来た時以上の全速力によって、地球を目指す。
月へ侵入者がいるかどうかは定かでなかったので、緊張感もある程度といったところであった。
しかし、この問題は違う。明らかに“マズい”ということがわかりきっている。
それだけに、私は翼の動きの中に無駄な焦りを隠しきれなかった。
「なんてミスを……!」
まさか、“新月の書”を地上に、それも高天原に忘れてしまうなんて……!
あの魔導書は、ただの書物ではない。
“新月の書”は神から授かった力であり、守るべき神秘そのものだ。
あの本は、開き読むだけで、多大なる力を自らの手に収めることができる。
しかし未熟な存在が読もうとすれば、流れこむ力によって思考を焼かれ、自ら魔導書を手放せない場合には、そのまま本によって殺されることもある。
得られる力が大きい分、代償は大きい。
あれは、ただ知識を独占したいがために我々が管理している物ではない。
正しい管理をしなければならないほどに、危険な代物でもあるのだ。
「ヤゴコロ……!」
私が最後に立っていたあの場で、最も近くにいた彼女。
ヤゴコロは賢いが、知的欲求には抗えない奴だ。私が地球を脱した後、興味によって本を開いていたとしてもおかしくはない。
次第に地球が大きくなり、重力が強まり始めた。
そろそろ大気にぶつかる頃だろう。神気を身を纏い、発熱から身体を保護しなければならない。
そして天界への入り口を作るためにも、神気は必要だ。そのまま何もせずに突入するだけでは、たどり着くのは穢れた大地である。
……ヤゴコロ、どうか無事でいてくれ。
私は内なる神聖な力を解放し、眩い輝きと共に地球へ突入した。
天界は広い。宙に浮かぶ大地は無数に分かれ、それぞれが白い空の中にぽつんと浮かんでいる。それはまるで、広大な宇宙のよう。
慣れぬ者は時としてこの天界の中で道なき道に迷い、自らの住処に戻れぬまま力尽き、落ちることもあるのだとか。
天界で落ちた者は、地上へ落ちる。力の弱き者が一度天界から溢れ落ちてしまえば、再度天界へと戻る事は困難だろう。
だがその点、私は天界に慣れている。
六枚の翼は何ヶ月でも何年でも飛行を続けていられるし、天界の島々の位置なども隅々まで記憶している。
高天原は天界の辺境だが、通い慣れた私にとっては一瞬も判断に迷う場所ではない。
六枚の翼に光を纏わせれば、ほぼ一瞬のうちに目標地点へ到達した。
いくつかの木造の神殿以外には何もない、自然をそのまま残した辺境の島、高天原。
「……あれはっ」
見晴らしの良いそこで幽玄の眼を発動させれば、異常はすぐに見つかった。
「ヤゴコロ!」
丁度、私が飛び去った時と同じ場所で、ヤゴコロが立ち竦んでいる。
手には悪い予想通り、“新月の書”。彼女はそれを両手で持ちながら、額に浮かべた汗を顎から滴らせながらも、歯を食いしばって凝視し続けていた。
「大丈夫か!?」
危険だ。私は直感する。
翼による最大速力を解放してヤゴコロに接近し、すれ違いざまに強引に魔導書を奪い取った。
すると魔導書による呪縛が解かれたためか、ヤゴコロの身体から力が抜けて、その場に倒れそうになる。
「おいっ」
私は本を手にしたまま、後ろへ倒れ込みそうになったヤゴコロの背を支える。
彼女の息は荒く、眼は虚ろだ。しかし意識はあるようで、彼女は私に何か伝えたいのであろう。目線だけはこちらに向けていた。
「すまなかった、ヤゴコロ。私の不注意のせいで……」
神より授かった危険な魔導書を、まさか他の派閥の領土に置き忘れてしまうとは……。
緊急時で気が動転していたとはいえ、なんとも酷い失態である。
「サリエル、様……ありがとうございます……助かりました……」
「礼など言わないでくれ。本を置き忘れた私が悪かったのだ」
「いえ……私が、本を見てしまったから……そのせいで……」
「良いのだ、そのようなこと。ヤゴコロは、知らないものを見るとじっとしてはいられないのだからな。最初からわかっていたことだ」
……あと一歩遅ければ、どうなっていたことか。
本は読者の意識と関係なく中身を展開し、効果を発揮し続ける。
魔導書を読んでいる間は、よほど強固な精神が無い限りには身動きひとつ取ることもできず、まぶたの動きでさえも制限されてしまうのだ。これより一時間も遅れていたなら、きっとヤゴコロの精神力でさえも保たなかったに違いない。
いや、それでもここまで長時間、ヤゴコロが本に向き合えたのは奇跡と言える。
“新月の書”の毒は強力すぎて、私でさえも最初はその反動によって何度も命を失いかけてきたのだ。
その時はメタトロンが近くにいたからこそ安全であったし、私も安心して魔導書に臨むことができた。
だが、ヤゴコロはこの魔導書と一人で……。
「……やはり、お前は凄いな、ヤゴコロ」
「なんですか……サリエル様、突然……」
「いや……」
ヤゴコロは頭がいい。賢く、聡い。
初めて魔導書と対峙して、長時間耐えたのだ。
異教の者とはいえ、彼女ならば、もしかしたら……。
「……ああ」
地面にちらつくいくつかの影に気付いて、私は空を見上げた。
「サリエル様……あれは……」
空では、背中に翼を備えた無数の天使たちが宙を舞い、私達に向かって近づいているようだった。
二十、三十……数えてみれば、キリがない。ここまで大勢の天使達をこのような辺境で見るなど、私でさえ初めて経験することだ。
「あれは……私を迎えにきてくれたのだろう」
動き出した天使の大隊。目的は、わかりきっていた。
彼らは、私を罰するために……罪を告げるために、迎えとしてやってきたのである。
「ヤゴコロ、本のことは済まなかった。できることならもっと語らっていたいのだが……」
「サリエル様、何……」
私はヤゴコロの身体を平たい岩の上に預け、翼を広げた。
彼女は何か訴えかけようとしているが、重なった疲労のためか、言葉は長く続かない。
「何だ、その……。……元気でな」
私の方も、歯切れは悪かった。
そして、それは私からヤゴコロへと贈る、最後の言葉なのだった。