Ange Vierge Désespoir infini   作:黒井押切町

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図南の鵬翼、苦悩の先に出した答え

 アルバディーナの見ていた風景は、青の世界水晶の大部屋から、いつの間にか夕焼けに燃える洋上のものに変わっていた。目の先には、うっすらと日本列島が見える。そして、背中のあたりを何かで吊られているような感覚もある。アルバディーナは訳もわからず、眼前の光景を何度も何度も確認し、大声で喚き散らした。

 

「これは一体どうしたことなの!?」

 

「あら、時間が動き始めたようね」

 

 頭上から、いつもの調子のジュリアの声が聞こえた。アルバディーナは元の人間の姿に戻って魔法で浮遊して、深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、ジュリアに説明を求めた。

 

「椎名あずさの介入があったのよ。それで時間が止まってね。ゴーストだからか知らないけど影響を受けなかった私が急行したのだけれど、助けられたのはあなた一人だけだったわ」

 

「そうだったの。それなら仕方ないわね。ありがとう、助けてくれて」

 

「元々私はあなたのお助け役だからね。このくらいはお茶の子さいさいよ」

 

 ジュリアは胸を張る。その姿を見て、アルバディーナはかなりの安心感を得た。ジュリアがいなければ、あそこで自分は死んでいたかもしれない。蜂起初日でリーダーが死ぬなど、言語道断だった。

 

「これからどうするの、アルバディーナ」

 

 ジュリアがアルバディーナの隣に来て尋ねる。アルバディーナは暫く考えた後、断腸の思いで決断した。

 

「これからT.w.d東京支部を本拠として、青蘭島に展開していた部隊を引き上げさせるわ。世界水晶への奇襲が失敗して、黒の世界が向こうについて、モルガナが重傷を負った今、青蘭島の軍勢を相手にする力は私たちには無いわ。青蘭島以外の地球の制圧を先に行う。青蘭島は、まあ、鶏肋というやつよ」

 

「冷静かつ妥当な判断ね。そう言うと思って既に各部隊に通達しておいたわ」

 

「私がこう判断しなかったらどうするつもりだったのよ」

 

「あなたが目標を達成することは無くなるから、ここで世界のために死んでもらっていたわね」

 

 ジュリアは平然と言い放った。顔は笑っているが、アルバディーナにはその裏が分かる。ジュリアの言は間違いなく本気だ。アルバディーナがジュリアに犯した罪は並大抵のものではない。彼女は助っ人でもあるが爆弾でもある。迂闊なことは何も言えない。

 だから、アルバディーナは作り笑いを浮かべて何にも気づいていないように振る舞った。

 

「冗談にしてはキツイわね。さ、そろそろ東京支部へ行きましょう?」

 

 アルバディーナはそう言って前に進む。その際にジュリアの表情を伺ってみたが、普段と同じく笑みを浮かべるばかりで、今度はその裏を読むことはできなかった。

 

        ***

 

 青蘭島からのアルバディーナ派と赤の世界の完全な撤退が確認されたため、秀たちはひと時の休息を得ることとなった。しかし全く脅威が消えたわけでもないので、交代制で見張りと巡回を行なっている。

 そのような中で、秀とあずさは、広い青蘭学園の校庭の中、二人きりで向かい合っていた。秀は今非番で、あずさは、ユノもそうだが、まだ立場がはっきりしておらず手持ち無沙汰な状況にあった。

 二人の顔を、夕焼けが真っ赤に染め上げる。二人とも遠慮し合っていて中々話し出すことができないようで、向き合っているとはいってもその眼は明後日の方向を向いていた。

 その光景を、ひとつの教室からユノとシャティー、レミエル、そしてリーナが見守っていた。

 

「中々いい絵ね。写真を撮りたいくらい」

 

 シャティーがそう呟くと、レミエルは元々眉間に寄っていた皺をさらに寄せ唇を尖らせてシャティーに噛み付いた。

 

「全然いい絵じゃないよ。私というものがいながら、あんなにデレデレして」

 

「レミエルの言う通りです。これは裏切りというやつです」

 

 リーナがレミエルの言葉に便乗して不満を漏らす。それで、ユノは首を傾げて訊いた。

 

「あれ、レミエルちゃんが嫉妬するのは分かるけど、なんでリーナさんまでも怒ってるの?」

 

「な、何でもいいじゃないですか。節操の無い人は嫌いなんです!」

 

 リーナは顔を真っ赤にし、声を大にして答えた。すると、レミエルがリーナを睨んで言い放つ。

 

「秀さんは渡しませんからね」

 

「何でそうなるんですか!」

 

 リーナが怒鳴ると、レミエルは勝ち誇ったような顔を浮かべて、リーナを小馬鹿にするように言う。

 

「私、知ってるんですよ? リーナさんが、達也さんの家で寝るときは秀さんの布団で寝てたってこと」

 

「だ、誰からそれを!?」

 

 リーナが狼狽える。そこにつけこんで、レミエルは先と同様の口調で続けた。

 

「秀さんから聞きました。別にいいがあまり好ましくないとも言ってましたね」

 

「な、なんと。そんなことを秀が」

 

「残念ながら事実です。現実とは非情なもの」

 

 リーナをいじめるレミエルを見て、ユノは引き気味にレミエルに話しかけた。

 

「レミエルちゃん、性格変わったね……」

 

「まあその、色々とあったんだよ。話すと長いけどね」

 

 レミエルは誤魔化すように笑った。ちょうどそのとき、会話に入ってなかったシャティーが、ぼそりと呟いた。

 

「あ、話し出した」

 

 その言葉で、三人、特にレミエルとリーナは一斉に秀とあずさに食いつくように見入って、耳を澄ませた。その様子を一瞥して、シャティーは一際大きいため息をついた。

 

        ***

 

「一週間くらいしか離れ離れだった期間がなかったのに、なんだか一年ぶりに話す気分」

 

 あずさは、そのような言葉から話を切り出した。しかし、この時もまだ、彼女は秀を直視できていなかった。

 

「そうだな。俺もそんな気がする」

 

 秀が頷きを返す。あずさは会話を途切れさせまいと必死に話題を探す。そこで、緊張のあまり大事な約束をすっかり忘れていたことに思い至った。

 

「ねえ、秀。約束の話、聞かせてよ」

 

 それを受けて秀は間を置かずに頷いて、落ち着いた口調で語り出した。

 

「俺がT.w.dに入ったのは、アイリスの思想に共感し、そしてそれが、俺の根底にあった、戦う理由を真に満たすものだと判断したからだ」

 

「思想っていうのは?」

 

「世界を造り直し、無理矢理に因習を打破する。簡単に言えばこれに尽きる」

 

「じゃあ、秀の戦う理由って?」

 

「あくまでそのときの話だが、俺と同じ目にあう人を増やさないためだ。だが今はそうじゃない。アイリスに言われたんだ。大それた理想を背負うなと。それは一番上の役目で、俺のような下の兵士が背負うものじゃないと」

 

「なら、今はどんな理由で戦ってるの?」

 

 あずさが何気なく尋ねると、秀は顔を背けて黙り込んでしまった。初夏の夕日に当てられるその暗く沈んだ横顔を見て、あずさは胸が苦しくなった。

 

「分からないんだ。今日は無我夢中で戦った。戦ってるときは、ただ奴らを撃滅することしか頭になかった。普通に考えれば青蘭島の島民の皆を守るためだろうが、それも違う気がするんだ。戦った結果そう見えるだけで、戦う根拠にはなってないと思う」

 

 顔を歪ませる秀に、あずさはかける言葉を思いつけなかった。レミエルであれば、かける言葉が分からなくても、恋人として彼に寄り添い慰めることは容易であろう。しかし、あずさはあくまで友として、彼に寄り添わなければならない。苦悩の末、あずさは言葉を絞り出した。

 

「ごめんね。あたしには、何も気の利いた言葉が思いつかない。定型文的に言えば、これからじっくり考えたらいいって言えばいいんだろうけど、明日の命も知れない身だものね」

 

「ああ。こんなことが戦闘中に頭をよぎったりしたら困る。だから一刻も早く見出さないと」

 

 今度こそ、あずさは完全に言葉に詰まってしまった。そのことを苦々しく思ったのか、今度は秀が話を切り出した。

 

「そういえば、カレンとセニア、アインスはどうなってる?」

 

「分からない。あたしとユノは赤の世界の軍の後ろにくっ付いて門を超えたんだけど、その時には三人ともいなくなっちゃってたから」

 

 あずさは秀が気を遣ってくれたことに感謝しながら、歯切れよく答えた。秀が相槌を打った後に、彼の意識があずさの向こうに移ったのに気がついた。

 

「秀、どうしたの?」

 

「いや、校門のところがちょっと騒がしいようだから、少し気になってな」

 

 あずさも、校門の方に視線を向けてみる。すると、そこにはマユカと、見覚えある四人組の人影があった。

 

        ***

 

 アイリスは、青蘭島から敵勢力が撤退したのが間違いないとされた時に、ようやくことの顛末を知ることができた。しかし、そのことについて何か考える暇は彼女には無かった。アイリスは今、カーテンを全て締め切った総統室で一人、デスクについて各国に対しての対応に追われている。青の世界のあちらこちらに潜んでいたT.w.dの構成員がアルバディーナに呼応して、一斉にテロ活動を始めたのだ。その件で、すぐに止めさせろだとか、青蘭島に攻撃を加えるぞとの脅しだとかがメールで殺到していた。

 それらに対し、アイリスは「今の我々に彼ら全員を抑える力は既に無いから、そちらで対処してくれ」という旨の返答を送った。納得される筈もないが、事実なのだから仕方がない。更にメールが大量に来るのも分かってはいたが、それでも苛立ちは抑えられなかった。

 

「あー、もう! いい加減にしてよ!」

 

 アイリスは机を思いっきり叩いていきり立った。立った時、アイリスはもう一度座る気がすっかり失せてしまった。暫く考えたのち、気分転換がてら外に出ることにした。

 早足で昇降口まで行くと、正門のあたりで何やら揉めていることに気がついた。アイリスは手で日差しを遮りながら、そちらに歩いていくと、そこには美海、ソフィーナ、ルビー、ユーフィリアの四人に詰め寄られるマユカがいた。特に、ソフィーナとルビーが詰問しているようだった。

 

「どうしたの、マユカ」

 

 アイリスがマユカの肩を門越しに叩くと、マユカは飛び上がって彼女に向いた。

 

「ア、アイリスさん!? どうしてこんなところに!?」

 

「ああいや、ちょっと休憩。で、この子達は何なの?」

 

「ええと、アイリスさんに会わせろとうるさくて」

 

 マユカは横目で美海たちを見ながら、眉間にしわを寄せて答えた。すると、ソフィーナが大股で近寄ってきて、アイリスを睨んだ。

 

「あなたがアイリスね?」

 

「そうだけど」

 

「あなたの目的は、一体何なの? 青の世界水晶が目的と言っておきながら、青の世界水晶を守ったって話だし」

 

 アイリスは、わざと大きなため息をついた。ソフィーナやルビーの、アイリスを見る目で分かる。彼女らは、アイリスが何を言っても噛み付いてくる。ならばいっそと、アイリスは素直に答えることにした。

 

「私たちの目的は、世界を造り直し、因習を打ち壊すと同時に、異変を解決すること。これで満足?」

 

「その世界というのは、どうせあなたに都合のいいものなのでしょう?」

 

 ルビーが軽蔑するように見下す。アイリスは全く予想通りの反応に、思わずこめかみを指で押さえた。

 

「もしあなたの私利私欲が目的になく、本当に私たちの世界を考えてのことなら、戦争をしなくても、訴えかければ実現できると思うのだけれど」

 

 ルビーがさらに続けてくる。その考え方の能天気さに、思わずアイリスは呆れた。

 

「そんなのただの頭おかしい新興宗教の言うことと大して変わらないじゃん。武器を持ったってそれは同じだけど、銃を持たない者が言うことと、銃を持つ者が言うことじゃ、少なくとも後者の方が耳に残るでしょ? そういうことだよ」

 

「そんなのダメだよ、アイリスさん。みんなが納得しなきゃ、異変が解決されても意味がないよ」

 

 美海が懇願してくる。その目はソフィーナやルビーとは違う。純真そのものだ。何も分かっていない。理想を振りかざすだけで、それが実現できる筋道のひとつも見つけられていない。所謂「頭がお花畑」といった感じに近いだろう。アイリスはそう確信しながら、あえて次のように告げた。

 

「じゃあ聞くけどさ、そんなこと言うならあなた達、そのみんなが納得する方法とやらを用意してあるんでしょ? ぜひそれについてご高説を拝聴したいね」

 

「それは、みんなで――」

 

「『みんなで考えましょう』って? それは先見を持った頭脳明晰な人を協議するに足る人数を集めて、彼らの出す数々の対案について考察しろってことだよね? でもみんなで考えろといっておきながら、あなた達はひとつの対案も持っていない。話にもならないね」

 

 アイリスは美海の言葉を遮り、嘲笑し小馬鹿にして言った。アイリスの言葉に反論する材料が無かったのか、美海達四人は黙り込んでしまった。

 アイリスは戻ろうとする前にここまでのやり取りを反芻して、ユーフィリアが何も言っていないことに気がついた。

 

「ちょっと、そこのアンドロイド、そう、ユーフィリア」

 

 アイリスは彼女に話しかけてみた。ボーッとしていたユーフィリアは、それでだいぶ体を震わせた。が、すぐに落ち着いて、アイリスに尋ねる。

 

「何でしょうか」

 

「あなたみたいなアンドロイドが一味にいながら、あんなゴミみたいな案がよく通ったなって。何か理由でもあるの?」

 

「いえ、特には」

 

 ユーフィリアは短く簡潔に言い切って答える。合理性を尊ぶアンドロイドらしいといえばそうなのだが、アイリスは、彼女の場合はそれとは違うような気がしていた。短い言葉の節々に、微かな苛立ちがあるような気もしていた。

 

「何を気にかけてるの? 心ここに在らずって感じだけど」

 

「何でもありません。不愉快です」

 

「そ。私は気分転換に出てきたのに能天気アホっ子四人衆と会話して不愉快だけどね」

 

 アイリスが嫌味ったらしく言い返すと、ソフィーナが門越しにアイリスの肩を掴んできた。横から差してくる夕日の眩しさにも関わらず、彼女は目を見開いてアイリスを睨んでいた。

 

「手を出したね。それは私の言葉を認めることだよ」

 

「あんたは、あんたは! どれだけ人を馬鹿にして!」

 

「そりゃこっちの台詞さ。あの程度の言葉で私を動かそうなんて、舐められたもんだよ」

 

 アイリスは肩を掴むソフィーナの手首を握ると、少しずつ力を加えていった。すると、ソフィーナはすぐに苦痛に顔を歪めて絶叫した。

 

「勉強して出直してきなよ。早くこの場を離れる意思を表明しないと、あなたの右手首から先が千切れるよ」

 

「分かったよ。もう去るよ」

 

 美海は即答する。ソフィーナは滝のように汗を流し激痛に苦しみながら、信じられないといった目で美海を睨むが、美海は首を横に振った。

 

「ソフィーナちゃんのそんな顔、見たくないから」

 

 美海が目に涙を溜めてそう言うと、ソフィーナの、彼女に対する視線が柔らかくなった。それを見て、アイリスはソフィーナから手を離し、彼女の肩を押して突き飛ばした。ソフィーナに慌てて駆け寄る美海らを尻目に、アイリスは踵を返した。

 

「私は戻るから。マユカ、後は頼んだよ」

 

 アイリスはマユカに背を向けて歩き出した。その後発せられたマユカの威勢のいい返事が、アイリスの耳朶を打った。

 

        ***

 

 秀はアイリスらのやり取りの一部始終を遠目から見ていて、思わず息を飲んだ。隣のあずさも、引き気味に目を丸くしていた。

 

「おっかないのね、アイリスって。あんなに可愛い見た目なのに」

 

「ああ。俺らに対しては優しいんだけどな」

 

「秀殿。談笑にふけってる暇はございません」

 

 急に、これまで一言も発さなかったテリオスが喋り出した。

 

「あのアンドロイドが気になります。あそこまで転移しますよ」

 

 テリオスがそう言うと、秀が何か言う前に、彼は校門の外に飛ばされた。秀がなんだなんだと混乱している間に、テリオスが既に校門から離れようとしていたユーフィリアに問いかけた。

 

「そこのアンドロイド。あなたに使われている技術は、この時代のものでも過去のものでもありませんね。一体何者ですか」

 

 ユーフィリアだけでなく、ソフィーナと、彼女に寄り添う美海とルビーも秀の方を向いた。

 

「秀さんの声ではありませんね。あなたこそ何なんですか」

 

 ユーフィリアが秀を見つめる。それを受け、秀はズボンの前ポケットからテリオスのデバイスを取り出した。

 

「喋ったのはこいつだ。俺には何のことか分からんが、コードΩ00に用があるそうだ」

 

「私はテリオスです。試作型人間用強化外骨格テリオスのOSにして戦闘サポートAIです」

 

「テリオス……?」

 

 ユーフィリアはその名を呟き、少し考え込むと、敵意を持たない、ただ訝しむような目でテリオスのデバイスに目を向けた。

 

「あなたの作られた時期は、EGMAが作られた時期とほぼ同時期ですか?」

 

「その通りです。もっとも、開発の経緯や私の目的などは私の未開放領域にあるようですが」

 

 ペラペラ喋っていくテリオスに、秀は不安になっていっていた。それで、彼は小声でテリオスに釘を刺した。

 

「おい。それくらいにしておけ。どこまで喋るつもりだ」

 

「殆ど判明していない私の情報など大したものではないでしょう。あのアンドロイドの正体を掴む方が先決です」

 

 テリオスはきっぱりと言い切った。そして、テリオスはまた秀の言葉を待たずにユーフィリアに問うた。

 

「して、あなたは何なのですか? まさか未来のものとでも言うのですか?」

 

 ユーフィリアは閉口した。しばらくそのままだったが、やがて諦めたのか、突っぱねるような口調で言った。

 

「そう、そうですよ。私は未来から来ました。もっとも、私が元いた世界線ではテリオスシステムもT.w.dも、この時代で活動してはいませんでしたがね」

 

 ユーフィリアの突然の告白に、秀やマユカだけでなく、美海とソフィーナ、ルビーも驚愕していた。そうしているうちに、ユーフィリアは踵を返して美海の肩を叩いた。

 

「行きましょう。美海さんたちには後で話します」

 

 促されるままに、美海たちが歩き出す。テリオスは何も言わない。そして秀とマユカは、彼女らを呼び止めることすら出来ず、ただ呆然と立ち尽くすのみであった。

 

        ***

 

 アイリスは大股歩きで総統室への道を歩いていた。リフレッシュのために外に出たはずなのに、より一層腹を立ててしまっていた。美海らに構えばあのような思いを抱くのは当然なのにと、アイリスは自分のことながら不思議に思っていた。何かが己の正常な判断を阻害している。そのような気もしていた。

 悩みながら総統室の扉を開けると、聞き慣れない声が飛び込んで来た。

 

「すまないな、アイリス総統。邪魔させてもらっているよ」

 

 アイリスは慌てて総統室の中を隅々まで凝視した。すると、客人用のソファに、一人の女性が座っていた。すらりと伸ばしたストレートの黒髪に、自信満々な風を感じさせる金色の双眸。そしてフリルの沢山ついた黒のドレスを着ている。

 

「だ、誰!? どうやってここに入ったの!?」

 

 アイリスはブルーティガー・ストースザンを召喚し、謎の女性と距離を取る。すると、その女性は立ち上がって、怖気付くことなくアイリスに近づいてきた。

 

「すまんな。尋ねたら誰も返事がなかったから、勝手に入ってしまった」

 

「詫びる前に言うことがあるでしょ」

 

 アイリスが睨みつけると、女性は何度も頷いて、飄々とした風で、

 

「それはすまなかった。私が何者かだな」

 

「そう。早く言ってよ」

 

「うむ。私は魔女王ミルドレッドだ。色々アイリス総統と話したいことがあったのでな」

 

 アイリスは開いた口が塞がらなかった。黒の世界の者からは、滅多に外に出ず、人との接触は最小限に留めていて、一部を除いてその姿を見ることはほぼ不可能だと聞いていた。しかしかなりあっさりと会うことができたので、アイリスは混乱するほかなかった。

 

「おい。私がここまで出張ったのがそんなに珍しいか」

 

「はっ!? なんで私の心の内が読めるの!?」

 

「見れば分かるさ。そんなことより、アイリス総統の野望について、頭の中が知りたい。質問攻めにするがいいか?」

 

「ああ……、そ、そうしようか」

 

 アイリスは、先ほどのこともあって、そのような話にはあまり気が乗らなかった。それも見抜いたのか、ミルドレッドが何があったか尋ねてきたので、二人ともソファに座ってから、アイリスは先のL.I.N.K.sの四人とのやり取りを話した。それを聞き終えると、ミルドレッドは急にこのようなことを言い出した。

 

「うむ、ソフィーナは追放だ」

 

 アイリスは目を丸くした。

 

「脈絡なさすぎでしょ! なんでいきなりそうなるの!?」

 

 アイリスが突っ込むが、ミルドレッドはけろりとした顔で答えた。

 

「脈絡ならあるだろう? 総統が言ったのが本当なら、あんな阿呆はダークネス・エンブレイスの恥晒しだ。ましてや奴は魔女王候補筆頭。そんなのが間抜けたことをぬかすのだから、追放されて当然だ。誰だったかな、あんなのを推薦したやつは。そいつも一緒にクビにしてやる」

 

 ミルドレッドが一人で盛り上がってきていた。いよいよ自分の世界に没頭し始めたミルドレッドの顔の前で、アイリスは手を振ってみた。すると、ミルドレッドはハッとして、ひとつ咳払いをした。

 

「すまん。アイリス総統を質問攻めにするのであったな」

 

「ああ、うん。そうだよ」

 

 アイリスはため息をついた。このミルドレッドの調子では、何かの拍子にまた自分の世界に入りかねない。しっかりとした対談ができるか心配だった。

 

「単刀直入に言うが、世界を造り直すことで因習を打破し、異変を解決するというアイリス総統の案に、私は全面的に賛成する。わざわざ赤の世界にそのための秘術を取りに行くという行動力も評価できる。ただ、いささか焦り過ぎたな。アルバディーナらの優秀な人材の離反を招いたのはかなり手痛いだろう」

 

 ミルドレッドの言葉は、アイリスの心にぐさりと刺さった。まだそのことについて少しも思考を整理できていないのに、改めて突き付けられると、アイリスは遣る瀬無い気持ちになった。

 

「だが安心しろ。アルバディーナたちが抜けた穴は、完全にとは言わないが、私たちが埋めよう。もっとも、そちらの傘下に入るのではなく、あくまで協力ということさせてくれ。こちらとしても面子を保ちたいのでな」

 

「それはどうも。それだけで十分だよ」

 

「そう言ってくれると助かる。さて、本題だ。そなたの目的を果たすためには世界中を巻き込むことになる。反発する人間の方が多いだろう。それをどうするんだ?」

 

 ミルドレッドの目は、好奇心に満ちているようにも見えるが、その目の奥は冷たかった。この問いで、アイリスを試すつもりなのだ。それで、アイリスはミルドレッドを見つめ返して答えた。

 

「言論をもって反対するなら言論で制す。武力をもって反対するなら武力で制す。私が新しい世界で必要とするのは、協調性を有して、そこで懸命に生きる努力ができる人だ。新しい世界に反発する人に、それができるとは全く思えないもの」

 

「及第点だな。しかし、そんな人間ばかりの世などつまらんだろう。競争も起きやしない。停滞した世になる」

 

 ミルドレッドはすかさず質問してくる。アイリスは彼女の論の綻びを追求するその姿勢に感心しながら、その質問に答える。

 

「もちろん私が言ったのは理想だよ。人間性なんて見分けられないもの。怠け者も一定数入ってくるに決まってる。そして、私は彼らを新世界で処罰する気は無い。理由はあなたの言った通りだよ」

 

「なるほどな。では次の質問だ。国はどうする? その場で作らせるか?」

 

 ミルドレッドの質問に、アイリスは少し答え方に迷ったが、胸を張って答えた。

 

「国は、旧世界のものを踏襲するつもりだよ。そして、気候や生態系が出来るだけ元の国と似通った土地を探して、そこに割り当てる。全部の割り当てが決まるまでは、今白の世界で建造してる方舟で我慢してもらうことになるけれど」

 

「ふむ。では次だ。新世界において総統が言ったようにすれば、戦争が起こるのは必至だろう。それでは因習打破にはならんのではないか? それはどうする?」

 

 アイリスは思わず苦笑いした。この質問はかなり意地が悪い。ミルドレッドのアイリスを見る表情からしても、目を見開いて、口角を上げている。この質問がアイリスの答えにもっとも期待していることは間違いない。

 

「私は、戦争は因習ではあるけど、世界に意味を持たせるために必要だと思う。それは旧世界も変わらない」

 

「ほお? どういうことだ?」

 

「まず、戦争に限らず、争いというものは、全ての人の考えが何もかも一致していれば起こらないものなんだ。でもそれだと前に言った通り、停滞した世の中になる。そんな世界で心から天寿を全うしたいと思う人は一人もいないだろうさ。それに、戦争が無ければ国が衰微もしないし発展もしない。戦争が無く、食べて、寝るといった生活しか知らなければ、その辺の畜生と何も変わらない。戦争がいつ起こるか分からないから、国々がこぞって戦争が起こらないよう努力したり、逆に戦争を有利に持っていくために工作する。どちらのためにしても、それで技術が発展し、経済が回ることで、世界が動く。そしてそれは知的生命体にしか出来ないことだよ。もちろん戦争は唾棄すべきものだ。だけど知性を持って生まれたんだ。知的生命体に相応しい生活をしなくちゃダメでしょう」

 

 アイリスが語る間、ミルドレッドは黙って聞いていた。そして語り終えた時、腕を組んでふっと笑って告げた。

 

「相当押し付けがましいところはあるが一理はあるだろう。及第点だ。考えなしに戦争反対とほざく連中よりは全然マシだ」

 

「褒められてるのかよく分からないんだけど」

 

「褒めてるんだよ。喜べ。まだ質問は続くがな」

 

 アイリスが露骨に嫌だと顔に書くと、ミルドレッドはくっくっくと笑いを漏らしながら言う。

 

「そんな顔をするな。次が最後だ。因習打破のための様々な術を用意していると思うが、その核となるものはなんだ?」

 

 アイリスは最後の質問だと安堵すると同時に、これもまた迂闊なことが言えないと不安に駆られていた。しかし、アイリスには話すしかない。腹を括って、堂々と語り出した。

 

「力を入れるべきは教育だと考えてる。特に道徳教育。その国の文化に合わせた上で、愛国心を芽生えさせるような。基礎としてそういう教育をしなきゃ、自国の足を引っ張る人間が沢山できてしまうと思うから」

 

「ふむふむ。まあ悪くはないな。どうやら総統には、まだ磨く余地はあるがまともな考え方は備わっているということが分かった。まあこれ以上は何も聞かん。精進したまえ」

 

 ミルドレッドはそう言うと、ソファから立ち上がってまっすぐドアに向かって、そのままドアに埋まっていった。無事に会話が終わったと安心していたアイリスにとって、この光景はあまりにショッキングであった。

 

「は、はあ!? 何それ!?」

 

「ん? ああ。私は壁抜けが出来るんだ。ドアに鍵がかかっていようと簡単に入れるぞ」

 

 ミルドレッドはけろりとして言った。アイリスは、ミルドレッドが鍵がかかっていたにも関わらず総統室にいた理由が分かってひとつ納得したが、それでも目の前の映像は気色悪かった。そのようなアイリスの心情を知る由も無いミルドレッドは、体を半分ドアに埋めた状態で振り返った。

 

「そうそう。言うのを忘れていたが、ジークフリードとクラリッサの竜族部隊をここに置いていく。彼らは好きに使ってくれて構わんぞ。それと、救援が必要になったらいつでも言ってくれ。ではさらばだ」

 

 そう言って、ミルドレッドは完全にドアの向こうに消えてしまった。一人残されたアイリスは、暫くぼーっとしていたが、無意識のうちにドアを開け、寮の自室に向かった。歩いている廊下の奥は、闇に包まれていた。

 

        ***

 

 夜七時頃、見回りを終えた秀は、食堂でレミエル、ジークフリードやクラリッサと共に夕食を食べていた。器用に納豆をかき混ぜながら、ジークフリードは話し出した。

 

「しかし、思ったより緩やかなのですね、ここは」

 

「そうそう。結構みんな仲良かったりあたしたちにもフレンドリーでびっくりしたよ」

 

 クラリッサも便乗して口を開く。それに、レミエルが苦笑いを浮かべながら答える。

 

「あはは、そうじゃない人がごっそり抜けたからね」

 

「ああなに、そういうことなの」

 

「うん。特に私なんか、初対面のそうじゃない人に暴力を受けそうになったからね」

 

 あの時は怖かったんだよー、と笑顔でレミエルは話す。その間、秀は無言で箸を動かして食事を進めていた。もう少しで食べ終わろうかという所で、隣のレミエルに肘で突かれた。

 

「秀さんも会話に入ってよ。午前午後は戦闘だったし、夕方はあずさと話してばかりで、ようやく話せると思ったのに」

 

「いや、タイミングが見つからなくてな。すまなかった」

 

 秀がどうしたものかと考えていると、後ろから肩を叩かれた。振り返ってみると、そこには書類の束を持ったカミュが立っていた。

 

「食事の途中で悪いが、これをアイリス殿のところに持って行ってくれないか? 私はこれからジャッジメンティスの調整をしなければならなくて暇が無いんだ」

 

「食事を終えてからでもいいか?」

 

「ああ。でも出来るだけ早く頼む。正式な文書で、アイリス殿のサインがいるからな」

 

 秀がその書類を受け取って中身を見てみると、それはジークフリードたちを受け入れるためのミルドレッドと読めるサイン入りの書類と、彼らの名が記載された名簿だった。

 

「今夜はもう会うことはないだろう。おやすみ」

 

 カミュはそう言うと、秀の額に軽くキスをした。秀はそれが嬉しくて、柔和な笑みを浮かべて言う。

 

「うん、おやすみ」

 

 秀が立ち去るカミュに手を振っていると、その手がレミエルに掴まれた。恐る恐るそちらに振り向くと、そこには満面の笑みとなったレミエルの顔があった。

 

「秀さん? あんなに優しいおやすみの声は聞いたことがないよ? それにさっきのキスはどういうこと?」

 

「秀君、やはり君は……」

 

「男の風上にも置けないな」

 

 ジークフリードとクラリッサからも、軽蔑の目が向けられた。しかし秀としては何も悪い事はしていないので、毅然として言い放った。

 

「あいつは俺の養母だ。そしてあのキスは家族愛によるものだ。それにあいつは達也と結婚している。断じてやましい事はない。ていうかレミエル、お前はこの辺の事情知ってるだろうが」

 

 秀の指摘に、レミエルは下手な口笛を吹き始めた。忘れていたのか知っていた上でやったのか。多分後者だろうと秀は踏んだ。

 

「ごちそうさま。じゃあ俺はアイリスに届けていくから」

 

 秀はご飯の残りを口の中に押し込んで水を飲むと、立ち上がって真っ直ぐに総統室へ向かった。しかし総統室は施錠されていた。校舎内の他のアイリスが居そうなところも探したが、彼女は見当たらなかった。

 

「となると寮か。めんどくさいところに」

 

「どうめんどくさいのですか?」

 

 テリオスが秀に尋ねる。これまで探していた時は黙っていたのに何故このようなことに反応するのかと秀はため息をついたが、戯れに答えることにした。

 

「あいつの部屋は、寮の最上階の四階の、ひとつしかない階段から登ったところから一番奥にあるんだ。まだ行ったことはないが、聞くだけでめんどくさく思えてくる」

 

「私の空間転移機能を使えばいいだけでは?」

 

 テリオスの指摘に、秀は固まった。思い返せば校舎内を歩き回って探した時も、そうすれば良かったのだ。何故思いつかなかったのかと情けなく思えてくる。秀は半ば怒り口調でテリオスに告げた。

 

「そうならそうと早く言え! 早く飛ぶぞ!」

 

「やれやれ、仕方ありませんね」

 

 テリオスが煽るように言いながら、空間転移機能を発動した。秀がテリオスに苛立つ間も無く、寮のアイリスの部屋の前に着いた。とりあえずドアノブを回すと、鍵がかかっていないことが分かったので、何も言うことなく開け放った。

 

「おお」

 

 目に飛び込んできた部屋の様子に、秀は思わず感嘆した。電気がついておらず暗がりの中なので詳しくは分からないが、壁がとにかく本がぎっしり詰まった本棚で埋め尽くされており、またそこに入りきらなかったらしい本が床に積まれている。そのような中で、人一人がやっと通ることのできる程の獣道のようなものがあった。

 秀は電気をつけ、本に触れないように注意してその獣道を歩き出した。そうしながら本の背表紙をざっと見る。背表紙からジャンルが分かるものだけでも、歴史、哲学、科学、地政学、軍事学、法学、人文学、経済学……。枚挙に暇がないくらい、古今東西あらゆる言語の、あらゆる学問の本が、本棚に収まっているものはジャンルごとに整理されて、そこにあった。青蘭学園の図書館で見たことのない本も多かったので、それがアイリス個人で所有しているものだということも分かった。

 秀は圧倒されていた。元は秀たちの寮の部屋と同じはずなのに、別世界のように思えてならなかった。図書館の看板を下げてもいいくらいだった。

 

「あれ、秀?」

 

 茫然自失としていた秀の目の前に、下着の上にワイシャツを一枚着ただけのアイリスが姿を現した。その格好よりも、全く彼女の気配を感じなかったことに秀は驚いていた。しかし自分の使命は忘れていなかった。すぐさま脇に抱えていた書類をアイリスに差し出した。

 

「これ、カミュが渡しといてくれって」

 

「ん」

 

 アイリスはぱらぱらと書類をめくり始めた。その間に改めて本の要塞を見回し、素直な感想を呟いた。

 

「しかし、すごいなこれは。個人でこんなに本を持ってるやつを俺は知らないぞ」

 

 すると、アイリスはめくる手を止めずに、さも興味なさげに話した。

 

「ああそれ? 正直もう邪魔だし、好きな本以外はいらないかな。欲しいなら何か持って行っていいよ」

 

「おいおい。いいのかそんなこと言って」

 

「だってもう全部覚えてて暗唱できるし。中身の考察も私が納得いくまでやったしね。覚えるだけじゃなくて、戯れに論文とかも書いてみたりしてるしね。数学とかだと幾つか独自の理論も見つけたし、フィールズ賞を取る自信もあるよ。まあそんなわけで、ゴミにするのが大変だから放置してるだけだよ」

 

 淡々と言ったアイリスの言葉に、秀は言葉を失った。大雑把に見ただけでも五千冊は軽く超えている。これを暗唱したり応用もできるというのだから、彼女が天才中の天才であることは間違いない。秀はアイリスを見直していたが、当の彼女は不服そうな顔をしていた。

 

「でもさ、どれだけ知識を身につけたって、意味無かったんだ。アルバディーナが入ってからさ、あの子の手腕で世界中に支部を置けるくらいの大組織に成長したんだ。それでトップの私もそれくらいやりたくなってさ、すごく小さな器を広げようとして、必死に勉強したんだ。気付いたらどの分野でも一端の学者レベルにまでなってた。でも、でも……」

 

 アイリスは、とうとう堰を切ったように泣き出した。しかし一定の理性は保てていたようで、物に当たることは無く、その場に崩れ落ちて泣いていた。

 

「私がどんなに知識を身につけても、私の愚かしさを実感するだけだった。感情的にかっとなったら後の祭り。冷静になるのが怖かった。なまじ知識が有ったから、私がやったことがどれだけ欠陥があったか良く分かったよ。アルバディーナに責められるのも当然だった。でも変に意固地な私だったから、あの子の前で過ちを認められなかった。自分でも屁理屈とわかる言い訳しか出来なかった」

 

「アイリス」

 

「秀も離反されて当然と思ってるでしょ。いきなり方針変えても大丈夫だろうみたいな、変な思い込みがあった。冷静に考えればあの子たちがキレるのは当然なのにね。それでいてこんな短気で自分をコントロールできないのがリーダーだからさ。無理もないね」

 

 アイリスは秀が声をかけるも、顔を俯けながら自嘲し続けていた。秀は初めて、アイリスの内面を知った。秀は身分としてはT.w.dの一般兵に過ぎない。本来ならトップの心情など知る由もない身分だ。アイリスもそれは重々承知しているはずたが、それでも彼女は吐露した。その意味を、秀は考えねばならないと思った。

 

「アイリス。何をしたら落ち着く?」

 

 秀は、とりあえずとしゃがんでアイリスと同じ目線の高さにして尋ねた。アイリスは、秀から目を逸らしたが、すぐに戻して答えた。

 

「お風呂に入ったら、多分落ち着くと思う。一人で不安になった時は、いつもそうしてた」

 

「分かった。じゃあそうしてこい」

 

 秀はアイリスの背中を軽く叩いた。アイリスは元気なく頷いて、ゆらりと立ち上がった。そして数歩歩いたところで、急に立ち止まった。

 

「一人は、やだな」

 

「分かった。じゃあレミエルか、カミュでも呼ぶよ」

 

 そう言って秀が携帯電話を取り出した時、アイリスはこのようなことを言い出した。

 

「秀じゃなきゃダメ。今の私を、秀以外の誰かに見せたくない」

 

「……分かった。一緒に入ろうか」

 

 背に腹はかえられぬ。そう考えて、秀はアイリスの言葉に従うことにした。立ち上がる前に、秀はテリオスのデバイスを取り出して、小声で告げた。

 

「いいか。嫌な予感がするから、これからの俺の言動を可能な限り全て、公正中立に記録しろ。絶対に私見を混ぜるな。いいな。分かったら返事をしろ!」

 

「了解しました」

 

 テリオスが肯定したので、秀は少しだけ安心して、脱衣所に向かった。そこで、秀はアイリスに先に入ることを勧められたので、アイリスの言葉の通り先んじて服を脱ぎ、タオルをしっかり腰に巻いて風呂場に入った。

 秀が体を洗っていると、背後で風呂場のドアが開かれる音がした。恐らくはアイリスが入ってきたのだろう。

 

「背中流すね」

 

 すでにこの時点で、秀は嫌な予感が的中したと思った。変な汗が滲み出てきた。そして秀がなんとなく予想していた通り、背中を流すとは言葉ばかりに、アイリスが秀の背中に体を押し付けてきた。しかもタオルを体に巻いている様子はない。肌や、小さな双丘の感触がダイレクトに伝わる。

 

「お前、何のつもりだ」

 

「まずは体の前面を洗おうと思って。ほらほら、タオル巻くなんて邪道だよ」

 

 先ほどの暗く沈んだアイリスは何処へやら、すっかりいつもの調子で秀のタオルに手をかけてきた。その手を、秀はがっしりと掴んだ。

 

「随分元気になったじゃないか、ええ?」

 

「風呂入ったら元気になるって言ったじゃん」

 

「だからといってそこまでなるか普通。あと俺のタオルを取ったら俺は出て行くからな」

 

 秀がそう言うと、アイリスは非常に残念そうに手を離した。しかし依然として体を密着させたまま、秀の体の前面に、素手で石鹸を伸ばしてきた。

 

「スポンジとかは使わないのか」

 

 秀はやめろ、という意を含ませて言った。しかし、アイリスは全く気にも留めずに石鹸を伸ばし続ける。

 

「スポンジは肌に悪いんだよ。ちゃんと素手で洗ってあげたほうがいいの」

 

 アイリスはそのまま、秀の体の下の方に石鹸を伸ばしていき、やがてタオルの下から手を突っ込んできた。秀はすかさずその手を掴む。

 

「いい加減にしろよ」

 

「私はこれまで沢山見てきてるから大丈夫だよ。ビッチって意味じゃないけど」

 

「そういう問題じゃない!」

 

 秀が怒鳴ると、アイリスはしょんぼりとして手を離した。このような調子で、体を洗うアイリスから仕掛けられる誘惑に全て耐え切ると、いよいよ浴槽に入ることになった。その際、秀は浴槽のへりに体を向けて、壁に体を寄せた。

 

「こっち向いてくれないの?」

 

「当たり前だ!」

 

 甘い声色のアイリスに対して、秀は言い放つ。すると、アイリスは背中から抱きついてきた。紅潮したアイリスの横顔が真横に現れる。秀は思わず目を逸らした。

 

「せめて顔は見させてよ。せっかく一緒に入るのにさ」

 

 アイリスのその声は、風呂に入る前の調子に戻っていた。それで、秀は観念してアイリスに向いた。アイリスの顔はやはり赤かったが、その表情は沈んでいた。

 

「私が食人鬼だってことは、秀って知ってたっけ」

 

 おもむろに、そのようなことを訊いてきた。秀が頷くと、アイリスは秀から少しだけ視線を逸らした。しかし、秀を抱く力は強くなっていた。その状態で、アイリスは語り出す。

 

「私の食人は、カニバリズムとかから来たものじゃないんだ。種族的な問題。なんか元はエトランジュで、黒の世界で魔法の人体実験の末に、食人鬼になってしまった奴隷たちが緑の世界に迷い込んだ子孫だとか。これはお母さんから聞いた話だけど、まあとにかくそんな事情なんだ」

 

 アイリスの言葉に、感情はこもっていなかった。学校の授業のように、ただ淡々と語る。その声が風呂場という密閉空間の中で反響するため、妙に秀の耳に残った。

 

「元がそんなだから、中途半端なんだよね。別に人間を食べないからといって餓死するわけじゃないし、普通の人と同じ食事が出来るんだけど、でもそれだと効率が悪いのと、何でか——私はそういう呪いだと思うんだけど、長期間人を食べずにいると、段々元気が無くなっていくんだ」

 

 アイリスは一旦そこで打ち切ると、俯きがちだった顔を微妙に上げた。

 

「私が緑の世界で住んでたところは、森の中だった。緑の世界の中じゃかなり珍しい大森林だった。何でそこに住んでたかっていうと、私や、私の家族が人間に迷惑をかけたくなかったからさ。森の中には人は住んでなかったからね。それでも迷い込んだりすることはあって、そういう人たちは近くの人間の集落まで送ってあげた。私たちが人を襲ったのは、説得を繰り返しても、私たちに対して危害を加えてきた人だけ。でも、そういう所だけが噂されて、統合軍の討伐隊が組まれて、家族は私を残して全滅したの」

 

 アイリスの声は、いつの間にか泣きそうなものに変わっていた。しかし、秀には何か言うことができなかった。ただただ、話し終えるまで黙って聞くのみだった。

 

「ほんと意味分かんないよ。私たちは殆ど人間に害を与えなかったし、殆ど近親相姦で繋いできた種族だったから、放っときゃそのうち死滅してたのにさ。秀に私の考えを話した時、自然に謙虚になんて言ったのはそう言う理由。ま、日本人のあなたにはそんな事言う必要無いと思うけどね」

 

 アイリスは薄ら笑いを浮かべていた。しかしその声は涙声であった。

 

「生き残った私は、かつて私たちが助けた人たちの縁を辿って、レジスタンスを組織した。世界を壊すという意味を込めて、T.w.dってね。まあ他の世界に進出してからいつつのって意味を加えたけど。まあそんなことはどうでもよくて、そのレジスタンス時代からのメンバーの生き残りが、今の特殊隊。マユカがこっちに来たのは第一次ブルーフォール作戦が失敗してからだから、あの子だけは例外だけど。特殊隊じゃないのはアルバディーナが参入してから入った人たちだね。アルバディーナが、緑の世界の外から入った初めての子だったし」

 

「そうなのか」

 

「うん。どこから噂を聞きつけたかは知らないけどね、緑の世界が青の世界と接続した直後くらいに接触してきたの。T.w.dが馬鹿でかくなったのはそれからさ。私が直接勧誘した子もいたけど、それから入ったのは殆どがアルバディーナの手腕によるもの。組織改革もあの子主導で行われた。今まで適当だったのを色々規則化してね。私も部隊を指揮して統合軍を手玉に取った経験はあるからそういうのが必要だってのは分かってたけど、みんな言わなくてもやれてたからね。信頼しあってたもの。でも組織が大規模になると、私と接点の無い新規参入組には必要になってきた。それで辣腕を振るうあの子を見て、勉強しようって思ったわけ」

 

「それでさっきの話に繋がるわけか」

 

 アイリスは弱々しく頷いた。そして、秀を抱く力が少し弱まった。

 

「みんなの前じゃリーダーとして振る舞わなきゃいけないから余裕ぶってたけど、本当の私はこんなだよ。家族がみんな死んじゃったのがトラウマになって、仲間を失うことを極度に恐れるようになって、今この瞬間も、残ってくれたみんながいなくなっちゃうんじゃないかって被害妄想じみた思考もしちゃうんだ。これまではアルバディーナが相談役になってくれてたんだけど、もうあの子がいないから」

 

 アイリスの手が秀から離れた。風呂水が大きな音を立てる。どうやら、アイリスが立ち上がったようだ。

 

「じゃ、私は先に出るね」

 

 アイリスが浴槽から出て、湯の見かけの体積が減少する。秀はアイリスの裸体を見ないように、アイリスに背を向けた。暫しの間互いに無言だったが、やがてアイリスが話し出した。

 

「ねえ、秀。秀やみんなは、私のことをどう思ってるのかな」

 

「全権を委ねるに足る器じゃない。これは俺たちの総意だ」

 

「そう、そうなの」

 

 アイリスの声に抑揚はなかった。しかし、彼女が悲しみの淵に立っているのは、容易に想像がついた。しかし、それは予め言っておかねばならないことであったし、アイリスの反応も、秀は予測済みだった。

 

「だけど、掛け替えのない存在で、誰がなんと言おうと俺たちのリーダーだ。皆そう思っている。だから俺たちは命を懸けて、アルバディーナたちからお前を守ったんだ。お前に何も言わなかったのは悪いと思っている。けどそれは、お前のことを考慮した上でのことだ。それは分かってくれ」

 

 秀が言い終えた後、アイリスはすぐには返事を返さなかったが、やがて弾んだ声で返答した。

 

「そう、そうなの」

 

 言葉の字面は同じだが、アイリスの言葉に込められた感情は、先ほどとは明らかに異なっていた。

 

「お前が全員の理想を飲み込むとしても、全権を担う必要はない。せっかくカミュを始めとした優秀な人材がお前の元にいるんだ。嫌になるくらいこき使ってくれ。皆、喜んで協力してくれるはずだから」

 

 秀がそう告げると、風呂場のドアの方から物音がした。アイリスがそれに手を掛けたようである。

 

「ありがとう、秀。私、もっとみんなを頼ってみる。そしてやり遂げるよ。世界を作り変える秘術はこの手にあるし、もう止まれないからね」

 

「いいのか? 俺にしか意見を聞いてないだろう」

 

「いいの。反対されたらその時に考える」

 

 それからドアが開けられて、アイリスが出る。彼女の声は、いつもの調子に戻っていた。しかし、疑問は残った。誰が何に反対するのだろうか。そのことを考えながら、アイリスが服を着終わったかを確認してから、腰のタオルを外して絞って、風呂場から出た。

 秀が服を着終えて、そこにあったドライヤーで髪を乾かしてから脱衣所を出ると、そこにネグリジェ姿のアイリスがいた。髪の毛はもう乾かしたようだ。輝かしい銀の髪の下のアイリスの表情は、晴れやかなものだった。

 

「じゃ、私これからちょっとやることあるから。また明日ね」

 

「ああ。またな」

 

 秀はアイリスに手を振られ、その部屋を後にした。そして、早歩きで彼とレミエルの部屋に戻った。部屋に近づくにつれ、戦闘の時以上に秀の緊張感が増していった。

 

「あ、秀さん。遅かったね」

 

 部屋に戻った秀にかけられた、レミエルの第一声は特に変なところは無かった。秀は安堵のあまりすっかり脱力して、レミエルにもたれかかった。

 

「ああ、疲れちゃったんだね。……あれ?」

 

 レミエルが不審がって、秀の体の匂いを嗅ぎ始めた。やがてそれを止めると、急に笑顔になって訊いてきた。

 

「私たちが使ってない石鹸の匂いがするんだけど、なんで?」

 

 レミエルは笑ってはいたが目は据わっていた。秀はこんなこともあろうかとと、レミエルの怒気に気づいてすぐさまテリオスを取り出した。

 

「俺は決して浮気していたわけじゃない。経緯はこいつが説明してくれる。頼むぞ、テリオス」

 

 しかし、テリオスはいくら待っても話し出さなかった。更に怒気が増していくレミエルを見て、秀は焦ってテリオスに怒鳴りつけた。

 

「約束が違うぞ!」

 

「はて、私は事の顛末の記録をしろとは言われましたが、弁明の手伝いをしろとは一言も言われておりません」

 

「お前! 謀ったなあ!」

 

 テリオスは沈黙してしまった。そして、レミエルはどこから取り出したのか、ひとつの縄を持って秀に近づき、素早い手つきで秀を亀甲縛りにしてしまった。

 

「訳はベッドの上で聞きます。覚悟してくださいね」

 

「あれ、レミエル。どうしたんだ急に丁寧語なんか使いだして」

 

 レミエルは秀の言葉を意にも介さず、秀を物のように抱えて、ベッドの上に放り投げた。そして、その秀の腰の上に馬乗りになって、秀の頬を手で挟み、彼の耳元で囁いた。

 

「さあ、どうしてあげましょうか。ふふふ」

 

 その言葉は、秀の心に死の恐怖とは別種の恐怖を刻み付けた。その後しばらくして、夜の寮に秀の悲鳴がこだました。

 

        ***

 

 アイリスが、万年筆を選び終えて、机に向かい、ランプを灯して紙を広げたところで、秀のものと思しき悲鳴が微かに聞こえた。

 

「レミエルに怒られたのかな。緊張感無いなあ。まあ、極端に緊張されるよりはマシか」

 

 アイリスはクスリと笑い、ペンを紙に走らせ始めた。その走りは、アイリスが全て書き終えるまで止まることはなかった。


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