白い犬   作:一条 秋

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113 食い違い、確かめ合い

 車窓を流れる景色を貧乏ゆすりをしながら眺めること30分程。最寄り駅の名前がアナウンスされるや、もともとドアのすぐ横の席に座っていた光秋は跳ねるように移動し、減速が始まった車内でドアが開く時をまだかまだかと待つ。

 普段より長く感じる数十秒の後、ようやくドアが開くと駆けるようにホームに降り立ち、待機室を出発した時のように――あるいはそれ以上に俊敏な足取りで寮を目指す。

 

―駅を出た。あとはこの道を真っ直ぐ行って――よしっ、寮が見えてきた――ドアまであと1メートル!―

 

 普段無感動に通っている、そしてお世辞にも長いとはいえない道も、その先に伊部姉妹が待っていると思えば部屋に近付いていることを示す景色一つ一つが鼓動を速めていく。

 ドアノブを回すという当たり前な動作にさえも妙な力が籠り、ついに自室にたどり着いたと認識した途端、自分のものとは咄嗟に思えないほどの朗らかな声が出た。

 

「ただいまっ!」

 

 自分の口から発せられたその何の変哲もない言葉に、しかし高揚を続ける光秋のまだ辛うじて冷静な部分が感動を覚える。

 

―『ただいま』。帰ってきた時――()()()()()()()()()()()()にかける言葉……こんなに素敵な言葉だったんだ!―

 

 思う間にも廊下を速足で過ぎ、居間のドアを開けると、コタツに籠っている法子がこちらを見返してくる。

 

「おかえり。お昼は?」

「まだです。それなんですけど――」

「それじゃあ」

 

 「これから食べに行きませんか?」と続けようとした光秋を遮って、コタツから出た法子は台所へ向かうと、さっきは気付かなかったが鍋の乗った電気コンロのスイッチを押す。

 

「温っためるだけだから、手洗って待ってて」

「いや……あー…………」

 

 その様子にすでに昼食を用意していたと察した光秋は、気まずさと煮え切らなさの中で言いかけた言葉を呑み込んだ。

 

「……じゃあ、そうさせてもらいます…………!そうだ。それ食べたらどっか行きませんか?法子さんと綾の、東京で行ってみたい所」

 

 代わりに新たに思い付いたことを告げるも、法子の反応は薄い。

 

「え?いいよ。光秋くん休日出勤の帰りだし、普段の仕事だってただでさえ大変なんだから、今日くらいゆっくり――」

「僕のことなんて大丈夫ですよ。休日出勤っていっても、そこまで大したことはしなかったし。それより、せっかく法子さんと綾がいるんだ。家に籠ってないで、どっか遊びに行きましょうよ!」

 

 伊部姉妹と久しぶりに楽しい時間を過ごしたい。今回来ることを聞いてからずっと抱いていた願望を端的に、やや強い語調で告げるが、言われた法子は視線を落とし、長髪が目元を隠す。

 刹那、

 

「…………なんで」

「?」

「何で、そんなこと言うのっ!」

 

顔を向けたかと思うや法子――というよりも綾は大声をあげ、端に涙の浮かんだ目でこちらを睨む。

 

「何でって……?」

 

 唐突に向けられた怒りに光秋が困惑する間にも、綾は構うことなく続ける。

 

「普段大変だから、あたしたちがいる時くらいゆっくりしてもらおうと思ったのに!大変だってわかってるけどいつもはどうすることもできないから、せめて今だけはって思ってるのに!何でそれをわかってくれないのッ!!」

 

 叫ぶや綾は玄関へ駆け、突き破らんばかりの勢いでドアを開けて出て行った。

 

「…………」

 

 勢いよく開けた反動で強く閉まったドアの音が響く中、残された光秋は茫然と伊部姉妹が出て行ったドアを見つめる。

 

「……何でって…………」

 

 少ししてどうにか頭が回り出すと、不条理ともいえる怒りをぶつけられたことへの苛立ちが湧いてくる。が、それを上回るように浮かんでくるのは、怒声と同時に感じた綾と法子の気持ちだった。

 

―会えない寂しさ、元気でいるかすらわからない不安、昨今の情勢から否が応でも抱いてしまう心配…………それらを感じながら、何もしてあげられない無力さ――()()()…………僕が「会いたい」って強く思っていたように、法子さんと綾もいろいろ思ってたってことか?―

 

 断片的で、整然としておらず、しかしその一つ一つが鮮烈に脳裏を過るたびに、光秋は伊部姉妹にとってこの2ヵ月半がどんな時間だったのか、未だ理解し切れていないことが多いのを承知で考えを巡らせてみる。

 

―…………考えてみれば、ここ最近“二人”と話す時といえば、電話越しのわずかな間だけだった。そのくせ、綾のテレパシーは――正確な感度こそわからんが――僕の感じたこと、抱いた気持ちを、その一部でも拾ってしまっていたらしい。加えて、意識してなくても入ってくる物騒なニュース……さぞ心配だっただろう。でも何かしてあげられるわけでもなくて、悔しかっただろう。その上で、ようやく久しぶり会えると思った日に今日の試験。法子さんと綾からすれば、近くにいる今だからこそ労おうとしてくれたってことか。そしてそのことを僕がよく考えず、安易にあんなことを言ってしまったがための、この状況か…………―

 

 思いつつ、独りきりになった室内を改めて見回してみる。

 

―もっとも、こんなふうに比較的冷静に考えられるのも、綾のテレパシーのおかげってことなんだろうな。考えるための手掛かりをくれたっていう。そうでなきゃ、今頃どうなってたか……―

 

 そんな不安を抱いたのも数秒のことで、漂わせていた視線をドアに据え直すや、光秋は浮足立っていた気持ちを整えようと意識して強い声を出す。

 

「とりあえず今すべきは…………追いかけるかっ」

 

 言うと同時にドアへ駆け、ノブに手をかける。

 直後、

 

「!いっけね!」

 

鍋を電気コンロにかけたままだったことを思い出して慌てて引き返し、電源を切ったことを充分に確認すると、今度こそ伊部姉妹を追うために部屋を出た。

 

 

 

 

「――とは言ったものの…………」

 

 部屋を出て5分程が経過した頃。ひとまず寮の周囲を歩き回った光秋だったが、いっこうに伊部姉妹が見付からないことに途方に暮れていた。

 

―よくよく考えたら、東京で法子さんたちが行くあてなんて…………あ、春菜さんのマンションがあったか。その場合、春菜さんにも後で怒られるのかな…………―

 

 法子を泣かせた、その為に鬼の形相となった春菜を想像して、割と本気で震えた。

 

「さて、どうしたものか…………」

 

 それが春菜の件に対してか、それとも伊部姉妹の件に対してか、自分でも曖昧な呟きを漏らすと、なんとなしに一軒家や集合住宅が建ち並ぶ周囲を見回してみる。

 

「…………?」

 

 鼻をすするような“音”を“聞いた”のは、そんな時だった。

 

「…………」

 

 もともと聞こえにくい耳を可能な限り澄ませて音源を探るものの、そうすると途端に聞こえなくなってしまう。だというのに、「悲しんでいる」という感覚だけは今も強い確信となっていた。

 

「この感じ…………まさか……」

 

 思い出すのはほんの数分前、怒鳴ると同時に綾が発した気持ち、それを受け取った時の感覚だった。

 

「…………」

 

 アパートを出て以降、焦りやら罪悪感やらでどこかごった返していた気持ちを、呼吸を整えることで鎮め、入ってくる感覚に意識を集中する。

 そのなんとも曖昧な、しかし不思議と信じられる感覚に従って、よりはっきりと感じる方へ進んでいく。家と家の間、細い路地を何度か曲がっていくと、気付けば申し訳程度の砂場とブランコが設置された小さな公園に出ていた。

 

―アパートの近所にこんな場所があったんだな…………―

 

 住宅街の只中に隠れるように設けられた公園に感慨を漏らしたのも束の間、2つあるブランコの一方に腰を掛けた人影に、光秋はゆっくりと、しかししっかりと相手を見据えて歩み寄る。

 

「…………法子さん、綾」

「…………」

 

 そっと声をかけると、腰掛けていた人影は顔を上げ、伊部姉妹がこちらを見返してくる。

 

「……なんで、こういうことはわかるかな……」

「すみません……“二人”の感じがこっちからして、辿ってきたら着いたというか…………」

 

 部屋でのやり取りを受けてだろう。皮肉げに投げかける法子に、光秋は気まずくなりながら返す。

 

「その…………さっきは、すみませんでした」

 

 それでも固まってしまいそうな口を動かして、いの一番に言うべきことを言いながら頭を下げる。

 

「考えが足りなかったというか……“二人”の気も知らずに、勝手なこと言って……」

「…………それは、あたしもだよ」

 

 顔を上げながらそう続けると、今度は綾が視線をそらして言い辛そうに言ってくる。

 

「アキがあたしたちと会うの楽しみにしてたって、わかってたはずなのに……だから遊びに行こうって言ってるんだって、わかってたはずなのに…………」

 

 言う間にも、綾の目元が少しずつ潤んでくる。

 

「でも、それは僕の体を気遣ってくれたからだろう?」

「それは、そうだけど……」

「僕は、そんなことにも考えが及ばずに……」

「いや、でもあたしだって――とりあえず、この話はここまでにしない?堂々巡りになっちゃうから」

「……そうですね」

 

 薄々感じ始めていたことを綾と代わった法子に言われて、素直に頷いた光秋は隣のブランコに腰を下ろす。

 

「なんていうか……踏んだり蹴ったりですね、僕ら。お互いがお互いのことを考えて行動したはずなのに――僕の方は我欲が強かったかもしれないけど――、それが上手く噛み合わなくて、こうしてすれ違って。綾がテレパシーでいろいろ“聞かせて”くれなかったら、もっとこじれてたかも…………」

 

 呟きながら自身の慮る力のなさを実感して、光秋は自分が少し嫌になる。

 

「それこそお互い様だよ。私や綾だって、寮ではあぁ言ったけど、光秋くんに何もしてあげられなかったのが悔しくて、機会がきたから料理とかしただけで……今思い返すと、押し付けみたいになってたよね」

「そんなことは!」

 

 法子の自分を貶めるような発言に、光秋は叫んだ勢いで立ち上がっていた。

 直後、

 

「……!」

「光秋くん?――アキッ!?」

 

急に足元をふらつかせて倒れるようにブランコに座り直す光秋に、今度は伊部姉妹が立ち上がって正面に駆け寄る。

 

「どうしたのっ?やっぱり疲れが溜まって――」

「いや…………腹、減った」

 

 さっきまでの憤りなどすっかり忘れて心配一色の顔で問い掛ける綾に、光秋は感じるままを正直に答えた。

 

「…………え?」

「いや、よく考えたら、昼飯食ってなかったなぁって…………さすがにそろそろ限界というか……」

 

 目を丸くする綾にそう続けるも、空腹を自覚した声からは徐々に力が抜けていく。

 

「…………」

「……すみません。こんな時に……」

「!あ、ううんっ。それは別に…………そうだよね。今お昼なんだもんね……」

 

 場違いなことを言わなければならないことに情けなさを感じる光秋に対し、それを聞いた綾の、そして法子の顔からは少しずつ力が抜けていく。

 

「とりあえず、部屋に戻ってお昼にしよっか」

「そうしてもらえると」

 

 伊部姉妹を探し出すという目的を果たし、そこに生理的欲求も加わった光秋には、法子の申し出はとてもありがたいものだった。

 自分でも頼りない足取りでどうにかブランコから立ち上がり、寮へ向かおうと歩き出そうとすると、なにも言うことなく左隣に歩み寄ってきた伊部姉妹が、そっと手を差し出してくる。

 

「…………」

 

 光秋もなにも言うことなく手を伸ばし、また離れてしまわないように強く握ると、“三人”は寮へと戻った。

 

 

 

 

「すぐに()っためるから、手洗って待ってて」

「お願いします」

 

 部屋に着くや自分も台所の水盤で手を洗って鍋を再度温める法子に応じると、光秋も脱衣所の水盤で手を洗って居間のコタツにもぐる。

 少しして法子も居間にやってくると、持ってきたどんぶりを光秋の前に置いて行く。もくもくと湯気を立てるその中身は、野菜がたくさん盛られたうどんだ。

 自分の分も持ってきた法子が隣に座ると、光秋は早速手を合わせる。

 

「いただきます!」

 

 法子に頭を下げながら言うや、熱さに注意しつつ麺を口へ運ぶ。空腹ということも手伝ってか、醬油ベースのスープが絡んだ程よい歯ごたえのそれは食欲を刺激した。

 

「どうかな?」

美味(うま)いですっ」

 

 自分も食べながら訊いてくる法子に即答する間にも、光秋は麺に続いて具材の野菜、特に白菜を重点的に咀嚼し、味と食感に口を楽しませる。

 

「…………さっきの話だけどさ」

「……さっき?」

 

 箸を一旦止めて告げる法子に、光秋も口の中の分を呑み込んで訊き返す。

 

「ほら、この後遊びに行こうって話」

「いいんですか?反対してたのに」

「反対っていうほどでもないけど……私たちはそもそも光秋くんの体を気遣って言っただけで、本人が行きたいっていうなら行くのもありかなって…………私だって、べつに行きたくないとかじゃなくて、むしろ行けるなら行きたいっていうか…………」

 

 先程の口論を思い出してか、法子の態度はどこかよそよそしいというか、バツが悪そうだった。

 が、光秋はそんな様子さえ愛らしく思えて、つい口元を緩めてしまう。

 

―こんな法子さんが見られるなら、さっきのケンカもよかったかな?―

 

 思わずそんなことまで思ってしまう。

 

「じゃあ、食べ終わったら行きましょうよっ。どこに行きます?」

「そうだなぁ…………」

 

 それからは、うどんをすすりながら午後の予定について語り合った。

 

 

 

 

 昼食を食べ終え、その片付けを終え、出かけるための準備を整えると、光秋と伊部姉妹は一先ず最寄り駅へ向かう。

 

「行き先、本当に渋谷でよかったんですか?」

「うん。私も光秋くんの言ってたお店、行ってみたいし」

 

 食事中の会話で光秋がロブスターのことを話すと、伊部姉妹、特に法子も興味を示し、それなら店が開くまで近くを観光しようと、行き先が渋谷になったのだ。

 

「でも法子さん、酒飲めないけど、本当に大丈夫なんですか?」

「ソフトドリンクもいろいろあるんでしょう?……現に小さい子たちとも一緒に行ってたんでしょう?」

「いや、そうだけど……」

 

 綾のどこか棘のある視線に、思わずたじろぐ。

 その間にも駅に着くと、渋谷までの切符を買って改札をくぐる。

 

「やっぱり、カード作ろうかな……」

「毎日乗るならねぇ」

 

 言いながらホームに出て、少しして入ってきた電車に乗り込む。

 車内を見回すと座席は殆ど埋まっており、辛うじて空いていた1人分のスペースを見付けるや、伊部姉妹を連れて速足で向かう。

 

「法子さんどうぞ」

「いいよ。光秋くん座りなよ」

「いいからっ」

 

 譲ってくる法子の肩を押してやや強引に座らせた直後に電車は走り出し、光秋もすぐに近くの吊り革を掴む。

 

「…………なんか、異動前の遠出でもこんなことあったよね」

「ありましたっけ?」

「あったよ。1つしかなに席に私を強引に座らせたこと。あの時はバスだったけど」

「……ありましたっけ?」

「あ、もしかして忘れてるっ?」

「いや、そのぉ…………」

 

 頬を膨らませる法子に、しかしどうしても法子が言っている時のことを思い出せない光秋は、また怒らせてしまったか?と不安がりながら目のやり場を車窓から見える景色に求める。

 

「…………」

 

 流れていく街並みをぼんやりと眺めていると、不意に既視感が湧いてくる。

 

―法子さんたちを座らせて、窓の景色を眺める……街並み――いや、あの時は歩道を行き交う人たちを…………あっ―

「やっと思い出したね」

 

 それでようやく法子の言っていた時のことを思い出し、察した法子が膨らみの引いた顔で言ってくる。

 そのすぐ後に電車は駅に停まり、何人か降りて座席にも空きが生まれる。

 

「ほら」

 

 自分の隣が空いたのを見るや法子は手を引いてきて、光秋は引かれるままにその隣に座る。

 

「そのぉ……すみませんでした。すぐに思い出せなくて」

「まぁ、確かにちょっと頭きたけど……そこまで怒ってないよ」

 

 小さい棘が刺さった様な罪悪感から詫びる光秋に、法子は肩に顔を寄せ、微笑みを浮かべて安心させてくれた。

 

 

 

 

 何度かの停車を挟みつつ走り続けること数十分。電車が渋谷駅に着くと、光秋と伊部姉妹は席を立ってドアへ向かう。

 

「はぐれるといけませんから」

「うん」

 

 言いながら、光秋と伊部姉妹は差し出し合った手を繋ぎ、開いたドアから人波の荒いホームへ降りる。油断すればすぐに大勢の人に紛れてわからなくなってしまいそうな中を進む“三人”の手は、互いの指と指を絡めてしっかりと握られている。

 光秋先導の下に改札をくぐり、地下の駅構内から階段を上って地上へ向かうと、ここ最近ですっかり見慣れたスクランブル交差点の近くに出る。

 

「うわぁ、人が……」

「あぁ。僕も初めて見た時、そうなったよ」

 

 ホーム以上の人の往来に圧倒される綾に、光秋自身初めてこの光景を直に見た時のことを思い出す。

 

「そういえば、この前ここで予知の阻止したんだよね」

「はい。桜さんたちのお陰もあってなんとか」

 

 ニュースかなにかの記憶を受けて言ってくる法子に、その時の正にギリギリの光景を改めて思い出した光秋は、今更ながら少し震えた。

 

「……さて、さすがにまだ早すぎますよね」

 

 気を紛らわすことも兼ねて腕時計を確認する。時刻はもうすぐ3時になろうとという頃だが、ロブスターに行くにはまだ早い頃合いだ。

 

「じゃあ予定通り、その辺見て回ろうっ」

「だな。とりあえず、こっちに行ってみるか」

 

 うきうきした顔で応じる綾に返すと、光秋はロブスターに続く細い道へ向かった。

 

 

 

 

 伊部姉妹の手を引いて商店の合間を歩く中、光秋は建ち並ぶ店の1つ1つを普段よりよく眺めていた。

 

―普段はロブスター目指してそそくさと行っちゃうけど、こうしてよく見ると、いろんな店が並んでるんだなぁ―

 

 服屋に小物屋、海外の料理店にチェーンのファストフード店など、多種多様な店が途切れることなく並び、その間を活発に行き来する人の流れに、スクランブル交差点への圧倒感とも違う、どこか浮つきそうな気持ちが湧いてくる。

 

「なんというか……改めて見ると活気がありますよね。渋谷」

「何度か来たんでしょう?」

「来たことは来たけど、いずれも日が暮れてからだったから、今みたいに周りがよく見えなかったし、一緒に来た人たちとはぐれないように必死だったから、こんなふうに雰囲気をじっくり味わう余裕ありませんでした」

 

 法子の問いに答えながら、光秋はさっきから感じる気持ちに既視感を覚える。

 

―そういえばこの気持ち、どっかで感じたような…………あっ―

 

 考えを巡らせていると、不意に昔の光景が脳裏をよぎる。

 

「どうしたの?」

「あぁいや、この街の雰囲気、何かに似てるような気がしてたんですけど、地元の縁日のそれかなぁって」

「また独特の感じ方だね」

「自分でもそう思います……でも、なんだろうなぁ。左右に途切れなくいろんな店があって、そこを大勢の人が楽しげに行き来して……自分の中でこの雰囲気に一番近いものが、それだったから……もちろん、縁日は年に1回だし、出店としっかりした建物に入ってる店舗とじゃ規模も全然違うことはわかってますけど…………」

 

 言いながら、自分でも独特と思える感じ方に気恥ずかしくなってくる。

 

「…………そういうものなの?」

「そういうもの……だと思うけど。どうした?」

 

 法子に代わってどこか浮かない顔で訊いてくる綾に、顔を寄せながら問う。

 

「あたしは、縁日とかよくわからないから……」

「っ」

 

 その一言に綾の境遇を思い出した光秋は、今の発言が迂闊だったと悔いる。

 

「わからないっていうか、法子の思い出からどんなものかはなんとなくわかるよ。でも今アキが言ったふうには感じられないっていうか……知ってる()()っていうか……」

「…………」

 

 地面に視線を落としながら言い続ける綾を見て、なんともいえない空虚さを感じた光秋は、それを埋めるように一層強く手を握った。

 

「いつか行こう」

「行くって?」

「縁日。京都に戻ってきた後とか、また岩手に里帰りした時とか、とにかく夏になれば全国どこかしらでやってるんだ。それに行けばいいさ」

 

 手に込めた力を引き写すように、明確な声で言ってみせる。

 しかし、

 

「……まぁ、その『いつか』をいつと言えないのが、今の状況なんだけど……」

 

先行きが不透明な自身の今後を思い出して、少し不甲斐なくなる。

 

「…………うんっ!」

 

 そんな不甲斐なさに頭を掻く光秋に、綾は笑顔で頬を寄せてきた。

 

「…………」

 

 その“返答”こそが、光秋には百の言葉以上に安心を与えてくれた。

 

 

 

 

 街中をあてどなく歩き続けてしばらく。歩き疲れた“三人”は近くの喫茶店に入り、テーブル席に向かい合ってひと休みしていた。

 

「改めて歩いてみると、渋谷ってけっこういろんな店があるんですね」

 

 これまで巡った場所を思い浮かべながら、光秋は抹茶ラテのカップ片手に呟く。

 

「そりゃあ、東京……ううん、日本でも有数の繁華街だからね。知らなかったの?」

「いや、今まで来ても飲み屋しか行かなかったから実感が湧かなかったというか……さっきの綾じゃないけど、知ってるだけだったというか……」

 

 カプチーノを飲みながら訊いてくる法子に、光秋は自分の視野の狭さを指摘されたような気がして、気まずさから傍らの窓に視線を逃がす。

 その窓の向こうには、今も途切れることのない人の行き来があった。

 

「それにしても、やっぱりすごい人ですよね。ついこの前、あんな騒ぎがあったのに」

「それを光秋くんたちが防いだからこそ、今日のこの光景があるってことでしょう。私もニュース見たけど、山手線そのものは無事だったからすぐに運転再開できたって」

「まぁ、今思い返しても、本当にギリギリでしたけどね……」

 

 言いながら、光秋は陸橋を支える柱に迫る地面の亀裂を思い出す。

 

「それと、『たち』って言っても、実際に頑張ってくれたのは桜さんたちですよ。菊さんが気付いて、菫さんが陸橋から遠ざけて、桜さんが押さえ込んで……あと、徳川さん――こっちで知り合った警察の人がEジャマー持ってきて、後から来た他の隊の人たちが抑制剤打って救急車で運んで……僕はその間、殆ど棒立ちでしたから…………」

 

 その時の自分の行動、特務部隊主任として上手く動けていなかったことを思い出して、どこかやり切れなくなってくる。

 

「それでも、ちゃんと指示は出してたんでしょう?」

「そりゃそうですけど……」

「だったらいいんじゃない?少なくとも主任としての最低限のことはやったんだし。それに、その後の騒ぎでは、流石に棒立ちってわけにもいかなかったでしょ?」

「そりゃあ……まぁ……」

 

 帰り途中のNPとZCの抗争のことを言っているのだと察して、確かにその時は激しく動き回っていた光秋は一先ず頷く。

 

「やっぱり、主任になっても現場でニコイチ乗ってるんだ?」

「そりゃあ、僕はニコイチありきの人材みたいなもんですからね。それこそ超能力者との併用も視野に入れての異動だったみたいだし。実際主任になってからは、桜さんたちと一緒に戦うことが殆どですよ…………そういや、対メガボディ戦の演習、そろそろ真面目に計画しないと――!すみませんっ。今する話じゃなかったですね……」

 

 思わず漏れてしまった、今一番すべきではない仕事の話に、光秋は滑った舌を軽く噛む。

 

「……ふっ!」

 

 それに対し、法子は柔らかな笑みを浮かべた。

 

「?」

「いや、だってさ……今、確かに主任の顔してたから」

 

 笑いの意図が読めない光秋に、法子は微笑んで、どこか誇らしげに答える。

 

「そりゃあまぁ……主任ですから」

「そうなんだけどね。光秋くんが“こっち”に来てからずっと見てる身としては、なんていうかなぁ…………『大きくなったなぁ』って」

「…………保護者ですか?法子さんは」

 

 その表現に対する、率直な感想だった。

 

「いいでしょう?光秋くんは一応私の彼氏なんだから、立身出世を喜んだって」

「立身出世って……いや、喜んでくれるのは、僕としても嬉しいですけど」

 

 そう言われては光秋に返す言葉はなく、あまつさえ頬が緩みそうになる。

 

「…………あたしは、こうしてまた会えたことが、ただ嬉しいけどね。あれだけ危ないことがたくさんあった後で、こうして無事でいてくれたことが」

「綾…………」

 

 法子が浮かべていた笑顔を消して、一言一句を噛み締めるように告げる綾に、光秋も緩みかけていた頬が引き締まる。

 

「……ごめん。今の重かったよね」

「いや、無事が何よりって、その感じ方は正しいと思う。実際、よくこうして五体並べてここに座ってられるなって、そういう日々だったからな」

 

 修了試験という名目でのZCとNPの抗争鎮圧に始まって、行った先でのDDシリーズ3機との遭遇戦、催眠能力者通り魔事件での犯人逮捕、その途中のZCとの小競り合い、先日の渋谷での予知阻止、そして帰りに遭遇した抗争の鎮圧と、振り返ってみれば、今言葉にした思いは強まるばかりだ。

 

「だから、ありがとな。そういうふうに――会えたことがただ嬉しい、なんて言ってくれて」

 

 言うと光秋は、無意識に、そうすることが当たり前といわんばかりに、綾の頭を撫でていた。

 

「…………アキ?」

「!わ、悪いっ。最近ついた癖で……」

 

 独特の心地よさと少々の困惑を乗せた綾の声に、自分のしていることを意識した光秋は慌てて手を引っ込める。

 

―いかんなぁ。ここんとこ菫さんたちにこうしてたせいか?―

 

 撫でていた右手を眺めながら自己分析を試みていると、不意に正面から痛覚を刺激するような視線を感じる。

 視線の元は、当然綾だった。

 

「いや、ほらっ、最近小さい子たちと関わる機会が増えたから……」

「まだ何も言ってないんだけど?」

 

 僅かな沈黙さえも耐えられずに早口で告げると、綾は多少険の引いた声で応じてくれる。その間も、念力で光秋の髪の毛を引っ張ることは忘れない。

 

「ここんとここうしてた、ねぇ?」

「ちゃんと“聞いて”るんじゃないかよ……」

「あたしだって、アキの仕事はわかってるつもりだよ。でも、それはそれっていうか、やっぱり面白くないっていうか……」

 

 言いながら、今度は綾が不貞腐れた顔を窓に向ける。

 

―……まっ、これもこれで綾か―

 

 その様子からは昼の一件のような不安は感じず、むしろ久々に見る綾の一面に、光秋は髪を引っ張られながら和んでいた。

 

 

 

 

 お茶を飲み終えて店を出ると、日はだいぶ傾いていた。周囲が徐々に暗くなっていき、それを薄めようとするかのように周りの建物からは照明やネオンサインの明かりが漏れ出し、渋谷が夜の街に移行しつつあることを視覚的に感じさせた。

 

「そろそろ行くか」

 

 周囲の風景から腕時計に目を移してそう告げると、光秋は伊部姉妹の手を引き、これまでの記憶と今日の散策である程度ついた土地勘を頼りにロブスターへ向かう。

 

「えっと……こっちかな?」

 

 駅から直行する普段と違って、おおよその位置関係を頼りに進む足はどこかぎこちなく、曲がり角に差しかかるたびに周囲を確認してしまう。

 それでもどうにか見覚えのある通りに出て少し進むと、ハサミを強調したエビの看板を掲げた店が見えてくる。

 

「ここです。この店」

「へぇ、ホントにロブスターなんだ」

 

 看板を見た法子が真っ先に浮かんだ感想を告げると、“三人”は店のドアをくぐる。

 

「いらっしゃあい。おぉ、コウくん」

「どうも。また来ました」

 

 早速カウンターの向こうから出迎えてくれた店主の子規に、光秋は店の雰囲気に胸躍らせながら返礼する。

 

「今日はまた見ない顔のお連れさんだね。もしかして彼女さん?」

「まぁ、そんなとこです」

「~♪やるね!」

 

 法子と綾の間で揺れている都合上、素直に「そうです」と答えられないのが心苦しい光秋であったが、そこまで知るよしもない子規は関心した様子で口笛を返してくる。

 

「……あぁ、法子さん。こちらこの店の主人の、海老原子規さんです。子規さん、こちら僕の知り合いの、伊部法子さん」

「はじめまして。法子といいます」

「こちらこそ。子規です」

 

 光秋の紹介に、法子と子規は互いにお辞儀を交わす。

 

「…………」

 

 それを見ながら、光秋は綾を紹介できないことに胸を痛める。

 

―一応、あの体はもともと法子さんのだし、社会的にもそう認知されている。だから、今の紹介は間違ってはいない。間違ってはいないが…………どの道、詳しく説明するといろいろややこしいだろうし、子規さんくらいならこの辺が妥当か……?―

 

 そう思うことで少し強引に胸の疼きを抑えると、「まぁ座って」と勧める子規に頷いてカンター席の隅に腰を下ろす。法子もその左隣に座る。

 

「じゃあ……とりあえずウーロン茶を。法子さんは?」

「私もそれで」

「はーい。少々お待ちを」

 

 手元のメニューを見ながら一先ずの注文を告げると子規は奥に引っ込み、光秋は少し歩き疲れた体を申し訳程度の背もたれに預ける。

 

「なんか、気さくな店主さんだね」

「えぇ。僕はけっこう好きですよ、子規さん…………人柄が好きだっていう意味であって、他意はないから。だから耳引っ張らないでいただけませんでしょうか?綾さん」

「ま、そうだろうとは思ったけど……」

 

 言うと綾は光秋の耳を引っ張っていた念力を解き、若干ツンとした顔で店内を見回す。

 

「でもなんていうか、お店の雰囲気も確かにアキ好みかもね」

「そういうのわかるのか?」

「なんとなくだけどね。あんま広くなくて、落ち着いてるとことか」

「さすがだな」

 

 自分が気に入っている所を的確に挙げてくる綾に、小さく称賛の声が漏れる。

 と、子規が2つのグラスを持って戻ってくる。

 

「はい、ウーロン茶2つね」

「ありがとうございます」

「俺は奥の方にいるから。注文があったら呼んで」

 

 光秋の礼を聞くや、子規はグラスを置いて再び奥に行ってしまう。

 

「……忙しいのかな?全然混んでないけど」

 

 子規とも話したかった光秋は不満そうに呟きながら、自分たち以外誰も来ていない店内を見回す。

 

「カップルが二人きりのところを邪魔しちゃいけないって、気を遣ってくれたんでしょう」

「そういうもんですかね?」

「たぶんね。それよりも」

「あぁ」

 

 言いながら法子はグラスを持ち、それを見て光秋も自分の分を手に取る。

 

「「乾杯ッ」」

 

 互いに合図をすることなく、息を合わせてグラスを鳴らすと、一口飲みながら法子は自虐気味に呟く。

 

「私くらいの歳なら、こういうお店に来たら洒落たカクテルでも頼むところなんだろうけどねぇ」

「そんなの人それぞれでしょう。自分が楽しいと思うようにやればいいじゃないですか。それはそうと、料理頼むの忘れてましたね」

 

 それに返すと、光秋は壁に張られたメニューを見、法子もその視線を追う。

 

「なんにします?」

「うーん……じゃあ、唐揚げとポテトサラダ。光秋くんは?」

「僕もそれで。すみませーん」

 

 頼むものが決まるや光秋は奥の方へ声をかけ、すぐに「はーい」と言いながらやって来た女性店員に注文を告げる。

 ウーロン茶を飲みながらしばし待っていると、まずポテトサラダが運ばれてくる。

 

―……ポテトサラダか……―

 

 頼んだ時はなんでもなかったが、実際に来た実物をみて、光秋はふと初めてこの店に来た時のことを思い出す。

 

「……どうかした?」

「!あぁ、いえ。ちょっと思い出しちゃって。初めてここに来た時のこと」

 

 小皿に取り分ける手を止めて訊いてくる法子に応じると、光秋も自分の分を取り分ける。

 

「あの時も確か、ポテトサラダ頼んだなぁって。それと唐揚げも」

「よく覚えてるね」

「なんか、印象に残っちゃって……あ、唐揚げといえば」

 

 そこまで言って、光秋はあの日の桜と菫のことを思い出す。

 

「この店で初めて唐揚げ食べた時、桜さんができたてを思いっ切りかじって、すごく熱がったことがあったんですよ」

「……うわぁ、確かに熱そう」

 

 言いながら浮かんできたその時の桜の様子が伝播したらしい。綾は痛々しげな顔を浮かべる。

 

「でなんですけど、その後菫さんも同じようなことして熱がって。目の前で起こった失敗を繰り返すなんて、しっかり者の菫さんらしくないなぁって…………あの、綾さん。今度の本気じゃありませんっ?」

「…………」

 

 藪から棒に念力で引っ張られだした右耳と、再会以来一番のその強さに光秋は慄くものの、当の綾はそっぽを向いて無言で引っ張り続けるだけだった。

 そこに、子規が唐揚げを持ってやって来る。

 

「あれ?確かホウコさんじゃなかったっけ?」

「!え、えぇっ。法子さんですよっ」

 

 先程の叫び声が聞こえたらしい。確認する子規に、光秋は強く言い切る。

 

「でもさっき、確か『アヤ』って……」

「聞き違いじゃないでしょうか?ねぇ、()()さん」

「……うん。私も『法子』って呼ばれた気が」

「そうかなぁ…………」

 

 2人分の意見に、子規は煮え切らない様子を見せつつもそれ以上追及することはなく、唐揚げを置いて奥へ戻っていく。

 

「…………」

 

 そんな子規の背中に少々の罪悪感を乗せた視線を送りつつ、光秋は綾へ意識を向ける。

 

―ごめんな。隠すような――否、『ような』じゃないな。隠すことになってしまって……ちゃんと紹介できなくてさ……―

―いいよ。あたしも自分のこと、ちゃんとわかってるから―

―そうなんだけどさぁ…………―

 

 テレパシーを通じてそう返してくれる綾だったが、入店直後にも感じた疼きは、今度はなかなか治まらなかった。

 そこに、箸に摘ままれた唐揚げが差し出される。

 

「?」

「暗い顔はなし。それよりも……は、あーん!」

「……(かな)わんなぁ。お前さんには」

 

 心底楽しそうな笑顔で言ってくる綾を見て、少し気が楽になる。

 そんな自分を単純な奴と胸の中で笑いながら、光秋は唐揚げに噛り付く。

 子規が慌てて戻ってきたのは、その時だった。

 

「ごめんごめん。レモン付けるの忘れて……」

「っ!」

 

 ちょうど綾に食べさせてもらっているところをまともに見られて、光秋は口の中の唐揚げの熱さも忘れて硬直する。

 

「~♪見せつけてくれるねぇ」

「…………」

 

 口笛を吹きながらレモンを皿に置いて去っていく子規に、光秋は見られてしまったことへの恥ずかしさから何も言うことができなかった。

 そして恥ずかしさが胸を占めたせいか、今回はしぶとかった疼きは、次に気が付く頃には完全に治まっていた。

 

 

 

 

 追加の注文を何度か行い、入店してかれこれ30分は経とうかという頃。

 ウーロン茶のおかわりと一緒に焼きベーコンを注文した光秋は、ふと浮かんだことを法子に訊ねる。

 

「そういえば、法子さんの方はあれからどうしてたんです?」

「どうしてたって?」

「いや、会ってからこっち、僕の近況報告しかしてない気がして。僕がいなくなってからの2ヵ月半、藤原隊ではなにがあったのかなぁって」

「そうだなぁ…………」

 

 応じると、法子は飲みかけのグラスを揺すりながらしばし考える。

 

「真っ先に思い浮かぶのは、仕事の危険度が増したかなって」

「!?……どういうことです?」

 

 いきなり返ってきた不穏な答えに、光秋は早まりそうになった動悸を抑えてさらに訊ねる。

 

「光秋くんの話にもよく出てくるNPやZC絡みの事件だけどさ、京都の方でもあったんだよ。この2ヵ月半の内に2回くらいだけど。どっちもメガボディが1機か2機くらい出ててさ、それを見て、前より余計危なくなったと感じるようになって」

「…………そんなこと、電話じゃ一度も……」

「まぁ見たっていっても、私は避難誘導の合間に遠くから見ただけだから。光秋くんがニコイチに乗って(じか)に戦うのに比べたら、まだ安全っていうか、楽な方だと思うけど」

「…………そうかもしれませんけど…………」

 

 何てことのないように言う法子に言い返そうとして、しかし動揺のせいか言うべき言葉を上手く組み立てられない光秋は、一旦黙って今の気持ちを整理する。

 胸の中に渦巻く気持ちは、自分の知らない所で法子が危険に晒されていたことへの驚愕、何度か連絡をとる機会があったのにそのことを自分に言ってくれなかったことへの憤り、そして、

 

―……結局僕は、自分のことで手一杯だったってことか?―

 

自分から法子の近況を知ろうとせず、想像力を働かせることもなかった器量の狭さに対する自己嫌悪だった。

 

「…………言ってくれればよかったのに」

「?」

 

 その上で零れた一言に首を傾げる法子に、光秋は少し苛立ちながら続ける。

 

「そういうことがあったなら、僕にも一言くらい言ってくれてもよかったじゃないですか。いつも僕の気遣いばっかりして……いや、それはそれですごくありがたいんですけど、そういうことじゃなくて…………せめて、教えてくれてもよかったじゃないですか…………」

 

 それで「憤り」の方をひと通り出し切ると、次に待っていたのは「自己嫌悪」の方だった。

 

「もっとも、僕もちゃんとアンテナ張ってなかったのも悪いんでしょうけどね。そんな事件なら絶対ニュースになってるだろうに、よく観なかったし。法子さんたちが電話してきた時も、積極的にそっちの状況訊こうとしなかったし。そりゃあ、この2ヵ月半は新しい仕事に慣れたり、桜さんたちとの関係を固めなきゃだったりで、言われても困ったと思うけど――て、これじゃただの言い訳ですよね…………」

 

 言葉を重ねるごとにだだ漏れになる弱音にますます自分が嫌になり、頭を抱えてしまう。

 それに対して法子は、

 

「…………くすっ」

 

微笑を零しながら、体を寄せてきた。

 

「?……わ、笑うことはないでしょうっ」

 

 その仕草の意図を図りかねる一方、笑われたことに光秋はムッとする。

 

「ごめんごめん。別にバカにしたとかそういうことじゃなくってさ。なんか、嬉しかったんだよ」

「……嬉しかった?」

「うん。私に対して、こんなにいろいろ話してくれたことが――“弱い”ところを見せてくれたことがさ」

「……はぁ…………」

 

 法子の言わんとすることはいまいちわからなかったものの、一先ず光秋は先を促す。

 

「それでなんだけどね…………さっきみたいに言われると、確かに悪いことしちゃったかもね。それについては、ごめんなさい」

「いや、悪いというか…………」

 

 先程の笑いながらのそれとは違い、気持ちの籠った謝罪の言葉に、そもそも自分の都合や感情を押し付けているだけという自覚のあった光秋は返事に困ってしまう。

 

「別にそこまで大層なことじゃ……ただ教えてくれなかったことが納得できなかったというか、突然のことに驚いて動揺したというか……」

「でも、そういうふうに思うのは、私のことを心配してくれてるからでしょう?」

「心配…………あぁ。それが一番いい言葉かもしれませんね。法子さんたちが、僕のことを心配してくれているように」

 

 その返しは9割程が伊部姉妹への感謝だったが、残りの1割にはさっき笑われたことへの当てつけも込められていた。

 と、それまで黙って2人のやり取りを聞いていた綾が、目を鋭くして言ってくる。

 

「そうだよ。あたしたちの気持ちがわかったかっ」

 

 自分がそうであるように、綾も昼間の件を少なからず根に持っていたらしい。その視線には、光秋に対する非難が改めて籠っていた。

 

―…………やっぱり、そういうことなのかな?昼間の綾たちとの口論が、僕への心配とその裏返しに端を発するっていうのなら、今の僕の気持ちも、――「知っているからこその不安」と「教えてもらえなかったことへの不満」とか、多少の違いはあるだろうけど――少なくとも根っこの部分は同じなんじゃないだろうか?―

 

 かけられた言葉を基に、今までの自分たちを振り返って出てきた考えが、妙に腑に落ちた。

 

「…………そうだな。完全……とは言えないだろうけど、だいたいわかった気がする。だからこそ…………改めまして、すみませんでした」

 

 先程の綾の言葉に応じると、光秋はどこかすっきりした心境で頭を下げた。

 

「今のやり取りで思ったけど、どうも僕は他人(ひと)の気持ちを慮る力が足りていないらし。この前の菊さんとの件も、この辺が原因なのかもしれないな。これで“次の人”を云々しようって……」

 

――分不相応だな。口の中でそう続けると、自嘲を浮かべて頭を掻く。

 

―いや、あるいは“次の人”っていう目標を持ったからこそ、自分の中の“今の人”としての欠点が目に付きやすくなったのかな?―

 

 そう思ってはみたものの、法子との会話や綾の指摘から得た認識が変わるわけでもなく、ますます自嘲の色を濃くした。

 

「まぁ、私の方も言わなかったのも悪かったんだし、そこまで思い詰めないでよ。お互いコミュニケーション不足だったってことに気付いたなら、今後はもっと自分の近況も話すように気を付ければいいじゃん」

「いいじゃんというか……まぁ、そうなんでしょうね。気付いたらその都度ダメな所を直していくしかない、か…………」

 

 当たり前のこととは充分自覚しているものの、そう声に出すことで少しは気が楽になる光秋だった。

 

「…………とりあえず、仕切り直しになんか頼みますか」

「そうだね」

「ずっとお茶だったから、ここらでジュースでも頼んでみようかなぁ……」

「あ、あたし鶏の軟骨揚げ食べたい」

 

 この数分のギクシャクを埋めるかのように、“三人”は今まで以上に楽しそうに食事を再開した。

 

 

 

 

 来店してかれこれ1時間が過ぎた頃。

 

「ふぅー、お腹いっぱい」

「この辺でお開きにしますか」

 

 いくつもの空いた皿を前に腹をさする法子に、自分も満腹感を覚えていた光秋はオレンジジュースを飲み干しながら応じる。

 

「そうだね。あ、私ちょっとトイレ」

「じゃあ、その間に会計済ませてますね」

 

 席を立った法子にそう言うと、光秋は財布を出しながら子規を呼ぶ。

 カウンター越しに言われた額を渡すと、ちょうど法子も戻ってくる。

 

「ごちそうさまでした」

「ありがとね、来てくれて」

 

 光秋の一礼に応じると、子規は法子を見る。

 

「法子さんも、来てくれてありがとね。気に入ってくれたら、またのおこしを」

「はい。次がいつになるかは、さすがにわからないけど……でも、光秋くんが東京にいる間は、また来ようと思います」

 

 子規の言葉に気まずそうな顔を浮かべたのも束の間、法子は朗らかに答える。

 

「それじゃあ」

「はい。気を付けてねー」

 

 子規の声を背中に聞きながら、光秋は伊部姉妹の手を引いて店を出る。

 

「思った以上にいいお店だったね。連れてってくれてありがとう」

「そりゃよかった」

 

 心底楽しそうな法子に手をしっかり握り直しながら応じると、光秋は駅へと向かう。

 

「そもそもが飲み屋だから、酒が飲めればもっと楽しめるんでしょうけどね……」

「だから、私は飲めないよ。こればっかりはどうしたって無理だから」

 

 ロブスターに振り返りながら名残惜しそうに呟く光秋に、法子はキッパリと告げる。

 

「法子さんじゃなくて、僕がです」

「光秋くんが?あぁ、そっか。次の誕生日で二十歳(はたち)だっけ」

「はい。そうしたら、晴れて飲酒も可ってことです」

 

 法子が合点すると、光秋はまだ知らない酒の味を想像しながら頷く。

 

「そうなったら、今度はあたしがアキをおんぶして帰るのかな?」

「いや、さすがにそこまで酔うことはない……と思うけど……」

 

 法子を通じて岩手に帰省した時のことを思い出したらしい綾の素朴な疑問に、酒への強さがわからない光秋は自信なく返すしかなかった。

 

―でも、綾のおんぶか。それはそれで魅力が……いや、彼女におんぶされる彼氏っていうのは、さすがに格好悪いか……―

 

 ほんの好奇心から綾におんぶされる自分を想像して、気恥ずかしくなってすぐに頭を振った。

 駅に近付くにつれて人混みは激しくなり、はぐれないようにと双方の握る力は自然と強くなる。

 握った手を通じて伝わってくる伊部姉妹の実感こそが、都市の喧騒の中にあっても光秋に安らぎを与えていた。

 

―昼のことといい、さっきのロブスターでのことといい、法子さんと綾とは今日一日ギクシャクしたし、問題点もたくさん浮彫になった。自分の足りない部分を知ることにもなった…………でも、それでも。やっぱり、こうして“二人”がいてくれるのは、いいな…………―

 

 

 

 

 電車に揺られ、駅からしばし歩いて寮に戻ってくると、光秋はすぐに浴室に向かう。

 

「……こんなとこかな?」

 

 蛇口の湯加減を調整して居間へ向かうと、伊部姉妹がコタツにもぐって待っていた。

 

「風呂入れてきたんで、10分程待ってください」

「うん」

 

 綾の返事を聞きながら、光秋もコタツに入る。電源を入れたばかりとあってか、中はまだ冷たかった。

 

「明日はどうしようか?」

「明日かぁ…………」

 

 綾の問いに、光秋はコタツに突っ伏しながら呟く。

 

「帰りの電車って何時発です?」

「東京駅を明日の5時」

「じゃあ、遅くても4時半くらいには向こうに着いてないといけないですね…………」

 

 法子の答えに返しながら、光秋はしばし考える。

 

「いっそ、一日中寮でゴロゴロしてましょうか?」

「え?出かけないの?」

 

 そうして出した提案に、綾は意外そうな顔をする。

 

「そりゃあ、せっかく綾と法子さんがいるんだから、あっちこっち遊びに出てみたいけど、それは今日ある程度叶ったし。だったら昼間の“二人”の心配も汲んで、明日は一日のんびりして体休めようかなって。これはこれで、“三人”一緒でないとできないでしょう?」

「そうれは……そうだけどさぁ……」

 

 応じながら、綾も両腕を枕にしてコタツに突っ伏す。

 

「不満か?」

「不満ってわけじゃないよ。アキと一日中ゴロゴロするのも、それはそれで楽しそうだし。でも、ほんとにいいのかなって」

「まぁ、昼間行こう行こう言ってた奴が今度はなにをって感じなのは確かだけど……実際、半日仕事して半日騒いで、僕も少し疲れちゃったからさ。明後日のことも考えると、明日は一日のんびりして、それに備えた方がいいかなって」

「…………光秋くんらしいね」

 

 言いながら、法子は腕に乗せた顔をくすりと歪めた。

 

「じゃあ、とりあえずそういう方向で」

「うん」

 

 その微笑みを賛成と受け取った光秋の言葉に、綾はこくりと頷く。

 

「ところで、お風呂大丈夫?」

「あっ」

 

 直後の法子の指摘に、すっかり温かくなったコタツを出た光秋は慌てて浴室へ走った。


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