白い犬   作:一条 秋

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114 姉妹の時間

 入浴を終えた光秋は浴室を片付けてから脱衣所に出て、温まった体に寝間着を着て居間へ戻る。

 ドアを開けると、先に入浴した伊部姉妹が寝間着姿で待っていた。

 

「やっぱり、一緒に入ればよかったんじゃない?時間も減るし」

「まだ言うか……」

 

 入浴前から続く綾の小さな執念に、光秋は呆れを通り越してある種の感心さえ感じてしまう。

 

「だってぇ……」

「裸の付き合いなんて、まだまだできないよ」

 

 むーっと頬を膨らませる綾を見ながら腰を下ろすと、光秋は首に提げていたタオルで濡れた髪を拭く。

 と、四つん這いで近寄ってきた綾が、光秋の肩に顔をすり寄せてくる。

 

「ちょっ、今髪乾かしてるから。というか、犬かお前さんは」

「いいじゃん、これくらい。お風呂ダメだったんだし。それに、犬はアキもじゃん。わんわんっ」

 

 動きにくさに髪を拭いていた手を止めて言う光秋に、綾はますます気分が乗ってきた様子で応じる。

 

「まったく…………」

 

 そんな子供じみた態度に呆れる一方、互いの体全体を使った触れ合いに、光秋はこの上ない安心感を抱いた。

 すり寄ってくる綾をテキトーにいなしながら髪を乾かすと、光秋は冷蔵庫から目薬を取り出す。

 

「それ、いつも使ってるよね」

「まぁねぇ。初めて注し始めたのが小学生の頃で、以来ときどき種類は変わっても、ずっと注し続けてるな」

 

 綾に応じながら目薬を終えると、光秋はそれを冷蔵庫に戻す。

 

「そんなに続けて、よくならないの?」

「まぁ、もともと治療のための薬じゃないからな。どっちかっていうと、これ以上悪化させないための薬っていうか。そもそも僕の場合、生まれつきこうだからな。こういうふうに作られて生まれてきたっていうか」

「作られてって……」

「まぁ言い方はあれだったけど……でも、遺伝子っていう生物の設計図があって、『こう作りなさい』っていう情報に従って生き物が形作られてるのは確かだろう?僕の場合、『目はこういうふうに作りなさい』ってなってたんだろうさ。超能力の有無は遺伝で決まるって話もあるだろう?あれと同じだよ」

「ふーん…………?」

 

 いまいち釈然としない顔を浮かべながらも、綾は一応の返事をした。

 

「やっぱり、いろいろ大変?」

「たまーにね。というか、さっきからどうした?僕の目のことばっかり訊いて」

「別に。ただアキのそういうとこ、ちゃんと聞いてこなかったなーと思って」

「そうだっけ?」

「そうだよっ」

 

 首を傾げる光秋に、綾はムッとしながら肩を小突いてきた。

 

「っ…………」

 

 そんなたわいのないやり取りが、それを綾と直接向かい合いってできることがあまりに嬉しくて、光秋の顔に浮かんだ微笑みはなかなか消えなかった。

 

「……とりあえず、そろそろ寝るか」

「えー。もう?」

「疲れたんだよ。なんやかんやでもうすぐ日付も変わるし。とりあえず歯磨いてくる」

 

 不満そうな綾に机の上の時計を指さしながら応じると、光秋は脱衣所へ向かう。

 そこの水盤で歯を磨いていると、少しして法子もやってくる。

 

「確かに、今日はちょっと疲れたかもね」

 

 こちらは光秋に同意を示すと、持参してきた歯ブラシを取り出す。

 

―ホント、これだけ見てると同棲だよな―

 

 水盤に備え付けられた鏡に並んで映る自分と伊部姉妹の姿に、自分たちの曖昧で不安定な関係を充分承知しながらも、光秋は歯ブラシを咥えた口を緩めずにはいられなかった。

 “三人”そろって磨き終えると口をすすぎ、居間へ戻る。

 と、

 

「……っ!?」

 

居間に足を踏み入れた瞬間、光秋は突然バランスを崩し、膝を着きそうになる。

 

「!大丈夫っ?」

「あ、あぁ……」

 

 咄嗟にその背中に手を伸ばした法子が崩れかけた体を支え、光秋は何もない所で転びそうになったことに戸惑いながらもそれに応じる。

 

「おかしいな。なんで……」

「本当に疲れてるみたいだね。早くベッドに入ろう」

 

 きちんと立ち直りながらも未だ困惑の目で足元を見やる光秋に、法子はベッドを示す。

 

「…………そうですね」

 

 それに深く頷きながら梯子を上り、法子もそれに続く。

 光秋が奥の側に詰めて横になると、法子が照明を消し、“三人”で1枚の布団を被る。

 

「…………」

 

 横になってはみたものの、何もない所で転びかけたことへの戸惑いから未だ抜け出せない光秋は、伊部姉妹に背を向けて先程のことを考えていた。

 

―疲れてる自覚は確かにあった。だから明日はゴロゴロしようなんて言ったんだ。でも、自分の部屋の、それも足を引っかけるようなものなんて何もない所で転びそうになるなんて…………そんなに疲れが溜まっていたんだろうか?―

 

 今日一日を含め、ここ数日そんな気配など微塵もなかった。それ故に、無自覚な不調に対する恐怖が少しずつ湧いてくる。

 伊部姉妹が背中に身を寄せてきたのは、そんな時だった。

 

「っ!」

 

 突然の密着に心臓を跳ね上げたのも束の間、伊部姉妹は脇かから手を伸ばし、それぞれで光秋の手を包むように握ってくる。

 

「…………法子さん?綾?」

「今日は、ゆっくり休んで」

 

 さっきまでとは別の戸惑いから一先ず持ち直した光秋に、法子と綾は柔らかな声でそう返した。

 

「あたしたちがいるから」

「…………あぁ」

 

 続く綾の一言に、一瞬前まで慌ただしかった胸中が急速に凪いでいくのを感じて、光秋はさっきの疑問への答えを得たような気がした。

 

―慣れない指揮とか、環境の変化とかで、疲れてたのは確かなんだろう。それこそ自分が思ってる以上に。でも、それが今になってさっきみたいに現れたのは…………法子さんと綾が、こうしてすぐそばにいてくれてるから――安心しているから、なんだろうな―

 

 思うと同時に光秋の方から伊部姉妹に体を寄せ、背中越しにその実感を確かめる。そうすることで自覚した安心感はますます増していき、単なる疲労によるものとも違う、心地いい眠りに(いざな)われていった。

 

 

 

 

 最初に感じたのは、痛みにも似た喪失感だった。

 

―…………?―

 

 唐突に湧いたその感情に、光秋は戸惑いながらも目を開けると、自分が京都にいた頃に住んでいた寮、その近くの道を歩いていることに気付く。

 

―これは…………―

 

 見えている光景もさることながら、全身を包むように感じるどこか懐かしい感覚の正体を探ろうとしていると、不意に口が開く。

 

「アキ……アキっ……」

―……綾?―

 

 光秋の意思と関わりなく漏れた悲しみの声は、綾のものだった。

 続いて、胸の奥から法子の“声”がかかる。

 

―綾、そのくらいにして……―

 

 戒めるように告げるその“声”にも、綾にも劣らない湿度があった。

 

―あぁ。これは……―

 

 自分自身が綾や法子の視点で周りを見聞きし、あるいは内面に浮かんだことをさも自分が思ったように感じるこの感覚に、光秋は夏の終わり頃に綾とテレパシーで深く繋がった時のことを思い出す。

 

―法子さんたちが近くにいるから……あるいはたまたま波長が合ったのかな?引っ越し当日に別れた後の“二人”の記憶が流れ込んできてるのか―

 

 自身が体験していることの正体に納得したのも束の間、綾の噛み付くような“声”が届く。

 

―法子は寂しくないのっ?アキとしばらくお別れするんだよ!?―

―寂しいに決まってるよっ!でも、仕方ないことだし…………それに、約束してくれたから。『また“ここ”に帰ってくる』って。だから、寂しくはあっても、泣くほど悲しくはないよ―

 

 そう返す法子ではあったが、胸の奥の喪失感が和らぐことはなかった。

 しかしそれを強引にでも抑えて、法子の“声”は告げる。

 

―だから私は――私たちは待ってなくちゃいけないの。光秋くんが帰ってきた時、ちゃんと迎えてあげられるように。その為には、日々の業務を無事にこなし続けなくちゃいけないの。いつまでもめそめそしてたら、事故って怪我して、光秋くんに余計な心配かけちゃうでしょ?―

―…………そう……だね。そうだ―

 

 そう言われて綾もいくらか落ち着いてくると、体を法子に代わる。

 綾が目の端に浮かべていた涙を拭うと、法子は綾の時よりもしっかりした足取りで京都支部へ向かった。胸の中に湧き続ける喪失感を押し殺して。

 

―…………あの後に、こんなことが…………―

 

 同じ頃に最後の荷造りをしていたことを思い出しながら、光秋は伊部姉妹の悲しみとそれを耐えようとする気持ちに、自分の意識の中の奥歯を噛み締めた。

 

 

 

 

 光秋の引っ越しから10日後。伊部姉妹の中の喪失感がなくなりはせずともある程度落ち着いてきた頃。

 今日も無事に勤めを終えて寮に帰ってきた法子に、綾がじれったそうに言ってくる。

 

―ねぇ、今日はいいでしょう?電話しても―

―うーん、10日か………―

 

 返事を迷う法子は、壁にかけたカレンダーに目のやり場を求める。

 

―まぁ、さすがにそろそろいいかな?向こうの生活にも慣れた頃だと思うし……それに…………―

 

 言いかけて、法子はこの10日の間に散発的に感じた胸騒ぎを思い出す。綾を通じて光秋とのテレパシーを感知している身としては、ずっと気がかりではあったのだ。

 

―とりあえず、かけてみようか。ただ、疲れてるようだったらすぐにやめるからね―

―うん―

 

 綾が頷くと、法子は手にした携帯電話を光秋に繋ぐ。

 スピーカーの向こうからすでに懐かしく感じる声が響いたのは、すぐのことだった。

 

(もしもし!?)

「こんばんは光秋くん!今大丈夫?」

 

 多少動揺を含みながら返ってきた声に、伊部姉妹はそろって嬉しくなり、法子の応じる声も思わず弾む。

 

―あの時か…………―

 

 東京に移ってから初めてきた伊部姉妹からの電話。それを法子たちの側から見ていることに、光秋は奇妙な感覚を覚えた。

 簡単な近況報告、光秋の“次の人”談義、最近あったとりとめのない話題の語り合いと、光秋の記憶にもある通りに会話は続き、一言交わすたびに法子と綾の喪失感が徐々に薄れていくのを感じる。

 

―…………同じだったんだ。法子さんと綾も―

 

 同じ会話で自分が久しぶりの充実感を得たように、伊部姉妹も同じ――あるいは近しい感情を抱いてくれていたことが、光秋は無性に嬉しかった。

 

 

 

 

 それから数日後。

 食堂にて藤原隊一同と昼食を摂っていた法子は、たまたま目を向けたテレビのニュース映像に唖然とする。

 

「光秋くん!?……っ!」

 

 思わず上げた声に周りの視線が向けられて恥ずかしさを感じながらも、画面の中でDDシリーズと戦うニコイチからは目が離せなかった。

 

―あぁ、これは……―

 

 遠くから撮影されたらしいその映像を法子の目を通じて観る光秋は、これが修了試験で赴いた工場地帯での戦闘だと理解する。

 同時に、伊部姉妹の中に急速に不安が広がっていくのを感じる。

 

―アキ……アキが、戦った?DDシリーズと!?―

 

 特に綾の動揺は凄まじく、法子に体の主導権がある今であっても表情に表れてしまいそうな勢いがあった。

 

「…………」

 

 それを法子はなけなしの理性でどうにか防ぐものの、その胸中は決して穏やかではなかった。

 

―帰ったら、連絡しよう―

 

 再開した食事もどこか上の空ながら、その決意だけはしっかりと刻んでいた。

 

 

 

 

 寮に帰宅後、法子は電話してほしいというメールを光秋に送り、待っている間に気持ちを落ち着かせようと風呂に入る。

 温かい湯舟に肩まで浸かっていると、綾が“声”をかけてくる。

 

―アキ、大丈夫だよね?―

―うん。大丈夫だよ。お昼にハルちゃんも言ってたでしょう。電話で話したけど元気そうだったって―

 

 半分は自分に言い聞かせるつもりで応じながら、法子は昼食の後にかかってきた親友からの電話を思い出す。

 

―ハルちゃんを助けるために出てきた、か…………―

 

 その時春菜から聞いた光秋の行動理由を思い出すと、相変わらずの不安に混ざって、なんともいえない嬉しさ、あるいはもっと強い感情が湧いてくる。

 

―……法子、嬉しいの?―

―ん?あぁ……嬉しい……といえば嬉しいかな―

―アキが危ない目に遭ったのにっ?―

―うん。それも確かにそうなんだけど……―

 

 “声”に険を含ませてくる綾をなだめながら、法子は自分の気持ちを整理する。

 

―なんて言うかなぁ…………光秋くんが、私の大切な人の一人のハルちゃんを助けるために動いてくれた。そのことが、すごく嬉しいんだよ。嬉しいっていうか……私の大切な人を助ける為に、自分から動いてくれた。()()()()()()()()()()()()()()()()。それが、凄く誇らしいんだよ―

―…………―

 

 言葉にすることで自分の気持ちを実感する法子に対し、光秋への心配が大部分を占めている綾にはいまいち理解できない心境だった。

 話している間に充分温まると、体を洗って浴室を出る。

 寝間着に着替えて髪を乾かしながら待つことしばし。テーブルに置いていた携帯電話が振動するや、すぐに手に取って通話ボタンを押す。

 

「あ、光秋くん?」

(法子さん?メール見ました。今大丈夫ですか?)

「うん。さっきから待ってたとこ」

 

 久しぶりに聞く光秋の声に、法子の口は応じる間にも少しずつ緩んでくる。

 と、その口が今度は綾の言葉を発する。

 

「アキッ!!」

(綾……元気そうだな)

 

 返答こそ短いものの、頬が緩んでいることがわかる光秋の声音に、綾の口元も笑みに歪んでいく。

 

(それで、話ってなんです?)

「うん……」

 

 光秋が案の定の質問をしてくると、法子は表情を引き締め直し、本題に入る。

 それでも話す内になけなしの不安は解消され、不意に湧いたイタズラ心で光秋をからかって、相変わらずな反応に安心の笑みを浮かべる。

 

「ちょっとアキっ!法子とばっか喋り過ぎっ!!」

(悪い悪いっ。お前さんともご無沙汰だなぁ)

 

 それがどこか面白くない綾が、相手には見えないことがわかっていながら頬を膨らませて言い、光秋がなだめるように応じる。

 それから言い溜めていたことを言い切ってスッキリし、なにより会話を通して光秋の安全を実感して、綾の顔にも昼以来の安堵が浮かぶ。

 

(あ、そういえばさっき電話があって、研修試験合格だって)

「よかったじゃない!……おめでとうっ!」

 

 思い出したように光秋が告げると、法子と綾はその頑張りが報われたことへの喜びを込めた言葉を送る。

 しかし歓喜も束の間のことで、今日のような機会がこれからも増えるだろうと光秋が不安混じりに告げた現実に、法子も綾も言葉をなくしてしまう。

 

(……あの、法子さん?……綾……?)

 

 その沈黙が効いたのか、声に不安を増した光秋に、姉妹を代表して法子が決意を込めて応じる。

 

「……私、近い内にそっちに行くからさ」

(?……いきなりなんです?)

 

 突然の宣言に困惑する光秋を敢えて無視して思っていることを伝え、綾もそれに続くと、“二人”の想いを察したらしい光秋の返事が返ってくる。

 

(ちゃんと迎えられるようにしいておく…………それこそ、()()()()()()()()()に遭ってもなっ)

「うん…………」

 

 光秋の方も決意を込めたその言葉に、伊部姉妹は短いながらも気持ちが伝わった喜びを込めて電話越しに頷いた。

 そこで法子が時間を確認して話しを切り上げようとすると、了承した光秋の方から電話は切られる。

 律儀に鳴り続ける電子音に名残惜しさを浮かべたのも少しのこと、今言った決意を再認識した上で肩の力を抜いた法子は、おもむろにテレビを点け、たまたま映ったバラエティー番組をぼんやりと視聴し出した。

 

―会いに行くの、楽しみだね―

―うん。楽しみだ―

 

 画面を眺めながら綾に応じるその顔には、決意を実行しようとする強い意志と、それ以上に楽しみができたことへの喜びが浮かんでいた。

 

―…………“二人”も、今日のことを楽しみに待ってくれてたんだ。それと法子さん、僕のことを『誇らしい』って…………―

 

 浴室での会話を思い出して、光秋は照れ臭さを感じた。

 

 

 

 

 その日、東京行きを見据えて溜まっていた仕事をいくらか片付けた法子は、京都支部の食堂で一人遅い夕食を摂っていた。

 

「…………」

―法子、大丈夫?―

 

 疲れた体に坦々とうどんを入れていく中、綾が不安そうに訊いてくる。

 

―うん。ごめんね。そっちにまで疲れ感じさせちゃって―

―それは別にいいけど……―

―とりあえず、もうひと頑張りってとこかな。それで仕事が片付けば、いよいよ―

 

 綾に応じながら進捗具合を思い返し、終わる見通し、それによる東京行きが現実味を帯びてきたことに、顔色に活気が戻ってくる。

 東京の住宅街にZCのメガボディが現れたというニュースが流れてきたのは、その時だった。

 テレビには携帯電話かなにかで撮影したらしい映像が流れ、民家が建ち並ぶ中でニコイチと3本爪を備えたヘラクレスが対峙している様子が映し出される。

 

―あぁ、これは…………―

 

 それが催眠能力者通り魔事件の時の戦闘だと光秋は察し、それまで殆ど食べることに集中していた法子、そして綾の注意がテレビに向く。

 

―またか…………―

 

 DDシリーズがいないからか、心配にはなったものの、法子の不安は以前程ではなかった。

 一方、綾の方は、

 

―アキが、また…………っ―

 

今は法子が体を制御しているにも関わらず、僅かに箸を持つ手が震えるほどに、その胸中には困惑が渦巻いていた。敵の種類など関係なく、「光秋が危険な目に遭った」という事実こそが恐怖を掻き立ててくる。

 

―綾、落ち着いて―

 

 力を込めて手の震えを止めると同時に、法子はやや強い調子で胸の中に言う。

 

―だってアキが!―

―光秋くんなら大丈夫。ニコイチならあれくらいの相手はどうってことないし、現に負傷者が出たってアナウンスもなかったでしょう?―

―……でも…………―

―帰ったらまた電話しよう。ね?―

―…………うん―

 

 説得に綾が渋々応じると、法子は早口でうどんで平らげて、速足で家路についた。

 

 

 

 

 帰宅後、法子は気持ちを落ち着かせようとまず風呂に浸かった。

 

―法子、アキに電話……―

―上がってからね。光秋くんだって、事後処理とかで遅くなってるだろうし―

―…………うん―

 

 焦りがちな綾が渋々応じると、充分温まった法子は体を洗い、寝間着に着替えて居間へ向かう。

 手早く髪を乾かすとテーブルのそばに腰を下ろし、携帯電話を耳に当てる。

 

(もしもしっ?)

 

 数回の呼び出し音の後に聞こえた光秋の声は、思った以上に元気そうだった。

 

「光秋くん?今いい?」

(はい。ちょうど落ち着いたとこで……住宅街の件、ですか?)

「うん――アキ、大丈夫だった?」

 

 向こうも察した様子で本題に入ろうとするや、綾が携帯電話をひったくるイメージを伴って体を代わり、夕食時以来溜め込んできた不安をマイクに吹き込んだ。

 

(綾か……うん。大丈夫だよ。ちょっと危ない目にも遭ったけど、なんとか無事だ)

「よかったっ…………」

 

 いつもと変わらない様子で光秋の言葉が返ってきて、綾は強張っていた肩を緩めて安堵の声を漏らす。

 

―よかったっ…………―

 

 もっともその中には綾だけでなく、こちらも多少の不安を抱いていた法子の想いも混ざっていた。

 

(その……この前といい、いつもありがとな。心配してくれて)

「当たり前じゃんっ!…………ごめん。怒鳴っちゃって」

 

 そう言ってきた光秋になぜか腹が立って、気付けば怒ってしまった綾は慌てて謝る。

 

(いいよ…………当たり前、か…………)

 

 特に気にした様子もなく光秋はそう応じ、そこからはとりとめのない世間話という名の近況報告が続いた。その間も、綾は先程の自分の反応が引っかかっていた。

 

―あたし、なんでなんなに怒っちゃったんだろう…………―

 

 冷静になって考えれば、光秋は自分のしたことにお礼を言ってくれたことはすぐにわかる。しかしわかってもなお、そんな一歩引いたようなというか、自分を遠くに感じるような態度が、どうしても面白くなかった。

 光秋の“声”が聞こえてきたのは、そんな時だった。

 

―やっぱり、法子さんと綾と話すと楽しい……けど…………声だけで、触れられないんだよな…………ちょっと前までは、毎日でも触れられたのに…………今だって、なりふり構わず会いに行けば触れられるのに…………―

 

 肌寒さを感じさせる“声”は頭の中にニコイチのカプセルを思い浮かばせ、綾は唐突な危機を感じた。

 

「会いに行くからっ!」

(!?)

 

 それは法子も同じだったらしい。“二人”同時に直感的に浮かんだ言葉を叫ぶと、危機感は風に流されるように消えていった。

 

「今月末、会いに行くからさ…………」―だから、“そこ”にいてよ…………―

 

 それでも拭い切れない不安に、綾は押し止める意思を込めてそう続ける。

 

(……わかってる…………待ってますっ)

 

 スピーカーから確かな意思を乗せた光秋の声が返ってきて、ようやく伊部姉妹は安堵した。

 直後に遅い時間になっていることに光秋が気付き、今回の通話は終了となる。

 切った携帯電話をテーブルに置くと、綾は先程の光秋の様子を思い返していた。

 

―…………アキ、寂しそうだったね―

―うん……でも、もうちょっとだから―

―…………そうだね―

―そのためにも、明日も仕事頑張らないとっ―

―そうだね…………―

 

 法子の現実的ながらも前向きな言葉に頷くと、綾は法子に体を代わり、寝る準備を始める。

 それを伊部姉妹の視点で眺めながら、光秋は思った。

 

―綾のやつ、あの時のことをこんなに心配してくれてたんだ…………あの時の出来心を、こんなふうに思ってたんだ…………―

 

 労いに対する感謝の気持ちを忘れたわけではなかったものの、その背後に自分が思っていた以上に強い想いがあったことに少し圧倒され、同時にそこまで想われたことが嬉しくてたまらなくなった。

 

 

 

 

 催眠能力者通り魔事件、およびそれに絡んだZC騒動の電話から数日が経った頃。

 その日も法子は、藤原隊の待機室の隅で黙々と仕事を片付けていた。

 出動がかかったのは、そんな時だった。

 藤原たちに続いて車に乗り込み、現場に急行すると、NPとZCのメガボディ同士が路上のど真ん中で取っ組み合いを演じていた。

 

―これって、さっき法子さんが話してた……―

 

 ロブスターでの会話を思い出しながら、光秋は伊部姉妹の目を通じて状況を観察する。

 メガボディの種類はフラガラッハと、ヘラクレスの防御強化型たるイピクレス。すでに火器や剣の類を使い切ったのか、互いをひたすら殴り合っている。

 流れ込んできた法子の記憶によれば、別の場所で発生したNPによるZCの隠れ家攻めの戦闘が拡大し、交戦に夢中になった2機がここまで来てしまったらしい。

 しかしパイロットたちの思惑がどうであれ、10メートルの巨人同士の殴り合いは周囲に大きな余波を与えていた。弾け飛んだイピクレスの装甲板が近くの民家に突き刺さり、反撃にと突き飛ばされたフラガラッハがビルに激突して壁が崩れ、見ている間にも両側の建物が次々と倒壊していく。

 巨人たちの鳴らす地響きと崩れた建物が巻き上げる砂煙に追い立てられた人々が悲鳴を上げて逃げていく中、法子は藤原の指示に従ってそれらを誘導する。

 

―メガボディ同士の戦闘って、あんなに激しいんだ…………光秋くんは、いつもあんなのの真っ只中にいるんだよね―

 

 パニック寸前の避難者たちに声をかけながらイピクレスとフラガラッハの戦いを横に見た法子は、ふと両機の間に光秋の乗るニコイチを幻視する。

 その時、フラガラッハの右腕が付き出され、イピクレスがそれを払い除ける。至近距離からイピクレス目掛けて放たれるはずだった手首の機銃はあらぬ方向へ向けられ、ばら撒かれた弾丸が法子たちの方へ飛んでくる。

 

「!」

―!?―

 

 突然の窮地に法子は――そしてそれを見ている光秋も――一瞬固まるものの、咄嗟に入れ替わった綾が念壁を張って流れ弾を防ぎ切り、周辺にいた避難者たちも含めて事なきを得る。

 

―ありがとう綾―

―ぜんぜんっ。ここで怪我なんかして、アキに会えるのが遅くなったら嫌だからね―

 

 胸をなでおろしながら礼を言う法子に、綾は少し震えながらも強い意志を乗せた“声”で応じる。

 そうしている間に特エスらしき者たちが数人駆けつけ、2機のメガボディを包囲するのを見るや、法子は周囲に逃げ遅れた人がいないことを確認して退避した。

 背後から抵抗と思しき轟音が響き続ける中、走りながら綾が言ってくる。

 

―怖かったね。さっきの戦い―

―うん―

―……あの時テレビに映ってたアキも、やっぱり怖かったんだよね―

―……そうだろうね。光秋くん、なんだかんだで臆病だから―

 

 工場地帯の戦闘と催眠能力者通り魔事件の時の映像を思い浮かべる綾に、法子は普段の光秋の性格を思い出しながら頷いた。

 

―東京行ったら、せめてあたしたちがいる間は安心させてあげないと―

 

 そのやり取りを受けて、綾は胸の中で小さく決意した。

 そして一連の光景を見た光秋の胸には、困惑と喜びが渦巻いていた。

 

―ロブスターでは大したことないような言い方だったけど、流れ弾とか結構危なかったじゃないか!それなのにっ……それなのに、僕のことを優先的に考えてくれて……安心させてあげなきゃなんて言ってくれて…………―

 

 綾が今回の訪問に抱いていた想いを知って、胸が熱くなると同時に、昼間の罪悪感を思い出して少し痛んだ。

 

 

 

 

 月末まであと数日という頃。

 狙い通りに仕事を終わらせた法子は、すっかり暗くなった帰り道を疲れを感じさせない軽い足取りで歩いていた。

 

―仕事はだいたい片付いたし、休みの申請もちゃんと通った。切符もとれた―

―いよいよだねっ!―

 

 指を折って1つ1つ確認すると、綾が顔に浮かびそうになる程の笑みで言ってくる。

 

―準備万端!あとはアキに連絡するだけ。早く電話しようよ!―

 

 寮に戻ってくるやさらにはしゃぐ綾に、法子は時計を見ながら、努めて落ち着いて返す。

 

―7時過ぎか……念のため、まずメールさせて―

 

 言うと携帯電話を取り出し、光秋に向けて『今電話してもいいですか?』と送信する。

 少しして、『すみません。今はダメ。都合がつき次第こっちからかけます。』と返ってくると、綾はじれったそうに膨れた。

 

―むー。早く言いたいのにぃ……―

―仕方ないよ。光秋くんにも用があるんだし。待ってる間に片付けちゃおう―

 

 言うと法子は提げていたカバンの中身を整理し、部屋着に着替えてぼんやりテレビを見ながら光秋からの着信を待つ。

 しばらくして振動音が響くと、法子はテーブルの上に置いた携帯電話を取る。

 

「もしもし?」

(法子さん?お待たせしました)

 

 スピーカーから聞こえた光秋の声は、どこか安堵を含んでいた。

 

「うんうん。私の方は大丈夫」

(すみません。ちょうど夕飯にしようと思ってた時で。それで、今回はどうされたんです?)

「あ、うん。実はね――」

 

 そのまま要件を言おうとした矢先、綾が待ちきれないとばかりに口を動かした。

 

「25日の夜、そっちに行くことになりました!」

(!25日っ?)

 

 返ってきた声には多分な驚きが含まれていて、電話の向こうで目を丸くしている様子が想像できた。

 

(……来週の金曜日か)

「うん」

 

 少し間を置いて落ち着いた声が返ってくると、口を取り戻した法子は当日の大まかな予定を伝える。

 

「仕事終わってすぐに向かって、電車の都合も考えると、東京駅に着くのは8時過ぎかな」

(じゃあ、その日迎えに行きます)

「え?いや、でも」

 

 思わぬ申し出に、法子は微かに喜ぶものの、それ以上に申し訳なさを覚える。

 

「悪いよ。光秋くんだって仕事終わりで疲れてるだろうし」

(そこまで軟じゃないですよ。それに東京駅から僕の寮の最寄り駅まで乗り継ぎとかちょっとややこしいし……それに…………)

「それに?」

(……とにかく、当日は東京駅まで迎えに行くので。改札の近くで待っててください。それじゃあ、当日楽しみにしてます)

「あっ――」

 

 応じる前に光秋の方から通話は切られ、法子は事務的な電子音を鳴らすだけになった携帯電話を耳から離す。

 

―そうだった。この後、すぐに切っちゃったことを後悔したんだっけ……―

 

 光秋が当時のことを思い出していると、綾が不満の“声”で言ってくる。

 

―法子ばっかりズルい!あたしももっと話したかったのにっ!―

―そう言われたって、光秋くんの方から切っちゃうから……―

 

 法子も法子で不満を返すと、携帯電話をテーブルに置く。

 

―でも、本当にもうすぐだから。来週になれば、好きなだけ話せるからさ―

―…………そうだね。話せるどころか、一緒にいろんなことができるんだし―

 

 半分は自分を鼓舞するつもりで呟いた法子の言葉に、綾も期待を抱いて素直に頷いた。

 

―…………法子さんと綾も、同じ気持ちだったんだ―

 

 ちょうど同じ時、東京の寮で自分も似たようなことを考えたことを思い出して、光秋は胸が熱くなった。

 

―……“二人”は、こんなことがあって、こんなことを想って、その果てに、僕の所へ来てくれたんだ…………―

 

 同時にこれまで視てきたことの一部始終が脳裏を駆け、目頭が熱くなるのを感じた。

 

 

 

 

「…………」

 

 ゆっくりと目を開けて最初に感じたのは、目の端が薄っすら濡れていることだった。

 ぼんやりした頭で反射的に目元を拭うと、目の前に伊部姉妹が横たわっているのに気付く。

 

「どうしたの光秋くん?涙なんか流して」

 

 薄っすら開けた目でそう訊いてくる法子だが、その目元にも涙の跡があった。

 

「法子さんこそ…………視ましたか?」

 

 その理由がなんとなくわかった光秋は、目元をそっと拭ってあげながら訊き返す。

 

「うん。光秋くんがあれからどんなふうに過ごしてきたのか、どんな気持ちだったのか、私たちが今回ここに来ることが、光秋くんにとってどういうものだったのか…………」

「……僕もです」

 

 思った通りの答えに頷いて返しながら、光秋は伊部姉妹を抱き寄せる。

 

「他にも、いろいろ視ました。死にかけるような思いをしたのに、それでも僕のことを真っ先に考えてくれて……僕のことを『誇らしい』と思ってくれて…………っ」

 

「ありがとうございます」と続くはずの言葉は、しかし強烈な嗚咽に喉が詰まって言えなかった。

 未だ思考がまとまり切らない中、止めどなくいろんな想いが溢れ出てきて、光秋は伊部姉妹がここに確かにいることを少しでも明確に感じ取ろうと、回した両腕に力を込めることしかできなかった。

 それに応えるように、伊部姉妹も回した腕に力を込め、綾が涙声で言ってくる。

 

「あたしも知ってるよ。アキがどんなに怖かったか、どんなに大変だったか、どれだけ一生懸命だったかっ…………あたしたちとの時間をどれだけ大切に思ってくれたかっ!」

「……うんっ……うんっ!」

 

 最後の方は叫びに近い声で言われると、未だに喉が詰まっている光秋はひたすら深く頷いた。

 それから少しして互いに落ち着いてくると、光秋と伊部姉妹は回していた腕を解き、涙を拭う。

 

「…………すみません。なんか、感極まっちゃって」

「私も……こんなに思いっ切り泣いたの、いつ以来だろう?」

 

 冷静になったせいか、感涙に震え合っていた先程までの自分たちを振り返って、光秋と法子は気恥ずかしくなった。

 それも少しして引いてくると、光秋の中には伊部姉妹が今回の東京行きに抱いていた想い、それを知ったが故の新たな罪悪感が湧いてくる。

 

「それと……昼間のこと、改めてすみませ――」

「それはもう言いっこなし」

 

 反射的に言おうとした謝罪は、法子に人差し指を口に当てられて遮られてしまった。

 

「私たちだって悪かったんだし、ずっと言ってたら切りがないでしょう。だから、この話はもうおしまいっ」

「…………それもそうですね」

 

 薄々感じていたことを強い調子で言われてしまってはこれ以上言い返すこともできず、かといって完全に目が覚めてしまったためにすぐに寝直すこともできそうにない光秋は、別の話題はないものかと今視た伊部姉妹の記憶を振り返ってみる。

 

「…………」

 

 そうして浮かんできたのは、伊部姉妹の視点から見た入浴風景だった。

 

―――って、バカか僕は!そんなの話題にできるかっ!―

 

 思わず自分を張り倒したくなったものの、一度浮かんできた光景――特に褐色の肌を映したもの――はなかなか頭から離れず、何度も瞼の裏にちらついてくる。

 そしてその心境は、伊部姉妹には筒抜けだった。

 

「…………あ、あのさ……アキ」

「――はいっ?」

 

 迷いながらも声をかけた綾に、光秋は肌色の記憶を押し込む試行錯誤を一旦止めて応じる。

 

「その、さ……どう、だった……?」

「…………どうって?」

 

 綾にしては珍しい歯切れの悪い言い方に、嫌な予感を感じつつも思わず訊き返してしまう。

 

「だから…………あたしの――あたしたちの裸…………」

「…………あー……よかった、と、思います、よ…………?」

 

 予想していた答えを視線を逸らしながら言う綾に、光秋は話し方を忘れたような口を強引に動かしてどうにか返す。

 

「ッ!!」

 

 瞬間、目を固く閉じた綾は、顔を光秋の胸に叩きつけるように押し付けてきた。

 暗さで細かな表情こそはっきりわからないものの、密着したことで伝わってくる微かな震えから、羞恥に悶えていることは察することができた。

 

「そんなに恥ずかしいなら、訊かなきゃいいのに……」

「だってっ……だってぇ…………アキが頭の中でぐるぐるさせてるから……」

「それはすまない」

 

 顔を合わせずに言われたことがあまりに図星だったので、光秋は謝ることしかできなかった。

 

「……もっとも僕としては、お前さんに羞恥心があると知ったことが、今回一番の驚きかもな」

「どういう意味!」

 

 感じたままを素直に呟くと、綾はようやく顔を上げ、三角にした目を向けてくる。

 

「いや、だって、会ってすぐのころは、裸見られても平然としてたし…………」

 

 そう答える光秋の頭に浮かぶのは、綾の精神がまだ幼かった頃、不注意から着替えの途中を覗いて一糸まとわぬ背中を目撃してしまった時だった。

 

「いつの話っ!」

「それに今だって、機会があれば風呂に入ろうって誘ってくるし……」

「それは…………」

 

 心外だと言わんばかりに詰め寄る綾だったが、そう返されると途端に言い淀む。

 

「それは?」

「……だから、そのー…………アキと入りたいからで、別に変な意味は…………あぁんっ、もうッ!」

 

 ぼそぼそと応じると、綾は再び光秋の胸に顔を押し付ける。

 

「…………」

 

 答えには今ひとつ納得できなかったものの、頬を膨らませながらも自分に身を寄せてくる綾が愛おしくて、光秋はそっとその体を抱きしめた。

 と、綾と交代した法子が思い出したように言ってくる。

 

「私も、さっきのこと思い出して思ったんだけどさ。光秋くん、思った以上に大変だったみたいだね」

「そりゃあ、畑違いの仕事でしたからね。慣れるまでは……いや、今もって四苦八苦の日々ですよ」

「だろうね……訓練中、テレポートで落としたカプセルにつまずいたりしてたし」

「それは言わないでくださいッ」

 

 なんとなしに法子が挙げた実例に、今度は光秋が恥ずかしさに悶える番となった。桜たちの主任になって間もない頃に行った曽我との摸擬戦、そこでの失敗を思い出すと、今でも穴があったら入りたくなるのだ。

 

「…………そこまで?」

「そこまでなんですよ」

 

 思った以上に激しい反応に困惑する法子に、光秋は被った布団の隙間から気まずそうに顔を覗かせて応じる。

 

「ふーん?」

 

 その様子に法子は愛おしそうな笑みを浮かべ、光秋の頭をそっと撫でた。

 

「…………」

 

 その子供をあやすような仕草に照れ臭い憤りを感じるものの、同時に法子に触れられることへの安心感や嬉しさもあって、光秋は先程までとは質の異なる恥ずかしさに悶えながらもしばらく撫でられるままに任せた。

 と、法子の目付きが、一瞬綾のそれに変わったのを感じ取る。

 

―…………こいつ―

 

 法子が慈しむような目をしていたのに対し、綾はどこか挑戦的な尖りを帯びていた。その目が「お返し!」と言っているのを察した光秋は、不意に湧いた対抗心に突き動かされるままに伊部姉妹の頭をくしゃくしゃと撫でまわす。

 

「ちょっ、光秋くんっ……アキっ!」

 

 戸惑う法子と反撃を試みようとして果たせない綾にかまわず、光秋は頭を撫で続ける。

 

「……ふっ…………ふふふっ、はははぁっ!」

 

 そんなことをムキになってしている自分が可笑しくて、なによりも伊部姉妹とこうして触れ合えている今がとても嬉しくて、気付けば声を出して笑っていた。

 

「もうっ…………ふふっ」

 

 ようやく撫でまわしから解放されて膨れたのも束の間、光秋につられて伊部姉妹も笑い出し、“三人”分の笑い声が響いた。

 

「「ははははははっ――」」

 

 それが数十秒程続いたところで、隣の部屋から壁を強く叩く音が響き、水を打ったように“三人”は笑うのをやめる。

 

「「すみません…………」」

 

 聞こえているかはわからいが、一応壁越しに謝っておく。

 

「「…………ふっ。ふふっ!」」

 

 そんなしょうもなさまでが無性に可笑しくなって、今度は声の大きさに気を付けながら再び笑い合った。

 しばらくすると笑い疲れたのか、少しずつ声は治まり、“三人”は再び眠りについていった。

 

「「…………」」

 

 互いに向け合った寝顔は、最初に寝付いた時よりも穏やかで、何よりも楽しそうなものだった。


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