Ange Vierge Désespoir infini 作:黒井押切町
秀たちがT.w.dに入ってから数日後、十数名ほどの第一特殊隊の面々とシルトは、マユカの部屋に集まって、青蘭島の地図を睨んでいた。しかしこの時、秀とレミエル、シャティーは何も聞かされていなかった。
マユカが屹立し、秀たちを見下ろす。もう怪我はだいぶ治ってきたらしく、包帯は殆どが外れていた。
「上山さん、レミエルさん、シャティーさん。集まってもらったのは他でもありません。副総帥アルバディーナさんの反乱計画と、その対策についてです」
隊長であるマユカから告げられたその事実に、秀は面食らった。それはレミエルとシャティーも同様で、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。
「待てよ。何でそんなことが分かってるなら行動に出ないんだ」
「出られるならとっくに出てるさ。でも出来ないんだよ」
噛み付いた秀に、特殊隊の一人、三十代ほどと思われる男性が、吐き捨てるように言った。
「ひとつには相手の規模が大きいということがあります。副総帥の計画に加担していないのは、緑の世界のレジスタンス時代からの古参と副総帥の参入後にあの人自身が勧誘した人で構成される我々第一特殊隊と、元人間解放軍の方々のみです」
「青蘭島外のT.w.dの数も考えると、現T.w.dの九割近くを相手にしなきゃいけないってことか」
確かに、それだけの敵が居れば、行動を起こしたとて、殆ど無意味と化すに違いなかった。
「はい。更に、青蘭島は未だに世界最先端の情報技術を以って情報統制がなされていますから、青の世界において青蘭島を出ることを許されていない私たちに、このことを外部に伝える手段はありません」
秀は息が詰まる思いをした。マユカの言葉が真実なら、アルバディーナの蜂起によって、何も知らない世界各国の者たちは、T.w.dに対してかなりの悪印象を抱いてしまう。つまり、外部からの支援は一切期待できない。
「それと、もうひとつはアイリスさんが理由です」
「アイリスが?」
秀が聞き返すと、マユカは渋い表情で頷いた。
「あの人は、理性よりも感情を優先して行動することが殆どです。そして、極度の寂しがり屋でもあります。あの人には、初対面の人を信じることまでに相当の時間がかかり、その間その人にかなり疑り深くなりますが、一度信じれば、疑うことをしません。ただ愚直にその人を信じるのみとなります」
「私たちが先んじて動いても、副総帥さんたちが攻撃された理由を考えるより先に、私たちがあの人の信じている仲間を攻撃したことを糾弾される、ということ?」
レミエルがそう言うと、フィアは眉間にしわを寄せて告げた。
「糾弾ならまだいい。最悪、私たちはアイリスに捕食される」
その言葉に、秀、レミエル、シャティーの三人は言葉を失った。そこに、マユカが更に重苦しく言う。
「あなた達には悪いですが、あの人があなた方を勧誘したのも、私たちには感情からとしか思えません。あの時のあの人は、相当焦っていましたから」
「世界のリセットのことか」
秀が辛うじて呟くと、マユカは首を横に振った。
「それもありますが、それ以上に、青蘭学園から獲得した人員を、あの人は信用に足らないという理由のみで、副総帥に相談なしに捨て駒にしました。せっかく得られたアルドラも、あそこで一旦全て失ったのです」
秀は息を飲んだ。全く正気の沙汰とは思えなかった。続けてマユカが告げる。
「その件で、副総帥に近い人だけでなく、カミュさんたちや、私たちの中の気の強い方々も抗議しましたから、少しでも味方を増やそうとしたのでしょう」
「私から質問してもよろしいでしょうか」
秀の制服のポケットの中から、テリオスが喋り出した。それで、秀はテリオスのデバイスを外に出し、テーブルの上に置いた。その時、シルトの眉がピクリとした気がした。
「これまでの話を総合すると、アイリス殿を指導者として仰ぐあなた方の考えが理解出来ません。アイリス殿に指導者としての資格は皆無に思えます。なぜあなた方はアイリス殿を指導者としているのですか?」
「客観的に見れば、確かにそう思うでしょう」
マユカはため息をつく。そして、視線の定まらぬ様で告げた。
「ですが、私たちはあの人に惹かれたか、あの人に救われたんです。目覚めて日が浅いあなたには私たちの想いを理解出来ないかもしれませんが、誰が何と言おうと、私たちのリーダーはアイリスさんです。アイリスさんでなければいけないんです。これだけは、譲れません」
マユカは静かに答える。しかし、言葉の一言一言から、悲壮な覚悟がひしひしと伝わる。確認するまでもなく、それはマユカたちの総意だった。テリオスは暫しの沈黙ののち、秀に話しかけた。
「秀殿も、そうなのですか?」
「ああ。俺はあいつに理想を託したんだ。それを無かったことにされたくないし、事実、俺もアイリスに惹かれた節がある」
「私も結果的に、だけど、アイリスに救われたんだ。赤の世界の呪いや、大切な人との蟠りから、アイリスは私を助けてくれた」
「私も、アイリスに救われた。ただ何となく戦うだけだった私に、アイリスは大義を見せてくれた。初めて、戦う理由を得られた」
秀に続き、レミエルとシャティーが、彼女らの意志を再確認するように口にする。
「やれやれ、人間とは不思議なものですね。感情で動くことを批判しながら、感情で動くとは。しかしまあ、そうでなくては人間ではないと言えるでしょうがね」
テリオスに顔があったら、呆れた顔で言いそうな口調だった。
マユカがもう質問が無いことを確認し、咳払いをして仕切り直す。
「では、本題に入りましょう。まず、日付の目星はついています。来週の今日です。今日か明日にアイリスから改めて知らされると思いますが、この日に赤の世界が我々に襲撃をかけてくることが分かっています。何故攻めてくるのかはこの場では割愛します。副総帥は、うまく立ち回れば、我々を挟み撃ちに出来ると考えているのでしょう」
マユカが一息つくと、レミエルが控えめに手を挙げた。
「レミエルさん、何でしょう」
「赤の世界の軍だけど、私一人で八割くらいは引きつけられると思う」
特殊隊の面々は驚いたように目を見開いていたが、秀とシャティー、シルト、そしてエクスシアは納得したように頷いた。
「根拠は?」
フィアが代表して尋ねると、レミエルは一本の剣をどこからともなく取り出した。
「これ、ユラっていう女神の持ってた剣なの。派兵してくるなら、十中八九敵の指揮官はグラディーサだから、これを見せつけながら数人やっつければ頭に血が上って私に総攻撃をかけてくるんじゃないかな。ユラは、グラディーサの愛弟子だったから」
「うまくいくのか、それは? あまりに稚拙ではないか」
特殊隊の一人が、怪訝な表情で疑問を呈す。その疑問には、レミエルではなくエクスシアが答えた。
「大丈夫ですよ。あの人たちは、アイリスさん以上に感情的ですから。ついでにレミエルがアウロラ殺しの犯人だと吹聴して回れば完璧でしょう」
「アウロラ殺し……? アウロラが殺されたの? もしかしなくても、この時期に赤の世界が派兵する理由はそれね」
シャティーがはっとして呟く。
「全くその通りです。赤の世界は、アウロラ殺しは我々の犯行だと断定しました。しかし、私たちにはそんなことをする理由がありません。黒、白の世界の干渉は考えにくいですから、可能性があるのは統合軍でしょう。真犯人などは私たちには関係ないことですがね」
マユカは口早にそう答えると、地図の、
「レミエルさんの提案を採用するなら、副総帥が行動を起こしたら、レミエルさんはこの辺りに向かってください。上山さんとは離さざるを得ませんが、よろしいですか?」
「構いませんよ。私情を持ち込んでる場合じゃないですし」
レミエルは快諾した。マユカはほっとしたように息をつくと、今度は青蘭学園の見取り図を取り出した。
「さて、島民の方々はこの日は赤の世界が攻めてくるので、私たちがここを攻めた時と同じように、地下シェルターに逃げ込みます。ですから副総帥は地下に毒ガスを注入するか、もしくは集めて無差別殺人などをすると思われます。避難誘導や奇襲に対して、ここではかなり臨機応変に動かねばなりませんから、亜空間跳躍を持つ人間解放軍の方々と、テリオスを持つ上山さんに一任します。幸い、地下シェルターはかなり面積も広く天井も高いので、毒ガスが行き渡るのには時間がかかりますし、ジャッジメンティス等の巨大兵器も十分暴れられます」
「確かに、私にも亜空間跳躍機能があります。そちらに専念するのがもっともでしょう」
テリオスのその口調は、秀にはどこか楽しんでいるように聞こえた。
「テリオス、お前楽しみなのか?」
「全くもって不謹慎ですが、どうやらそのようです。沢山のデータが得られるからに違いないでしょう」
「まあ、嫌がるよりは遥かにいいだろうさ」
秀はそう言うと、マユカを見つめた。彼女は頷くと、見取り図に青の印と、赤の印を置いていった。常識的に考えて、青が味方で、赤が敵だろう。両色の印は、ある程度規則的に点々と置かれている。マニュアルにあった、防衛配置と全く同じだ。
「恐らく、学園の敷地内に残っている副総帥派は、副総帥の合図で少数精鋭でアイリスさんを、残りで地下シェルターを目指すと思われます。そしてこの日は赤の世界が来ることが分かっていますから、私たちは前日から防衛配置に付いています。副総帥とそのシンパが動き出したら、私たちは一直線に司令室を目指します」
「でも、それだと多分間に合わないから、アイリスを連れ出すのは、カミュの乗るジャッジメンティス。私たちの役目は、学園の確保。それが出来たら最低限の守備隊を残して、カミュの指揮下に入って解放軍の援護に向かう」
マユカの言葉を、フィアが継いだ。そのままフィアが続ける。
「アイリスにやってもらうのは避難誘導の指揮。何も知らないあの子にとっては辛い仕事だけど、やってもらうしかない」
「本当にやらせられるのか?」
秀が尋ねると、フィアはそう訊くと想定していたように即答した。
「そのためのカミュ。何としてもあの子には島民の方々の心の支えになってもらわないといけない」
「何でそうまでして」
「彼らの心を掴んだのは、私たちの行いじゃない。全てはアイリスの献身ゆえのこと。そして、副総帥の行動はそれを全て無に帰す可能性がある。信用を失えば、私たちは味方を、居場所を失ってしまう。それを避けるために、アイリスには率先して責任を負ってもらう」
フィアは淡々と答えるが、秀はその言葉の節々から壮絶な覚悟を感じた。フィアの横顔が泣き顔にも見えた。これは秀の想像に過ぎないが、フィアたちもアイリスそのような過酷な目に合わせたくないのだろう。出来ることなら、アイリスを休ませて、フィアたちだけで解決したい。しかし、それでは意味が無い。うまく事を運ぶためには、アイリスには酷な役目を背負うしかないのだ。
「あとは現場での判断になります。では、この場はここで解散ということで」
アイリスのその言葉で、各々マユカの部屋を去っていく。最後にレミエルとシャティーが立ち上がったところで、秀も行こうとすると、シルトに呼び止められた。
「待ってよ秀。用があるのは秀じゃなくてテリオスだけど」
「何でしょうか、シルト殿」
テリオスが声を出すと、シルトはマユカとフィアを一瞥した。マユカとフィアが頷くと、シルトはおもむろに口を開いた。
「場所、移そうか」
***
秀とシルトは、青蘭学園の地下最深部にある、青の世界水晶が安置されている大部屋に来た。本来なら立ち入り禁止の場所なのだが、アイリスから特別に許可を得たのだった。
その大部屋は、青の世界水晶を中心として半径約20メートルの円状の床に、縦に10メートルはある水晶をすっかり覆えるほどのドーム状の天井を被せたようなものだった。その部屋の電気の照明はついていなかったが、青の世界水晶の光が、淡いマリンブルーで部屋全体を優しく包んでいた。秀は、まるで海の中にいるような感覚を覚えていた。
青の世界水晶を背に、シルトが口を開く。
「さて、テリオス。単刀直入に言うけど、この世界水晶の光で、何か思い出さない?」
「申し訳ございませんが、デバイスで感じる光では、何もピンと来ません。しかし、秀殿を通じて知覚すれば、何かあるかもしれません」
「分かった。テリオス!」
秀はデバイスを掲げた。すると、デバイスが白い光を発し、目の前にテリオスが出現した。そしてそれは瞬く間に、脚、胴、腕、頭と秀に装着される。この時、テリオスは、感覚的に秀の体の一部のようになり、秀に触覚的な違和感はない。体を見つめれば機械の体が目に入るが、それに関しては、テリオスを用いた戦闘訓練で秀はとっくに慣れていた。
「テリオス、何か感じるか?」
しかし、テリオスは何も反応しなかった。すっかり沈黙してしまっている。普段の、泰然とした態度とは程遠いテリオスの様子に、秀は激しい焦燥感を覚えた。シルトも、どうすればいいのか分からぬかのように、オドオドしている。
「おい、テリオス!」
秀は声を荒げるが、またも反応は無い。秀がますます不安にかられて、もう一度呼ぼうとしたところで、テリオスはゆっくりと声を出した。
「少し、取り乱してしまいました」
「何を思い出した」
「破壊衝動、です。しかし、世界水晶そのものに対するものではありません。その対象は世界水晶に関連したものです」
そこまで言うと、また沈黙してしまった。が、すぐにまたテリオスは声を発した。
「ああ、あれは、銃声? ドクター、何を?」
テリオスは、虚ろになったように呟き始めた。誰が聞いても、明らかに異常だと分かる。このまま放置すれば、テリオスの謎が分かりそうだったが、そのようなことを考えていられる場合ではなかった。
「装備解除!」
秀が叫ぶと、一瞬にして秀の体からテリオスが離れ、亜空間に収納される。そして、秀の右手にはデバイスが握られていた。
「秀殿、ありがとうございます。もうすぐで、壊れてしまうところでした」
「無理するな。一旦出よう」
シルトも異論は無いようで、二人はすぐに世界水晶の部屋を出た。地上に上がるエレベーターの中で、秀はシルトに尋ねた。
「お前、テリオスの何を知りたかったんだ? 何のために世界水晶を見せたりしたんだ?」
「世界水晶の意志を感じたの。テリオスから。でも、テリオス自身は私みたいな、世界水晶の意志そのものってわけじゃないみたいだから、知りたくなったの。彼の正体を。でも……」
シルトは視線を落とした。泣きそうな顔で、申し訳なさそうに呟いた。
「ごめんね、テリオス。私、そんな目に遭わせるつもりじゃなかったんだ。本当に、ごめん」
シルトは、その場にへたり込んでしまった。急に雰囲気が気まずくなったので、秀はシルトに手を差し出した。
「立てよ。そんな風にされたら気まずいだろ」
シルトは、秀が差し伸べたその手をぼんやりと見つめていたが、やがて表情を和らげて言った。
「ありがと。でも大丈夫だよ。一人で立てるから」
シルトは、しゃがんだような姿勢になると、ひとつ気合を入れて立ち上がろうとした。手枷をはめられているためか、非常に立ちづらそうだった。
シルトがやっとふらつきながら立ち上がったちょうどその時、エレベーターが停止した。少しの揺れだったのだが、立ちくらみもあったのか、ふらふらしていたシルトは秀に倒れ込んできた。
「おいおい、大丈夫か」
秀はシルトを胸で受け止めて、シルトが少し心配になったので訊いた。シルトは少し顔を赤くしている。
「だ、大丈夫だよ」
シルトは慌てたように、秀を押して離れようとした。しかし、やはり手枷が仇となり、バランスを崩してしまった。秀は、反射的にその手を掴むと、自分の方に引き寄せた。
「まったく、言わんこっちゃない」
困惑するシルトをよそに、秀はそのままシルトの手を引いてエレベーターから出た。すると、すぐそこに引きつった笑みのレミエルがいた。その笑みからはとてつもない凄みが発せられていた。レミエルが堕天した時並みに恐ろしかった。その本質は全く異なるが。
「秀さん? 何してるの?」
「誤解するなよ。決して浮気じゃない」
「それ、本当?」
「もちろんだ。後にも先にも、俺が愛するのはレミエル、お前だけだ」
秀は、レミエルの圧力に内心では怯えていたが、一貫して毅然とした態度を取った。少しでも動揺しているところを見せてしまっては、レミエルに何を言われるか分かったものではなかった。
「なあんだ、なら良かった! てっきり私の目を盗んで浮気してるんじゃないかと思ったよ」
レミエルは急に明るくなった。まるでさっきまでのことは無かったかのようだ。秀が傍のシルトを一瞥してみると、ものの見事にドン引きしていた。
「じゃあ、私用事あるから。またね、秀さん、シルトさん」
唖然とする秀とシルトをよそに、レミエルは笑顔のまま去っていった。
レミエルの姿が見えなくなると、シルトは苦笑いを浮かべて、秀に尋ねた。
「レミエルって、あんな子だったっけ?」
「昔は、その気はあってもああじゃなかったんだがな。予言を果たした後はたまに情緒不安定だったり嫉妬深くなったりするようになった。何故かは知らん。あいつも自覚してないみたいだし」
「へえ、レミエルがあんな感じになるなんて、少し意外だったな」
シルトは引き気味に呟いた。ちょうどその時、秀の目にシルトの手枷が目に入った。それで、急にあることが気になり始めたので、思い切って秀はシルトに訊いてみた。
「なあ、お前、なんで俺たちに協力するんだ? ついこないだまで敵だっただろう。それに、その手枷だって、無理矢理壊そうとすればできるだろ?」
すると、シルトは眉間にしわを寄せて沈黙した。その間、秀は何も言わなかった。やがて、首を弱々しく横に振った。
「分からない。アルバディーナのやろうとしてることは悪だよ。あれはあの子のワガママで未来を閉ざそうとしてるだけだ。でも、アイリスもワガママには違いないんだけど、あの子のやりたいことには未来がある。最初はあの子に都合のいい世界にするためかと思ってたけど、それも違うみたいだし」
シルトはそこまで言うと、脱力した感じで壁にもたれかかった。その端整な顔が少しずつ歪んでいく。
「でも、心から味方する気にならないの。だって、どっちにしたって、私は、死んじゃうもの!」
シルトは膝から崩れ落ち、涙とともに言い切った。はらはらと頬を伝う涙をそのままに、シルトは堰を切ったように話し出した。
「アルバディーナが本気で世界を滅ぼす気なら、私を生かしておくはずがない。アイリスが世界を変えるとしても、あの秘術では世界水晶を素材として新たな水晶を作るだけだもの! でも、赤の世界は全く当てにできないし、黒の世界は何考えてるか分からないし、緑の世界は他の世界のことなんか何一つ考えてない! だからといって私一人ではあまりに弱すぎる! ねえ秀、私どうしたらいいの!? 教えて、教えてよ!」
シルトは床に膝をついた姿勢から、秀にすがりついた。しかし手枷のせいか、秀の右の足首を両手で握り締めるだけで、それ以上のことをしてこなかった。
「リーヴェリンゲン……」
秀はしゃがんで、シルトに視線を合わせた。彼女の目を見る。充血し、涙に潤んでいた。その涙を指で払ってやると、秀は躊躇いがちに告げた。
「悪いが、俺はお前が何者で、何を目的としているのかを全く知らない。だから、教えてくれないか。知らなきゃ、慰めるものも慰められない」
「……うん、分かった」
シルトは涙を袖で拭くと、壁に寄りかかるかたちで座り込んだ。秀は、まだ話す気力があるようで、ホッとした。
「私は、緑の世界水晶の意思そのもの。目的は、緑の世界水晶の延命手段の模索」
「模索、ということは方法が確立されていないのか」
「違うよ。方法はある」
秀が呟くと、シルトは、思い詰めたような顔つきで否定した。
「今分かっている方法はふたつ。ひとつは私がマユカと同化する。もうひとつは、他の世界水晶を糧にする」
「後者は何となく分かった。同化するっていうのは、どういうことだ?」
「言葉の通りだよ。今のレミエルみたいな感じ。あの子はガブリエラと、赤の世界水晶の一部と同化したの。ガブリエラは意識が保てるギリギリの力しか無かったし、赤の世界水晶も丸ごと同化したわけじゃないから、まだあの子らしさが比較的強く残ってる。それでも別人みたいになっちゃったでしょ?」
秀は息を呑んだ。シルトの言わんとすることを、はっきりと理解したのだ。
「その顔、察したようだね。そうだよ。世界水晶の活力が枯渇しかけているグリューネシルトを救うための同化は、レミエルの同化なんて目じゃない。完全なる同化が必要なの。そうなった時、私という存在も、マユカも、どうなるか予測がつかない。同化できたとしても、生きていられるかも分からない。そんな不確かな方法に、グリューネシルトのみんなを巻き込むわけにはいかない」
秀は、沈黙せざるを得なかった。かける言葉は浮かぶものの、どれも陳腐でしかなかった。シルトも口を開かなかったが、沈黙に耐えかねたように、呟きを漏らした。
「もう、嫌」
シルトは、膝を体に寄せて、そこに顔を埋めた。秀には、その声色、姿、仕草が、自分の存在に絶望していたレミエルと重なって見えた。心の中が疼く感じを覚える。
「こんな想いを抱くなら、ミロクの作戦を受け容れるべきだった。体なんか作って頑張るんじゃなかった。私は、どうしたら」
「じゃあ何で緑の世界に帰らないんだ? 嫌ならやめればいいだろう。誰も咎めやしないさ」
秀は、心に痛みを感じつつも、それを押し殺して突き放すように言った。あの時、秀が寄り添ったせいでレミエルを駄目にしてしまった。同じ轍を踏む気は無かった。
「途中で己に課した使命を投げ出した、軟弱者と思われたくないだけじゃないのか?」
秀のその言葉で、シルトの目に怒りが宿ったと思うと、そのまま突進するように摑みかかられ、押し倒された。
「あなたに何が分かるの! あなたはいいよね。一緒に目的を共有できる仲間が沢山いて! でも私にはそんなのは今は一人もいない! ただ一人、協力してくれてたクレナイ——アウロラはもう死んでしまった! 孤独な戦いを強いられた私の身にもなってよ!」
「違うだろう。お前は投げ出す道も選べたはずだ。だから、お前は強いられたんじゃない。選んだんだ」
「だから何だというの!」
「投げ出す気がないなら、お前の志を貫き通すしかないだろう。わざわざ言わせるな」
秀は気圧されることなく、シルトの瞳を真っ直ぐに見つめた。いずれ敵同士になる者を立ち直らせるような真似をしていいのかとも思っていたが、秀はシルトを見捨てられるほど、非情にはなれなかった。
「無理だよ、そんなの。味方は誰一人いないのに」
「じゃあ、投げ出すか?」
秀が素っ気なく尋ねると、シルトは暫く黙りこくった。やがて、弱々しく首を振った。
「やっぱり、続けたいよ。でも、たった一人で戦い続けるのは、嫌だ」
シルトは涙声で、秀の胸に顔を埋めて言った。そして、そこから自嘲を始めた。
「軽蔑するよね、こんなの。使命は果たしたいけど、一人でやるのは嫌だなんて、うざったいでしょ? 私の双肩にかかってるのはグリューネシルトの運命なのにさ」
「他人のために命をかけるなんて、自己犠牲ができる奴なんてそうそういない。だからそれが出来る奴がエリートと呼ばれるんだ。お前みたいなのは、別に普通だ。軽蔑するようなことじゃない」
秀は声色を和らげて告げた。すると、シルトは秀の胸に顔を埋めたまま、か弱く、消えそうな声で言った。
「落として上げるんだね、秀は。何で敵になるかもしれない私にそんなこと言うのさ」
「お前こそ、何で敵になるかもしれない俺に自分の正体だの目的だの悩みだのをペラペラ喋ったんだ」
秀が訊き返してやると、シルトは顔を起こした。まだ涙は残っているものの、その口角は少しだけ上がっていた。
「質問を質問で返さないでよ」
「悪かったな」
「その言い方はそう思ってないね。まあいいけどさ」
シルトは涙を拭うと、秀から離れて立ち上がった。それを受けて、秀も立つ。
「ありがとね、秀。溜まってたものぶちまけたらスッキリしたよ。やっぱり一人で溜め込むのはよくないね」
「それが目的だったのか」
シルトは、「まあね」と舌を出した。秀の目には、それが無理しているようには映らなかった。それ故に、彼女がどれだけ溜め込んでいたかは、よく分かった。
「話聞いてくれてありがと。じゃ、私、先に部屋に戻ってるね。ばいばい」
シルトは口早に言って、早足で秀から離れていった。手枷のせいか、微妙にバランスが悪そうではあったが。その姿が見えなくなると、秀はテリオスを呼び出した。
「テリオス、落ち着いたか?」
「ええ、何とか。醜態を晒してしまいました」
「お前さえ無事なら十分だよ。さて、俺たちも行こうか。寮じゃないけどな」
秀は寮への道とは真反対の方向に歩き出した。外に出て、暫く歩いた先に着いたのは、ある大きな、沢山の名前が刻まれた石碑だった。
「秀殿、ここは?」
「T.w.dの戦死者の碑だよ。アイリスが立てたらしい。レジスタンスの頃から、こないだの戦闘までの全ての戦死者を弔うためのものだそうだ」
「これまでの戦死者の中に、秀殿に関係ある者がいるのでしょうか」
秀はテリオスに頷きながら、石碑に刻まれた、ジュリアの名をそっと撫でた。
「ジュリア。青蘭学園における、最初に接触したT.w.dだ。あとで分かったことだが、学園を攻め落とすための情報、特に世界水晶の在りかを探っていたらしい」
「その、最初に接触したというのが、秀殿なのですね」
「ああ。一度は殺されかけた。だけど、そうしてくれたから、カミュたちと会えたし、俺は人を殺す覚悟も、殺される覚悟もできた。もしジュリアに出会わなかったら、あいつらが攻めてきたときに死んでただろうさ」
秀はジュリアとの死闘を思い出した。秀は、我ながらよく生き残れたものだと思った。最後にジュリアが語った言葉を参照すれば、もし生き残っていたら、アイリス側についていたかもしれない、などとも考えながら、秀は石碑に向き直った。
「俺は、ジュリアに感謝しなきゃいけない。あいつからしたら皮肉にも思われるだろうが、それでもだ。ジュリアが俺に戦う覚悟をくれた。あいつの言葉がなきゃ、アイリスの言葉にも納得しなかった。今の俺があるのは、殆どジュリアのおかげだ。だから——」
秀が次の言葉を言おうとした瞬間だった。秀の背中に、強烈な悪寒が走った。秀は反射的に飛び退くと、首を何度も振って、周囲を確認した。
「テリオス! 周囲に何かあるか!?」
「今はありません。ですが、つい先ほど、ほんの一瞬ですが、かなり高いエネルギー体が付近にいました。すぐに消えてしまって、追跡は不可能ですが」
「分かった。とにかくここから離れて、寮に戻ろう」
秀は逃げるように、その場を去った。寮に着くまでの間、冷や汗が止まることはなかった。
***
「危ないところだったわ」
ジュリアは、秀の姿が見えなくなってから、隠蔽魔法を解除した。彼女が一人で徘徊していたところ、たまたま一人でぶつぶつ言っている秀を見かけたので、興味を持って近づいてみたのだが、テリオスに検知されたのを感じて、慌てて魔法で姿を隠していたのだった。
「あのテリオスとかいうの、まさか霊体も検知できるとはね。合理性を求める白の世界の兵器とはとても思えないわ」
ジュリアは興奮気味に呟きながら、石碑の上に座った。霊体とはいっても、触感はある。霊体とは便利な状態だ。重力に縛られることはなく、エネルギーはほぼ無尽蔵。人に姿を見せるか見せないかも自分の意思のまま。常人には存在すら分からず、それを知るためには、特殊な魔法ないしセンサーを用いるほかない。
霊体となってからしか分からないことも多かったため、研究者気質もあるジュリアは、その点ではアルバディーナに感謝していた。しかし、それだけでアルバディーナが成仏していた彼女を無理矢理現世に呼び戻したことに関しては、帳消しにするつもりは無かった。
「しかしまあ、あの子、嬉しいこと言ってくれるじゃない。普通は私を恨むでしょうしねえ」
ジュリアは顔に手を当ててはにかんだ笑顔を浮かべた。気付いたら足もじたばた振っていた。それもそのはずで、私怨の無い相手からの感謝など滅多になかったのだ。
「こんなことなら、友達の義理なんか感じずに、アルバディーナなんか見限った方が良かったかしら。生前の私の気分としてはアイリスに協力したいし。でも協力すると約束してしまった手前、勝手に縁を切るわけにもいかないわね」
ジュリアはどうしようかと辺りをぐるぐる回りながら逡巡した。十周くらいしたところで、ジュリアはあることを思い付いた。
「これならアルバディーナに協力するという体裁を守りつつ、アイリスに協力もできるわ」
ジュリアはふふふと笑いながら、アルバディーナの元へ戻っていった。彼女が去った後は、石碑の辺りはすっかり閑としていた。
***
アルバディーナ派と人間解放軍、第一特殊隊との緊張から、アイリスが外されたまま、とうとう一週間が経った。
今この瞬間、地下に造られた司令室の中央にある、総司令の椅子に座るアイリスも、彼らが少しギクシャクしているとは感じていた。気になりつつも、特に何も言わなかった。仲間を疑いたくなかったのだ。より正確に述べるなら、疑うことで仲間を失うことを恐れていた。しかし、彼女自身は、赤の世界と戦うのに、連携を乱しては困るから、と思い込んでいた。
アイリスは大きなため息をつくと、その瞬間、背後に人の気配を感じた。慌てて振り向くと、そこには思いつめた表情のアルバディーナがいた。
「アルバディーナ? どうしたのさ、そんな顔して。それに、あなたの持ち場はここじゃないでしょ?」
アイリスは不安に思いながらも、アルバディーナに尋ねた。そして、アルバディーナが答えるためか口を動かしかけたその時のことだった。突如として、轟音と共に、激しい振動が、司令室全体を襲った。液晶や蛍光灯が割れたような音と、その破片と思しきものが飛散する。
「アイリス殿! 早くこちらに!」
その時アイリスに聞こえたのは、カミュの声だった。振り向くと、カミュがジャッジメンティスの操縦席から身を乗り出していた。しかし、彼女の言葉とは裏腹に、その目はアイリスを見ていなかった。アイリスを通り越して、アルバディーナを睨みつけていた。
「まさか、ここにジャッジメンティスを持ち込むとはね。完全に予想外だったわ」
アルバディーナもまた、アイリスの向こうのカミュを睨みつける。しかしその殺意はアイリスにも向けられているようにも感じられた。自分を無視した殺気と、自分にも向けられた殺気に挟まれたアイリスは、ただ呆然と立ち尽くすのみだった。