InfiniteStratos~MFD⇔MFS~ 作:1G9
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死、というものを、世の中に生きる人々は一体どのように考えているのだろうか? いやさ、もっと直接的に言うのであれば、人々は普段、自らの死というものについて――あるいは、身近な人の死について、もっと深く、強く、考えた事がはたしてあるのだろうか?
きっと、そう深く考えた事などないのだろうと、ぼくは思う。自分自身だけでなく、親や兄弟・姉妹、友達なんかが今日、明日にでも死ぬかもしれないなんてことを、常日頃から考えているなんて、そんなの不健康極まりないと、こんなぼくですら思うのだから、他の方々の考える事など、推して知るべしといったところだろう。
人間は死ぬ、それは間違いない。病気で、事故で、老いで、殺意で。何時だろうと、何処だろうと、人が死ぬ確率というのは本来であれば平等だ。昨日どこかで誰かが死んだように、今日は自分や家族が死んだって、何らおかしくはないのだ。
おかしくはないのだが、だが実際の話、明日自分が死ぬ確率など如何程のものだろう。
日本の総人口が約一億二千八百万ほどだという。そのうち、例えば毎日千人は死んでいるとしよう(千人という数字は、統計的な数字ではなく、古事記からとってみました。なんとなく)、この時、一人の人間が死ぬ確率は約0.0008%となる。こんなもの、例え万人平等に降りかかろうとも、無視していい事象だろう。勿論、年齢やその時既に病気かどうかなどのコンディションというヤツで、まあ変動はするだろうが、基本的に、健康な人間の『明日死ぬ』確立なんてものは、こんな微々たるものにしか過ぎないのだ。
――では、実際に死んだ人間は運が悪かっただけなのだろうか? たまたま、本当にただの偶然で、あっけなくも死んでしまうのだろうか?
そのほとんどは、やっぱりただの偶然なのだろう。運悪く、あっけなく、不幸にも、人は簡単に死んでしまうのというのもまた、厳然たる事実ではあるのだから。
ただ、どうにも人より死にやすい人間という奴はいるらしい。それは地位や職業的なモノに類する話ではなく(いや、一概に違うとも言いきれないが)、その行動如何によって生じる、一種の
――皆さま。読者、あるいは拝聴者諸兄は、『死亡フラグ』という言葉をご存じだろうか?
……呆れた顔をするのはちょっとばかり待ってほしい。言うほどこれは、冗談のような話でもないのだ。
『死亡フラグ』
例えば、戦争中に「この戦争が終わったら」なんて、そんな取らぬ狸のなんとやら的な、鬼も思わず笑ってしまう様なことを言ったり、「この中に殺人者がいるかもしれないのに一緒に居られるか! 俺は自分の部屋に戻るぞ!」とか、そんな状況でいきなり単独行動をし始めたり、「ここは俺に任せて先に行け!」みたいな、あからさまにカッコいい台詞を戦闘中に言ってみたり、あるいは物理的に見えちゃいけない星が見えたりなど、エトセトラエトセトラ。
とにかく、ある一定の行動をすると死にやすい(というより、死亡が確定する)という意味なのだが、何もこれはフィクションに限った話でもない。
例えば、すぐ傍に交通量の多い道路のある公園で、ボール遊びなんてしている子供を見て、危ないなと思った事はないだろうか? あるいは、鉄道のホームでふざけている学生を見て、危険だなと思った事はないだろうか?
些か以上に話が違うと思われかねないだろうが、ぼくは、どれも同じようなことだと思っている。
曰く、因果応報。
曰く、自業自得。
それが直接的か間接的かという違いだけで、死に繋がりかねない要因を作り出した、という意味では同じだろう。
予期できなくとも。
一見関係無さそうに見えても。
ただの偶然の様に感じても。
風が吹けば桶屋がとか、バタフライエフェクトでもないけれども、たった一つの小さな出来事が、ある意味で直接的な原因よりも、強く深く、死に結びつくことだってあるのだ。
それこそが、
――さて。長らく一人語りを聴かせてしまったが、もう少しばかり付き合って欲しい。最後に、ぼくから皆さまに一つ、忠告をさせていただきたい――忠告という言葉が、上から物を言うようでイヤだというのならば、ここは、アドバイスと言い換えてもいい。
アドバイス。
こんなぼくからの、恐らく最初で最後、今後奇跡でも起きようと決してありえるわけのない、純粋な善意からの行動だ。これから先は二度と、こんな気紛れのような行動は起こさないから、どうか素直に受け取って欲しい。
言いたい事は単純だ。言われた皆さまも、きっと、「なあんだ、そんなことか」と、呆れと共に頷き、了承してくれるだろうと思う。
では、ぼくから最後に一つ。
『死亡フラグ』を、立ててはならない――そして、『死亡フラグ』を立てた人間と、決して関わってはならない。
一つと言わず、二つになってしまったが、まあ、そういうことだ。
こんなことを言われても、『死亡フラグ』なんて自分ではわからないモノだと、そう思われるかもしれないが、そうでもない。
要は、危険な事に近づかなければそれでいいのだ。
君子危うきに近寄らず。
危ない事は怪我のうち。
どんなにソレっぽい、思わせぶりな行動も、それが活きてくる状況でも無い限り、意味なんてないのだから。
「帰ったら結婚するんだ」なんて言葉が『死亡フラグ』として活きてくるのも、戦場だからこそだろう。そんな言葉は、田舎に帰省した時にでもご両親に言ってあげるといい。きっとお喜びになられるはずである。
後の二つ目も、ちょっと難しいかもしれないが、なんてことはない。
そんな人間は、見れば分かる。
否応なしに分かる。
その危うさが。
その不吉さが。
その凶悪さが。
一目見ただけで、きっと、分かるはずなのだから。
だから、
その『死亡フラグ』に巻き込まれたら最後、きっと、間違いなく、その命は無くなっていることだろう。
自身の『死亡フラグ』で、
関わり合いにならないことだ。
意識を向けてもいけない。
自分の人生には何ら関わりのないものだと、存在すら知らないモノだと、そう認識しておけば、まあ、間違いじゃない。
対応としては、ベターだろう。
――以上。前置きが些か長くなり過ぎてしまったが、ぼくから皆さまへの話は以上になる。さて。皆さまから何か、ぼくに質問等はあるだろうか?
――ぼくが生きている
要領の悪い、頭のめぐりの悪いぼくにだって、その程度は分かろうというものだ。
だがしかし、これについてもそう大した話ではない。
――よく言うだろう?
『死亡フラグ』の乱立。いつ死んでもおかしくない状態。本来死ぬための要因が、
人それを――『生存フラグ』と言う。
……ああ。まったくもって、この世はままならない。
こんな矛盾を抱えたまま、今日もぼくは生きている。
死ぬために、生きている。