Ange Vierge Désespoir infini   作:黒井押切町

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ヴィクトリー・クロスII EGMA編
非情なる決断、涙の惜別


 朝の食堂。秀は昨夜レミエルに散々にやられたおかげで、すっかり朦朧としていた。かろうじて意識は保てているものの、このような状態では敵襲に備えられたものではない。

 

「秀さん、なんかげっそりしてますけど、大丈夫ですか?」

 

 エクスシアが心配そうに秀の顔を覗き込んでくる。秀は、彼女に力なく笑って返答した。

 

「いや、昨晩色々あって、レミエルに絞られてな」

 

 そう言いつつ、秀はかつてカミュから貰った覚醒剤を取り出した。戦闘時は常に服用していたが、非戦闘時に使うのはこれが初めてだった。数錠口に含んで、水で飲み込む。その様子を隣に座るレミエルが不思議がって眺めていた。

 

「秀さん、それ何?」

 

「覚醒剤」

 

 秀は短く答えて、食事を再開した。その秀の言葉に反応したのは、レミエルではなくあずさだった。

 

「覚醒剤って、それ大丈夫なの?」

 

「ある意味じゃ全然大丈夫じゃないが、少なくとも朦朧とした状態で敵に相対するよりよっぽどマシだ」

 

「ご安心ください。我々が使用している覚醒剤は、S=W=E製で、効能はそのままに、中毒性を排することに成功したものです。とはいえ薬に頼りがちになるのは感心しませんから、あまり奨励はしませんがね」

 

 リーナが立ち上がって、秀の説明の補足をした。へえ、とあずさが嘆息する。その間に、秀は薬のおかげですっかり目が覚めた。意識もはっきりしている。これならいつ敵が来ても戦えると、秀は安心した。

 秀がふと食堂の入り口を見やると、一枚の紙とマイクを持ったアイリスが入ってくるのが見えた。すぐに彼女と目が合い、アイリスは顔を赤らめながら、微笑んで秀に手を振った。秀が手を振り返し、アイリスが秀から目を離したところで、秀の肩にそっと手が置かれた。

 

「秀さん、やっぱり浮気してたんじゃ」

 

「違う! 断じて違う!」

 

 秀は必死に弁明するが、レミエルの目は半信半疑だった。秀の焦りが最高潮に達したところで、アイリスのマイク越しの声が聞こえてきて、その場の空気が一旦リセットされた。

 

「はい、注目。突然だけど、これから新しい組織編成を発表するよ。後で掲示しておくけど、ここでしっかり聞いておいてね」

 

 秀の疑問がひとつ解けた。昨夜アイリスが言っていた、反対されたら云々というのはこのことのようである。

 

「じゃあ、まず総統は引き続きこの私、アイリスが就任します。それと、参謀副長も兼任するからよろしくお願いします」

 

 アイリスは丁寧語でそのように落ち着き払って言った。皆々、形式的に拍手する。秀もそれに倣って軽く手を鳴らした。

 

「副総帥は仲嶺サングリアに任命します」

 

 これまた拍手が起こる。当のカミュは、涼しい顔をしていた。まるでこうなることを予測していたかのようだ。

 

「参謀長はマユカ・サナギ。並びに二人目の参謀副長はシルト・リーヴェリンゲンに任命します」

 

 拍手の中、マユカとシルトは呆然と顔を見合わせていた。秀にとっても、マユカは先の戦闘で指揮を執っていたのでまだ分かるが、シルトを抜擢したのは意外だった。彼女はまだ完全にはアイリスに帰順していない。アイリスもそれは分かっているはずである。一種の賭けのようなものだろうと秀は理解した。

 

「以下参謀と、各部隊の編成はこの後すぐに、各掲示板に掲示しますので、この場では各部隊長の発表のみ行わせていただきます。では人間解放軍第一部隊隊長は仲嶺サングリア。第二部隊隊長はリーナ・リナーシタ。次に、竜族第一部隊隊長はジークフリード。第二部隊隊長はクラリッサ。そして第一特殊隊隊長はフィア・ゼルスト。第二特殊隊隊長はエクスシアに、それぞれ任命します」

 

 このときも、例に漏れず拍手が起こる。マユカが参謀長に就任したおかげかフィアが第一特殊隊の隊長に任命されたくらいで、特に変化は無い。

 アイリスが出て行った後、秀たちは急いで食事を終え、近場の掲示板に走っていった。

 

「あれ、あたしとユノ、HQ(ヘッドクオーター)要員って書いてある」

 

 あずさはその編成表を見て、不思議そうに呟いた。恐らくはその意味するところを知らないのだろう。

 

「めちゃ簡単に言えば司令部つきってことだよ。昨日のあれで結構欠員出ちゃったから、あなたたちが参入したのがちょうど良かったんだ。前線に出ることはまず無い役職だけど重要な役目なんだ。だから今から急いで訓練するからね」

 

 秀たちの背後にアイリスが現れ、そのように言った。その言葉に、あずさは慌てて反駁する。

 

「ちょ、ちょっと。私たちはまだ入るって決めたわけじゃないわよ」

 

 アイリスはその言葉に目を丸くした。そして、そのままの表情で、わざと間延びさせたような喋り方で言った。

 

「世界水晶を守るのを助けてくれたり、勝手に寮の部屋使ったり、勝手にタダ飯食べてったから、てっきり私たちに加わると思ったんだけどなー。残念だなー。加わる気がないなら出て行ってもらうしかないなー。こんな可愛い娘を路頭に迷わすのは遺憾だけど仕方ないなー」

 

「待って待って。あたしまだこの組織のこととか全然分かってないのよ。秀から聞いたことくらいしか知らないの。だから決め倦んでるだけよ」

 

 あずさがあやすように言うと、アイリスは「なんだそんなことか」と顔を明るくした。そして、意気揚々とユノも巻き込んであずさたちにT.w.dについてのレクチャーを始めた。その間に、秀たちは編成表をじっと見る。

 

「俺とレミエル、シャティーは第二の方の所属か。となると。おい、エクスシア」

 

 秀はエクスシアに呼びかけた。声をかけられたことに気がついた彼女は、落ち着いた様子で秀に答えた。

 

「なんでしょう」

 

「第二特殊隊って、部隊員の構成以外に第一と違うところってあるのか?」

 

「前と同じなら、私たちの専門は諜報です。例えば、今も少数は赤の世界に残っていますが、以前赤の世界に潜入していたT.w.dの構成員は全て第二所属です。直接的に戦闘に参加する時は、偵察や撹乱などの役割を担うそうです。とはいえまだこの部隊が直接的に戦闘したのは昨日が初めてで、偵察はしてましたが撹乱はしませんでしたがね」

 

「なんだかこっちの方が第一よりも特殊っぽいね」

 

 編成表に目を通し終えたらしく一歩下がったレミエルが、会話に入ってきた。

 

「元々はアイリスさん直属って意味で特殊隊でしたからね。今は特殊隊を名乗る意味も無いですが、新しく呼称を付ける必要もないのでしょう」

 

「そういうことなら私は得意かもね。私の複製の異能も役立ちそうだし」

 

 シャティーも会話に加わる。それから、堕天使三人で話が盛り上がり始めて、秀はすっかり手持ち無沙汰になってしまった。仕方がないので一旦その場から離れて、閑とした廊下の片隅でテリオスを呼び出した。

 

「テリオス。お前って通信の傍受とかできるか?」

 

「お安い御用です。しかも白の世界ではロストテクノロジーと化した技術で行いますので、白の世界のものが相手なら逆探知もされにくいでしょう。しかし何故そのようなことを」

 

「俺が所属される第二特殊隊が諜報とか偵察とか撹乱を専門にする部隊だそうだから、気になってな」

 

「なるほど、そういうことですか。それなら私を使うことはその任を果たすには最善と言えるでしょう。私には不可視化及びステルス能力もあります。偵察もお茶の子さいさいです」

 

「それは頼もしいことだ」

 

 秀がそう言った瞬間のことだった。けたたましく警報が鳴り響いたのだ。秀はすぐさま意識を切り替えて、指令を待ちつつ、窓から外を覗いた。すると、正門の向こうにDr.ミハイルのの率いるアンドロイドの軍団がいた。そして、その中に秀はカレンとセニアの姿を見つけた。

 

        ***

 

 秀とレミエルは、カレンとセニアと、寮の部屋でテーブルを囲んで座った。彼女らは敵として来たのではなく、協力の申し入れをするために来たとのことだった。この二人がここまで入れたのは、秀がアイリスに懇願したおかげで、常に監視を付けるという条件付きで許してもらったためだった。

 

「この話に私は期待しています。秀様と再び共に戦えるかもしれないのですから」

 

「私もそう思います。まだ秀さんと十分に仲良くできていませんし、あなた方からは学びたいこともたくさんありますから」

 

 カレンとセニアは無邪気に語る。対して、秀とレミエルは渋い表情で顔を見合わせた。彼女らも人間解放軍がT.w.dにいることは分かっているはずだが、それでも交渉に期待するというのは、彼らを甘く見ているがゆえだと秀は判断した。彼らのアンドロイドへの確執は、利害が一致した程度で覆されるものではない。

 

「そういえばレミエル、その姿となってから言葉を交わすのは初めてでございますね」

 

「え、ああ、うん。そうだね」

 

 レミエルがぎこちなく答える。彼女も、秀と同じことを考えているに違いなかった。秀は心臓がはち切れそうな思いで、アイリスたちの交渉の早期決着を祈った。

 

        ***

 

 カーテンで陽の光を遮った青蘭学園の会議室で、アンドロイド側の代表のミハイルと、アイリスが交渉に臨んでいた。ミハイルの側には数名のアンドロイドがいる。アイリスの方にも、護衛としてエクスシアを立たせていた。お互い席に着くと早速、ミハイルがアイリスに条件を盛り込んだデータの入っているUSBメモリーを差し出した。青の世界に合わせたようである。

 

「私たちは、アイリス殿の思想に共感しました。賢明なご判断を期待しています」

 

「分かりました。これを元に部下との協議をさせていただきますが、よろしいでしょうか」

 

 アイリスは電子媒体で提示されたことに苛立ったが、それを隠して丁寧な言葉で尋ねた。

 

「構いません。その間、私たちはどのように致せばよろしいでしょうか」

 

「ここで待機してください。大した時間はかからないと思いますので」

 

 アイリスにはこの交渉の結果は既に見えていた。たとえ、この条件がいかにT.w.dに有利であろうと、カミュたち人間解放軍がいる以上、決裂は必至だ。この協議というのも、最早一応の確認に過ぎなかった。

 アイリスは防音仕様の隣の部屋に入った。そこにはカミュを始めとした副総帥、参謀チームの幹部たちが揃っていた。

 

「さて、一応このデータの開示はしなきゃね」

 

 幹部たちが見守る中、大事をとってデータが全て消去してあるノートパソコンに、そのUSBメモリーを挿入した。その中にはウイルスの類は入っておらず、文書ファイルのみが入っていた。

 

「ったく、文書ファイル作ってあるなら印刷してよ。こんなめんどくさいことせずに済んだのに」

 

 アイリスはその文書ファイルを開くと、それをプロジェクターを介してスクリーンに映した。そこに書いてあった条項で、重要だと思われるものは四つだった。ひとつはミハイルが率いて来たアンドロイドを、T.w.dの傘下に加えること。もうひとつは、いくつかの物資をT.w.dに提供すること。そしてEGMAの解放と、最後に、今と、アイリスが造り直した後の世界でアンドロイドの権利を保障すること。これらはかなりの好条件だった。特に、アルバディーナが抜けたことによる戦力不足と、箱舟を建造したために不足がちになっていた資材の問題が、一気に解消できるという点ではかなり有難い。

 この場の殆どの人間が、この条件を飲んで彼女らを傘下に加えたいと考えているに違いなかった。ただ、一部を除いては。

 

「ふざけるな……!」

 

 カミュの押し殺したような声が聞こえた。彼女と、人間解放軍出身の何人かの参謀は、怒髪天を突くかのような気迫で、明王のような形相をしていた。

 

「我々がいることが分かっておきながら卑しくも協力を取り付けようとするだけでなく、このような屈辱的な条件を突きつけるとは! 何たる不遜!」

 

 カミュは怒りのままに言い放つ。そうして、一転して無表情になると、今度はアイリスに向いた。彼女の表情こそは無いが、アイリスには、その瞳の奥に隠しようもないほどの憤怒をありありと感じた。

 

「アイリス殿。まさかとは思いますが、彼の者らの申し出を受け入れようか迷っているわけではありますまいな」

 

「カミュ」

 

 アイリスは、どうしても駄目かと訊こうとしたが、それを口にすることはなかった。答えは聞くまでもなくノーだ。彼女が妥協などするわけがなかった。

 

「もしもそうお考えで実行するならば、我らはアイリス殿たちを敵とみなしすぐにでも攻撃します」

 

 それは脅迫じゃないか――アイリスは怒鳴りそうになったが、すんでのところで堪えた。これまで共に戦ってきた人間解放軍を敵に回せば、アイリスたちの士気は格段に低下する。それはアンドロイドを拒否することで低下する程度以上のものだろう。それに、人間解放軍の軍事力の方がミハイルが引き連れてきたアンドロイドよりも高い。人間解放軍を取るか、アンドロイドを取るか。選択すべき答えはアイリスの中で既に出ていた。

 

「分かってるよ。行ってくる」

 

 アイリスはカミュと目を合わせずに告げると、踵を返した。そのついでに、他の幹部の表情を見る。誰も感情を表に出していなかったが、苦渋に満ちているのはよく分かった。アイリスは心の中で彼らに謝りながら、会議室に入った。そして、椅子に浅く腰掛けた。対面するミハイルの表情は真剣だった。しかし、アイリスには彼女が期待の眼差しを向けていることがよく分かった。だから、彼女の申し出を断ることを考えると、胸が苦しくなった。

 

「申し訳ありません。この話はなかったということで」

 

 アイリスは感情を押し殺し、毅然を振舞ってそう告げた。ミハイルや、背後のアンドロイドの表情が見る見るうちに失望に染まる。そして、その失望は怒りへと変わり、ミハイルは机を両手で強く叩いた。

 

「何が不満なのだ、何が! 我々が付けられるだけの限界の条件を付けたんだ。あれ以上に望むことがあるのか!」

 

 ミハイルの剣幕に、アイリスは圧倒されていた。普段ならこの程度は軽く流せるのだが、今回はアイリスに後ろめたさがあったため、上手い返しが思い付かなかった。だが、幸か不幸か、先ほどアイリスが入ってきたドアが乱雑に開かれた。入ってきたのはカミュだった。彼女は軍靴の音を高く響かせながら、大股で歩み寄っていき、ミハイルの胸ぐらを掴み、強引に引っ張り上げた。その際にミハイルの体が机や椅子を押しのけ、ミハイルが痛みに小さな呻き声を上げた。

 

「不満以外に何があるものか! 白の世界で人間の役割を次々に奪っていっただけでなく、今度は青の世界もアンドロイドで侵略しようというのか!」

 

 ミハイルは、全く状況が理解できていないようだった。瞠目し、口をパクパクさせている。アイリスはカミュを取り押さえるべきだということは分かっていたが、体が動かなかった。カミュの全方向に向けられた殺気が、アイリスを椅子に、エクスシアを壁に縛り付けていた。

 

「わ、私たちがアンドロイドの高性能化に成功したから、危険な事故現場や戦場に人間が赴かずにすみ、生活が豊かになって人間が幸せになったのだろう! 侵略など――」

 

「それは貴様ら技術者の思い上がりだ! 白の世界を自分たちの力で守ることを誇りとしていた我々が、どんな思いで軍を解体されたか、貴様らには分かるまい! 我々だけではない。警察や消防、会社の運営、果ては医療や家事さえも、人間は追いやられ、殆ど機械が担うようになってしまった。今や、人間がしなければならないことは殆ど無くなってしまった。もっとも、貴様のような技術の発展しか見ないような下劣な者には、それが素晴らしいことに映るのだろうがな!」

 

 カミュはミハイルの言葉を遮り、激情のままに捲し立てた。そして、とうとう彼女は銃を取り出し、ミハイルの顎に突きつけた。

 

「即刻去れ。貴様に去る気が無ければここで射殺する! そして二度と私の前に姿を現わすな!」

 

 流石に見兼ねたアイリスは、勇気を出してカミュを力の限りに羽交い締めにした。それでカミュの手からミハイルが落ち、数体のアンドロイドに支えられながら、彼女が噎せ返る。

 

「落ち着きなよ、カミュ! やりすぎだよ!」

 

 アイリスはカミュの耳元で怒鳴りながら、ミハイルに目を向けた。仕方のなかったこととはいえ、アイリスの心は痛んでいた。新たに仲間になりそうだった者らを拒絶するのは、彼女にとってかなりの苦痛だった。

 アイリスの視線から彼女の心情を悟ったのか、ミハイルは彼女を支えていたアンドロイドに目配せして自分を立たせると、逃げるように会議室を出て行った。

 

「アイリス殿、何をされる!」

 

「それはこっちの台詞だよ。あなたの主張は分かるけど、でもあっちは仲間に入りたいって言ってきたんだ。そんな人に暴言を吐いたり、ましてや本気で銃を突き付けるなんて、普通じゃない!」

 

 カミュは押し黙ってしまった。それから段々と冷静になっていくカミュの表情を見て、アイリスは羽交い締めを解いた。そして急いで会議室を出て廊下に立った。しかし、この時にはとっくにミハイルたちの姿は見えなくなっていた。

 

        ***

 

 カレンが先ほどミハイルから受けた指令は、カレンを顔面蒼白にさせ、会話を打ち止めさせた。交渉の決裂、青蘭島からの即時撤収。それは、秀と共に戦えないことを意味していた。カレンは秀とレミエルを見やる。二人とも、居た堪れないといった風であった。

 

「お姉ちゃん」

 

 セニアが、カレンの衣服の裾を弱々しく掴んだ。彼女は唇を固く結んでいた。カレンには、彼女が何を思っているかはよく分かった。別離が悲しいのだろう、きっとそうだと、カレンは思った。やがて、セニアはカレンから手を離し、その手を膝の上に置いた。

 

「全然、私は秀さんや皆さんと交流することができませんでした。交渉が成功すれば、皆さんとより交流を深めることが出来たでしょうに。残念でなりません」

 

 セニアは、淡々と口にした。そして、一旦目を伏せ、ゆっくりと立ち上がった。

 

「先に行きます」

 

 セニアは三人に背を向け、ドアまで歩いていく。カレンにはその背中に異質なものを感じた。はっきりとは分からなかったが、いつもの子供らしさは感じられない。十歳の子供がいきなり二十歳の大人の風格を得たかのようだった。カレンがあっけにとられている間に、セニアは部屋から退出した。

 セニアが居なくなり、妹の手前だという意識が無くなったゆえか、カレンは涙を流し始めた。カレンはそれを拭おうともせず、自然に流れるままに涙した。

 

「秀様。私は、私は……!」

 

 涙に滲んだ視界で、カレンは秀を見た。ぼやけて彼の表情は見えなかったが、彼もカレンを見ていることだけは分かった。それだけでカレンは嬉しかった。しかし、嬉しく思うだけでなく、同時に彼と離れることへの躊躇いも大きくなった。

 

「私は嫌です! 秀様やレミエル、レボ部の皆様と殺し合うなど、出来るはずもございません!」

 

「カレン、俺は」

 

 秀が何か言いかけるが、カレンは手を突き出してそれを止める。そして、カレンが今作ることができる限界の、なれべく明るい笑顔を無理に作ってみせて、そのまま告げた。

 

「これが今生の別れとなることを願います。さようなら」

 

 カレンは秀とレミエルの言葉を待たず、部屋を飛び出した。ミハイルと合流する前に涙を振り払い、顔をいつもの仏頂面に戻した。自分は戦闘用アンドロイドだ。情に流されるのは他のアンドロイドにでも任せておけばいい。カレンは必死に己に言い聞かせた。それが功を奏して、ミハイルの元に着いた時にはすっかり落ち着いていた。

 

「Dr.ミハイル。これからいかがなさるおつもりですか?」

 

 カレンが尋ねると、ミハイルは上空の(ハイロゥ)を見上げて次にカレンとそれ以外のアンドロイドを見渡して答えた。

 

「白の世界に戻り、EGMAを力づくにでも奪還する。今は人間解放軍の手の内にあるが、人間の手に負えるものではない。彼らが持て余しているのが何よりの証拠だ」

 

「その後、どうするのですか?」

 

「EGMAにお伺いを立てる。それが最良の手段だろう」

 

 このミハイルの言葉に、カレンは激しい嫌悪感を覚えた。彼女の発言が、気味が悪くて仕方がなかったのだ。

 

(Dr.ミハイルは、お伺いを立てると確かに言いました。仮にも人間が作った物に敬語を使ったのですか、この者は)

 

 カレンは人間解放軍の、アンドロイドを殲滅するという思想もおかしいと感じていたが、このEGMAを信奉するミハイルのような考えも、同じくらいおかしい。以前はカレンもどちらかといえばミハイル寄りの立場だったが、それでもEGMAに小さな反感は抱いていた。それが今、反感は一層強まった。

 

「どうかしたか、カレン」

 

 気がつくと、ミハイルが訝しげな目をカレンに向けていた。カレンは「いえ、何も」と言い、アンドロイドの集団の中に紛れた。その時、カレンと入れ替わるように、セニアがミハイルの隣に立ち、何かを話し始めた。カレンは、その話の中身を聞く気にはならなかった。

 

        ***

 

 ジュリアの目の前で、ミハイルとアンドロイドが門の向こうに転移し、姿を消した。ジュリアはカレンとミハイルのやり取りを思い出してほくそ笑んだ。

 

「一人でも叛意が芽生えたということは、あの集団は終わりね。気にかけるほどのことでもないわ。アイリスは多分EGMAと箱舟防衛のために解放軍全軍くらいを派兵するでしょうから、青蘭島を攻めるならこれほどの好機は無いわね」

 

 ジュリアは一瞬、このことをアルバディーナに伝えようかと考えたが、やめた。このような重大な情報を見逃したとあらば、アルバディーナが世界を手にすることなど夢のまた夢だ。

 

「私って意地悪かしら。まあいいか」

 

 ジュリアがこれからどうしようかと考えていると、ふとひとつの人影が目に入った。黒の統合軍制服を纏った低身長で華奢な体躯に、短い銀髪。間違いなくアインス・エクスアウラだった。ジュリアは戯れに尾行することを考え、それを始めた。当然のことではあるが、霊体故の驚異的な影の薄さで、ジュリアは一切気取られることなくアインスの尾行に成功した。彼女が行き着いた先は、あるビルの地下の部屋だった。その入り口のところには、アインスが付けたのか、指紋で解錠するタイプの鍵が取り付けられていた。

 

「こんなのあったら何かあるって丸分かりじゃない」

 

 ジュリアは始めはそう思ったが、その鍵の内部機構をよく見ると、毒針が仕掛けられていた。承認された者以外が触れると、その毒針が射出される仕組みのようだ。しかもその毒針には小型のドリルが仕込んであった。それを成したのが如何な技術かは分からなかったが、とにかく入られたくないのはよく分かった。

 

「まあ怖い」

 

 ジュリアは呟きながら、アインスの後ろに付いてその向こうに入っていった。すると、そこには意外な人物たちがいた。

 

「白の世界で戦闘になりそう。連中の喉元に飛び込むなら今」

 

 アインスがそう言った相手は、美海、ソフィーナ、ルビー、ユーフィリアだった。アインス以外の統合軍の将校は見当たらない。

 

「こりゃ意外な組み合わせだわ。まあでも彼女らの間に縁がないわけじゃないか」

 

 ジュリアはまあとりあえず、と彼女らの会話に耳を澄ませることにした。その内容によっては、今後のジュリアの行動方針に関わってくるかもしれない。

 

「警備の穴なら私が作るから、またとないチャンスになるよ」

 

 アインスが柔らかい口調で、美海たちを唆す。それに対して、最初に反応したのはソフィーナだった。

 

「そうね。私は乗るわ、その話」

 

「私も賛成よ。これを逃したら次は無いと思った方が良さそうだしね」

 

 ソフィーナに便乗して、ルビーもアインスに呼応する。美海が未だ決めかねている中、次に口を開いたのはユーフィリアだった。

 

「私もそう思います。ですが、私はT.w.dの所有するマスドライバーの破壊を行いたく思います。彼らに先んじてマスドライバーまで辿り着き、破壊に成功すれば彼らが白の世界に行くのに、少しは時間が稼げるでしょう」

 

「それはいいけど、破壊するならT.w.dが出来るだけ多くマスドライバーに行ってからにして。引き返されたら勝つ見込みが少なくなる」

 

 ユーフィリアがアインスの言葉に頷く。残ったのは、美海だけであった。ソフィーナとルビー、ユーフィリアは固唾を飲んで見守っていた。しかし、一向に下を向いて煮え切らない様子で話出さない美海に、ソフィーナはついに怒り心頭に発した。

 

「美海! いつまで決めかねてるの! あとはあなただけなのよ!」

 

 ソフィーナが怒鳴ると、美海はようやく顔を上げた。だが、そこに元気発剌とした様子はない。そして、口を開いたかと思うと、そこから出てきたのは譫言のような物だった。

 

「もう、話し合いじゃ無理なのかな。クラスメイトだっているんだ。分かってくれるかもしれない」

 

「何を寝ぼけたことを言っているの! 昨日のマユカと秀を見たでしょ! あの二人、まるで私たちに関心を示していなかったじゃない! それに、レミエルも、赤の世界で私たちを本気で殺そうとしてきた。もう、無理なのよ。話し合いなんて」

 

「……そうだね」

 

 美海はあたかも亡霊のようにゆらりと立ち上がった。やはり元気さは無かったが、風格が先ほどとは違った。

 

「これは面白くなりそうね」

 

 ジュリアは美海の佇まいだけ見届けると、そこから離れて外に出た。すると、陽の光がやけに眩しく感じたのだった。

 

        ***

 

 カミュは、総統室でアイリスと向かい合っていた。カミュは総統の椅子に座り、そのデスクの前にカミュがいる。この時のアイリスは、カミュが見たことのないくらい、アルバディーナが裏切った時以上にあからさまに不満を顔に出していた。だが、カミュはあえてそれに気づかなかったふりをして、アイリスに名簿を提出した。

 

「ミハイルらはEGMAの奪回に動くでしょう。ちょうど箱舟が完成したとの報告がつい先ほどあったので、箱舟の受領も兼ねて、そこの名簿に記載した人員、大半は解放軍両軍を白の世界に派兵させていただきたい」

 

「あなたが蒔いた種でしょ。準備してさっさと行きなよ」

 

 アイリスはぶっきらぼうに言った。そうして、彼女はカミュを蔑むように睨みつけた。

 

「カミュさ、今の自分が誰かに似てると思わない?」

 

「は?」

 

 カミュは、アイリスが何故そのような質問を投げかけたか見当もつかず、素っ頓狂な返答をしてしまった。すると、アイリスは目を伏せて、名簿をファイルにしまうと、立ち上がってカミュに背を向けた。

 

「用が済んだら出て行って」

 

「分かりました。その名簿にも書きましたが、実戦の体験も兼ねて、CPに椎名あずさとユノ・フォルテシモの両名を組み込みたく思います」

 

「好きにすれば」

 

 アイリスは尚も背を向けたまま、短く言った。カミュはその態度に苛立ちを覚えながらも、それを表に出さずに退出した。すると、そこで丁度秀と出会った。

 

「白の世界に行くのか」

 

 秀が尋ねる。彼は一見して普段と変わらぬ様子だったが、その声は微かに震えていた。必死に平静を装っているのがよく分かった。

 

「ああ。EGMAを連中の手から守らねばならぬ」

 

 カミュは秀を慮って、あえて気づかぬふりをして答えた。すると、秀のポケットから、テリオスがくぐもった音声で話しかけてきた。

 

「カミュ殿。私たちをそれに従軍させていただけませんか?」

 

 カミュはテリオスのその発言に呆気にとられた。しかし、それでもっとも狼狽したのは秀だった。

 

「テリオス! 何を勝手に!」

 

「秀殿には話していません。カミュ殿、よろしいでしょうか」

 

 怒鳴りつける秀を軽くあしらい、テリオスは再度カミュに尋ねた。

 

「ああ。別に私は構わんが。秀はいいのか?」

 

 カミュが訊くも、秀は俯きがちになってずっと黙って眉間にしわを寄せていた。そうしているうちに、解放軍でのEGMAの防衛の作戦会議の時間が迫ってきてしまった。

 

「済まないが秀、私は会議に急がねばならない。またな」

 

 カミュは秀に口早に別れを告げると、すぐに会議室に走っていった。途中で秀の方を振り返るが、彼はまだ下を向いていた。

 

        ***

 

 秀はカミュの姿が見えなくなったのを確認すると、すぐに近場の男子トイレの個室に駆け込んで、鍵を閉めた。そしてテリオスのデバイスを取り出すと、それに拳銃を突きつけた。

 

「お前! 一体何のつもりでああ言った! 返答次第ではここでお前をスクラップにして、ここのトイレに流すぞ!」

 

「先ほどアンドロイドと秀殿が会話していた時、私のメモリーの未開放領域だった部分が一部開放されました」

 

 激しい剣幕で怒鳴る秀に対し、テリオスは淡々とした口調で話を切り出した。

 

「それで?」

 

「開放されたのは、私の存在意義、つまり私が作られた目的に関する情報です」

 

「何?」

 

 秀は、思わず拳銃を握る手を緩めた。

 

「私はEGMAを破壊するために、当時反EGMAを主張していた軍隊の技術将校によって極秘裏に開発されたようです。もっとも、その時の詳細などは、未だ分かりませんが」

 

「だから、従軍させてEGMAを破壊させろと。そういうことか」

 

 秀は銃をしまいながら、低い声で尋ねる。

 

「はい。その通りです」

 

「分かった。だが、俺は一切手を下さない」

 

「それはどういうことです!?」

 

 秀が告げると、テリオスは怒っているとも言うべき口調で、秀を非難し始めた。

 

「私という存在の意義を先ほど聞いたでしょう! 私のアイデンティティは、一心同体である秀殿のアイデンティティであると同義です! さあ、前言を撤回しなさい!」

 

「ええい、五月蝿い! AIの如きが説教をするな!」

 

 苛立ちが頂点に達し、秀はテリオスを怒鳴りつけた。勝手に従軍を決められたことに加え、アイデンティティを勝手に設定された。これで苛立たぬ訳がない。秀はテリオスのデバイスを両手で握り直して、そのままの語気で言った。

 

「それに何が一心同体だ! 勝手に俺のアイデンティティを決めつけるんじゃない!」

 

「秀殿が私の使用者になった時点で、そういう運命だったのです。今更抗わないでください」

 

「黙れ! それに、俺は青の世界の人間だ。EGMAの破壊なんて、白の世界の運命を左右することを俺が実行する権利は無い!」

 

「なら、私にどうしろというのですか!」

 

「俺の知ったことか! 自分で考えろ! 出来ないのなら俺は白の世界には行かない!」

 

 秀はテリオスの答えを待たずにポケットに仕舞い、個室の戸を乱暴に開け、タイル貼りの床を軍靴で甲高い音を立てながら、廊下に出た。すると秀が曲がった丁度その時、向かい側から歩いてきたリーナと肩がぶつかった。しかし秀は振り向きもせず、そのまま真っ直ぐに歩いていった。


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