よろしくお願いします。
110 お詫びの席
3月17日木曜日午前8時。
伊部姉妹から東京行きの連絡を受けた翌日、光秋は早速用事の消化に取り掛かった。
―通常業務はともかくとして、一先ずやるべきは菊さんへのお詫び……と、曽我さんへのお返しだな。特に曽我さんの方はやっとかないと後が怖いし―
そこで真っ先に思い浮かぶのは、昨日の出動後にあった菊とのトラブルであり、その解決に協力してくれた曽我の姿だった。
もちろん、菊を蔑ろにしていいというわけではないものの、万が一この時の貸しを先延ばしにした場合曽我から何を言われるか、それが光秋にはちょっとした恐怖だった。
―またみんなで食事会ってことでいいかな。できれば今週末には済ませておきたいが……そこは各々と調整だな。菊さんたちは夕方電話してみるとして、曽我さんは今から訊きに行ってみるか―
思うと机から立ち上がり、藤岡隊の待機室へ向かう。
―昨日の予知出動と戦闘の反省会は今日中にやっておくとして、今のところ片付けなきゃいけないことはそれくらいか。あとは来週中に急用が入るかどうかだが、それは流石に運だな…………―
一抹の不安を抱きつつ廊下を進むと、藤岡隊の待機室の前に着く。
「失礼します」
ノックしてドアを開けると、机で書類整理をしている藤岡主任と、その横でパイプイスに座って念力で自動車のプラモデルを組み立ている曽我を見る。
「曽我さん、ちょっといいですか?」
「どうかしましたか?」
組み立てを中断して応じると、曽我は光秋を追って廊下に出る。
「昨日の件のお返し――もといお礼なんですが、今週末って空いてますか?」
「あら、早速ですか?土曜日でよければ構いませんよ」
「よかった」
待ってましたとばかりに微笑む曽我に応じると、光秋はもう1つ確認する。
「それで当日なんですが、ウチの特エスたちも同席していいでしょうか?菊さんへのお詫びも兼ねてってことで」
「構いませんよ。加藤主任の甲斐性を見られる面白い――いい機会ですし」
「曽我さん……」
露骨に言い直しながら、異動以来すっかり馴染んだ挑戦的な視線を向けてくる曽我に、光秋は今日も慄く。
「ところで、お店はどこにするんです?」
「あ、そうだな…………この前徳川さんたちと行ったとこはどうです?ほら、渋谷にある、エビみたいな名前の店」
「わかりました」
「じゃあ、夕方に菊さんたちにも確認して、今日か明日中にまた連絡します」
「えぇ……ところで」
応じると、曽我はまじまじと光秋に顔を近付けてくる。
「っ?」
「主任、なにかいいことでもありましたか?朝早くからなんか楽しそうですけど」
「えっ?……いやぁ……」
自分ではわからなかったものの、伊部姉妹との件は思った以上に顔に出ていたらしい。図星を突いてくる曽我に、光秋は思わず狼狽してしまう。
「その……大したことじゃ――」
「なにかあったことは認めるんですね?」
「っ……」
誘導尋問さながらの曽我の切り込みに、背筋が寒くなる。
と、次の瞬間には、それまで険しい顔を浮かべていた曽我が急に吹き出す。
「ふっ!失礼。イジワルがすぎました。主任があまりにいい反応をするものですから、つい」
「勘弁してくださいよー……」
そこでようやく寒気から解放されて応じると、曽我は待機室へ戻る。
「それでは、連絡お待ちしています」
「はい」
「あ、そうそう」
「?」
「嬉しいことがあって喜ぶのは結構ですけど、それで浮かれて、またしょうもないミスしないでくださいね」
入室間際に釘を刺すと、曽我は待機室に入っていく。
「…………」
一人廊下に残された光秋は、たった今刺し込まれた釘に苦笑を浮かべる。
―参ったな……そんな出でてるだろうか……?―
頬を揉んで自重を心がけると、自分の待機室へ戻った。
午後7時。
一日の大半を昨日の反省会に費やして業務を終えた光秋は、寮に帰るや菫に電話をかける。
(もしもし?)
「あ、菫さん?今いいか?」
(はいっ!どうしましたかっ?)
その声は、心なしか弾んでいるように聞こえた。
「今週の土曜日だけど、昨日騒がせちゃったお詫びというか、また食事会を考えてるんだよ。渋谷まで出てこれないかね?桜さんと菊さんも」
(渋谷って、この間みんなで行ったお店ですか?)
「そう。当日空いてるかな?桜さんと菊さんにも訊いてもらえないか?」
(ちょっと待ってください)
菫が応じると、しばしの沈黙が訪れる。
(もしもし)
「どうだって?」
(2人とも大丈夫だそうです。私も)
「わかった。じゃあ、5時に菫さんたちの寮に集合ってことで。曽我さんの方にもそう連絡しとくから」
(曽我さん?)
「あ、言い忘れてたっけ?昨日の件では曽我さんにも世話になったからさ、そのお礼も兼ねてなんだけど」
(……そうですか)
遅れながらの補足に、菫は微かに沈んだ声を返してくる。
「……どうかしたか?」
(……いいえ。何でもありません。5時に寮に集合ですよね。桜と菊にも伝えておきます)
「頼む。じゃあ、当日よろしく」
(はい。おやすみなさい)
「おやすみ」
言うと光秋は電話を切り、曽我のメールアドレスを探す。
「さて、曽我さんの方にも連絡っと」
3月19日土曜日午後5時。
先日の連絡に従って桜たちの寮を訪れた光秋は、すでに門の前に曽我たちが集まっているのを見て、足を速める。
「すみません。遅れちゃって」
「ちょっとー?大人は5分前行動なんじゃないんですか?」
駆け寄るや頭を下げる光秋に、菊の三角目が向けられる。
「面目ない……電車の時間を1本間違えて……」
余計に情けなくなるとわかっていながら、つい言い訳が漏れてしまう。
「まぁいいわ。この後奢ってもらうんだし。行きましょう!」
「オーッ!」
非番とあってすっかり普段通りの口調で嬉々として言う曽我に桜も元気に応じ、それを合図に一行は駅へ向かう。
―にしても、ここんとこ流石に食事会が多いような……今日のこれと、法子さんたちの分が終わったら、しばらく自重しないとな―
歩きながら懐の重さを気にしていると、菊が左隣に歩み寄ってくる。
「…………」
「……どうかしたか?」
歩幅を合わせてちらちらと視線を寄こしてくる菊、その意図がいまいちわからない光秋は、遠慮がちに訊いてみる。
「……光秋さんって、気が利かないってよく言われません?」
「なによ、突然?」
「今日は私へのお詫びが目的なんでしょう?だったら……」
言いながら菊は足を止め、なにかをねだる様な目を向けながら右手を差し出す。
―あー、なるほど……―
ここでようやく菊の求めていることを察したものの、同時に菊が高レベルのサイコメトラーであること――加えてこれまで何度か無断で思考を読まれたこと――が脳裏を過り、手を伸ばすことをつい躊躇ってしまう。
―て!ここで尻込みしてどうするか!菊さんが言った通り、今日は彼女へのお詫びが目的の一つなわけで、その希望は可能な限り叶えてあげるべきだ。それにここで拒否なんてしたら、いよいよ取り返しのつかないことになるぞ―
そう胸中に喝を入れると、光秋は自身の左手を菊の右手に伸ばす。
未だサイコメトリーに対する不安は拭い切れないものの、なけなしの勇気を振り絞ってその小さな手を包む様に掴んだ。
―……事情が事情とはいえ、小学生と手を繋ぐだけでどんだけ緊張してんだ僕は。
高まった緊張をほぐそうと、敢えて自虐的なことを思い浮かべてみる。
「…………私、もうしませんから」
「?」
そんな中、ぼそっと呟いた菊に、光秋は聞き返す目を向ける。
「今後は勝手に思考を読んだりしませんから。あんまり強い思いはその気がなくても読み取っちゃうことはあるけど、その時はなるべく忘れるようにしますから……とにかく、今までみたいなことはもうしませんから」
「……それはありがたいが……またどうした?」
「…………光秋さんには嫌われたくないって……そう思うようになったから……」
「僕が何だって?」
すぐそばを通る車の音に掻き消されそうな小声が上手く聞き取れなかった光秋が聞き返すと、菊は顔を薄っすら赤くし、目を三角にして言ってくる。
「大人にならなきゃって思ったんです!さすがにイジメが過ぎたかなって思って!」
「お、おぉ……そりゃ感心だな……」
その迫力に、思わず腰が引ける。
「……ま、まぁ……とにかく、今後ともよろしくな」
「……よろしく」
気を取り直すことも兼ねてかけた言葉に、菊は未だ不機嫌面を浮かべながら応じる。その一方で繋いだ手には明確な力が籠り、その強い握り返しこそが、光秋には百の言葉以上の安心材料になった。
「…………そういえば、気になってたんですけど」
それまで後ろを歩いていた菫が、光秋と菊にやや尖った視線を向けながら言ってくる。
「ん?」
そんな態度を多少気にしながらも、光秋は特に指摘することなく先を促す。
「この前の出動の反省会、まだしてませんよね?てっきり今日やるのかと思ってたけど……もしかして来週ですか?」
「あ、それな……」
言われて、いけないと思いつつもつい先送りにしていることへの罪悪感を覚える。
「来週は用があるから、とりあえずそこはない。日取りがはっきりしたら改めて連絡するよ」
「……そうですか」
「悪いな。心配かけて」
「そういうわけじゃないですけど……」
謝る光秋に、菫はなぜか嬉しそうな顔を浮かべる。
「っ」
「?」
直後に頬を膨らませた菊に脇腹を小突かれるが、光秋にその理由を察することはできなかった。
しばらく電車に揺られて渋谷駅に着き、ホームから人の波の中を進んで地上に上がると、一行はスクランブル交差点の前に出る。
「よし、全員いるな」
「だから心配しすぎだって……」
全員そろっていることに安堵する光秋に、桜が呆れ顔を浮かべる。
「そうは言うけど、人多いからさ。うっかりはぐれたら後が大変だし……まぁいいや。確かこっちだったよな?」
軽く反論を返すと、先日行った時の記憶を頼りに歩き出し、桜たちもそれに続く。
「……確か、こっちでしたよね?」
「ここはこっちに曲がらなかった?」
「そうでしたっけ……?」
道中曽我たちとうろ覚えな道筋を確認しつつ、徳川に連れて行ってもらった時以上の時間をかけて、ようやく見覚えのある左右の建物の合間を埋めるように建つ小ぢんまりした店を見付ける。
「『ロブスター』。ここですね」
「あの絵は確かだね」
看板に書かれた店名を読み上げる光秋に、桜も両腕のハサミを強調したエビの絵を指さしながら頷き、2人のそのやり取りを合図に一行はドアをくぐる。
ドアベルの音を伴って店内に入ると、奥から赤いバンダナを巻いた店主――子規が現れる。
「おぉ、コウくん!嬢ちゃんたちも」
「どうも」
こちらを見るや笑みを浮かべる子規に、光秋は会釈を返す。
「5人なんですけど、大丈夫ですか?」
「全然っ。好きなとこ座って」
光秋の問いに、子規は嬉々として応じながらまだ誰もいない店内を示し、一行はテーブル席へ向かう。
「そういえば、ここ4人席なんですよね……」
自分たちの人数と、テーブル1つ辺りの人数を見てどう座ろうかと光秋が考えていると、桜が隣のテーブルから椅子を1つ持ってきて側面に置く。
「いいじゃん、これ借りれば。光秋もこの前やっただろう?」
「そうだけど……大丈夫ですか?椅子1つ貸してもらっても」
「どうぞ。まだ混んでないし」
「ありがとうございます」
了承してくれた子規に頭を下げると、光秋は桜に勧められて側面の椅子に座り、そこから見て右に菊と菫が、左に桜と曽我がそれぞれ腰を下ろす。
「さてと、なに頼もっかなぁー」
「妙に気合い入ってんな。珍しいじゃん菊」
「そりゃあ、今回は私へのお詫びってことで来たわけだしね。またとない機会、しっかり楽しまないと!」
「ハッハッハッ……煮るなり焼くなり好きにしてくれ…………」
桜の言葉に菊は意地の悪い笑みを浮かべ、その顔でちらちらと視線を向けられた光秋はヤケクソ気味に応じながらカウンター奥のメニュー一覧を見る。
「僕はとりあえずウーロン茶、あと唐揚げ」
「私は……」
光秋が言ったのを皮切りに菊たちも注文を挙げ、やって来た女性店員にそれを告げて待つことしばし、全員分の飲み物とシーザーサラダが運ばれてくる。
「みんな、飲み物は回ったな?」
「「「「はーいっ」」」」
テーブルを見回しながら光秋が確認すると、4人は各々にグラスを持って応じる。
「えー、このたびは先日の僕の不祥事でみなさん、特に菊さんに多大な迷惑をおかけしました。そのことについて、改めてお詫びいたします」
自分のグラスを持って言いながら、光秋は軽く頭を下げる。
「そして曽我さんには、その時の解決に協力していただいたこと、改めて感謝いたします。ありがとうございました」
言いながら、曽我に頭を下げる。
「今回はその時のお詫びと、感謝のための食事会です。みなさん満足いくまでお楽しみいただければ幸いです。では、グラスを」
促すと、桜たちはグラスを前に掲げ、光秋も自分の分をそれに近付ける。
「乾杯ッ!」
「「「「カンパーイッ!!」」」」
嬉々とした号令と共に5つのグラスが小気味いい音を響かせ、一同は各々自分のグラスに軽く口をつける。
「オッシャー!食うぞッ!!」
「おう。煮るなり焼くなりしてくれ。僕の財布をなっ」
グラスから口を離すや気合いを入れる桜に光秋がヤケクソに応じたのを合図に、今宵の宴の幕は上げられた。
食事会の開催が宣言されて1時間が経とうかという頃。
―さて、曽我さんがそろそろ危ういか……?―
2杯目のウーロン茶を飲みながら、光秋は顔が赤くなってきた曽我に警戒の目を向ける。
その手には3杯目のカクテル――今はジントニック――が握られ、見ている間にもちびちびと口に注がれていく。
―位置関係からいって、今回は桜さんが絡まれるかな?適当なところで止めないと……にしても……―
そこまで考えて、ふと涼と徳川、羽柴の顔が思い浮かぶ。
―菊さんと曽我さんのことを優先するあまり、3人のことがおざなりになってたかな?徳川さんと羽柴さんには変なとこ見せて迷惑かけただろうし、涼さんには曽我さんにも負けないくらい世話になったのに…………まぁ、とりあえずこっちは、法子さんと綾の件が落ち着くまで待ってもらうか…………―
勝手だという自覚は充分ありつつも、伊部姉妹と再び会うことが現在の最優先事項である光秋は、お礼やお詫びを先延ばしにすることへの罪悪感を覚えつつもそのように予定を立てる。
と、菫がグラスを置きながら声をかけてくる。
「光秋さん?どうかしましたか?」
「ん?あぁ、徳川さんたちにもお詫びとか感謝とかしなきゃなって」
「……またこのお店に誘うんですか?」
食べていた物を飲み込んだ菊が訊いてくる。
「今のところはそのつもりだけど、都合が合わなければ他の方法も考える」
答えると、光秋はフライドポテトを1つ摘まむ。
その時、
「えへへへ~、桜ちゃーん!飲んでるぅ?」
「ちょ、くっつくなよ!酒臭っ」
「始まったよ……」
赤い顔をすっかり緩ませた曽我が隣の桜に抱き着き、予測していた展開に光秋は席を立って2人の後ろに回り込む。
「ほら曽我さん、桜さんが困ってますよ」
言いながら曽我の肩を掴み、引き摺るように桜から引き離して椅子に座り直させる。
「ほら、ワンちゃんも飲んで飲んでっ」
「だから、僕はまだ飲めませんって」
すると今度はこちらにグラスを押し付けてきて、光秋はどうにかその手をテーブルに戻させる。
そこでドアベルが鳴り響き、新しい客が4人入ってくる。
「いけね」
それを見るや、光秋は自分が座っていた椅子を慌ててもう1つのテーブルに戻す。
「ちょっ、椅子戻してどうすんのさっ」
「仕方ないだろう。他のお客さん入ってきたし。カウンターにでも移動するよ」
桜に応じながら、光秋は自分のグラスと皿に手を伸ばす。
と、
「だっ、だったら、ここに座るのはどうですか?」
どこか強張った声をかけながら、菫が自分の座っていた椅子を勧めてくる。
「いや、それだと菫さんが座れないだろう。椅子取りゲームじゃないんだから」
「だ、だから、ここに光秋さんが座って、その上に私が座ります。それで全員座れるでしょ?」
「あー、なるほどなー……て、ダメに決まってるだろう」
あくまでも大真面目に言ってくる菫に、光秋は呆れ顔で応じる。
「そうだよっ、何で菫が?そういうことならアタシがっ!」
「今日は
「2人も落ち着きなさい」
そして何故か興奮し出した桜と菊をなだめつつ、光秋はテーブル席に着いた4人に「すみません……」と頭を下げる。
「とにかく、僕はカウンター行くから。まだ欲しい物があったら好きに頼んで」
言うや光秋は自分の食器を持ち、そのまま真後ろのカウンター席に移る。
「あの子らに懐かれてるんだな、コウ君は」
「一応、それなりに好かれる努力はしてきましたからねぇ……今は3人そろって睨んできてますけど」
カウンターを挟んで向かいに立った子規に、光秋は主任研修初日の「最悪」な始まりから今日までをしみじみと振り返りながらウーロン茶のグラスに口をつけ、背中に感じる3人分の視線に内心首を傾げる。
「……そういえば、この前は大丈夫でしたか?」
「予知があった日?」
「はい。僕もあの日、巡回に出てたんですけど」
「そういえばESOに勤めてるんだったね。ウチは別に。ガス周りで注意がきたくらいかな」
「それならよかったです。おかげでこうして、またここで食事ができるってもんで」
「けっこう口がお上手じゃない?」
「本心ですよ」
不意に浮かんだ問いから始まったやり取り、それを重ねるごとに、子規と光秋の口元は少しずつ緩んでいく。
と、それぞれ不服そうな顔を浮かべた少女3人がカウンター席にやってくる。
「どうした?」
「別に。アタシたちもこっちがいいと思って」
尖った声で応じながら桜は光秋の右隣に、同時に菊は左隣、菫はその隣に座る。
「君たちなぁ……」
よく見れば自分用の食器すら持ってきていない3人に呆れていると、子規がニヤニヤした顔をこちらに向けてくる。
「女の子3人は当然として、コウ君もまだ酒飲めないんだっけ?」
「はい……?」
「いやぁ、4人が飲める年頃になったら、なかなか絵になるかなぁって」
「気が早すぎますよ…………」
どこまで本気かわからない子規の言葉に、光秋はウーロン茶を飲みながら応じる。
ただ一人テーブルに残された曽我が気だるげな声を上げたのは、そんな時だった。
「マスタぁ、カシスソーダぁ……」
「はーいっ」
それに応じて奥へ引っ込む子規の背中を見送り、すっかり赤くなった顔でテーブルに突っ伏している曽我を見た光秋は、皿の上の唐揚げを摘まみながら思った。
―そろそろ、潮時かな?―
十数分後。
曽我がカシスソーダを飲み干したのを見届けた光秋は、それを合図にカウンター奥の子規に声をかける。
「すみませーん、会計お願いしますっ」
「はーいっ」
子規の返答を聞きながら椅子を立つと、それに合わせるように渋々テーブル席に戻っていった桜、菫、菊も帰り支度を始める。
「ほら曽我さん、行くよ」
「うーん…………」
そんな中でただ一人テーブルに突っ伏して動く気配のない曽我を、桜は手をかざして椅子から浮き上がらせる。常に1メートル程の間合いを空けているのは、迂闊に近付いてまた抱き着かれるのを警戒してだろうか。
「あんまり無茶するなよ。こっちが終わり次第僕が肩貸すから」
「大丈夫だよ。アタシに任せろって」
子規に代金を渡しながら注意の声をかける光秋に、桜は少しムキになって応じる。
―心配してるのは、桜さんの腕だけじゃないんだけどな―
思いつつ、もう1つのテーブル席に座っている4人組をちらりと見やる。
入店以降、光秋たちにも負けない楽しげな談笑を続け、今もそれを継続している彼らではあるが、桜が曽我を浮かせた辺りから、散発的に2人に視線を向けていた。
―興味と警戒が半々……いや、後者がやや多いかな?どっちにしろ、何かしてくる気配はなさそうだが―
目分量で彼らの心境を量ると、子規からお釣りとレシートを受け取った光秋は頭を下げる。
「ごちそうさまでした」
「おう。また来てなぁ」
子規の声に見送られて、一行は店を出る。
「ほら、曽我さん」
外に出るや、光秋はされるがままに地面から30センチ程浮かされている曽我に屈んで背を向けるが、
「だからいいってっ。このままアタシが連れてくから」
浮かばせている桜は頑なな様子で返し、そのまま曽我を連れて駅に向けて歩き出してしまう。
「わかったよ……その代わり、駅に近付いたらもう念力はなしだからな。そこからは僕が代わるから。あと、曽我さんが落ちないように気を付けてな」
「わかってる!」
光秋の注意が余程
と、左右から菊と菫が追い付いてくる。
「さっきの人たち、桜ちゃんのこと見てましたね」
「あぁ、菊さんは気付いてたか」
右隣を歩く菊のやや険のある呟きに、光秋は少し気まずくなりながら返す。
「……やっぱり、街中で念力を使うのってまずいですか?」
「まぁな……」
左隣をついてくる菫の不安そうな問いに、光秋は言葉に困りながらも言うべきと思ったことう言う。
「ZCのこともあって、一般人は超能力者、特に高レベル能力者には敏感なご時世だからな。それこそ目の前で小さい子供が、女性とはいえ大の大人を浮かばせたら注目しちゃうだろうし、多少の警戒心も抱いちゃうだろうさ」
「……光秋さんでも、そんなこと言うんですね」
そう返した菊の顔は横を向いて俯いていたために見えなかったが、声は少し震えていた。
「ま、僕だってノーマルだからな。超能力者――自分より強い相手には多少の恐怖心は抱くさ。それに1回、超能力者関係で危ない目にも遭ったし」
「京都に勤めてた頃、そんな事件が?」
「いや、あくまでもプライベートな場面で」
菫の問いに応じながら思い出すのは、去年の夏。綾と知り合って少し経った頃、出かけた先でサイコキノの不良に念力で首を絞められた記憶だった。その時の苦しみまでも思い出したのか、無意識の内に首を撫でる。
「あの時は、他のことでいっぱいいっぱいで気が回らなかったけど、後で思い返すと、離れた所から一方的に、それも何の道具もなしに、自分の体一つだけでこっちを攻撃できるサイコキノは、やっぱり怖いなって思った」
「「…………」」
赤裸々な光秋の語りに、菫と菊の顔は徐々に強張っていく。曽我を抱えて先を行く桜のことを思ってか、「サイコキノ」と限定した言い方をしつつも言外に超能力者全般を指していると感じたのか。いずれにしろ、二人からは先程の食事会で得た温かさは抜け始めていた。
「ただ、それでもサイコキノの――超能力者の全てを怖がらずにいられるのは、そうじゃない人もいるって知ってるから……暴力とは違う“力”の在り方を示してくれる人たちがいるからなんだろうな」
傍らの2人の様子を把握しつつ、敢えて言い続けた光秋の脳裏に真っ先に浮かんだのは、いつも自分に寄り添ってくれた綾の姿だった。
「……誰のことです?」
「ん?……ちょっと、知り合いにな」
好奇心の目で訊いてくる菫に、何故か照れ臭さを感じて曖昧に返すと、それをはぐらかすことも兼ねて連鎖的に浮かんできた人々のことを語る。
「あとは、京都にいた頃の上司がサイコキノで、よく助けてもらったし、曽我さんだってそうだ。あと、涼さ――鷹ノ宮涼子様だって、超能力を活かした社会貢献に積極的だろう?」
「最後の方おかしくありません?いきなり有名人出してきて」
少なくともはぐらかすという目論見は成功したらしい。菊が怪訝な目を向けながらも、綾のことを追及してくる気配はなかった。
「それに、やっぱり桜さんだな。特に東京に来てからは彼女の念力によく助けられてる。もちろん、菫さんと菊さんの力にもな」
「なーんか、取って付けた感じ」
不満そうに言いながらも、菊の顔からはすでに力は抜け、猫に猫じゃらしでも見せたように光秋の右手にじゃれついてくる。
「……『木を見て森を見ず』、ですか?悪い超能力者もいるけど、良い超能力者もたくさんいるって」
「おっ、いい線行ってるじゃないか菫門下生よ。『良い・悪い』っていうのは個人的に気に入らないところはあるが、ちゃんと勉強してるな!」
研修中の頃に話したことを取り上げてきた菫に、おふざけ半分・自分の話したことを覚えていてくれたことへの嬉しさ半分に、いかにもな芝居がかった語調で返しながら、光秋はその頭を撫でる。
「えへへへっ!」
それに菫は、人懐っこい仔犬のような笑みを浮かべた。
「……どこの先生ですか……」
そんな2人に菊は呆れと、なぜだか不満そうな顔を浮かべ、それまでじゃれついていた光秋の右手を自分の頭の上に持ってくる。
「ちょっとっ。さっきからアタシ抜きで盛り上がってんじゃねぇよ!」
そこで先を行っていた桜が急に立ち止まって振り返り、不満一杯の顔で3人の許へ駆け寄ってくる。その横には、店を出て以降浮かんでいた曽我が、上下に激しく揺れていた。
「ちょっ!揺らさな――うぅっ!?」
「!曽我さんっ!」
急激に顔色を悪くして口を押える曽我を見るや、光秋の方も慌てて駆け寄る。
そんな騒動を挟みながらどうにか渋谷駅に着いた一行は、夜の地下鉄へ乗り込んでいった。