東方遺骸王   作:ジェームズ・リッチマン

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私が自分を壊した日

 

 

 魂が引き裂かれる痛みに耐えられる者はいない。

 それは吸血鬼たる私ですら例外ではない。

 どれだけ強靭な理性で抑え込もうとも、その理性の根幹がまさに断裂しているのだから、個人の素質でどうこうできる類の痛みではないのだ。

 

 自分が複数に分かたれ、それぞれが引きちぎられる感覚。

 抑え込もうとする理性や客観的に俯瞰する観察眼が遠くに置き去りにされたまま、クリアな激痛だけが蓄積する。

 

 

 ――私は、この痛みを、覚えている

 

 

 後悔にも近い拷問じみた激痛の中で、私は場違いにも過去の出来事を夢見ていた。

 

 忘れかけた昔の話。思い出す必要もないと無関心だったはずの、あの日のこと。

 

 

 ――私は魔法使いになって、お父さまのお手伝いをするの

 

 ――お姉さまを守れるくらい、強くなってみせるんだから

 

 

 懐かしい屋敷。励んだ勉学。インクに汚れた小さな手。盗み見た研究書。

 色とりどりの魔石。初めてのエンチャント。

 

 かつて自分が差し出したものはなんだったか。

 忘れかけていたつもりだった。振り返ることもないものだと。そうやって忘れようとしていた。

 

 今はしっかりと思い出せる。どうしてこんなことを忘れかけていたのだろう。

 

 

 ――私の、恐怖と、痛みを感じる部分を材料にする

 

 ――そこを削って魔法を身に纏うのよ

 

 ――そうすれば私は強くなれるし、嫌なことを感じなくて済むのだわ

 

 

 そうだ。私は自分の心と引き換えに、魔法をエンチャントしたんだ。

 お父さまにねだって、魔石を貰って。

 吸血鬼としての自分を失うのが怖いから、自分の嫌いな感情を代償にして……。

 

 そうすれば怖がらなくて済む。痛いことを感じなくて済む。

 ……浅はかな想いで、魂を削ったんだ。

 

 失敗だった。霊魂へのエンチャントはそんな簡単に、上手くいくものじゃなかった。

 魂はそんな精密に加工することなんてできない。

 確かに私は幾つかの悪感情を失ったけれど、一緒に消えていった心もたくさんあったんだ。

 

 どうして忘れてた。なんで。

 

 こんな痛みを、後悔を……。

 

 

「フランドールッ!?」

 

 

 遠くでお姉さまの叫び声が聞こえる。

 大釜がゴポリと大きな泡を立てる。

 

 

 ――対象に纏わせた致命的な呪いの鍵を手の中に生成し、握り潰す

 

 ――呪いはあらゆる対象に適応し、最も効率の高い破壊方法を示す

 

 

 “握手”の膨大な情報量が心の叫びを遮り、私の意識を奥底へと閉じ込めてゆく。

 

 

 ――フラン、どうしてそんな危ないことをしたの!?

 

 ――本当に大丈夫なのね?

 

 ――フラン、貴女が変わってしまったとしても、私は貴女の味方だから

 

 ――お前の姉は、きっとフランドールが思っている以上に素晴らしい。いつかお前も、きっとそのことについて気付く時が来る。そう、私は予測を立てている

 

 

 痛い。怖い。恐ろしい。

 

 なぜ思い出す。今になってそんなことを。

 こんな思い出や感情は、無意味だったんじゃなかったの。

 

 ……魂が撹拌されたから?

 かつて魂に負った傷が強引に塞がれたせい?

 予測を立てる。冷静に思考する。ただ、感情だけが追いつかない。

 

 

 ――怖くないよ。いつの話? 私はそんなにガキじゃない

 

 ――お姉さまは馬鹿だなぁ

 

 ――フランドール。お前は姉を頼ることを覚えなさい

 

 ――何を言ってるの? 実験は成功したよ

 

 ――誰って……私はフランドールだってば

 

 

 ……誰だ?

 フランドール・スカーレット? この冷徹な私が?

 

 違う。違う違う。私はこんなのじゃなかった。

 

 私はお父さまをお姉さまと一緒にいて。時々お父さまの研究をお手伝いして。お姉さまに遊んでもらって。

 それが私だったのに。心の強さも魔法使いとしての力も必要なかったのに。

 

 どうしてこうなってしまった。

 どこで間違えた。

 何故私は、私の魂を砕いてしまったんだ。

 

 ここにいる私は、もうフランドールじゃない。

 

 私はもう、私じゃない。私だった頃の心がない。思い出もない。

 

 じゃあフランドールって誰。フランドール・スカーレットと名乗ってるコイツは。

 

 

 私は一体、何者なんだよ。

 

 

 ――間違いないことが、ひとつだけあるでしょ

 

 ――こんな愚かな生き物は、この世に存在するべきではない

 

 ――そうは思わない? “フランドール・スカーレット”

 

 

 

「フランッ!」

 

 灼けるような大釜から自らの身体を引き上げる。

 摩耗しきった精神。疲弊した肉体。遠くから聞こえる懐かしい声。

 

 いや。もはやそんなことはどうだって良い。

 

 もう私に確かなことなんてほとんど何も残ってない。

 だけど最後に、間違いなくて、やるべきことが一つだけ残っている。

 それだけは絶対に正しいことだと、私の矛盾した魂が証明してくれた。

 

「フラン……? 一体……何を……」

 

 “こいつ”は。

 

 “フランドール・スカーレット”は、もはや過去の私ではない。

 ただの愚かなイレギュラーでしかない。

 

 そんな異物を、この世界に取り置いたままにしてはいけない。

 少なくとも、かつてフランが愛していたレミリアのいる世界にあってはならないものだ。

 

 見ただろう、フランドール・スカーレット。お前を見つめるあの哀れみに満ちた目を。

 私はもう、終わっているんだよ。

 

「おはよう、“お姉さま”」

「……貴女。大丈夫なの」

「大丈夫だよ。これから大丈夫になる」

 

 そう。皮肉なことに、私をどうにかする手っ取り早い方法は既にこの手の中にある。

 私のくだらない実験は無事に成功したのだ。

 

 “握手”は既に、私のボロボロの霊魂にこびりついている。

 

 それこそが、このフランドールのフリをした成り損ないを手早く片付けることができるんだ。

 

「それじゃあ、さよなら。お姉さま」

「――ッ!」

 

 赤い残光が、私の視界を掠めた。

 同時に私の右手首が吹き飛び、水音を立ててどこかで弾ける。

 

「駄目よ! やめなさい、フランドール! 一体どうしたというの!?」

「お姉さま、私は真理に気づいたよ。実験は成功した。でもフランドール・スカーレットはそんなものを求めていなかった。私はさっさと自分を壊すことにしたんだ」

「やめて!」

 

 左手で発動しようとした“握手”も、お姉さまによって切り飛ばされる。

 ……すごい動きだなぁ。愚直だけど、吸血鬼として真っ当に成長した、純粋な動きだ。

 

 私はもうそんな体術も扱えない。吸血鬼としての部分もいくらか捧げてしまったし、感情の多くは原型を留めていない。

 そんな私自身を……私は、いや。私だったフランドールが、許せない。

 

「貴女はフランドール。フランドール・スカーレット。私の妹……!」

「違うよ。別人だよ、お姉さま。私はもう……」

「貴女がどれだけ変わっても、私は貴女を忘れない! 私は貴女の味方であり続ける!」

 

 レミリアが私の身体を抱きしめる。冷たくて、夜のような香りがする。

 

「だから死なないで。生きることをやめないで……!」

「……お姉さま」

「もう、私を一人にしないでちょうだい……フランドール……!」

 

 私の肩でレミリアが泣いている。

 フランドール・スカーレットのお姉さま。……私の、お姉さまが。

 

 右手が再生する。少し遅れて、左手も。

 やろうと思えば、再び“握手”は発動できた。

 

 それを私の心臓に使えば、霊魂の致命的な核に使ってしまえば。

 この紛い物のフランドール・スカーレットは綺麗にこの世界から片付けることはできる。

 

 でも……そうすると、悲しむのね。レミリア・スカーレット。私のお姉さまは。

 

「お姉さま……どうして泣いてるの……」

「泣いてない! 泣いてないわ……!」

「……わかったから。生きるから、泣き止んでよ……」

 

 そう、私は生きていた方が良いのね。

 こんな気味の悪い魂を持った、出来損ないであっても。

 お姉さまはそう言ってくれるのね。

 

 

 ――人は……いや、人だけでなく。生きる者には、愛が必要なのだ

 

 

 ……愛。かつてベイジが語っていた気がする。

 お姉さまが私に向けるこれが、愛なのかしら。

 

「ねえ、お姉さま」

「……なによ、フラン」

 

 泣き止んで鼻をすするお姉さまに、私は尋ねてみた。

 

「お姉さまは、今の私を愛している?」

 

 お姉さまは一度だけ大きく鼻をすすって、その後少しだけ笑ってから、こう答えた。

 

「貴女も馬鹿なところがあるのね。……私は、生まれた時から今この時まで、ずっと。貴女を愛しているわよ。フランドール」

 

 ……そっか。そうなんだ。

 

「私も……」

「ん?」

「もしかしたら、ずっとお姉さまのこと、愛していたのかもしれないわ」

「……」

 

 お姉さまはその日、ずっと私の頭を抱きしめていてくれた。

 

 私の心は相変わらず空洞だらけで、何かで満たされることはなかったけれど。

 

 その夜の間は、穴の開いた心の中に何かが注がれ続けていたような、そんな気分ではあった。

 


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