて鷲掴んだウィスキーを一気に飲んでしまう。
それを見つつ光秋は、伊部に意識を向ける。
―『私からも』、かぁ…………―
心中に呟くと少し嬉しくなり、ウーロン茶を一口飲む。
その後しばらくの間、光秋は食べて飲んで、同席者一同の会話に耳を傾ける。
「にしても今の店員の
「あー、いや……」
光秋と対角線上の左端に座る上杉に、右前の純が返事に困っていると、
「まーたお前は!悪い癖だぞ……」
左隣に座るジョッキ入りのビール3杯目を飲みきろうとしている竹田が赤くなり始めた顔でやや舌をもつれさせて言い、その左隣で藤原が、
「お前もほどほどにしておけ。いつもそうやって飲み過ぎて、後で面倒になるんだからな」
と、4杯目のビールに口を付けながらも、変わらない顔色で釘を刺す様に言う。
それを見て光秋は、
―上杉さんが女にだらしないっていうのはたびたび聞いてたが、こういうことか―
と、主に大河原主任から聞いた話を漠然と納得する。
一方で、
「まぁ中尉、今後とも加藤とは仲良くしてやってくれ。こいつは隊の人間以外とは殆ど関わらないからな」
光秋の前に座る小田は、ウィスキーのお代りに頼んだ焼酎の水割りを飲みながら左前のタッカーに言い、若干朱が差し始めたタッカーも、
「えぇ。というか、こいつは俺の命の恩人ですからね」
と、2杯目のウィスキーを飲みながら返す。
それを聞いて光秋は、
―……飛行実験の時のことか―
と、ニコイチでタッカーのF‐22の背に乗った時のことを思い出す。
と、
「……加藤くん!」
「!あ!はい?」
突然伊部に呼び掛けられ、少し慌てて左を見る。
「何度も呼んだけど、聞こえなかった?」
「はい……やっぱ大勢だとダメですね」―だいぶにぎやかになってきたし……―
伊部に応じつつ、光秋は来た時よりも人が多く、わさわさと話声が飛び交うようになった店内を意識する。
「そっか……ごめん」
「いえ……ところで、なんです?」
「あぁ、せっかくの休みだし、明日か明後日、一緒に金閣寺でも行かない?」
「え……」
唐突に言われた伊部からの誘いに、一瞬呆然とする。
―それはつまり…………デート?なわけない!―
すぐに気を取り直すと、伊部の左隣に座る横尾を見る。
「横尾中尉もご一緒に?」
「私はダメ。休みは明日1日だけだし、どうせ今日の疲れで寝てるだろうし」
応じながら、横尾は2杯目のレモンチューハイを一口飲む。
「フミは関係ないよ。私と加藤くんの2人。だって加藤くん、こっち来てから寮と支部の往復で、どこにも行ってないでしょう。私も時間ができたらどっかに遊びに行こうと思ってたんだけど、一人じゃつまらないし」
―いや、綾と一緒にほっつき歩いてたことがあります……なんて言えないよなぁ。それに、確かに名所なんかにはまだ行ってないな。それに、伊部二尉と…………―
思い浮かんだ綾の顔に若干後ろめたさを覚えつつも、伊部の言葉に光秋は嬉しさを感じる。
「じゃあ……行きます」
「ありがと」
「ただ、明後日にしてくれませんか。明日はちょっと片付けたいことがあって」
「なに?」
「部屋の片付けです。ここんとこ演習でどたばたしてて、疎かになってて」
「そう?わかった。明後日ね」
「はい」
伊部は微笑みを浮かべ、光秋は静かにそれに応じる。
と、光秋は不意に思い付いたことを言う。
「…………ところで、二尉、誕生日いつですか?」
「え?どうしたの?」
急に訊かれた伊部は、少し面食らった顔をする。
「いえ、僕の時にお祝いしてもらったんで、そのお返しがしたくて。それに、皆さんの分も訊きたいし……ひょっとして、もう過ぎちゃいました?」
光秋は少し不安な声で訊く。
「うんうん、大丈夫だよ。私は11月17日」
「11月17日、ありがとうございます」
言いながら、光秋はズボンの左ポケットから携帯電話を取り出し、伊部が言った日付を記入する。
「横尾中尉は?」
「9月21日」
「ありがとうございます。小田一尉は?」
「え?」
タッカーと話していたところに突然訊かれ、小田は一瞬なんだという顔をする。
「誕生日、教えてください」
「あぁ。10月11日」
「ありがとうございます。タッカー中尉は?」
「え!あ、いやぁ……」
少し困った顔をすると、タッカーは視線を一瞬竹田に向け、光秋に顔を近づけて小声で言う。
「後で教える」
「はぁ……」
その行動に首を傾げながらも、光秋は藤原を見る。
「三佐は、誕生日いつです?」
「儂か?儂は7月3日だ」
「ありがとうございます。竹田二尉は?」
「え!?」
光秋に訊かれるや、顔が赤くなり始めた竹田は飲んでいたジョッキから口を離し、
「あー、そのー…………」
と、視線を上に向けて戸惑った声を出す。
「?……」
光秋がその行動に首を傾げていると、
「3月3日だ」
と、上杉がニヤケた声で言う。
「!上杉!テメェ!」
舌をもつれさせながらも、竹田は怒った顔を上杉に向ける。
「どうかしたんですか?」
怒る理由がわからない光秋が訊くと、竹田の怒りを意に介さない素振りの上杉が言う。
「加藤、3月3日はなんの日だ?」
「3月3日?…………」
「おい上杉!マジでやめろって!」
竹田が平時においては珍しい真剣な顔をしつつ、光秋は、
「あ!……
と、思い付いたことを言う。
「正解!」
「…………」
上杉は嬉しそうに返し、竹田は顔を俯ける。
「?……あの、二尉、どうかしましたか?」
そんな竹田を見て、光秋は居心地の悪さを感じながらも問う。
「お前よー、雛祭って、要するに女の行事だろ」
「はい?……」
「そんな日に男として生まれるってことはだよ、男のくせに乙女座に生まれるのの次に恥ずかしいことなんだよ!」
「……そこまで言いますか?」
「言うよ!お前にはわからんねぇだろうがな、オレは昔っからなにかとそのことをネタにされてきたんだよ。まぁ、そのこでからかった奴らはタダじゃおかなったけどな」
―『タダじゃ』って……二尉、何したんです?―
思いつつも、それを声にする勇気は光秋にない。
「……せめてもの救いは、一番恥ずかしい乙女座生まれにならなかったことだよ」
「二尉、それはさすがに偏見じゃ――」
「悪かったな!一番恥ずかしい奴で」
光秋の言葉を遮る様に、やや顔の赤味を増したタッカーが竹田を睨み付ける。
「?……タッカー中尉?」
あまりの様子に、光秋は思わず訊く。
「ジャップ、後で教えると言ったが、こうなったらもういい。俺の誕生日は8月23日だ」
「8月23……ありがとうございます」―さっき二尉の方を見たのはこういうことか?この日は乙女座の日……てことなのか?―
思いつつ、光秋は竹田とタッカーの日付を携帯電話に記入する。元来星占いなどに興味の薄い光秋は、星座と暦の関係など殆ど知らないのでピンとこないのである。
「こいつ、さっきから黙って聞いてりゃ」
竹田を睨み続けながら、タッカーは静かな声で言う。
と、竹田が突然立ち上がる。
「……二尉?」
ニヤケが少し弱まった上杉が声をかけるが、竹田はそれに構わずタッカーの右隣に移動する。
「……何だよ」
タッカーが露骨に言うと、竹田は膝を折って目線を合わせる。
直後、
「同じ痛みを分かち合う同志よぉ!」
大声で叫びながら、真っ赤な顔をした竹田はタッカーに抱き付く。
「な、何だよ!?」
タッカーが驚愕の声を上げるが、竹田は両腕を放さず、
「さっきはあぁ言ったけどよ、結局オレのことをわかってくれるのはお前みたいな奴だけだぁ!それがこんなに身近にいたなんてぇ!」
と、舌をもつれさせながら言う。
「……あれはいよいよね」
「いよいよって?」
タッカーに抱き付く竹田を見ながら言う伊部に、光秋が訊く。
「二尉、すっかり酔っちゃったの」
「あぁ……」
伊部の一言に、光秋は竹田の真っ赤な顔を見ながら納得する。
「だから言わんこっちゃない……しょうがない。中尉、しばらくそいつの相手頼む」
小田が呆れ顔をしながら言う。
「何で俺が!」
「まあまあ、そう言わず」
タッカーの反論に構わず、藤原が竹田のジョッキと小皿をタッカーの近くに置く。
「…………わかりましたよ。とりあえず、いったん離れろ。気持ち悪い」
観念したした様にタッカーが言うと、竹田は体を離しながら、
「よーし!今日はまだまだ飲むぞぉ!店員さん!ビール2つ!」
と、機嫌よさそうに近くにいた店員に注文をする。
「…………あーっと。ところで、上杉さんは誕生日いつです?」
一連の光景から気を取り直した光秋は、上杉を見ながら訊く。
「4月20日」
「ありがとうございます」
返しながら、携帯電話に日付を記入する。
「純さんは?……あ、そういえば、純さんの連絡先まだ教えてもらってませんでしたね」
「そういえばそうだね……いい機会だし、ボクからも教えてほしいな」
「はい」
純の言葉に応じると、光秋は立ち上がって純の左隣に移動し、互いの携帯電話の番号を教え合う。
「ありがとうございます。で、純さんの誕生日は?」
「8月19日。光秋君は?」
「6月17日です」
「6月17日ね。ありがとう」
純のお礼に光秋は軽く頭を下げて応じ、自分の座っていた場所に戻る。
純から訊いた日付を記入しようと携帯電話を操作すると、
―……純さん、もう入れてる―
すでに記入されている日付を見、携帯電話を左ポケットに仕舞う。
しばらくの間、光秋は再び食べて飲み、周りの話しに耳を傾ける。
右隣のタッカーは、初めこそ竹田との飲み合いを嫌そうにしていたが、今では2杯目のビールを飲みながら、5杯目のビールを飲んでいる竹田とそろって赤い顔をし、光秋にはよく聞き取れない言葉で大声で談笑している。
―人同士って、つぐつぐ解らんもんだ……それとも、酒の力か?―
2人の初対面時から先程までのやり取りを思い出しながら、そんなことを思う。
と、
「それにしても、ESOってこういう時いいですよねぇ……」
「なにが?」
テーブルの左端に座る純の呟きに、光秋の左隣に座る伊部が訊く。
「いや、休みが2日ももらえて。陸軍もそうみたいですけど、空軍も明日1日しか休めなくて。正規も候補生も関係なしですよ」
右隣の横尾をちらっと見ながら、純はそう返す。
「そりゃあ、よく言われるように『警察より厳しく、軍より緩く』がESOだからな」
純の正面に座る上杉が、グラス入りのウーロン茶を飲みながら赤味の差し始めた顔で言う。
と、伊部の正面に座る藤原が、グラス入りの焼酎の水割りを飲む手を置くと、赤い顔を伊部に向け、
「そういえば伊部はまだ飲んでないな、1杯くらいどうだ?」
と、若干舌をもつれさて言う。
「三佐、伊部は……」
「いえ。私は結構です」
藤原の左隣に座る小田が顔を若干赤らめながらも咎める声で言い、伊部二尉もすぐに強い口調で言う。
が、
「そんなこと言わずに、チューハイ1杯くらいいいじゃない!」
横尾が赤い顔で言い、
「そうそう。全部飲まなくても、残った分はオレが飲みますよ」
上杉もニヤケ顔で言う。
「いや、でも……」
「決まりだな。すみませーん!」
伊部が返事に詰まっている間に、藤原が有無を言わせずに店員を呼び、
「ウーロンハイ1つ」
横尾が勝手に注文をしてしまう。
「ちょっと三佐!フミも!」
2人に非難の目を向ける伊部を見つつ、光秋は、
―そういえば伊部二尉って、酒は飲めないって言ってたよな。飲んだ時の記憶にいいものはないとも……大丈夫か?―
と、少し心配になる。
「そういえば、加藤と純もまだ飲んでないな。伊部のが来たら頼むか」
「三佐!それはさすがに。僕
藤原の提案に、光秋は慌てて伊部以上に強く言う。
「そうか……それならしょうがないな……」
藤原は諦めた様に言いつつ、純を見る。
見られた純は消え入りそうな声で、
「ボクも、お酒は……ちょっと……」
と、拒否の意思を示すが、ちょうど伊部のものを持って来た店員に、横尾が素早く注文してしまう。
「ウーロンハイもう1つ」
「姉ちゃん!」
純は非難の声を上げるが、
「……」
横尾は虚ろな表情を返すだけである。
伊部は自分の許に置かれたウーロンハイのグラスをしばらく眺めると、
「……じゃあ」
と、観念した様にそれを右手で持ち、軽く一口飲む。
「……二尉、大丈夫ですか?」
光秋は思わず声をかける。
「ゲホッ……大丈夫……」
咳を1つし、光秋の顔を見て答えると、伊部は食事を挟みつつまた何口か飲む。
「……」
グラスの中身が減るのに比例する様に伊部の目の焦点が徐々に合わなくなってくるのを見て、光秋はどうしても心配になる。
―本当に大丈夫かな?……―
そう思ったすぐ後に純の分も運ばれ、純は渋々といった顔でそれを飲み始める。
しばらくしの間、光秋は料理を口に運びつつ、伊部の飲酒を若干の心配を込めた目で見守る。
グラスを飲み干す頃には、伊部の目はすっかり虚ろになる。これが白色系か黄色系なら、今頃真っ赤になっているだろう。
「…………さて、そろそろお開きにしましょう」
左手首の腕時計を見ながら小田が言い、赤い気分が悪そうな顔をした藤原が、
「そうだな……すみませーん!勘定を」
と、絞り出す様な声で店員を呼び、渡された表を見て一同に言う。
「……各自、小田に3000円出してくれ……」
「えー!もう終わりっすかー!?」
もつれた舌で抗議する竹田の声を聞きつつ、光秋は右端から自分と伊部、横尾のカバンを取ってそれぞれの許に置き、自分の灰色のカバンから財布を出し、財布から千円札3枚を出して、
「お願いします」
と、小田に渡す。
集金が終わると、光秋は藤原が若干ふらつきながらも立ったのに続いて立とうとする。
と、
「……!」
伊部が左肩に寄り掛かってくる。
「二尉?」
「……ごめん、ちょっと立つの手伝って……」
「あぁ、はい」―できあがってるなぁ……―
伊部の虚ろな表情とややふらついている目を見てそう思いながら、光秋は立ち上がって伊部に右手を差し出し、それを右手で掴んだ伊部を引っ張り上げる様に立ち上がらせると、自分のカバンを右肩に斜め掛けして靴を履く。
伊部もカバンを提げて靴を履くと、頼りない足取りで出口へ向かい、光秋はそのすぐ後をいつでも手が伸ばせる心構えで続く。
「ありがとうございました」
と言う店員の声を聞きつつ、なんとか自力で外に出た伊部に光秋も続き、純、横尾、上杉、藤原、竹田とタッカーも店を出る。
危なっかしい足取りで立つ伊部の右隣に控えつつ、光秋は右前に立つ気分が悪そうな顔の純を見る。
「大丈夫ですか?」
「……なんとかね……酒ってどうも苦手で……」
「はぁ……」
大儀そうに言う純に、光秋はいま一つ実感が湧かない様子で応じる。
―飲んだことないからなぁ……―
会計を済ませた小田が出てくると、藤原は一同を見回す。
「さて、今日はこれで解散だ。各自、帰路に気を付けてな。解散」
光秋はそれに一礼で応じ、小田に左肩を支えられながら歩く藤原に続いて、左隣を頼りない足取りで歩く伊部に気を配りつつ、駅に向かって来た道を戻り出す。後ろに横尾が続く。
と、
「よーし!違う店で飲み直すぞー!」
「おー!」
直後に竹田がタッカーと肩を組んで言い、右隣のタッカーも上機嫌な声で応じる。
「ピュア!お前も来い」
「上杉!お前も付き合えよ」
「え!いやぁ、ボクは……もう結構です!」
「オレも今日はもう……て!ちょっと!?」
タッカーと竹田の誘いに、純は逃げる様に横尾の後に続き、上杉は竹田とタッカーに両腕を掴まれて藤原たちとは反対方向に連れて行かれる。
―大丈夫かな?……―
後ろに目配せしながら、光秋は3人、特に上杉の身を少々案じる。
小田と藤原を先頭に大通りを歩いている途中で、伊部と横尾はいよいよ一人で歩けなくなり、伊部は光秋に、横尾は純に右肩を支えられながら駅を目指すことになる。
駅入り口の階段を注意して下り、行きとは打って変わって人気が殆どない地下通路を進んで行く。それぞれ券売機で行き先までの切符を買って改札機をくぐり、ホームに下りる。
少ししてやってきた電車に横尾姉弟以外が乗り込み、光秋は残った2人に一礼する。
「では」
直後にドアが閉まり、走り出した人がまばらな車内で、小田と光秋は近くの席に藤原と伊部を座らせ、自分たちは2人の前に吊革を掴んで立つ。
ひと駅過ぎた頃、
「三佐、次ですよ」
光秋の右隣に立つ小田が、藤原を揺すりながら声を掛ける。
「ん?……あぁ……」
まぶたが重そうな顔で応じると、藤原は大儀そうに席を立ち、すぐ後に流れたアナウンスに従って近くの右側のドアの前にのそのそと移動する。
電車が停まり、ドアが開く。
「三佐、帰路お気を付けて」
「あぁ……」
小田の見送りに応じると、藤原はややふらつきつつも電車から降り、改札口へ向かう。
ドアが閉まり、再び電車が走り出すと、光秋は少し心配して訊く。
「大丈夫でしょうか?三佐」
「まぁ、いつも家にはちゃんと帰れてるみたいだから大丈夫だろう。それに三佐なら、非常時には酔いも吹っ飛んで対処できるさ」
「……それも、そうですね」
小田の答えに、我ながら不思議と納得する。
しばらくして光秋が降りる2つ前の駅を過ぎると、小田は伊部を揺すって声を掛ける。
「伊部、次だぞ」
「……はぁい……」
焦点のはっきりしない目で応じると、伊部は腰を浮かそうとする。
が、
「……立てません……」
虚ろな顔に若干狼狽を浮かべる。
「おいおい。だから言わんこっちゃない。お前の寮まで結構あるんだぞ。駅からなら俺よりも遠いし……」
と、小田が困った顔をしていると、
「……一尉、僕も次で降ります」
言うや光秋は、伊部を抱える様に立たせて右肩で支える。
「え?でもお前、次の次で降りるんじゃ……」
「切符代は同じです。それにこの辺は、偶に買い物やなんやで来ますし……二尉の送り、手伝います」
「そうか?じゃあ……」
小田が応じるとアナウンスが響き、それに従って光秋は、伊部を右肩で支えながら一緒に近くの右側のドアの前に移動し、小田もいつでも手が伸ばせる体勢でそれに続く。
電車が停まり、ドアが開くと、光秋はホームとの隙間に注意しつつ伊部と一緒に降り、後から降りた小田の後を追って歩き出す。
ホームをしばらく歩いて階段を上り、改札機の前に来ると、伊部を支えつつ自分と伊部から渡された切符を改札機に通してくぐり、立ち止まって先を行く小田に声を掛ける。
「一尉。これはおぶっていった方がいいかもしれません。さっき階段上った時も危なっかしかったし」
「そうか。じゃあ俺が」
「いえ、僕がやります」
歩み寄ってくる小田にそう返すと、光秋は伊部を小田に預け、自分のカバンを左肩に、伊部のカバンを右肩に提げ、腰を低くして小田に手伝ってもらいながら伊部を背負う。
「大丈夫か?せめてカバンくらい」
「いえ、大丈夫です。それに途中で別れるなら、最初から持っていた方が」
背中に適度な重さを感じつつ、光秋はそう応じる。
「……お前、一人で伊部の寮まで行くつもりか?」
「はい。そのつもりですが」
「場所知ってるのか?」
「二尉がいますから、わかります」
「でもなぁ……」
ぐったりした伊部を見ながら、小田は心配そうな顔をする。
と、伊部は重そうに顔を上げ、絞り出す様に言う。
「……一尉、大丈夫です……私まだ寝てません……」
「そうか?……それなら……」
心配顔で応じると小田は歩き出し、光秋もそれに続く。
地下通路をしばらく歩いて階段を上り、2車線道路脇の歩道に出る。右手には光秋が金銭のやり繰りに利用する銀行や、そういった用で近くまで来た時に利用するスーパーがあり、道路を挟んで向かい側の右前には明日にでも行こうと思っていた理髪店がある。いずれも閉店間際の雰囲気を出しながら夜の闇に煌々とネオンサインを光らせている。
小田が右に向かって歩き出し、光秋も伊部を背負い直してそれに続く。
「途中までは道が一緒だから案内も兼ねて行くが、本当に大丈夫か?」
光秋と伊部を見つつ、小田は尚も心配顔で言う。
「大丈夫ですよ。そうですよね?二尉」
「……大丈夫……まだ寝てません……」
「……ならいいんだが……」
2人の返事に、小田はそれ以上触れるのをやめる。
「ところで、伊部二尉って飲むといつもこんな感じなんですか?」
「いつもというか、俺もこいつが飲んでるところを見るのは、入隊祝いに無理して飲んだ時以来だからな。飲めないっていうのは、その前から聞いてたが」
光秋の問いに、小田は思い出す様に答える。
「そうなんですか」
「そもそも、あんなふうに飲み会をやったのも久しぶりだしな……竹田が所構わずもどすのを見なかった分、貴重なケースかもな」
「はぁ……」
笑みを含んで言う小田に、光秋は返事に困る。
話している間に小田の寮の前に着き、3人は足を止める。周りが暗く、充分な光もないため、光秋には3階建であること以外の特徴はわからない。
「もうしばらく真っ直ぐ行って、3つ目の路地を右に曲がる。しばらく歩くと見えてくると思うんだが……夜だしな……」
伊部の寮までの道を教えつつ、小田はまた心配顔をする。
「真っ直ぐ行って、3つ目の路地を右ですね。二尉もいますから、大丈夫ですよ。ねぇ、二尉」
応じると、光秋は伊部に呼び掛ける。
「……うん……だいじょうぶ……」
「……なら。じゃあ、またな。2人とも気を付けて。お休み」
「お休みなさい」
「……おやすみなさい……」
光秋と伊部が返すと、小田は寮の自室へ向かう。
それを見送ると光秋は伊部を背負い直し、再び歩き出す。
2人以外に出歩く者はおらず、車も殆ど通らない。
「……」
2人きりになった所為か、光秋は背中一面にかかる重さや、互いの服を挟んで伝わってくる体温、左の耳元に届く息遣い、鼻をくすぐるアルコール臭を若干含んだ口臭、と、背中の伊部を先程よりやや強く意識してしまう。
―……!いかんいかん!……えーっと、1つ目の路地越えたな……―
変な気を起さないよう自戒し、気を逸らそうと寮までの道のことを考えようとする。
と、
「……」
「?……なんです?」
伊部がもつれた舌でなにか言ったのを聞き、光秋は訊き返す。
「…………おとうさん……」
「?……」
「私、もっとがんばるから……がんばって、らくさせてあげるから……加藤くんもがんばってるし、負けてられないから……」
―……こりゃあ、酔いが頭に回ったか?それとも寝ぼけてるのか?……―「僕はお父さんじゃありませんよ」
「わかってる!」
光秋の返事に、伊部は少し怒った声で答える。
「……私、がんばるのはとくいだから……がんばってべんきょうして、士官学校入って、やっとえそに入れて、おかあさんもよろこんでくれて…………」
「…………」
喋り続ける伊部を背負い直しながら、光秋はなんともいえない奇妙な持ちを覚える。
「…………」
その後、伊部は寝入ってしまったのか静かになる。
光秋は3つ目の路地を右に曲がり、寮らしき建物を探しながら歩き続けるが、周りが暗いためよくわからない。
「二尉。寮はどこです?」
揺すって尋ねると、伊部は重そうに右手を上げ、
「……あそこ」
と、街灯に照らされている右前の門を指し、光秋はそこへ向かう。
門をくぐると、正面に3階建の建物が見え、光秋は伊部に左耳を向けて訊く。
「何階です?」
「……2階……」
答えに従って寮の玄関をくぐり、近くの階段を慎重に上る。
2階に着くと、光秋はまた左耳を伊部に向ける。
「何号室です?」
「……210号室……」
答えを聞くと左側に並ぶドアの番号を見ながら進み、「210」と書かれたドアの前で止まる。
「着きましたよ」
「……うーん……」
唸る様な返事を聞くと、光秋は膝を曲げ、背中から伊部を下ろす。
下りた伊部は右手をズボンのポケットに入れて鍵を取り出し、開錠してドアを開ける。
「……!二尉、これ」
そのまま部屋に入ってしまいそうな伊部に、光秋は慌てて右肩に提げたカバンを差し出す。
「……あ……ごめん……じゃあ、おやすみ」
「お休みなさい」
「……ありがとね……こうしゅうくん……」
「え?」
言うとすぐに、伊部は部屋に入ってドアを閉める。
等間隔に並んだ電灯の頼りない明かりがあるだけの廊下に残された光秋は、左肩に提げていたカバンを右肩に斜め掛けし、来た道を引き返す。
「……今『こうしゅう』って……いや、聞き違いかなんかだろう」
呟くと、階段を下りて玄関を出、門をくぐる。
表通りに向かって路地を歩きながら、ふと長考に入る。
―……二尉も、いろいろ大変なんだな……そりゃそうか。首席で卒業したって言ってたから、そりゃ頑張るよなぁ…………そんな伊部二尉に比べて、僕はニコイチがなきゃ……そりゃあ、訓練は一生懸命やってるし、実戦でも真剣だけど…………いや、二尉の様な人と、無取り柄で弱い僕を比べることがそもそも間違いなのかもしれない。そうだとしても、弱い者なりの自尊心は捨てたくないね……そういやぁ、前にニコイチへの依存を心配してたよなぁ……―
表通りに出たところでそんなことを思い出し、左に曲がりながら、光秋はズボンの左ポケットにあるカプセルに意識を向ける。
―……依存云々と言ってきたが、もともと人間って、道具を利用することで生き残ってきた生き物だから、道具に頼ろうとするのは、ある意味自然なんだろう。僕の場合はニコイチだけじゃなく、今掛けてるメガネだってそうだ。メガネって道具があるから、僕は常人並みの視力が得られる。問題は、それこそ頼り切ってしまうことだな。メガネの方は不可抗力だから仕方ないとして、ニコイチも道具として利用すれど、呑まれちゃいけない、か……そのためにも、呑まれないだけの強さを持つために鍛える、訓練を一生懸命する、か……道具だけじゃなく、いろんなことにいえるかもしれないが、少なくとも僕はそれをやろうとしてる。とりあえずは、それでいいんじゃないか?伊部二尉に感じたことも、それでなんとかなるような気がする…………―「あ」
伊部のことを考えて、光秋は明後日の遠出のことを思い出す。
―待ち合わせの時間と場所、訊かなかったな……―「明日、電話で訊けばいいか」
そう決めると、少しばかりすっきりした気分で、心なしか家路を急ぐ。
寮の自室に着くと、光秋は居間の電気を点けて荷物を整理し、風呂を入れながら歯を磨く。
お湯が溜まるとすぐに風呂に入り、体を洗って寝巻への着替えを終え、目薬を注し終えると、ベッドの枕元に携帯電話とカプセルを置き、自分も梯子を上ってベッドに入る。
携帯電話を開いて時計を見ると、10時55分である。
―ただでさえいろいろあったし、こりゃ明日遅起きかな……―
そんなことを思いながら灯りを消し、布団を被る。
10月3日日曜日早朝。
「…………」
耳元で鳴るアラーム音に目を覚ますと、光秋は枕元に手を伸ばして携帯電話を操作し、音を止めて時計表示を見る。
―……7時か……いい加減起きないとな……―
眠気を多分に含みつつ思うと、布団を退かしながら上体を上げ、深呼吸を一つする。
「……よく寝たな」
小声で呟くと枕元のメガネを掛け、ベッドから下りる。
―やっぱり遅起きになったか……ま、休みだからいっか……―
寝ぼけ気味な体を自覚しつつそう思うと、活動を開始する。
昨日着ていた白のワイシャツと薄黄色のズボンに着替え、朝食、簡単な自主訓練、新聞読み等を済ませると、部屋の全ての窓を開けて掃除を始める。演習中心の生活でやや疎かになっていたため、いつもやる居間の掃除機掛けやトイレ掃除、風呂掃除に加えて、普段はやらないような場所も心なしか丁寧に掃除する。
それが終わると、財布を持って散髪に出掛け、頭全体を1センチ程切ってもらい、顔中の薄毛も剃ってもらう。
寮に帰る途中でコンビニに立ち寄り、菓子パン2つと500ミリペットボトルのミルクティー1つを買い、それを昼食にする。
食後は以前買った本を読み返したり、なんとなしにテレビを見たりと、かなり脱力した時間を過ごす。
午後7時半。
夕食と入浴を済ませた光秋は、寝巻姿で居間の椅子に座り、左手に持った携帯電話で伊部に電話する。
「……」
(もしもし?)
「伊部二尉?加藤です。今、大丈夫ですか?」
(うん。どうしたの?)
「明日の金閣行きなんですが、待ち合わせの時間と場所、どうします?」
(あ、そうだった。言わなかったね……9時に、支部の前でどう?)
「9時に支部前ですね。わかりました。ありがとうございます」
(……ところで)
「はい?」
(……私昨日酔っぱらったみたいだけど、なんか変なことしなかった?)
「あー……」
言われて光秋は、背負っていた伊部がした身の上話を思い出す。
「いや、特には……」
(そう?ならいいけど……)
「特に暴れたとか、騒いだってことはなかったですよ」
(そう……ありがとう。じゃあ、明日、支部の前でね。お休み)
「お休みなさい」
言って電話を切ると、光秋はそれを寝巻の胸ポケットに入れる。
「あれは別に、『変なこと』じゃないよな…………」
呟くと、机の左前にある3段箪笥の許に移動し、その上に置いてあるテレビの電源を入れ、リモコンで適当にチャンネルを回す。
「…………!」
たまたま映った近代史の特番がツボにはまり、左耳にイヤホンをはめると、テレビの前にしゃがんでそれを見る。
午後9時。
番組が終わって机の上の時計を確認すると、光秋はテレビを消してイヤホンを外す。
―明日は早いし、寝よう―
ベッドに梯子を掛けて用を足し、戸締りを確認して床に着く。
10月4日月曜日午前8時40分。
6時に起床して朝食等を済ませた光秋は、赤チェックのワイシャツに緑のズボンを着、左手首に時計と数珠を巻いてズボンのポケットに小物を入れる。
「さて、行くか……」
呟くと、右肩に灰色のカバンを斜め掛けし、灰色の靴を履いて自室を出る。
出てすぐに、門の周りを掃除している寮の管理人に会う。
「あれ?加藤さん。今日は非番?」
「はい」
白髪を蓄えたツナギ姿の老人が京訛りの語調で問い、光秋は一礼しながら応じる。
「さては、いい人と?」
「そんなんじゃないですよ」
からかう様な管理人の言葉を受け流すと、一礼して京都支部に向かう。
―……そういや、夏の間いなかったことも、『いい人と』ってことにされてたもんなぁ。一応『仕事で』とは言っておいたが……―
歩きながら、ふとそんなことを思い出す。
さて、次回は光秋と伊部が事実上のデートをします。
どのような展開になるかお楽しみに!