魔術による催眠をかけ、巨大ムカデと極小ネズミをクベーラに引き渡した。
それと同時に魔導書を受け取り、お互いにほくほく顔で取引成立と相成ったわけである。
私の顔のどこがほくほくしているのかという疑問も湧いてくるだろうけど、魔導書を前にそのような疑問は些細すぎた。
別れ際、クベーラは“またいつか来る”というような事を、神綺に対してかなり前向きな表現で伝え、魔界を去っていった。
ただ、その時に“もう少し簡単に魔界へたどり着く手段はないものか”という事を言っていたのが、少し気になる。
考えてみれば、魔力を圧縮して圧縮して、という魔界への扉をつなぐ工程が、他の人には高度だったのかもしれない。思えば私も、自由自在に魔界へ来れるようになったのは、かなり後の話である。
ううむ、魔界への行き来をしやすくする……そういったことも、考えなくてはならないだろうか。
……外界や天界との交流については、神綺やサリエルともよく話し合っておかなくてはなるまい。
あまりにオープンにしすぎても、外の世界から暴れん坊な人がやってきて、魔界をめちゃくちゃにしてしまう、といった事もあり得なくはない。
また逆に、こちらから外界への進出を簡単にしても、恐竜やドラゴンが外に出て行ったり、魔界人が知性を蓄えて文明を発展させ、外界探索ツアーと称して、地球に迷惑をかけたり……なんて、そんな事はさすがにあり得ないか。
ともかく、忙しくなりそうだ。
「……むふふ、この魔導書もあるしなぁ」
オーレウスの書き記した魔導書。
これを読み解いて、著者と会う。それもまた、やらねばならない必須事項だ。
クベーラと別れて数日間。
私は根城の自室に引きこもり、ずっとオーレウスの魔導書を読み続けていた。
大判で分厚いオーレウスの魔導書は、そのわりに文字が小さく、文量が多い。
拙い用法の文脈を解読、脳内で補完する作業もあり、その上内容まで濃密なものだから、私の時間はガリガリと削られてゆく。
内容は、主に最初期の魔法についての指導。
魔導書の後半へいけば上級者向けの魔術が記されているかといえばそういうこともなく、一貫して様々な初等魔術について述べられている。
しかしその密度は高く、初心者向けとはいえ、所々にある魔術の発想や着想などは、斬新なものが多い。
私もこの本を最初に読んでいれば、もっともっと早く、様々な魔術を習得できたかもしれない。ちょっと悔やまれるが、仕方ない。
驚きなのはこの魔導書に一切の魔法がかけられていないということである。
執筆内容は非常に高度でハイレベルなのだが、保護魔法すら掛けられていないこの魔導書は茶色く変色しており、そこかしこに年季の跡が残っている。
もう何百年もすれば、この魔導書も風化してしまうだろうか。ちょっと残念である。
しかし逆に言えば、まだこの魔導書は制作されてから何百年と経っていないということだ。
著者が生物らしい寿命に囚われない神族であれば、まだまだ生きている可能性は高い。
魔法使いオーレウス。
まだ見ぬその著者に、会えるかも。
「それじゃあ、行ってくるから」
「ああ、魔界の番は任せるといい」
創造された魔界人を甲斐甲斐しく世話する神綺とサリエルに別れを告げ、私は魔界から外界へと移動した。
目的は当然、オーレウスに会うことである。
ただ、前にクベーラの言っていた地上の国というのも気になるので、そっちの方もできれば寄ってみたい。
……が、至上の目的の前に、寄り道は禁物。
結局魔導書にはオーレウス個人に関する話はあまり記されていなかったのだが、彼を探る上でのヒントはあった。
魔導書の材料として使われている紙の繊維質に覚えがある。その原料たる木材の生息地を当たれば良いのだ。
いくつかの地域へ移動し、オーレウスの足跡を辿ってみよう。
うまくいけば、この消去法だけでオーレウスに出会えるはずだ。
ひとまず、私は外界へ出た。
豊かな緑、青い空。そして、段々と馴染み深い形状へと変化しつつある、野生の生物たち。
しばらく目を離しているうちに、世界の様子はまた一段と変わってしまった。
古代生物や植物を見かけなくなるのは少々寂しいものだが、私が人間だった頃の世界へと戻るのであれば、それはそれでいい気もする。
ただ、ここからはあまり目を離していると、人類が生まれて文明を作り、そして加速度的に成長する瞬間を見逃してしまうかもしれない。
百年に一度くらいの小刻みで、外界の様子をしっかり観察しておく必要があるだろうか。
「まぁ、とりあえずオーレウスだな」
考え事もいいけれど、今はオーレウスだ。
私は鬱蒼とした緑だけが生い茂るこの場所から、ひとまず歩き始めることにした。