翼が風を掴まなくなったために、私の飛行能力は激減した。
月魔術によって“浮遊”することは可能であるが、それだけでは少々不安定なのである。
浮かぶにしても力を浪費するし、集中力を削る。そして困ったことに、強い“穢れ”が存在するせいで、空は危険だ。
私の長い旅路は、そのほとんどが陸上であった。
「はあっ!」
杖の先に月の力を込め、振るう。
『ギャンッ!?』
反発力と保護力を増した殴打は駆け寄る狗型の穢れの胴に直撃し、見た目以上の衝撃によってその身体を吹き飛ばした。
黒い狗が樹木に叩きつけられて、一瞬動きが止まったのを見逃さない。
力を込めたままの杖から魔力を手繰り寄せ、杖を握らない左手へと移動させる。
「“月の槍”!」
『ギャッ……!』
魔力消費は最小限に。かつ、相手を確実に仕留める程度で。
左手から鋭い輝きが放射され、それは地面に堕ちようとしていた狗の頭部を撃ち、樹木まで貫通する。
狗は静かに土の上を転がって、それきり動かなくなった。
「……」
敵を倒したら、次は状況確認だ。一体倒しても、まだ他に潜んでいるかもしれない。
森の中に、影の中に。はたまた、土の中に。
奴らはどこにでも潜み、こちらの隙を伺っている。
そう思わなければ、地上で生き延びることは不可能だ。
「……ふう」
慢心ではない。魔力を張り巡らせて探知した結果、周囲に敵が潜んでいないことを確認した。
この様子なら、しばらくは休憩できるだろう。
だが、そろそろ夕暮れになり、夜が来る。
今は太陽も登っているが、暗闇が訪れれば、地上の穢れ達は活発化するだろう。とても危険で、朝まで一睡もできなくなる。
その頃までぼんやりしてはいられない。休憩は、短めで切り上げておかなければ。
ただでさえこの辺りには、“空の悪魔”が出るという噂が広まっていて、危険なのだから。
……噂といっても、出所は穢れ達なのだがね。
「やれやれだ……」
大岩の陰に背を預け、座り込む。
少し歩いては闘い、少し歩いては闘った。
日の出に休みを入れて、歩き始めてから……さっきの奴で、八体目だろうか。今日はまだ少ない方だろう。
多い日には徒党を組んだ穢れが襲いかかってくる事もあるのだ。それと比べれば、なんということもない、平穏な一日である。
歩いた距離もそこそこだ。このまま、奴ら穢れが言うところの“空の悪魔”が支配する領域から脱出できれば良いのだが……。
……魔界に堕ちる寸前の巨大で強大な穢れほど、恐ろしいものはない。
奴らと闘えば、魔術を扱えるとはいえ、私でも身の危険があるほどだ。
噂の“空の悪魔”とやらが巨大な穢れであるかは定かではないが、安全は第一だ。
万が一にも遭遇しないよう、現在はコソコソと隠れながら、ゆっくり森を離れている次第である。
「……天界にいた頃のように全力で闘えれば、ここまでの危険もなかったのだが……」
実は今現在の私は、ただ翼の能力を失っただけではない。
私は数百年前に堕天し、この地上へ降り立ってから、翼の他にももう一つのものを失ってしまったのである。
「……この身体ではな」
私は自分の肩に触れ、そっと身を撫でた。
丸みを帯びた、小柄な身体。長く伸びてしまった髪に、細い手足。
私は堕天と同時に、男という性別までも失い、女にされてしまったのだ。
「ううむ……やはり、ヤゴコロに気を許しすぎたことへの罰なのだろうか……」
男の身体とは違い、女の身体は非常に不便だ。
歩幅にしろ腕のリーチにしろ、男の頃と比べると格段に能力まで劣る上、胸には邪魔なものまで付いている。
最近はある程度慣れてきたとはいえ、長年身につけてきた魔術の使用感が異なるというのは、正直、翼が使えないこと以上に辛かった。
男から女への変容。これもまた、メタトロンの意志なのだろう……しかし、その意図については未だ、確信が持てない……。
私がヤゴコロに対して気を緩めた事への戒めなのか、以降女に好意を抱くことを禁ずるための処置なのか、単純に能力を引き下げるための処罰なのか……。
別段、この身体に嫌悪感を覚えるわけでもないのだが、そういった部分が気になって仕方ないのである。
「……ヤゴコロ、今頃どうしているだろうか」
とはいえ、心配なものは心配だ。
私は堕天した。それはもっともなことであるので、別に良い。だが、累はどこまで及んだのだろうか。
“新月の書”を読んでしまったヤゴコロは、神の裁きを受けてしまったのだろうか。
いつか私が死ぬ時までに、どうかそのことだけは知りたいものだ。
つまり、それを知るまでは、絶対に死ねない。
あまりあり得ることではないが、もしもヤゴコロまで堕天の裁きを受けていたとするならば……地上へ堕ちた彼女は、私が守ってやらなければならないだろう。
それが事を引き起こした私の責任で、命を賭してでも遂行すべき義務である。
夜が来た。
穢れが支配する夜が来た。
この時ばかりは、一時ですら気を抜いてはいられない。確かに私は百戦錬磨ではあるが、不意を突かれても平気なように出来ているわけではないのだ。
夜が明けて朝が来るまでは静かに移動するか、できることなら身を隠せて迎撃も容易な場所に隠れた方がいい。
月下において私が引けを取ることなどはあり得ないのだが、同じく力を強めた穢れを複数体相手取るにはリスクが高い。
「早く平坦な場所ヘ移らなければ……」
しばらくの目標は、森を脱して平原へと移ること。
そうすれば、開けた視界が不意打ちをされるリスクを減らしてくれる。怖いのは敵に見つかることそのものではない。見えない場所から一方的に攻撃されることが怖いのだ。
「!」
草むらの中で、物音が聞こえた。