Ange Vierge Désespoir infini 作:黒井押切町
秀が覚醒して最初に見たのは、白い天井だった。背中には、硬いベッドの感触。多分保健室だろう。日の光の大部分はカーテンで遮られている。カーテン越しに感じる光の色は赤だ。ということは、外はもうとっくに夕方になっているのだろう。
ふと右を見ると、制服姿のレミエルがベッドを枕にして眠っていた。彼女を見て、先のカレンとの熾烈な戦いを思い出した。
(そっか……頑張ったんだよな、こいつ。それにひきかえ俺は……)
精神が耐えられなかった。痛みと、リンクの精神心的負荷に。情けない、と、秀は自嘲する。プログレスである少女は戦えるのに、αドライバーである少年は、ただ傍観するだけだ。痛みを味わい、プログレスを強化するだけの存在。共に戦うなど、嘘っぱちだ。
胸を掻き毟りたくなる衝動——悔しい、悔しい、悔しい! ……始めて、本気で、心の底からそう感じた。暴れたい、あらゆるものを壊したい。そう思い始めた頭を、秀は深呼吸して落ち着かせる。レミエルもいるのだ。そんなことができるはずがない。
秀は、謝罪の念も込めて、レミエルの頭を撫でた。そうすると、
「あ……起きましたか、秀さん」
レミエルが目を覚ました。申し訳なさそうな目で、彼女は秀を見つめる。
「すみません、私が弱いばかりに、秀さんを……」
「いや、弱いのは俺もだ。俺は、痛みとリンクに耐えられなかった。確かにカレンの方がお前より強いが、お前だけの責任じゃない」
秀は、下を向いて告げた。すると、レミエルが秀の顔の方に近づいて、頬を両手で挟んでから、持ち上げて告げた。
「下を向かないで下さい。下を向くのは、私だけで十分です。あなたには、上を向いて笑ってほしい、です……」
レミエルは、柔らかな笑みを浮かべていた。秀は、何も言えなかった。その笑顔に、ただただ見とれていた。
しばらくそうしていると、レミエルが顔を赤くして、
「あの、秀さん。何か話してくださいよ……。見られてるだけじゃ、恥ずかしいじゃないですか……」
レミエルが、秀から手を離して云った。
「あ、ああ。悪い。……と言っても、話すことがないな。とりあえず保健室から出るか」
秀に、レミエルは少しだけ嬉しそうにして、小さく頷いた。
***
保健医の許可を得て保健室から出ると、レミエルがこんな事を言い出した。
「もう一度、コロシアムに行きませんか?」
「コロシアム? 何のために?」
「特訓、です。まだカレンさんもいたら、付き合ってくれると嬉しいなぁ、なんて……」
レミエルは、頭を掻きながら云った。
「いいんじゃないか? 少なくとも、その姿勢は間違っちゃいないと思うぞ。俺も、負けてばかりじゃいられないからな」
秀が肯定すると、レミエルは少し照れたように俯いて云った。
「ありがとう……。嬉しい……です。私を言葉で肯定してくれたのは、ユラや、ガブリエラ様くらいしかいませんでしたから……」
「そうか」
秀は、それだけ言った。あまり踏み込みすぎるのはよくないと感じたからだ。そしてその時、レミエルと共に強くなりたいと、心に秘めた。
***
昇降口から出て、コロシアムに向かう途中、レミエルが突然立ち止まって、カラスの鳴いた方に向いた。
「どうした?」
秀が尋ねると、レミエルは夕焼けの赤い空を見つめたまま答えた。
「いえ。ただ、美しいなって、思っただけです」
「美しい? カラスがか?」
「……はい。カラスは汚いってよく言われますけど、それでも、自由に空を飛べます。飛べない翼よりも、飛べる翼の方が断然美しいです。自分の翼は飛べもしませんから、醜いですよ」
日の光が落ちていって、だんだん暗くなっていく。レミエルは表情を曇らせて、俯きがちになっていた。そんな彼女に、秀はため息をついた。
「あのな、お前」
「はい……? なんでしょうか?」
「自分が人前でできないことを人に言うな」
「え?」
レミエルがキョトン、とする。
「だから、自分が人前でできないなら人に言うな、って言ったんだ。お前、俺に下を向くな、って言ったくせに俺の目の前で下を向くんじゃあない。下を向くのは自分だけでいいなんて格好つけていたが、それでも言ってから10分も経たずに下を向くな」
「……すみません」
レミエルが視線を落とす。秀は、呆れながらに彼女の頭を軽くチョップした。
「下を向くなって言ったろう。もっと上を向いて胸を張れ。最初から出来ないなんて決めつけるな。プログレスは進化する少女なんだろう? ならきっと空も飛べるようになるさ」
レミエルの瞳に、少し光が灯った。
「あ、絶対とは言えないぞ? ただ、そうした方が、ずっと俯いているよりは大分マシだろうってことだ」
「そう、ですよね。でも、秀さんが言うなら、そうなんだって気がします。……努力してみます」
そう言って、レミエルは顔を上げて胸を張った。少し無理しているように思えたが、秀は何も言わなかった。最初はそれでいい。とにかく少しでも自信をつけてやらないことには、何も始まらない。
「あ、あの、秀さん……!」
レミエルが、頬を夕焼けのような朱に染めて訊いた。
「私の翼、どう思いますか……?」
「どう、か……? うーん……」
よく見たことがなかった。あまり意識したことがなかったからだ。秀はレミエルの翼をじっと見てみる。穢れの全くない、見事なまでの純白の翼だ。
「綺麗だと思う。少なくとも、お前が卑下しているほど、醜いものじゃない」
「そう、ですか……えへへ」
レミエルが頬を綻ばせる。心底嬉しそうな彼女を見て、秀もまた、微笑んだ。
コロシアムに着くと、そこには誰もいなかった。まだ戦いの匂いが残る空気だけが、そこを支配している。
「コードΩ46もいないか……。どうする——って、レミエル?」
レミエルは、秀から少し離れたところで実験棟の方を見つめていた。
「あ、ちょっと強そうな魔力が実験棟の方から感じられたので……」
「強そうな魔力?」
「はい。なんだか、水が隙間から漏れたような感じですが」
「ふーん、まあ、俺らには関係ないだろ。特訓しようか」
「……いえ、行きましょう」
レミエルが険しい表情で云った。その顔は、少し頼もしく思えた。
「なんだか殺意のようなものも混じってます。誰か戦っているのかもしれません。それも、ブルーミングバトルではないもので」
「もしそうだとしたら、関係ないって知らんぷりは出来ないな。急ごう」
レミエルが頷く。秀はそれを確認すると、全速力で実験棟に走った。
***
レミエルの感覚を頼りに、魔力の源へ向かう。その途中で、破壊音を聞いた。
「今の音……!」
流石に秀でも、この音源はわかった。今いる一階の奥の方だ。
「秀さん」
レミエルは、表情を硬くして告げた。
「戦闘になるかもしれません。心の準備をしておいた方がいいです」
「ああ。分かった」
秀はそう答えたが、手は震えていた。それを打ち消すために、拳を強く握る。そして、足の震えを誤魔化そうと、前を見据えて駆け出した。レミエルもそれに続いた。
十数秒間走ると、空気が一瞬で変わった。秀が感じたことのない強烈なプレッシャーが、全身にのしかかる。前は埃が舞い上がっていてよく見えない。そして、その埃の煙の中に、見覚えのある緑黄色の稲光を微かに見た。
「コードΩ33か!?」
秀は、思わずその名を叫んだ。
「……ッ!? 上山様でございますか!?」
「そうだ! レミエルもいる!」
「うつけ者! 早く逃げるのです! こ奴は危険です。あなた方が太刀打ち出来る相手ではありません!」
カレンが必死に訴える。秀は、それにすぐ従うことにした。カレンが危険というほどの相手だ。カレンに完膚なきまでに叩き潰された自分たちが勝てるものではない。廊下を引き返そうとするが、何かに弾かれて、進むことは叶わなかった。
「無駄よ。その結界を破ることは出来ないわ」
煙が晴れ、妖艶な女の声が聞こえた。それと同時に、カレンが部屋のドアを破って、廊下の壁に叩きつけられた。
「コードΩ33! 大丈夫か!?」
「アンドロイドは痛みを感じませんから、心配は無用です。それよりも、逃げられないなら、風紀委員に連絡を」
カレンは涼しい顔で立ち上がり、急かすように言った。
「さっきから連絡しようとしているのですが……なぜか電波が繋がらなくて……」
レミエルが、申し訳なさそうに答えた。すると、
「あら、片翼の天使なんて、珍しいわね」
先ほどと同じ声。その主が、倉庫、とプレートのある部屋から出てくる。不敵な笑みを浮かべ、人形を従えた彼女は、カレンを無視してゆっくりと歩み寄り、スカートの裾を持ち上げて、秀とレミエルに一礼した。
「初めまして。ジュリアよ。あなたの名は?」
「俺は上山秀。で、こっちの天使はレミエルだ」
「ふうん。まぁ、敵対しない限り、私はあなた方に手出しはしないわ。大人しくそこで観戦してなさい。——と」
突如、鉈を持った人形が動き出し、ジュリアの背後にそれを投げた。
「あらあら。話の途中で攻撃してくるなんて、無粋ね、あなた」
ジュリアが振り返る。彼女のすぐ近くに、カレンがいつもの仏頂面で構えていた。その肩には、さっきの鉈で出来たであろう切り傷があった。
「無粋で結構でございます。無粋であることは、私のような戦闘用アンドロイドでは当たり前のことです」
そう言いつつ、カレンは秀にそっと目配せした。秀は、瞬時にその意図を理解した。だが、それが露呈してしまえば、ジュリアに敵とみなされてしまう。そうしたら、レミエルにも被害が及ぶかもしれない。
(どうする……?)
思考の末、秀は首を縦に振った。何の目的かは分からない。だが、カレンが敵として認識したからには何か理由があるのだろう。なら、協力しようと思った。ジュリアにそれを悟られたらどうなるか分からないが、そうなる前にカレンが倒してしまえばいいと思った。その為にも、αフィールドは展開しなかった。それは効果範囲内にいる全てのプログレスに効果がある。このような狭い場では、ジュリアも範囲に入るため、秀が手出ししたことが分かってしまうかもしれない。
カレンが後ろに跳躍し、ジュリアと距離を取って、腰を低く落とした。今だ——秀は、カレンをイメージする。彼女の体に、己の魂を貫き通す。木が根を張るように、カレンの体に精神を行き渡らせる。そして、繋がった——そう感じる。
「……参ります」
カレンが跳躍する。その飛距離、勢いはさっき戦った時とは比べ物にならない程強大だ。ジュリアは、少し後ずさりした。秀の側からはジュリアの背中しか見えないため、表情は確認できないが、きっと驚いているだろう。後ずさりしたというのはそういうことだ。
「人形たち!」
ジュリアの余裕をなくした号令で、人形がジュリアの壁となる。それをカレンは一蹴りで薙ぎ払い、緑の稲妻を腕に纏わせ、ジュリアの腹に拳を入れる。
「がっ……!」
今度はジュリアが吹き飛び、壁に円状の亀裂を作って激突する。その衝撃で冠がジュリアの頭から取れた。ジュリアが噎せたように吐血する。彼女は、落ち着くと冠を拾って歩き出した。彼女の口元には笑みが浮かんでいる。暫くすると、耐えきれなくなったように、声を上げて笑い出した。
「……何が、おかしいのです」
「いや、本当に馬鹿だと思ったのよ。ねぇ、あなた」
ジュリアは秀の方に向いて、冷たく、凶悪に口角を上げ、目を細めて告げた。
「——敵対しない限り、手出しはしないと言ったのにね」
ジュリアが指を秀に向ける。すると、刀を持った、少し大き目の人形が秀に向かってきた。
「秀さん!」
「上山様!」
レミエルとカレンが前に出る。だが、二人は重力系のような魔法で壁に押し付けられてしまった。
沈みかけの太陽に照らされた刃が迫る。秀は、それを避けようとしなかった。いや、できなかった。脚が竦んで、動かなかったのだ。
そして、体が宙に浮いた。
視界が回る。見えたのは、血を噴水のように吹き上げる、上半身の無い下半身。意識が急速に失われる。闇に沈む中、レミエルの悲痛な絶叫が、最後に聞こえた。