Ange Vierge Désespoir infini 作:黒井押切町
秀は、柔らかな感触を背中に受けながら、目を覚ました。掛けられていた布団を勢い良く剥いで、まず目に入ったのは、見慣れない、白い天井に、見たことのない機器が多数置いてある、近未来的な部屋の様相だった。部屋には星の光が差していて、薄暗くなっていた。
「ここは、どこだ? それに、俺は」
両断された時の記憶が蘇る。確かにあの時、秀は自分が死んだと思った。だが、生きている。生き延びている。部屋の壁にかかっている時計を見ると、地球時間11月19日19時16分とあった。あの日から1日進んでいる。
秀は、己の腰より下を見た。そこには、しっかりと上半身と繋がった下半身があった。
(夢だったのか? いや、それなら俺が目覚めるのは寮の部屋だ。ここは、明らかに違う)
秀が思考を巡らせていると、部屋の自動ドアが開き、部屋の電気が付いた。
「ようやくお目覚めになりましたか、秀様」
声がした方に向くと、仏頂面のカレンが佇んでいた。カレンは秀に近づくと、急に仏頂面を崩して心配そうな目で秀の顔を覗き込んできた。
「お怪我は、大丈夫でしょうか?」
秀は、いつもと違う、柔らかい口調のカレンに不覚にもどきりとしてしまった。
「あ、ああ。大丈夫だ。ちゃんと繋がってるしな」
秀は平静を取り繕って返事をしたつもりだったが、ぎこちなくなってしまった。
「そうですか。お顔が赤いのは言及しないでおきます」
「それはどうも。で、コードΩ33。ここはどこだ?」
「
秀は、カレンの言葉を聞いて、どうりで見慣れないものがたくさんあると納得した。だが、もう一つ気になることがあった。
「あの後、どうなった? レミエルは無事なのか?」
「彼女は無事です。今は、あなたが死んだと思い込んで塞ぎ込んでしまってますが」
それを聞いて、秀は胸をなでおろした。レミエルの無事が分かっただけでも、大分嬉しい。
「そうか、良かった。で、あの後はどうなったんだ」
「ジュリアなら、あなたを真っ二つにした後、すぐ去りました。なぜそうしたかは分かりませんが、とにかく、私はその後、レボ部の方々に協力を依頼して、あなたを生かしたままここに連れてきてもらったわけです。レミエル様は、ただ呆然としてらっしゃいましたが」
「レボ部か。なるほど。確かに、あそこには時間を止められる奴とか、瞬間移動できる奴とかいるしな」
レボ部というのは、正式名称はレボリューション部で、真生徒会を名乗る、青蘭学園の部活の一つである。たまに問題を起こしては風紀委員に追いかけられているため、生徒の間ではすっかり有名になっている。風紀委員とレボ部の対決は、もう一般生徒にとっては見世物と化しているため、一度対決が起こるとどっちが勝つかなどという賭けをする生徒までいる。秀の言う「時間を止められる奴」というのは、レボ部部長の椎名あずさのことで、「瞬間移動できる奴」というのは、副部長のユノ・フォルテシモのことだ。
「あなたは今すぐに帰ることができます。あなたには、日常に戻る権利があります。死にかける思いなど、もうしなくても良いのです。後は、風紀委員に任せるのが良いでしょう」
カレンが優しく言った。それは、とても甘美な響きがした。思わず頷きそうになる。だが、秀の心の中で、それを拒絶する意思が生まれた。
村にいた頃は、秀が人間と認識していたモノは秀ただ一人だった。だから、逃げても何ひとつ罪悪感を感じることはなかった。だが、今は違う。秀が感じた恐怖に関連した人間がいる。後ろ指を指されることは無いだろうが、自分だけ楽をするのは、大変卑怯な行いに感じられた。第一、逃げたからといってジュリアが襲撃してこないとも限らない。もし逃げたりしたら、秀は罪の意識に苛まれ、恥ずかしさでレミエルやカレン、ガブリエラに合わせる顔も無いまま、ジュリアに怯えて、以前よりもずっと過ごす価値の無い人生を送ることになるだろう。そのようなことは、想像するだけでもごめんだった。
「俺は、逃げない。どうせ、あの女がまた襲ってきやしないかとビクビクして生活するくらいなら、負けたままでいるくらいなら、いっそ」
「彼女と闘う、ということですか」
責めるようなカレンの口調にも動じず、秀は、強き意志を持って首を縦に振った。
「どうせ、あなたを止めても、無駄なのでしょう?」
「ああ」
「ならば、あなたは強くなるべきです。心の強さは十分なようですので、身体的な強さを身につけなければいけません」
カレンは諦めたようにため息をつくと、柔らかな笑みを浮かべた。
「私の知り合いに、その手の専門家がいらっしゃいます。その方に協力を仰ぎましょう。では、早速行きましょうか」
カレンは踵を返すと、足早にドアに向かった。
「ま、待て!」
秀は、慌てて彼女を呼び止めた。カレンが、髪をなびかせて振り返る。その顔に、なぜだか分からないが、悲涼としたものを感じた。
「なんでございますか? リハビリなら、必要ありませんよ。SWEの医療技術は五世界で一番ですから」
「違う、そうじゃない。聞きたいことがまだあるんだ。あの時、どうしてお前はジュリアと戦っていたんだ? 理由がないわけじゃないだろ?」
「交戦していた理由、ですか。大したことではないです。あの者が何やらこちらの情報をどこかに流している様を見て、それを問い詰めたところ、戦闘状態になった訳です」
「そうか。教えてくれてありがとう。それじゃ、行くか」
自分が手を貸した先が悪ではないことを確認した後、秀は星の光を背中に受けて、立ち上がって、ベッド脇に置かれていた自分の制服を着て、カレンの後を追った。
***
カレンと共に病院から出ると、そこに待ち構えていた人物がいた。
「おや、レボ部の皆さんではないですか」
カレンが呟く。待っていたのは、椎名あずさ、ユノ・フォルテシモ、シャティー、コードΣ43メルト、鶴谷由唯の五人。レボ部フルメンバーだった。
「どうされましたか?」
「どうもこうもないわよ。ただちょっと通りかかっただけよ」
あずさは素っ気なく答えた。するとシャティーが、秀の腕をつついてきた。
「なんだ?」
「あずさの言ってることは嘘。本当はここで五時間くらいずっと待ってた」
「なっ……! ちょ、ちょっとシャティー! 何言ってるのよ!?」
あずさは暗がりでも分かるくらいに顔を真っ赤にしてシャティーに怒鳴った。夜の空気に、その声はよく響いた。
「あずさ、顔赤かとよ?」
九州弁のメルトが、不思議そうな目であずさを見つめた。
「あずさちゃん、ひょっとして、新しい恋の予感?」
ユノが面白がるように言うと、あずさは彼女に詰め寄って反駁した。
「恋なんて、そんなのあるわけないじゃない! 大体、マトモに話したことないし、その……」
「あーちゃん、そんな無理に隠さなくてもいいよ。ていうかもうみんな分かってるし」
由唯が笑顔で言った。それをあずさが唾を飛ばす勢いで否定する。そんなあずさを面白がって、レボ部の面々があずさをからかう。秀は放っておいたらいつまでもそのやりとりが続くような気がしたので、咳払いをしてから言った。
「椎名、フォルテシモ。ありがとな、助けてくれて」
すると、あずさがレボ部の輪から抜けて、秀に近寄った。
「べ、別に、お礼言われるほどのことじゃないわよ……。でも、よかった。私にとって見ず知らずだったけど、助けたあんたが生きていてくれて」
「うん。私も、あずさちゃんと一緒にあなたを助けた一人として、とっても嬉しいよ」
ユノが笑って告げた。
「あ、あのさ、あんた、上山……だっけ?」
あずさが、少しモジモジしながら訊いた。
「ああ。そうだが、どうした?」
「え、えっと……」
あずさは俯いて逡巡している様子でいたが、やがて決心したように顔を上げると、秀に手を差し伸べてきた。
「——レボ部に入らない? あたし、あんたとならこれまでよりもっともっと楽しくやれる気がするのよ。あんたもきっと楽しいと思うわ」
秀は、あずさの手を見つめた。この手を取れば、あずさの言う通り、今までとは違う、楽しい日常が待っているのだろう。だからこそ、秀は手を取るのを躊躇った。ここでそうすれば、それはついさっき拒否したばかりの、逃げる、ということだろう。それに、あずさ達と共に行動することになれば、レボ部を巻き込んでしまうことになる。そして、青蘭島では、まだレミエルが落ち込んでいる。近しい人が沈んでいるときに自分だけ楽しい場所に行ったら、帰った時に彼女は何を思うだろうか。それを考えると、やはりレボ部には入らないのが良いと思った。
「悪い。気持ちだけ受け取っておく」
秀が告げると、あずさは背を向け、顔を下に向けた。
「そっか。そうよね。初対面の人に勧誘されても、普通断るわよね」
「ごめん。だが、助けられた恩はいつか返す。絶対だ」
秀はあずさの背に強く言った。あずさは何も言わない。
「それじゃ、俺は行く。またな」
秀はそれだけ言うと、踵を返してカレンと共に歩き出した。
***
「あずさちゃん……」
秀が去った後、ユノがあずさに遠慮がちに声をかけた。
「いいのよ。あいつが恩は返すって言ってくれただけで、あたしは満足できたから」
あずさは俯いてしまっていた顔を上げ、無理な笑みをレボ部の皆に見せた。
「あーちゃん、無理しなくても……」
「そうばい! 無理はいかんね!」
「由唯とメルトの言う通り。辛かったら辛いってはっきり言った方がいい」
由唯、メルト、シャティーが口々に言う。あずさは、嬉しくて涙が出そうになった。強がりで意地っ張りなこんな自分でも、レボ部の仲間たちは心配してくれる。それが、とても嬉しい。
「ありがとう、みんな。本音を言えば辛いわ。でも、まだ勧誘する機会はいくらでもあるわ。まだ、まだ終わらないのよ!」
自らに言い聞かせつつ、あずさは告げた。自分が折れてしまわないように。
「うん、そうだね。あずさちゃんの言う通り。まだ諦めちゃダメだよ!」
ユノが、あずさの言葉に続けて言った。それに、皆が頷く。意思は固まったようだ。
「じゃ、これからの方針が決まったところで、景気付けにいっちょ言うわよ! せーの!」
レボ部の皆が、大きく息を吸い込んで、揃った声で、合言葉をはっきりと告げる。
——レボリューション!
***
秀とカレンは、夜のSWEの街を歩く。その街並みを見て、秀が最初に感じたのは、まるでSF小説の世界に入ったみたいだ、ということだった。街は光の玉に照らされ、車は地に着いておらず、浮遊して走っている。広告は全てホログラムで、青の世界のように、壁にチラシが貼ってある、というような所はない。また、そこかしこにロボットやアンドロイドが闊歩している。それらより、人間の方が少ないだろう。とにかく、全てが人工的だった。
「どうですか? SWEの街は」
カレンが何気ないように尋ねてきた。秀はそれに、率直な感想を返した。
「正直言って、凄いとは思うが住みたいとは思わんな。この、なんと言うか、全部機械に任せてしまえって空気が気に食わん」
「ここにいる人間にも、そんなことを言う人がいますよ。この世界はアンドロイド優先ですから、人間が不平を言うのは仕方ないと思いますが」
そう言ったカレンが、秀には
「何かあったのか?」
秀が尋ねると、カレンはこくりと頷いた。
「昔に一度、不満を爆発させた人間の一部が、EGMAを破壊しようとしたことがあったのですよ。当然、失敗しましたが」
「その後どうなったんだ?」
「何も変わりませんでした。EGMAは引き続き、アンドロイドとロボットによる支配体系を執ることにしました」
カレンは、ため息まじりに答えた。
「なるほどな。それじゃ不平を言われる訳だ」
「ええ。ですから、またいつ反乱が起こるか分からないので、早急に対処する必要があるのですが、EGMAは頑なに動こうとしません。一体、何をしているのか……」
最後の方だけ、淡々と話していたカレンの言葉に、感情がこもったように感じた。
「そんなことよりも、秀様」
カレンが、口調を強めて話題を変える。
「本当に良かったのですか? レボ部の誘いを受けなくても。私は、本音を言えば受けて欲しかったです。影からでも護衛を付ければ、ジュリアを警戒する必要もなく、楽しい日常を過ごせたかもしれないのですよ?」
「コードΩ33……?」
そう言ったカレンは、泣いていた。通行人が、何事かと秀たちを見てくるが、カレンは全くそれを気にしていないように続ける。
「私は、私は……! 先はああ言いましたが、本当は、あなたに、あなたに死んでほしくないのですよ! 人の死など、所詮は事象……。生命の宿命だと、分かっている筈ですのに、私は、あなたに生きていてほしいと、願うのであります……」
カレンは、縋るように秀の服にしがみついてきた。これほど弱々しい姿を見せるカレンを、秀は見たことがなかったし、噂などでも聞いたことがなかった。セニアですら知らないだろう。本当にそうであるなら、カレンは、セニアに対する感情とは違う、秀を想う気持ちを持っていることになる。どう応えるべきか。秀自身は、まだそういう感情を持つに至っていない。しかし、それは秀の推測でしかない。正確性はない。だから、秀は「死んでほしくない」という気持ちに返事をすることにした。
「悪い。俺は、誰がなんと言おうと、あいつと戦うって決めたんだ。たとえお前や、レミエルが止めたとしても」
「そう、ですか……。分かっておりました。そういうことは。分かって、いたのです」
カレンは、しがみつく力を弱め、俯いた。そのまま、しばらく沈黙が続いた。
「最初は、なんとも思ってなかったのです」
ポツリと、カレンが呟きを漏らした。
「ですが、ジュリアと交戦した時、あなたが
カレンは顔を上げた。その瞳は、涙に濡れていた。
「コードΩ33……」
「その呼び方は、お止めください。カレン、と、呼んでください」
「だけど」
「あなたは、私が涙を初めて見せた存在なのです。だから、個体識別コードではなく、名前で呼んでいただきたいのです」
「……分かった。カレン」
秀は、カレンを体から離して、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめて告げた。
「悪いが、俺はお前の想いに応えることはできない。俺は、まだ誰にだって、愛情を持ったことがないんだ。だから、ごめん」
秀は、飾っていない、ありのままの本心を言った。すると、カレンはため息をついた。
「そう、ですか。分かりました。あなたが、誰かに愛情を抱くまで待ちましょう。それでは、行きましょうか」
「ああ」
秀が頷くと、カレンは秀の隣に立って歩き出した。街の光が、とても眩しかった。
***
カレンは、ある広い邸宅の前で歩みを止めた。
「そこに、専門家ってのがいるのか?」
カレンは首を縦に振った。そして、インターホンを鳴らした。
「私です。鍛えてほしい人間がいるのです。……ええ。お願いします」
会話が終わると、カレンは秀に向いた。
「残念ですが、私が付き添えるのはここまでです。あとは、あなただけで頑張ってください」
「うん。分かった。また、青蘭島でな」
カレンはこくりと頷くと、名残惜しむように去っていた。秀はその背中を見送ると、門の前で、専門家とやらを待ち構える。どんな人だろうか。よく軍事映画などに出てくる、鬼教官のようなゴツゴツとした男なのだろうか。そんな思考を働かせていると、邸宅のドアが開いた。そこから姿を現したのは、秀の想像から、大きく外れた、背の低い、軍服らしき服に身を包んだ、金髪の一人の少女だった。
「ガキじゃねえか……」
どう見ても自分よりも年下としか思えない少女を見て、秀は思わずつぶやいていた。
「ガキとはなんだ貴様。それが物を習う者の態度か!」
その幼い姿とは裏腹に、威圧的な態度で彼女は歩み寄ってきた。
「私の名はサングリア=カミュだ。これから反吐が出るまで鍛えてやる。覚悟しておけ!」