ログ・ホライズン ~高笑いするおーるらうんだーな神祇官~ 作:となりのせとろ
「兄さーん?どこー?」
千菜は辺りをキョロキョロと見回しながら兄の奏を探す。
ウィルたちがアサクサへともう帰るというのに兄の姿がどこにも見当たらないのだ。
まーた、悪い癖が発動したか、千菜はそんな風に言いながら奏の部屋へと入る。別れの言葉嫌いな兄ではあるが最低限の配慮のようなものはする。書き置きかなにかを残していそうなものなのだが……ない
「うーん、どこにバックレたのかなー」
「別に構わんよ、嬢ちゃん」
そんな千菜に声をかけたのは熊のような大男。あと少ししたらアキバを発つおやっさんだった。おやっさんは肩にお土産をまとめた布袋をかけながら、がっははと笑いながら言う。
「今回来てよくわかったわい。奏にも嬢ちゃんにもここでしっかりと居場所を作ってるってなぁ。だから心配するようなこともねえ。
それに奏の言うよう今生の別れになるわけでもねえんだ。気にするほどのことでもねえよ。アイツのことだからどこかでこっそり覗いてるかもしれんしな」
がっはは、と笑うおやっさんの声は明るい。
奏は自前の店があったし、千菜も途中からは奏の店の手伝いにまわっていた。
呼んでおきながら大したもてなしも案内も出来なくて一緒にいたのも休憩時間や仕事を終えて夕御飯を食べてからぐらいだろう。
それでもおやっさんは満足してくれたらしい。
「おっと、勘違いするなよ。俺だけじゃなくて、ママも、坊主も、大満足だ。来てよかったよ。
さて、それじゃあ日が落ちる前に出発はしておきたいしそろそろ行こうかね、嬢ちゃん」
おやっさんは、がははっともう一度笑うとズンズンとおばさんとウィルが既に乗り込んでいる馬車へ向けて歩いていった。
千菜もそれを追いかけようと前に出たとき、
ブツッ
乾いた布のようなものが切れるような音が自らの足元から聞こえた。
ふと目を落としてみると千菜の履くブーツのヒモがぷっつりと千切れていた。それを千菜さ応急処置程度に直して今度こそおやっさんを追いかけるために駆け出した。
走る体にあたる風はまだ冬には猶予があるというのに信じられないほどに冷たく、強く、痛かった。
◇◆◇◆
アキバの街の南の外れ、
『天秤祭』も二日間という短いような長いような期間を終えて、今は大片付けの真っ最中である。
そんな中で奏は祭りの余韻を楽しむ中を抜け出して廃墟の中へと足を踏み入れていた。
緑の苔が一部の壁を覆い壁も天井も所々が抜け落ちている部屋へと入るとそこには一つの人影があった。
波打つようにうねる長い黒髪。白い卵形の輪郭の中に、赤い唇と、磨いた黒曜石のような瞳が輝いている。藍色と赤で編まれた幾何学模様のローブには、どこをさわっても柔らかそうなボリュームにあふれた肉体が押し込まれて、ソファの上に座っているだけなのにゆるゆると蠢いているようだ。
「あら、貴方は先ほどの店主さん。こんなところでどうかなさったのですか?」
惹き付けられるような潤い張りのある唇から発せられた優しく溶け込むような声
それにたいして奏は顔色一つ変えずに返事を返す。
「その言葉をそっくりそのまま返さないといけないほど野暮なことはないんじゃないかな?」
「……わたしはただ人混みに疲れてしまったので少し一休みをしようと」
奏の素っ気ない言葉にも見つめ続けたくなるような引き込まれる微笑を崩さずに返事が返される。
「なら、なおさらだ。こんなところに美しい女性一人はいくら街の中でも危ないですよ。〈西の納言〉
「本当にわかってしまうのですね」
奏が携えて持ってきた
闇小鳥が全て飛び立ちそこにいたのはなめらかにウェーブがかった艶のある黒髪にカラスの羽で作ったゴシック調のドレスでその柔らかで豊満な体を包み込んだ狐尾族の美女だった。先端を真っ白な雪で染めたような尻尾と耳がゆらりゆらりと揺れてこちらの目を引いて誘っているようにさえ見える。
「それで、俺に何かご用ですか?わざわざ偽装した姿でウチの店に来てしかもわざと俺に後をつけさせたでしょう。こんな人気のないところまで誘い込んでまさか楽しくお話しましょうなんて間の抜けたことは言いませんよね」
「奏さんが望むのであればそれもいいですわね。それ以上のことでもわたしは構いませんが」
やりにくい、奏は心底そう思わされる。
奏の対人スキルにおいてだけを限定すれば周囲から参謀タイプとみなされているシロエやクインよりも優れている。それは魂魄の動きから相手の”動揺”、”焦り”、”安堵”、”怒り”様々な感情を察することができるからだ。その精度はポーカーフェイスを得意とする人間の感情を隠そうとする行為を全て無為にして貫通する。
だが、奏はそれを十全に使いこなすには総合力が、頭の良さがどうしても足りなかった。防御を貫通する武器を持っていてもそれの使い道がわからないのだ。もっとわかりやすく言い表すのであればメラゾーマを五発同時にぶっぱなせるだけのMPはあるのにメラミまでしか使えないといった感じだ。
どう動くのかが最適解なのかを導き出す能力がシロエやクインら参謀に比べて奏は圧倒的に劣っている。単純な挑発や誘導に利用する分には問題ない。文を文章に仕立て上げる力がないだけなのだ。
それゆえに誰か奏の目を理解して、目的地を指し示す存在がパートナーとしているときに奏の眼は無類の強さを発揮する。<円卓会議>設立時、三大生産系ギルドから金貨四百五十万枚を即日で奪い取ってみせたのはヘンリエッタというその道のプロフェッショナルの存在がいてくれたからなのである。
だからこそ、目の前のこの気を抜けば見蕩れてしまいそうになる妖艶な女性は奏にとってやりづらかった。
嘘をつく相手の嘘を見抜くのは奏にとっては容易い。けれど嘘つきである彼女の言葉は本意がわからない。
嘘しか言わないやつは本当をいつ話すかわからないからだ。
「俺は女の人の肌が見えてる方が好きです。それにウェーブのかかった髪はあまり好きじゃありません」
「そうですか。でもそれ以外は気に入っていただけているのですね、濡羽は嬉しいです。
それでは、もっと気に入ってもらえるように、
ハチミツのように甘くとろけるような声でなんの警戒心も感じさせないような足取りでするりと奏との距離を縮めていく。しかしそれよりも目を惹かれるのは先ほどと同じ黒の闇小鳥が飛び立つエフィクトだった。濡羽の緩やかな波のかかった髪に、長く高貴さを感じさせる漆黒のドレスに、闇小鳥が集まり宙へと消えていく。
そして、いつのまにか少しでも動けば肌と肌が触れてしまいそうな距離まで奏と濡羽の距離は詰められていた。先ほどまでの露出など微塵もなかったゴシック調のドレスはワンピースドレスへと変わり赤子のように白く柔らかな手足を惜しげもなく晒し髪はウェーブのかかっていた髪からアカツキのように長く真っ直ぐとした絹のようなロングストレートへとかわっていた。
「どうでしょう。
耳元で消え入るような体に溶け込みそうな声で濡羽が小さく囁く。
「俺は貴女に初めて会った時のことを覚えてる。貴女本当に俺のことが欲しいんですか?」
この女性と初めて出会ったのはまだ奏の体がゲームのキャラとして存在していたときのころ。ミナミで<陰陽屋>を始めたばかりで、ツテも何もなくて自ら素材の採集に明け暮れていたころ。
たまたま暇を持て余していたシロエをミナミへと呼び出して素材集めに出ようとしたために臨時で募ったパーティの一人の中に彼女はいた。腕のいい
それからしばらくして<陰陽屋>は主にレイドコンテンツを攻略する戦闘系ギルドを中心にして爆発的な人気を得ることになるのだが、一人では捌ききれないまでの多大な仕事量に嫌気がさして奏は店を辞めることになるのは余談である。
「満足していただいたことは否定なさらないのですね。嬉しいです」
「質問に答えてください」
やりづらい、奏はまた二度目の同じ言葉を心の中で呟く。会話の主導権を握れずにいる。あちらの方が少し上手だと
「そうですねぇ、確かに一番は奏さんではありません。私が一番欲しいのはシロ様です。
けれど奏さん、アナタのことも欲しいのです。わがままな女は嫌いですか?」
「…いいえ。……正直言って好きです。
それに俺は貴女のことを嫌いになることはできなさそうだ。むしろ好感を持ってるくらいです。
何があったかは俺にはわかりませんけど、それだけ傷ついてこれだけ気丈に振る舞える貴女を俺は素直に尊敬する。
貴女みたいな人を嫌でも嫌いになることなんて俺にはできやしない」
濡羽の笑顔にほんの一瞬だけ、綻びが生まれる。けれどそれはすぐに消え微笑へと戻る。無意識な一言が濡羽に一矢を報いていることに奏は気づかない。
奏の目に映るのは濡羽から漏れ出す気品と美しさを漂わせる魂の光。けれどそこはどこか脆そうで、危うさが必死に隠されているように奏には見えた。
少し作り話を聞いてもらってもよろしいですか?濡羽は言った。
距離は相変わらずありえないほどに近い。
奏が濡羽をこれを機にして近すぎる距離を離そうとソファーの方へと促す。奏が対面して置いてあるソファーの右手側に座る。ボロボロのコンクリートの壁には風化してからか大きな穴が空いていた。西側から差し込む夕日の光が濡羽に当たらないよう気を利かしたつもりの奏であったがそんな配慮も何もかもを無視して濡羽は奏の前を通って隣へと腰を下ろす。
もう一度立ち上がって向かい側に座ることも考えたが濡羽の前では全て見透かされてしまっているような気持ちにさえなった奏はここでわずかばかりの反撃を返すことも断念した。
「わたしはね、奏さん。……不器量な女子です」
「は?」
「驚いてもらって光栄ですけれど、そうなんですよ。とにかく眼がぎょろりと大きくて、痩せっぽちで、貧相な――物欲しげに周囲を見上げることしか知らない、醜い子供でした」
隣に座る女性はじっくりと観察することがなくとも誰もが美女と断言できるほどの美女だ。それが謙遜を含めたとしてもそれはあまりにも卑下しすぎている評価だった。皮肉のようにしか聞こえない。
ありえる可能性は……あちらの世界のこと
「小学生の頃は、本当に痩せぎすで。あばらが浮かぶというレベルではありませんでしたね。腕も足も骨が浮いて。髪は伸び放題、服は垢じみていましたし。醜いと云うよりは、汚い娘でした。
中学に入り、背は伸びましたが、体重はさほど増えず。相変わらずがりがりで、前髪の隙間から大きいばかりの眼で周囲を見上げる、そんな気持ちの悪い女だったかと思います。
それが変わったのは──中学二年生でしたか。ひょんな事で、多少の元手を手に入れたわたしは、まともな食事にありつけるようになりました。初めはそれでもなかなか受け付けなかった身体ですけれど、じわじわと体重が付いて……でも、やせっぽちなのは相変わらずでしたね。骨が見える気持ちの悪い身体から、細いだけの身体になっただけです」
そう語る濡羽の話を奏は黙って聞いていた。
思うところも感じるところも色々とあったがただ黙って、聞いていた。
「身なりに構うようになったわたしは、それでも、どこにでも居る、貧相な女でしたよ。薄い胸、ただ細いだけの手足。十人並みの、ただ瞳だけが大きい顔。
当時云われていた最も多い評価は“不吉な娘”でした。
ふふふっ。たぶんね、容姿だけではなかったんでしょうね。わたしの中の何かが、そう呼ばれても仕方のない部分だったのでしょう。
……それでもね。
中学生だという理由だけで、わたしを求める人は居るのです。生きるためだとか、仕方なくなんて云う云い訳はしません。ちやほやされるのが嬉しくて、わたしは、───奏さん、ごめんなさい。少し、痛いです。」
気が付けば濡羽の手を強く握り絞めていたまるで母親の服を掴む赤子のように情けなく。濡羽に言われてやっと気づいた奏は強く握り絞めていた手を勢いよく離す。少しだけ手には赤く跡が残る。
濡羽は見上げるように奏の瞳をのぞき込んで、昏く微笑う。
「私のためにそんなに悲しんでくれるのですか?気づいていますか?──奏さん物凄く怖い顔をしてらっしゃいますよ。
やはり奏さんは優しいのですね。やはりわたしの元へ来て欲しい、わたしはシロ様が一番ですがその次ではダメですか? それではおいやですか?」
「インティクスがいるところへ来い、と言うんですか?
あの女からは聞いているでしょう。俺がどんなにクズヤロウなのかと
どれだけあいつと俺の仲が終わっているかなんてわかっているでしょう」
「わたしを理由にしていただければいいのですよ。わたしのいる〈Plant hwyaden〉まで来てはいただけませんか? わたしを慰めてはもらえませんか?」
奏の瞳を濡れて潤んだ瞳で覗き込むようにして濡羽の顔が奏の顔に近づかれる。先程までは奏が握っていた手はいつの間にか濡羽の手により強く握り返されていて、既に奏と濡羽の体はそれぞれの体温と速い鼓動がわかるほどに触れ合っていた。
あと少しでも濡羽が体重を預ければ奏を押し倒すこともできるほどに二人の距離は近い。ワンピースドレスから覗かせる白い放漫な胸や無理矢理な体勢により細く抱き締めたくなるような足や腕が奏を魅了する。
日が沈み先程まで差し込んでいた夕日の光はもうない。暗く冷たい夜のとばりがやってくる。
「……わかりました」
「〈Plant hwyaden〉へ、来て下さるのですね」
待ち望んでいた自分を受け入れる言葉に、あるいはろう楽されたという言葉に濡羽の顔はほころび頬が上気する。
「俺じゃ濡羽さんを慰めることはできないです。
だって俺には好きな人が、好きな人たちがいますから」
あなたを慰めてあげることは俺にはできないことがわかりました、申し訳なさそうに奏はそう言った。
「……わたしではその方の代わりにはなりませんか?」
”好きな人”
濡羽にはわかった。その存在が奏を踏みとどまらせるきっかけになった人だと
「無理です。"アイツ"の代わりは誰にも務まらない。
あなたがどんなに姿を変えても、尽くしてくれても俺もあなたと同じであなたを一番に据えてあげることはできない。俺は貴女が思うほど優しい人間じゃないんですよ。
つい昨日も冷血漢なんて言われちゃいましたからね」
最後の一言は笑いながらおどけてみせる。
もう二人の距離は先程までの近い距離にない。
覆い被さらんばかりに近づいていた柔らかな体も甘く安心するような匂いも見つめられれば動悸が速くなってしまう潤んだ瞳も離れている。
「それに、俺はあなたの作り話に最後まで付き合うことはできませんでした」
その時点で濡羽にかける言葉なんてたかが知れている。大変だったね、かわいそうに、そんなありきたりな言葉をかけるだけで濡羽が救われるとは奏には思えなかった。
出会った順番が違えば違っていたかもしれない。確かに奏は濡羽に騙され魅了され虜にされてしまっていたから、濡羽のことを欲しくなってしまっていたから。
それでも"彼女"のことをふと思い出した奏は連られるようにして仲間たちのことも思い出した。千菜や〈三日月同盟〉のみんなを、ミノリやシロエたち|〈記録の地平線〉のみんなも、エルノのことも、クインのことも、他にもたくさんの人たちを。
この世界に来て奏には簡単に捨てるには深く根を下ろしすぎた居場所がある。
"彼女"と濡羽の出会う順序が逆だったら、奏はみなのことが濡羽に埋め尽くされていた心の中に湧き出てくることはなかったかもしれない。
嘘つきにだからこそ話すことができた。普段なら煙のようにぼかしてしまう奏の本心。
「あなたが欲しているのは自分を見てくれる人だ。シロエがどういう返事をあなたに返すかはわからないけれど、俺はあなたのことを嫌いになったりしないことだけは約束します」
最後まで濡羽に向き合うことが出来なかった奏にはそれくらいの無責任な言葉を紡ぎ出すのが精一杯だった。その精一杯の言葉は濡羽に届いたのかは奏にはわかりはしない。
「奏さん、あなたはもう、百恵様とはもうお会いになりましたか?」
奏の言葉に対して何を思ったのか目を一瞬だけ閉じた濡羽は脈絡なくそう言葉を言った。
奏の目は大きく見開かれる。ミナミでの目撃証言はマイクロフトから聞いていた。けれどまさか西の総督と関係を持っているとは思っていなかった。いや、彼女ならありえない話ではないと納得することは容易いと考えを改める方が自然だった。彼女は比喩表現なしで神に愛されてあらゆる才能に溢れていたのだから。
<大災害>に巻き込まれたその日、奏が最初に念話で連絡を取ろうとした千菜と奏の実の姉。<大災害>の次の日にはフレンドリストの名前が暗転してしまっていたこの半年以上をあらゆる手を使って探していた行方不明の肉親
濡羽の言葉に奏の体は先ほど真逆に、濡羽へ覆いかぶさんばかりの勢いで近づかれる
「っ!……来ているんですか、この街に」
「来ているよ、ボクは確かにここにいる」
振り返った。聞き慣れたその声に反応して、久しく聞くことのなかった声の主をその目で見定めようと
振り返ったその視線の先には、千菜とそっくりな大きな猫目と奏とそっくりな笑顔を浮かべた女性が堂々とそこにいるのが当たり前のように腕を組んで立っていた。
「八枝、久しぶりだね。
感動の再会の前にまずは濡羽ちゃんから離れなさい」